おじさんバックパッカーの一人旅   

北京と河西回廊の旅(1)  北京(その一) 

遼、金、元、明、清、そして中華人民共和国の都

2008年9月11日

    〜9月15日

 
第一章 旅の序曲

 北京オリンピックが華々しく開かれた。「中国100年の夢」と言われるが、どうも主語が違うようである。この大会はあくまで「漢族による漢族のためのオリンピック」であり、チベット族やウイグル族にとっては白々しい大会であろう。半ば冷ややかに眺めていた大会だが、ソフトボール「上野由紀子の413球」には久しぶりに感動した。間違いなく国民栄誉賞ものだろうがーーー。

 大会の終わるのを待って北京に旅立つことにした。オリンピックに続いて、まだパラリンピックが開かれているが、ホテルの宿泊費も正常価格に戻ったようである。大会期間中は三倍にまで跳ね上がっていたが。今回の旅の目的地は「河西回廊」である。言わずと知れた「シルクロードの東の部分」である。ただし、その前後に北京に寄って、この「中国千年の都」を出来うるかぎり探索してみるつもりである。

 今回の旅の動機は次の二つの漢詩である。何時からともなくこの詩に心魅かれている。
 
   渭城朝雨潤軽塵  渭城の朝雨、軽塵を潤す
   客舎青青柳色新  客舎青青、柳色新たなり
   勸君更盡一杯酒  君に勧む、更に盡せ一杯の酒
   西出陽関無故人  西の方陽関を出ずれば故人なからん
   
   葡萄美酒夜光杯  葡萄の美酒、夜光の杯
   欲飲琵琶馬上催  飲まんと欲し、琵琶馬上に催す
   酔臥沙場君莫笑  酔うて沙場に臥すとも君笑う事なかれ
   古来征戦幾人回  古来征戦、幾人か帰る
   
 従って、今回の旅のミッションは次の二つである。
  1、西安から陸路で陽関まで行くこと
  2、敦煌で夜光杯を買ってくること

  
第二章 首都・北京(その一)

 第1節 いざ、北京へ

 9月11日午前10時55分、中国東方航空MU272便は一路、上海に向け成田空港を飛び立った。北京に行くのに上海に向かうのは奇異であるが、北京までの一番安い1ヶ月有効のフライトを探したら上海経由のこの便であった(本当はパキスタン航空の北京直行便の方が安いのだが、さすがにこの航空会社は敬遠した)。機内は意外にも満席であった。ただし、周囲に日本人の姿は見られない。皆、中国人のようである。機内放送は中国語、英語、日本語の3ヶ国語、日本人のアテンダントも乗っている。約2時間の飛行で上海浦東空港に着陸、ここで入国手続きが行われる。トランジットルームで1時間半ほど所在なく過ごした後、改めて北京に向かって飛び立つ。ここからは国内便である。

 2時間強の飛行で無事に北京国際空港着。暑くも寒くもない快適な気温である。ここで両替をしたのだが、結果的には大失敗であった。空港での両替は手数料として60元も取られることを知らなかった。市内の中国銀行で両替すれば、こんな手数料は取られない。これほど重要なことが案内書には書かれていない。市内まで地下鉄で行くつもりである。オリンピックを機に空港と市内を結ぶ地下鉄機場線が開通しているはず。所が地下鉄を示す案内板がまったく見当たらない。付近にいた空港係員に聞いてみたら、何と英語が通じない。ここは英語の通じない国・中国であることを改めて思い知る。それにしても、首都の国際空港なのだがーーー。「地鉄」と書き示してようやく場所がわかった。

 新しいだけにきれいな地下鉄であるが、料金は25元(約375円)と少々高めである。地下鉄と言っても90%は地上を走る。車窓に高層住宅群が現れだすと電車は地下に潜って、終点・東直門駅に到着する。空港から約30分である。ここで地下鉄2号線に乗り換える。市内をぐるりと一周するいわば北京の山手線である。こちらの料金は2元(約30円)均一と安い。乗るとすぐに若者に席を譲られた。以降、地下鉄やバスの中でしばしば席を譲られた。少々照れ臭いが、悪い気はしない。日本ではとっくに廃れた美風がこの国には当たり前の習慣として残っている。

 地下鉄2号線を半周乗って阜成門駅で降りる。今日の宿は予約してある。「北京の家」という民宿である。地図を頼りに歩く。初めての街だが、現在位置と方向が分かっているので迷うことはない。おまけに北京の通りは東西南北碁盤の目となっているので分かりやすい。約15分歩いて、路地奥の四方院住宅に辿り着いた。薄暗くなりだした6時過ぎである。この宿のオーナーは日本への留学経験のある若い夫婦である。二人とも日本語がぺらぺらなので助かる。パラリンピックを見に来たという3人の日本の若者と、ドイツの青年が宿泊していた。

 
 第2節 アクシデント

 9月12日。何がどうなったのか。真夜中にベッドから落ち、首を強打した。まるで焼け火ばしを当てられたような激しい痛みが首から肩に走った。一瞬首が折れたかと思った。痛みに耐えて朝を迎えたが、痛みは引かず、両手がほとんど動かせない。皮肉なことに天気は快晴である。無理して、地下鉄に乗って天安門広場まで行ってみたが、1歩歩くごとにずきんずきん痛む。とてもではない。早々に宿に引き上げる。オーナーに事情を話すと病院へ行くよう勧められたが、今日1日様子を見てみることにする。旅の第1日目からこのありさまで、意気消沈である。

 9月13日。1日様子を見たが、痛みが引く気配はない。ベッドに伏すこともままならず、眠れぬ夜を過ごした。場所が首だけに心配である。病院に行くことにする。英語も通じないとのことなので、オーナーに連れていってもらう。海外傷害保険に加入しているので費用の心配はない。北京協和医院という大きな総合病院へ行った。一般患者用受付窓口は混雑していたが、急患用窓口へ行くと待ち時間ゼロで診察を受けることが出来た。レントゲン撮影の結果、「頚骨に異常無し」とのことで安心した。ただし、治療は痛み止めの飲み薬と塗り薬をくれただけである。宿に帰るが、痛みが和らぐ気配はない。オーナーは「ひとまず日本へ帰ったら」と帰国を勸めるが、いくら何でもこのまま帰るわけには行かない。2〜3日様子を見ることにする。
 

 第3節 北京の歴史

 9月14日。痛みは相変わらずだが、手は何とか動かせるようになった。宿にいても所在ないので、少々無理してでも北京探索に行ってみることにする。足は大丈夫なのだから。今日も朝からいい天気である。何はともあれ、先ずは北京最大の見所・天安門広場から紫禁城(故宮)に行ってみよう。地下鉄に乗って前門駅まで行く。

 現在の北京市を含む地方は古来、中国歴代王朝の本拠地・中原から見れば辺境の地であった。戦国時代この地に燕という国があった。「戦国の七雄」の一つである。この国を知らしめているのは始皇帝暗殺に赴く荊軻が易水の辺で吟じた次の一編の詩であろう。
     風蕭蕭兮易水寒     風は蕭々として易水寒し
     壮士一去兮不復還    壮士一度去って再び帰らず

 易水は北京の南西100キロの地点を流れる川である。結局、始皇帝の暗殺は失敗し、紀元前222年、燕は秦によって滅ぼされる。その後、天下は秦、漢、随と続くが、北京地方が歴史の表舞台に立つことはなかった。

 次に北京が歴史に登場するのは8世紀中頃、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の時代である。当時、北京は「范陽」と呼ばれていた。755年、燕地方の節度使であった安禄山が反乱を起こし、唐の都長安を攻略する。そして、范陽を「燕京」と改名して王都とし、国号を大燕と定めた。ここに初めて、北京が天下の中心になったのである。しかし、安禄山の天下も、そして北京の王都としての地位も、わずか6年に過ぎなかった。

 907年唐が滅び、中国は五代十国時代を迎える。一方、寨外の北方においては契丹族が耶律阿保機と言う指導者を得て勢力を強め、916年には遼を建国して南下を開始する。そして936年、ついに燕雲16州を占領し、燕京を「南京」と改称して王都とするのである。中国本土における初めて異民族による本格的な王朝の出現である。一方、中原においては960年、宋が興り、開封を王都としてようやく国内を統一する。ここに天下は二分され、北京は天下半分の王都となった。

 やがて、北方においてツングース系の女真族が勢力を強め、1115年金を建国する。金は1121年に遼を滅ぼし、更に、1126年には宋の都・開封を陥落させて宋を南方に追いやる(南宋)。この結果、天下は金と南宋に二分された。金は1153年に王都を燕京に移し「中都」と改名した。北京は再び天下半分の王都となったのである。

 更に、歴史は三度繰り返された。北方の草原にジンギスカンに率いられた蒙古が興ったのである。蒙古は凄まじい勢いでユーラシア大陸を席巻する。1234年金滅亡、1276年には南宋が滅亡する。モンゴル帝国第5代皇帝フビライは国号を元と定め、大規模な王都を北京の地に建設して「大都」と命名した。ついに北京は統一中国の首都となったのである。

 1368年、明が元を北方に追い払い、中国を統一する。初代皇帝・洪武帝(朱元璋)は王都を南京に定めた。そして、孫を第二代皇帝(建文帝)に指名して崩じた。しかし、燕王に封じられていた息子の一人朱棣はこれを不満として決起し、南京を攻め落として帝位を簒奪した(永楽帝)。と同時に、1421年、新たに王城を元の王都であった大都に建設し、この地を「北京」と改称して遷都した。攻め落とした敵の本拠地より、自らの本拠地の方が安心だったのだろう。この結果、北京は初めて「北京」という名を得、また、初めて漢民族による統一国家の王都となった。明に続いて天下を取った清も明の王城をそのまま引き継いだので、北京の王都としての地位は保たれた。中華民国の時代、一時的に首都が南京に移ったが、現在の中華人民共和国の成立により北京の首都としての地位はもはや不動となった。そして、今年、「中華民族100年の夢」と言われた北京オリンピックが開催された。
 

 第4節 正陽門

 現在の北京市は明、清時代の北京城が発展拡大した都市である。「城」とは中国においては都市を意味する。大陸においては、中国以外の国においても同様であるが、古来、都市は城壁で囲まれていた。北京も戦前までは都市を囲む立派な城壁を持っていた。しかし、戦後、都市の発展に支障をきたすとの理由で城壁は撤去された。現在、北京には城壁は残されていない。現在の北京市の基礎となっている北京城は明の第三代皇帝・永楽帝によって建設された。この当初の北京城を内城という。しかし、やがて手狭となったため、明の第12代皇帝・世宗嘉靖帝の時代(1553年)に内城の南側に張り出す形で外城が増設された。従って、戦前までの北京城は内城と外城の二つのエリアから構成されていた。

 地下鉄の駅を出ると2つの巨大な楼閣が天安門広場を背にして縦に並んでいる。前面(南側)に建つのが箭楼、後方(北側)に建つのが正陽門(通称「前門」)である。箭楼は不思議な建物である。その巨大さもさることながら、その構造も独特である。横13個、縦4段、計52個の小窓が並んでいる。あたかも、基壇の上に立つ巨大なビルのような感じである。この箭楼については案内書には一編の説明もない。「いったいこの建物は何なのだ」と不思議に思う。実は、箭楼は正陽門に付属する武器庫兼戦闘基地で、二つの建物は元々は城壁で繋がっていた。城壁が撤去された結果、あたかも別々の建物のようになってしまったのである。もともと、内城にあった9つの城門はすべて箭楼を持っていた。現在残っている箭楼はこの正陽門の箭楼と北側の徳勝門の箭楼の二つだけである。ただし、徳勝門は城門本体が既にない。

 正陽門は北京内城の南面中心に建つ実に堂々とした城門で、内城にあった9つの城門のうち現在残っている唯一の城門である。高さは42メートルある。この城門は、外城が出来るまでは、北京城の正門であった。皇帝の北京城への出入りは必ずこの門が使われたという。外城が出来てからは、内城と外城を結ぶメイン通路となった。

 
 第5節 人民英雄記念碑

 正陽門の背後の広大な広場が有名な天安門広場である。今日は土曜日のせいか、まだ10時前だというのに既に多くの人々の姿が見られる。地方から北京見物にやって来た観光客は、先ずはこの広場にやって来るという。南北880メートル、東西300メートルもある世界最大の広場で、50万人の集会が可能といわれている。

 この広場の南側中央に、1977年、毛主席記念堂が建てられた。記念堂には1976年に死んだ毛沢東の遺体が安置されており、一般に公開されている。既に入り口には大勢の人が並んでいた。ベトナムのホーチーミンも同様の処置がとられているが、死体を人目に晒すこのような処置は日本人には理解しがたい。当然私は入場するつもりはない。

 それよりも、私の興味を引くのは天安門広場中央に建つ「人民英雄記念碑」である。高さ38メートルの石碑で、1958年に完成した。革命や抗日戦争で死んだ名もなき英雄を顕彰する碑である。この碑の正面には毛沢東の筆による「人民英雄永垂不朽」の文字、裏面には周恩来の筆により「この碑が民族の独立と人民の自由と幸福のために死んだ英雄を記念するものである」との趣旨が記されている。1976年4月、この碑を中心として、世に言う「第一次天安門事件」が起こった。

 1976年1月の周恩来の死は中国の人々に深い悲しみを与えた。なぜなら、吹き荒れた破壊と暴力の文化大革命の中で、周恩来が必死に国家としての秩序を維持しようとして4人組と戦っていたことを人々は知っていた。3月末より、自然発生的に周恩来の追悼集会がこの碑の前で開かれるようになった。碑に刻まれた「ーーー自由と幸福のためにーーー」という周恩来の言葉が人々に強い共感を与えたのだ。集う人々の数は日増しに増し、人々は碑に花や供物を捧げた。この事態に、危機感をいたいたのは文革の継続を声高に叫び続けていた江青らの4人組である。4月5日、武装警察により集まった群衆を襲撃させ集会を解散させた。この事件により登小平は失脚したが、人々の怒りは燃え上がり、半年後の4人組失脚に結びついた。

  「人民英雄記念碑」は柵に囲まれ、武装警官が警備して近くに寄れず、刻まれているはずの周恩来の筆による文字も確と認めることは出来なかった。また、広場を行き来する多くの人々にもこの記念碑に関心を示す様子は見られない。天安門事件も遠い歴史の彼方に行ってしまったようである。広場は北京オリンピックを歓迎する飾り付け一色となっている。

  
  第6節 天安門

  天安門広場を睥睨するがごとくに、その北側に高々と聳える巨大な楼閣が天安門である。紫禁城を中心とする北京城は、実は3重の城壁を巡らしていた。一番外側が北京城全体を囲み込む城壁、この城壁の正門が正陽門である。二つ目の城壁は皇域を囲う城壁。三番目が紫禁城を囲む城壁である。天安門はこの2番目の城壁の正門である。1417年(明の永楽帝の時代)に承天門として建てられたが、明末に焼失し、現在の門は1651年、清の順治帝の時代に再建されたものである。門というよりも巨大な宮殿であり、代々皇帝即位などの国家大慶の詔書が発せられる場所であった。

  この天安門は近世中国に起った幾つもの喜びと悲しみをを見つめ続けてきた。1919年5月4日、この天安門前に怒りに燃える北京の学生3千人が結集した。世に言う「五・四運動」である。第一次世界大戦の戦後処理を取り決めるヴェルサイユ講和会議において、中国が強く望んだドイツからの山東半島権益返還が絶望的となり、権益は日本が引き継ぐことになったとのニュースに、愛国の情に燃える学生たちが立ち上がったのである。すでに、1915年に日本から突きつけられた21カ条の要求に対する怒りが中国全土を覆っている最中の出来事であった。

  この5月4日に学生たちの灯したナショナリズムの炎は瞬く間に中国全土に広がっていった。歴史は、この五・四運動を中国革命の嚆矢と位置づけている。中国共産党の結成はこの日から2年後のことである。そして、この五・四運動から30年後、1949年10月1日、この天安門の上から天安門広場を埋め尽くした群衆を前に、毛沢東が中華人民共和国の成立を高らかに宣言した。天安門がその長い歴史の中でもっとも輝いた瞬間であった。

 しかし、歴史は再び暗転し、天安門は悲しい光景を見つめることになる。1966年には手に手に赤い毛沢東語録を持って門前を埋め尽くした紅衛兵の集団を眺めた。以降数年にわたって国内を破壊と殺戮の嵐が吹き荒れる。そして、時代は移って、1989年6月4日、この天安門前において流血の大惨事が発生した。第二次天安門事件である。民主化を求めて天安門広場に集まった数万(数十万?)の学生を中心とした市民に対し、人民解放軍が無差別発砲をして、戦車部隊を突入させた。この結果、数千人(数万人?)の死者の出る大惨事となった。事件は外国メデア追放の中で行われたため、その真相は未だ定かではない。

 天安門広場と天安門を隔てる広々とした長安街を地下道で横切り、天安門を潜る。巨大な門も紫禁城を目指す人々で大混雑である。人込に揉まれ、天安門を抜けると、更に端門の額を掲げた門が現れる。紫禁城はその先である。

 
 第7節 紫禁城(故宮)

 端門を潜ると、目の前に紫禁城の正門である午門が現れる。巨大な楼閣で、門前の広場を抱え込むように両翼が大きく前方に張り出している。左右には鐘楼と鼓楼を従えている。この門の創設は1420年、明の第三代皇帝永楽帝の時代であるが、その後焼失し、現在の門は1647年(清の順治帝の時代)と1801年(清の嘉慶帝の時代)に改修されたものである。60元(約900円)と安からぬ入場料を払って、いよいよ紫禁城に入る。

 この紫禁城は明の第三代皇帝・永楽帝により建設された。そして、1616年、明に代わり中国全土を統一した清も新たな王城を建設することはせず、明の残した紫禁城を王宮として利用した。もちろん、殿閣の多くは戦火に焼かれていたので再建する必要はあったが。こうして、紫禁城は1421年から清の滅亡する1912年まで、491年間王宮であり続けた。1987年には世界遺産に登録されている。

 紫禁城は二つのエリアからなっている。一つは外朝と呼ばれる公的なエリア、もう一つは内朝と呼ばれる皇帝の私的なエリアである。午門を抜けると外朝に入る。回廊に囲まれた大きな庭を金水河と呼ばれる人工の小川が横切り、その背後に太和門が立ち塞がっている。ここで、太和門に向かう人の流れから離れ、左側の回廊を熙和門で潜ると、武英殿という小さな殿閣に行き着く。見栄えのしない建物だが、明を倒した李自成が皇帝即位の式を上げた場所として知られている。

 明を倒したのは、実は、清ではない。李自成率いる農民反乱軍である。反乱軍は洛陽、西安を掌握し、1644年、明の王都・北京に攻め上る。王都は陥落し明の第17代皇帝・祟禎帝は自害して明は滅んだ。李自成は「大順」の建国を宣言し、自ら初代皇帝の地位に就く。しかし、李自成の天下も三日天下(正確には41日間)であった。山海関で満州族(後の清)と戦っていた明の武将・呉三桂が満州族と講和して、共に北京に攻め上るのである。李自成は武英殿で即位式を上げた翌日には北京から追い払われる羽目となった。

 もとの地点に戻って太和門を潜る。目の前に、三段の大理石の基壇の上に建てられた巨大木造建築の殿閣が現れる。紫禁城の正殿・太和殿である。高さ36メートル、幅66メートル、奥行33メートル。奈良東大寺の大仏殿に次ぎ、世界で2番目に大きな木造建築である。創建は1420年、ただし、数度にわたり焼失し、現在あるのは1695年に再建されたものである。太和殿は国家における最重要な建物であった。中華思想に基づくなら、この建物こそ、まさに世界の中心であった。皇帝の即位式や婚礼、詔書の頒布などの国家最重要の式典や行事はここで行われた。殿閣中央には玉座が設けられている。現在、中に入ることは出来ず、外から覗くだけである。

 太和殿の後方の小さな殿閣は皇帝の控えの間として使われた中和殿、更にその背後に建つ殿閣が保和殿である。清代には大晦日にモンゴルやチベットなどの外藩の王侯を招いて宴を開く場所として使われた。また、科挙の最終試験「殿試」もここで行われた。

 保和殿から先が内朝となる。五つの地域に分かれており、中心となるのは内中路と呼ばれ、紫禁城の中心線に添って南北に並ぶ三つの殿閣からなる地域である。この地域は赤い塀で囲まれており、入り口は乾清門である。門前には金色に輝く一対の獅子が置かれ、また、「缸」と呼ばれる金メッキされた青銅製の防火用貯水槽が並んでいる。門を潜ると、大理石を敷き占めた庭を横切り、一本の参道が内朝の中心となる乾清殿に続いている。この殿閣は元々皇帝の住居であり、かつ政務所であった。皇帝はここで毎日寝起きをし、臣下を召して報告を聞き、命令を下し、外国の使節と接見したのである。しかし、乾隆帝(清の第6代皇帝)の時代に住居を養心殿に移したので、以降、もっぱら政務所として使用された。

 乾清殿の背後には交泰殿という小さな殿閣があり、更にその奥に坤寧宮がある。この殿閣は元々は皇后の寝所であったが、皇帝と同様、乾隆帝の時より、皇后もここでは寝起きしなくなった。以降は神々を祀る所となった。ただし、新婚の初夜だけは共にここで一夜を過ごすことが伝統であった。

 これで、紫禁城の主要部分の見学は終わりである。ただし、未だ幾つか気になる箇所がある。今日は紫禁城を隅から隅まで探索するつもりでいる。先ずは、内中路の東側に位置する内東路と西側に位置する内西路が気になる。この地域は皇帝一家が暮す、完全なプライベートゾーン、すなわち大奥である。長恨歌に「六宮粉黛」とか「後宮佳麗三千人」と唄われた数千人の妃賓が生活する空間でもある。おそらく、江戸城の大奥などと比べたら桁違いであったのだろう。

 先ずは内西路に行ってみる。ここは、養心殿と西六宮からなる。養心殿は雍正帝以下8代の皇帝が暮した住居である。そして西六宮が後宮である。東側にある東六宮も同様である。かの有名な西太后は西側に住んだのでこのように呼ばれた。小規模な(といっても現在の大邸宅ほどの大きさだが)建物が南北に二列並んでいる。西太后の住んでいたのは儲秀宮である。1884年、彼女の50歳を祝って大改修された。

 西太后は中国三大悪女の一人と言われ、極めて悪評の高い女傑である。他の二人は漢の高祖劉邦の皇后・呂后と唐の高祖の皇后・則天武后である。最近はこの3人に毛沢東夫人の江青を加え、4大悪女とも言われる。中国の悪女はその悪行のスケールが桁違いである。天下を牛耳り、臣下の殺生与奪権を握り、かつその権限を恣意的かつ残虐に行使した。その残虐性は吐き気を催すほど凄まじい。

 西太后は18歳で咸豊帝の後宮に入り、皇帝の寵愛を受けて長男(咸豊帝の唯一の男子、後の同治帝)を生む。咸豊帝が崩御すると、クーデター(辛酉政変)を起して未だ幼かった我が子・同治帝の後見人となって実権を握る。同治帝が子を残さず若くして崩じると、皇統の直系からは遠いにも関わらず、わずか3歳の自分の妹の産んだ子を光緒帝として強引に即位させ、再び後見人として実権を保持する。成人した光緒帝が康有為等を重用して政治改革を推し進める(変法運動)と、再びクーデターを起し、光緒帝を幽閉し、改革派を処刑した。最後は、幽閉中の光緒帝を毒殺し、光緒帝の従兄弟で、かつ自分の甥の孫である溥儀を皇帝(宣統帝)とするよう遺言して1908年に74歳で死んだ。死後、東陵に葬られたが、後に国民党軍に掘りだされて、遺体は切り刻まれたという。

 内東路は内西路と同じような構造で特に興味の湧くものもない。外東路に行く。ここに、中国の三大九龍璧の一つといわれる九龍壁がある。他の二つは北京の北海公園と山西省大同にある。長さ29メートル、高さ3.5メートルの瑠璃装飾の壁に9匹の龍が描かれている。1763年に完成したものである。九龍璧の北側に建つ大きな殿閣は皇極閣である。現在は珍宝館として、故宮が収蔵する財宝を展示している。幾つもの殿閣を抜けて北に進むと、北端に景祺閣という小さな殿閣がある。光緒帝の愛妃・珍妃が西太后によって幽閉されていた場所である。珍妃は光緒帝の進めた変法運動を支持したため西太后に睨まれた。最後は無残にも、西太后によって珍妃井と呼ばれている井戸に投げ込まれて殺された。

 以上で紫禁城の探索は終わりである。紫禁城の北の正門である神武門を潜って城外に出る。さすが、中国巨大王朝の宮殿、見ごたえがあった。それにしても、よくぞ残ったものである。文化大革命の際に、破壊の危機を迎えたが、周恩来が必死に守り通したといわれている。城門前の広場は見学を終わった各ツアーの再集合場所となっている。旗を持ったガイドを中心に幾つもの輪が生じ、ごった返している。真昼の太陽が頭上から照りつけ暑い。

 
 第8節 景山公園

 神武門前広場のすぐ北側に、緑豊かな丘が盛り上がっている。景山と呼ばれる高さ43メートルの丘である。現在は、広い道路によって紫禁城と切り離されているが、元々は皇域の中に含まれていた。人工の丘で、金代には既にあったといわれる。元代には「青山」、明代には「万寿山」と呼ばれていたが、清の順治年間に「景山」と名前を変え、乾隆帝の時代に庭園として整備された。現在は、紫禁城を一望できる場所として人気がある。

 1644年3月19日、この景山で悲劇が起こった。李自成率いる農民反乱軍に紫禁城は包囲され、明の命運が尽きたのである。明の最後の皇帝となった崇禎帝はこの景山で首をくくり、284年間続いた明王朝は滅亡した。皇帝とともに縊死したのは宦官1名という寂しい自害であった。

 神武門前に屯するトゥクトゥクやタクシーの誘いを振りきり、2元(約30円)の入場料を払い公園に入る。この公園も大勢の人で賑わっている。丘の麓を右に回り込むと、崇禎帝の縊死現場に達した。それを示す標示や説明書きがあり、多くの人々が記念撮影している。記念撮影にふさわしい場所とは思えないがーーー。ただし、首をくくった木は既にない。石段を登り山頂を目指す。人工の山にしてはなかなか登りがいがある。山頂には万春亭という楼閣があり、待望の展望が得られた。視線は自ずと南に向かう。眼下に瑠璃瓦に彩られた幾つもの殿閣が建ち並んでいる。紫禁城がまさに一望である。ただし、残念なことに、太陽がちょうど真南にあり、完全な逆光である。このため、視界は霞がかかったように寝惚けたものとなってしまっている。

 
 第9節 王府井街

 景山公園を出る。さて、次ぎはどこへ行こうか。既に時刻は1時近い。昼飯も食べねばならない。朝から何も食べていない。西へ行けば世界最古の皇室庭園といわれる北海公園、東に行けば北京の銀座通りといわれる王府井街がある。足は自ずと東に向いた。

 王府井街は紫禁城のすぐ東にある南北に連なる大通りである。名前から判る通り、この辺りは昔、皇族の邸宅が並んでいた。広々とした通りの両側には大規模なショッピングモールやデパートが並び、お上りさんも含め、大勢の人で賑わっている。特に、通りの南側半分は歩行者天国となっており、ドリンクスタンドなどもあり、またベンチが到るところに設置されている。この通りを歩いて印象的なのは、高層ビルがないことである。そのため、空が大きく感じられ、気持ちのよい解放感が味わえる。どうやら、法的規制が架かっていると見え、旧北京城の範囲は、一切高層建築が見られない。東京に比べ、北京の街造りの方が遥かに先進的である。

 王府井街には幾つかの横丁(胡同)がある。小っちゃな土産物店の並ぶ民族文化街、食べ物屋が並ぶ小吃街など、表通りの華やかさとは違う昔ながらの庶民の街が息づいている。昼食をと、大きなショッピングモールの食堂街に行くと、何と、回転寿司やラーメン屋がある。この街に来る日本人も多いのだろう。街の一番南に北京飯店があった。1900年創業の北京でもっとも古い、かつもっとも格式のあるホテルである。記念にお茶でも飲んでいこうと、のこのこ入っていったら、玄関で守衛に呼び止められ詰問された。どうも、高級ホテルに出入りするに相応しからぬ風袋と見なされたようである。一杯50元(約750円)もの高価なコーヒーを飲んで帰る。
 

 第10節 白塔寺(妙応寺)

 泊まっている宿の近くに白塔寺がある。正式名称は妙応寺というらしいが、巨大な白い仏塔が建つため白塔寺が通称となっている。バス停の名前も「白塔寺前」である。帰りがけにちょっと寄って見る。
寺院の創設は遼の寿昌2年(1096年)に遡り、寺のシンボルである白塔は、元の至元8年(1271年)建造と伝えられている。寺は1368年に焼失したが、幸い仏塔は残った。現存する中国国内で最古最大のチベット式の仏塔で、高さは50.9メートルある。寺域は思いのほか大きく、山門、鐘鼓楼、天王殿、意珠心鏡殿、七仏宝殿、三世仏殿、白塔からなっている。

 仏塔のその巨大さには度肝を抜かれたが、境内には僧の姿は見られず、中国における多くの寺院と同様、既に死んだ寺であった。

 
 第11節 お月見

 宿へ帰ると、今日は中秋節なのでバーベキューパーティとやるとのこと。夕方よりオーナーの知人数人が集まってきた。四合院住宅の中庭で賑やかにパーティが始まった。しかし、宿泊している日本人は皆パラリンピック観戦に行ってしまっていて、周りはすべて中国人。会話は中国語のみで、一人疎外感を味わっていた。途中で英国人だという40歳程の宿泊客が現れた。せめて英語の会話が出来るかと思ったら、何と、この英国人、英語より中国語の方が得意だと言って中国語の会話に参加してしまった。それでも、真ん丸の名月が現れ、北京での月見を楽しめた。
 

 第12節 雍和宮、孔廟、国子監

 9月15日。首から肩に掛けての痛みは相変わらず強いが、更に悪化する様子はない。少々無理しても旅を続けることを決意する。明日、西安に飛ぶことにして、今日はもう一日北京探索をすることにした。8時30分、宿を出る。天気は上々、北京秋天である。地下鉄を「雍和宮」で降りる。5分ほど歩くと雍和宮に着いた。ここはもともと清の第5代皇帝・雍正帝の帝位に就く前の住居であったが、次の皇帝である乾隆帝の時代にチベット仏教寺院に改修された。清の皇室の宗教はチベット仏教である。

 早朝にも関わらず既に数組のツアー客で境内は賑わっていた。境内は意外に大きい。6万6千平米に及ぶという。伽藍は南から北に向かって直線状に配されている。雍和門を潜り、雍和宮殿、永佑殿、法輪殿と大きな伽藍が続く。そして、一番奥に万福閣という大殿があり、中に巨大な仏像が納められていた。高さ28メートルの木造の弥勒菩薩像である。ただし、日本の弥勒菩薩のように柔和な表情ではない。三白眼を開き凄まじい形相である。この仏像はチベットから運ばれた白壇の1本木から彫りだされたものだという。寺院内には僧の姿も見られ、この寺はどうやら生きている気配である。

 雍和宮から歩いて数分のところに孔廟と国子監が隣り合わせにある。20元(約300円)の入場料を払い、先ずは孔廟に入る。2万2千平米という広い境内には数人の人影が見られるだけである。1302年に皇帝フビライが漢族を懐柔するために建てたといわれる。孔廟としては孔子の生まれ故郷・山東省曲阜の孔廟に次ぎ中国で二番目の規模である。元、明、清の時代の科挙合格者の名前が亀の背中に乗った石碑に刻まれている。

 隣の国子監に行く。国子監とはいわば大学である。1306年、支配者であるモンゴル族に漢語を、漢族にモンゴル語を教えるために建てられたという。

 
 第13節 天壇

 地下鉄5号線に乗って「天壇東門」で降りる。北京は地下鉄がよく発達しており、非常に便利である。しかも、機場線を除き料金は2元(約30円)均一と安い。駅にはエスカレーターが備わっており、車輌もきれいだし、標示も東京の地下鉄よりも分かりやすい。乗る前に全員の荷物検査が行われており、少々面倒だが、市民は従順に検査を受けている。地下鉄に乗っていつも感心するのは、バスでも同様だが、ほぼ80%の確率で席を譲られることである。日本では未だ一度も席を譲られた経験はないのだがーーー。一方、顔をしかめるのは、整列乗車が行われないことである。人々は並ぼうとはせず、我先にと乗車口に殺到する。降車優先などというルールはない。入り口付近では乗る人と降りる人で常に押しくら饅頭である。

 天壇は明、清の皇帝が天に対し祭祀を行った場所である。1420年に明の永楽帝により創設された。旧北京城の南西に位置し、現存する中国最大の祭祀施設である。1998年には世界遺産に登録されている。総面積273万平米と日比谷公園の1.7倍ほどの広大な面積を有し、現在は、公園として市民に開放されている。そもそも中国の皇帝はその地位の正当性を天命に求める思想に立脚しているのであるから、天帝に対する祭祀は、皇帝にとって最重要な行為であった。毎年、冬至の日にはその年に起った出来事を天帝に報告し、正月には豊作を祈った。

 35元(約525円)の入場料を払い東天門より入場する。日曜日のためか、多くの家族連れで賑わっている。紫禁城と違い、旗を持ったガイドの後に金魚の糞のごとくくっついて歩くツア客は見られない。真昼の太陽が燦々と照りつけ暑い。天壇の施設は南から北に向かって圜丘壇、皇穹宇、祈年殿、皇乾殿と1列に並んでいる。先ずは圜丘壇に赴く。

 圜丘壇は白石造りの三段の円形の壇で、建物はない。皇帝が天帝に祈りを捧げる場所で、毎年冬至の日にその年に起った出来事を天帝に報告した。天壇の中において最も重要な施設である。壇の中央に「圓心石」と呼ばれる円形の大理石があり、この上から声を発すると周囲に響き渡る仕掛けになっている。もちろん、応時は皇帝以外この場所に立つことは許されなかったが、今では、人々が代わる代わるその場所に立ち、不思議な効果を試している。

 圜丘壇の北側に建つ円形の美しい建物が皇穹宇である。1530年の建築で、祭祀の際に皇帝の位牌が置かれた場所である。建物を周囲193メートルの円形の壁が取り囲んでおり、その壁に向かって声を発すると、180度対極にいる人にその声が届くという。多くの人が、壁に向かって大声を発していた。ちょうど昼時、腹も減ったが、周囲にある簡易食堂はどこも満員である。

 皇穹宇から祈年殿を目指して北に延びる長い参道を進む。周囲はよく手入れされた林である。祈年殿は三段の大理石の基壇の上に建つ円形の木造建築で、天壇を象徴する実に美しい建物である。三層の屋根は瑠璃瓦拭きで、建物の直径は32メートル、高さは38メートルある。1420年に創設されたが、落雷で焼失し、1889年に現在の建物が再建された。皇帝は毎年正月、ここで五穀豊饒を祈った。内部には玉座が設けられている。祈年殿の背後には皇乾殿が建つ。大理石の基壇の上に建つ、青い瑠璃瓦の宮殿で、祭祀の用具を納める倉庫として使われた。

 以上で、天壇の主立った施設の見学は終わりであるが、もう一つ、広大な敷地の南西の隅に斎宮がある。わざわざそこまで行く人は希のようだが、行きがけの駄賃、林の中をテクテク歩く。どうやら、この天壇公園の中はオリンピックのマラソンコースとなったようで、コースを示す青線が見られる。辿り着いた斎宮は林の中の静かな宮殿で、二重の城壁と濠で囲まれている。ここは祭祀の前に皇帝が身を清める斎戒を行ったところである。現在の建物は1819年に再建された。人影は薄く、一組の見学者と出会っただけであった。

 
 第14節 大柵欄と瑠璃廠

 西天門より天壇を出る。時刻はまだ1時過ぎ、もう少し北京の町を歩けそうである。地図を眺めた結果、大柵欄街に行ってみることにする。正陽門の南に位置する一角で、北京の浅草といわれる昔ながらの庶民の街である。正陽門から南に延びる前門大街を北に向かってテクテクと歩く。北京の中心線となる大きな通りである。珠市口大街との大きな交差点を越えると街の様子が一変した。通りは車の通行が制限され、歩道には幾つものベンチが設置されている。そして、街並みが大々的に昔風に作り替えられているのである。まだ街並みが新しいので、古風な造りとマッチしていないが、年月が経てば、新たな北京の名所になるだろう。

 箭楼の巨大な楼閣が目の前に迫ったところで、左の路地に入る。この路地が大柵欄街である。途端に、群衆が湧きだし、道はまともに歩けないほどの混雑である。通りの両側は、ガイドブックに載っている老舗の名店が軒を並べている。1903年に北京に最初に建てられた映画館・大観楼電影院の古風なたたずまいもある。まさに、北京市民のエネルギーが爆発したような街である。あっちこっちの店を覗きながら、宛もなく歩き回る。

 この街は1420年の北京城創設以来の歴史を持つ。そして、1488年、盗賊の侵入を防ぐために街の周囲を高い柵で囲ったことから大柵欄の名前がついたとのことである。

 大柵欄の雰囲気を一通り味わい終わったが、時刻はまだ3時。瑠璃廠まで行けそうである。瑠璃廠は大柵欄の西約1キロにある街で、筆、墨、硯、紙などのいわゆる文房四宝や書画、骨董、古書、法帖、篆刻などの専門店が軒を並べている街として知られている。北京の歴史が息づいている街である。

 前門西大街、南新華街と30分ほど歩いて、瑠璃廠に到着した。今日は本当によく歩く。大分くたびれたが、未知の街を探索するのは歩くのが一番である。南北に走る南新華街と交差する東西に延びる小さな通りが瑠璃廠である。瑠璃廠西街と瑠璃廠東街の二つに分かれている。先ずは西街に入る。並木道となった落ち着いた通りの両側に古風なたたずまいの文房四宝や書画の店が連なっている。中国4千年の文化の匂いが色濃く感じられる。人通りも少なく、観光客の姿は見られない。ぶらりぶらりと店を覗きながら探索する。有名な老舗の栄宝斎があった。清代に著名な文人や書道家が通った店である。ここの店の名入りの原稿用紙は物書きにとって垂涎の的だとのことである。筆の一本も土産に買いたいが、猫に小判であろう。続いて東街を歩く。

 この一帯は元代の頃より瑠璃瓦を焼く窯が多くあった。明代のはじめ、紫禁城建設の当時は、瑠璃瓦の需要が多く、多いに賑わったようである。このため、瑠璃廠との名前が残った。清代に入ると科挙試験の受験者がこの辺りに住み着き、そのため文房四宝を扱う店が集まりだし、現在に至った。

 
 第15節 北京の印象

 わずか2日間であるが、旧北京城を歩き回った。実に気持ちのよい街である。並木を伴った道は広く、特に歩道の広さは特筆される。また、大通りは碁盤の目になっているので実に分かりやすい。そして、何よりも素晴らしいと思うのは、街造りのコンセプトが確立していることである。いたずらに近代化に走ることなく、歴史と伝統を十分に生かした街造りが行われている。高層建築が一切ないのも空が大きく見えて実に気持ちがよい。もちろん、郊外の新しい街には超高層ビルがニョキニョキと建っている。更に、街がクリーンである。ゴミが一切ないのである。ごみ箱や灰皿が到るところに設置されているとともに、清掃人の数が半端ではない。オレンジのベストを付けた清掃人が到るところに見受けられ、タバコの吸い殻を捨てようものなら、あっという間に拾い上げていく。昔から「北京酔い」と言う言葉があるらしい。北京の素晴らしさに酔いしれ、虜になってしまうことである。この言葉をつくづく実感した。

 もう一つはオリンピックに対する中国の「いぢらしい」、あるいは「悲壮な」までの思い入れである。テレビで見ていた際には「加油中国」を熱狂的に叫び続ける姿を胡散臭いと思っていたが、現地に来てみて、彼らの心境がようやく理解できた。既にオリンピックは終了して、バラリンピックが開かれていたが、街の興奮と緊張はなお持続していた。何と、パラリンピックの競技会場もすべて満員なのである。前回のアテネではパラリンピック会場はガラガラであったというのに。お陰で、パラリンピック観戦にやって来た同宿の若者たちはチケットが得られず右往左往、ダフ屋から買う羽目に陥っていた。

 街の到るところに掲げられた「同一個世界、同一個夢想 one world,one dream」の標語は、オリンピック精神を象徴する言葉だとしても、日頃中国の取り続けている行動パターン(chinese world, chinese dream)とは相いれないように思える。オリンピックのためなら強固な中華思想も看板替えである。また、街角の到るところに「自衛団」の腕章をつけたおじさん、おばさんが陣取り、道行く人に目を光らせている。オリンピックの妨害行為は絶対に許さないという市民の強い意志が感じられる。地下鉄の全員荷物検査も、嫌がることなく自主的に協力している。

 ほぼすべての歩道に視覚障害者用のブロックが埋め込まれ、駅の階段には簡易リフトが設置されている。外国人など来ないと思われる寺院や観光地の小さな階段、段差にも車イス用のスロープが新設されている。とかく評判の悪かった街中の公衆トイレも常にきれいに保たれており、清掃責任者の氏名が掲示されている。

 もしかしたら、このオリンピックを契機に中国は変わるかも知れないとの淡い期待を持った。               

           (北京、河西回廊2に続く)

 

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