おじさんバックパッカーの一人旅
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2007年11月5日~11月10日 |
第3章 南ラオスの旅
第1節 チャムパーサック 11月5日(月)。今日はいよいよラオスに入国する。ラオスという名を聞いただけで何やら心がほのぼのとしてくる。おそらく地球上で最も心安らかな国であろう。そう感じるのは私だけでないようで、旅先で知りあった多くのバックパーカーに聞いても、「いちばんいい国? それはラオスだよ」との答えが返ってくる。 案内所でもらったソンテウの経路図を頼りに、No.10のソンテウに乗りバスターミナルへ行く。わずか10バーツである。昨日確認しておいたラオスのバークセー行き国際バスのチケットを得る。運賃は200バーツであった。白人の中年のおばさんがやってきて、「ラオスに行くのはどうしたらいいのだ」と周りの人に聞きまくっている。「このバスに乗ればいい。チケット売り場は向こう」と教えてあげる。ドイツ人だという。
先回りして待機していたバスに乗り込む。車窓から眺める田園景色が「タイ」から「ラオス」に変わった。点在する高床式の家々のたたずまいも、見かける人々の装いも。「貧しくなった」と言えば間違いではないがーーー。何か郷愁を覚える心休まる景色である。道路も舗装はされているものの簡易舗装である。「あぁ、またラオスにやって来たのだなぁ」との思いが強い。車の通行も左側通行から右側通行に変わった。運転手は大丈夫なのだろうか。 国境を出発してから約40分で街並に入った。ラオス最南端の県・チャムパーサック県の県都パークセーである。間もなくバスは街の東端のタラートラックソーンVIPバスターミナルへ到着した。小さな広場で2~3台のバスが停まっているだけである。今日はここパークセーに泊まるつもりでいるので、街の中心部まで行かなければならない。ところが予想に反して、トゥクトゥクもバイタクも居らず、3台の乗合いソンテウが○○方面はこっち、△△方面はそっちと乗客をさばいていく。行く先を確認して1台のソンテウに乗り込む。あのドイツ人のおばちゃんも一緒だ。ところがソンテウは国道13号線を一路東へひた走る。街とは反対方向である。どうやら乗るソンテウを間違えたようだ。いったいこのソンテウはどこへ行くのかな。まだ12時過ぎ、時刻も早いので慌てることもない。 着いたところは街から8キロも離れた南バスターミナル。チャムパーサック等のカンボジア国境方面へのバス発着場である。バスターミナルと言っても何か施設があるわけでなく、大きな広場に大小のトラックバスが無秩序に駐車しているだけである。こうなればかえって好都合、明日行くつもりであったチャムパーサックまで一気に行ってしまおう。どうせ、パークセーは特に見所もない街だ。隣に停まっている中型のトラックバスがチャムパーサックへ行くという。ドイツ人のおばちゃんもチャムパーサックまで行くという。「何時に出発か」と聞くと、「人が集まり次第」との答え。乗り込んで待つ。 トラックの荷台の両側に設置されたベンチシートに腰掛けながら、何時とも知れぬ出発を待ち続ける。乗客は私を含め6人である。内外国人が3人。私、ドイツ人のおばさん、オーストラリアから来たという中年のおじさん。ラオ人が3人。乳飲み子を抱えた若い母親、おばぁさん、若い男。互いに膝が触れ合うばかりに向きあっているので、すぐに打ち解けた。とはいっても、英語とラオ語の両方を何とか解するのは私一人。ラオの母親は、ラオ語こそが世界共通語とばかりに、躊躇することなく、ラオ語で勢いよく話し掛けてくる。ドイツ人のおばさんはネを上げて、私に通訳してくれと言い出した。とは言われても、私とて通訳できるほどラオ語を解するわけではない。母親は胸元をはだけ、悠然と赤ん坊に乳を含ませる。何ともほほ笑ましい。やっぱりここはラオスだ。日本でも数十年前までは、列車の中などでよく見かけた光景である。強いて目をそらせる必要もない。
フェリーを降り、人家の点在するメコン川右岸の道を走る。15分も進むと、トラックバスは停まり、運転手が「ここがチャムパーサックだ」と言う。一瞬我が耳と目を疑る。目の前に広がる情景は、ぱらぱらと人家の点在する街とはとても言えない集落、「ここがチャムパーサック?」。チャムパーサックはチャムパーサック王国の古都であり、パークセーに県都が移るまでは、チャムパーサック県の県都でもあった街である。しかし、やはり、ここがチャムパーサックだったのだ。 ラオスの地に初めてラオ族の統一国家が成立したのは1353年である。ファーグム王によりルアンプラバンを王都とするランサーン王国が建国される。1560年、セーターティラート王はビルマ・タウングー朝の攻撃を避けるため、同盟関係にあったタイ・アユタヤ朝との国境近くのビエンチャンに遷都する。そして、17世紀、スリニャウォンサー王の時代に王国は最盛期を向かえる。しかし、王の死後1707年、内紛により王国はビエンチャン王国とルアンプラバン王国に分裂し、さらに、1713年には、ビエンチャン王国からチャムパーサック王国が分離した。19世紀後半、フランスがラオス植民地化を目指して進出してきた時、ラオスはこのような3国鼎立の状態にあった。このため、フランスは「ラオ」と呼ばれたこの地域に複数を表す「S」をつけ、「ラオス」と称した。これがラオスという呼称の始まりである。従って、現在においても、ラオス人は自らの国を「ラオ」と称しているし、タイにおいても「ラオ」と呼んでいる。「ラオス」とは称さない。ラオスの正式国名も「Lao People's Democratic Republic」である。フランスは1893年、ラオス全域を植民地化するとともに、チャムパーサック王国とビエンチャン王国を廃止、ルアンプラバン王国のみを残した。こうして、チャムパーサック王国はわずか180年の短い生涯を終えるのである。 トラックバスの停まった目の前がウォンパスート・ゲストハウスであった。愛想よく、「さぁどうぞどうぞ」と荷物を取られて中に運び込まれてしまった。ホットシャワーつきで1泊5ドル、メコン川に張りだした素晴らしい食堂がある。ここに泊まることにする。親父が、ウェルカム・ドリンクだとビア・ラーオをご馳走してくれた。ラオス人自慢の国産ビールである。宿には欧米人数組と日本人らしき男が泊まっている。
石灯籠の並ぶ参道をしばらく進むと、崩壊した急な石段に行く手を阻まれる。回り込んで登り上げると、十字型のテラスに出る。ここに寺院の入口を守る神であるドヴァラパーラの像が建っている。 本殿前からの展望が素晴らしい。眼下にたどってきた参道が見え、その先に続く田園風景の彼方に、メコンの流れが降り注ぐ光の中に輝いている。>本殿の左手の樹林の中に転がる幾つかの岩に、それぞれ蛇、象、ワニが彫り込まれている。いずれも、クメール文化以前の遺跡と考えられている。 特に、ワニの彫刻は人身御供の行われた跡ではないかと言われている。この地はクメール族の時代以前から聖地であったのだろう。> 参道を下り、遺跡展示ホールを覗いて、再び自転車を漕ぐ。ちょうど下校の時刻なのだろう、自転車に乗った中学生が次々と追い越していく。追い越し際には、とろけそうな笑顔で挨拶する。中には、速度を落とし、私と並んで走りながら、習いたての英語で話し掛けてくる子もいる。やはりラオスは素晴らしい。帰路は1時間も掛かった。 12時過ぎには宿に帰り着いた。改めて自転車を駆って村内を探索する。大人も子供も目が会えは、満面の笑顔で「サバイデー(こんにちは)」と声を掛けてくる。こちらの心もほのぼのとしてくる。こんな小さな村にも銀行があった。USドルからキープへの両替をする。パスポートの提示を求められたが、「宿に置いてきた」と言うと、なしですんだ。なかなか融通が利く。村は本当に小さい。高床式の家が並び、通りはニワトリと犬と牛が歩き廻っている。華やかりし古都の面影はどこにも見られなかった。 第2節 シーパン・ドーン 11月7日(水)。今日から数日間、シーパン・ドーンを旅する。カンボジアと国境を接するラオスの最南部である。ラオス国内を悠然と流れ下ってきた大河メコンはこのシーパン・ドーンに到って様相をがらりと変える。川幅は20キロにも広がり、その中に無数の島を浮かべるのである。そして、ソンバミットの滝とコーンパペンの滝をもって一気にカンボジア領へと流れ落ちるのである。シーパン・ドーンとは4千(シーパン)の島(ドーン)の意である。日本で言うならば九十九島であろうか。 今日はこのシーパン・ドーン最大の島コーン島(Don Khong)へ向かう。船便を期待したのだがないようである。7時20分、ゲストハウス前よりパークセー行きのトラックバスに乗る。フェリーでメコン川を渡り、国道13号線に出たところで一人降りる。ここで、13号線を南下するバスを捉まえなければならない。もちろん時刻表などないから1時間でも2時間でも待つ覚悟である。ところが、幸運なことに、一服する間もなくバスがやって来た。しかも、意外なことにまともな大型バスである。乗客のほとんどが白人の旅行者(バックパッカーではない)である。 途中10分間のトイレ休憩を挟んで約1時間走ると、車掌が「ドーン・コーンへ行くならここで降りろ。そっちの道を行け」と右に折れる小道を指し示す。バスを降りたものの勝手がさっぱりわからない。聞こうにも人家もない。一人とぼとぼと小道を歩きだす。このまま行くとメコン川に出そうである。小さな井戸があり、女性二人が水汲みをしていた。その脇にラオス国旗と日章旗を描いた看板が建っている。日本の経済援助で掘られた井戸のようである。橋や道路もさることながら、このような生活に密着した経済援助こそ、ラオの人々に大いに感謝されるだろう。何やら嬉しくなった。
小舟は私一人を乗せてメコンの濁流に乗りだした。僧侶が手を振っている。船は10分ばかりでトーン・コーンのムアン・コーンという小さな村の船着き場についた。メコン川沿いに何軒かの宿が並んでいる。一番よさそうなポーンズ・ゲストハウスに行くと、女が1泊10ドルだと言う。「ペーン(高い)」と言うと、「それなら隣に行け」と言い捨ててさっさと引っ込んでしまう。何とも感じが悪い。ドーン・コーン・ゲストハウスにチェックインする。1泊6$で、ホットシャワー付きの立派な部屋である。 自転車を借りて、島内探索に出かける。とは言っても、この島には「見所」は何もない。南国の太陽が照りつけ、今日の暑さは半端ではない。あわよくば島内一周と思ったが、この島は南北20キロ、東西8キロもある。どこまで行っても、田んぼの広がる田園風景、変わったことは何もない。諦めて集落に戻る。行きあう人々はいたってフレンドリーである。目が合えば素晴らしい笑顔と、「サバイディ(こんにちは)」の挨拶が返ってくる。子供たちも実に人懐っこい。集落外れのお寺でひと休みしていたら、小学校低学年ぐらいの女の子が寄って来て、しきりに話し掛ける。ただし、言葉がしゃべれないようだ。耳が聞こえないのだろう。ジェスチャーでペンが欲しいという。手持ちのボールペンをプレゼントすると喜んで去っていった。他の国なら必ず「マネー、マネー」と言うはずなのだが。 夕方、集落内を散歩していた。5mほど前を母親と3才ぐらいの女の子が手を繋いで歩いていた。女の子が振り向いた。瞬間、母親の手を振りほどいて私に駆け寄り、何と抱きついてきたのである。びっくりしたが、実にかわいかった。ラオスという国はどうも他の国と違うところがある。明日はデット島(Don
Det)に行く。船便があるようだ。
約1時間半の航行で船はデット島のファー・デットという小さな村に着いた。メコンの流れに沿って簡素なゲストハウスが並んでいる。川に張り出したテラスを持つバンガロースタイルのゲストハウスにチェックインする。宿泊代は、驚くなかれ、15,000キープ(1.5$)である。これほど安い宿は初めてである。ただし、小屋は超簡素、蚊帳付きのベッドがあるだけである。電灯もない。もちろん、トイレもシャワーも共同である。しかし、テラスにはハンモッグが備えられており、何とも優雅である。 昼食後、自転車を借りて、島内名所巡りに出かける。この島には自動車はない。細い田舎道はすべて地道である。集落の外れに、「積みだし埠頭」の遺物があった。フランス植民地時代、フランスはメコン川の河川交通を利用して内陸国ラオスへの交通を確保しようと試みた。しかし、ラオス/カンボジア国境にある二つの瀑布に船の通行を妨げられた。このため、この瀑布地帯のみ鉄道輸送に切り替えようと、デット島と隣のコーン島を橋で結び、鉄道を敷設した。総延長わずか6.5キロの鉄道である。この鉄道が歴史上ラオスに敷設された最初で最後の鉄道であった。しかし、この鉄道も大東亜戦争時、進駐してきた日本軍により廃棄され、今はその痕跡を残すだけとなっている。
14時にはゲストハウスに帰り着いた。ビア・ラーオを飲んで、テラスのハンモッグで昼寝である。目の下にメコンが流れている。時折、軽いエンジン音を響かせて小舟が通る。これ以上の贅沢があろうか。 日が暮れると、集落の人々はメコン川で身体を洗い、歯を磨いている。自家発電が始まり食堂には薄暗い電灯が灯ったが、バンガローには電灯はない。備え付けのローソクに灯を灯す。隣のバンガローからバスタオル1枚を身体に巻いただけの若い女が飛びだしてきて「ライターを貸して下さい」。ちょっと刺激的だった。
ようやく、一人の若者が、「どこへ行く」と声を掛けてきた。「コーンパペンの滝」と答えると、「バイクを持ってくるからしばらく待て」とのこと。往復50,000キープで商談が成立した(後で宿で聞いたら40,000キープが相場とのことであったが)。未舗装のがたがた道を3キロほど進むとようやく国道13号線に出た。完全舗装の素晴らしい道である。ただし通る車はない。この先、もはや集落らしい集落はないのであるから。バイクは80キロものスピードでひたすら南下する。意外なことに、右側にゴルフ場が現れた。Khonphapheng Resortとの標示がある。一体だれが利用するのだろう。
泊まっている宿は家族経営である。爺さんと婆さん、40代の女と20代の女、5才ぐらいの男の子と赤ん坊である。4世代家族なのだろう。バンガロー4つと食堂があり、その横に高床式の母屋がある。ラオスでは皆そうなのだが、暑い日中は高床式家屋の床下でハンモッグに揺られながらのんびり過ごす。ここは日陰であり風が通って涼しい。午後からはやることもない。私もその仲間に入れてもらった。ハンモッグに揺られながら、家族と何やかんや雑談である。至福のひとときであった。今日でラオスの旅を終える。明日はカンボジアに向かう。
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