おじさんバックパッカーの一人旅

世界の孤児 ミャンマー放浪記 (上) 

怒り、悲しみ、やるせなさ。心重い旅

2004年5月10日〜22日


 
 
 仏陀よ、釈迦よ、汝神なりせば、何ぞミャンマーを救わざるや。汝を信じ、
 汝に帰依するもの数千万人が、ひたすら汝が救いを求め日夜祈り続けし姿
 見えぬか。汝を信ずるものを救うは汝が務め。来世のみならず、現世に極
 楽浄土を築くもまた汝が教えと我は信ず。
 
 仏陀よ、釈迦よ、汝神なりせば、2500年の時空を越えて、ミャンマーの地
 に降臨せよ。

 私は、床にひれ伏し、ひたすら祈り続けるO嬢の背後に仁王立ちし、金色に輝く仏陀の像を睨みつけた。
 

 ※ ミャンマーとビルマ
 1989年、軍事独裁政権はこの国の呼称をビルマ(Burma)からミャンマー(Myanmar)へ
 変更した。しかし、軍事政権の正当性に関するリトマス試験紙的な意味もあり、
 どちらの名称を用いるかについて、混乱している。日本政府はミャンマーを用いて
 いるが、「地球の歩き方」ではミャンマー(ビルマ)と表記している。

 今回の旅行中、出会った人々に「あなた達はどちらの名称でこの国を呼んで欲しい
 のか」と尋ねた。その答えはいずれも「ミャンマー」であった。尋ねた人々は、
 いずれも軍事政権に反感を持ち、スーチーさんに思いを寄せる人々である(軍事政
 権支持者などまったく出会わなかった)。

 従って、私も以下この国をミャンマーと呼ぶことにする。ただし、民族名等、
 学術的に「ビルマ」が定着している文言については「ビルマ」を用いる。
 

   第1章  ミャンマー脱出

 私はヤンゴン空港の待合室で、粗末なブラスチックの椅子にひたすら座り続けていた。この日、バガン(Bagan)を朝発ち、この空港に10時に着いた。しかし、安チケットの制約のため、私の乗れるバンコク行きFlightは夜の7時50分まで待たねばならなかった。10時間待ちである。午後3時にバンコク行きのミャンマー航空とタイ航空の共同運行便があった。これに乗るべく交渉したのだが、両航空の事務所をたらい回しのされたうえ断られた。確かに、私の航空券には「VALID  ON  TG  ONLY」と記されている。

 待つことにはそれほど苦痛は感じなかった。それよりも、「私の待つTG306便は本当に飛ぶのだろうか。無事にバンコクへ戻れるだろうか」との不安の方が大きかった。この国は何が起こるかわからないとの不安が私をいらだたせていた。ミャンマーを訪れるにあたり、私は明らかにこの国の現実を読み違えていた。そもそも帰国便をオープンとしたのが大間違いであった。どこからでも電話で予約できると安易に考えていた。しかし、入国して数日の後、この国では電話はめったに通じないことを知った。実質、ヤンゴン空港の窓口に直接行かなければ、Flightの予約が出来ないのだ。このため、どの便に乗れるともわからぬまま、朝一番の便でバガンからやって来た。今日の便を確保できたことをむしろ喜ばねばならないのだろう。

 これが人口4千5百万人を有する国の首都国際空港とは信じがたい情景である。バガンから到着したとき、飛行場にはただ1機の飛行機も見られなかった。発着する国際便は数時間に1本だけ。発着の間際だけにぎわう待合室もすぐに人影は皆無となる。カウンターも売店もこの時間は閉店である。一人座り続ける私に若い空港職員が心配して声を掛けてくれた。この国の人々は底知れぬ優しさを持ち合わせている。日暮れとともに外は激しい雷雨となった。

 
   第2章 ミャンマーの悲劇 

 人気のない待合室の椅子に一人ぽつねんと座り、2週間にわたるミャンマーの旅を思った。怒り、悲しみ、同情、そして無力感。何とも心を重くする旅であった。その重さに耐えかね、3週間の予定を2週間で切り上げ、今こうして、バンコクへ逃げ出そうとしている。残置地雷の恐怖におびえる極貧の国・カンボジアにおいてですら、子供たちの目の輝きに明日への息吹を感じた。何もない国・ラオにおいても平和と安らぎを感じた。それなのに、この国に感じるのは、何とも言えないやるせなさであった。

 軍事政権の強圧的支配がこの国の人々を牢獄に押し込めている。外からの情報を遮断し、外を覗くことも許されない。日刊紙は政府の御用新聞1紙だけ。テレビのチャンネルも2つきりない。通じる電話はかろうじて市内だけ。市外電話はめったに通じない。インターネットは禁止され、手紙でさえまともに届かない。国外への旅行は実質禁止され、外国からの旅行者はただ単に外貨獲得の手段としか位置づけられない。インフラはずたずたで、停電は日常茶飯。水道からは水が出ない。人々は井戸堀に活路を求めている。外国からの投資はなく、企業活動は停滞し、大学を出ても就職先はまずない。国家のエネルギーは国を発展させることには使われず、国民を抑圧することのみに使われている。

 それでもこの国が、いまだ国としての体をなしているのは、深い仏教信仰に基づく高い道徳心と、持ち前の積極的な民族性による闇経済のおかげだろう。さすがの軍事政権も、この部分にだけは手が出せないようである。

 世界の孤児・ミャンマー。この国に春はいつ来るのであろう。その早からんことを祈らざるを得ない。 
 

   第3章 老僧との語らい

 「あなたに見せたかったのはこれです」。自室に落ち着くと老僧は表情を和らげ、私の前に一冊の収集帳を差し出した。そこには数十種類の紙幣が納められていた。「これは日本軍の軍票ではありませんか」と私が数枚の紙幣を指さす。「そうです。私の子供の頃集めたものです。それではこの人物をご存知かな」。老僧は別のミャンマーの古い紙幣を指さした。そこには軍服姿の一人の人物が印刷されていた。「はっきりはわかりませんが、スーチーさんのお父さんではありませんか」と私があてずっぽうに答える。ミャンマー建国の英雄アウンサン将軍の名前だけは知っている。「よくご存じだ。ありがとう」。老僧は満足そうな笑顔をみせ、ゆっくりと語りだした。

 「私の知っている日本語は『アリガトウ』『メシ』『ミズ』の三つだけだ。子供の頃覚えたものだ。私がまだ子供の頃、この寺にも多くの日本軍が駐屯しておった。いろいろあったが、今から考えると日本軍は優しく親切だった。仕事をするとかならず『アリガトウ』とお礼も言ったし、賃金は必ず払ってくれた」。老僧は遠い昔を思い出すかのように語り続けた。

 「日本には今も感謝している。学校を造ったり、水道を造ったり、いろいろミャンマーの為に援助してくれている。しかし、今この国の人々は苦しんでいる」。老僧はにわかに声を潜めた。

 「軍事政権に苦しんでいる。我々はみんなスーチーさんに思いを寄せている。がーーーー。その願いも通じない。日本ではこの問題をどう思われているのかな」。老僧は私の目を直視して問うた。「日本ではみなスーチーさんのことを心配しています」。私は目をそらすことなく短く答えた。「そのひとことで充分です。ありがとうございます」。老僧は私に向かって手を合わせた。
 
 老僧と出会ったのはマンダレー(Mandalay)郊外の観光案内書には載っていない大きな寺であった。境内をぶらついていたら通りかかった老僧が声を掛けてきた。「日本から来られましたか」。そうだと答えると、「せっかく遠いところから来られたのだからお見せしましょう」と、ひとつのお堂の鍵を開けてくれた。普段一般の人は入れぬらしい。見終わりお礼を言うと、「見せたいものがあるから、私の部屋に来ませんか」と、境内隅の高床式の小さな小屋に案内してくれた。そして冒頭の会話が始まった。

 重く心に残る会話であった。ミャンマー入国以来薄々感じていたことを具体的な言葉として初めて聞いた。やはりこの国は物見遊山で訪れる国ではないとの思いが、私の心をいっそう重くした。

 
   第4章 O嬢の思い

 O嬢と出会ったのはマンダレーの丘(Mandalay Hill)麓のお寺の入り口であった。入域チケットの確認作業をしていた娘さんが、「日本の方ですか。この読み方と意味を教えて下さい」と流暢な日本語で話しかけてきた。見ると、手元に日本語のテキストが開かれていた。小柄で実にチャーミングな女性である。日本語での会話となった。しばらくして彼女が「私は日本語ガイドの資格を持っています。よろしければ案内させていただけませんか」といいだした。私はこの日朝から、激しい下痢と、ときおり襲う腹痛に苦しみ、このまま旅が続けられるかと思い悩んでいた。ガイドは必要ないが、日本語で意志疎通出来る人がそばにいてくれることは心強い。私は翌日の再会を約して彼女と別れた。

 結局彼女とは三日ほど旅をともにした。そして多くのことを語り合った。ミャンマーのこと、日本のこと、そして彼女自身とその家族のこと。

 まずは彼女自身とその家族について紹介しよう。このなかにミャンマーの今が凝縮されている。

 1、大学
 彼女は現在24歳。昨年マンダレー大学経済学部を卒業した。ミャンマーの学制は、
 小学 校6年、中学校2年、高等学校3年、大学3年だという。従って、本来20歳で
 大学を卒業することになる。「年齢が合わないではないか」と質問すると、
 「大学が3年間閉鎖されていたのです」と悲しそうな顔をした。軍事政権により
 大学が一時閉鎖されたのである。

 2、就職
 ミャンマーの現在の最大の問題点は就職難だという。大学を卒業しても80%は
 就職先がない。この不満はあらゆるところで聞いた。ホテルなどで雑用係をし
 ている人も、聞けば大卒だという。彼女も当然就職先はなかった。従ってお寺
 の入り口で切符切りのアルバイトをしている。給料はひと月5000チャット
 (約600円/月)だという。これでは当然食えない。

 彼女は大学時代から日本語を勉強していた。このことにより日本語ガイドの資格
 (国家資格らしい)を取った。しかし、マンダレーには日本語ガイドを雇う旅行社も
 なく、ガイドとしても就職先はない。このため、彼女は個人営業を始めた。出会っ
 た日本人に個別に声を掛け、ガイドとして雇ってもらうのである。凄まじい行動力
 である。昨年はガイドとして500ドル(約4600円/月)の収入を得たという。 

 3、家族
 女のみ6人姉妹。上の2人はすでに嫁に行き、現在の家族は、父母、姉2人、妹1人、
 同居している姪と本人の7人家族。妹と姪が大学生。
   
 父は58歳。もと金細工の職人であったが、機械化が進み、現在は完全に仕事がなく
 収入はゼロ。
 母は56歳、専業主婦。ミャンマーでは結婚後は専業主婦となることが一般的とのこと。
 上の姉は、自宅で洋裁をしている。月収は20000チャット(約2750円/月)。
 下の姉は公務員。給料は30000チャット(約4100円/月)。ただし、給料の一部は
 米による現物支給。この米が屑米で、まともには売れないとのこと。
 妹はマンダレー大学の工学部在学中で今年卒業。エンジニアなので就職先はありそう。
   
 以上すべての家族の収入と支出を父が管理し、家族の生計を立てている。不足分は手持ちのGoldおよびUSドルを現金化して補う。自宅が借家でないので何とか暮らしている。

 4、彼女の思い
 「どうしても、どうしても日本に行って勉強したい」と何度も何度も熱い思いを語った。
 「ホームステイさせてあげるから来たらいいではないか」と気軽に言ったところ、
 「パスポートが取れない」との答えであった。現在ミャンマーでは出国を厳しく制限し
 ており、実質、パスポートの取れる条件は、日本人との結婚か(ただし、新聞には、
 日本人と結婚しようものなら刑務所行きだと書かれていたとのこと)、日本への留学
 (この場合も、学費払い込みずみ証明書の提出が必要)に限られるとのこと。
   
   彼女の熱い思いをどうやったら叶えてあげられるだろうか。

   
   第5章  旅の序曲

 従来から、私のミャンマーに対するイメージは非常に悪い。好戦的で、狡猾。何となく胡散臭いイメージなのである。このイメージはどこで形成されたのだろうか。ミャンマーについてまともに勉強したこともないし、ましてや旅行したこともない。完全にイメージの世界なのである。

 おそらく、タイに暮らし、タイを旅行したことにより形成されたのだろう。歴史上何度も繰り返されたビルマによるタイ侵略。ラーンナー王朝もアユタヤ王朝もビルマにより滅ぼされた。そしてビルマ軍により徹底的に破壊されたアユタヤの廃虚。さらに、現在における軍事政権の支配。選挙で負けても政権を委譲せず居座る異常さ。そして、今年の2月、わずか数時間だがタイのメー・サイからミャンマーへ入国し、この悪いイメージは決定的となった。このときの旅行記には次のように記されている。
  
  「物売り、客引き、物乞い、ーーー。得体のしれない人間が次々と寄ってきてつきまとう。そのあまりのしつこさにへきへきである。この国は「微笑みの国」でも「安らかな国」でもない。恐怖感さえ湧いてくる。小さなドブ川をひとつ越えただけで、風土はこれほどまでに変わってしまうのだろうか。改めて、タイやラオの穏やかな風土を再認識する」

 一般的に、日本人のミャンマーに対するイメージは悪くない。おそらく「ビルマの竪琴」が作り出したイメージなのだろう。しかし、この物語は完全なフィクションである。作者・竹山道雄はビルマは見たことも行ったこともないと自白している。この映画をビルマ人に見せたところ、あまりの荒唐無稽に驚いたとの逸話も残っている。この物語は完全に日本人のマスターベーションなのである。
 
 私はへそ曲がりである。それほど悪イメージの国ならば、一度じっくりとその正体を見定めてやろうという気になった。幸い時間だけはたっぷりある。ザックを担いで、放浪の旅をするのも悪くない。もっとも、スーチーさんは軍事政権を利するだけだから来ないでくれと行っているが。ところが、案内書として買ってきた「地球の歩き方 ミャンマー」を読んで、少なからず驚いた。そこには「ミャンマーは東南アジアで最も安全な国。治安もよく、人々は親切で控えめ、なおかつフレンドリーな国民性もあってリラックスした旅ができる」と記されている。どうも私のイメージとは異なる。いったいどちらのミャンマーが本当なんだ。ますます興味津々である。
 

   第6章 来るなと言わんばかりの国

 行こうと決めたが、調べてみると、この国はなんとも行きにくい。否、行きにくいどころではなく、腹立たしくなるのである。ざっと見ただけで、次の通りの制約がある。まるで来るなと言わんばかりである。

 1、まずビザが必要である。しかも、カンボジアやラオのようにArrival Visa がない。事前に用意しなければならない。仕方なく、北品川の大使館まで出向いた。申請書には人種、髪の色、目の色まで記入させられる。白髪混じりの髪の毛は何色と記入するんだ。しかも発行は三日後、二重手間である。しかし、ここまでは米国も同じ。我慢の範囲である。

 2、次に、外国人が旅行できる範囲が制約されている。どこへでも自由に行けるわけではないようだ。タイは勿論、ラオだってカンボジアだって(危険度は別にして)、どこへでも自由に行けるのに。まったくもって、ひと昔前の共産主義国家と同じである。

 3、さらに、ミャンマーへの入出国は実質ヤンゴンへの空路に限られる。何箇所かのタイ国境からも陸路で入国が可能なのだが、この入国はその日のうちに同じ場所から出国しなければならない制限付き。長期にわたるミャンマー国内旅行はできない。本来、ヤンゴンから入国して、タイ北部へ抜けたいのだがダメのようだ。さらに、外国人の利用できる列車や船は決められている。
  まったくなんという国なんだ。悪イメージはますます強まる。

 4、きわめつけは、外国人がらまるで吸血鬼のごとく外貨(USドル)を吸い上げるシステムである。外国人は、航空機、列車、船等の交通運賃、及びホテル代の支払いをすべてUSドルでしなければならない。しかもその金額は、ミャンマー人に比べ、ベラボーに高い。またすべての観光地において、入域料と称して、安からぬドルを徴収する。
  あぁーーー。何でこんな国に行かなければならないのだ。

 5、最後に、あまりにも悪名高い、強制両替があった。空港で、外国人入国者すべてに、200USドルをFECと称する特別通貨に強制的に両替させるのである。このFECはUSドルへ再両替不可である。しかし、この強制両替はあまりにも悪評のため、去年の10月から実施を一時中断しているらしい。
 

   第7章 いざ! ミャンマーへ

 日本からこの国へは直行便がない。このためバンコク乗り換えで行かざるを得ないが、チケットを日本で購入すると非常に高い。バンコクまで行って安チケットを買うことにする。

 5月8日、ゴールデンウィークの終了を待って出発する。成田正午発のAir India はガラガラであった。このFlightは安いがためにいつも混雑しているのだが。東南アジアはこれから雨期、旅行にとってはシーズンオフである。夕刻バンコク着。この国に来ると、何となく故郷へ戻ったような気になる。絡みつく熱気にも懐かしさを覚える。私は家を出るときからすでにTシャツ、サンダル履きのバックパッカースタイルである。

 翌日、ヤンゴンまでの安チケットを求めて旅行社に行ったのだが、期待外れ。TGの1ヶ月オープン往復チケットで8500バーツ(23800円)もする。ひとっ飛びの距離なのに何と高価なことか。ミャンマー航空ならもう少し安いのだが、「間違ってもこの航空会社には乗るな」と案内書にはあった。そもそも、ミャンマーなどへの旅行者は数が限られている。安売りする意味などないのだろう。帰りの便はオープンとする。ミャンマーでの旅行日程など詰めていない。しかしこのことが、結果的には冒頭記載の通り大間違いであった。

 5月10日、朝8時15分、TG303便は定刻通りバンコク国際空港を飛び立った。座席は70〜80%埋っているが、バックパッカーの姿は見えない。季節のためなのか、はたまたミャンマーであるがためなのか。飛行機はわずか1時間40分の飛行でヤンゴン国際空港に着陸した。ミャンマーとタイの間には30分の時差があるので形式的には1時間10分の飛行である。機外にでると、むっとした熱気が押し寄せる。バンコクよりも暑い。見ず知らずの国の玄関口に到着するとき、いつも何とも言えない緊張を覚える。これからいったい何が起こり、そのとき私はどう対処するのだろう。心配しても始まらない。もう賽は振られてしまったのだから。

 この国際空港は、日本やタイでいえば小さな地方空港といった趣である。イミグレーションに並んでいるのはこの便で着いた乗客だけなのだから。イミグレーションはかなりいい加減、税関はフリーパス。強制両替の窓口は閉まったままであった。外にでると途端にリムジンタクシーの客引きが群がる。空港からダウンタウンまで他の交通機関はない。「5ドル」というので、「高い」とひとこと言ったら、あっさりと4ドルになった。案内書には3〜5ドルとあるからマーマーなのだろう。

 トヨタの中古ワゴン車に乗せられてダウンタウンに向かう。運転手のほかに、係員まで同乗しているが、乗客は私一人である。初めて見るヤンゴンの街は新鮮であった。思いのほか道は広く、街路樹もあり快適である。なによりも、周りの景色が垢抜けている。よく手入れされた公園風の森や湖が続き、まるでシンガポールのようなしゃれた雰囲気である。ヤンゴンってこんなハイカラな街なの?。道路にはたくさんの車が走っている。それを眺めていて、「おや」と思った。何と車は日本語だらけなのである。バスもトラックもピックアップも、車体にはいずれも会社名等の日本語が溢れている。近鉄バスや名鉄バスが走り、○○商店や××工業のトラックが走る。全部日本の中古車なのである。

 小一時間のドライブで市街地に入った。途端に景色と雰囲気が一変した。溢れかえる車と人、屋台の群れ、東南アジアの都市独特の雰囲気である。何やらほっとする。

 
   第8章 首都ヤンゴン(Yangan)の風景

 ダウンタウン中心部の安ホテルに落ち着く。1泊25ドル。少々高いが、この国の勝手がわかるまでは、安全にも配慮しなければならない。冷房完備で、バスタブまである。すぐに荷物を部屋に放り込んで街に飛びだす。先ず第一にしなければならないことは、両替である。ミャンマーの通貨・チャットを持たないことには昼飯も食べられない。とはいっても銀行に行くわけにはいかない。現在、公式exchange rateは1ドル=約18チャット。所が実勢レートは1ドル=800〜850チャットである。実にその差は50倍近い。闇で両替する以外にない。しかし、闇両替屋がどこにあるのかは、さすがに「地球の歩き方」にも載っていない。これは違法行為であるのだから。街をぶらついて、どこからか声がかかるのを待つ以外なさそうである。

 街の猥雑さ、熱気はバンコク以上であった。凄まじい人と車の群れ。道の両側に溢れる屋台と露店。ただし雰囲気は微妙に違う。行き交う人々は、男も女もほぼ100%ロンジー(ミャンマーの民族服である巻きスカート)姿である。ズボン姿の私など、一目で外国人とわかってしまう。これほどまでに、民族服の着用が普及している国も珍しい。そして、女性と子供は頬を真っ白に染めている。ミャンマー独特の化粧・タナカである。世界のファッションなどまるで無視、まさに我が道を行くである。ビルマ族の自己主張の強さが感じられる。この、ロンジー着用とタナカによる化粧は、以降ミャンマー各地を旅行しても、まったく同じ状況であった。

 道路は、究極の車優先社会。バンコクも車優先社会として有名であるが、ミャンマーの実情はそれ以上であった。道に人が溢れていても、まったくスピードを緩めることなく、つっ込んでくる。歩行者もまた、信号を完全に無視する。車が右側通行ということもあり、最初の数日は怖くて一人ではとても道を横断できなかった。車の数は非常に多い。ただし、新車の姿はまったくない。これでも車かと思われるおんぼろ車のオンパレードである。特にバスのおんぼろぶりが凄まじい。しかも、どのバスも、超満員。屋根の上まで乗客が鈴なりである。

 ひとつ不思議なことを発見した。オートバイの姿がまったく見られないのである。東南アジアの都市においては、どこでも、最も普及している乗り物はオートバイである。バンコクでも、ビエンチャンでもオートバイが溢れかえっている。後日訪問するマンダレーではオートバイが溢れていた事を考えると、ますますヤンゴンにオートバイがない理由がわからない。法的規制でもあるのだろうか。

 街の景観もまた独特である。先ず気づくのは、アルファベットがまったく見られないことである。どこをみても、団子のようなミャンマー文字ばかり、たまに漢字が見られる程度である。と、感じながらぶらついていたら、アルファベットが突然目に飛び込んできた。「SAMSUNG」「LG」である。この韓国の家電・電子機器メーカーは、半鎖国状態のこの国にまでショールームを開設している。タイでもそうであったが、もはや実質的にもイメージ的にも、完全に日本メーカーを凌駕している。

 冷房のあるしゃれた店など一軒もない。間口の狭い、いかにもローカルな店が軒を並べている。そしてその店の前は、露店と屋台の群れである。路上に、風呂場の椅子のような小さく低い椅子を並べた屋台が目立つ。しかもそこに人が溢れている。露店ではありとあらゆる商売がなされている。体重計り屋、爪切り屋。道端に電話機を数台並べた電話屋も多い。公衆電話はない。露店の売り子はほとんど男である。ラオにおいてはほぼ100%女性であり、タイにおいても女性が多いのだが。その売り子が大声で、客を呼び込む。タイやラオなどは、絶対に不特定多数に売り声はかけない。行き交う人々の顔つきは微妙に異なる。色が黒く彫りの深いインド系の顔と、色が白くのっぺりとした顔の中国系が目立つ。しかし、これらの人もすべてロンジーにタナカである。

 30分近く街をぶらつくも、闇両替屋が見つからない。もとより、看板を掲げているわけがないが。やっと声がかかった。若い男がすり寄ってきて、exchange、exchangeと小声で言う。rateを聞くと1ドル=830チャットだという。応じることにする。食堂の奥の一角に連れていかれた。違法行為と思うと何となく怖い。闇両替は初めての経験である。
 
 次にしなければならないことは、列車のチケット手配である。二日後にバゴーへ日帰り旅行、三日後にマンダレーへの移動を列車でする計画である。案内書によると、列車のチケット予約窓口はヤンゴン中央駅にではなく線路の反対側にある。地図を頼りにたどり着いたチケット売り場は絶望的であった。30程の窓口が並んでいるが、英語表記がまったくない。しかも外国人の姿など皆無である。
 
 いったいどの窓口に行ったらよいのか。しばしぼう然とした後、一つの窓口に行って尋ねると、7番窓口へ行けという。といわれても、どこが7番なんだ。数字さえアラビア数字ではなくミャンマー文字である。あっちで聞き、こっちで聞き、ようやく窓口にたどり着いた。幸い、皆、流暢な英語をしゃべってくれる。チケットの発券は完全に手動であった。コンピューターなどまったくない。パスポートの提示を求められ、何やら帳面を見ながら、カーボン紙を敷いて切符に必要事項を書き込む。これで本当に大丈夫なのかと心配になる。外国人は、定められた列車のUpper classしか利用できない。しかも支払いはUSドルである。ともかくチケット二枚手に入った。やれやれである。

 偵察をかねて、ヤンゴン中央駅に行ってみる。線路を跨線橋で越えて、到達した駅は目を見張るほどの大きな建物であった。窓口の並ぶ大きなホールが二つあり、8〜10ほどのホームがある。駅は人々でごった返している。ただし、この駅も絶望的である。英語の標示は何ひとつない。アラビア数字もまったくない。出発案内のような標示もまったくない。どこで切符を買って、何番線からどこ行きの列車が出発するのかもまったくわからない。切符は手に入ったが、列車に乗るのにひと苦労しそうである。

 以上で準備完了。いよいよヤンゴン観光である。手始めに、スーレー・パゴダ(Sule Pagoda)に行く。ヤンゴン市街ど真ん中の交差点に建つ黄金のパゴダである。まさにヤンゴンのランドマーク的存在である。周囲がロータリーとなっているため、道を横切るのがひと苦労である。一応横断歩道はあるのだが、車にはまったく無視されている。バゴダはにぎわっていた。黄金の塔を中心に回廊となっていて、多くの仏像が並んでいる。おそらくその一つ一つに曰く因縁があり、各人自分の信じる仏、守り神があるのだろう。仏像の前に跪き、熱心に祈りを捧げている。その後各地を回り、思いを強めたのだが、ミャンマーの人々の祈りは半端でない。何10分も、時には何時間も、ひたすら祈り続ける。その祈りには執念すら感じる。旅行者にはちょっと近づきがたい雰囲気である。しかも、実に手軽にパゴダに寄っていく。通勤の途中、買い物の途中。まさにパゴダへのお参りは日常生活の一部なのである。

 再び街中をあてもなくぶらつく。アレと思う光景がいくつか目に付く。街には多くの僧の姿が見られ、平気で女性を含む満員バスに乗り込んでいた。女性が隣にいようが、身体が触れようがお構いなしという態度であった。タイでは絶対に僧は女性と席を同じくしない。ましてや身体が触れることなど論外である。また、たくさんの尼僧を見かけた。頭は剃り上げているが、いずれもピンクの衣を着ている。タイやラオでは尼僧など見かけたことはない。同じ、上座部仏教といえども、やはり戒律とかタブーは異なるようである。
 
 ほぼ一日、初めての街・ヤンゴンを歩き回った。しかし、何かこの街は疲れる。どこかよそよそしさを感じる。いろいろな国、いろいろな都市へ行ったがこんな経験は初めてである。街のせいなのだろうか、それとも、ミャンマーという国のせいなのだろうか。旅を続ければおのずと答えは出るであろう。

 
   第9章 シュエダゴン・パゴダ(Shwedagon Pagoda)

 翌日は朝から土砂降りの雨だった。気力は湧かないが、ホテルで寝ているわけにもいかない。ヤンゴンの、否、ミャンマー最大の聖地といわれるシュエダゴン・パゴダに行ってみることにする。ヤンゴン北方のシングッダヤの丘の上に燦然と輝く巨大な黄金のパゴダである。

 ヤンゴン市内での利用可能な交通手段はタクシーのみである。乗用車(ただしものすごいおんぼろ車)で、屋根にタクシーの標示、ドアに登録番号が記されているの分かりやすい。数は非常に多くどこでもつかまえられる。タイでさえ、タクシーのあるのはバンコクだけであることを考えると、かなり進んでいるともいえる。ただし、メーターはない。乗る前に料金交渉が必要である。交渉結果は1000チャット(約130円)、後から考えると、これでも通常料金の2倍ぐらい取られたようである。

 約30分で丘中腹の西参道入り口に着いた。参道入り口は東西南北の4箇所にある。履物を預けて裸足になり、拝観料5ドルを払う(もちろん、外国人だけ)。ここから100段余の階段か、エレベータで登ることになる。もちろん、参道は立派な屋根つきで、両側には土産物やお供え物、寄進物を売る店が並んでいる。登りきると、別世界が広がっている。中央に高さ99.4メートル、周囲433メートルの金箔に覆われた黄金のパゴダが聳え、その周りには大理石を敷占めた広大な空間が広がっている。そして、その空間にいくつもの堂や塔が建ち並んでいる。パゴダの頂きには5451個のダイヤモンドと1383個のルビー、その他多くの宝石がちりばめられているという。まさに壮大な規模である。

 このシュエダゴン・パゴダは、紀元前585年にインドで仏陀と出会い8本の聖髪をもらい受けた商人が、この地に奉納したのが始まりと伝えられている。以来、ミャンマーの人々の信仰の中心として拡張を重ね、現在に至った。まさに、ミャンマーにおける仏教信仰の象徴であり、その歴史でもある。

 雨は相変わらず激しく降り続いている。大理石を敷占めた空間はもちろん屋根などない。傘をさしてもずぶ濡れである。しかし、こんな天気でも、大勢の参拝者が詰めかけている。ずぶ濡れになりながら祈り続ける人、お堂の中で寝転がっている人、車座になって食事をしている人。ミャンマーにおけるお寺参拝は、日本のように、仏前に短時間手を合わせるような生易しいものではないようである。それこそ一日がかり、見学ではなく、本気の参拝なのである。

 午後からは雨も上がったので、シュエダゴンパゴダのさらに北にあるカバーエー・パゴダ(Kaba Aye Pagoda)に行ってみることにする。このパゴダは1954年、当時の首相ネー・ウーにより世界平和を祈願して建てられたという新しいパゴダである。裸足になって屋根のついた参道を緩く登っていくと、大理石を敷占めた大きに広場にでる。その中央に高さ36メートルの黄金のパゴダが建っている。基本的には、シュエダゴン・パゴダと同じである。そしてまた、その後訪れた他の多くのパゴダもほぼ同じ形式であった。

 次に訪れたのは、ヤンゴンの南東、ヤンゴン川沿いに建つボウタタウン・パゴダ(Botahtaung Pagota)である。タクシーで行くと、次第に人家は薄れ、引き込み線や倉庫などが現れ、薄汚れた街並みとなる。そんな町外れに金色に輝く巨大なパゴダがあった。すぐ先はもうヤンゴン川である。このパゴダはいまから2000年ほど前、インドから持ち帰った仏陀の聖歯を祀ったのが始まりといわれている。第二次世界大戦で爆撃を受け破壊されたが、その際、崩れたがれきの中から各種宝物や聖歯が現れたとのことである。2ドルの入場料を払うと、何と、英文の説明書をくれた。後にも先にも、ミャンマーで入手した唯一の英文説明書であった。パゴダの下に発見された宝物が展示されている。厳重に鉄格子のはめられた薄暗い小部屋に、聖歯が安置されているのだが、よく確認できない。参拝者たちは膝まづいて手を合わせていた。

 参拝後、100メートルほど先のヤンゴン川河岸まで行ってみた。大小の貨物船が接岸し、盛んに荷物の積み下ろしを行っていた。ただし、港に付き物のクレーンはない。ロンジーの裾をまくり上げた大勢の若者が、荷物を肩に担いで渡された板の上を往復している。このヤンゴン川はエーヤワディ川の支流である。ヤンゴンの町はこの川の水運によって開かれたのである。
 
 今日一日ヤンゴンのいくつかのパゴダを訪れた。その後訪れたパゴダも含め、いくつか気がついたことがある。ミャンマーは国民の85%が仏教徒といわれタイ、カンボジア、ラオの三国と並ぶ熱心な上座部仏教の国として知られている。しかし、ミャンマーの仏教は他三国とはかなり違っている印象である。気づいた点を列記してみると次の通りである。

  1、他3国の仏教はクメールの影響(すなわちバラモン教の影響)を今なお色濃く残しているが、ミャンマーの仏教にはその影響は極めて少ない。トウモロコシ型のクメール様式の仏塔は見られないし、また、他3国の寺院に多数見られるナーガ(七つの頭を持つ聖蛇)やガルーダ(半人半鳥の動物)といったバラモン教出身の動物達も見られない。

  2、他三国では宗教活動の単位は寺院である。この寺院が「祈りの場」であり、かつ僧の「修業の場」でもある。寺院は本堂、礼拝堂、仏塔、僧院等で構成されている。仏塔はあくまで寺院の構成要素の一つである。しかるに、ミャンマーにおいては、寺院という複合施設はなく、仏塔(パゴダ)が独立して「祈りの場」となっており、これとは別に、僧院は僧の「修行・生活の場」として独立している。

  3、他三国では、僧侶は各々の寺院に属するため、自ずから属する寺院の維持管理的な雑務も背負うことになる。建物の補修作業、拝観料の徴収まで行っている。このため、ほぼ一日寺院の中で生活しており、托鉢等必要なとき以外は街に出ない。一方、ミャンマーの僧侶は、行動の自由度が大きいようである。原則的には僧院で生活するが、僧院以外の瞑想の場を自ら設け、そこで修業するのも自由なようである。後に訪問するザガイン(Sagain)には、このような個人的修業の場がたくさんある。従って、托鉢も他三国では寺院単位の集団でなされることが多いが、ミャンマーでは、個人で行う。
  
 夕食をと、日暮れの街に出てみる。先ず目に付いたのは若いアベックの多さである。昼間はほとんど見られなかったのに、日暮れとともに街は寄り添うアベックで溢れている。タイやラオでは見られない光景である。「ミャンマーってこんなに積極的な国なんだ」との思いを強める。もっとも、後に、O嬢に男女のことを聞いたら、「ミャンマーでは絶対に婚前交渉はない」と言い切っていたが。

 夕食は代表的なミャンマー料理・ミャンマー・カレーにチャレンジしてみることにする。混雑する街中の大衆食堂に一人で入るのは少々勇気がいる。外国人など誰もいない。怪しげなミャンマー語で「ウェッター・ヒン(豚肉のカレー)」と言ったら一発で通じた。食堂の中は何やらすえた臭いが鼻につく。

 待つほどに、テーブルの上に次から次と7〜8品が並んだ。皿に盛られたご飯とボールに入ったご飯。ようするに好きなだけご飯は食べてよいようだ。カレー煮の豚肉。キャベツなどの生野菜。すえた匂いのするスープ。栗のような味のする固体(何だかわからない)、その他諸々。それにスプーンとフォークと箸。さぁ、どうやって食べるんだ。周りのテーブルを見ると、カレーとご飯を混ぜて、それを手づかみで食べている。そこまではちょっとである。スプーンとフォークを手にする。東南アジアでは右手にスプーン、左手にフォークが一般的な食べ方である。箸は私を日本人と見て親切に持ってきたらしい。

 心配していた激辛はなく、なかなかおいしい。ただし、油っ濃さだけは閉口である。油の中に、豚肉が浮いている。一般的に、ミャンマーの料理は油っ濃いので有名である。昼に食べたチャーハンでさえ相当油っ濃かった。途中でふと見ると、生キャベツの上を芋虫が歩いている。中から出てきたらしい。店の人に言うと、新しい皿と取り換えてきた。これで700チャット(約90円)。何とも安い。

 
   第10章 古都・バゴー(Bago)への列車の旅

 バゴーはヤンゴンの北東約70キロに位置する小さな町である。この町は13世紀後半(1287年)に興り、16世紀半ば(1535年)まで続いたモン族の国・バゴー王朝の都であった。現在、ミャンマーの最大の民族はビルマ族であり、人口の約70%を占める。しかし、ミャンマーの歴史はビルマ族だけのものではない。シャン族、モン族、カレン族など、現在は少数民族とされる諸民族の歴史と共有されている。そして、この歴史は現在の国家体制にも繋がっている。ミャンマーの正式国家名はUnion of Myanmar(ミャンマー連邦)である。すなわち、シャン州、モン州、カチン州、チン州など、各民族の自治州の集合体なのである。このうち、シャン族とモン族は歴史上いくつもの王朝を興している。

 朝6時過ぎ、小さな手提げカバンだけ持って宿を出る。ヤンゴン中央駅発7時の、モッタマ(Mottama)行き急行列車に乗るつもりである。チケットはすでに入手している。駅まで歩いて15分ほどだが、列車に乗るまでにもたつく可能性が多分にある。駅へ到着したものの、さて何番線に行っていいのやらさっぱりわからない。駅のシステムはタイと同じで、改札はない。駅員に聞くと2番線だという。しかし、ホームの番号もミャンマー文字。さっぱりわからない。何回か聞いて、ようやくそれと思われるホームに降りると列車が止まっていた。手持ちのチケットによると私の座席番号はUpper Class1号車の1番なのだが、これもさっぱりわからない。駅員に示すと、座席までわざわざ案内してくれた。これでひと安心である。

 先頭はディーゼル機関車、次が私の乗るUpper Classの車両である。座席は、通路を挟んで片側2列づつ。前には大きなテーブルがあり4人が向き合うように配置されている。私の隣は空席、テーブルを挟んだ向いの席には子供連れの女性が座っていた。おそらく、レールが中軌なのだろう。列車の幅は日本より広く、座席はゆったりとしている。ただし、車両はかなりボロである。冷房はない。従ってすべての窓が開け放たれている。Ordinary Classはクッションのない木製の椅子で、すでに超満員であった。

 定刻7時きっかりに列車は発車した。バゴーまで約2時間の旅である。車内の外国人は私一人のようである。バゴーへ列車で行くのは物好きの部類である。料金は5ドルもする。バスで行けば400チャット(約55円)、タクシーでも15ドルで行ける。発車してすぐに検札があった。これが唯一のチェックである。

 線路に沿ってスラムのような家々が続く。ただし、どの家々にもテレビのアンテナだけは立っている。家並みが疎となると、大規模なごみ捨て場の列が続く。実に汚らしい。ごみ回収システムがないため、都会のごみが、空き地に皆捨てられるのだろう。そのごみ捨て場の中にも掘っ立て小屋がたくさん建っている。

 小一時間も走ると、ようやく田園風景となった。見渡すかぎり田んぼが広がっているのだが、田にはいまだ水さえ入っていない。5月下旬から始まる雨期を待って耕作が始まるのだろう。しかし、バンコク平原に比べると、大地はずいぶん乾いている感じである。あちらこちらで、放たれた牛が、わずかに生えた草を食んでいる。時々小さな集落と駅が現れる。その周りだけ人が群れている。

 車窓を眺めながら、アレと思ったことが二つある。ひとつは、女の人が、皆、荷物を頭の上に乗せて運んでいることである。タイやインドシナ半島では見られない光景である。この習慣は南アジア、中近東、アフリカに多いはずである。もう一つは牛と牛車である。見られる牛はいずれも白い瘤牛であり、タイの牛とは異なる。しかも、この牛を2頭横に並べて、荷車、あるいは鋤を引かせている。荷車は、車輪の大きな2輪車である。これも南アジア、中近東の光景である。やはりミャンマーは歴史的にも、風土としても、タイやインドシナ半島諸国とは別のようである。

 やがて行く手遠くに、大きなパゴダが見えてきた。バゴーに近づいたようである。約15分遅れで列車はバゴー駅に滑り込んだ。ホームは乗る人降りる人でごった返している。

 
   第11章  バゴーの1日

 駅のホームですでに一人の男につきまとわれた。サイカーの運転手らしい。これがTunさんとの出会いであった。最初無視したのだが、一向に離れる様子はない。駅舎の外に出ると、目の前に20〜30台のサイカーがずらりと並んで客待ちをしている。サイカーとは自転車の横に座席を取り付けた、いわば自転車のサイドカーである。この乗り物が馬車と並んで、この町の普遍的公共交通機関である。レンターサイクルの利用を考えていたが、駅前にそれらしき店も見当たらない。サイカーを利用せざるを得ないようだ。Tunさんは私を自分の客と決めてかかっている。列車から降りてきた観光客は私一人なのだから、してやったりの心境なのだろう。ちょっと待てや、まだ値段交渉もしてない。一日いくらだと聞くと、5000チャットだという。うん!と言う顔をしたら4000チャットでいいからさぁ乗れという。値段はどうでもいいという態度である。

 昨日と異なり、今日は朝からカンカン照り、強烈な暑さである。さぁ、郊外へ出発と思いきや、サイカーは路地に入っていく。「どこへ行くんだ」と聞くと、「My Home」という。「おいおい、どういうことなんだ」。彼は、「No Problem, No Problem」の一点張りである。もとより、彼の英語はほんの片言。私はミャンマー語をまったく解せない。当然、意志疎通はままならない。高床式の粗末な家の建ち並ぶ一角に連れ込まれ、「ここがオレの家だ。さぉ上がれ」である。私も、ミャンマーの一般庶民の家がどんなものか興味がある。彼に続いて、階段を登って家の中に上がり込んだ。8畳ほどの板張りの床、竹を編んだ壁。家には、彼の奥さんと、彼の子供だという1歳ぐらいの幼児、それに、奥さんの母親だという老婆がいた。「よくいらっしゃいました」と歓迎の態度である。Tunさんはまず家の隅にある祭壇に何やらお祈り。その間に、奥さんが、コーヒーとお茶を運んできた。座り込んでみたものの、言葉はまったく通じない。さて、どうしたもんか。「写真を撮ってやる」と言うと大喜び。「必ず送ってくれ」とせがむ。写真などめったに撮ることはないのだろう。ここで初めて、彼の名前がTun Thein, 48歳と知る。

 自宅を辞して、バゴー見物に向う。どこへ行くかはTunさん任せである。特に行きたい場所があるわけでもない。最初に向ったのが、カカットワイン僧院(Kha Khat Wain Monastery)。1000人以上の僧が暮らすミャンマーでも最大規模の僧院である。ちょうど10時30分の食事の時間であった。僧は一日一食だという。木柱を叩く音を合図に、各僧房から続々と僧たちが現れ、食堂となる大広間入り口に並ぶ。広間にはあらかじめ副食の置かれた座卓が幾つも並べられている。僧は托鉢用の鉢を持参しており、広間入り口で、大釜の中から、係の女の人に飯を入れてもらう。

 僧院を出、サイカーは車の往来の多い、緩やかな上り坂を進む。Tunさんは全身汗みどろになってペタルを漕いでいる。南国の太陽が真上から照りつけ、座っているだけでも堪え難い暑さである。やがて前方に、巨大な黄金のパゴダが見えてきた。バゴー最大の見どころシュエモード・パゴダ(Shwemawdaw Pagoda)である。高さ114メートルはミャンマーで最も高い。ちなみに世界一高いパゴダはタイのナコーン・パトム(Nakhon Pathom)にあるプラ・パトム・チェディ(Phra Pathom Chedi)の120.45メートルである。シュエモード・パゴタの歴史は今から1000年程昔、仏陀の遺髪を納め、高さ23メートルの塔をたてたのが始まりといわれる。モン族に深く信仰され、そして、その信仰はビルマ族に引き継がれた。

 表口である西参道入り口近くまで来ると、Tunさんが「入域料5ドル必要だ」というので彼に渡す。バゴーの入域料が5ドルであるのは事実である。すると、どういうわけか、Uターンして、南参道へ回ってしまった。どうやら、ちゃっかり、5ドルをネコババしたと思える。まぁ、私に被害があるわけではない。このパゴダも全体の構造は、ヤンゴンのシュエタゴン・パゴダと同じである。裸足になって屋根のついた立派な参道を登っていくと、大理石を敷占めた広場に出る。その真ん中にパゴダが高々と建っている。

 サイカーはさらに坂道を上っていく、Tunさんはもう立ち腰で必死にペタルを漕いでいる。見ていてもかわいそうだ。ついに降りて押しはじめた。到着したのはヒンタゴン・パゴダ(Hintha Gon Pagoda)である。ヒンダという神鳥がこの丘に舞い降りたとの伝説が残る。丘の上に建つパゴダだけに実に展望がよい。とくに、生い茂る樹林の中からすっくとそそり立つ黄金のシュエモード・パゴダの姿は神々しいまでである。

 地道の一本道をサイカーは大きく揺れながら進む。周りは荒涼とした大地の広がりで、人家も見えない。じりじり照りつける太陽の下、Tunさんは汗みどろである。自分のかぶっていたスゲ笠風の帽子も私に渡してしまっている。いくら客とは言え、悠然と乗っていられる心境ではない。やがて小さな森が現れ、サイカーは停まった。屋根掛してある鉄骨の建物の中に巨大な涅槃仏が見える。全長55メートル、バゴーで最も有名なシュエターリャウン涅槃仏(Shwethalyaung Buddha)である。10世紀後半にモン族の王・ミカディパにより建立されたといわれるこの巨大な涅槃仏は、バゴー王朝滅亡とともに密林の中に忘れ去られた。そして再発見されたのは英国植民地時代であった。

 森陰の茶店で一息入れた後、サイカーは緩やかな上り坂を台地へと登っていく。私は歩き、Tunさんはサイカーを押して登る。景色が大きく変わりだした。周りは荒涼たる半砂漠地帯となる。所々畑地と思われるところもあるが、雨期前のためか耕作はされていない。視界の中にいくつもの小さな丘が点々と現れる。丘の上には、崩れかけた、あるいは建て直された小さな寺院が見られる。どうやらこの辺りがバゴー王朝の中心地であったと思われる。ひとつの丘の麓の寺院に寄る。巨大なニシキ蛇が飼われている。丘の上に登ってみると、小丘のそそり立つ荒涼たる大地が地平線まで続き、はるか彼方に緑の森の中からパゴダの先端が突き出ている。この風景を見るためにバゴーへやってきた。これこそががバゴーの原風景であろう。炎天下の下、丘の上に一人座し、バゴー王朝の昔を思う。

 モン族は東南アジアの大陸部に元々広く住んでいた民族である。仏教を受け入れ、チャオプラヤ川流域(現在のタイ)、エーヤワディー川流域(現在のミャンマー)に歴史上いくつもの仏教王国をうち建てた。しかし、10世紀以降、北から進出してきたタイ族やビルマ族に次第に圧迫され、16世紀半ばのバゴー王朝の滅亡をもって世界史の舞台から姿を消す。現在モン族は、下ビルマに数10万人、タイ中部に数万人が居住するに過ぎない。しかしながら、モン族の育んできた仏教とその文化は、タイ族、ビルマ族にそのまま引き継がれた。

 サイカーは緩やかに台地を下り、小さな集落の大きな家の前で停まった。「ここはどこだいな」。Tunさんの後について薄暗い屋内に入ると、いくつもの座卓を囲んで多くの若い女性達が何か作業をしている。葉巻を造っていると気づくまで、しばしの時間が必要であった。全部で100人はいるだろうか。ひとつの座卓に4〜5人。煙草の葉を丸め、吸い口を付けて器用に葉巻を作っていく。完全な手作業である。外国人の訪問は珍しいと見えて、「日本人だってーーー」の声が、さざ波のごとく広がり、皆こちらに笑顔を向ける。Tunさんは得意げである。カメラを向けると、彼女たちは積極的にポーズを造る。この国に入国以来感じてきたことなのだが、ミャンマーの人々は実に積極的でアクティブある。恥ずかしがるなどということは絶対にない。街中でも平気で外国人の私に声をかけてくる。シャイで、はずかしがりやのラオの人々とは大変な違いである。ラオではカメラを向けると皆顔を隠してしまう。

 すでに時間は正午を大幅に過ぎている。Tunさんに、「ご馳走するからどこか食堂へ連れていけ」というと、道端のちっちゃな大衆食堂にサイカーを停めた。黙っていても出てきたのは、例のミャンマーカレー、7〜8点の皿がテーブルに並ぶ。Tunさんは手掴みでむしゃむしゃ。私はスプーンとフォークで恐々。
 
 ヤンゴンへの帰路は思わぬトラブルとなった。暑さにくたびれたので、タクシーで帰ることとし、タクシー会社に15ドル払った。引き換えに「Yangon Sule Pagodaまで」と記載された領収書も受け取った。ボロ乗用車に乗ってヤンゴンに向った。もちろんこの地方都市には正規のタクシーなどはないので、タクシー会社の手配した白タクである。途中激しい雷雨が来た。1時間以上走ったころ、道端で突然車は止まり、運転手が「降りろという」。どういうことかと聞くと「会社からはここまでといわれている」という。「そんな馬鹿な、ヤンゴンのスーレー・パゴダまでの約束だ。この通り領収書も持っている」と主張するが、「聞いていない」の一点張り。

 これはヤバイ。おそらく、追加料金を脅迫するつもりなのだろう。外を見ると街道筋で車の往来も多い。弱みを見せるのは癪である。「わかった」と、降りてしまった。ただし、ここがどこなのかはまったくわからない。運良く通りかかったタクシーを捕まえて、無事Hotelに帰り着いた。タクシー代は3000チャット(約400円)。強気の対応で、被害を最小限に抑えることができたが、危ないところであった。あとで、O嬢にこの話をしたら、「ヤンゴンはミャンマーでも特別な場所。絶対に前金を渡してはいけない」と言われた。

 毎日の油っこいミャンマーの料理に、暑さも手伝って、さすがに胃が疲れた。日本食を食べたいところだが、ホテルの近くにはなさそうである。しかし、チャイニーズレストランならどこにでもある。おまけに漢字のメニューがあるから助かる。こぎれいなレストランを見つけ、久しぶりに満喫する。ミャンマーの国産ビールはタイガービールとミャンマービールがある。ミャンマービールは日本にも輸入されており、少しは名がしれている。
 

   第12章 ヤンゴンの4日目

 今日はマンダレー(Mandalay)へ列車で向うのだが、発車時刻は17時。ほぼ丸一日時間がある。本来、もっと早い時刻の列車に乗りたかったのだが、切符売り場のおっさんが、「この列車がBest」と言って、半ば強制的にこの列車にされてしまった。

 昨日から腕時計が止まってしまっている。電池切れだろうと思い、1000チャット(約130円)で電池を取り換えたのだが、それでも動かない。壊れているようだ。腕時計がないことには旅が続けられない。仕方なく、4000チャット(約530円)でセイコウの時計を買う。もちろん偽ブランドだろう。しかし、この時計、1日に2時間も遅れ、結局使い物にならなかった。

 その足で、ボーチョーアウンサン・マーケット(Bogyoke Aung San Market)に行ってみる。ヤンゴン最大の市場である。二階建ての大きな建物だが、朝のためか、あまり活気がない。片言の日本語で、何人かの若者が話しかけてくる。「地球の歩き方」によると、勝手に案内して、後でチップを要求するとか。無視して歩き回る。絵葉書を手にした子供がつきまとう。かなりしつこい。

 気を引くものも見当たらないので、道を挟んだ反対側のニュー・ボーヂョー・マーケットに行ってみる。薄暗い一階建ての建物で、薬屋がいやに目に付く。早々に街の中心部に戻る。

 スーレー・パゴダを真ん中にした街の中心部には、古風なヨーロッパ風の建物が並んでいる。最高裁判所、市役所、中央電話局などで、いずれも英国植民地時代の建物である。その一角に、マハバンドゥーラ公園(Maha Bandoola Garden)がある。行ってみると、芝生の広場が広がり、その真ん中に高さ46メートルの純白の独立記念碑が建っている。こんな公園まで、外国人からは1ドルの入園料をとる。

 昼食のため、泊まっているホテル付随のレストランに行く。何回か利用したので、従業員とは顔見知りである。1人が寄ってきて、「頼みがある」という。「姉が日本にいるが、連絡がなかなかつかない。日本に帰ったら、みんな元気でいると伝えて欲しい」という。引き受けると、住所と電話番号のメモを持ってきた。住所は東京の蒲田であった。「ところで、姉さんは日本語がしゃべれるのか」と聞くと、「まだ1年なのでーーー」。どうもこの国は、外国からは手紙もまともには届かないようだ。

 (下)に続く
 

 
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