おじさんバックパッカーの一人旅   

タイ民族揺籃の地 西双版納を目指す陸路の旅(1) 

シャン族のクニを訪ねて

2005年1月14日

 〜22日


 

  第1章  タイ族の国

 現在、東南アジア一帯に広く分布するタイ族の故郷は中国雲南省である。7世紀から13世紀にかけて、タイ族は幾つかの部族集団に分かれて、この揺籃の地から南に旅立った。漢民族の圧力に耐えきれず、南に新天地を求めたのである。主力はメコン川に沿って南下したが、中には遠くインド・アッサムの地にまで旅をした一派もいる。
 
 13世紀から14世紀にかけてアジアは動乱の時代に突入する。北方に興ったモンゴル帝国がユーラシア大陸を席巻し、遠くメコンデルタやジャワ島まで攻め込む事態となった。この動乱の中で、東南アジアではタイ族がにわかに活動が活発化させ、一気に世界史の表舞台に躍り出る。1238年にはバンコク平原にスコータイ王国が建国される。1262年には北タイにラーンナー王国が、1353年には現在のラオの地にラーンサーン王国が建国される。また、1364年には下ビルマにイワン王国が成立する。さらに、遠くはインド・アッサム平野においても、1228年にアホム王国が成立する。
 
 その後、幾多の変遷を経て、現在タイ族は二つの独立国家と二つの自治州を持つに到った。即ち、タイ王国とラオ人民共和国、及び、ミャンマーにおけるシャン州と中国雲南省における西双版納タイ族自治州である。
 

 
   第2章 西双版納(シーサンパンナ)への思い

 雲南省は中国最南端の省である。中国の中心部、すなわち北京や上海、あるいは日本から眺めると、何となく最果ての地のにおいがする。その雲南省のさらに最南端、ラオ、ミャンマーと国境を接する地域に西双版納タイ族自治州がある。言うなれば、まさに最果ての最果ての地である。

 しかし、ちょっと視点を変えて、タイのバンコクから眺めてみると、すぐ隣の国である。タイ北部のチェンマイから眺めれば、西双版納の州都・景洪ジンホン(Jing Hong)は、バンコクよりも距離的には近い。こんなことを考えていたら、無性に西双版納が恋しくなってきた。頭の中で、従来の「最果ての地・西双版納」の概念が音を立てて崩れていく。「なぁんだ、チャンマイのちょっと先なんだ。ならばちょっと行ってこようか」。行くなら当然陸路だ。幸い、ラオとの国境が外国人にも開放されている。

 西双版納タイ族自治州は名前の通り、タイ族の「クニ」である。シーサンパンナという地名そのものがタイ語の「シップソン(12)・パン(千)・ナ(田)」、即ち「12の千枚田」に由来する。この西双版納は、東南アジア一帯に広く分布するタイ族系の人々の故郷でもある。ならばこの旅は、「タイ族揺籃の地・西双版納を目指す陸路の旅」である。一体どんな旅になるのだろう。胸がわくわくしてくる。
 立てた計画は、バンコクからミャンマーのシャン州に入り、タイ北部、ラオ北部を経由して西双版納の景洪まで。すなわち、この旅はタイ族の四つの「クニ」を結ぶ旅でもある。1ヶ月の日程を用意した。
 
 

  第3章  旅立ち

 バンコクまでの一番安い航空券を探したら、やはりビーマン・バングラディッシュ航空であった。バックパッカー御愛用の航空会社である。1ヶ月フィックスの往復で35,000円、何とも安い。ただし、娘は「まともには飛ばないよ」と言っていたが。その言葉通り、1時間30分遅れでともかく成田を離陸した。機内にはネクタイを締めた人など誰もいない。それでも満席である。しかし、バンコクが近づいてもA/Dカードが配られない。催促したら、「無い」と言う。こんな航空会社初めてだがーーー。

 1月14日(金)夕方、無事バンコク・ドンムアン空港に着いた。半年ぶりのバンコクである。私はすぐに係員に言ってA/Dカードを入手したのだが、多くの人がオロオロ。記入していると、何人もが「どこで入手したらいいのか」と聞きに来る。A/Dカードは様式が変わっていた。おまけに、税関への申告書がが廃止されていた。

 手続き終了後、すぐに帰国便のRe-confirmすべく(この航空会社は今どきこんな面倒な手続きが必要だ)、空港の事務所に行ったのだが、鍵がかかって無人、翌日営業所に電話したのだが、土曜日のためオフィスはクローズ。いったいどうすりゃいいんだい。安チケットはそれだけ苦労も多い。

 空港ビルの外に出る。あのねっとりとした暑さを期待したのだが、思いのほか涼しい。その上、意外なことに、いつもは溢れかえっているタクシーが1台もいない。乗客の長蛇の列。並んだら1時間待ちだろう。こんな時は、リムジンバスが便利だ。わずか100バーツ(タクシーだと約300バーツ)で市内まで行ける。勝手は承知である。

 翌日は旅の準備である。空はどんよりと曇り、肌寒いほどの気温である。乾期のこの時期、こんな天気は珍しい。まずは旅行社に行ってヤンゴン(Yangon)までの航空券の手配である。ここで問題発生。実は、今回の計画では、ミャンマー・シャン州のタチレクから陸路でタイのメー・サイへ出国するつもりなので航空券は片道でよい。ところが旅行社では「片道航空券は発売できない」との答え。現在ミャンマー政府は外国人に対してはヤンゴン空港以外からの入出国を禁じている。タチレクとメー・サイの間の国境も開かれてはいるのだが、この国境の通過は限定的である。従って、ヤンゴンから入国してタチレクから出国することはそもそも公式には許されていないのである。

 しかし、中央の指示が末端のImmigrationで完璧に守られる国ではない。実情は、6〜7割の確率でタチレクからの出国が可能との情報を得ていた。もちろんその時の係員の気分と賄賂の額によるのだろうが。ただし、上記の公式規則があるため、航空会社としては片道航空券の販売はミャンマー政府から禁じられているとのことである。仕方がないので、Phuket Air(9R)の往復を7000バーツで買う。タイ国際航空より1500バーツ安いが、隣の国に行くにしては何とも高い。しかも、帰路のTicketは無駄にする覚悟である。外にて出ると、何と、しとしとと雨が降りだした。

 続いて写真屋に行く、この旅では陸路で国境を幾つか越えるので写真を用意しておく必要がある。日本で用意しようとしたら2枚で1800円といわれたので止めた。バンコクでは6枚でわずか150バーツ(約450円)であった。続いて床屋に行き(350バーツ)、夜は旧友としたたか飲んで、出発の前祝いである。
 

 第4章  ミャンマー入国

 1月16日(日)、いよいよ旅の始まりである。ヤンゴン行き9R316便は時間通り、9時15分に離陸するかに見えたが、離陸直前に出発延期のアナウス。バスに乗って待合室に戻された。ジュースなどが配られて、しばしの待機。出ばなをくじかれた感じである。1時間遅れでようやく出発した。 
 
 100人乗りほどの小型機だが、乗客は20人ほど。ガラガラである。昨夜飲みすぎ、少々二日酔い気味である。しかし、設立してまだ4年ほどのこの航空会社は実に初々しい。乗務員は笑顔を絶やさず、何とも気持ちがよい。乗ってよかったと思えるAir Lineである。今から10年以上前のタイ国際航空がこんな感じであった。今ではすっかり大会社になってしまったがーーー。飛行時間は1時間15分、ただし30分の時差があるので形式的にはわずか45分の飛行である。空気が澄んでいて下界がよく見える。やがて眼下に、どこが海で、どこが川とも区別つかない水郷地帯が現れた。モッタマ(Mottama)湾である。その後、乾いた田んぼの広がる陸地に入り、そして緑が増えだすとそこはもうヤンゴン上空であった。

 8ヶ月ぶりにミャンマーの大地を踏みしめた。2度と来るまいと思った国なのだが、こうして短期間で戻ってきてしまった。やはりどこか魅力を感じる国なのだろう。2度目ともなれば勝手は知っている。Immigration、Customsをあっという間に通過して、待合室に向う。と、私の名前を大書きした紙を持った若い女性が出迎えてくれた。地元旅行社のKさんである。

 実は、ヤンゴン空港で国内線に乗り換え、そのままマンダレー(Mandalay)に向う計画なのだか、ミャンマー国内線のAir Ticketは国外では購入できない(それだけこの国は信用されてない証拠なのだろう)。このため、出発前にE-Mailでヤンゴンの旅行社にTicketの手配を頼んでおいた。その受け渡しのために出迎えてくれたのである。当然、空港の航空会社窓口でもTicketの購入は出来るが、定価である。旅行社で買えばその60〜70%で買える。前金もなく、E-Mail 1本の依頼にも関わらず、一元の客を信用してTicketを用意してこうして出迎えてくれた。彼女にタチレク出国の可否を改めて確認してみる。「多分大丈夫だろうが、確約は出来ない」との答え、ひとまず安心する。

 Ticketを受け取り、ザックを背負い、空港ビルの外にでる。肌を焼く強い日差しと、むっとする暑さが出迎えてくれた。まさに南国の気候である。薄ら寒かったバンコクの気候は異常である。南国はこうでなければいけない。ヤンゴン空港は国際線到着ロビーと国内線出発ロビーが数百メートルも離れている。しかもその間を結ぶ通路もなく、いったん空港の敷地の外に出て、一般道路をテクテク歩いて行かなければならない。勝手知らない人は多いにまごつくだろう。

 用意したマンダレー行きのAir Ticketはヤンゴン発16時30分のAir Mandalay(6T)341便。実に6時間半待ちである。何が起こるか分からないこの国に配慮し、乗り換え時間を充分に取ったのだが、安全を見過ぎたかもしれない。もっとも前回はこの空港で10時間待ちをした。腹が減ったので、空港ビル唯一の食堂に行く。この国では、ザックは待合室に置きっぱなしにしても安心である。治安という点では世界有数の安全な国である。

 食堂入り口にはKyat(チャット ミャンマーの通貨)しか利用できないと書かれている。私はチャットを持っていない。この空港には銀行の両替窓口もない。もっとも、公式交換レートと闇交換レートで50倍も差があるのだから、両替窓口があっても両替するつもりはないがーーー。店員にUS$でもいいかと聞くと、OKとの返事。当然なんだろう。チャットよりドルの方がいいに決まっている。建前の向こうに、本音の世界が広がっている。でなければこの国では生きてはいけない。

 2時間前にCheck-in が始まり出発待合室に入ったのだがそれからが大変であった。搭乗口は一つしかなく、国内線が出発するたびに、係員が大声で出発便を告げるのだが、ミャンマー語など分かるわけがない。その度に、搭乗券を係員に示して私の乗る便か否かを確認しなければならない。待合室には外国人の姿はない。ところが定刻の16時30分を過ぎても一向に私の乗る飛行機の搭乗案内はない。30分過ぎてもない。どういうことなんだ。心配になって係員に尋ねるが要領を得ない。ようするに乗るべき飛行機が到着しないということらしい。しかもどのくらい遅れるかの情報も一切ないらしい。いらいらしてはいけない。ここはミャンマーなのだから。

 1時間遅れでようやく6T341便はヤンゴン空港を飛び立った。数十人乗りのプロペラ機で、70%程の乗車率である。乗客に外国人旅行者の姿はない。このAir Lineの乗務員も感じがよい。いらいらした気持ちも和んでくる。夕日がゆっくりと雲の地平線へと沈んでいった。
 

 第5章  マンダレー

 19時、6T341便は1時間遅れで、夜のとばりの降りたマンダレー空港に到着した。空港には約束通りO嬢が出迎えてくれた。前回の旅で知りあった日本語ガイドをアルバイトにしている女性である。8ヶ月ぶりの再会である。飛行機の延着情報もなく、いつ着くとも知れぬ私をひたすら待ち続けていたらしい。

 マンダレー空港は真新しい立派な空港であった。ヤンゴン国際空港より立派である。この空港は3年前に開港した。しかし、市街地から50キロも離れており、しかも、市街地とを結ぶ公的交通機関もない。空港ビルの外は閑散として薄暗く、出迎えのホテルや旅行社の車が数台待機しているだけであった。タクシーの姿も見当たらない。こんなところにザックを担いで一人降りたったら途方に暮れるであろう。そして何よりも寒い。ヤンゴンの酷暑に対応してTシャツ一枚でやって来たのだが。慌ててザックより、長袖のポロシャツとセーターを出して重ね着をする。

 O嬢の用意した車に乗り込む。街灯もない真っ暗な道を10キロほど進むと、マンダレーとヤンゴンを結ぶ主要国道に出た。大型のボロトラックがひっきりなしに行き来している。約1時間のドライブでマンダレーの市街地に入った。電灯のともったにぎやかな街並みが続いている。今晩は電気が来ているようである。市の中心部を抜け、宮殿跡の東1キロほどの住宅地の中の安宿に入る。O嬢の用意してくれた宿である。どの案内書にも載っていない宿だが、朝食付きで一泊15$、池に面した敷地にコテージ風の建物の並ぶ感じのよい宿である。従業員の態度が何とも心地よい。受け答えがすべて「Yes Sir」で始まる。英国植民地時代の残り香を嗅ぐ思いである。シャン州へ出発する日にはお弁当まで手渡してくれた。

 部屋に荷物を放り込み、そのままO嬢の自宅に向う。歩いて10分ほどの距離だ。夕食を御馳走になる約束である。前回も自宅に招待されたのだが、体調不良で訪問できなかった。夕食もさることながら、ミャンマーの一般庶民の生活を垣間見るのが楽しみである。車の往来する道から地道の暗い路地を数十メートル入った家並みの中に彼女の自宅はあった。古びた2階建ての家である。両親、二人の姉、妹と同居の姪の6人家族が暖かく迎えてくれた。O嬢の家族のことは、前回彼女から聞いているので承知している。特別に玄関のような仕切りはなく、1階は土間と板張りの広い空間となっている。土間の真ん中に大きなテーブルと椅子、その前にテレビ。ここが居間兼客間のようである。その周りの板床の空間はお姉さんの裁縫の仕事場、ミシンと作り掛けの衣服が積み重なっている。2階は寝室のようである。

 テーブルの上には何種類もの心尽くしの料理が並んでいた。さぁ食べろという。何が何だか分からないが、ともかく腹いっぱい食べた。いろいろ話をしたいのだが、両親と姉二人にはまったく言葉が通じない。大学生の妹と姪はいくらか英語を解するのだが、会話というほどの会話にはならない。何となくぎこちない。おみやげに日本から和菓子を持って行ったのだが、いたって不評である。「まずくて食べられない」と面と向かって言う。いかにもミャンマー人らしい。日本人のように相手に配慮するなどという文化は持ちあわせていない。家の前には水が満たされた大きな土瓶が2つ並んでいる。聞けば、前回掘削中と聞いた井戸から水が出たので、この瓶で近所の人に提供しているという。ここで洗濯や水浴びをするそうである。

 食事をしながらO嬢から驚くべき話しを聞いた。どうも会ったときから浮き浮きして何か話しをしたい様子であったが。日本に留学することが決まったという。沖縄大学の試験を受けて合格したので、3月から日本に行くという。ガイドをして知りあった沖縄のお爺さんが面倒を見てくれたとのこと。喜ばしいことだが、一抹の不安も感じる。本人は日本へ行けば何とかなると楽観視しているが、資金のことも考えればそんな生やさしてものではないと思うがーーー。前回、「どうしても日本へ行きたい」と熱っぽく語っていたので、「無理はするな」とだいぶ熱を冷ましておいたつもりであったが。それにしても自分の夢を実現してしまうとはいかにもミャンマー人らしい行動力である。「これからヤンゴンまで行ってパスポートの取得やビザ申請をしなければならない」と本人は大張り切りである。

 固辞したのだが、夜道は危ないと父親が宿まで送り届けてくれた。見上げると真上にオリオン座が輝いている。結局翌日も彼女の家で夕食を御馳走になった。ミャンマーに関しては一つの伝説がある。出会った人に「この辺にどこか食堂がありませんか」と聞くと、たいては「それでは自分の家へいらっしゃい」との答えが返ってくる。「どこかHotelがありませんか」と聞くと「自分の家に泊まっていきなさい」と言う。不思議な民族である。

 ビルマ族の性格を一言で言えば「直情一直線」「人を疑うことを知らない底抜けのお人よし」である。相手の心を読むとか、駆け引きとか、妥協とかは大の苦手、思い込んだら最後まで一直線である。この意味ではタイ族の性格とは正反対である。歴史を見ても、蒙古軍に正面からぶつかりバガン王朝は滅亡する。また、英国に3度にわたる戦いを挑み、結局敗れて植民地とされる。そして現在の軍事政権とスーチーさんの妥協なき対立。この点タイは蒙古とも英仏とものらりくらりと交渉し、結局国の独立を守り通した。大東亜戦争においても初めは日本の同盟国だがいつの間にか連合国側について終戦を迎える。ビルマ族はもともとゴミ砂漠周辺にいた遊牧民であったといわれる。遊牧民の血をそのまま受け継いでいる。
 

 第6章  ミングォン(Mingun)の1日

 翌朝4時、大音響のスピーカーの声にたたき起こされた。街中に響き渡っている。いったい何なんだ。後でO嬢に聞いてみると、「お坊さんが起きだして、托鉢に行く準備を始めていますよ。皆さんも早く起きて、施しの準備をしなさい」と呼びかけているのだそうである。ただし、年がら年中やっているわけではなく、今ちょうど信仰強化週間に当たるので毎早朝スピーカーで呼びかけるのだそうである。さすが仏教国・ミャンマーである。

 朝、明るくなった6時過ぎ起きて通りに出てみる。寒い。何しろ寒い。おそらく気温は10度を割っているだろう。ここまでの寒さは予想していなかったので、セーターまでしか持参していない。街ゆく人々はみなジャケットを着ている。今後向うラオや雲南はもっと寒いだろう。上着を用意する必要がありそうである。この寒さの中、人々はどうしているのだろう。O嬢に尋ねてみると次のような状況であった。少なくてもマンダレーには暖房という装置はない。暖房機も販売されていない。寒さに対しては厚着をするだけである。一番つらいのはシャワーである。給湯施設というものはないので、水シャワーか井戸や川で身体を洗うのだが、この時期これが一番つらいとの話しであった。

 通りは行き交う人々でにぎわっていた。ボロトラック、バイク、馬車、そして圧倒的に多いのは自転車の群れである。庶民の足として、タイはすでに乗用車が主流である。そしてこの後訪れたラオも中国・雲南も庶民の交通手段はバイクが中心であった。ミャンマーはいまだ自転車の世界である。その人ごみの中をオレンジ色の衣を付けた裸足の僧が托鉢に歩き回っている。ただし、一人、あるいは二〜三人の小集団がばらばらに歩き回っており、ラオに見られるような荘厳さはみじんもない。施す庶民の方も、普段着で突っ立ったまま機械的に差し出される托鉢の壺にご飯を入れてやるだけで、手を合わせもしない。

 今日はO嬢とマンダレー近郊のミングォンに遊びに行く計画である。すぐに、目指すシャン州に向いたいところだが、せっかくマンダレーまでやってきたので、一日のんびりするつもりである。ミングォンはマンダレーからエーヤワディー川(Ayeyarwaddy川)を10キロほど遡ったところに位置する小集落である。ここには未完の世界一(となる予定であった)のパゴダがある。8時半、エーヤワディー川河畔の港へ行く。何隻かの船が係留され、人々でにぎわっている。一角に外人観光客用の切符売り場があり、ここでミングォンへの入域料3$と船の往復運賃1500チャット(約180円)を支払う。ミャンマーは何処へ行っても入域料と称して安からぬUS$を外国観光客からむしり取る。ミャンマー政府は本当は外国人の入国を認めたくないのである。入国を許している理由は唯一つ、US$がほしいからだけなのである。

 ミングォンに向う船も外国人用は決められている。一番立派な船だが料金は高い。乗りあわせた乗客は我々以外に二組の欧米人のアベックだけ、したがって客室はガラガラである。船はのんびりと大河・エーヤワディー川を遡っていく。少々寒いが、船室を出て甲板に座り込む。前回は、この川をバガン(Bagan)に下った。両岸は大きく開け、その先に低い山並みが続いている。時折、チーク材を満載した艀がゆったりと下ってくる。ミャンマー北部からタイ北部にかけてはチーク材の大産地である。英国がミャンマーへ侵略した目的の一つが、このチーク材の獲得であったといわれている。岸辺では、洗濯、水浴びにいそしむ女性の姿も見られる。船旅というものは実に気持ちがよい。やがて行く手右岸に一目でそれと分かる巨大な建造物の廃虚が見えてくる。約1時間の航行で10時過ぎ、ミングォンに着いた。

 ミングォン最大の見どころはMingun Pagoda(ミングォンパゴダ)である。コンパウンド朝のボードーパヤ王(在位1782〜1819)が世界一高い仏塔(ミャンマーではパゴダと呼び、タイではチェディと呼ぶ)を目指してこのパゴタの建設に取り掛かった。しかし、基礎部分が完成したところで王は他界し、建設は中断してしまった。今残るのは高さ30メートル一辺72メートルもある巨大な基礎部分だけである。このパゴダが完成していれば高さ150メートル、間違いなく世界一になったはずである。ちなみに、現在世界一高い仏塔は、タイのナコーン・パトムにあるプラ・パトム・チェディで高さ130メートルである。この仏塔(チェディ)は2年前に妻と訪れたことがある。

 この巨大なレンガの塊は所々崩れかけていて、危険を感じる箇所もあるが、ともかく上まで登ることが出来る。かなり息を切らし、登り上げた頂上からの景色は素晴らしい。眼下すぐ目の前に、大河・エーヤワディー川が悠然と流れ、はるか彼方にはマンダレーの街並みが霞んでいる。いつの間にか太陽は頭上に昇り、南国特有の強烈な熱放射を浴びせかける。朝のあれほどの寒さがうそのようである。セーターを脱ぎ、長袖のポロシャツを脱ぎ、Tシャツ一枚になる。座り込んで、この雄大な景色を眺め続ける。

 このミングォン・パゴダの前に、二つの大きなレンガの塊が確認できる。行ってみると、何と、半ば崩れかけた巨大なチンテ(タイではシンハーと呼ばれるライオンに似た動物。日本の狛犬である)ではないか。ミングォン・パゴダを守るために造られたものだ。パゴタの隣に建つお堂に巨大な鐘が吊るされている。パゴダに吊るすために造られた鐘である。直径5メートル、重さ90トンあるという。世界最大級の鐘である。鐘の下に潜ることが出来る。鐘の裏側には落書きがぎっしり書かれていた。中に日本語の落書きが一つ。ここまでやって来て恥をさらす馬鹿な日本人もいたものである。

 お土産物屋の並ぶ砂地の河原道をさらに奥へ進むと、真っ白な漆喰がギラつく太陽の光に輝いている寺院がある。シンピューメェ(Shin Phu Me)と呼ばれる寺院である。スメルー山(須弥山)に建つと言われるスラーマニ・パゴダを模して建てられたと言われる。階段を登っていくと、お供え用の線香、ロウソクを売ろうとする少年がしつこくつきまとう。ミャンマーの物売りはどこでもかなりしつこい。

 これでミングォンの見学は終わりである。帰りの船の出港は13時、それまで川べりに茂る大きな菩提樹の下で休息である。
 早い時間にマンダレーに帰り着いた。市場で早速ジャケットを買う。中国製だが4000チャット(約500円)で暖かそうなジャケットが手に入った。
 

 第7章  インレー湖(Inle Lake)への道

 いよいよシャン州に向うことにする。まずはシャン州南西に位置するインレー湖に行こう。風光明媚な所として知られ、ミャンマーにおいては、バガンと並ぶ観光資源となっている。前回の訪問時、ここに寄らずして、ミャンマーを逃げ出してしまった。やはり一度は訪れておくべき場所だろう。0嬢と姉さんも一緒に行くといいだした。特に姉さんはまだ行ったことがないので、是非連れていって欲しいという。知り合いのGest Houseがあるので泊まりは心配ないとのこと。相談の結果、3人で車で行くことにする。0嬢が知り合いの白タクに話をつけてきた。

 8時、カローラのオンボロ車で出発する。8〜10時間掛かるという。市街地を抜けヤンゴンへ続く、国道を一路南下する。この道はいわばミャンマーの国道1号線である。それだけに交通量は多い。ただし、先進国の国道を想像すると大間違いである。通っているのは、オンボロ車、オートバイ、耕耘機、自転車、牛車、そして荷車と人。スピードも性能もまるっきり違う種々雑多の交通機関がテンデンバラバラに走っている。道幅はおよそ4車線はあるのだが車線どころか中央分離線さえなく、交通は無秩序を極める。ミャンマーにはいまだ高速道路、あるいは自動車専用道路はない。一応簡易舗装はされている。どういうわけか、所々本格舗装の場所もある。こんなところでは、車は一瞬100キロものスピードを出す。と、その瞬間、牛車が行く手を塞ぎ、車は急ブレーキである。

 運転手(従ってこの車の持ち主)はヒゲを蓄えた中年の男、なかなかのナイスガイである。英語が堪能である。彼の話しによると、ミャンマーでも昨年後半からガソリン価格が2倍近くに急騰して、大変らしい。おまけに、昨年10月の政変により、外人観光客も激減しているとのこと。従って、マンダレーでは仕事にならないので、この機会にインレー湖にしばらく留まって仕事をするつもりだと言っている。車内の4人の会話が面白い。運転手がミャンマー語と英語、O嬢がミャンマー語と日本語、姉さんがミャンマー語だけ、私が日本語と英語。3カ国語が飛び交うが、共通語はない。

 Kyaukseの薄い街並みを過ぎると、周囲は次第に乾燥地帯の様相を帯びてくる。乾いた畑、サボテンと潅木、ミャンマー中部に広がる広大な乾燥地帯に入ったようだ。突然にぎやかな音楽が聞こえてきて、道端の一角がにぎわっている。「得度式だ!」。0嬢の叫びとともに車が止まった。行ってみると、お寺に模した簡易小屋が建てられ、大勢の人が集まっている。入り口には笊が置かれ、やって来る人が次々とお札を放り込む。祝い金のなのだろう。小屋の中の一方では楽団がにぎやかに鐘、太鼓、笛で音楽を奏で、他方は板座敷となって人々が飲み食いに励んでいる。奥には、着飾り、化粧した10数人の子供たちが座っている。彼らが今日の主役らしい。

 O嬢の説明によると、ミャンマーは皆僧制度であり、男子は10歳前後で必ず出家しなければならない。この出家する儀式が得度式であるが、相当金がかかるらしい。親類縁者、近所の人を招いて、このような大パーティを開く。この後、車列を整えて修業する寺に向う。金持ちは、行列に象を仕立てる。従って、一般庶民は、独力ではこの得度式がなかなか行えない。このため、金持ちが得度式を行うとき、その縁者親戚がそれに相乗りするのだそうである。今日の主役は10数人もいる。おそらく、数年に一度の集落を挙げての得度式なのだろう。

 2時間半も走ると、車はヤンゴンに通じる国道を離れ、インレー湖に続く道に入る。途端に道は悪化する。道幅は1,5〜2車線あるのだが、簡易舗装されているのは真ん中の1車線分だけ。しかも舗装はハゲチョロで穴だらけである。当然車のすれ違いには、この舗装をさえ外れる。この道だって、ミャンマーの東西を貫き、中国、タイ国境に通じる主要国道のはずである。ゆえに、すれ違うトラックも多い。それにしてはまったくお粗末な道である。

 行く手にうっすらと見えていた山並みがぐんぐん近づく。シャン高原の山並みである。やがて道は山岳地帯に入った。ヘアピンカーブを繰り返しながら、グイグイ高度を上げていく。相変わらず1.5車線の真ん中のみ簡易舗装された道である。すれ違う大型トラック(いずれもオンボロだが)が意外に多い。やはり中国、タイ国境に通じる道のためだろう。その度にすれ違いに苦労する。もちろんガードレールもカーブミラーもない。乾いた土は猛烈な砂ぼこりとなって、車内に押し寄せる。冷房などないので窓は開け放たれている。こんな危険な道のためだろうか、どの車も、運転はいたって紳士的である。追いつけば必ず道を譲り、すれ違いは譲り合い、後続の状況まで知らせあっている。周囲の山々は、潅木の茂る程度で緑は薄い。
 

 第8章  シャン族の国 

 この山岳地帯に入ってから、明らかに「クニ」が変わった。時々現れる小さな集落で見かける人々、あるいは小型トラックの荷台に乗りあわせている人々の装いががらりと変わったのである。ロンジーにタナカの世界は姿を消し、男女とも頭に色とりどりの、ターバンに似た布を捲き、服装は上下とも黒が主体。ロンジーの変わりに幅広のズボンである。ビルマ族のクニからシャン族のクニに入ったのである。おそらく、言葉も変わったはずである。このシャン族のクニを見るため、今回ミャンマーへやって来た。何やら興奮を覚える。

 シャン州はミャンマーの国土のおおよそ1/4を占める大きな州である。そしてその大半はシャン高原と呼ばれる山岳地帯である。険しくはないが、1000〜1500メートルの山々が累々と続いている。この山岳地帯に12世紀から14世紀にかけてタイ族系の人々が雲南から南下して定住した。彼らは自らをTaiあるいはshan(シャン)と称し、その国をMong Tai(モンタイ)と呼んだ。現在のタイ王国をつくったタイ族が自らをThai あるいはSiam(シャム)と称し、その国をMuang Thai(ムアンタイ)と呼んだことに対応する。

 シャン族の歴史は、ビルマ族の歴史とは別である。エーヤワディー川中流域(上ビルマ)を本貫の地とするビルマ族とシャン高原を本貫の地とするシャン族。両民族は13世紀以来、時には支配し、時には支配されながら覇権を激しく争ってきた。英国植民地時代には、シャン族は英国のビルマ支配に協力し、シャン藩王国同盟の下にシャン州の自治を守り通した。戦後、英国から独立するにあたり、ビルマ族はシャン族に対し、連邦国家の設立を呼びかける。シャン族はこれに応じ、10年後の連邦離脱の権利を留保したパンロン協定を結び、連邦国家に参加する。

 しかし、1962年、軍事クーデターにより権力を掌握したネ・ウィン政権はパンロン協定を一方的に破棄し、軍事力によりシャン州を支配し始めた。そして、この支配が現在も続いている。いわばシャン州は、中国によるチベット支配と同じ状況にあるといえる。このため、現在でも、タイとの国境付近では、独立を求める「シャン州軍」が、タイ国軍の密かな支援を受けながら、反政府ゲリラとなってミャンマー政府軍と戦っている。同様に、連邦国家に参加し、その後ビルマ族の支配下に入ったカチン州、カイン州(カレン州)でも、各々の民族が分離独立を目指し、ゲリラとなって政府軍と戦っている。

 ビルマ族のシャン族に対する潜在的恐怖心は、おそらく、相当なものだろう。現在は、いわばだまし討ちにより支配権を握っていると言えども、国家人口の一割に当たる500万人が国土の1/4を占める地域に居住しているのである。しかもその隣には、同族の大国・タイ王国が控えている。いつ問題が顕在化するか分からない。一例として、20世紀後半にシャン州北部の実質的支配権を握った麻薬王・クンサー(彼はシャン族の血を引く)が、タイ国王に対しシャン州のタイ王国への併合を求めている。もちろんタイ王国は黙殺したが。

 タイにとっては、この問題はアンタッチャブルである。もし、「タイ族の大義」と旗を掲げてこの問題に介入したら、中国が黙っていない。ラオスと国境を接する雲南省最南部には西双版納タイ族自治州という、タイ族のクニが存在するのだから。タイの出来ることは、せいぜい、シャン州軍に密かな援助を与えることぐらいである。

 ミャンマーというと、軍事政権とスーチーさんを中心とする民主化勢力との争いが国際的にはクローズアップされているが、実は、ミャンマーの最大の政治問題は各民族間の争いなのである。軍事政権側は、「もし民主化勢力が政権を握ればミャンマーという国家は空中分解してしまう」と本気で考えていることも事実である。
 

 第9章  シャン高原の風景

 ひとしきり、険しい山道を登り詰めると、ドライブイン(といっても簡易食堂だが)があった。昼食とする。食事をしながら見ていると、二人の女性が花と供物を抱えて裏山に入っていく。大きな樹の前で膝まづき、祈りを捧げ始めた。きっと神の宿る樹なのだろう。シャン族は熱心な仏教徒であるが、昔ながらの精霊信仰も持ち合わせている。このことはタイ王国のタイ族も同じである。

 ここから先は高原状のなだらかな地形となった。大地が大きなうねりとなって続いている。現れる集落の数も増え、規模も大きくなる。シャン高原に入ったのである。それに従い、シャンのクニの色彩もさらに強まる。竹で編んだ独特の形の篭を背負っている人が多い。木製の独特の肩当てを使っている。植生も変わった。広葉樹の雑木に混じり、松の樹が目立つようになり、やがて松の純成林となった。カロー(Kalaw)の街に入った。カローはシャン高原西部に位置する町である。標高が1320メートルあり、夏でも涼しいため、植民地時代に避暑地として英国人が好んで住んだ。このため、街は何やら垢抜けした雰囲気を漂わせている。

 カローを抜けると、地形はますます穏やかとなり、ただ、うねる茶色の大地がどこまでも続いている。大地はきれいに耕されている。雨期には青々とした麦畑となるのだろう。りんご畑、みかん畑も多い。道端でもぎたてのみかんを売っている。車を停め、頬張ってみたが、種のある酸味の強い小型種で、甘い日本の種類とは明らかに異なる。3人はうまいうまいと幾つも頬張っていたがーーー。

 うねりに沿い、上り下りを繰り返しながら道はどこまでも続く。ピックアップトラック、リアカーを引いた耕耘機が頻繁に行き来する。荷台には精かんな装いのシャン族の人々がぎっしり。どうやらこれらが公共交通機関、いわばバス代わりらしい。ウンウンいいながら丘を登る本物の大型バスを追い越す。昨夜バガンを出発したタウンディー(Taunggyi)行きのバスだとO嬢が教えてくれる。よくぞあの悪路をここまで辿り着いたものである。

 アウンバン(Aungban)の街を過ぎると、前方に目を見張るような景色が現れる。前方眼下に大平原が出現したのである。周囲を山々に囲まれた、真平らな広大な平原である。その一角に目指すインレー湖があるはずであるが、湖は見えない。ヘアピンカーブを切って一段下ったところがへーホー(Heho)の街、インレー湖観光の交通の拠点となるへーホー空港のある街である。湖まであと1時間の距離である。もう一段坂道を下り、鉄道線路を越え、シュエニァゥン(Shwenyaung)の街の手前から辿ってきた国道を離れ細道に入る。車がやっとすれ違えるほどのガタガタ道である。

 4時過ぎ、インレー湖観光の拠点となるニァゥンシュエ(Nyaungshwe)の小さな街に着いた。O嬢の知り合いというRemenber innに入る。大きなゲストハウスだ。O嬢と姉はオーナーと抱きあって再会を喜んでいる。インレー湖畔には2日間留まる計画である。その後、O嬢一行と別れ、一人でシャン州東部の町チャイントン(Kyaingtong)に向うつもりでいる。このため、宿にチャイントンまでの航空券の手配を依頼した。ここから東は外国人は空路以外の移動は許されていない。ところが、チャイントン行きを強く引き止められた。チャイントン、さらにその先のタチレクからタイへ出国する計画は無茶だというのである。安全上も問題だし、出国も多分無理だという。考え込んでしまった。タチレクまで行って、出国出来ない場合は、再び空路ヤンゴンまで戻らなければならない。時間と金の大幅なロスになる。場合によってはその後の旅行日程に影響がでてしまう。明日1日考えてみることにした。
 

 第10章  アウンバンの朝市 

 早朝の街をぶらつく。ここは標高875m、さすがに寒い。マンダレーで購入したジャケットで大助かりである。街は霧につつまれていた。その中をオレンジ色の衣を付けた僧の列が進んでいく。シャンのクニもやはり熱心な仏教国である。
 今日はピンダヤ洞窟寺院(Pindaya Cave)に行くことになっている。夕べO嬢が「明日はどうしますか」と聞くので、「特に行きたいところはない。どこでもいいから適当なところへ連れていけ」と無責任な答をした。このため彼女の発案でピンダヤ洞窟寺院にOne Day Tripすることになった。私の気持ちは、このシャンのクニに身を置き、このクニの雰囲気を全身で味わってみたいだけなのだ。

 昨日の道を戻る。へーホーの町を過ぎ、車が高みに登ってくと、立ちこめるガスの上にでた。眼下に霧に覆われた大平原が幻想的に広がっている。2時間も走り、アウンバンの街に着いた。ここで朝市を見学するという。昨日通り過ぎたときは、活気のある街とも思わなかったのだが、街を貫く国道から一本裏手の道に入ると、雰囲気ががらりと変わった。通りは人と荷物でごった返している。車を降り、人込の中に入る。あらゆる路地に露店が開かれ、すれ違うのもままならないほどの人込、その中に荷物を積んだ手押し車が割り込んでくる。ものすごい喧騒と熱気である。行き交う人々はすべてシャン族、人々の頭には皆ターバンが巻かれている。そして、女性の背中には赤ん坊。ビルマ族には子供を背中におぶる習慣はない。

 店先にはありとあらゆるものが並べられている。そのなかに豆腐がある。納豆がある。味噌がある。うれしくなってきた。米屋の前には10種類以上の米が並んでいる。赤米もある。お茶も豊富だ。いろいろな茶葉が店先を埋め尽くしている。ここはまさに照葉樹林文化のただ中、日本と基礎文化を共有している。探せば、ナレ寿司もあるはずである。これから向う、タイ北部、ラオ北部、中国雲南もこの照葉樹林文化圏である。いろんなことを聞いてみたいのだが、いかんせん言葉が通じない。O嬢に聞いてみると、話されている言葉はシャン語とビルマ語だそうである。豆腐屋の前でじっと見つめていたら、おばさんが一切れくれた。口に含んでみると、まさに豆腐の味であった。

 この朝市には観光客の姿はまったくない。従ってお土産物に類するものはまったく売られていない。100%地元のための市場である。しかもこの規模、今まで、タイやラオで多くの市場を見たが、その中で第一級の市場である。O嬢が妙なものを大量に買い込み始めた。松の木っ端である。聞けば、焚き付けにするのだという。人口80万人のミャンマー第二の都市・マンダレーでも毎日の炊事はすべて薪を燃やして行われる。このため、大量の焚き付けが必要だという。松の木っ端は油分が多く、焚き付けには最適である。ただし、マンダレーには松がない。このシャン高原は昨日気がついたように、松が至る所に茂っている。
 

 第11章  ピンダヤ洞窟寺院

 去りがたい市場を後にして、再び車を走らす。途中道端に停車する車に呼び止められた。タイヤがパンクして動けないのでスペヤータイヤを貸して欲しいとのこと。我々の車と同じカローラである。我が運転手はこの見ず知らずの人にあっさりとタイヤを貸している。いかにもミャンマーらしい。

 やがて、O嬢が「見えた!」と指さす方向に目を向けると、谷一つ隔てた右手の山腹に、何やら大きな建物が見える。国道を離れ、地道の道を建物の下部に近づく。お土産物屋の並ぶちょっとした門前町があり、そこから上部に向って急な参道が続いている。ただし、傍らにエレベーターが設置されていて、1人100チャット(約15円)で乗ることが出来る。韓国LG製の立派なエレベーターであった。何で、ミャンマーのしかもこんな山の中にーーー。おそらくヤンゴンにだってこれほどのものはないだろうに。上がったところが、洞窟の入り口であった。中に入ってみると無数の仏像が安置されている。洞窟は鍾乳洞であった。大きな石筍、石柱が無数に見られ、洞窟は奥に200〜300メートルも続いていた。

 お土産物屋でO嬢のお買い物が始まった。今度はお茶を大量に買い込んでいる。本人の言によると、このシャン高原はお茶の名産地だとのこと。それは事実である。お茶は照葉樹林文化圏の代表的作物なのだから。マンダレーでは採れない。

 ゲストハウスには早い時間に帰り着いた。1人ニァゥンシュエの街をぶらつく。小さな街だが、さすがにインレー湖観光の拠点となる街だけに、多くのホテル、ゲストハウスが立ち並び、欧米人の観光客が沢山見られる。宿の近くにシャン王宮博物館がある。行ってみたが、すでに閉館時間を過ぎていた。この博物館はニァゥンシュエ藩王国の最後の藩主サオ・シュエタイの館であった。彼は、ビルマ独立の際にビルマ連邦の初代大統領を務めた。即ち、この時点では、ビルマ族は大統領の地位を譲ってまでも、シャン族と連邦国家を作りたかったのである。

 宿にチャイントン行きをあきらめる旨告げる。代わりにヤンゴン行きのチケットの手配を依頼する。いろいろ考えたが、旅はまだ始まったばかり、リスクは避けることにした。今回の旅の最大の目標は陸路で中国雲南・西双版納に行く着くことだ。ここでもたもたするわけにはいかない。となれば、openとなっているヤンゴン→バンコクのフライトを予約する必要がある。ヤンゴンのPhuket Airに電話をしようとしたのだが、「市外電話は通じません」と言われ、ガックリである。まぁ、前回も経験ずみのことだがーーー。
 

 第12章  インレー湖遊覧

 今日は船をチャーターして、1日インレー湖を遊覧する予定である。彼女たちは今日を一番楽しみにしていた。ニァゥンシュエの街はインレー湖から3キロほど離れているが、大きな運河により繋がっている。船はエンジンの音高らかに湖に向って進む。ジャケットを着ていても風を切ると寒い。15分も運河を進むとインレー湖に達した。目の前に広大な湖面が広がっている。南北22キロ、東西12キロもある巨大な湖である。ただし水深は乾期には約2メートルと、いたって浅い。地形、及び湖畔に温泉が湧いていることから考えると、おそらく火口原湖なのだろう。

 船は湖面を大きく横切って東岸の村に向う。インレー湖周辺の村では5日毎に市が開かれており、まずはその市場に行く計画である。インレー湖の湖上には点々とインダー族の村がある。この湖で暮らす少数民族である。集落は湖岸でなく完全に湖上にある。湖面に柱を打ち込み、その上に家を建てている。移動はすべて小舟である。湖岸にある村はシャン族の村である。湖上には畑がある。湖上にある畑、理解に苦しむと思うが、浮き草を集めて浮き島を造り、その上でトマトや里芋を栽培している。いわば水耕栽培である。浮き島は流れないように竹棒で湖底に固定されている。その湖上の畑と集落の間を縫って船は湖岸に近づく。家の中から幼児が手を振る。学校に向うのだろう、子供が1人で小舟を懸命に漕いでいる。

 岸に上陸し、小道を市場に向う。湖岸に広がる田んぼに向うのだろう。背中に農夫を乗せた水牛が悠然と歩いてくる。学校では朝礼が始まっていた。遅刻なのだろう、慌てて校門を駆け抜けていく生徒も見られる。村の広場で市が開かれていた。今朝捕れたばかりなのだろう。鮒や鯉に似た魚が生きたまま売られている。ありとあらゆる生鮮食料品、衣類雑貨、何でもある。ここでは観光客がいるため、お土産物も売られている。またもや、O嬢のお買い物が始まった。今度はロンジー用の絹織物が目当てである。マンダレーの半値だと、目を輝かせている。

 再び船に乗って湖面を渡る。インダー族の大きな水上村の一角に、織物工場があった。工場も水上の建物である。大勢の女工達が絹や木綿の糸を紡ぎ、織機を操っている。珍しいものを見つけた。蓮の茎から繊維を取り、布を織っている。記念にハンカチを一枚買おうと思ったが、さすがに一枚20$もするのであきらめた。集落の中には水上の学校もあった。登校はすべて船である。

 入り組んだ水路を抜け、インレー湖観光の最大の目玉・パウンドウー・パゴダ(Phaung Daw Pagoda)に向う。インダー族に深く信仰された水上に浮かぶ巨大な寺院である。インダー族も熱心な仏教徒である。2階の大広間の真ん中に祭壇があり、5体の小さな仏像が鎮座している。参拝者がせっせと金箔を貼り付けるので、いずれも団子を二つ並べたような姿になっている。女性は祭壇に上がることが許されていない。寺院は参拝者でにぎわっていた。この5体の仏像を筏に乗せインレー湖を練り歩く祭りは有名である。

 インレー湖に注ぐ川を遡ってイン・ディン(In Dein)村に向う。シャン族の村である。この地にあるイン・ディン・パゴダは2000年以上の歴史を持つと言われている。どういうわけかこのパゴダは「地球の歩き方」には何も記載されていない。船着き場から集落の中を15分も歩くと、参道入り口に着く。ここから屋根付きの参道が緩やかな登り坂となって延々と1キロほど続いている。参道の周りは大小の古いパゴダがぎっしりと建ち並んでいる。1000以上あるという。なかなかの景観である。参道の両側には参拝用品やお土産物の店が並んでいるが、参拝者は少なく、ほとんど開店休業である。

 この参道前に、パダウン族の一家が住んでいる。女性の首に沢山の輪をはめて、首を伸ばすという奇習で有名な種族である。元々ここに住んでいたのではなく、見せ物として連れてこられたのである。O嬢と姉が「見に行こう」と誘ってきたが、「人間を見せ物にするとはよくない」と断った。2人して見に行ったが、「どうだった」と聞くと、後味は余りよくなかったようである。

 湖のど真ん中を横切り帰路に着く。湖上では、インター族の漁師が小舟を操り漁に励んでいる。彼らの船の操り方は独特である。片足で船尾に立ち、もう片方の足を櫂にからませて、器用に船を漕ぐ。この姿はインレー湖の風物詩として有名である。時間がまだあるとのことで、ニァゥンシュエの街近くのシャン族の村に上陸した。高床式の粗末な小屋が建ち並んでいる。子供たちが沢山集まってきた。服装は粗末だが、澄んだ目の輝きは印象的である。この子たちの未来に幸あれと祈らざるを得ない。
 

 第13章  さらばシャンのクニ

 すべての日程が終わった。シャンのクニの深部・チャイントンまでいけなかったのは残念だが、シャンのクニの一端は垣間見ることが出来た。由とせざるを得まい。早朝、車でへーホー空港に向う。O嬢と姉が空港まで見送ってくれた。彼女たちはもうしばらくここに滞在するという。ここでお別れである。O嬢はこれから日本での生活という、未知の人生を歩むことになる。無事を祈ろう。

 ヤンゴンに向う。上空からシャン高原の山々を眺める。累々たる山並みが続き、その中にぽっかりと穴が空いたようにインレー湖が見える。この山並みはシャンのクニ、ミャンマーとは別のクニである。国家とは何なんだろう、民族とは何なんだろう。とりとめもない思いが浮かんでは消える。やがて山並みが薄れ、眼下には広大な平地が現れる。ここはもうビルマ族のクニだ。

 今日はもうひと仕事残っている。この飛行機のヤンゴン空港着は10時45分、バンコク行きPhuket Airの出発時間が11時。ひょっとしたらこのフライトに間に合うかもしれないとの淡い期待を持っている。Phuket Airのバンコク行きは1日1便、乗れない場合はヤンゴンでもう1泊せざるを得ない。ヤンゴン空港に着陸した。窓から見ると、Phuket Airがまだ留まっている。国内線到着ロビーを駆け抜け、国際線ロビーのPhuket Airのカウンターに駆け込む。「乗せてくれー」と叫んだのだが、「もうイミグレが終了したので無理です。明日の便の予約を入れておきますから」と言われ、万事休止であった。

                             (2に続く)                         

 
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