おじさんバックパッカーの一人旅   

北京と河西回廊の旅(3)  蘭州、武威、張掖 

ゴビを越えて、河西回廊を西へ西へ

2008年9月16日

    〜9月26日

 
第五章 黄河と出会う街・蘭州
 
 第1節 蘭州への列車の旅

 20時30分、ユースホステルを出発。「サイチェン(再見)」と皆で気持ちよく送りだしてくれた。バスで駅に行く。駅前広場は多くの人が座り込んでいる。荷物検査を経て駅舎に入る。ここの軟座待合室は狭くておそまつである。人いきれで暑い。おまけに駅舎内には喫煙場所がない。大勢の人が駅舎外に屯しているのはこのためだろう。

 22時過ぎ、漸く改札が始まった。指定された座席に行く。前回同様4ベッドの個室で、他の3人は30歳代の男であった。互いに無言で挨拶もせず、各自すぐに寝る準備に入る。窓の外は真っ暗、一度化学工場と思われる火を吹く煙突を見ただけである。寝っ転がると相変わらず肩から首筋が痛い。

 9月21日。6時に車掌に起された。時刻表によると蘭州着は6時50分の予定なので、再びベッドに横たわっていたら、6時30分、大きな駅に到着した。大勢の人が降りる。不安になって、窓からホームを覗くも駅名が確認できない。車掌に聞くと「蘭州」だという。大慌てで降りる。この列車は西寧行きである。危ない所であった。

 人波に従い駅舎を出るも、外はまだ真っ暗。おまけにこぬか雨が降っている。雨に濡れた駅前広場の向こうには大きな街が広がっている様子で、ネオンが瞬いている。広場の一角に雨を避けて座り込み、夜明けを待つ。誰も寄って来ない。未知の街にやって来たが、気分は何とも侘びしい。気温は低く、長袖を着ているが寒くて仕方がない。

 7時を過ぎると薄明るくなってきた。いつまで座り込んでいても仕方がない。行動を起すことにする。この街ではR青年旅舎に泊まるつもりでいる。案内には「鉄道駅から102路または127路のバスに乗り、Kバス停で降り、歩いて2分」とある。駅からは数キロも西に位置しており、かなり遠い。駅前広場の片隅にバス溜まりが見える。行ってみると、いい具合に、127路のバスが停まっている。運転手にKバス停に行くことを確認して乗り込む。バスはすぐに発車した。

 蘭州は黄河に沿って東西に細長く延びた街である。バスは賑やかな街並の中を西へ西へと向う。それにしても驚くほど大きな街だ。どこまでも、どこまでも、超高層ビルをまじえた賑やかな街並が続く。広い道路が二重三重に立体交差し、超近代都市の趣がある。30分程乗ると、運転手が「ここだ」と教えてくれた。ユースホステルはすぐにわかった。

 
 第2節 あやしげなユースホステル

 今まで旅をした東南アジア諸国や南アジア諸国にはバックパッカー用の宿泊施設として「ゲストハウス」と呼ばれる安宿がある。ここに行けば旅の必要な情報が得られ、また、世界中から来た同じような旅人に出会える。高級ホテルよりよほど居心地が良いのが普通である。私ももっぱらゲストハウスを泊まり歩いてきた。しかし、中国には、外人バックパッカーが少ないためか、ゲストハウスなるものがない。「招待所」と呼ばれる安宿は多々あるのだが、ここは中国人向けの木賃宿であり、時には売春宿である。法律的にも原則外国人は泊まれない。

 最近「青年旅舎」すなわちユースホステルがあちこちに現れだした。ユースホステルと聞くと、その名前から来るイメージとして、おじさんが一人でのこのこ行くには抵抗がある。今まで敬遠していたが、今回、適当な安宿がないこともあり、西安、銀川、そして蘭州とユースホステルに泊まってみた。しかし、ここ蘭州のR青年旅舎はユースホステルの名前からは掛け離れた何ともあやしげな宿であった。

 そんなこととも知らず、変な雰囲気を感じながらも、門を潜った。大きな二階建ての建物が二棟あり、その間が屋根付きの中庭になっている。中庭には小さな人工の川が流れ、木々の植え込みがある。その木陰に幾つものテーブルと椅子が並んでいる。未だ早朝のためか人影はない。大声で呼ぶと女が出てきた。ニコリともしない。泊まりたい旨伝えると、まったく口をきかず、必要事項を紙に書き示す。案内された部屋は広く、ホットシャワーと洋式トイレがあり満足である。ただし、石鹸はおろか、トイレットペーパーもない。1泊120元(約1,800円)と料金も手ごろなので、荷物を下ろした。

 追々分かったことだが、ここは「若い女性をはべらせながら博打を行う場所」で、娼館も兼ねていると疑える施設であった。ユースホステルとしての設備は何もない。英語もまったく通じない。営業実態を隠すためにユースホステルの看板を掲げているとしか思えない所であった。午後になると、人が集まり、各々のテーブルでカードが始まる。建物の一階の部屋では麻雀である。夜遅くまで、興奮した大声が響き渡る。そして、真っ赤なセクシーなチャイナドレスを着た若い女性が10数人控えていて、各テーブルにはべる。もちろん、酒や料理も提供される。建物の二階は宿泊施設である。私の泊まった棟の二階はまともな部屋であったが、もう1棟の二階は何が行われているのか。2泊したが、他に旅行者が泊まっている気配はなかった。

 
 第3節 黄河の辺の街・蘭州

 西安の北西約600キロに位置する蘭州は甘粛省の省都である。標高1,510メートルの高原都市であり、古来、河西回廊の入り口の都市として発展してきた。この都市を特徴づけているのは、何と言っても黄河である。青海省に源を発した黄河が最初に出会う都市であり、街は黄河に沿って細長く延びている。私も黄河に出会えることを最大の楽しみとして、この都市にやって来た。そして、この都市を出発点とて河西回廊を奥へ奥へと進むつもりである。いわば、河西回廊の旅の出発点に漸く立ったといえる。河西回廊とは「黄河の西の回廊」の意である。西安から西に向うシルクロードはここ蘭州において黄河を渡り、「黄河の西」に出るのである。

 部屋に荷物を置くとすぐに街に出た。幸い雨は止んでいる。ただし、何時降りだしてもおかしくないような曇天である。先ずは現在位置を確認しなければならない。おおまかな位置はわかっているが、R青年旅舎はガイドブックには載っておらず、正確な位置は不明である。街を東西に貫くメイン道路・西津路を東に進んでみる。10分程歩くと、「蘭州汽車西站」、すなわち「蘭州西バスターミナル」があった。現在位置判明である。待合室に掲げられた時刻表を見ると、武威行きのバスがある。しめしめである。明後日、武威へ行く予定だが、案内書には武威行きバスは東バスターミナルから出ると記されている。東バスターミナルは宿からはかなり遠く、行くのが大変だなぁと思っていた。これで課題が一つ解決した。

 なおも西津路を東に進み、大きな立体交差路を北に曲がって少し進むと、ついに黄河の辺に出た。感激の一瞬である。この川を見たくて蘭州にやって来たのだ。真新しい橋が架かっていたので、橋の真ん中まで行って黄河を眺める。川幅は思ってより狭い。その代わり流れは速い。何よりも特徴的なのはその色である。名前の通り真黄色に濁っている。「なるほど」と妙に感心した。今までにアジアの幾つかの大河を眺めた。メコン川は上流から下流まで真っ茶色に濁った流れであった。ベトナムのハノイで眺めた紅河は名前の通り赤みを帯びた濁流であった。長江の流れは特徴のない深い青緑色である。黄河の流れの色はいずれの川の色とも異なり、やはり黄色であった。

 
 第4節 甘粛省博物館

 いったん宿へ引き揚げ、改めて西津路を今度は西に進む。甘粛省博物館があるはずである。道の両側は相変わらずビルが並ぶが、横丁や裏通りはめっきり下町の風情となり、露店や簡易食堂が目立つようになる。10分も歩くと博物館に達した。幸運なことに、改装再開記念とかで入場は無料であった。この博物館は実に素晴らしかった。展示物はもとより、その展示の仕方が実に工夫されている。中国の文化程度を再認識させられる思いであった。「太古の生物」「甘粛省の彩陶器」「絲綢之路」の三つのテーマで展示していたが、どの展示も感動的である。中でも、この博物館の目玉である「馬踏飛燕」とも呼ばれる銅奔馬の青銅製彫像は見ごたえがある。後日、この彫像の出土した武威の雷台を訪れることになる。思わず写真を撮ってしまったら、係員が飛んできて怒られた。館内は撮影禁止である。

 もっとゆっくり見ていたいのだが、夜行列車であったためか、眠くて仕方がない。宿に戻る。

 
 第5節 黄河河畔散策

 2時間ほど昼寝をした後、改めて黄河河畔に行く。右岸沿いに柳並木の美しい遊歩道が続いている。所々で老人が中国将棋を指している。対岸には低い山並みが続き、その麓にはモスクのミナレット(尖塔)も望める。しばらく進むと、「母なる河」と題した母子の石像があり、黄河の展望台となっていた。観光バスが停まって、観光客の輪ができていた。川べりに下る踏跡があるので、水際まで下り、黄河の水に手を浸す。「ついに黄河に触れた」。何となく満ち足りた気分になる。対岸の山並みの上に楼閣と仏塔が見える。白塔山公園であろう。明日行ってみよう。小雨がぱらついてきたので、宿に戻る。

 
 第6節 チケットを求めて右往左往

 明後日、バスで武威へ行く予定である。宿の近くの西バスターミナルから乗ればよいことも分かり、ひと安心している。しかし、もう一つ心配がある。案内書によると、「甘粛省では外国人がバスに乗るためには省の定めた旅行保険への加入が義務づけられており、保険証書を提示しないとチケットを売ってくれない場合がある。特に蘭州や武威では徹底している」とある。もちろん、私はかかる保険には加入していない。保険への加入は旅行代理店や保険会社で行うらしい。

 となると、発車直前にバスターミナルへ行っても、この原則を適用された場合には、それからドタバタしなければならず、バスに乗れなくなってしまう。事前にチケットを購入しておいたほうがよさそうである。時刻はまだ17時、これからチケットを購入しに行ってこよう。

 西バスターミナルへ行き、チケット販売窓口に「后天上午 蘭州→武威 1張」と書いた紙を差し出す。すると、窓口の女性は何か中国語でわめいて、売ってくれない。何を言っているのかさっぱり分からない。困った。待合室の片隅に机が置かれ、初老の男が座っている。どうやら案内係らしい。そこへ行って、「我欲得售票 后天 蘭州→武威」と書いて示すと、男はいたって親切であった。「毎天9:30有一斑 為了安全其件尓汽車東站乗車」との回答が得られた。このバスターミナルでは乗車券の前売りはしないらしい。東バスターミナルから乗れということなので、事態は振り出しに戻ってしまった。

 ならば、バスはややっこしいので列車で行こうか。案内書を見ると、幸いに、列車の切符売り場が甘粛省博物館の近くにある。明日の朝一番で行ってみよう。

 9月22日。朝起きると今日も雨であった。9時に傘をさして博物館前の切符売り場に行った。所が、ガイドブックの地図に記載された切符売り場がない。さすが「地球の迷い方」と呼ばれるガイドブックである。こうなれば、列車で行くにせよ、バスにするにせよ、チケットを得るためには鉄道駅付近まで行かなければならない。まったくもぉ。何もかも思い通りにならずいらいらする。

 バスに乗って鉄道駅に行く。チケット販売窓口で「明天上午 蘭州→武威 軟座 1張」のメモを差し出すと、8時34分発烏魯木斉行き1085次列車の硬臥と硬座の席ならあるとの回答。硬臥の座席を得てやれやれである。これで何とか武威まで行ける。腹が減ったので、肉饅と思って買ったら、何と、これが素饅頭。どうりで3個1元と安かったはずである。雨が降り続いているが、せっかくここまできたので、駅付近の繁華街をしばらく歩き回ってみる。バスターミナルが大小あわせて幾つもある。駅前にある蘭州汽車站からも武威行きバスが多数出ている様子、何もそんなにジタバタしないでもよかったのかも知れない。

 
 第7節 白塔山

 懸案事項が片づいたので、午後から白塔山公園に行ってみることにする。黄河の左岸に聳える標高1,700メートルほどの山である。蘭州の標高が約1,500メートルであるので、麓からの標高差は200メートルほどである。山頂に白塔と呼ばれる仏塔が立ち、そこから黄河の流れと蘭州の市街が一望できるはずである。バスで「中山路口」まで行く。どこが中心ともつかない蘭州の街だが、強いて言えば、この辺りが中心なのだろう。大きなショッピングセンターやデパートが並び、道は人で溢れている。

 ぶらりぶらりと中山路を北上すると黄河に架かる「中山橋(黄河鉄橋)」の袂に出る。ここに「黄河第一橋」の碑が建てられている。全長233.5メートルのこの鉄橋は1909年に完成した。黄河に掛けられた最初の橋であったことから「黄河第一橋」の別名を持つ。

 渦巻く濁流を眺めながら橋を渡りきると、白塔山麓に達する。山頂に到るロープウェイもあるが、標高差200メートル、歩いて登ることにする。中腹には点々と楼閣や寺院がある。歩いて下ってくる人はいるが、登っているのは私一人である。20分程で山頂に達した。眼下に大展望が開けている。黄河の流れの向こうに、高層ビルの乱立する蘭州の街が立ちこめる雨雲の中に霞んでいる。ここは第一級の展望台である。山頂に立つ白塔は思いのほか小さい。高さ17メートル、白塔というより茶色塔である。元代の創建だが、現在の塔は明代に建て直されたものらしい。満足して山を下る。

 少々遠いが歩いて帰ることにする。1時間も歩けば着くだろう。黄河右岸沿いの遊歩道を上流に向って歩き始める。すぐに三蔵法師と孫悟空、沙悟浄、猪八戒の像に出会った。玄奘三蔵もここで黄河を越えて遥か天竺へと旅立っていったのだ。柳並木の遊歩道をテクテクと歩き続け、途中、西湖公園など見学して1時間半後に宿に戻り着いた。赤いチャイナドレスの女性4〜5人が話しかけてきたので筆談を試みる。18歳から25歳の娘で、ここに住み込んで働いている由。さすが、仕事の内容までは聞けなかったがーーー。

 部屋のテレビは、お国柄、中国語放送のみである。NHKなど間違っても映らない。天気予報を見ていて面白いことに気がついた。各地の予報を伝えていくのだが、何と、台北の予報も行っている。なるほど、中国の主張では、台湾は中国の一部なのだから。しかし、日本は歯舞、色丹の天気予報などしていない。全体主義国家と民主主義国家の違いであろう。明日も天気は悪そうである。

 
 第六章 鳩摩羅什の縁の街・武威

 第1節 武威への列車の旅

 9月23日。朝6時過ぎに起きると、外はまだ真っ暗で、予報通り雨が降っている。蘭州は年平均降水量が300ミリ程度の乾燥地帯だというのに3日間すべて雨であった。いよいよ今日から河西回廊の旅が始まる。ただし、いまだ首から肩に掛けての痛みは消えず、有り金も乏しい状況で果たしてどこまで行けるやら。差し当たり、今日は蘭州の北西約280キロに位置する武威に向う。

 7時、ザックを担いで部屋を出るが、受付には誰もいない。宿泊費は支払い済みゆえ、無断で去っても問題なかろう。カギはカギ穴につけたままにする。所が、門のシャッターが閉まっていて外に出られない。うろうろしていたら下働きの爺さんが出て来て、黙ってシャッターを開けてくれた。雨のしとしとと降る薄明りの街をバス停に急ぐ。早朝のためかバスはガラガラで、乗客のほとんどが通学の中学生であった。7時30分、駅前に着く。と同時に、雨が激しくなった。慌てて駅舎に逃げ込む。

 はじめ空席の目立った待合室もいつしか満席となる。8時20分ごろ、乗客が改札口に並びだしたが、何ごとかの放送があり、ざわめきが起きて列は散った。直後に電光掲示板の発車時刻標示が8時34分から9時8分に変わった。遅れるようである。その後も標示は9時18分、9時28分と変わり、9時15分に漸く改札が始まった。2列に並ばされ、ゆっくりゆっくりホーム近くまで誘導される。誘導が解かれた瞬間、先を争ってホームに突進する。慌てることはないと思うのだがーーー。烏魯木斉行き1085次列車は既に入線していた。

 切符に記された硬臥の席に行く。3段ベッドが2組み、計6ベッドが一組になっている。昼間は一番下のベッドを3人掛けとして使うと聞いていたが、ベッド仕様のままであった。私の席は下段、向いの下段に若い男がおり、二つの中段には兵士が寝ていた。二つの上段は空である。互いに会話はなく、目を合わせようともしない。私はひたすら窓の外を見続ける。

 発車してしばらくは蘭州の街並みが続く。実に長大な街だ。東西50キロもあるという。街並みが尽きると黄河がすぐ目の前に現れ、しばらく列車と並走する。不覚にも、ちょっとの間うとうとしてしまった。ハット目覚めると黄河の姿は既になく、荒涼とした大地が広がっている。どこかで黄河を鉄橋で渡ったはずである。やがて、両側から低い山並みが押し寄せる。山肌にはまばらに草が生えているだけで樹木はまったく見られない。緑豊かな日本の山とは大違いである。山並みが退くと、トウモロコシ畑や刈り入れの終わった麦畑が現れ、所々に見られるポプラの林は既に黄色く色づいている。煉瓦造りの粗末な家々の並ぶ小集落を幾つか過ぎるが、街らしい街は現れない。時々、ヤギの群れを見る。再び山並みが迫り、長い長いトンネルに入った。15分も続く。祁連山脈を越えているのだろう。トンネルを出ても低い山並みの荒れ地が続き、更に幾つもの小さなトンネルを潜る。

 大きな平地に出た。河西回廊に入ったのだろう。刈り取りの終えた麦畑がどこまでも続く。河床の定まらない川を何本か渡る。流れがあったり無かったり。11時40分、並走する道路に「武威まで86キロ」の標示を見る。あと1時間程度だろう。どういうわけか、列車は極端に速度を落とし、のろのろと進みだした。右側から線路が合流してきた。銀川からの線路だろう。武威は近い。小さな街並みが現れ、列車は初めて停車した。慌てて車掌に「武威か?」と聞くと「ウウェイ ナム」との答え。「武威南」のようである。

 ちょうど13時、列車は武威駅に到着した。思いのほか小さな駅で、4〜5人が下車しただけである。これまで、西安、銀川、蘭州と巨大な駅を経てきたので、ちょっと拍子抜けである。改札口を出る。小さな駅舎の前には大きな広場が広がっていたが、人影はまばらで、駅の周りに街並みも見られない。この駅は街から3キロほど南に離れた郊外にあるのだが、それにしても「田舎に来たなぁ」との感が強い。雨は上がっていたが、どんよりした天気である。

 駅前広場の片隅にミニバスが停まっていた。車掌に聞くと、街まで行くとのことなので乗り込む。バスはすぐに発車した。大通りを北へ10分も進むと、大きな城門(南城門)を潜り、街中に入った。街の中心地・「大什字」でバスを降りる。目の前に、「ほぉぉーーー」と思わず感心するようなきれいな街並みが広がっていた。街の真ん中を、モーニュメントや花壇に飾られた広々とした歩行者専用道路が東西に貫き、傍らにはこの街のシンボル・銅奔馬の像の立つ大きな広場がある。何とも先進的な感じのする美しい街である。

 どこか宿を見つけなければならないのだが、この街には適当な安宿が無い。案内書にも三つ星ホテルが二つ載っているだけである。何とか200元(約3,000円)以下で泊まりたいのだが。先ずは涼州賓館へ行ってみる。大きな門構えの立派なホテルであった。フロントの若い女性はニコニコしたかわいい子であったが英語はまったく通じない。「今天有空房?」と紙に書いて示すと、申し訳なさそうに「メイヨー(無い)」という。満室のようである。「他にどこか安いホテルはないか」と聞くと、「天馬賓館へ行け」と言う。この街一番のホテルである。宿泊費は高そうであるが仕方がないかーーー。立派なホテルの玄関を潜る。フロントは混雑していて15分も待たされ、いらいらする。おまけに、フロントの女性はニコリともせず感じが悪い。英語も通じない。これで街一番の高級ホテルとはーーー。値段を聞くと最低350元だという。ダメもとで、「請便宜(おまけして)」と書き示すと、何と、旧館ならば160元でよいとの答え。おまけに、朝食付きだという。嬉しくなった。部屋を見せてもらうと、備品もすべて揃っていてバスタブまである。大喜びでチェックインする。
 

 第2節 河西回廊と武威

 河西回廊は現在の甘粛省にあたる。この地は北に広がるゴビ砂漠と南に連なる祁連山脈に挟まれた狭い廊下で、祁連山脈の雪や氷河から流れ出る地下水が所々に豊かなオアシスを造り出している。従って、この地は、灼熱の沙漠によって隔てられた西方世界と中原とを結ぶ貴重な通路であり、商業上、戦略上の要衝であった。このため、古来、この地を巡って多くの民族が争い、興亡を繰り返した。

 この地に、中国の勢力が及ぶのは漢の武帝の時代(前141年〜前87年)からである。当時、この地に居住していたのは匈奴と呼ばれる遊牧民である。騎馬に長け、漢をもしのぐ勢力を誇っていた。漢は当初、匈奴に対し多くの金品を与え、宥和政策を採ったが、第三代皇帝・武帝にいたり、強固策に転じる。武帝は匈奴を挟撃するための同盟を結ばんとして、前139年、張騫をソグディアナ地方(現在のウズベキスタン)に拠る大月氏のもとに派遣する。張騫は途中匈奴に捕らえられ勾留されること10年余、脱出して大月氏に到る。しかし、同盟を結ぶに到らず、前126年、漢に帰国する。目的は果たせなかったが、張騫は西域に関する膨大な知識を漢にもたらした。

 前123年以降、漢は度々匈奴討伐の軍を発し、衛青、霍去病の活躍により匈奴を北方に追いやり、河西回廊の支配権を確立した。武帝はこの地を直轄地とし、武威、張掖、酒泉、敦煌の4郡をおいて支配体制を整えた。以降、この地は中央王朝が強大な間は中国の支配権が及んだが、弱体化すると周辺諸民族の支配を受けた。

 武威の歴史は武帝の河西4郡の設置に始まる。以後、支配民族は替われど、河西回廊の中核都市として発展を続けた。五胡十六国時代には地方政権である前涼、後涼、北涼、南涼の王都ともなった。その栄華の痕跡の幾つかは現在に残されている。特に、この地から出土した銅奔馬の青銅彫像と、高僧・鳩摩羅什がこの地に残した足跡は武威の宝として今なお輝き続けている。

 
 第3節 武威の街

 荷物を部屋に放り込むとすぐに街に出た。すでに14時、朝から何も食べていない。どこかに食堂はないものかとうろついてみたが、不思議なことに、どこにもない。ふと思いついて、西大街から路地を北に入った「涼州市場」に行ってみる。数十軒の小さな食堂が軒を並べ、一大食堂街になっていた。甘粛省名物の牛肉面(蘭州ラーメン)を食べてみたが、辛くて辛くて閉口した。

 先ずはこの街に入る際に潜った南城門に行ってみた。三層の城郭の持つ巨大な城門である。明代の建造らしい。この街も、当然、かつては城壁と城門を持っていたが、現在、城壁は既に無く、残された城門もこの南城門だけである。しかし、その巨大さにかつての武威の繁栄を偲ぶことができる。城門の南側は噴水などのある大きな公園広場となっている。

 南城門の外に出ると、賑やかな街並みは消える。街は以外に小さい。近くにバスターミナルが二つある。明後日、張掖まで行く予定なのでバスを調べてみると、両ターミナルとも張掖行きは頻発している。チケットを予約しておく必要はなさそうである。またもや、雨が降ってきた。慌てて宿に戻る。

 家に国際電話をしようとしたが、フロントも交換台も、商務中心も、どこに当たっても英語が通じない。街一番のホテルでも英語を解するものはいないらしい。銀川を出て以来、一言の英語も聞いていない。ふと思いついて、街の公衆電話から国際電話を試みたら見事に通じた。日が暮れると寒さがつのる。セーターを着ているのだがそれでも寒い。幸い、部屋には冷暖両用のエアコンがあったので助かった。

 
 第4節 大雲寺

 9月24日。朝起きるとまたもや雨であった。いったい何日降り続くのやら。いい加減いやになる。今日は1日武威の街を探索する予定である。先ずは、両替をしようと中国銀行へ行く。この銀行、接客態度がまったくなってない。パスポートを隣のデスクに投げ渡すわ、途中でお茶をいれて飲みだすわ。北京などの大都市では姿を消したひと昔前の共産主義の悪弊が色濃く残っている。街並みはきれいでも、やはりここは田舎町である。

 街の北東に位置する大雲寺に向う。この寺の鐘楼が名所とみえてガイドブックに載っている。10分も歩くと、街の景色が一変し、数10年も昔の古い街並みの残滓が現れた。煉瓦と土壁の平屋建ての家々が並ぶ。いかにも貧しげな茶色一色の街である。ただし、その貧しげな街並は到るところで取り壊しが行われており、その隣では、近代的な高層住宅の新築工事が急ピッチで進んでいる。まさにここは中国近代化の最前線である。

 大雲寺は平凡な寺であった。山門横に目指す鐘楼がある。10メートルほどの基壇の上に立つ2層の楼閣である。しかし、あくまで寺の鐘つき堂であり、西安や銀川で見てきたような街の中心に立つ鐘楼とは規模が違う。それよりも、山門前に掲げられた大雲寺の由緒が興味をひいた。おおよそ次ぎの様なことが書かれている。(原文中国語)

 『この寺の前身は前涼の王宮である。363年に寺に改築され、宏蔵寺となる。唐代の689年、朝廷が全国に大雲経を配り各地に大雲寺が建てられた。このためこの寺も大雲寺と改名された。西夏の時代は護国寺と称した。元末に兵火で寺は焼失した。明代の1383年、日本の浄土宗11代沙門志満が来訪し、寺を再建した。これは、日中文化交流の歴史的証である。1927年の地震で寺は壊滅したが鐘楼だけが残った』

 シルクロードの片田舎で、突然、時を超越して日本の僧の名前が現れたのにはびっくりした。志満なる僧は何者なのだろう。帰国してから調べてみたが分からなかった。なお、大雲寺への改名の経緯は、中国における歴史の一場面を現している。則天武后は中国の3大悪女として知られる。唐の帝位を簒奪して自ら帝位に就いた女傑である。彼女は自らの行為を正当化するために、女帝の出現を予言した大雲経という経典を大いに喧伝し、これを納める大雲寺を全国に建造した。大雲経は武則天におもねった者の偽作である。

 
 第5節 鳩摩羅什の縁の寺・羅什寺

 大雲寺を辞し、街の北部に位置する羅什寺に向う。名前の通り鳩摩羅什の縁の寺である。また。この寺の境内に建つ羅什寺塔は武威の象徴である。鳩摩羅什(350年〜409年)は五胡十六国時代に活躍した西域の僧である。多くの経典を漢語に翻訳し、大乗仏教の中国、朝鮮、日本への伝道に極めて大きな役割を果たした。鳩摩羅什は長安に行く前に16年間武威に留まり、ここ羅什寺で経典を講じた。

 鳩摩羅什は西域のオアシス都市・亀茲国(クチャ国)の王族の一人として生まれる。大乗仏教を学び、やがてその名声は中国にも伝わる。前秦の王・符堅は将軍・呂光をして、亀茲を討伐し鳩摩羅什を長安に連れ帰ることを命じた。呂光は384年、亀茲国を滅ぼし鳩摩羅什を拉致する。ところが、呂光は帰路、「前秦既に滅亡せり」の報に接し、武威に留まり自ら後涼を建国する。そのため、鳩摩羅什は武威に留めおかれた。401年、前秦の後、長安に興った後秦は後涼を攻め滅ぼし、拉致されていた鳩摩羅什を長安に向い入れた。鳩摩羅什は長安において草堂寺に拠り、三千人の僧を参加させ、97部427巻の仏典を漢訳する。

 最近再建されたと思われる真新しい大きな本堂の裏に、目指す羅什寺塔がすっくと起立していた。八角形で12層、高さは32mで、細長い四角の煉瓦を積み上げて造られている。羅什寺及び羅什寺塔は鳩摩羅什の功績を讚えて後涼時代に建造されたと考えられている。その後、、唐代に大幅に増築され、明、清代にも手が加えられた。また、羅什塔は1927年の大地震で倒壊し、1934年に建て直された。境内には人影はなく静まり返っていたが、僧房には僧侶の姿も見え、生きた寺であることが分かる。
 

 第6節 銅奔馬の出土した陵墓・雷台

 降り続く雨の中、北大街を北へ歩く。目指すはかの有名な銅奔馬を出土した雷台である。北関東路を越えると街並みも薄れ、武威の街が意外に小さいことが分かる。30分も歩くと雷台に着いた。入場料は50元(約750円)と高い。門を潜ると中は公園風にきれいに整備されている。正面に銅奔馬のモーニュメントが高々と建っている。花壇に縁取られた道を進むと、銅奔馬を先頭とした騎馬軍団の像が飾られている。雷台から出土した彫像の拡大レプリカである。その背後に雷台と呼ばれる高さ10メートルほどの丘がある。上部には雷神を祀った廟がある。

 中ソ紛争の最中の1969年10月、この雷台の下に防空壕を掘っていた地元民によって、偶然、後漢末の大型の煉瓦造りの古墳が発見された。そして、その墓室から副葬品として埋葬された多数の銅製品が発見された。中でも、「馬踏飛燕」と呼ばれる銅奔馬の彫像はこの時代の最高傑作といわれる。甘粛省博物館で見たあの銅奔馬である。高さ34.5センチ、長さ45センチの像である。天馬のごとく躍動感溢れるその姿は、いまだ目に焼き付いている。

 案内の女性に従い墓道に入る。19メートルの墓道の奥に3個の墓室がある。その一番奥の墓室に、軍団のレプリカが出土した際と同じ配置で飾られていた。

 
 第7節 文廟と西夏博物館

 雨も何とか上がった。いったん街まで戻り、昼食後、街の南東に位置する文廟に向う。文廟とは孔子廟のことである。31元(約465円)の入場料を払い門を潜ると、広大な敷地に多くの楼閣や廟が並んでいる。ここ武威の文廟は、南北170メートル、東西90メートル、甘粛省最大の規模を誇る。明代の1439年創建である。ぶらりぶらりと境内を歩き回るが、別段目を引くものもない。

 この文廟で是非見たいものがある。西夏碑(正式には重修護国寺感応塔碑)である。表に西夏文字、裏に漢字が刻まれた碑である。西夏文字は西夏王国で使用された文字だが、1227年の西夏滅亡とともに忘れ去られ、解読不能の文字となった。この碑がその解読に大きな役割を果たした。いわばロゼッタ石となったのである。

 境内をうろついたが目指す碑が見つからない。係員に聞くと、門外の道を挟んだ広場の一角にある真新しい建物を指し示した。行ってみると、ここは「武威西夏博物館」で、目指す碑は玄関ホール奥の特等席に誇らしげに飾られていた。

 
 第七章 マルコ・ポーロの縁の街・張掖

 第1節 張掖へのバスの旅

 9月25日。朝起きると、今日もまた雨であった。5日間連続の雨である。乾燥地帯にいるというのにいったいどういうことなんだろう。今日はバスで武威の北西約240キロに位置する張掖に向う。8時30分チェックアウト。部屋だけは超満足なホテルであった。歩いて10分程の西バスターミナルへ行く。ちょうど張掖行きの小型バスが、出入り口から半分顔を出し、発車の構えで停まっている。心配が一つだけある。蘭州でも心配したが、旅行保険加入の問題である。しかし、杞憂であった。、窓口では何事もなく張掖までの切符を得ることができた。

 22人乗りの小型バスは定刻9時に出発。これから約4時間の旅である。バスにはおばちゃんの車掌が乗車している。ただし、乗客は6人きり乗っていない。市内は客を求めてをのろのろ運転、郊外に出て漸くまともに走り出した。しばらくはトウモロコシ畑と刈り入れのすんだ麦畑が続く。やがて大地は荒れだした。畑は疎となり、礫の堆積した荒野が現れ始める。所々、大地を掘って砂利を採取している。更に進むと、草のまばらに生えた荒涼とした砂礫の大地の広がりが現れる。左手から迫ってきた低い山並みには1本も立ち木は見られない。山肌は茶色一色である。時々小さな集落が現れる。その周りだけは林や畑が見られる。何人かの乗客が乗り降りする。

 1時間ほど走ったところで、困ったことが生じた。トイレに行きたい。車掌にその旨訴えるが、もう少し我慢しろとのジェスチャー。降車客のためにバスが停まった瞬間、強引に降りてタチションをしてしまった。車掌の軽べつ的視線が気になる。東南アジアではタチションは日常的行為であるが、中国人は絶対にしない。出発から1時間半ほどでちょっとした街に入った。永昌と思われる。バスは小さなバスターミナルへ入って10分程のトイレ休憩となった。雨が相変わらず降り続いている。おまけに寒い。

 ここから高速道路に乗った。すぐに猛烈な霧の中に突入した。辺りは完全にホワイトアウト、視界は数10メートルしかない。その中をバスは速度を落とすこともなく突っ走る。交通量は多くはないが非常に怖い。15分も走ると、突然霧の外に出た。と同時に、とてつも無い風景が、窓の外一杯に広がっていた。まばらに草の生えた砂礫の大地が地平線まで広がっている。ただ、ただ、何もない大地の広がりである。あぁ、これが「ゴビ」なのか。ゴビ沙漠ともゴビタン(難)とも呼ばれる広大な乾燥した荒れ地である。ゴビはサハラ砂漠などのように砂丘が連なる砂の大地ではない。砂礫と黄土の大地に背の低い草がまばらに生えた荒野である。日本では「ゴビ砂漠」の名称が一般的だが、「ゴビ(GOVI)」とはモンゴル語で砂漠を意味する。従って「ゴビ砂漠」は畳語である。中国では「ゴビタン(灘)」と呼ぶ。

 地平線まで続く真っ平らな荒野の中を一本の高速道路だけがどこまでも続いている。しかも雨が降っている。雨の砂漠とは珍しい。何もない原野の中に、突然一筋の壁が現れた。高さ2〜3メートルの単純な土壁である。万里の長城だ! 所々破れた箇所はあるものの、壁は高速道路に付かず離れず延々と続く。不思議な光景である。おそらく漢代の長城であろう。北京近郊の八達嶺などで見られる煉瓦を積み上げた立派なものではない。何の変哲もない土壁そのものである。いったいこんな壁が何の役に立つのだろう。しかも、この無人の荒野の中に建造した莫大な労力を考えるとーーー。やがて壁の連なりは車窓の右から左に移り、次第に高速道路から離れ、視界の彼方に消えていった。

 前方地平線に、黒い点が現れた。点は次第に大きくなりオアシスであることが知れる。バスは高速道路を降り、崩れかかった烽火台の跡と思える土の塊を過ぎると街に入った。山丹の街である。山丹は天馬の故郷である。漢代よりこの地に大規模な牧が開かれ、軍馬の生産が行われた。軍馬はもちろん、漢の武帝が遠征軍を送ってフェルガナ地方から漸く手に入れたあの汗血馬である。甘粛省博物館で見た「馬踏飛燕」の馬である。

 バスは街のターミナルに寄ることもなく、再びゴビの荒野へと出ていく。舗装はされているもののかなりのガタガタ道である。再び長城の連なりが現れ、バスと並走する。保存も改修もされず、時の流れに身を任せたままの長城は言い知れぬ感傷を心に湧き起す。やがて行く手に大きな街が見えてきた。張掖である。バスは東から街に入り、北側を大きく迂回して、街の西端にあるバスターミナルに滑り込んだ。時刻は12時50分である。雨がなおも降り続けている。

 この街もガイドブックには安宿が紹介されておらず、宿のあてはない。現在位置が明確なので、歩いて街の中心部に向う。並木の続く道路は広く、街並みは美しい。街の規模は武威と同じ程度と思われる。雨の中を20分も歩くと、街の中心に建つ鐘鼓楼に達した。その近くの甘州賓館に行く。三つ星の立派なホテルである。受付には3人の若い女性がいたが、当然英語はまったく通じない。ただし、ニコニコした可愛い子だ。掲げられた料金は348元(約5,220円)であったが、交渉の結果、148元(約2,220円)で合意した。しかも、朝食付きである。バスタブはないものの大きな立派な部屋であった。
 

 第2節 張掖探索

 時刻はちょうど14時、すぐに街に出る。張掖は漢の武帝が河西回廊に置いた4郡の一つである。4郡のうち最も豊かな街であり、「金の張掖、銀の武威」と称された。張掖のシンボルはマルコ・ポーロである。彼はこの街に1年の長きに渡り留まった。

 先ずは、街のど真ん中のロータリーに建つ鐘鼓楼に行く。正式名称は「鎮遠楼」である。創建は明代の1507年、清代の1668年に改修された。従ってマルコ・ポーロはこの鐘鼓楼を見ていない。高さ9メートルの基壇の上に高さ25メートルの2層の楼閣が建つ。楼の四方にはそれぞれ扁額が掛かっており、東は「金城春雨」、西は「玉関暁月」、南は「祁連晴雪」、北は「居延古牧」である。金城とは張掖のことであり、祁連は河西回廊の南に連なる祁連山脈、玉関は敦煌の西にある玉門関である。そして、居延とは内蒙古自治区のエチナ河下流域のオアシス地帯をいう。シルクロードのロマンを感じさせる扁額である。

 張掖の最大の見所である大仏寺を目指す。鐘鼓楼から南に続く大通りを10分も進むと、右側に白い巨大な仏塔が現れた。大仏寺の土塔である。ずんぐりしたチベット式の仏塔で、高さ33メートルある。しかし、ここからは境内に入れない。大きく西側に回り込むと、大仏寺の参道に出た。昔風の街並みに整えられた柳並木の美しい小道である。すぐに山門に達した。拝観料は41元(約615円)であったが、老人半額の標示があった。

 この寺は西夏時代の1098年創建で、西夏の仏教文化の香りを今に残す寺院である。巨大な涅槃仏が祀られていることで知られ、マルコ・ポーロも「東方見聞録」の中に記述を残している。また、元の初代皇帝クビライはこの寺で生まれたと伝えられている。山門を潜ると、牌楼、大仏殿、蔵経閣、土塔が一直線上に並んでいる。大仏殿は巨大な伽藍で、幅48メートル、奥行き25メートル、高さ20メートルある。中には建物いっぱいに大きな涅槃像が横たわっている。身長34.5メートル、肩幅7.5メートル、木の心の泥塑像で、朱色に金彩を施した法衣を身にまとっている。室内の涅槃仏としては中国最大である。蔵経閣は書画、仏像などの展示場になっていた。ハタと気づいたが、この寺には僧侶の姿はない。既に死んだ寺である。

 大仏寺を辞し、張掖のもう一つの見所・万寿寺木塔に向う。10分程西に向うと、花壇を配した大きな広場の向こうに古風な塔が見えた。ただし、塔の周囲が工事中で景観を著しく害している。見学者は誰もいない。この塔はもともとは万寿寺の塔であったが、万寿寺そのものはすでに失われている。随代の582年創建だが、何度も改修され、現在の塔は清代の1926年に再建されたものである。八角9層で高さは32.8メートルある。一層から七層までは、塔身は煉瓦、外周は木造、八層九層はすべて木造である。木造の箇所は釘を使わずに木組みだけで造られている。最上階まで登ることができる。狭い階段をふぅふぅいいながら登ってみる。展望は絶佳で張掖の街が一望できた。

 これで、張掖の名所旧跡は一通り見終わったことになる。さらに街を歩いてみよう。明清街に行ってみる。名前の通り、明代、清代の古い街並を再現した通りである。通りは歩行者専用となっており、両側には古風な造りのレストランが並ぶ。柳並木の実にきれいな通りであった。夕食はここへ来よう。明清街の西隣の通りが欧式一条街である。西洋式の白い大理石造りの街並みとなっている。通りの北入り口にマルコ・ボーロの像が立つ。何やらローマの貴族のような姿で、偉大な旅人・マルコ・ポーロのイメージとはほど遠い。

 更に、街中をあてもなく歩き回る。この街も街造りのコンセプトが確りした美しい街である。夜10時前、部屋の電話が鳴った。若い女性が中国語で何か言っている。武威のホテルでも同様な電話が毎晩かかってきた。中国語が分からないのが残念である。

 
 第3節 黒水国城堡遺址

 9月26日。朝起きるとまた雨である。これで6日連続、日本の梅雨だってこれほどは連続しない。いったいどうなっているのだろう。今日は黒水国城堡遺址に行く。張掖の街の北西17キロにある城跡である。案内によると、この城は文献にはいっさい記されておらず、その実態はまったく謎であるとのことである。いまだ、詳細な調査もされず、保存処置も施されず、荒れた城跡がゴビの中に横たわっているとのことである。

 タクシーをチャーターして行かざるを得ないが、昨日、フロントの女の子に聞くと、待ち時間も含め往復100元が目安とのこと。9時30分出発、ホテル前でタクシーを拾う。交渉の結果60元(約900円)で合意した。人のよさそうな30代の運転手である。もちろん、英語はYes,No も通じない。いろいろ話しかけてくるが、もとより理解不能である。途中、郊外の自分の家に寄り、何事かと思ったら、私のために傘を用意してくれた。ポプラ並木の街道を行く。周りはトウモロコシ畑である。10キロほど走ると、黒水河を渡った。祁連山脈から流れ出し、ゴビの中に消える川である。河床の定まらない流れであるが、水量は豊富である。有料道路となり、運転手は3元(約45円)払った。街から15キロほど走り、幹線道路から左に外れて、地道のガタガタ道を少し入ると目指す城址に着いた。

 わずかに潅木の茂る黄土と砂の荒れ地の中に崩れかけた土塁を巡らした古城がひっそりと横たわっている。辺りに人影はない。雨がしとしとと降っている。何とも言えない寂寥感が辺りを支配している。四方を囲む土塁は東西約250メートル、南北約220メートルの方形で、角楼の跡もわずかに確認できる。城内はヤギの足跡のみ残る廃虚で、建造物の痕跡は何も残っていない。ただただ土器の散乱する砂の荒れ地が広がっているだけである。この城も、かつてはシルクロードの賑わいの中に身を置いていたのだろう。雨の中に一人たたずみ、昔を思う。

 11時には宿に帰り着いた。午後からはもうやることもない。雨は本降りとなっている。夕方、雨が止んだので街に出てみる。到るところ水溜まりだらけである。沙漠の中の街ゆえ排水施設がないのだろう。明日は酒泉に向う。
 

        (北京、河西回廊4に続く)

 

 アジア放浪の旅目次に戻る    トップページに戻る