おじさんバックパッカーの一人旅
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2006年4月12日~4月18日 |
第1章 ソンクランの最中に
4月12日水曜日。チッタゴン空港を発ったTG310便は、午後3時、無事にバンコク国際空港に着陸した。ところが、空港で今晩のホテルを予約しようとして戸惑った。どこもかしこも満室である。聞けば、明日からソンクラン(タイのお正月)の休日とのこと。そういえばそうだ。すっかり忘れていた。ソンクランの真っ最中にタイに来てしまった。仕方なく、1泊1,500バーツも払って、何とかスクンビット界隈のホテルを予約したが、いやな予感通り、大外れのホテルだった。 4月13日木曜日。いよいよ街ではソンクラン名物の水掛けが始まった。スクンビット界隈では、通行人が頭からバケツで水を浴びせられることはないが、それでも、水鉄砲で打たれたり、少々の水を掛けられたり、大規模な水掛け合戦のとばっちりを受けたりで、外出すると結構濡れ鼠となる。それはまぁ仕方ないとして、ちょっと困ったぞ。明日、チェンマイに飛ぶつもりでいるのだが、チェンマイはソンクランの水掛け祭りでは最も有名なところ。この時を狙って、多くの観光客が押し寄せる。おそらく、飛行機はおろかホテルも超満員だろう。とんでもない時期に、タイに戻ってきてしまった。しかも、今日からは正月休日。旅行代理店も皆シャッターが降りている。航空券が買えない。 どこか開いている旅行代理店はないものかと、スクンビット界隈を歩き廻る。ようやく女の子が1人で店番をしている店を見つけた。女の子は「どこもかしこも休みなので、コンピューターが繋がるかどうかーーー。やってみます」とトライしてくれた。幸運なことに、空席が一つ見つかった。しかも、One-Two-Go Air(OX)である。OXは低料金を武器に新規参入した航空会社で、チェンマイまでタイ航空(TG)なら2,800バーツ(約8,400円)だが、OXは1,800バーツ(約5,400円)と大幅に安い。しめしめ、うまくいった。夜はI君と旅の中締め、久しぶりに、アルコールと日本食を堪能した。 明日から2週間ほどかけて、タイの北部地方を廻るつもりでいる。この地域は過去何度も訪れているが、いまだ幾つかの魅力的な街が未踏のまま残されている。先ずはプレー(Phrae)とナーン(Nan)に行くつもりである。この二つの街は、昨年訪れたパヤオ(Phayao)とともに、現在の統一タイ王国ができるまで、小さいながらも独立王国であった都市である。さらに、メーサロン(Mae
Salong)に行きたい。ミャンマーとの国境に位置する山上の小村で、中国国民党の敗残軍が建てた村として知られている。ついでに、タイ最北端の街・メーサイ(Mae
Sai)からミャンマーにちょっと入国してみよう。タイは勝手知った国、前途に不安はない。
第2章 チェンマイのソンクラン 4月14日金曜日。OX126便は定刻9時にバンコク国際空港を飛び立った。当然機内は満席。機内サービスはないものと思っていたらジュースとパンが配られた。機体も新しく、従業員もてきぱきしていてTGと遜色ない。約1時間でチェンマイ国際空港に着いた。昨年の2月以来のチェンマイである。大混雑が予想されるこの街を避け、一気に次の目的地・プレーまで行くことも考えたが、昨夜I君から「せっかくソンクランのチェンマイに行くなら、是非一泊すべきだ」と忠告された。忠告に従い、ホテル予約カウンターへ行く。予想通り、どこも満室であったが、それでも、ターべー門近くの安ホテルを何とか予約できた。しかし、通常1,000バーツの宿泊代がこの時期は1,300バーツだという。致し方ないか。 空港ビルの外に出るも閑散としている。いつもは声を掛けてくる白タクもいないし、トゥクトゥクの姿もない。困ったなぁと思って1服していたら、運よく1台のトゥクトゥクが客を運んできた。乗り込んで市内に向う。市街地の手前でトゥクトゥクは止まり、運転手が「荷物を覆うように」と大きなビニール袋を取りだした。なるほど、水掛け対策である。市内に入ると、途端に水掛けの洗礼を受け出す。チェンマイの水掛けは情け容赦ないので有名である。通行人だろうと、車だろうと、躊躇することなく水を浴びせてくる。空港にタクシーもトゥクトゥクもいなかった理由がわかった。商売にならないので、運転手は皆、水を掛けるほうに回ってしまったのだ。 濡れ鼠になって、何とか目指すホテルに到着した。実にきれいなプチホテルで、建物も部屋も若い女性が喜びそうなかわいらしいデザインになっている。これなら1300バーツでも惜しくない。昼食後、覚悟を決めて水掛け祭りの様子を見に行く。もちろん、カメラをはじめ荷物は一切持ち歩けない。財布とタバコはビニール袋に入れる。全身濡れ鼠は覚悟の上である。 門を出た途端に、バンバン水が飛んでくる。特に、濠に沿った道はまさに狂乱の極みである。何しろ水は無限にある。バケツを携えた地上部隊が濠に沿ってずらりと並び、突入してくる機動部隊を待ちかまえる。そこへ、水を満載したドラム缶を何本も積んだピックアップトラックが突っ込む。双方歓声を上げて、盛大に水を掛けあう。中に、半裸のファランも混じる。まさに合戦である。利は、水の豊富な地上部隊の方にある。通りかかる人や車にも容赦なく水をぶっ掛ける。警戒中のパトカーに対しても躊躇しない。わざわざ水を掛けられるために走り回っいる単車もある。掛けられるだけでは物足りないとみえ、自分で頭から水をかぶっているのには笑ってしまう。興奮した若者は、服を着たまま次々と濠に飛び込む。交通機関は完全に麻痺である。というより、一般車両は今日は走っていない。警察も止めようなどという意思はまったくない。まさに解放区である。このおおらかさが、まさにタイである。 しばし、合戦を眺めた後、旧市街を少し歩いてみる気になった。チェンマイは3度目であり、土地勘は十分にある。真夏の太陽が降り注ぎ、さすがに暑い。今が一年で一番暑い季節である。おそらく、気温は35℃を越えているだろう。さすがに歩いている人は少ない。旧市街は、濠沿いの通りのように狂乱状態には陥っていないが、それでもあちらこちらに、水掛けの拠点が設けられ、通行人に遠慮なく水をぶっ掛ける。ピックアップトラックも走り回っており、車上からも水が降ってくる。 文化センター前の広場に差し掛る。ここに「3王盟約の像」が建てられている。タイの人々に今でも深い感銘を与えている歴史的出来事である。さらに道を南に向う。足は自ずと、Wat Puntaoに向う。私の大好きな寺だ。タイにはキンキラキンの派手な寺が多いが、この寺はチーク材で建てられた地味な本堂を持つ。何とも趣がある。上がり込んで本尊の前に座り込む。周りに人影はない。外の喧騒もここまでは届かない。静かな静かなひと時である。その隣が、ワット・チェディ・ルアン。巨大な仏塔のあるチェンマイで最も有名なお寺の一つである。また、エメラルド仏が1468年から84年間も安置されていた寺としても知られている。普段は観光客で賑わう境内も、皆、水掛け合戦の方へ行ってしまったためか閑散としている。 さらに歩いて、ワット・プラ・シンへ行く。チェンマイで最も格式が高いと言われるお寺である。こちらは新年の初詣で大いに賑わっていた。皆、蓮の花、線香、ロウソク、それに仏像にかける甘茶を買い求め、一年の無事を祈っている。私も蓮の花を捧げ、甘茶を掛けて仏像に手を合わす。戦場からそのままやって来たびしょぬれの若者も、ここでは殊勝に手を合わせている。やっぱりタイである。さらに、ワット・チェン・マンを経て、いったんホテルに戻る。 心配事が一つある。明日、バスでプレーへ行くつもりなのだが、果たして郊外のバスターミナルまで行けるのか。フロントで相談すると、「水掛け合戦の始まらないうちに、なるたけ早くホテルを出なさい」とのことであった。日が暮れると、さすがに一般道路での水掛け合戦は止んだが、濠沿いの通りでは街灯と車のライトの下で、なおも激しい合戦が続いていた。
4月15日土曜日。忠告に従い7時過ぎにホテルを出る。さすがに、水掛け合戦はまだ始まっていないが、トゥクトゥクもソンテウもほとんど動いていない。ようやく通りかかったトゥクトゥクをつかまえるが、アーケード・バスターミナルまで80バーツと言い張る。普通なら50バーツがいいところなのだが。やむを得まい。ともかく、無事に、バスターミナルへ辿り着いた。 プレー行きバスの切符は容易に手に入った。さすが、国際観光都市チェンマイ、バスチケット販売システムは日本よりずっと進んでいる。先ず、窓口の女性は完璧に英語が話せる。コンビューターシステムにより発行されたチケットには、行き先、バスコード、プラットフォーム、発車時間、座席No.価格が英語で確り記されている。 取得したチケットは8時発のエアコンバス。チケットに記されたプラットフォームに行くと、フロントガラスにバスコードを大書きしたバスが停まっている。車掌に確認して、荷物を車体下の荷物スペースに入れ、記された座席に座ればよい。3列座席のトイレ付き豪華バスであった。バングラデシュのボロバスに乗ってきた身には、隔世の感がある。定刻に発車したバスは、国道11号線を一路南下する。スーパーハイウェーと呼ばれる片側2車線の快適な道路である。すぐにパンとミネラルウォーターが配られた。 バスはいったんハイウェーを外れランプーンの小さなバスターミナルに寄る。この街は昨年2月に訪れた。懐かしい街だ。再び国道11号に戻ったバスは、千メートル級の山並みを越えて、ランパーンのターミナルで2度目の停車。この街も懐かしい。再びバスは千メートル級の山越えに掛かる。片側1車線のカーブの多い道だが、路面の状況はよい。山肌の到るところに焼き畑の跡が見られる。焼き畑は既に禁止されたと聞いているのだがーーー。山を下り、プレー盆地に入る。デン・チャイの小さな街で国道11号と別れ、国道101号を北上する。プレーまではもうすぐと思ったのだが、ここからが意外に長かった。やがて街並みが濃くなり、市街地に入った。 街中の大通りでバスは停まり、車掌が、「プレーに着いた」と下車を促す。バスはナーン行きだったようで、降りたのは私一人であった。時刻は12時半、真昼の太陽が真上から照りつけ、さすがに暑い。バスを降りたもののここがプレーのどの辺かさっぱり分からない。方向を見定めようにも、太陽は真上にある。案内書によると、この街には、高級ホテルが2軒、中級ホテルが3軒あるとのことだが、今晩は高級ホテル・ナコーン・プレー・タワーに泊まるつもりでいる。それでも、1,000バーツ以下で泊まれるはずだ。付近にいた人に「ローンレーム ナコーン・プレー・タワー ユー ティナイ」とタイ語で聞いてみると、この道を真っすぐ行ったところだという。歩ける距離かと聞くと、約500メートルとのこと。ザックを背負って歩き出す。ちょうどサムロー(バングラデシュでいうリキシャ)が通りかかったので、ホテル名を行って乗り込む。すぐに着いたのだが、重厚な建物の、まるで御殿のような立派なホテルである。ふと玄関の表札を見ると、何と! 「Maeyom Palace Hotel」とある。目指したホテルではない。まぁ、いいか。これも何かの縁。しかし宿泊料は朝食付き1,300バーツと高かった。部屋は値段にふさわしく立派である。窓からは、緑に満ちた小さな街並みの背後に、盆地の東側に連なる山並みがよく見える。
プレー(Phrae)はヨム川(Mae Nam Yom)上流域の盆地に位置する古い都市である。旧市街は細長いヒョウタン型をしており、城壁と環濠で囲まれている。この旧市街の南側に新市街が発達している。伝承によれば、この街が建設されたのは9世紀とのことだが、歴史に登場するのは13世紀である。7世紀頃より中国雲南から南下を繰り返し、クメール王朝支配下のタイ地方に居住していたタイ族は、13世紀に入るとにわかにその活動を活発化させ、幾つものクニ(ムアン)を打立てる。現在のタイ地方北部から中部にかけても、ラーンナータイ王朝(1262年建国)、スコータイ王朝(1238年建国)、パヤオ王朝(1096年建国)、ナーン王朝(1282年建国)、プレー王朝(11世紀末建国)などが並立した。その後、スコータイ王朝及びその後を継いだアユタヤ王朝と、ラーンナー王朝とが強大化して、タイの歴史を刻むことになるが、パヤオ、ナーン、プレーの3小国も、大国の属国になりながらも余命を保ち続ける。ナーン王朝やプレー王朝が正式に現在のタイ王国に組み入れられるのは実に20世紀になってからである。 昼食を済ませると、すぐに街に飛びだした。街のあちこちで派手に水掛け合戦が行われている。ここも、地上部隊と機動部隊の戦いである。ただし、チェンマイのような無差別攻撃は行われていない。攻撃の相手は戦闘員のみで、一般通行人のような非戦闘員には攻撃は行わない。このため、安心して街を歩くことが出来る。
歩いて旧市街に向う。東門に達した。幅10メートルほどの環濠と土盛りされた城壁が街を囲んでいる。タイに限らず、ユーラシア大陸の都市はどこでもそうであったが、中世の都市は皆、城壁で囲まれていた。「城」という漢字は、本来、城壁で囲まれた都市を意味する。北京や南京も昔は「北京城」「南京城」と呼ばれた。タイ語の「チェン(Chiang)」はこの「城」に当たる言葉である。従って、チェンマイ、チェンライ、チェンセーン、チェンコーン、など「チェン」がつく都市が多い。どういうわけか、日本は例外で、都市を城壁で囲むことは行われなかった。近代に至り、城壁は都市発展の障害となったため、多くの都市で破壊された。タイにおいて、現在ほぼ完全な形で城壁が残っている都市は、私の知るかぎり、チェンセーンとこのプレーぐらいだろう。
やがて広場となった南門に達した。この門はプラトゥー・チャイ(勝利の門)と呼ばれる。ただし、城門の跡は残されていない。付近には市場もあり、夜には多くの屋台が出るとのことである。この南門跡は、新市街と旧市街を結ぶ主要な接点となっており、車の通行が多い。今しも、水の詰まったドラム缶を満載したピックアップ・トラックの戦車が、歓声を上げながら行き来している。城壁の道を離れ、城内に入る。呉服屋の店先に濃紺に染め上げられた衣服が多くぶら下がっている。スア・モーホームと呼ばれる藍染の木綿シャツで、プレー周辺の特産品である。この藍染シャツはタイの農民の最もポピュラーな作業服である。 メイン道路を北へ進む。すぐに左側に大きな寺院が現れた。ワット・プラバート・ミン・ムアン(Wat Phrabat Ming Mueang)である。その先が旧市街の中心となる十字路、北西側が大きな公園になっている。旧市街には、ごみごみした家並みはなく、何となくのんびりとした心地よい街が広がっている。そのまま道を北へたどると、北側の城壁と環濠に行き当たる。城壁の上は道路となっており、「城壁」としての保存はまったくされていないが、土塁そのものは明確に確認できる。環濠も、荒れるに任されており、雑草や雑木、竹などが生い茂る深い溝となってる。水はなく、底の方にわずかな水溜まりが見られるだけである。そのまま城外に出て、家並みの絶えた道を200メートルほど北へ進むとヨム川の岸辺に達した。平凡な川で、岸辺も雑草に覆われ人影もない。この川を下ればスコータイに通じており、昔はプレーの生命線となる交通路であったのだろう。
4月17日月曜日。今日はバスでナーン(Nan)へ向う。ナーンはプレーから120キロほど北のナーン川沿いの盆地に位置する小都市である。東側と北側にはラオス国境が迫っている。9時過ぎホテルを出て、すぐ近くのバスターミナルへ行く。ちょうど、デンチャイ発プレー経由ナーン行きのローカルバスが停まっていた。バングラデシュのバスに負けないほどのボロバスである。9時30分、バスはほぼ満員の乗客を乗せて出発した。しばらく街並みが続く。プレーの街は意外に広がりがある。次第に街並みは薄れ、トウモロコシ畑の広がる郊外に出る。うとうとしていたら、突然、全身に水を浴びた。バスに向って水を浴びせた馬鹿がいたのだ。非戦闘員には水を掛けないという暗黙の約束ごとがあるので、バスは窓もドアも開けっ放しで走っていた。バンコクなどはバスにも水を浴びせるので、ソンクラン期間中はバスは窓を閉めて走る。約束事を守れない馬鹿がいてはたまらない。皆、慌てて窓を閉める。しかし、冷房車ではないので、今度は暑くてかなわない。バスは国道101号線を一路北上する。 Rong Kwangの小さな街並みを過ぎると山道となった。プレー盆地とナーン盆地を隔てる山並みである。ただし、大して高い山ではない。ここでも山肌に点々と焼き畑の跡が見られる。山を下り、Wiang Saの街のバスターミナルへ入る。しばらく停車するだろうと思い、トイレに行って出てくると、何とバスは動きだしている。慌てて追いかける。危ない、危ない。ナーンはもうすぐだろうと思うのだが、ここからが意外に長かった。 12時10分、バスはナーン郊外の小さなバスターミナルへ到着した。バスを降りるが、誰も寄ってこない。見渡しても、トゥクトゥクもサイカーもいない。さて、街の中心部までどうやって行こう。ターミナルの隅の方に、バイタク(オートバイタクシー)が数台みえた。ガイドブックに「ナーンで最高級のホテル」とあるホテル・テワラートを指示する。街の中心部にある大きな立派なホテルに到着した。ところが、料金はエアコンなし:250バーツ、エアコンあり:500バーツ、しかも朝食付きである。まさに飛び上がらんばかりの低価格である。案内された部屋もツインベッドの立派な部屋、狐につままれた感じがした。
第6章 歴史を秘めた辺境の街・ナーン ナーンはラオスから続く累々たる山並みの中にぽっかり開いた盆地に位置する小都市である。バンコク平原や、あるいは北部の中心都市・チェンマイから見ると、山襞の奥深くに隠れた、まさに「隠れ里」である。また、距離的にも、強大な王国が興った、スコータイ(スコータイ王朝)、チェンマイ(ラーンナータイ王朝)、ビエンチャン(ランサーン王朝)からほぼ等距離に位置する。このため、古来、これらの強大な王朝の狭間に翻弄されながらも、独自の勢力を維持し続けてきた。ナーンが現在のタイ王国(チャクリ王朝)に帰属するのは、実に、1931年である。ラーンナータイ王朝がチャクリ王朝に併合されたのが1892年であるから、それから39年もナーンは長らえたことになる。 ナーン王朝は1282年、ナーン渓谷の上流・プア(Pua)で成立する。ラーンナータイ王朝(1262年建国)、スコータイ王朝(1238年建国)の成立とほぼ同時期である。1368年には現在のナーンの地に遷都する。そして、南の強国・スコータイ王朝と軍事同盟を結び、北の強国ランナータイ王朝に対応する。しかし、スコータイ王朝の衰退により後ろ盾を失い、1448年にはプレーとともにラーンナータイ王朝の侵略を受け、同王朝に併合されてしまう。そのラーンナータイ王朝も1556年、ビルマのタングー王朝に征服され、ナーンも1599年にはビルマの支配下に入る。 1717年に到り、ようやくビルマのくびきから脱するが、1788年には、バンコクに成立(1782年)したチャクリ王朝(現王朝)の属国となる。さらに、1904年には、メコン川西岸の領土をフランスに奪われ、そしてついに、1931年の終焉を迎えるのである。現在のナーンは人口46万人のナーン県の県庁所在地となっている。 昼食をとると、すぐに街に飛びだした。街の第一印象は、「何と、優雅にしてさわやかな街なのだろう」である。タイの街を特徴づける、あの湧き出るようなエネルギッシュな猥雑さが微塵もない。そうかといって、田舎びたやぼったさもない。実に静かなおしとやかな街である。道はゆったりとしており、交通量も少ない。交差点には全て信号があり、車は実に行儀よく信号にしたがっている。路上に露店や屋台もほとんど見られない。街並みはゆったりとして、緑が多い。まさに洗練された古都の趣である。御殿のような市役所、警察署を過ぎると、ゆったりした大きな交差点に出る。この交差点の四隅にナーンの見どころが集中している。 南東の角にベンチなどの置かれたちょっとした広場がある。先ずは、その一角にあるツーリスト・インフォメーション・センターに立ち寄る。この一角にはツーリスト・ポリスやトイレもある。ナーンに関する資料をもらおうと思ったのだが、あいにく、英文の資料はほとんどなかった。それでも、係員は親切で、手書きの簡単な地図が入手出来た。
去りがたいワット・プーミンを後にして、今度は交差点の北西の角に建つナーン国立博物館に赴く。広大な庭を持つ大きな2階建ての洋館である。この建物は、1903年に当時の第63代領主スリヤポン・パリットデット(在位1893年~1918年)の宮殿として建てられたものである。ナーン王朝は、その後を継いだ弟のマハプローム・スラターダー(在位1918年~1931年)の死をもって終結する。
第7章 ナーン郊外の二つの寺院 4月18日火曜日。ナーンは小さな街である。街中は昨日ほとんど歩いてしまったので、今日は郊外に行く。郊外の西と東にそれぞれ有名な寺院がある。先ずは西のワット・プラ・タート・カオ・ノーイに行ってみよう。街の中心から4キロほど西の丘の上に建つ寺院である。その頂からはナーンの街が一望できるという。9時過ぎ、ホテル前の市場の一角からバイタクに乗る。この街にはトゥクトゥクもサイカーも見当たらない。 郊外に出ると、田圃の向こうに、山頂に寺院の建つ標高100メートルほどの小高い丘が見えてくる。麓から続く急な石段とは別に、車道が山頂まで通じており、バイクは一気に山頂まで運んでくれた。木々に包まれた山頂には幾つかの伽藍が建ち、東の バイタクは帰してしまったので、帰路の足はない。ナーガの欄干の長い石段を下り、田圃の中の道をのんびりと街に向う。振り返ると、盛り上がった緑の丘の頂に金色に輝く遊行仏が小さく見える。40分も歩くと、街の西郊外にあるバスターミナルに着いた。ここまで来ればバイタクがある。今度は東の郊外にあるワット・プラ・タート・チェー・ヘンに向う。バイタクの運ちゃんは珍しいことに、若い女性であった。腰に手を回すわけにも行かず、ちょっと困った。街を西から東に横切り、ナーン川を渡り、田園の中を行く。意外に遠い。これでは帰路歩くのは無理だ。やがて行く手の高台に巨大な仏塔が見えてくる。到着すると、バイタクのおねぇちゃんは、「ここで待っている」と言う。
昼食後、ぶらりぶらりとナーン川まで行ってみる。水量豊かな川である。川岸は遊歩道が設けられ、公園風に整備されている。この川を下れば、スコータイ王朝の副首都であったピッサヌロークに到る。かつては重要な交通路であったのだろう。無性にワット・プーミンにもう一度行ってみたくなった。ぶらりぶらりと街中を歩く。この街も、プレーと同様にゴミは見当たらない。街の到るところにごみ箱が設置されている。到達したワット・プーミンは何度見ても美しい。再び本堂に上がり、四面仏の前に座り続ける。
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