おじさんパックパッカーの一人旅

安らかなる国 ラオス放浪記 (上) 

 悠久の時流れる大地を一人旅して

2004年2月17日〜24日


 
 
 なんとも安らかな旅であった。心休まる旅であった。心をかき乱すものは何もなかった。不快な思いは皆無であった。時間はゆっくりと流れ、そこには時間に逆らうことのない悠然たる人々の暮らしがあった。競うことを嫌い、媚びることを嫌い、駆け引きさえも嫌う人々。幸福とは何か、豊かさとは何か。それを考えさせられる旅であった。 

 この国が本当に長期にわたる激しい内戦を戦った国なのか。この国が本当に社会主義国なのか。そこには、神経をすり減らすような活発な経済活動も、深い内戦の傷跡も、さらにまた社会主義の残滓もなかった。ただただ、ゆったりとした人々の平和な日常が続いていた。

 物質的には人々の暮らしは決して豊とはいえない。都会を除けば、竹を編んだ壁の粗末な高床式の小屋に住み、電化製品など無縁の生活である。子供たちははだしで走り回り、その側を豚と鶏と犬がのんびりと闊歩している。しかし、街に物乞いの姿はなく、つきまとう物売りもいない。出会うのは、シャイで正直で人懐こいな澄んだ目を持つ人々である。この国は日本が遠い昔に忘れ去ってしまった何かを今なお持ち続けている。そう、心の豊かさを。

 目をつぶると、いくつかの情景が夢のように浮かび上がってくる。まだ明けやらぬ街中を山吹色の衣を付けたいくつもの僧の列が静かに進む。人々は履物を脱ぎ道端に正座して僧を待つ。無言で差し出す壺に、無言でカオニャオ(糯米)の一つまみを入れ、じっと手を合わす。ルアンプラバンで、ビエンチャンで毎朝繰り広げられる美しい絵巻物である。

 どこまでも続く山岳地帯をバスはウンウンいいながら、尾根から尾根へと曲がりくねった山道を進む。山肌はただ一面に焼き畑である。ときおり現れる小さな集落は、バナナの葉で葺いた屋根と竹で編んだ壁の粗末な家々。裸足の子供たちがバスに手を振り、豚と鶏と犬が慌てて道をよける。

 瀞となり、早瀬となって流れるメコン川を遡る船旅。どこまで行っても両岸は山また山、人家はまったく見られない。ようやく小さな船着き場に着けば笑顔溢れる人々が10年来の知己のごとく迎えてくれる。水が差し出され、菓子が渡され、揚げ句の果ては竹筒にはいった地酒まで出てくる。
 

   第一章 旅の序曲

  ラオスってどんな国?
 アンコールワットのように壮大な遺跡があるわけでもなし、エメ
 ラルドグリーンの海が広がっているわけでもなし、タイのトムヤ
 ンクンのような名の知れ料理があるわけでもない。かつてはイン
 ドシナの戦火に巻き込まれ、今もまたアジアの経済危機の影響を
 ストレートに受けたラオスは、海外からの経済援助に頼っている。
 しかし、その中で暮らす人々の心は常に豊かでほほ笑みを絶やさ
 ない。

 ラオス政府観光局ホームページの冒頭コピーである。「貧しい国だよ。何もない国だよ。だけど、心の豊かさはどこの国にも負けないよ」。こんなコピーを世界に向かって発信できる国はそうはない。思うがままに旅をしてみよう。一人でザックを担ぎ、足の向くまま、気の向くままに。幸い時間だけはたっぷりある。

 とは言っても、未知なる国への一人旅、不安が心をよぎる。前日、ラオスについての本が何かないものとバンコクの紀伊国屋書店に行ってみた。ベトナム、カンボジア、ミャンマーに関する本は多々あったが、物の見事に、ラオスに関する本は一冊もなかった。一瞬がっかりもしたが、我が意を得たりと何やらうれしくなってしまった。案内書でさえ、ラオスに関するものは「地球の歩き方」シリーズで発行されているだけである。
 

    第二章 ラオスへの思い

 バンコクの行きつけの飲み屋にラオス人の娘がいる。タイでは別に珍しいことではない。ラオスとタイは単に隣の国というより、同属の国・兄弟の国である。タイ国家を創ったシャム族とラオス国家を創ったラオ族はともにタイ族である。ラオ語はタイ東北地方のイサン方言とほぼ同じである。従ってタイ語とラオ語は互いに通じ合う。社会文化もほぼ共通していて、両国とも敬虔な上座部仏教国である。

 しかし、歴史的には両国は異なる道を歩んできた。タイ・シャム族は13世紀以降、いくつもの強大な王朝を建国し、現在においては、東南アジア最大の経済大国としてその存在感を示している。一方、ラオス・ラオ族は世界史にその名を残すような王朝は何一つ作っていない。常に、タイやクメールやビルマの影響・支配の下にあった。現在においても、東南アジアで一番目立たない国であり、インドシナ半島の真中にひっそりと息づいている。ラオ族が現在自前の国家をもっていること自体が不思議に思えるほどである。ラオ(ス)と言う国家・民族のアイデンティティは一体何なのか、それはいつ形成されたのか。考えてみても、さっぱりわからない。いたって存在感のないラオ(ス)なのだが、あるいはラオ( ス)と言う国家・民族の特徴を的確に現しているのではないかと思われる歴史的事象が一つだけ記憶に残っている。

 20世紀後半、ベトナム、カンボジア、ラオスのインドシナ3国は大規模な戦乱に巻き込まれた。戦いは、南北に分断されたベトナムの民族解放の戦いとして始まったのだが、東西両陣営がここぞとばかりに介入したため、戦火はインドシナ半島全体に広がり、大規模な代理戦争となった。戦いの主役・ベトナムは、最後まで「民族解放」という戦いの本質を見失わず、果敢な戦いを世界最強国の米国に挑み、ついに民族統一の悲願を果たす。一方、カンボジアとラオスでも両陣営に取り込まれた各勢力が激しい戦いを続けた。新聞は毎日のごとくラオスでの西側の代理人たる政府軍と東側の代理人たるラオス愛国戦線の間での激しい戦の様子を報道しつづけた。

 しかし、私はいつしか不思議なことに気が付いた。ラオスでの戦闘は、各種報道をいくら読んでも、戦闘の生々しさがどこか欠けているのである。あるとき、「ラオスでの戦闘は両軍とも鉄砲を空に向けて撃っている」との記事を目にした。「そんな馬鹿な」とは思ったが、どうやら、なかば事実であったようである。その証拠に、主戦場であったベトナムでの勝負がつき、東西両陣営が引き上げると、ラオスは、長期にわたる内戦の政治的社会的後遺症を残すことなく、あっという間に平和な統一国家に戻ってしまうのである。一方カンボジアは、代理戦争を戦っていた各勢力が、今度は憎悪を剥き出しにした本気の戦いを始める。その結果数百万人の同胞が虐殺されると言う悲劇を招くのである。対象的なベトナム戦争後の両国の歴史。この歴史の推移にラオ族の本質が見える気がする。
 

   第三章 旅立ち

 どうせなら、タイから陸路で首都ビエンチャンに入り、古都ルアンプラバンからラオス北部を経て、タイ北部のチェンライへ抜けてみよう。おおまかなルートを決めただけ、後は気ままな旅である。前の晩、前記飲み屋のラオ娘にラオ語の特訓を受けたが、一晩寝たらすべて忘れてしまった。

 バンコク国際空港発6時50分のウドーン・ターニー(Udorn Thani)行きの国内線に乗る。妻に陸路ビエンチャンに入ると告げると、「何でそんな馬鹿なことをするの。バンコクから直接飛行機でビエンチャンに行けばよいものを」と納得しかねる顔をしていた。「陸路で国境を越える」。これは私が抱き続けてきたロマンである。

 ローカル線の小型機を想像していたら、意外にもジャンボ機。しかも座席はほぼ満席である。いったいどんな人が乗っているのだろう。眼下に広がるバンコク平原はさしたる変化もなく、わずか1時間5分の飛行でそこはもうイサーン地方の中心都市ウドーン・ターニーである。飛行場は思いのほか立派であった。

 さて、ここから国境の町・ノーンカーイ(Nong Khai)まで行かなければならない。案内書には空港からリムジンバスが出るとあるのだが、昨夜一緒に飲んだ I君は「去年行ったときはそんなものなかったよ。ウドーン・ターニーの町まで行って、路線バスに乗ったぞ」と言っていた。何やら不安である。空港ビルをでると目の前に一台のバスが止まっていた。ノーンカーイへ行くのかと聞くと、ダイ(Yes)という。やれやれである。料金は100バーツ、バスには数組のバックパッカーが乗りあわせている。中に二組の日本人と思われる若者もいる。みなラオスを目指すのであろう。

 発車間際に車掌が一人ひとりにどこで降りるのか聞いて回る。パイ・ラオ(ラオスへ行く)と答えると、何やらしきりに確認するのだがさっぱり分からない。バスは1時間走り、そろそろノーンカーイの町と思われるころ、道脇に停車した。バックパーカー達がぞろぞろとバスを降りる。ん  ! と言う顔していたら、車掌がラオスへ行くならここで降りろという。終点のバスターミナルまで行って、そこからツクツクにでも乗って国境まで行くつもりでいたがどうも勝手が違う。降りると目の前に旅行社があり、皆当然のごとくそこへ入っていく。しばらくして、ようやく事態が飲み込めた。国境越えの諸手続をこの旅行社がやってくれるらしい。しかも、どうやらこうすることが、ラオスを目指すバックパッカーの常識らしい。発車前に車掌がしつこく確認していたのはこのことだったようである。しかし、こんなルールを皆どこで知るのだろう。
 

   第四章 ラオス入国

 2000バーツを払うと、タイ出国書類、ラオスのビザ申請、入国書類等すべて整えてくれ、おまけにラオスのイミグレーションまで係の人が同行してくれるという。国境の窓口で全部一人でやるつもりでいたのだが。バックパーカーの世界も金次第なのか。女の人に付き添われて、欧米人の単独行者と二人、ツクツクに乗せられて国境のフレンドシップ・ブリッジ(Friendship Bridge)に向かう。出国手続はすべて彼女がやってくれる。橋の上だけを走るバスに乗りメコン川を渡る。このフレンドシップ・ブリッジはメコン川に架かるただ一つの橋である。全長1174メートル、オーストラリアの援助で1994年に完成した。いまや、タイとラオスを結ぶ大動脈である。車窓よりメコン川を初めて見る。大きな川だ。これから先、この川を見続けることになる。

 ラオス側のイミグレーション前は次々とバスで到着する人々でにぎわっていた。大きな荷物を抱えた人、黄色い衣を付けた僧侶、その中に混じって大きなザックを背負ったバックパッカー達。私もその一人だ。ベンチに座り、ぼんやりと待つほどに、女の人がビザの押されたパスポートをもって戻ってきた。さぁ ここからは一人だ。入国料の10バーツを支払うと何事もなく入国は許可された。ラオス側のイミグレーション前の広場にでる。ここはもうラオス。ついにラオスへやって来たのだ。

 この広場も多くの人でごったがえしている。旅行者、出迎えの人、そしてまた旅行者目当てのツクツクやミニバスの運転手達である。さてここからどうするか。目指すビエンチャンまでまだ20数キロある。すぐにツクツク(ラオスではトクトクと呼んでいた)の運転手が寄ってきてビエンチャンまで250バーツと誘う。ミニバス(小型トラックの荷台を改造したソンテウのこと)の運転手は200バーツと誘う。無視してぶらぶら歩き回っていたら、ワゴン車が150バーツで行くという。これに決めた。それにしても、ラオスに入ったというのに、通貨はすべてバーツ建て、入国料からしてバーツなのだから驚く。自国の通貨キープはどこに行ってしまったのだろう。もちろん私もキープへの両替はしていない。財布の中はバーツとドルと円だけである。

 私は助手席に、後部座席には二人連れの欧米人バックパッカーとラオス人の二人連れが乗り込んだ。初めて見るラオスの風景は新鮮である。そして意外でもあった。簡易舗装された広い道が続き、道には車が溢れている。さすがに乗用車の姿は少ないが、トラック、ピックアップ、三輪車、リアカーを引いた耕耘機、そしてオートバイの群れ。タイの田舎と変わらない景色である。ラオスは貧しい国との先入観があり、車の姿がほとんど見られないカンボジアのイメージを抱いていたのだが。車は警笛を頻繁にならしながらビエンチャンを目指す。「あれがビア・ラオの工場だよ。おいしいぞ」。運転手が得意げに道端のビール工場を指さす。東南アジアでは少しは名のしれたこの国産ビールは、ラオス人の自慢らしい。

 30〜40分走ると、町並みに入った。そろそろビエンチャンかと思っていると車は止まった。え! と言う顔をしたら、ここがビエンチャンだという。見れば目の前にガイドブックで見た噴水がある。ということは、ここはビエンチャンのど真ん中である。何! ここがラオスの首都のビエンチャンの中心? 2〜3階建ての小さな建物が軒を連ねているだけ。日本の田舎町の中心街の方がもっとにぎやかだ。ともかく車を降りる。停まったところは真新しいゲストハウスの前。運転手はしきりにここへ泊まれと勧めるが、この時点ではまだ未知なる国に対する私の警戒感は強い。うさんくささを感じ、振り切ってナンプー(噴水)前のベンチにひとまず陣取る。後から考えると、どうも警戒し過ぎであったようである。結局町の中心部近くの大通りに面したゲストハウスに部屋を取る。エアコン付きの部屋で1泊20ドル。他に宿泊者がいる様子もない。もっともまだ朝の10時半。予定より大分早く着いてしまった。ビエンチャンには3泊するつもりである。
 

   第五章 首都ビエンチャン

 荷物を部屋に放り込むと、カメラと案内書を抱えて早速街に飛びだした。先ずは宿から2〜3分の ナンプー(噴水)に行き、地図を広げて現在位置と方向を確認する。街の中心にあるこの噴水はよきランドマークである。周りにはベンチが設置されている。

 先ずはともあれメコン川に行ってみよう。大きな通りを二つ横切り、真っすぐ5分も南に進むと川岸に出た。さすが世界有数の大河である。向こう岸まで3〜4キロはあるだろうか。ただし残念ながら川の流れはタイ側の岸を洗っており、ラオス側は広大な砂浜と湿地帯になっている。流れまで行くとすると15〜20分近く掛かりそうである。砂浜では盛んに砂の採取が行われている。この川がラオスとタイの国境である。向こう岸はもうタイ。家々がはっきり見える。何となく従来抱いてきた国境というイメージが頭の中で崩れていく。川岸には茅葺き屋根のオープンスペースのレストランが何軒かある。その1軒に入り込んでビア・ラオを注文する。まずはラオス到着祝いである。メコン川を眺めながら一人グラスを傾ける。このビールの味はまた格別である。

 ほろ酔い気分で中心部へ戻る。真昼の太陽が真上から照りつけ、さすがに暑い。バンコクを出発したときから Tシャツにサンダル履きのバックパッカースタイルではあるが。それにしても、ここが人口50万人の首都ビエンチャンの中心部とはどうしても思えない。高層ビルはおろかまともなビルなど一つもない。小さな大衆食堂や商店、ゲストハウスなどが雑然と並んでいる。しかし、通りは車の洪水である。特にバイクの数は凄まじい。しかも新車が多い。ラオスってこんな活発な国だったのかと思いを新たにした。

 そろそろお昼。小さな大衆食堂に入りサンドイッチを注文したら、フランスパンのサンドイッチが出てきた。ビエンチャンに到着して、まだ2時間ほどだか、「あれ」と思ったことがいくつかある。一つはフランス文化の影響が濃厚に残っていることである。食堂の店先に並ぶパンはすべてフランスパン、レストランのメニューもラオ語とフランス語であった。町の看板もラオ語とフランス語の併記が多い。その後確認するが、官公庁の標示は ほぼ100%フランス語併記である。確かに1893年から1953年まで、ラオスはフランスの植民地であったが、いまだにこれほどフランスの影響が残っているとは思わなかった。もう一つは、英語が実によく通じることである。ちっちゃな店の店員でもトクトクの運転手でも流暢な英語をしゃべる。英語の通じにくいタイとは雲泥の差である。私より皆数段にうまい。癪なので、こっちはできるだけタイ語でしゃべっている。タイ語は問題なく通じるので助かる。さらに言うと、タイに比べ、圧倒的に日本の影が薄い。バンコク市内なら、どこでも見られ日本語の看板などどこにもない。

 午後からは市内見物である。案内書(地球の歩き方)には街中心部の二つの寺院が紹介されている。ワット・ホー・パケオ(Wat Ho Phakeo)とワット・シーサケット(Wat Sisaket)である。二つの寺はセタティラート通り(Setthathilat Rd)を挟んで対峙している。大木の並木が続く気持ちのよいセタティラート通りを10分も歩くと、目指すお寺に着いた。ただし、見学時間は1時からとのことでまだ扉は閉まったままである。ワット・シーサケットの庭の石に腰掛け時間待ちをする。向こう側では欧米人の若い女性が若い坊さんと話し込んでいる。一人の東洋人の若者がやってきて、私の側の微妙な位置に腰掛けた。持ってる案内書をちらりと見るとハングル文字、韓国の青年のようだ。彼も私を同国人ではと思い側に寄ってきたようである。このときは目を合わすこともなく別れたが、彼とはこの後、3日にわたって出会うことになる。

 1時を10分も過ぎたころようやく扉が開いた。ラオス時間なのだろう。入場料2000キープ、わずか20円である。面白いことに、次に訪れるワット・ホー・パケオも同じなのだが、入場券はシーサケット博物館となっている。思うに、お寺の拝観料を取ることに後ろめたさを感じ、博物館扱いにしたようである。タイの寺院は、ワット・プラケオでも、ワット・ポーでもワット・アルンでも外国人からは堂々と拝観料を取っている。ワット・プラケオなど200バーツ(約600円)もとる。それに比べ何と慎ましいことか。いかにもラオスらしい。この寺は1824年(1818年説もある)にアヌ王より建立された。寺院の回廊には無数の仏像がはめ込まれていて壮観である。その数6840体、本堂の仏像と合わせると約一万体の仏像が祀られているという。しかし、このお寺で一番目を引くのは境内の隅に建つ古色蒼然としたお堂である。その独特の屋根の形は何とも言えない優雅さを醸し出している。ビルマ様式の建物で、書庫であったという。そしてこのことはまたラオスが一時期ビルマの支配下にあったことを思い起こさせる。その前で、一人の中年男性が熱心に写生をしていた。

 道路を挟んだ反対側のワット・ホー・パケオ(Wat Ho Phakeo)に向かう。私がビエンチャンで一番行ってみたかったお寺である。ワット・ホー・パケオをタイ語読みするとワット・プラケオとなる。日本語に訳せばエメラルド寺院である。すなわち、タイの国家守護仏であるエメラルド仏が鎮座するタイで最も重要な王室寺院・バンコクのワット・プラケオと同名なのである。私の知るかぎり、ワット・プラケオの名を持つ寺院は他にも三つある。タイのチェンライ、ランパーン、カンペーン・ペッである。このことはエメラルド仏のたどった数奇な運命と関係している。そしてまた、タイとラオスの複雑にからみあった歴史でもある。実は、エメラルド仏はラオスにおいても国家守護仏なのである。ラオスの人々は今でも、この最も重要な仏像がタイに奪われたと恨んでいる。もっとも、タイ人に言わせれば、元々はタイの物であるということになる。

     エメラルド仏の流転

  エメラルド仏は1434年北部タイ地方・ランナー王国統治下のチェンラ
  イで、落雷で破壊された仏塔のなかから漆喰でおおわれた姿で発見され
  た。王・サームファンケーンは仏像を首都チェンマイに迎えようと三度
  も象を送たが、そのたびに象は手前のランパーンの町で足を止めてしま
  た。このため王はこの仏像をランパーンの町に安置することを許し、仏
  像はランパーンの町に約32年間留まった。

  1468年、王・ティローカラートはついにエメラルド仏を首都チェンマ
  イに運び、ワット・チェディ・ルアンに安置した。

  1545年、ランナー王国の王ケート・クラウは世継ぎを残さぬまま死ん
        だ。このため、ラオス・ラーンサーン国王に嫁いでいた王女の産んだ王
  子セーターティラートを王 としてチェンマイに迎えた。ところが、今度
  は1550年、ラーンサーン王国のポティサーララート王が死に、セーター
  ティラート王はタイ・ランナー王国とラオス・ラーンサーン王国の両国
  王を兼ねることになる。

  1552年、セーターティラート王はラーンサーン王国の首都ルアンプラ
  パンにエメラルド仏を持って帰国する。しかし、王もエメラルド仏も
  二度とチェンマイに戻ることはなく、仏像はその後12年間ルアンプラ
  パンに留まる。

  1564年、ラーンサーン王国はビルマ軍に攻撃され、首都をビィエンチャ
  ンに移す。この際、エメラルド仏もビエンチャンに移され、以降214年
  間ビィエンチャンのワット・ホー・パケオに安置されることになる。

  1778年、トンブリ王朝の将軍・チャクリ(後のラマ一世)はビルマ支
  配下にあったラオスに進軍しビエンチャンを占拠する。このときエメラ
  ルド仏をタイ国に持ち帰った。

  1782年、将軍・チャクリは自らチャクリ王朝を開き、ラーマ一世とし
  て即位する。そして、1784年に新都バンコクに新たにワット・プラケ
  オを建立し、国家守護仏としてこのエメラルド仏を安置した。

 2000キープの拝観料を払って境内に入る。もちろん、バンコクのワット・プラケオとは比べようのないほど質素な寺院である。この寺院は1565年、エメラルド仏を安置するために建てられた。しかし、1828年、タイとの戦いにより破壊され、現在の寺院は1942年に再建されたものである。設計図が残っていなかったため、元々の寺院とはかなり違う形であると言われている。屋根を支える太い円柱の列がなにやらギリシャ神殿をイメージさせる。本堂テラスには多くの傷ついた仏像が並んでいる。その顔は異様である。どの仏像も目がくりぬかれている。もともと宝石が埋め込まれていたが、タイ軍に持ち去られたためである。本尊の前に座り、ラオスの、そしてこの寺の波乱の歴史を一人思う。

 ワット・ホー・プラケオの隣に、広大な敷地を持つ白亜の殿堂が建っている。ラオス国家の迎賓館である。その前から、中央分離帯を持ち片側三車線もある素晴らしい道路が真っすぐに北へ延びている。そしてその道路の遥か遥か彼方に、凱旋門のような大きな大きな建物が立ちふさがっている。ラオスの凱旋門とも言われるパトゥーサイ(Patousai)である。歩くと30分はゆうに掛かりそうである。トクトクに乗って行くのが正解なのだろうが、未知の街は歩くに限る。昼下がりの炎天下、てくてくと大通りを歩く。この大通りの景観はビエンチャンの街中にあっては一種独特である。官庁や銀行の瀟洒な建物がゆったりと並び、まるで欧州の官庁街の趣さえある。中央郵便局があった。寄ってみると、本館の横に小さな建物があり、記念切手やちょっとしたおみやげを売っている。道路を挟んだその隣がビエンチャン最大の市場・タラート・サオ(Talat Sao)である。この一角だけがビエンチャン本来の雑踏をもってにぎわっている。後日ゆっくり見学しよう。その先にツーリスト・インフォメーションを見つけた。寄ってみたがたいした資料は得られなかった。

 ようやくパトゥーサイに到着した。見上げるばかりの巨大な城門で、通りのど真ん中にデンとそそり立っている。この巨大な城門は内戦で戦死した兵士の慰霊塔として、1960年から建設が始まったという。ただし、いまだ未完であるとのこと。入場料1000キープ(約10円)を払い、城門に登る。四階建てで、2階3階はお土産物売り場となっていた。屋上のテラスにでる。四方に視界が大きく開け、まさにビエンチャンの街が一望できる。小さな街である。意外に緑が多く、街並というような建物の群れは見当たらない。西側眼下に首相官邸がある。まさに丸見えである。なんとも無防備、いかにもラオスらしい。

 ぶらりぶらりと歩いてナンプーまで帰る。今日でビエンチャンの土地勘は完ぺきに取得した。ナンプーを中心にした半径約2キロの小さな町である。大分日が傾いてきた。メコンに沈む夕日を眺めながら夕食としよう。旅立つ前から憧れていた情景である。川岸の粗末なレストランに入り、ビア・ラオとラープを注文する。ラープとはラオスの代表的な料理で肉や野菜を独特の香草で炒めたものである。食べたことはないがガイドブックに載っている。「ラープ」というと一発で通じたのだが、「肉は何にする、味付けはどうするか」と細かな注文を聞いてくる。「肉はムー(豚肉)。ガイ(鳥肉)はアンタライ(危険)。ペッ(辛い)はメダイ(だめ)」とタイ語で対応すると笑っていた。たっぷり皿に盛られたラープと竹製の小さな丸篭(ティップ・カオ)に入ったカオニャオ(糯米)が出てきた。思った通りのラオス料理である。カオニャオはタイのイサーン料理でもポピュラーなので食べ方は知っている。手づかみで篭から採り、指で丸めて食べる。ところがラープがものすごく辛い。恐れていたことが現実になった。タイを始め東南アジアの料理は一般的にものすごく辛い。辛いのはどうしても苦手である。ビールだけでは足らず、水を注文してがぶ飲みしながら食べる事態となってしまった。その間に、夕日がメコン川の向こう、タイの大地に沈んでいった。
 

   第六章 ビエンチャンを歩く

 6時に目が覚めた。外はまだ暗い。そのまま街に飛びだす。昼間は雑踏とエネルギーに満ちあふれていた街も、いまだ眠っているかのように静かであった。夕方には街の中心部に溢れていたバックパーカー達の姿も今はない。足はお寺の多いセタティラート通りに向かった。うっすらと明けてきた通りに、列をなして進む僧の姿が見える。二つ、三つ。山吹色の衣を付けた10数人の裸足の列が静かに通りを進んでいく。あちらの街角、こちらの街角に女達が数人ずつかたまり、カオニャオの入った大きなティップ・カオを抱えて正座し、静かに僧を待っている。いずれも履物を脱ぎ、肩にはラオ族の正装の印であるバービアン(縦長に折って肩にかけるショール)が掛けられている。僧は無言で肩にかけた壺の蓋をとり女達の前に差し出す。女達も無言で一つかみのカオニャオを壺に入れ、じっと手を合わす。静寂だけが辺りを支配し、見物などという好奇心ではとても近寄りがたい雰囲気である。少し離れ、この絵巻物のような風景に目を凝らす。

 托鉢の風景は、バンコクでも見られる。しかしバンコクでは、一人の僧が一人の荷物持ちを従え、二人で歩いている。僧が列をなすことはない。なにやら乞食坊主の門ずけのようで絵にならない。

 今日もビエンチャンの市内を徘徊するつもりである。先ず向かうはタートルアン(That Luang)である。市の北東の丘の上に立つ黄金の塔で、ラオス全土のシンボルである。歩いて行くにはちょっと遠い。通りに出てトクトクを拾う。ビエンチャン市内で利用できる交通手段はトクトクだけである。もちろんタクシーなどない。バイクは道に溢れているのだが、バンコクのようにバイクタクシーもない。気の弱そうな運転手に「タオライ(いくら)」と聞くと、「ヌンドラー(1ドル)」との答え。「メダイ(だめ)、ベットパンキープ(8000キープ)」と私。彼はしぶしぶOKした。後から考えるとちょっと値切りすぎたようである。帰りは、15000キープも取られたのだから。

 早朝のまだ交通量の少ない大通りを、おんぼろトクトクはエンジンの馬力をいっぱいに使いながら坂道を上って行く。 程なく、タートルアンの建つ丘の上に到着した。目の前には全面ピッカピカの黄金色に輝く巨大な塔が聳え立っている。前面は大きな広場となり、そこにタートルアンを守るかのごとくセーターティラート王の銅像が建っている。セーターティラート王(在位1548〜1572)はタイ・ランナー王国の王とラオス・ラーンサーン王国の王を兼ねた王で、都をルアンプラバンからビエンチャンへ移した王である。ビルマからの数次にわたる攻撃を跳ね返し、ラーンサーン王国の独立を守った王として知られている。

 このタートルアンは起源としては紀元前3世紀まで遡ると言われるがはっきりしない。いずれにせよ、この場所が聖なる場所として大昔からラオの人々に崇められてきたことは確かである。ビエンチャンに遷都した1566年、セーターティラート王により現状のような仏塔が建てられた。しかし、この仏塔も1873年の雲南ホー族のビエンチャン侵攻により破壊され、1930年代に入ってから本格的な修復がなされた。この地で毎年秋に行われるタートルアン祭はラオス最大の祭りで、全国から僧侶が集まるという。

 拝観料2000キープを払って、黄金色に輝く外壁の中に入る。草地の中庭となっていて、その中央にまばゆいばかりの黄金の塔が聳えている。高さは45メートルあるという。よくぞこれだけの大建造物が、革命動乱の時代を乗り越えたものと感心する。やはりこの地はラオの人々の心の故郷であったのだろう。

 次に目指したのは、市中心部にある国立博物館である。その国立博物館と道路を挟んだ向かい側に、実に立派な、真新しい巨大な建物が建っている。おそらく、ビエンチャンで、即ちラオスで最も大きな建物だろう。表札にはラオ文化会館とあり、中国の援助で建てられた旨記されている。「さすが中国、やるからには宣伝効果満点のことをやるわい」と一度は感心した。しかし、翌日、ビエンチャンのバスターミナルへ行き、この考えは改めた。

 博物館に入る。入場料5000キープとの表示。1ドル札を出したらバーツでおつりをよこした。思わず吹き出してしまう。係の女の人も笑っている。ラオスではキープ、ドル、バーツが完全に混在して流通している。このため、買い物をするとき数字と通貨の両方を確認しなければならず、最初は多いに戸惑った。だいたい1ドルが10000キープで計算されている。ただし、キープの受け取りを嫌がる風潮はまったくない。自国通貨リエルの受け取りを嫌がったカンボジアとはこの点多いに異なる。

 博物館は2階建てである。国立博物館と言ってもその規模は小さく、バンコクのタイ国立博物館とは比べるべくもない。しかし、ラオスの歴史・社会・文化を一生懸命展示しているという熱意が感じられどこかすがすがしい。社会主義国家にありがちな、イデオロギー的宣伝臭さはない。この博物館は数年前まで革命博物館であったという。中でも目を引いたのは背丈ほどもある大きな石の壺である。この石の壺については事前の知識があった。ラオス北部地方中央部のジャール平原にこの巨大な石壺が500個以上も転がっているという。紀元前後の物と言われているが、その目的は未だ謎のままである。

 2階に上がっていったら、突然「 アンニョンハシムニカ」と声がかかった。反射的に「サワディーカップ」と答えて、声の方を振り向くと、昨日ワット・シーサケットで見かけた韓国の青年がにこにこしながら立っている。いきなり韓国語で挨拶してきたところを見ると、私を同国人と思っていたのかもしれない。私も、無意識であるが、英語でも日本語でもなくタイ語で挨拶を返したところが面白い。ラオスに入ってからも、どういうわけか、英語よりも先にタイ語が口から出る。ラオスではどこでもタイ語が通じるとの安心感があり、買い物も食事もほとんどタイ語で通している。もっとも、昨日食堂のおばさんに、「コップンクラップ(ありがとう)」と言ったら、即座に「メチャイ(だめ)、コプチャイ」といわれた。ラオ語では「ありがとう」を「コプチャイ」という。

 これで案内書に載っている名所旧跡はだいたい見学したことになる。市内を東西に貫くセタティラート通りの西側に行ってみることにする。地図にいくつかの寺院記号が記されている。先ずはワット・ミーサイ(Wat Mixai)に向かう。境内から元気の良い子供たちの声が聞こえる。行ってみると、境内に小学校がある。いや、正確に言うと、お寺が小学校になっている。一階が教室、二階が僧房である。そして運動場はお寺の境内、講堂は本堂である。まさに寺子屋である。近づいて見ると、5クラスほどあり、男女共学で1クラス50人ほど。3人用の長机と長イスである。国語の時間なのだろう。大きな声で教科書を声を合わせて読んでいた。

 ラオスの教育制度は5・3・3制であり、小学校の5年間が義務教育となっている。義務教育の就学率は2000年時点で82%との統計がある。この数字は、国土のほとんどが山岳地帯で、隔絶された小集落の多いことを考えると、驚異的な高率である。日本の江戸時代と同じく、お寺が教育を担っているのかもしれない。

 隣のワット・オン・トゥ(Wat Ong Teu)に向かう。ふと振り向くと、何と、かの韓国青年がいるではないか。国立博物館では挨拶をかわしただけで別れたのだが、行動がまったくいっしょとは驚いた。この後も、後になり先になりしながら行動を共にした。しかし、昼飯でもいっしょにしようかと思っているうちにはぐれてしまった。

 ワット・オン・トゥは大きなお寺であった。本堂前のベンチに座っていた若い僧侶が「サワディー(こんにちは)」と声をかけてくる。ラオスのお寺の若い僧侶達はいたって気さくである。外国人に積極的に声をかけてくる。どこのお寺でも、欧米人の若い女性と話し込んでいる若い僧侶の姿が多く見られる。タイでは余り見られない光景である。彼らは皆英語が達者である。お寺で英語教育をやっているのだろうか。
 
 一見したところ、ラオスにおける僧侶の人口比率はタイよりも多いと思われる。しかも、中学生ほどの若い(幼い)僧侶が多い。親元を離れての僧房での集団生活である。おそらく、寺という存在が、若者の社会教育・情操教育、学問教育に大きな役割を果たしているのだろう。そして、これだけの不労人口を養う力が、ラオス社会の根底にあるということである。GNPだけでは、社会の豊かさは計れない。この仏教も、社会主義革命の初期、一時弾圧された。托鉢も禁止されたと聞く。しかしいつの間にか、もとのラオスに戻っている。どう政治体制が変わろうとラオスはラオスなのである。

 ぶらぶらと、ワット・イン・ペン(Wat Ing Peng)、ワット・ハーイソークを見学して街の中心部に戻る。昼食にうどんが食べたくなった。調理台にセン・ヤイ(きしめんのような麺)のあるのを確認し、小さな大衆食堂に入る。こんな小さな食堂に外国人などめったに来ないと見え、女の子が不安そうにメニューを持ってやってきた。メニューはラオ語、読めるわけがない。「セン・ヤイ・ナーム・ムー」と注文すると、安心したのかにっこり笑って、「チャオ(はい)」とラオ語の答えが返ってきた。代金は2000キープ(20円)、なんとも安い。

 ひと休みした後、ワット・シームアン(Wat Si Muang)に行くことにする。街の東はずれにあるお寺である。ちょっと遠いが歩いていくことにする。30分も歩けば着くだろう。ぶらりぶらりと、大通りを東に向かう。学校がある。右側に小学校があり、続いて左側に中学校がある。両校とも寺子屋ではなく校舎とグランドを持つ学校である。下校時刻と見えて生徒達が道にあふれ出ている。女の子達が実にかわいい。全員ラオ族の民族衣装であるシン(巻きスカート)姿である。現在ラオスでは、公務員と生徒学生にはこのシンの着用が義務づけられている。もちろん、人口の約60%を占めるラオ族についてのみである。ただし、義務づけるまでもなく、街で見かける女性の60〜70%はシンを着用しているし、農村に行けばほぼ100%着用している。また、ラオ族以外にもシンの着用がじわじわ広がっているとのことである。自己主張の弱いラオだが、こんなところに、ほのかな民族意識が垣間見られる。タイでは日常生活においてタイの民族衣装が見られることはもはやない。

 炎天下を30分歩いて、目指すワット・シームアンに到着した。ビエンチャンで最も参拝者が多いと言われるお寺である。門前には供え物の花や線香を売る店が立ち並んでいる。タイのお寺ではどこでも門前もしくは境内にお供え物を売る店があるのだが、今まで訪れたラオスのお寺にはどこもこのような店がなく、不思議に思っていた。本尊の前に座り手を合わす。日本人は仏像に手を合わすことには抵抗はない。その点、欧米人はどうしていいのか分からず、おたおたしてる。

 ワット・シームアンの隣に、ビエンチャンの東端を守るがごとくシーサワンウォン王の銅像が建っている。この王は、日本軍がフランス領インドシナを解体したのを受け、1945年4月、ラオスの独立を宣言したことで知られている。

 ビエンチャン中心部へいったん戻り、今度は町の西端へ向かう。地図によると、ここにファーグム王の銅像が建っているはずである。30分も歩くと目指す銅像に到着した。今日はまったくよく歩く。

 ファーグム王(在位1353年〜1371年)はラオスの歴史において、最初にしてかつ、実質上ただ一つの王朝であるラーンサーン王国の建国者である。ファーグム王は、北部ラオスのシェントーン(現在のルアンブラバン)の都を支配した王族の出で、長じるに及んでクメール王の王女を娶り、クメール王の強力な軍勢の支援を受けてラオス各地を勢力下に収めていった。そして、1353年ラーンサーン王国を建国し初代王となった。いわば今に続くラオスと言う国家の基礎、アイデンティティを築いた王と言える。

 夕やみ迫る道をとぼとぼと街の中心部へ戻る。ナンプー広場は続々と到着する。バックパーカー達でにぎわっていた。このビエンチャンの中心部はタイのカオサン通りの様な雰囲気がある。見かけるバックパッカーは100%欧米の若者である。日本人などラオスに入ってから一人も見かけない。「日本の若者はいったい何をしているんだ」と、不満のひとことも言いたくなる心境である。いずれもアベックか2〜3人連れで、さすがに単独行は少ない。いずれもサンダル履きで、大きなザックを背中に背負い、前にも小さなザックを保持している。これが標準的バックパッカースタイルなのだろう。出会えば互いに親しげに話し合い、情報交換をしているようだが、日本人のおじさんバックパーカーには誰も寄りつかない。孤独である。

 ナンプー付近の食堂はこれら欧米人の若者に占領されているので、少しはなれた小さな食堂に行く。お客はだれもいない。すぐにメニューを持ってきたのだが、見ると何と日本語のメニュー。「おぉ イープン(日本)」と、叫ぶとにこにこ笑っている。やっぱり一目で日本人と分かるのかな。心遣いはうれしいが、日本語はしばし封印している。「ビア・ラオ and カオ・パット」とチャーハンを注文する。これなら安心して食べられる。辛い辛いラオ料理は昨夜で懲りた。
 

   第七章 ビエンチャンの地肌

 今日はもう特段見学するところもない。ビエンチャンの、ラオスの地肌をもう少し見てみるつもりである。7時過ぎに、ビエンチャン最大の市場であるタラート・サオとバスターミナルのある街の北東部へ向かう、歩いて10分ほどである。迎賓館からパトゥーサイ(凱旋門)に向かう瀟洒なラー・サーン通り(Lane Xang Rd)を横切り、一本東のマホーソット通り(Mahosot Rd)に出る。途端に景色と雰囲気が激変する。6車線ほどある広い通りなのだが、人と車が無秩序に入り乱れ、ものすごい熱気である。荷物を満載したトクトクやソンテウ、リヤカーを引いたオートバイや自転車。その間を手押し車や荷物を抱えた人々が行き交う。道脇には屋台と露店の列。通りの東側がバスタヘミナル、西側が市場である。この通りはまさにラオスの活力が爆発してる。バックパーカーに占領され、腑抜けのような中心部に比べ、何たる違いであろうか。本当のビエンチャンをみつけたような気になり、うれしくなった。

 まずバスタヘミナルへ行く。人々でごった返している。満員のバスが到着し、屋根に荷物を満載したバスが次々と出発して行く。このバスタヘミナルは日本の開発援助で作られたものだ。しかし、そんな表示はターミナルのどこにもない。今ここに動き回っているラオの人々だって、そんなことは知らないだろう。しかしこれでいいのだろう。これが本当の海外援助なのかもしれない。中国国旗とラオス国旗を高々と掲げた中国援助の素晴らしい文化会館より、よほどラオの人々に役に立っている。

 そんなことを考えながら待合室のベンチに座り、行き交う人々と出入りするバスを眺めていたら、突然、アンニョンハシムニカと大きな声が飛んできた。見ると、あの韓国の青年がザックを背負って立っている。やぁとばかりに駆け寄る。もう10年の知己である。「どこへ行く」「郊外のワット・シェンクアンへ行く。いっしょに行こうよ」「残念ながら、荷物はすべてゲストハウスだ。おれは明日ルアンプラバンに行く」「そうか、おれも2〜3日後に行く」「また会えるといいなぁ」「あっ バスが出ちゃう。元気でなぁ」。手を振って別れた。

 再びベンチに座り、人込みを見続ける。一人の裸足の子が、いくつかの百円ライターを抱え、一人ひとりに声をかけながら売り歩いている。小学校低学年の年頃だ。もう学校が始まっている時間、学校には行っていないのだろう。なにやらマッチ売りの少女を思い出し悲しくなる。いったい一日いくつ売れて、いくら儲かるのだ。効率だけ考えるなら、物乞いをしたほうがはるかに有効だろう。それでも少年は人込みに揉まれながら売り歩く。これもまたラオなのだろう。ラオスには物乞いはいない。1個1000キープ(10円)のライターを受け取り、思わず「僕、頑張れ」と日本語で声をかける。

 道路の反対側のタラート・サオに行く。ビエンチャン最大のマーケットである。先ずはその巨大さにびっくりする。コの字型の二階建ての大きな建物で、中は小さな間切りとなって無数の商店が並んでいる。宝石から雑貨、生鮮食料品まで、ありとあらゆるものが店先に並んでいる。最新式の日本製電化製品も店先に山となって積まれている。これほどの市場はバンコクにだってない。ラオスにこれほど豊かに商品があるとはまったく意外であった。貧しい社会主義国のイメージはいっぺんに吹き飛んだ。

 狭い通路をぶらぶら歩きながら、面白いことに気がついた。どの店からも何の声もかからないのである。それどころか、店番のおばちゃんや娘さんは目が合いそうになると慌てて目をそらす。目が合ってしまっても、にっこり微笑んで「サバディー(こんにちは)」と言うだけである。日本でもタイでも、おそらくどこの国でも、こういう市場においては「いらっしゃい」とか「安いよ」と大きな声がかかるはずである。カンボジアの市場など、まさに袖を引かんばかりに熱心な客引きがなされた。妻と娘にシン(ラオの巻きスカート)をおみやげに買おうと思っているのだが、たくさん並ぶシンの店のどの店に入ってよいのか、きっかけがつかめず少々困った。思い切って、1軒の店でこちらから声を掛けると、溢れんばかりの笑顔と熱心で誠意溢れる対応をしてくれた。ようやく理解できた。決して商売不熱心なのではなく、要はシャイなのである。後日、同じ経験をルアンプラバンでもした。決して自己主張しないラオの国民性のようである。

 ラオの絹織物は世界的に有名である。しかもその文様はラオ独特であり、おみやげにちょうどよい。シンの値段を聞くと、絹製で30ドル前後、木綿製で7ドル前後であった。ラオスの物価の安さは驚くばかりである。日本製の煙草マイルドセブン(しかも輸出用のハードボックスに入ったもの)がわずか4000キープ(約40円)、ラオス製の煙草なら一番高いものでも3000キープである。夕飯に、ビア・ラオの大瓶とチャーハンを食べてわずか6000キープであった。タイの物価の1/3〜1/2である。タイではマイルドセブンは60バーツ(約180円)する。日本では270円である。

 市場入口のコンクリートの上に一束の竹細工を抱え、幼い女の子がひとり座っている。先ほどのライター売りの男の子より小さい。小学校一年生ぐらいだろう。通りかかると、竹細工の一つを掲げて、じっと私の目を見る。言葉は発しない。「おじさん買って」とひとこと言ってくれればこちらも気楽なのだが。この子も懸命に生きている。

 中心部のナンプーに戻り、ベンチに腰掛ける。高く上った南国の太陽がじりじりした熱気を浴びせかける。もうやることは何もない。ビエンチャンの隅から隅まで歩き回った。そしてラオスの一端を垣間見た。明日は山岳地帯を越えて、古都ルアンブラバンを目指す。また違った顔のラオスが見られるだろう。旅はまだ始まったばかりである。
 
  (下)に続く

 
 「アジア放浪の旅」目次に戻る    トップページに戻る