おじさんバックパッカーの一人旅
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2007年11月10日~11月15日 |
第4章 カンボジアの旅
第1節 ストゥントレン 11月10(土)。今日は陸路で国境を越えてカンボジアに入国する。ただし、これから越えようとする国境は超一級の難関である。今回の旅行を計画するに当たって、このラオス/カンボジア国境越えが最大の難所と認識していた。両国ともこの国境付近には集落もなく、また国境に到る公的交通手段もない。どうやって国境を越えたらよいのかさっぱり分からない。「まぁ、現地に行って情報を得るより仕方あるまい」と腹を括ってここまでやって来た。しかし、結果として杞憂であった。デット島にやって来たところ、あちこちにカンボジア行きのツアーバス案内が標示されていた。昨日、ゲストハウスでカンボジアのストゥントレンまでのチケットを購入しておいた。デット島からナーカサンまでの船賃も込みで13ドルである。 8時、島の船着き場までゲストハウスのプーイン(娘さん)がバイクで送ってくれた。数人のバックパッカーと乗り合いでナーカサンまで乗船。中に1人日本人の若者がいた。これからベトナムへ向かうとか。街外れのツアーバス乗り場に10数人のバックパッカーが集まった。パークセー行きとカンボジア行きの2台のツアーバスが出るようである。 9時過ぎ、カンボジア行きの小型バスは7人の乗客を乗せて国境に向かって出発した。私以外の6人はいずれも白人の若者、内4人は女性である。単独行は私だけである。彼らはコンポンチャムやプノンペンまで行くとのこと。コーンパペンの滝までは昨日通った道、完全舗装の素晴らしい道が続く。滝への分岐を過ぎると、まばらにあった人家も消え、周囲は鬱蒼としたジャングルとなる。通る車など皆無である。 このまま国境まで快適な道が続くのかと思っていたら、天国から地獄に落とされた。車がやっとすれ違えるほどの道幅のものすごい悪路となった。到るところ水溜まりの泥んこ道である。周りは深い深い密林で人の気配など皆無である。車は超ノロノロ運転、いつ泥濘にはまって動けなくなるやら心配である。反対側から来る乗用車2台とすれ違う。乗り合いタクシーのようだ。カンボジア側から越境してくる旅行者をあてにして、国境で待機しているのだろが、かなりボラれるだろう。
今まで多くの国境を陸路で越えたが、これほど寂しい国境は初めてである。普通は小さな国境でも、両国間の物価格差、経済格差を利用した交易が盛んで、人の往来が激しい。また、国境の両側には国境交易の拠点となる街があるのが普通である。しかるに、この国境は行き交う地元民は皆無。両国側とも近くに集落さえもない。時折、物好きな旅行者が越えるだけの寂しい寂しい国境であった。 ここからカンボジアのワゴン車に乗り換え出発する。いよいよカンボジアである。ラオスのように心穏やかな国でもない。心して行かなければならない。車窓の景色は一変した。密林は薄れ、伐採跡のような荒れ地の広がりとなった。カンボジアでよく目にする景色である。畑や牧草地を開くでもなく、新たに植林するでもなく、ただ、密林を伐採してある。理由がよく理解できない。意外なことに、真新しい素晴らしい道が原野の中を一直線に貫いている。この道はプノンペンまで続く国道7号線である。しかし、周りに人家はまったく見られない。通る車もまったくない。なぜ、人も通わぬ辺境の国境に向けこんな立派な道が造られたのか理解に苦しむ。一人当たりのGDPがわずか454ドルの最貧国のやることではない。どうせ外国の援助だろうが。
10分ほどで渡し舟はストゥントレンの船着き場に着いた。バスはここで昼食休憩とのこと。私はここで皆と別れる。船着き場付近に幾つかのホテルが見られるが、教えられたストゥントレン・ゲストハウスに行く。中国系の旅社で、聞いた通り真新しいホテルである。受付の女の子は英語もラオ語も解せず、英語の話せる者を呼びに言った。5分ほど待たされて若い男が現れたが感じは余りよくない。それでも1泊10ドルだという部屋は広く、エアコン、ホットシャワーも付いている。満足してチェックインする。
街は見るべきものは何もない。船着き場近くのセコン川岸辺に座り、行き来する渡し舟をぼんやり眺め続ける。それにしても大きな川だ。メコン川と遜色がない。下流に目をやると二つの川の合流点が見える。これまで私はこの川を「セコン川」と表記してきた。地図の表記に従ったのだが、この名称は正しくない。現地での呼称はSe Khongであり、「Se」は川の意である。従って「コン川」との呼称が正しい。と言うことはメコン川と同じ名前である。「Mae Khong」の「Mae」は「Mae Nam(メナーム)」の省略形で「川」の意である。従って、メコン川は「コン川」と呼ぶのが正しい。現地の正式呼称は「Mae Nam Khong」である。「メコン川」と呼ぶことは、例えて言うなら、「揚子江川」と呼ぶ様なものである。 ひとまずホテルに帰る。シャワーを浴びようとしたらお湯が出ない。フロントに文句を言うと修理を試みたが結局直らない。「部屋を替えろ」と要求するも、「我慢しろ」との答え。頭に来た。そのまま荷物をまとめ、キーをフロントのデスクにおいて黙ってホテルを出る。フロントは何も言わなかった。数軒他のホテルを訪ね歩き、好運客機というホテルにチェックインする。
低くうねる大地がどこまでも続く。周りは昨日と同様、伐採跡の荒れ地である。耕地はまったく見られない。時折、数軒の小さな高床式の人家を見る。バナナの葉の壁と屋根、家というより小屋である。集落らしい集落は現れない。通る車もまったくない。ただし、時折牛が現れ、車は慌てて急ブレーキをかける。この素晴らしい道は一体だれのための道なのか。1時間半走り、家一軒見えない原野のど真ん中でバスは停車した。トイレ休憩だという。男どもは道端に並んでタチション、女たちは連れだって叢の中に姿を消した。 ストゥントレンから約2時間走り、バスは国道7号線を離れ、右に折れる。やがて街並みに入った。今日の目的地・クラチェである。メコン川沿いの営業所前でバスを降りる。今日もいい天気である。川沿いの道に面したSanteiheap Hotelにチェックインする。大きな立派なホテルで、エアコン、ホットシャワー付きで1泊10ドルと適正価格である。ストゥントレンのホテルもそうであったが、このホテルも室内禁煙になっている。ネゴして何とか目をつぶってもらうことにしたが、カンボジアでも喫煙への風当たりは強くなっている。
明日、コンポンチャムまで行くつもりなので、交通手段を聞いてみると、民間バス会社3社がバスを運行しており、メコン川の船便はないとのことである。船着き場付近の営業所に行き明日のバスを予約する。夕方より雨となった。ホテルに帰りホットシャワーを浴びていたら突然停電、シャワーはあっという間に水になってしまった。
11月12日(月)。朝起きると、昨夜の雨は上がっていたが、どんよりした天気である。プノンペン行きの大型バスは7割り程度の乗車率のまま定刻10分遅れの7時25分に発車した。私以外4人のバックパッカーが乗りあわせている。東洋人の若者がいたが、後で話してみたら韓国人であった。途中乗客を拾い、国道7号線に出るころには満席となった。私は景色が良く見える一番前の席である。昨日までと同じ景色がどこまでも続く。緩やかにうねる大地、伐採跡のような荒れ地、時々現れる粗末な高床式の小屋、道を横切る牛の群れ。すれ違う車はほとんどない。耕地もまったく見られない。 1時間ほど走るとようやく小規模な田んぼが見られるようになった。クラチェから1時間半走り、小さな街でトイレ休憩となった。「ここはどこか」と車掌に聞くと、スヌール(Snoul)とのこと。ベトナムとの国境近くの街である。まだ、コンポンチャムまでの1/3の行程である。 車窓の景色が大きく変わった。荒れ地は姿を消し、見渡すかぎりキャッサバの畑の広がりとなった。キャッサバとは熱帯地方で栽培される芋である。痩せ地でもよく育つとのことで開墾地などでよく栽培されている。それにしても、すごい規模だ。地平線の彼方までただただキャッサバ畑が広がっている。個人の畑とは思えず、国家管理の農園なのだろう。キャッサバを満載したトラックも行き来している。緩やかな坂を登っていくと、またもや車窓の景色が一変した。今度は、どこまでもどこまでもゴムの木の林が続く。丘を下るとようやく稲田の広がりが現れた。何やらホットする風景である。進むに従い集落の数も増し、すれ違う車も多くなる。Khcheayの街を過ぎ、しばらく行くと地平線まで続く稲田のど真ん中でバスは突然停車。車輌故障だとのことで、20分の修理休憩となる。いつの間にか天気は回復し、稲穂が降り注ぐ光に黄金色に輝いている。
コンポンチャムはプノンペン、バッタンバンに次ぐカンボジア第3の大都会である。声を掛けてくるバイタクを振り切り、地図を頼りにモニポン通りを歩く。芝生の中に点々とベンチの設置された大きな中央分離帯のあるしゃれたメインストリートである。ただし、車の通行は少ない。マーケット近くのMittapheap Hotelにチェックインする。建物は少々古びているがエアコン、ホットシャワー付きで1泊10ドル、テレビにNHKが移る。 昼食後、先ずはコンポンチャム最大の見所ワット・ノコールを目指す。13世紀初頭建立の大乗仏教寺院遺跡である。ガイドブックには街の中心から約1キロとあるので、国道7号線をテクテクと歩き出した。歩道もなく交通量の激しい国道をひたすら歩く。南国の太陽がぎらぎら照りつけ猛烈に暑い。家並みも途切れ、郊外に出るもそれらしき遺跡は現れない。おばさんに聞いてみるとまだまだ先だという。ようやく標示があり、「寺まで300m」と左の小道を指し示している。結局、街中から40分も歩き、ようやく目指す遺跡に到着した。
プノンペンが近づくにつれ、左右に広大な水没地が現れる。トンレサップ川の氾濫原だろう。10月で雨期は終わったが、今が一番水量が多い季節なのだろう。ついにトンレサップ川を「カンボジア・日本友好橋(スピアン・チュローイ・チョンワー)」で渡りプノンペン市内に入った。この橋はポルポト時代に破壊されたが、1994年日本の援助で修復された。全長700mの橋で、欄干には日章旗とカンボジア国旗が翻っている。渡り終わったところで、隣の娘さんは「Good-by sir」と挨拶して降りていった。何とも感じのよい娘さんであった。 出発してから約3時間、バスは市内中心部の営業所前に到着した。昨年の9月以来1年2ヶ月ぶりのプノンペンである。この街の勝手は既に充分に知っている。ここまで来れば今回の旅も峠を越えたようなものである。降車と同時に群がるバイタクを振り切り、モニポン通りを歩いてホテル・パシフィックにチェックインする。1泊30ドルもする中級ホテルだが、たまにはまともなホテルに泊まってみたい。プノンペンには2泊するつもりである。 昼食後、ぶらりぶらりと市内を探索する。市内及び近郊の名所旧跡は1年前に訪問ずみであり、特別、行きたいところもない。プノンペンは「東洋のパリ」と称せられる美しい街である。この街はフランスにより開発された。高層ビルなどなく、火炎樹の並木の続く広々とした通りとあいまって、ゆったりとした解放感に浸れる気持ちよい街並が続いている。道路は格子状に配され、この街が人工的に作られたことが伺い知れる。人口約100万人、超大都市ではないが街は活気に満ちている。モニポン通りやシアヌーク通りはしゃれた店やホテルが続き、1国の首都としての風格を漂わせている。また、王宮やシルバーパゴダなどの華やかな歴史的建物が街を一層華やかに飾り立てている。おそらく、東南アジア諸国の首都の中で最も美しい街であろう。 しかし、この街は、1975年4月から1979年1月まで、ポルポト派(クメールルージュ)の権力掌握により、すべての住民が農村に強制移住させられ廃虚と化した。さらに、市内の高等学校(現トゥール・スレン博物館)は数万の無実の人々が捕らえられる刑務所となり、無残な拷問が繰り返された。そして、郊外のキリング・フィールドでは数万の人々が家畜を屠るがごとく虐殺された。一見華やかに見えるこの都市は、その背後に、悲しく、身の毛のよだつような歴史を秘めている。 プノンペンがカンボジアの恒久的な首都となったのは1866年である。14世紀後半より度々タイ・アユタヤ朝の攻撃を受け弱体化したクメール王朝は、1431年ついにアンコールの王城を放棄し、王都をスレイサントー、プノンペン、ロンヴァエク、ウドンと移しながら余命を繋ぐ。しかし、次第にタイ及びベトナムの属国化が進み、19世紀に入るとカンボジア王国は名ばかりの存在となる。時の王・ノロドムは新たに進出してきたフランスに保護を求め、自ら進んで1863年その支配下に入る。そして、1866年に王都をプノンペンに移すのである。プノンペンの歴史はこの時から始まった。
川岸の道を歩いてワット・プノンに向かう。ワット=寺、プノン=丘 を意味する。プノンペンの名前の由来となった寺である。1372年というから、栄華を誇ったアンコール王朝に翳が差し始めたころである。ペンと言う夫人がこの丘の上に寺を建立した。以来、プノンペンの守護寺院として人々の信仰を集め続けている。東側の正門よりナーガの欄干の石段を昇ると本堂に達する。 黄色く色づいた稲田の中の道がどこまでも続く。舗装はされているものの、路面はでこぼこが多く快適とは言えない。さらに2時間走って、トイレ休憩。隣の幼児連れの男性は途中で降りたが、財布を落としていってしまった。車掌が回収したが無事に戻るのだろうか。出発から6時間、バスはようやくシュムリアップ郊外のバスステーションに到着した。途端に、バイタクとトゥクトゥクの運転手が群がる。ここから市内中心部まではまだ3.5キロある。気の弱そうなバイタクの運チャンを捉まえ、「いくら」と聞くと、2,000リエルと答えて、慌てて1ドルと言い直す。もう遅い。2,000リエルで街の中心部へ向かう。 チェンラー・ゲストハウスへ行ったのだが、ろくな部屋がない。去ろうとしたら、隣のMon Pa Pa ゲストハウスを勧められた。奥さんどうしが姉妹だという。真新しいゲストハウスで部屋もきれいである。チェンラー・ゲストハウスの施設を自由に使ってよいとのことなのでチェックインする。 ついに、アンコール王朝の故郷へやって来た。この街の訪問は4年ぶり、2度目である。バンコク在住であった2003年8月にわずか1泊で訪れたことがある。この時は、アンコールトム、アンコールワット、タ・プローム、バンテアイ・スレイ、プノン・バケンという有名な五つの遺跡を見学しただけであった。今回は、数日滞在し、思う存分クメール遺跡を堪能するつもりでいる。夕方、4年前の記憶を頼りに街を歩いてみた。街はすっかり変わり、昔の面影はなかった。当時は通る車もなかった国道6号線は横断するのもままならないほど車で混雑し、街には外人観光客が溢れている。カンボジアの凄まじいまでの復興ぶりを目の当りにした思いであった。 泊まったゲストハウスでは中国式祭壇が祀られている。「あなた達は中国系か」と聞いてみると、「祖父の代に中国から移住してきたが、もう中国語もわからず、完全なカンボジア人です」と笑っていた。 |