おじさんバックパッカーの一人旅   

クメール遺跡を巡る旅(1)  イサーン編 

イサーンの大地に残る壮大な遺跡を訪ねて

2007年10月29日

    〜11月5日

 
第1章 旅立ち
 
書き溜めた旅行記を出版することとなり、校正作業に追われた。ようやく一段落ついたので、出版を待たずに旅立つことにした。本来、パキスタンへ行くつもりでいたのだが、報道されるパキスタン国内情勢はかなり危険な匂いがする。やはり命は惜しい。諦めて、タイ・イサーン地方→南ラオス→カンボジアを巡る「クメール遺跡巡礼の旅」をしてみることにした。

 クメール遺跡とはアンコール王朝の遺構であり、その多くは寺院遺跡である。アンコール王朝はアンコール(現在のシュムリアップ)の地を王都として西暦802年に建国されたクメール族の王国である。この王朝は、1431年にタイのアユタヤ王朝に滅ぼされるまでの600年余の間、インドシナ半島に覇を唱え続けた。インドシナ半島に現れた史上最大の王国であり、11世紀〜12世紀の最盛期にはインドシナ半島のほぼ全域を支配した。この王朝にあっては、「前王に勝る建造物を建造することが王の王たる証」とされたため、歴代の王により寺院等の多くの建造物が建造された。アンコールワットやバイヨン寺院はその代表的建造物である。アンコール王朝の中心的支配地域であったカンボジア、ラオス南部、そしてタイのイサーン地方には今なお多くの建造物が残されている。これらの遺構を巡り、遠い過去を偲んでみるのも一興である。
 
 10月24日(水)。いつものように成田発12時のエア・インディア(AI)に乗るべく空港に行ったのだが、「インドからの便が来ないので出発が何時になるかわからない」とのこと。他便への振り替えを交渉したところ、11時発のタイ・エア(TG)に振り替えてくれた。TGの方が遥かにグレードが上であり、しめしめである。AIとTGとは発着ターミナルが異なるので、急いで連絡バスで第2ターミナルから第1ターミナルに移動する。しかし、TGのチェックインカウンターへ行くと、「何も聞いてない」と言う。何やかんやで、出国手続を済ませて搭乗待合室へ行くと、既に搭乗が始まっていた。

 夕方17時、無事にバンコクのSuvarnabhumi空港に到着したのだが、タイ入国に当たって心配が一つある。タイは30日以内滞在に限りビザなしで入国出来るのだが、「30日以内に出国する航空券を保持していること」との条件がある。私はこの条件を満たしていない。保持している帰国航空券は1ヶ月半先のものである。従来、イミグレーションで手持ち航空券をチェックすることはなかったのだが、最近、どうも入国審査は厳格になっているらしい。入国を拒否されたらどうしよう。びくびくしながらイミグレーションに行くと、そこはホールに入りきらないほどの長蛇の列であった。これほどの混雑は見たことがない。そのためか、航空券の提示を求められることもなく、無事に入国出来た。
 
 10月25日(木)。カンボジアのビザを取得するべく、ルンビニ公園近くのカンボジア大使館へ行ったのだが、何と、何と、大使館は郊外に移転していた。1年前にはここでビザを取ったのだがーーー。アライバル・ビザを取るよりしかたなかろう。明日から3日間、チェディ・サム・オンへ小旅行した後、「クメール遺跡巡礼の旅」に出発するつもりである。

 
第2章 タイ・イサーン地方の旅
 第1節 コラートとその周辺
 
 10月29日(月)。朝6時、中華街の安宿をチェックアウトし、ホアランポーン駅に行く。これから約1ヶ月掛けて、クメール遺跡を巡るつもりである。タイのイサーン地方から南ラオスを経てカンボジアに入り、アンコール王国の王都・シュムリアップを目指す。差し当たり、今日はイサーン地方の中心都市・ナコーン・ラーチャシーマーまで行く予定である。

 早朝にもかかわらず、駅は既に多くの人々でごった返していた。6時40分発快速135号の2等指定席が取れてほっとする。ナコーン・ラーチャシーマーはバンコクの北東255キロに位置するイサーン地方の中心都市で、一般的にコラートと呼び慣らされている。バスで行けば3時間ほどなのだが、列車だと5時間半掛かる。しかし、私は列車を好む。定刻に発車した列車は、乗車率60%程度であったが、停車するたびに乗客は増え、いつしか満席となった。乗車券を持たず顔パスで乗っている輩が数人おり、空席を求めてあちこち移動している。日本でも国鉄時代にはこういう輩が多数いた。

 列車はアユタヤ、サラブリーと進んでいく。車内はひっきりなしに物売りが行き来する。冷房はなく、開け放された窓から吹き込む風が心地よい。やがてバンコク平原が尽き、列車はガクンと速度を落とし、坂道を懸命に登り始める。コラート高原への登りである。タイの東北部であるイサーン地方はコラート高原と呼ばれる標高100m〜200mの平原である。そもそも、「コラート」とは平原を意味する言葉である。

 右手にLam Takhong 貯水湖を見ると、見渡すかぎりどこまでも大地の続く大平原に達した。13時少し前、列車は20分ほどの遅れでナコーン・ラーチャシーマー駅に到着した。付きまとうトゥクトゥクの運転手を振りきって、街中へと歩を進める。この街は2005年6月に一度訪問しており勝手は知っている。街中のシーバッタナー・ホテルにチェックインする。大きな立派なホテルだが、朝食付き615バーツと手ごろな料金である。

 ナコーン・ラーチャシーマーの街は17世紀に建設された比較的新しい街であるが、この辺りはアンコール王朝の重要な拠点であった。そのため、近郊にはタイのアンコールワットと呼ばれるピマーイ遺跡等いくつかのクメール遺跡か存在する。ピマーイ遺跡は2年前に既に訪れたので、今回は市内の北東約20キロにあるパノム・ワン遺跡を訪問するつもりである。

 パノム・ワン遺跡に行くべく午後14時、ホテルを出る。今日もかんかん照りである。この遺跡はかなり交通不便なところのようなので、フロントで遺跡への行き方を聞いたのだが、「そんな遺跡は知らない」と言う。トゥクトゥクをチャーターしようと思い、二人ほど運転手に聞いたのだが、いずれも「知らない」と言う。さて困った。こうなれば意地でも行ってやる。歩いて第1バスターミナルへ行く。このターミナルからは近距離のバスやソンテウ(トラックバス)が発着している。ソンテウの運転手に聞くと、4144番のソンテウに乗れという。小型のソンテウは数人の乗客を乗せてすぐに出発した。郊外に出ると乗客は次々と降り、私一人になってしまった。ソンテウは国道を離れ狭い田舎道を進んでいく。何となく不安である。30分ほど走った十字路でソンテウは停まり、運転手が「ここで降りて、そこの店でオートバイを頼め」と道端の商店を指さす。教えられた店に行くと、そういう勝手になっていると見え、すぐにオートバイで送ってくれた。20バーツ、3キロほどの距離であった。

 よく整備された敷地の中に、周りを回廊で囲まれた祠堂が1基だけ建つ中規模の寺院遺跡であった。基礎構造材は砂岩であるのだが、煉瓦による修復がなされているため、原形の雰囲気を著しく壊している。レリーフの類いは余り残っていないが、遺跡に隣接して管理小屋の庭に、彫刻を施したいくつかのまぐさ石が置かれていた。この遺跡はピマーイ遺跡より30年ほど古い11世紀末に建造されたとのことである。日本では鎌倉幕府が開かれたころである。木陰に座り込んで、遠い昔に思いをはせる。私以外見学者は誰もいない。

 さて、帰りはソンテウの通る道まで歩く以外なさそうである。覚悟を決めて歩き出そうとしたら、管理人が「オートバイで送る」と申し出た。20バーツ取られたが、炎天下を歩かずにすんだ。いったんホテルに戻り、明日スリンに行くつもりなので、駅に切符を買いに行く。しかし、満席とのことであった。仕方がない、バスで行くことにする。
 
 第2節 スリンとその周辺
 
 10月30日(火)。昨夜は、ホテルのプールサイドの野外食堂から流される大音響の音楽が、何と、真夜中の12時過ぎまで続き、うるさくて寝られなかった。何というホテルなんだ。あきれ果てる。お陰で、目を覚ましたら8時過ぎであった。9時チェックアウト、長距離バスの出る郊外の第2バスターミナルへバイタクで行く。スリン行きのバスはすぐに出発した。例によって市内は客を求めてノロノロ運転、すぐに満席となった。私の隣は軍服姿の若い兵士であったが、途中で乗り込んできた幼い子供にさっと席を譲った。長距離バスで席を譲るのは勇気がいる。彼はそれから2時間立ちっぱなしであった。

 約2時間走ってNang Rongの小さなバスターミナルで停車。すぐに発車の構えなので、車掌に断って急いでトイレへ。歳をとると近くて困る。外は雨が降り始めている。バスは田園地帯をひた走り、Prakhon Chai、Prasatのバスターミナルに寄って、スリンの街並みに入った。車窓に、スリンの初代領主ルアン・スリン・パクディ(チアンプム)の像を見る。乗客の何人かは像に向かってそっと手を合わす。その近くには数頭の象の像も建つ。スリンは象の街である。バスはすぐにスリンのバスターミナルに到着した。約4時間のドライブであった。ガイドブックに「スリン随一の高級ホテル」とあるThong Tharin Hotelへ行く。実に立派なホテルであったが料金は700バーツと手頃であった。

 傘をさして街に飛びだす。未知の街の探索である。先ずは、先ほどバスから眺めたルアン・スリン・パクディの像に行ってみよう。街を南北に貫くJibumroong Rd.を南に向かう。意外と大きな街だ。右手に大きな寺院がある。ワット・プラ・パーラムである。さらに進むと大きな敷地を持つ県庁があった。左手に濠が現れる。昔の環濠の跡なのだろう。雨の激しく降る中、30分も歩いて、ようやくルアン・スリン・パクディの像の建つロータリーに到着した。巨大な二本の象牙が飾られ、その背後に薙刀を持ち、銃を背負ったルアン・スリン・パクディの精悍な像が立っている。

 18世紀後半の話しである。この地にチアンプムというクイ族の族長がいた。クイ族は野生の像を捕らえ訓練することを得意とする少数民族である。ある日彼は、聖なる象とされる白象を捕らえ、後のラーマ1世に献上した。ラーマ1世は即位後の1786年、彼に「ルアン・スリン・パクディー」の名称を与え、初代の知事に任命した。同時に県の名前を彼の称号一部を取ってスリンと名付けた。以降、ルアン・スリン・パクディーはスリンの創始者として崇められ続け、象はスリンの象徴となった。毎年11月に開催される象祭りには全国から数百頭の象が集まるという。ルアン・スリン・パクディーの像の側にはクイ族の像使いの跨がった実物大の数頭の象の像が並んでいる。眺めていたら、何と、一頭の本物の象が現れ、雨の降る中悠然と街中へ歩いて行った。

 市場を覗き、鉄道駅まで行ってみる。駅前にも象の像が立っていた。ホテルに戻り、明日、バノム・ルン遺跡へ行くつもりなので、フロントの女の子に行き方を相談したのだが、英語はさっぱり通じない。ニコニコしたかわいい子なのだがーーー。
 
 10月31日(水)。今日はパノム・ルン遺跡及びその近傍にあるムアン・タム遺跡を目指す。パノム・ルン遺跡はカンボジアとの国境近くの丘の上に立つ壮大なクメール遺跡である。ガイドブックによると、行き方は「ナコーン・ラーチャシーマー行きのバスに乗り、バーン・タコで降りて、そこからバイクタクシーをチャーターする」と言うことらしい。朝起きると、今にも降りだしそうなどんよりした天気である。しかも肌寒い。地元の人は上着を着込んでいる。バスターミナルより8時発のナコーン・ラーチャシーマー行きのバスに乗る。ちょうど昨日のルートを途中まで戻ることになる。車掌に「パノム・ルン遺跡に行く」と念を押しておく。

 バスはがらがらのまま発車したが、市内を抜けるころには満員となった。通勤通学客が多い。30分ほどでプラサートのバスターミナル着。大勢の乗客が降り、バスはがらがらとなる。さらに45分走ってPrakhon Chaiのバスターミナルへ。車掌にことわってトイレに駆け込む。バスは私を待ってすぐに発車した。田園風景の中を20分も走るとバスは停まり、車掌が「ここで降りろ」と言う。バーン・タコのようだ。降りたのは私一人であった。三叉路となっていて、数台のバイタクが待機している。ただし、周りは何もない。バイタクを仕切っているらしいおばちゃんが寄って来て、「パノム・ルン遺跡だけなら往復500バーツ、ムアン・タム遺跡も行くなら往復800バーツ」と宣う。恐ろしいばかりのぼったくりである。2つの遺跡を回って300バーツがいいところだと思うが。何とか500バーツまで値切ったが、ぼったくられた観は否めない。とは言っても、他に交通手段はない。完全に足下を見すかされている。

 バイクは三叉路から南に向かう道を時速80キロもの猛スピードでぶっ飛ばす。パノム・ルン遺跡まで13キロのほどの道程である。前方の低い山並みが次第に近づいてくる。小集落で左に折れ、坂道をグイグイ登っていく。登りきるとパノム・ルン遺跡の入り口に達したが、運転手は「先にムアン・タム遺跡へ行く」と言い、山を反対側に下る。下りきった小集落の端でバイクは止まった。ムアン・タム遺跡である。傍らには満々と水を湛えたバライ(人工の貯水池)がある。

 木々と芝生で公園風によく手入れされた広大な敷地の中に、思いのほか大きな寺院遺跡がゆったりと建っていた。意外なことに、見学者はだれもいない。ムアン・タム遺跡は10世紀〜11世紀に掛けて建造されたヒンズー教寺院である。イサーン地方のクメール遺跡としては、カオ・プラ・ヴィハーン遺跡を別格とすればパノム・ルン遺跡、ピマーイ遺跡に次ぐ規模の遺跡である。左右対称の構造で、塔門を持つラテライトの外壁と砂岩の内回廊に囲まれた中央に煉瓦造りの4つの祠堂が建っている。中央祠堂は完全に崩壊し、現在は基礎部分を残すのみである。破風やまぐさ石には多くのレリーフが残されていて、なかなか見ごたえがある。外壁と内部回廊の間には4つの蓮池があり、ナーガ(聖蛇)の欄干で縁取られている。池の蓮は深紅の花を咲かせていた。充分に満足して、バイクに戻る。

 再び山を登り、パノム・ルン遺跡に向かう。パノム・ルンとはクメール語で大きな丘を意味する。標高383mの死火山の頂に建てられたの神殿と、その斜面を利用した参道が一体となった壮大なヒンズー教寺院である。建設時期はアンコール・ワットと同時期の12世紀と考えられている。ピマーイ遺跡とともにイサーン地方の代表的なクメール遺跡である。アンコール王朝は王都・アンコールから放射状に四方に延びる街道を整備した。王道と呼ばれるこの街道の一つはカンボジア/タイ国境のダンレック山脈を越えてイサーン地方へと延びていた。ムアン・タム遺跡もパノム・ルン遺跡もこの街道沿いに建てられた寺院である。

 パノム・ルン遺跡は、ムアン・タム遺跡と違い、多くの見学者で賑わっていた。黄色い衣を着た僧侶の姿が目立つ。お土産物屋の並ぶ道を少し進むと、遺跡入り口となる。石段を登ると長大な参道に出た。長さ160m、幅7mの石畳の参道である。参道の先には急な石段が壁のように立ちはだかり、その奥に尖塔のごとくそそり立つ中央祠堂が望まれる。参道を進む。両側には石灯籠が等間隔で並ぶ。どの解説書も、この石灯籠を「蓮の蕾の形をした」と形容しているが、私には「リンガ(男根、ヒンズー教においてはシバ神の象徴)」に思える。

 石段を少し登ると、5つの頭を持つナーガ(聖蛇)が欄干となったテラスに出る。このナーガはよく原形を留めており、実に見事である。さらに急な石段を息せき切って登り上げるとようやく山頂に建つ本殿に達した。二人連れの若い女性が「日本の方ですか。すいませんシャッターを押して下さい」と流暢な日本語で話し掛けてきた。10年間日本に住んでいたとか。「ヌン、ソン、サム」とタイ語でシャッターを押してやったら、「イチ、ニー、サン」と日本語で私のシャッターを押してくれた。本殿は88m×66mの回廊に囲まれ、中央にピンク色の砂岩で築かれた中央祠堂がそそり立っている。神殿の外壁は到るところ精緻な浮き彫りで飾られ、実に見ごたえがある。神殿の裏側に出てみると、大きく展望が開け、どこまでも続くイサーンの大地が望まれる。

 12時前、バーン・タコのバス停に戻る。10分ほどでスリン行きの豪華バスがやって来た。時刻もまだ早いので、途中、プラサートのバスターミナルで降り、バーン・プルアン遺跡に行ってみることにする。ターミナルで往復60バーツでバイタクをチャーターする。片道4キロほどの距離であった。天気は回復し、南国の太陽が激しく照りつける。到着した遺跡は少々がっかりするものであった。外壁で囲まれた芝生の広場に、2mの基壇の上にただ1基の祠堂がぽつんと建っているだけである。しかも、祠堂の上部は失われている。祠堂にはいくつかの浮き彫りは見られるがーーー。ただし、入場料30バーツだけはしっかり取られた。この遺跡は11世紀に建てられたヒンズー教寺院である。もちろん、他に見学者はだれもいない。

 14時にはスリンに帰り着いた。夕方から再び雨が降りだした。どうも天気が不順である。夕食時ホテルの食堂で、「イサーン料理が食べたいので、何か推薦してくれ」と英語で言ったが全然通じない。係の者が次々にやってきて一騒動となってしまった。家に国際電話をしようとホテルのオペレーターを呼びだしたのだが、ここでも英語が通じない。1流ホテルの店構えだが、やはり田舎町である。
 
 11月1日(木)。今日はスリンの東約40キロのシー・コーラプームの街にOne Day Tripする。この街にあるシー・コーラプーム遺跡を見学する予定である。9時過ぎにバスターミナルへ行く。今日はいい天気である。バスはすぐわかったのだが、発車したのは10時であった。横5座席の典型的なローカルバスである。ところが、5分も走ると、バスは停車。運転手は降りて道端の屋台に座り込んでしまった。10分停車の後、ようやく動き出したが、市内は客を求めてノロノロ、郊外に出てようやくまともに走り出した。黄色く色づいた田園の中をバスはひたすら走る。約1時間走り、最初に現れた街がシー・コーラプームであった。意外に遠かった。バスターミナルはなく、駅前で降りる。すぐにバイタクで遺跡に向かう。1.5〜2キロの距離であった。

 遺跡は芝生で公園風にきれいに整備され、U字型の池で囲まれた高さ1.5mの基壇の上に5基の祠堂が並んでいる。12世紀に建造されたヒンズー教寺院だが、16世紀に仏教寺院に改修されたとのことである。修復は終了しているが、かなり粗っぽい修復である。驚いたことに、管理人が日本語を話す。日本で4年間働いたとのことである。バイタクの運転手は、スリンに帰るというと、駅前のミニバス乗り場へ連れていってくれた。9人乗りのワゴン車はすぐに出発、路線バスと違ってこちらは早い。12時半にはホテルに帰り着いた。

 昼食後、あてもなく街をぶらつく。それなりの大きさの街であるが、デパートもショッピングセンターもない。コラートの街にはなかったサムロー(輪タク)が多い。一歩裏通りに入ると、タイ族伝統の高床式家屋が多く見られる。
 
 第3節 シー・サケットとその周辺

 11月2日(金)。今日はスリンから114キロほど東のシー・サケットへ行く。8時前にザックを担いでバスターミナルへ行くと、いつもの通り、「どこへ行く」と男が声を掛けてきた。「シー・サケット」と3度言い直したが通じない。タイ語で表記されたガイドブックを見せてようやく通じた。ところが、男はバスターミナル近くの民間バスの営業所に案内する。「んんんーーー。ミニバスでもあるのかな」。発車は8時30分とのことだが、運賃を聞いてびっくりした。212バーツだという。想定価格の3〜4倍である。ぼられているのかと思ったが、私の名前まで打ち込まれたチケットが発行されるところをみると正規の値段のようだ。やがてチェンマイからやってきたバスを見てようやく納得した。「これがVIPバスというやつなのか」。民間バス会社の運行する超々豪華バスである。いつも路線バスばかり乗っている私には今まで無縁であった。

 座席数32のゆったりしたリクライニングシート。もちろんトイレ付きである。毛布もある。実に快適である。発車してすぐに牛乳とミネラルウォーター、スナックが配られた。バスは途中停まることなく、わずか1時間30分でシー・サケットのバスターミナル隣接の営業所に着いた。ガイドブックに「町で1番の高級ホテル」とあるケッシリー・ホテルに行く。料金は朝食付きで600バーツとまぁまぁであるが、スリンのトン・タリン・ホテルに比べると設備は大分落つる。もちろん英語も通じない。

 午後から、シー・サケットの西24キロのウトゥムポン・ピサイの街にあるサ・カンペーン・ヤイ遺跡に行ってみることにする。バスターミナルには英語標示があったのでウトゥムポン・ピサイ行きバスはすぐにわかった。小型の超おんぼろバスである。5分後の13時に発車するという。バスはわずか3人の乗客を乗せて定刻に発車したのだが、駅前で15分の長期停車、満席となってようやく再出発した。刈り入れの進む稲田の中をバスはこまめに停まりながら進む。1時間5分掛かってようやくウトゥムポン・ピサイの街に入った。思いのほか大きな街である。街の中心部近くでバスは停まり、運転手が「ここで降りろという」。さらに、屯していたバイタクに「この日本人、サ・カンペーン・ヤイ遺跡へ行くと言っている。面倒見てやってくれ」と依頼してくれた。バイタクは往復で20バーツという超良心的価格であった。

 遺跡はそこから2キロほどであった。この遺跡は11世紀に建立された中規模のヒンズー教寺院である。遺跡の隣にはワット・カンペーン・ヤイという大きな仏教寺院が甍を高々と掲げている。キンキラキンの現代の仏教寺院と半ば崩壊した1,000年前のヒンズー教寺院が並び立つ様は不思議な感覚を覚える。崩壊した門をくぐり、遺跡の内部に入る。だれもいない。回廊に囲まれた境内に上部を失った4基の祠堂と2基の経蔵が1,000年の時を越えて静かにそそり立っていた。

 明日はカオ・プラ・ウィハーン遺跡に行くつもりである。クメール遺跡を代表する巨大な山岳寺院で、イサーン地方最大の遺跡である。この遺跡訪問は今回の「クメール遺跡巡礼の旅」における前半最大の目標である。ただし、この遺跡はタイ/カンボジア国境のダンレック山脈の尾根上に位置し、アプローチがいたって難しい。遺跡に一番近い街・カンターララックまではバスがあるが、そこから先は交通の便がない。このため、どの案内書も「シー・サケットまたはウボン・ラーチャターニーからタクシーをチャーターするべし」とある。私もそのつもりでいる。

 ホテルのフロントに相談に行ったのだが、英語が通じない。居合わせたお客さんに通訳してもらって聞いたところ、タクシーのチャーター料金は「1,500バーツ+ガソリン代で、交渉の余地もない」とのこと。「ウーン」と考え込んでいたら、英語を話せる別の従業員が出てきた。彼女の話しによると、「カンターララックからカオ・プラ・ウィハーン遺跡までトラックバスの便がある。従って、バスを乗り継いで行ける」という嬉しい話しであった。遺跡までトラックバスの便があるという話しはどの案内書にも、どの訪問記録にもなかった。半信半疑だが彼女の話しに掛けてみることにした。
 
 第4節 カオ・プラ・ウィハーン遺跡

 11月3日(土)。7時過ぎ、バスターミナルへ行く。先ずはシー・サケットの南63キロに位置するカンターララックを目指す。カンターララック行きのバスはすぐにわかった。小型のおんぼろバスである。7時20分、がらがらのままバスは発車した。例によって市内はノロノロ運転、乗客を集め郊外に出るころには満員となった。バスは珍しいことにワンマンカーで、車掌は乗りあわせていない。とは言っても、ワンマンカーとしてのシステムが出来上がっているわけではない。降りる乗客は人をかき分け運転手のところまで行って料金を支払わなければならない。

 どこまでも続く田園地帯をバスは南に向かって走り続ける。道はあくまでもよい。途中、乗客の一人がバスを停めてタチション。私も身に覚えがある。1時間ほど走ると、茶店の前でバスは停車。運転手のみ降り、茶店に座り込んでティータイム。乗客全員ただひたすら運転手の復帰を待つ。タイでは運転手は王様である。やがて車窓の左右に大きな湖が現れた。Ta Mai貯水湖である。巨大な水溜まりという感じで、船も浮かんでいない。

 約2時間走って、カンターララックの街外れのバスターミナルに着いた。見ると、カオ・プラ・ウィハーン遺跡行きのトラックバスが控えている。ホテルのフロントで聞いた通りである。乗り込もうとしたら男が寄って来て、「車をチャーターしないか」と誘う。600バーツだという。「1,500バーツ+ガソリン代」が浮いたことだしと思い、車で行くことにする。500バーツに値切って乗り込む。いすゞのピックアップトラックの新車であった。カオ・プラ・ウィハーン遺跡はここかにまだ35キロもある。男は英語をまったく解さない。

 素晴らしい道が一直線に続いている。通る車もほとんどない。前方の山並みが次第に近づく。カンボジアとの国境となるダンレック山脈である。道端の小屋の前で車はストップ。タイ側の入場料徴収所である。外国人は400バーツもの入場料を取られる。まさにぼったくりである。

 カオ・プラ・ウィハーン遺跡は両国国境に位置するためその領有をめぐって長い間両国で争っていた。しかし、1962年、国際司法裁判所によって、カンボジア領と認められたのである。ただし、現在のところ、カンボジア側からは行けず、訪問はタイ側からのみ可能である。このような事情から、タイとカンボジアの双方で入場料を徴収している。なお、「カオ・プラ・ウィハーン」とのはタイ側の名称で、カンボジアでは「プリヤ・ヴィヒヤ」と呼ばれる。

 ここからいよいよ山道となった。ただし相変わらず道は素晴らしい。9時50分、カンターララックから30分ほどで大きな駐車場に着いた。ついに、カオ・プラ・ウィハーン遺跡へやって来たのだ。この遺跡は標高657mのブラ・ウィハーン山の頂にある本殿とそこに至る850mの長い参道から成り立っている。その建立はアンコールワットよりも古く、10世紀のヤショヴァルマン1世の治世に始まった。その後、各王により増設、改築がなされ、11世紀のスールヤヴァルマン1世により現在の形になされたとのことである。この地は昔から聖地として崇められていたようである。

 駐車場から続く広い舗装道路を緩やかに下っていく。周りは潅木の荒れ地である。途中にタイ森林局のチェックポイントがあり、5バーツの入山料を徴収される。200〜300メートルも進むと舗装道路は尽きる。岩盤上の坂を下ると、小さな谷に下り着く。この谷が国境である。ただし、この遺跡見学に限り、カンボジアへの入国手続は必要ない。谷に沿って申し訳程度に鉄条網が張られているが、警備員はいない。小さな木戸を潜って一段登ると、土産物屋が建ち並ぶ広場に出た。多くの見学者で賑わっている。ここはもうカンボジア、雰囲気はがらりと変わる。店番のおばさん達も、絵葉書などを売り歩いている子供たちも皆カンボジア人、すなわちクメール族である。顔つきも、服装も変わり、そしてまた、貧富の差もタイと際立つ。ここで、カンボジア側の入場料200バーツを払う。

 広場の奥が、カオ・プラ・ウィハーンの参道入り口であった。急な長い石段が目の前にそそり立っている。石段の石積みは長い年月に不規則となり、かなり登りにくい。息を切らせて200段近い石段を登りきると、7つの頭を持つ巨大なナーガ(聖蛇)を両側に配したテラスに出る。現世と神の国を結ぶ掛け橋を意味する。その一段上が第一塔門である。ただし、今は柱と梁の骨組みだけしか残っていない。いかにも遺跡というもの悲しい風情がある。ここにカンボジア国旗が誇らしげに掲げられていた。第一塔門から石畳の270mもの長い参道が続く。両側には石燈篭が立ち並んでいたようであるが、今は破壊された幾つかが残るだけである。途中に「I HAVE PRIDE TO BE BORN  AS  KHMER」と大書きされた青い看板を見る。同じ看板をカンボジア国内で時々見かける。この壮大な遺跡を建設したのは紛れもなくクメール族である。

 短い石段を登ると第二塔門に達する。十字形をした建物で比較的よく原形を留めている。破風やまぐさ石のレリーフが見事である。さらに150m続く石畳の参道を進むと第三塔門に達する。左右に宮殿を持つ大きな建物である。手前左に物見の塔がぽつんと建っている。さらに参道を進む。この参道は36mと短い。傍らの叢の中に骸骨の絵の描かれた「地雷注意」の看板が建つ。このカオ・プラ・ウィハーン遺跡は内戦末期、追いつめられたポルポト派が立てこもり、政府軍と激戦を演じた。このため、遺跡が大きく破壊されるとともに、付近には多くの地雷が埋設された。この遺跡が一般に見学できるようになったのは1998年である。

 ようやく第四塔門に達した。山頂の一角である。塔門と繋がってその背後に回廊で囲まれた主神殿が建つ。しかし、主祠堂は完全に瓦礫の山である。回廊の奥から、きれいな笛の音が聞こえる。音につられて行ってみると、足を失った男が回廊の片隅に座り、ひたすら笛を吹き続けている。内戦の犠牲者だろう。主神殿の背後に廻ると、大展望が待っていた。足下は数百メートルの大絶壁となって切れ落ちている。どこまでも続く緑の絨毯、その中に小さな集落が見える。カンボジアの大地である。崩壊した石片に腰掛け、地平線まで続く大地を眺める。ようやくカンボジアにも平和が戻ってきたのだ。

 周りには多くの見学者の姿がある。いずれもタイの人々である。その周りを貧しい身なりをしたカンボジアの幼い子供たちが、絵葉書などの土産品を売り歩いている。いずれも、輝く瞳を持つ子供たちだ。日本では遠の昔に、タイでもめったに見られなくなった子供たちの輝く瞳。この瞳に出会えたことに限りない喜びを感じた。

 カンターララックのバスターミナルに戻り、12時20分発のシー・サケット行きのバスに乗る。中型のおんぼろバスであった。1時間も走ると車は停まり、運転手は、何と、持参のティップ・カオ(竹で編んだお櫃)を取りだし、悠然とカオ・ニャオ(うるち米)を食べ始めたではないか。乗客一同、ただひたすら運転手の食事の終わるのを待つ。タイでは運転手は王様である。14時にシー・サケットに帰り着いた。いったんホテルに戻り、シー・サケットの街をあてもなく歩き廻る。街の中心は鉄道駅で、その両側に街並は広がっている。ただし、大きな商店街もなく、スリンよりは小さい感じである。それでもデパートが一つあった。明日はウボン・ラーチャターニーに行く。
 
 第5節 ウボン・ラーチャターニー

 11月4日(日)。朝起きるが、どうも体調がよくない。身体がだるく、のどが痛い。風邪の前兆である。悪化しなければよいが。8時前にバスターミナルへ行ったのだが、ウボン・ラーチャターニー行きのぼろバスを見て嫌気が差し、近くの民間バス会社の乗り場へ行ってしまった。体調が悪いせいか今日は弱気である。8時10分発のVIPバスに乗る。バスはわずか1時間でウボン・ラーチャターニーのバスターミナルに着いた。明日、ラオスに入国するつもりなので、国境の街・チョーン・メック行きのバスの時刻を調べようとしたら、何と、ラオスのパクセまで直接行く国際バスがあるではないか。好都合である。予約する必要があるかどうか聞いてみると、その必要はないとのことであった。

 ウボン・ラーチャターニーはタイ有数の大都会である。バスターミナルは郊外にあるので、街の中心部まで数キロある。ソンテウ(小型のトラックバス)がたくさん走っているのだが、運転経路が分からない。トゥクトゥク乗り場に行くと中心部まで80バーツだという。「ふざけるな」と言うと、「あれを見ろ」と言う。そこには行き先毎の運賃が掲載されており、中心部まで80バーツと記されている。どうやら談合が出来ているようだ。20〜30バーツが常識と思うのだが。仕方ないか。

 ガイドブックにある Sri Kamon Hotel を指示したのだが、ガイドブックが間違っており、着いたホテルはSri Kamol Hotelであった。バスタブまである広い部屋で450バーツと安い。どうも熱っぽくふらふらするが、宿にいても仕方がない。街に出る。道路は広く、また、屋台や露店もなく、タイらしからぬ実にゆったりした街である。中心部はトゥン・シー・ムアン公園という大きな緑地帯になっている。その南側は広々とした遊歩道で、ベンチなどが設置されている。「ここは本当にタイなの?」。先ず近くのTAT(タイ政府観光庁)へ行って地図を取得する。ソンテウの経路が記載されている。明日バスターミナルまでソンテウが利用できそうである。

 この街で一番大きな寺院であるワット・シーウボンラットへ行ってみる。バンコクのワット・プラケオと同じエメラルド仏が祀られているとのことである。大きな境内を持つ寺であるが、何やら催し物の準備らしく、大勢の人が出入りしていてゆっくり見学できなかった。次ぎにワット・トゥン・シー・ムアンに行く。この寺は実によかった。特に、池の中に立てられた木造の経蔵はラオス様式の6層の屋根を持ち、実に優雅なたたずまいを見せている。巨大な本堂を持つワット・スパッタナーラームへも行ってみたが見るべきものはなかった。街の南を流れるムーン川の辺でひと休みする。水を満々とたたえた大きな川である。ナマズがたくさんいる。

 相変わらず体調が悪い。ホテルに帰って昼寝をしてしまった。明日はいよいよラオスへ行く。
 
 
                         (ラオス編に続く) 

 

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