おじさんバックパッカーの一人旅   

ラオ北部周遊 (1)

 ラオ最北端の街・ボンサーリーを目指して

2010年1月19日

         〜24日

 
 第1章 旅の序曲

 日本の冬の寒さに耐えかね、南の国に逃げ出すことにした。さて何処に行こうか。世界地図が頭の中をぐるぐる回る。数日後に得た結論はラオ(ラオス)であった。ちょっと平凡な結論だが、この国なら、体力は少々必要だが、いたって心地よい旅が期待できる。ラオは現在,欧米ではブームらしい。「アジア最後の純情」といわれ、世論調査では「行きたい国」のトップを占めるとの記事も目にする。しかし、日本ではいたって影の薄い国で、旅行会社のパンフレットを開いてもこの国へのパック旅行の案内はほとんど載っていない。

 この国には過去3度旅した。どれほど素晴らしい国であるかはその旅行記にたっぷりと記した。しかし、これほど注目され、大勢の旅行者が押しかけるようになると、さしもの宝石も輝きを曇らせかねない。心配である。現に、旅行シーズンである乾期(11月〜2月)は、ルアンプラバンなどは外人旅行者で溢れ、ホテル不足に陥ると記されている。

 昨年、シーパンドーンを中心としたラオ南部を旅した。今回は6年ぶりに北部を放浪してみよう。ラオ最北の街・ポンサーリーや謎の巨大石壺が無数立ち並ぶポーンサワンが未踏のまま残っている。累々たる山並みを縫って流れるウー川(ナム・ウー)を船でのんびり下るのも魅力的である。いずれにせよ時間はたっぷりある。ラオの魅力を心ゆくまで堪能してこよう。チェンコーン(タイ)/ファイサーイ(ラオ)で入国し、ラオ北部を周遊した後ビエンチャン(ラオ)/ノーンカイ(タイ)で出国する計画を立てた。ただし、ラオに入国する前に、途中経路となるタイの古都・チェンマイに立寄って、前々から気になっている、その近傍にある二つの古代都市遺跡を見学することにした。

 
 第2章 ラオ入国

 1月19日。チェンマイで3泊し、予定通り、2つの古代都市遺跡訪問を果たした。今日はいよいよラオに向う。気分は爽快である。7時30分、チェックアウト、ソンテウを捉まえてアーケード・バスターミナルへ急ぐ。このバスターミナルは過去何度も利用しているので勝手は十分わかっている。今日の予定は、まずチェンライまで行き、バスを乗り換えて国境の街・チェンコーンへ向う。そして、国境の川・メコーンを渡ってラオに入国するつもりである。

 8時30分発のチェンライ行き2等エアコンバスのチケットを得る。プラットホームに出ると、何と、隣りにチェンコーン行きの1等エアコンバスが停まっているではないか。チェンコーン行きの直通バスがあるとは知らなかった。失敗、失敗。まぁ、時間はたっぷりある。慌てることもない。バスは定刻に発車した。満席である。数人のバックパッカーも同乗している。予想通り、車内は冷房が効きすぎて寒い。こんなことだろうと、乗る前に長袖のポロシャツを羽織ったのだが、現実は予想を超えていた。タイでは、「冷房が効いたところでは暖房が必要」といわれるほど冷房が強力である。省エネなどという配慮は皆無である。

 チェンライへの道は何度も通った道、見覚えのある風景が続く。1時間半走って、いつものドライブインでトイレ休憩。車外に出ると、空気がひんやりして、直射日光の暖かさが心地よい。この分では、ラオ北部は大分寒そうである。隣りにはチェンマイのバスターミナルで見かけたチェンコーン行きのバスが停車している。車内には多くのバックパッカーの姿が見られる。少々いまいましい。

 更にバスは田園風景の中を1時間40分ほど走って、チェンライ郊外の新バスターミナルへ到着した。面倒なことに、チェンコーン行きのバスは、このバスターミナルではなく、市内の中心にある旧バスターミナルから出る。すぐに連絡用のソンテウに乗り換え、市内に向う。勝手はわかっているが面倒くさい。12時過ぎ、旧バスターミナルへ到着したが、チェンコーン行きバスは出たばかりで、次のバスは13時発。小1時間の待ち時間となってしまった。この旧バスターミナルは同じ県内への近距離バスとソンテウのみが発着している。

 チェンコーン行きの中型おんぼろバスは定刻に発車した。3〜4人の欧米人バックパッカーが同乗している。おんぼろバスが田舎道をトコトコ行く。乗客が乗ったり降りたり。何処でも乗り降り自由である。田圃では田植えが行われている。郷愁を覚えるバスの旅である。やがて行く手遥かに山並みが見えてくる。ラオの山並みのはずである。街並みが次第に濃くなり、15時過ぎに終点チェンコーンに到着した。

 すぐに控えていたトゥクトゥクに乗って街の北端にあるボーダーに向う。ここから2キロほどの距離である。チェンコーンの街はメコーンに沿って細長く伸びている。街並みを抜けて、数分でボーダーに到着した。目の前に大河メコーンが滔々と流れ、その向こうにラオ・ファイサーイの街がはっきり見える。またメコーンに出会えたのだ。懐かしさがこみ上げてくる。今までこの川に何度出会ったことだろう。一昨年の4月には中国・雲南省最奥部でこの川の最上流に出会った。一昨年の12月にはベトナムのメコーン・デルタでこの川の最下流を眺めた。タイ、ラオ、カンボジアで出会った回数は数えきれない。今日また、この川を渡ってラオに入る。

 川岸のイミグレーションで出国手続きをして河原に降りる。この渡し場を利用するのは、2004年2月、2005年1月に続いて3度目である。待ちかまえている小さな渡し舟に乗り込む。3人の白人バックパッカーと同舟である。船賃は40バーツであった。前回は確か20バーツであったのだがーーー。真っ茶色に濁った流れを横切り、船は数分で対岸・ファイサーイの船着き場に到着した。ここはもうラオだ。自ずと心は高揚する。

 ファイサーイ(Huai Xay)の小さなイミグレーションは多くのバックパッカーで混雑していた。しかし、係官はラオらしからぬ手際よさで処理していく。入国カードとビザ申請書を提出すると、「日本人は15日以内ならビザの必要ありませんよ」とわざわざ注意してくれる。親切である。私は15日以上滞在する予定であるので、ここでアライバル・ビザを取得する必要がある。賄賂の要求もなく、あっさりと入国は許可された。横の銀行窓口で1,000バーツをラオの通貨キープに両替して、いざ街中へ!

 岸辺から続く急坂を登って、街のメインストリートに出る。驚いたことに、街はバックパッカーで溢れている。ただし、いずれも欧米人の若者で、日本人の姿は見えない。この小さな街にこれほどの旅行者が詰めかけているとはーーー。また、街の到るところに旅行代理店が店を開け、ラオやタイ各地へのツアーバスの案内が掲示されている。5年前とは街の雰囲気がすっかり変わってしまっている。桃源郷の国も何やら騒がしくなってしまったようである。前回泊まったゲストハウス(G.H.)に行くと、受付は無人で、「Full Room」との標示のみされている。別のG.H.に行くも満室だと断られた。何てことだ! 以前には考えられなかった事態である。3軒目で何とか部屋を確保できほっとする。

 洗濯を済ませ街に出る。意外なことに、街での流通通貨が全てキープである。5年前は、この街の流通通貨は全てタイ・バーツであったのだがーーー。国家が安定し、自国通貨の信用が増したのだろう。好ましいことではある。もちろん、タイ・バーツや米ドルの使用も可能ではあるが。長い階段を登り、街を一望できる丘の上の寺ワット・マニラートに行ってみる。眼下にファイサーイの小さな街が細長く伸び、その後ろに大河メコーンが悠然と流れている。タイ・チェンコーンの街も目の先である。夕日がゆっくりとタイの大地に沈んでいく。境内には小坊主が群れている。しかし、皆知らん顔である。以前は、親しく話しかけてきたものだがーーー。ラオも何やら変わってしまった気配がする。夕食に川岸のオープンスペースの食堂に行く。所が何と、全席禁煙だという。喫煙禁止の動きは、辺境の国ラオの辺境の地まで広がっている。少々驚いた。

 
 第3章 メコーンを船で下り、パークベン(Pakbeng)へ

 1月20日。朝、外を覗くと、街の小さなメインストリートは、路肩に駐車するバスやワゴン車で埋め尽くされている。壮観な、かつ異様な風景である。いずれも各旅行社が手配したラオ各地やツアーに向う車である。今回の旅では静かなラオは期待できそうもない。今日はスローボートに乗ってメコーンを下り、パークベンまで行く。船のチケットは昨日旅行代理店で購入した。スローボートの船着き場まで車で送るとのことで、9時30分に店先に集合との指示である。

 早めに店に行き、街の景色を眺める。通りにはザックを担いだ若者が溢れ、その中を駐車していたバスやワゴン車が次々と発車していく。まるで都会の雑踏である。ただし、日本人の姿は見られない。9時半、欧米人のバックパッカー7人とともにトゥクトゥクに乗せられて、街から2キロほど上流の船着き場に向う。20隻ほどの船が係留されている船着き場も大勢の旅行者で賑わっていた。ファイサーイ←→ルアンプラバン(ルアンパパーン)の船旅はラオの黄金ルートと言われる花形ルートである。ファイサーイにやって来た旅行者の99%はこのルートを通って古都ルアンプラバンに向う。ただし、この船旅はスローボートの場合2日掛かり、中間の小集落パークベンで1泊する必要がある。今回、私はこのルートを半分だけ辿って、パークベンから独自ルートを行く計画である。

 指定された船は既に座席が半分ほど埋っていた。長さ20メートルもある細長い船で、70〜80人ほど乗れる。前半部は横四列の椅子席で、木製の超粗末な椅子が並んでいる。中央部は機関室、後方はゴザを敷いただけの船室である。トイレと小さな売店を備えている。出帆は11時、まだ小一時間ある。待つほどに乗客はドンドン増え、満員となってしまった。船員が「隣りの船と2隻で行く」と怒鳴る。半数近い乗客が隣りの船に移る。しばらくすると、「隣りの船は1時間遅れで出帆」と告げる。慌てて、隣りの船から多くの乗客が戻ってくる。何ともちぐはぐな処置である。

 出帆予定時刻の11時を過ぎるも、その気配はなく、旅行社に引率された小グループが三々五々と乗り込んでくる。いずれも、今朝、タイ・チェンコーンを出発したグループのようである。11時30分、船はようやく大河メコーンの流れに乗りだした。これから約7時間の船旅である。この船は、乗客の多くが外人旅行者で占められているものの、別段観光船ではない。従って乗客の30%ほどは地元民である。多くはアカ族やモン族などの山岳少数民族のようである。道路の未整備なラオにおいては、河川を利用した船便が大きな交通手段となっている。メコーン沿いの多くの小集落にとっては、この船便が外界とを結ぶ唯一の交通手段である。

 右にタイ・チェンコーンの街並み、左にラオ・ファイサーイの街並みを見送ると、メコーンは国境線を離れ、両岸ともラオ領内となる。この川は延長4.023キロにも及ぶ東南アジア随一の大河である。チベット高原に源を発し、中国・雲南、ミャンマー・ラオ国境、タイ・ラオ国境、ラオ、カンボジアを通り、ベトナムにおいて南シナ海に流入する。「メコーン」との呼称はタイでの呼称である。「メーナーム・コーン」が正式呼称であり、一般的には、タイでは「メー・コーン」、ラオでは「ナーム・コーン」と略称される。「メーナーム」及びその略称である「メー」や「ナーム」は「川」と言う意味であるから。本来日本語では「コーン川」と訳されるべきなのだがーーー。なお、中国では瀾滄江と呼ばれる。この呼称は14世紀にルアンプラバンを王都として興ったラオ最初の王朝・ラーンサーン王国の名に拠る。

 両岸には累々とした山並みが続く。ただし、いずれの山肌も焼き畑の跡が濃厚である。時々小さな集落が現れる。家々は竹を編んだ壁、椰子の葉で葺いた屋根の高床式の粗末な小屋である。岸辺では牛が悠然と草を食み、真っ裸の子供たちが船に向って懸命に手を振る。集落の周辺にはオークの林が見られる。眺める景色は心休まるものなのだが、前の座席のファラン(欧米人)の男女が濃厚なキスを繰り返し、身体をまさぐりあっている。まったく、こいつらには羞恥心と言うものがないのだろうか。犬猫と同類である。

 1時間ほど走り、船は小さな集落の岸辺に接岸した。菓子や飲み物を売らんと待ちかまえた子供たちが我先にと船に乗り込んでくる。何人かの乗客を乗り降りさせ、船はすぐにメコーンに乗りだす。小さな木製の椅子に座布団はついているものの、座席の間隔も狭く、いい加減お尻が痛くなる。腹も減ったが、昼食は抜きのつもりなので、私は食料を持参していない。後ろの席の中年の男性が、バインミー(フランスパンのサンドウィッチ)を差し出してくれた。ありがたく頂戴する。更に2時間ほど走り2度目の寄港、数人の乗客を降ろす。出迎えの女性の服装からヤオ族の集落と思える。

 もう数時間航行しているが、文明の利器と思えるものは何一つ目にしない。道路も、車も、コンクリートの物体もーーー。岸辺の小集落の小屋にもテレビのアンテナは立っていない。時々、砂金取りをしている人と網を打つ小舟が見られる。メコーンの流れは思いのほか早い。前方を眺めると、川の傾斜が見て取れる。陽が大分傾いてきた。パークベンはまだだろうか。後方から、1時間遅れで出帆した船が追いつき、追い越していく。向こうの船の乗客が歓声を上げて喜んでいる。ついに太陽が山の端に沈んで行く。

 薄暗くなった18時30分、ようやくパークベンに到着した。2隻の船が相次いで到着したので、小さな船着き場は大混雑である。早く行かないとG.H.は満室になってしまうだろう。私も焦る。上の道路までまともな道もなく、砂の急斜面である。ザックを抱えて懸命に登ると、客引きの少年に声を掛けられた。1泊300バーツだと言うので、「どうせ1泊、どこでもいいや」と思い付いて行く。急坂となって続くメインストリートの両側にはG.H.や食堂が建ち並び、ちょっとした街並みを形成している。少年の名前は「トム」、11歳だという。

 着いたところはあまり上等とは言えないG.H.、ダブルベットと蚊帳があるだけで、トイレもシャワーも共同であった。普通なら、150〜200バーツの部屋、需給バランスの崩れが宿泊費を割高にしているようだ。チェックイン手続きをしているうちにこのG.H.も満室となった。外ではまだ大勢のバックパッカーが宿を求めてうろうろしている。ついに、全てのG.H.が満室となったとみえ、宿を捜しあぐねた2人連れのオランダ娘が、何とかしてくれとフロントに泣きついている。得た結論は、2階の階段降り口の空間に布団と蚊帳を持ち込むこと。ただし、ここは外に向ってオープンスペース。横に用心棒としてトム君が寝るとのこと。娘二人は「Good Room」とやけっぱちではしゃいでいる。ちなみに、宿代は100バーツとのことである。

 夕食を済ませて、外をぶらつく。パークベンは見るところとてない小集落であるが、ルアンプラバンとファイサーイのちょうど中間に位置するため、2日にわたる船旅の泊まり場になっている。昔は、数軒のG.H.があるだけであったのだが、いまや数十軒のG.H.と食堂が建ち並んでいる。とはいっても、道はメインストリートただ1本、この道に沿った家並みだけである。G.H.の前にぼんやり座っていたら、韓国から来た学生だと名乗る若い男が話し掛けてきた。しばらくして男は、「一緒に呑みに行かないか」と誘う。断ると、ポケットから茶色の塊を取りだし、「これをやらないか」とささやく。見ると阿片である。どうも普通の旅行者とも思えない。しばらくすると、別の若い男が寄ってきて、「ガンジャいらないか」と誘う。マリファナである。周りに大勢のバックパッカーがいるが、欧米人の若者ばかり。日本人のおじさんに話し掛けてくるのは怪しげな男のみである。早々に寝る。粗末なG.H.であったが、夜は静寂そのものであった。

 
 第4章 北部の交通の要衝・ウドムサイ(Udom Xay)へ

 1月21日。今日はバスでウドムサイに向う。昨夜パークベンに泊まった旅行者は、ほぼ100%、船でルアンプラバンかファイサーイに向うはずである。今日は、ようやく旅行者の群れから離れ、ラオの地肌に濃厚に触れることが出来そうである。ルアンプラバンからファイサーイの間のメコーン沿いの集落のうちパークベンのみ道路が通じており、北部の交通の要衝ウドムサイへ1日1本バスが通っている。前の晩、宿でバスの状況を聞くと、「発車時刻は8時30分。発着場はここから数キロ先の集落の外。発着場までバイクで送るが、100バーツ払え」という。ボルにもほどがある。「ふざけるな」と怒鳴りたいところだが他に交通手段もない。「アジア最後の純情」の国も商業主義に大分犯されてしまった気配である。

 8時、バイクの後ろに跨がって宿を出る。500メートルほど続くG.H.街を過ぎると、その先には昔のままのパークベンの貧相な家並みが続いていた。更に2キロほど走り、家並みが途絶えたところがバス発着場であった。切符売り場の小屋と雑貨屋がぽつんとある。トラックバスを予想していたが、停まっていたのは15人乗りのワゴン車であった。発車時刻は9時、G.H.で聞いた時間とは異なる。所在なくうろうろしていたら、アカ族のおばちゃん2人が菜っ葉と鶏の入った篭を背負ってやって来た。先ずは雑貨屋で商談、街の市場まで行くのだろう。

 待つほどにぽつりぽつりと乗客がやって来て定員を越えた。このため、定刻前だが発車の構え。と、男女2人のバックパッカーが駆け込んできた。せっかく、外国人は私1人と思っていたのに残念である。どうにかこうにか20人を詰め込んでいざ出発。これから約4時間のバスの旅である。

 意外にも道路は舗装されている。土ぼこりもうもうの地道を想像していたのだがーーー。この道は一応国道2号線ではあるが、こんな地方道が舗装されているとはラオも進歩したものである。30分ほど走ると、突然道端で停車。何事かと思ったらおばちゃんがトイレ休憩を求めたらしい。ついでとばかりに数人が降り、男はタチション、女はスワリション。ラオらしくおおらかである。

 山岳道路ほどではないが、曲がりくねった山道を車は猛スビードで飛ばす。対向車はない。時折オートバイと出会う程度である。粗末な家々の並ぶ山岳少数民族の小集落が点々と現れるが、民族衣装は見られず何族とも分からない。数年前は、民族衣装姿の女性が多く見られたのだがーーー。何かのお祭りらしく、大勢の人で賑わう集落を通過する。道端に多くの露店が並ぶ。やがて「町」と呼んでもよい街並みに入り小休止となった。Moung Hounsと言うところらしい。数人の乗客が入れ替わる。

 車は再び北へ向って走り始める。山を越えるたびに小さな盆地が現れる。その繰り返しが続く。盆地には田圃が広がり、田植えの真っ最中である。1時間ほど走り、道端でトイレ休憩。やがて大きな盆地に入り、12時過ぎに、バスターミナルへ到着した。終点ウドムサイである。わずか3時間少々のバスの旅であった。さすが北部の交通の要衝、立派なバスターミナルである。ラオ語、漢字、英語の3カ国語の標示がある。明日、バスでポンサーリーへ行くつもりなのでバスの時刻を調べると8時30分発である。

 このバスターミナルはウドムサイの街の南東にある。ぶらりぶらりと歩いて街の中心部に向う。街並みが次第に濃くなる。平べったい街並み、ほこりっぽい広々とした道路、何やら西部劇に出てくる街のような印象である。街の中心部にあるVivanh G.H.にチェックインする。わずか5部屋の小さなG.H.だが、設備は完璧である。建物は真新しく、部屋には天井式パッケージエアコン、集中給湯、洋式トイレを備えている。おまけに宿泊費は30,000キープ(約330円)と超安値である。驚いたことに、オーナーの奥さんが日本語を話す。昔、香川県の高松市に看護の研修で行ったことがある由。こんなラオの田舎町に日本を知る人がいたとは感激である。

 昼食後街に出る。ウドムサイは国道1号線、2号線、4号線、13号線の交わる交通の要衝である。中国国境にも近く中国語の看板も目に付く。先ずは、この街の唯一の見所、ブー・タート(Phuu That タートの丘)に行ってみる。街の真ん中に盛り上がった高さ100メートルほどの丘である。その頂に立つ白い仏塔は街のどこからでも見え、ウドムサイの象徴となっている。国道端から長い石段をヒィーヒィー登る。山頂からは四方に大きく展望が得られる。ただし、それほど感動する景色でもない。山々で囲まれた盆地の中に、街道に沿って長さ1.5キロ、幅0.5キロほどの意外に小さな街並みが広がっている。

 いったん国道に下り、今度は反対側のプー・サイ(Phuu Sai サイの丘)に登ってみる。山頂に電波塔が立っている。展望は得られるが、たいして面白いこともない。その先の小さな丘の上にワット・サンティパブ(Vat Santiphab)というお寺があった。坊さんの学校となっていて、多くの小坊主が教室で勉学に励んでいた。下って街中をあてもなく歩き回る。裏通りに入ると、庭といわず、道といわず、干されたタイガー・グラスで埋め尽くされていた。壮観な景色である。この草は箒の材料で、山岳少数民族の現金収入の貴重な材料と言われる。以降、北ラオのどこへ行っても、干されている大量のタイガー・グラスに出会った。

 散々街を歩き回って夕方宿に帰り、ふと、大変なことに気がついた。手持ちのキープが少ないのである。事前の予想に反し、ラオで流通している通貨は圧倒的にキープであった。キープを持たずして旅は続けられない。しかし、明日金曜日は、1日中ポンサーリーに向うバスの中である。土日はポンサーリーに滞在するが、銀行は休みである。以降3日ほどは、銀行などないウー川沿いの小集落に泊まることになる。両替するチャンスがないではないか。今日は既に銀行は閉まっている。何てバカなーーー。慌てて外に飛びだす。

 先ずは、市場に行く。数年前まで、ラオでの主要両替場所は銀行ではなく市場の貴金属店であった。しかし、市場の貴金属店ではもはや両替は行われていなかった。それだけラオの金融システムが近代化したのだろう。続いて、銀行前に設置されている24時間稼働のATMに行く。入国した日にファイサーイの街でATMがあるのを見てびっくりしたが、ここウドムサイの銀行にもある。しかし、手持ちのシティーバンク・カードは使用不可能であった。もはや打つ手が無い。仕方がないかーーー。明日もう1日この街に滞在しよう。別に急ぐ旅でもない。

 今度のラオ旅行で強く印象に残ったのは通貨キープの信用力の大幅な増強である。以前はどこへ行ってもキープよりも米ドルまたはタイ・バーツが好まれた。キープは1ドル以下の小銭の場合のみ使用される傾向であった。今回の旅ではどこへ行っても当然のごとくキープが使用されていた。また、4〜5年前は1米ドル=10、000キープで換算されていたが、今回は1米ドル=8,000〜8,400キープであった。キープの価値が、米ドルに連動せずに、高まったといえる。更に、両替レートが両替商より銀行の方がよいという、以前とは逆の事態となっていた。市場から闇両替(半ば公認であったが)が姿を消したこと、ATMが現れたことなどと合わせ考えるなら、キープの信用力が著しく増したといえる。
 
 1月22日。朝方雨がぱらついたが、すぐに上がって強い日差しが降り注ぐ。今日は予定を変更してウドムサイに留まる。朝一番でBCEL(Banque Pour Le Commerce Exterieur Lao)に両替に行く。1米ドル=8,460キープとレートはいたってよい。仕事ぶりもてきぱきとして、先進国の一流銀行並である。もちろん、バンクレシートもちゃんと発行する。この田舎町の銀行にしてこの仕事ぶり、ほとほと感心した。

 今日は他にやることもない。ひたすら街をほっつき歩く。街の真ん中をナーム・コー(コー川 Nam Ko)が流れている。何人かが川に入り網で魚を捕っている。そして捕れた魚をバケツに入れたまま、街を売り歩いている。街中で何と! 昆明発ビエンチャン行きの国際寝台バスを見かけた。毎日1往復、中国のバス会社が運行しているようである。ということは、中国からビエンチャンまで大型バスが走れる道路が完成しているのだ。中国は東南アジアに向け道路開発を急ピッチで進めている。それにともない、タイ、ラオスへの影響力は日増しに強まっている。

 市場には中国製の雑貨が溢れている。昔はどこの市場でも、シン(ラオスの民族服である巻きスカート)の売り場が大きな部分を占めていたのだが、いまや隅の方にちょこっとあるだけである。そう言えば、街でもほとんどシンをはいた女性を見かけない。4〜5年前はほとんどの女性がはいていたのだがーーー。街中にはオートバイ屋と携帯電話屋が目立つ。いつのまにか、ラオも普通の国になってしまったようである。道路には車とオートバイが溢れているが、車の80〜90%はヒュンダイ(現代)製、オートバイもほとんどが韓国製である。家電製品は全て中国製、全ての商品において日本の匂いは極めて薄い。この街にはコンビニもスーパーマーケットもない。

 
 第5章 ラオ最北端の街・ポンサーリー(Phongsaly)への過酷なバスの旅

 1月23日。今日はバスでラオ最北端の街ポンサーリーに向う。案内書によると所要時間は9時間、しかもかなりの悪路の様子。ハードな旅になりそうである。ポンサーリーはラオ北部に広がる累々たる山並みの中に隠れるがごとく存在するラオ最深部の街である。中国、ベトナムに三方を囲まれており、地理的にも、文化的にも、或いは歴史的にもラオの中心部とは大きな距離がある。周囲は山岳少数民族の宝庫であり、街で話されている言葉もラオ語ではなく、プーノイ語という少数民族の言葉だという。ここまで行けば、ラオの旅を極めたと言えそうである。

 手元に一冊の本がある。『黄金の四角地帯  羽田玲子著  社会評論社』である。中に「ラオス最奥の地ポンサリィ」と題したポンサーリーへの訪問記がある。1993年の記録である。その旅行記によれば、当時はラオ国内からポンサーリーへは道路が通じておらず、ウドムサイをトラックで出発した一行はいったん中国・雲南省に入り、そこからポンサリーへ向っている。到着したポンサーリーは多くの山岳少数民族の暮す桃源郷で、一行を歓迎する祭りまで開いてくれたと記されている。

 7時30分チェックアウト、いいG.H.であった。15分ほど歩いてバスターミナルへ。切符は簡単に手に入った。バスは既に停まっていた。ヒュンダイ製のかなりぼろの中型バスである。発車時刻の8時30分になっても動く気配がない。待つほどに満席となり、数個の補助椅子が通路に持ち込まれた。9時近くなって、ようやく発車したと思ったらターミナル出口でストップ。9時30分、中国からやってきた国際バスを待って、ようやくまともに走り出した。この分では、ポンサーリー到着は大分遅くなりそうである。発車してすぐにビニール袋が配られる。車酔い用らしい。過酷な旅になりそうである。バスには3人の中年の欧米人が乗りあわせている。

 小集落からおばぁさんが乗ってきて、私の隣りの補助席に座った。珍しく、アカ族特有の民族衣装をまとっている。街の市場でも山岳少数民族らしき人々は多く見かけたが、いずれも民族衣装はまとっていなかった。すぐに、ウドムサイの盆地が尽き、凄まじい山道の走行となった。道は舗装されているものの、激しい湾曲を繰り返す道である。対向車もめったに来ないことから、バスは乗客を無視するがごとく、猛スピードで突っ走る。遠心力のため、座席から放り出されそうである。この道は国道4号線である。

 アカ族のおばぁさんが激しく車酔いを始めた。しかし、乗客は案外冷たく、皆知らん顔である。私が面倒を見ざるを得ないようである。ビニール袋を繰り返し渡し、ティッシュを渡し、背中をさすり、身体を支えてやる。おばぁさんがお礼らしきことを何度もつぶやくが、ラオ語なのかアカ語なのか、私には聞き取れない。「ボー・ペンライ(気にしなくていいよ)」とラオ語で答えておいたがーーー。山岳少数民族の貧相な小集落が時々現れる。その度に数人が降りたり乗ったり。隣りのおばぁさんも降りていった。やれやれである。

 約1時間半走って、小さな村の広場で休憩となった。「ここはどこか」と聞くと、パーク・ナーム・ノイ(Pak Nam Noi)とのこと、ムアン・クア(Muang Khua)を経てベトナムに向う国道4号線とポンサーリーに向う道のジャンクションである。広場の周りは小さなバザールとなっていて、民族衣装の山岳少数民族の姿も見られる。

 国道4号線と分かれ、ここから地道となった。もうもうと土煙をたてながら、バスは累々たる山並みの中を進む。左右に振られ、上下に揺すられながら、「これぞラオの旅だ」と何やら嬉しくなってきた。時々、小さな集落が現れ、乗客が入れ替わる。いずれも竹を編んだ壁と椰子の葉で葺いた屋根の高床式の粗末な家々である。山肌は焼き畑の跡が濃厚である。

 13時前。バスは何もない山中の道端に停車した。何事かと思ったら、昼食休憩だという。????ーーー。乗客は皆バスを降り、山肌から流れ落ちる清流で手を洗い、グループごとに道端に車座となって食事を始める。初めからこういう勝手になっているとみえ、皆、ティップ・カオ(竹で編んだお櫃)に入ったカオニャオ(もち米)と数種類の副食を持参している。清流のあるこの場所が常に昼食場所として選ばれるようで、周りにはごみが多く散らばっている。時折車が通ると、もうもうたる土煙が上がる。食事場所としてはちょっとーーー、という感じである。私も、同乗の欧米人3人も、こんな勝手は知らないので昼食は持ちあわせていない。ただただ、昼食の終わるのを待つ。

 再び、凄まじいドライブが始まった。いつしかバスは尾根から尾根を渡るようになる。もはや小集落も現れない。やがてバスは小さな盆地に下り立ち、現れた小集落で小休止となった。地図にBounとある集落のようだ。再びバスは山中に入って行く。さすがに疲れた。昼飯も食べていない。突然、パーンという大きな音とともにバスは急停車した。パンクである。こんな事態に備えてであろうか、バスには運転手と2人の男性車掌が乗っている。屋根に積んだ予備のタイヤを降ろし、3人掛かりで大型タイヤの交換が始まった。乗客はただただ修理の終わるのを待つのみである。

 30分後、バスはようやく走り始めた。パンクしたタイヤは道端に置きっぱなしである。もっとも、3人掛かりでも重すぎて、とても屋根に積み込めそうもない。やがて山並みが薄れ、田圃が広がりだした。家並みが現れ、村とも呼べる集落に入った。自動車修理屋の前で停車し、運転手が何やら懇談。パンクしたタイヤを回収して修理してくれとでも話しているのだろう。ここは中国国境に近いBan Yoという村らしい。

 ここから、意外なことに舗装道路となった。中国・西双版納からポンサーリーに向う道に合流したのだ。険しい山道も終わり、バスは遅れを取り戻すがごとく、猛スピードで疾走する。17時、街並みが現れ、バスは広場で停車した。多くの人が下車する。ここがバーン・ブーン・ヌア(Ban Boun Neua)であった。ポンサーリーの空港はこの町にある。あと1時間半の距離である。

 バスは再び山を登り始めた。夕日が山の端に沈んでいく。何となく侘びしい。行く手遠くの山の中腹に街並みが見えてきた。ポンサーリーだろう。バスはなだらかな山並みの尾根道を最後の力を振り絞るがごとく疾走する。すっかり薄暗くなった18時過ぎ、バスは付近に家並みもない広場に到着した。ここが終点ポンサーリーであった。ついにやって来た。ラオ北端の地に。バスを降りると実に寒い。慌ててセーターを着込む。

 このバス発着場は街の西郊外、街までまだ2〜3キロある。側に小型のソンテウが控えていて、バスを降りた何人かが乗り込んでいる。聞いてみると、街の中心部まで行くというので乗り込む。バスに同乗していた欧米人3人組がオロオロしている。一生懸命英語で聞きまくっているのだが、もとより英語など通じるわけがない。彼らと初めて会話した。カナダ人の夫婦とドイツ人であった。3人一緒かと思ったが、途中から同行となったようである。50年配のカナダ人のおばさんは実に元気がよい。ドイツ人は私と同年配である。3人の会話はフランス語でなされている。

 ソンテウには我々を含め10人ほど乗ったが、途中次々と降り、街の中心部に着いたときは我々4人だけであった。既にもう真っ暗で、街の様子はよくわからないが、暗く沈んだ貧相な家並みがあるだけ、通りには車も人影もなく、とても「町」とは思えない。先ずは宿を確保しなければならない。目の前のビパポーン・ホテルへ行ってみるが、食堂がないというので諦める。斜め向いに建つこの街で一番というポンサーリー・ホテルにチェックインする。料金は80,000キープ(約880円)である。ホテルと名乗っているが、完全に中国風旅社である。従業員は全員中国人だといっていた。タイ語(ラオ語)よりも中国語の方がよく通じる。3人の欧米人は、価格交渉が物別れに終わり、どこかへ消えていった。

 夕食をすませ、やれやれと部屋でひと息入れていたら、21時30分、突然停電。びっくりした。どうやら一時的なものではなく、電力の供給が時間制限されているようである。ここはラオ、驚いてはいけない。何とか懐中電灯を取りだし、フロントに行ってみると、もはや無人。全員寝てしまっている。何とか起して、ローソクを手に入れる。ベランダから空を眺めると、オリオン座とシリウスが輝いていた。

 
 第6章 ポンサーリーの1日

 1月24日。朝起きると街は霧に包まれていた。そして、何とも寒い。おそらく気温は10度を割っているだろう。ポンサーリーの街は標高1400メートルの山腹に位置する。お陰で風邪をひいたようだ。鼻水が止まらず熱っぽい。悪化しなければよいがーーー。今日は宿を替えるつもりである。泊まった宿は、案内書に街一番のホテルとあるものの典型的な中国の安宿・旅社であり、部屋もきれいとはいえず、従業員も不親切である。中国からやってくる商人用の宿なのだろう。4階建ての大きなホテルだが、昨夜の客は私一人であったようである。

 8時過ぎ、チェックアウトして宿を出る。眺める街は昨夜感じた通り実に貧相だ。1本のメインストリートに沿って低い家並みはあるが、お世辞にも街並みとはいえまい。ポンサーリー県の県庁所在地であり、もう少しまともな「町」を想像していたのだがーーー。街を歩いてようやくSen Saly G.H.という真新しいG.H.を見つけた。1泊60,000キープ(約660円)、部屋もきれいでベランダまである。チェックインする。欧米人の若い男女が一組だけ泊まっていた。そして彼らが、既知の3人を除き、この街で出会った唯一の外国人旅行者であった。欧米人バックパッカーも、この地までは余り入り込んでいないようである。

 朝食を得ようと、G.H.で教えてもらった食堂に行くも、営業は11時からと断られる。他に食堂も見当たらない。ふと思いついて市場に行く。メインストリートから1段上がったところにまぁまぁの大きさの市場があった。日用雑貨の区画はすれ違いも出来ないほどの狭い通路が入り組み、小さな店がぎっしり詰まっている。生鮮食料品区画は広々としたオープンスペースにあらゆる食材が所狭しと並んでいる。予想通り、その一角に2〜3軒の小さな麺食堂があった。

 1杯5,000キープ(約60円)のフー(ラオでポビュラーな米粉の麺)をすすっていたら、突然後ろから肩を叩かれた。振り返ってみると、昨日バスで一緒であったドイツ人がニコニコしながら立っていた。フーを食べながら話をする。私と同じく、定年退職後の一人旅を楽しんでいるとのこと。明日の予定は私と同じで、ウー川を船で下るつもり。カナダ人の夫婦も一緒だとのことであった。明日の再会を約して別れる。

 明日はウー川(Nam Ou)を船で下ってムアン・クア(Muang Khua)まで行く予定である。そのためには、先ず、船着き場のあるハート・サー(Hat Sa)という小集落までバスで行かなければならない。案内書によるとバスの発着場はポンサーリーの街から2キロも東に位置しているようだがよく分からない。G.H.に帰り、明日の行動を相談するも言葉が全然通じない。英語はもちろんだが、タイ語(ラオ語)も通じにくい。ちょっと困った。この街で話されているプーノーイ語など知るよしがない。バスの発車時刻を聞くと7時だという。どうやってバス発着場まで行くのだと聞くと、トゥクトゥクに乗れとの答え。トゥクトゥクにどこで乗るのだと聞くと、もう通じない。街中でトゥクトゥクの姿など見かけない。バス発着場まで、最悪歩いて行かざるを得ないだろう。

 この街の唯一の見所は、街の裏側に聳える高さ220メートルほどのプー・ファー(Phou Fa ファーの丘)である。街が一望できるとのことである。行ってみることにする。ポンサーリーの街は山の中腹に位置するため坂だらけである。フゥフゥ坂を登り、30分ほど歩いてプー・ファーの登り口に到着した。原生林の中を石段が延々と登り上げている。人影もなく、辺りは静寂そのものである。ゆっくりゆっくり石段を登る。下の方から人声がして、子供3人と女性が勢いよく登ってきた。人影を見て安心する。40分ほど掛かってようやく登り上げた山頂には白い仏塔が立っていた。しかし、辺りはガスが渦巻き自慢の展望は得ることが出来なかった。丘を下る。

 ハート・サー行きバス発着場まで行ってみることにする。ここからならそれほど遠くはない。直接情報を得ないことには安心できない。15分ほど歩くとバス発着場に着いた。街外れの小さな広場であった。係りの人にバスの発車時刻を聞くと8時だとのこと、G.H.もいい加減なことをいう。ここからG.H.まで歩いてみた。25分で到着。どうやら明日の朝も歩いて行けそうである。

 ぶらりぶらりと街を歩き回っていたらお寺があった。ワット・ケオ(Wat Keo)である。かなりのボロ寺だが、この街唯一の仏教寺院である。中年の僧侶が「ニーハオ」と中国語で愛想よく迎えてくれた。中国人と思ったのだろうか。日本人と知ると英語に切り替えた。ラオ辺境の田舎寺の僧侶には珍しくきれいな英語を話す。「何でも聞いてくれ」と親切である。しかし、ブッダ生誕の地・ルンビニも入滅の地・クシナガールも知らなかった。

 もはや行くところもない。今日は日曜日、ポンサーリー民族博物館もツーリズムオフィスもクローズしている。G.H.前にたたずんでいたらカナダ人の夫婦に出会った。明日、一緒にウー川を下ることを確認し、バスの発車時刻を擦りあわせると、ホテルで7時30分と聞いているという。どこもかしこもいい加減なことをいう。8時であることを教える。夕方17時、ようやく電力供給が始まった。相変わらず体調が悪い。明日が心配である。
  
    ラオ北部周遊(2) に続く
 

 

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