おじさんバックパッカーの一人旅   

タイ北部周遊とサン・パサック村滞在記 (1)

北部タイの歴史を辿り、今を知り、未来を感じる旅

2009年4月13日

         〜21日

 
第1章 非常事態宣言下のバンコクへ
 
 昨年末、タイのカンペーン・ペッにおいて交通事故で重症を負うというハプニングに遭遇した。幸いその傷も癒えた。すると、事故で中断した旅の続きが気になりだした。ターク、メーソット、メーホンソンなどの未知の街が、早く来いと呼んでいる。やはり1度計画した旅は完成させなければならない。私はいそいそと旅の支度を始めた。

 更に今回は新たな目標が加わった。タイ北部の地方都市・パヤオ郊外のサン・パサック村である。この村で、中島貞孝(ルーン貞)さんとタイ人の奥さんが、「貧困追放、エイズ撲滅」などの目標を掲げて精力的に村おこしを行っている。いささか興味本位のそしりは免れないが、訪問してみよう。タイの純農村に滞在できる機会なぞめったにない。

 燃料チャージが大幅に引き下げられる4月出発としたが、相変わらずタイの政情が騒がしい。昨年11月には反タクシン元首相派(黄服)がスワンナプーム国際空港を封鎖するというあきれ返る愚行を行い、世界中のひんしゅくを買ったが、今度はタクシン派(赤服)がパタヤ開催のASEAN+3の国際会議を粉砕し、世界中をあきれ返させた。もはや、タイの国際信用は完全に地に落ちたと言えるだろう。そしてついに、出発前日の4月12日、バンコクに非常事態宣言が発せられた。2006年9月にタイを訪問した際も、出発の前夜にクーデターが発生した。私がタイへ行こうとすると、何かが起こる。

 4月13日。現地の情勢はよく分からぬが、今更延期や中止は出来ない。「なるようになるさ」である。予定通り成田発10時50分、NH953便で出発する。それでも飛行機の座席は80%程埋っていた。タイ時間の16時、何事もなくスワンナプーム国際空港に着いたが、やはりといおうか、いつも長蛇の列のイミグレーションは10人ほどの短い行列であった。市内に向うべく、いつもの通りエアポートバス乗り場に行くと、今日は動いていないという。路線バスも動いていない。仕方がないので、タクシーで市内に向う。高速道路はガラガラである。

 市内のスクンビット通りに至るも、いつもの渋滞はどこへやら、バスもまったく走っていない。今日は全面運休の模様である。ただし、心配していた争乱の気配はまったくない。代わりに、水掛けの戦闘が到るところで演じられている。今日からタイの伝統行事・水掛け祭りが始まっている。

 4月14日。朝刊には、首相府を包囲した赤シャツ軍団と警官隊の凄まじい戦闘の様子が報じられている。バスを奪い、燃え盛るバスを警官隊に突入させている。ただし、スクンビット界隈にいると、「どこの国の話かな」と言う感じである。同じ戦闘でもこちらは水掛け合戦である。今日も朝からカンカン照りである。タイは今が1年で一番暑い季節である。通りを歩けば水を掛けられるが、すぐに乾いてしまう。今日もバスは走っていない。

 明日、列車でピッサヌロークまで行く予定なので、旅行代理店に列車チケットを買いに行ったところ、「始発のファランポーン駅は封鎖される可能性があるので、バーン・スー駅から乗車するように」とのアドバイス、争乱の影響はこんな所にも現れている。午後に入ると。騒乱も解決に向いだしたようで、少数ながらバスも動きだした。

 
 第2章 タークシン王の故郷・タークへ

 4月15日。テレビのニュースによると、争乱も一段落した気配なので、勝手知ったファランポーン駅に行く。駅は兵士の警備はあるものの正常に機能していた。8時30分発チェンマイ行き特急9号は20分遅れで発車、隣は若い男だが特に会話はない。バーン・スー駅から大勢の人が乗り込んできて座席はすべて埋った。いつもの通り、10時にケーキと飲み物、正午に昼食が配られる。車窓には見慣れた景色が続く。

 13時30分、ピッサヌローク着、寄って来たサムローに乗ってバスターミナルへ向う。街中は水掛け合戦で凄まじいフィーバーである。ただし、感心なことに、サムローに向ってだけは水を掛けない。水を積んで走り回るピックアップの間を縫ってどうにかバスタヘミナルに到着した。昨年末はここからカンペーン・ぺッに向ったが、今日はタークに向う。バスは14時20分発とのこと、20分待ちである。指示されたバスは大型の冷房車、ただし横5座席のぼろバスである。英文の行き先標示はスコータイ史跡公園となっている。スコータイで乗り換えるのだろうか。

 道は相変わらずよい。田園風景の中を順調に走り、1時間15分でスコータイの街郊外のバスターミナルに着いた。乗り換えかと思い車掌に確認すると、そのまま乗っていろとのこと。どうやらタークまで行くらしい。このターミナルは懐かしい場所である。2004年5月、スコータイ、シー・サッチャナラーイを旅したが、その時何度もお世話になった。当時はまだ真新しく、閑散として頼りなげであったが、5年経ち、大分貫録を増している。

 16時、バスはタークへ向って再び走り出した。ここからは未知のルートである。道は相変わらずよい。通り過ぎる小集落でも水掛けが行われており、時折、バスに向っても水が飛んでくる。次第に行く手の低い山並みが近づく。17時30分、ターク街外れのバスターミナルへ到着した。意外に小さなターミナルで、ソンテウもトゥクトゥクも待機していない。

 さてどうしたもんか。今晩はこの街に泊まるつもりであるが、タークは案内書にも記載がなく勝手がさっぱりわからない。トゥクトゥクでも捉まえて、「どこか安いホテルへ連れていけ」と言うつもりでいたがーーー。仕方がないので、街に向ってとぼとぼと歩き出す。ターミナルの脇を通る国道1号線を歩道橋で渡る。片側3車線もある素晴らしい道である。家の前にいた女の人に、「どこか安いホテルはないか」と聞いてみた。「国道を北へ行って、右に入ったところにある」との答えに、礼を言って去ろうとしたら、呼び止められた。「少し遠いからバイクで送る」という。家の奥から、主人と思われる男が呼びだされ、オートバイでホテルまで送ってくれた。何たる親切、感激である。いくばくかのお礼をしようとしたが、頑として受け取らなかった。これぞ「タイ」である。

 連れてこられたホテルは、街の中心から3〜4キロ郊外のモーテルと思しき宿で、車でやってきた何人かが泊まっていた。部屋は簡素だが冷房、ホットシャワーがあり、また部屋も広く満足である。おまけに、1泊350バーツと安い。ただし、英語はまったく通じない。また、付近に食堂もない。夕食をどうしたらいいのかと尋ねたら、バイクで道路端の大衆食堂まで送り迎えしてくれた。

 
 第3章 タークシン王霊廟

 4月16日。今日はバスでメーソットに向う。ただし、その前にタークのタークシン王霊廟に寄らなければならない。この霊廟を訪れたいがために、わざわざタークに立寄ったのだから。このタークは、タイの歴史上最大の救国の英雄であり、かつ、史上最大の悲劇の王でもあるタークシン王の故郷である。そもそも、「タークシン」の名前はここタークに由来する。タークシン王は潮州系中国人で、本名を宝(シン、潮州語)といった。そして、ターク地方の領主となったため「タークシン」と名乗ったのである。

 朝8時、ホテルを出る。言えばバイクで送ってくれるだろうが、歩いて行くことにする。30分も歩けば着くだろう。今日も朝からカンカン照りで相当な暑さである。国道1号線をテクテク歩いて、漸くタークシン王霊廟に着いた。公園風の緑地帯の傍らに建つ廟は、思いのほか小さかった。しかし、早朝にもかかわらず、廟は参拝者で賑わっていた。次から次と、老若男女がやって来て、祈りを捧げている。その様子を見て、私は何やらホットした気持ちとなった。なぜならば、タークシン王は、現在、現王室との関係が絡み、タイ最大のタブーと見なされる存在なのである。この救国の英雄・タークシン王をクーデターにより殺害したのが、現王朝の創設者ラーマ1世であるのだから。いろいろなしがらみはあれど、故郷の人々は今なおこの救国の英雄を慕っている。

 栄華を誇ったタイ・アユタヤ王朝は、ビルマ・コンバウン朝の大軍に王都・アユタヤを14ヶ月包囲された後、1767年4月7日の総攻撃により滅亡する。この瞬間、タイ族はビルマ族の配下に落ち、亡国の民となった。しかし、アユタヤ朝の武将で、ターク地方の領主であったタークシンはタイ南部のラヨーンに逃れ、そこで兵力を再結集し反攻を開始する。1767年10月にはビルマ軍の拠点の一つであったトンブリ(現在のバンコクのチャオプラヤ川西岸地区)の要塞を攻め落とし、ここを拠点として、1767年末までにはアユタヤ周辺のビルマ軍を駆逐した。

 タークシンはトンブリを王都とする新たな王朝を開き(トンブリ王朝)、更にビルマ軍を追って各地を転戦する。その結果、1770までには旧アユタヤ王朝の領域の支配権を回復するに到る。勢いに乗るタークシンは更に兵を進め、長らくビルマの支配下にあったタイ北部をも開放する。ラオス、カンボジアにも兵を進め、両国をも属国化する。この結果、トンブリ王朝の領土は17世紀初頭のアユタヤ王朝ナレースアン王の時代に匹敵するほどに広がった。すなわちタイの歴史上最大の領域を持つ国家を瞬く間に建国したのである。タークシンはまさに救国の英雄であった。

 しかし、事態は急変する。1782年、クーデターが発生、タークシン王は幽閉される。この事態を受け、カンボジア地方に遠征中であった将軍・チャオブラヤー・チャクリ(後のラーマ1世)が急遽帰還して事態を掌握、タークシン王を処刑し自ら現在に続くチャクリ王朝を開いた。

 現在のタイの歴史教科書では、クーデターの理由を「タークシン王が精神に異常をきたしたため」と記し、その正当性を主張している。しかし、このクーデターにおいてチャオブラヤー・チャクリが果たした役割とともに真相は不明である。この問題は、現王室の正統性に絡むため、タイの歴史における最大のタブーである。触れて欲しくないのである。従って、真相の究明も行われていない。タイには王室侮辱罪がある。こうして、トンブリ王朝はわずか1代、15年で滅びるのである。

 タークシン王は、先に記した通り、潮州系中国人の家系の出目である。ラヨーンを根拠に反攻に移る際には中国華僑の全面的支援を受けたと言われる。この血統的理由もクーデターの一因であったのかも知れない。2006年9月、クーデターで首相の地位を追われたタクシン元首相も中国・客家の出身である。最高権力に登り詰めた中国系の指導者はいずれもクーデターという不本意な行為によりその地位を追われている。そう言えば、権力の頂点近くまで登り詰めた山田長政も不本意な形で殺害された。何やら不気味さを感じる。
 

 第4章 ミャンマーとの国境の街・メーソットへ

 タークシン王霊廟参拝の後、歩いてタークのバスターミナルへ行く。メーソットまでミニバス(ワゴン車)の便があるはずだが、英語表示もなくどの窓口でチケットを買ったらよいやら。何とか10時20分発のチケットを得る。3人掛けの座席に4人押し込め、ミニバスは定刻に発車した。道は例によって素晴らしい。タークからメーソットへの道はアジアハイウェイ1号線でもある。「AH1」の標示が到るところに見られる。

 市街地を抜け、ピン川を渡ると山道となった。定員オーバーのためか、車が古いためか、登り坂となると極端に速度が落ちる。途中、軍の検問所が3カ所もあり、国境に向っていることが実感できる。行く手に見えていた奇怪な形の岩山が近づき、その麓を抜けると、目の前に広大な平原が現れた。ミニバスは坂を一気に下って街並みに入った。乗客を所々で降ろし、11時、街の中心の広場に着いた。ここが、ターク行きミニバスや周囲の集落に向うソンテウの乗り場になっている。

 方向感覚が定まらず、しばし広場の周辺をうろうろしたが、案内書に載っているGreen Guest Houseを探し当ててチェックインする。冷房はないが、ホットシャワー付きで1泊200バーツと安い。ただし、ミャンマー人だという雑用係の女の子が一人いるだけで、英語も通じない。オーナーらしき人は現れない。宿はガラガラの様子である。

 昼食後街に出てみる。街を東西に貫くIntharakeeree通りとPrasatwithee通りが繁華街になっているのだが、両通りとも水掛け祭りの狂乱状態で、まともには歩けない。道の両側は水掛けの拠点が連続し、水を満たしたドラム缶を積んだピックアップと激しい水掛けを演じている。何と、消防自動車を引っ張り出し、消火栓と直結して激しく水を掛けている。もうめちゃくちゃである。おまけに、きれいどころを乗せた花車が練り、その前後を揃いのシャツを着た人々がずぶ濡れになりながら踊り歩いている。照りつける太陽も凄まじい。

 この狂乱の中を、大きな袋を担いだ10歳ぐらいの裸足の少年が、一人だけ別世界にいるがごとく、黙々とごみ箱を漁っている。その映像だけが妙に目に焼き付いた。

 夕方18時過ぎ、水掛けも収まったようなので再び街に出てみる。高層ビルもなく、デパートやショッピングモールもない典型的なタイの田舎町である。市場周辺は道の両側に露店が並び大賑わいである。ところが、行き交う人々の大半がタイ人ではなくミャンマー人なのである。女性の顔は、ミャンマー独特の化粧法・タナカが白く塗られ、ロンジーと呼ばれるミャンマーの巻きスカート姿である。連なる商店の看板にも、タイ文字と並んで、団子のようなミャンマー文字が記されている。ここはまさに国境の街なのだ。案内書にも「住民の半数がミャンマー人といわれているうえに、毎日多くの人が国境を越えてやってくる」と記されている。

 
 第5章 タイ/ミャンマー国境

 4月17日。今日は国境を越えてミャンマーに入国するつもりでいる。500バーツの入国料を払えば、ノービザで入国できるはずである。朝、漸くオーナー夫婦が姿を現した。奥さんは英語が話せる。国境への行き方、及び明日のチェンマイへの行き方を聞く。国境へは街中からソンテウが出ており、料金は10バーツとのこと。乗り場を示した簡単な地図ももらった。チェンマイへは西郊外のバスターミナルから直通バスが1日2本出ているが、混むので今日中にチケットを取得しておいたほうがよいとのアドバイスも得る。

 8時、ミャンマーに向っていざ出発。国境は街の西約7キロにある。しかし、地図で示された乗り場に行くも、それらしきソンテウは見当たらない。何人かに聞いたのだが、外国人と分かると皆逃げてしまう。一応、タイ語で聞いているつもりなのだがーーー。漸く乗り場がわかった。地図とは大違いの場所である。行ってみると、発車間際のソンテウが待っていた。

 8時30分、ソンテウは定員オーバーの乗客を乗せて発車した。外国人は当然私一人、他は皆ミャンマー人のようである。料金はG.H.で聞いたのと異なり20バーツであった。まったくいい加減なG.H.である。道はものすごくよい。このミャンマーに続く道路もアジアハイウェイ1号線である。ただし、通る車は少なく、ミャンマーとの交易が盛んとはとても思えない。3〜4キロ走ると、真新しいバスターミナルらしき建物があった。ただし、バスの姿はない。一体この施設は何なんだろう。

 検問所を過ぎると、行く手に国境ゲートと思われる建物が見えてきた。ソンテウは停まったものの2〜3人が降りただけで、更に先に行く気配である。国境ゲートが終点と思っていたので、降りるべきか否か一瞬迷う。その間にソンテウは発車してしまった。「まぁいいか。このソンテウはいったいどこに行くのだろう。行くとこまで行ってやれ」。ソンテウは南に折れ、小道を進んでいく。すぐに小さな村に入り、川岸の広場で停まった。ここが終点であった。

 ソンテウを降りた乗客は待機していた小舟で対岸に渡っていく。この川は国境のモエイ川である。従って、対岸はミャンマーである。ただし、この場所にはイミグレーションはおろか係官もいない。おそらく、地元民にのみ許された非公式の出入国場所なのだろう。そもそも、この村の住人はミャンマー人のようである。亡命してきたミャンマー人の村なのだろう。ミャンマー国境付近のタイ領内にはどこでも、亡命ミャンマー人の集落が点在する。

 広場の隅に数人のモーターサイ(オートバイタクシー)の運転手が屯していた。「どこから来た」。珍しい外国人の出現に好奇の眼差しを向ける。「日本人だ。ここからミャンマーへ行けるか」「外国人はだめだ。イミグレのある国境へ戻れ」。バイクに乗って正規の国境に戻る。メーソットから続いてきた素晴らしい道が、そのままタイの国境ゲートを潜り、国境の川・モエイ川を真新しい橋で越えている。このアジアハイウェイ1号線はミャンマー国内ではどんな状況にあるのだろう。

 出国手続きをするべく、タイのイミグレーションに行く。係官は中年のおばさんであった。普通は機械的に出国印を押すだけなのだが、このおばさんは実に親切であった。今日中に私がタイへ再入国することを確認したうえで、「陸路での入国の場合、滞在許可期間は15日間です。従って、現在5月12日まで許可されている滞在期限が5月1日になってしまうがよいか」。よいはずがない、帰国便は5月3日であるのだから。聞いてみると、昨年規則が変わり、陸路で入国の場合の滞在許可期間が30日間から15日間に変更になったとのこと。危ない所であった。うっかり出国してしまったら、困り果てるところであった。私が出国を諦める旨告げると、おばさん係官が、「ミャンマーへ行ってもみるべきものは何もない、川岸から対岸のミャンマーを眺めるだけで十分ですよ」と慰めてくれた。

 イミグレーションの脇を100メートルも西へ進むと、国境の川・モエイ川の辺にでた。川幅は200メートルほどあるが、乾期の今、水流の幅は数10メートルと細い。対岸にはミャンマーの村が見える。歩いてほんの数分の距離なのだが、国境という目に見えないラインが行くことを阻止している。そしてまた、このラインの彼此では人々の生活環境も大きく変わってしまっている。人間は何とも不思議なラインを作りだしたものである。川岸には物売り風情の男や女がいて、近づくと、「バイアクラ、ハッパ」などと小声で誘う。国境独特のあやしげな雰囲気が感じられる。

 メーソットへ戻ることにする。イミグレに立ちより、先程の係官に挨拶すると、「Good-by」と大きく手を振ってくれた。ソンテウに乗り、昼前には街に帰り着いた。次にするべきことは、明日のチェンマイまでのバスのチケットの取得である。G.H.でもらった地図を確認すると、バスターミナルは街外れ、歩いて10〜15分だろう。炎天下の道をとぼとぼと歩きだす。所が、歩けど歩けどターミナルは現れない。途中にあった旅行代理店で尋ねると、まだまだ先だという。家並みも尽きた道を意地になって歩き続ける。1時間近く歩いて到着したターミナルは、何と、今朝ソンテウが立寄った真新しい施設ではないか。手持ちの地図のいい加減さに腹が立った。

 しかし、腹立たしさはなお続いた。チェンマイ行き直通バスのチケット売り場に誰もいない。張り紙があり、この窓口は朝5時30分から8時30分の間のみ開くと記されている。バスの発車時刻が6時と8時30分なので、その時刻だけ開くということなのだろう。これではチケット予約が出来ない。他の窓口で聞いても、「明日また来い」の一点張りである。諦めてソンテウに乗って帰る。

 午後からは暇だ。この街には見るべきものは何もない。しかも、昨日までの水掛け祭りで疲れ果てたのか、多くの商店が今日は休業している。
 

 第6章 北の薔薇・チェンマイへ

 4月18日。今日はチェンマイに向う。昨日、バスチケットが得られなかったので、早めにターミナルへ行かなければならない。6時頃雨がぱらついたがすぐに止んだ。6時半過ぎ、手配しておいたトゥクトゥクでバスターミナルへ向う。10分程で着いたのだが、チケット窓口に行くと、「座席はすべて満席です」との答え。いったいどういうことなんだ、皆は何処で、何時、チケットを得ているんだろう。

 すぐに、トゥクトゥクに再び乗って、街中心広場のターク行きミニバス乗り場に急ぐ。タークまで行って、チェンマイ行きバスに乗り換えるつもりである。乗り場に着くと、7時発のワゴン車が発車の構えで待っていた。最初からこのルートを採れば、昨日から無駄な努力をせずにすんだものをと後悔した。

 8時半過ぎにはタークのバスターミナルへ着いた。好運にも、発車間際のピッサヌローク発チャンマイ行きの2等エアコンバスが待っていた。9時、バスは一路チェンマイに向け出発した。ただし、このバスは各停で座席指定もない。見る見るうちに乗客が増え、超満員となってしまった。それでも、チェンマイまでは国道1号線、素晴らしい道が続く。わずか2時間余りの走行で、11時過ぎにはランパーンに着いた。15分のトイレ休憩の後、チェンマイに向う。低い山並みを越え、12時30分、懐かしいチェンマイのバスターミナルに滑り込んだ。

 ターぺー門近くの馴染のホテルにチェックインする。チャンマイは何度も訪れているので勝手は十分知っている。ラーンナー王国の古都であり、「北の薔薇」ともてはやされている都市である。ただし、私はこの都市を余り好まない。道は車で溢れ、街は半裸のファラン(欧米人)がわが物顔に闊歩している。古都としての優雅さがない。それでも午後から暇なので、旧市街の幾つかの寺、ワット・チェンマン、ワット・プラシン、ワット・チェディ・ルアンなどをぶらりぶらりと訪ねてみた。夜は名物のナイトバザールにも行ってみたが、別段面白いこともない。

 
 第7章 サン・パサック村へ

 4月19日。いよいよ今日はサン・パサック村に向う。今回の旅の最大の目的地である。サン・パサック村はパヤオ県の県都・パヤオ市の西10数キロにある人口400人ほどの小村である。この村で中島貞孝(ルーン貞)さんとタイ人の奥さん・中島メイさんが村おこしに励んでおられる。その現場をちょっと覗かせていただこうという魂胆である。貞孝さんは日本で資金集めに奔走されておられる(?)ようであるが、村では奥さんが広大なメイ果樹園を管理しながら二人のお子さんと生活されている。タイの純農村の生活を体験できるのが楽しみである。中島さんご夫婦の活動は次のホームページに詳しい。 
  http://homepage3.nifty.com/yao/san0.htm

 中島貞孝さんは知る人ぞ知る有名人らしい。私はメールのやり取りだけでお会いしたことはないのだが、帰ってから娘に聞いてみると意外にも知っていた。「日本ではしがないおじさんだか、タイでは大臣も一目置く存在らしいよ」と言っていたがーーー。

 サン・パサック村に行くには、まずチェンマイの東約220キロに位置するパヤオの街に行くことになる。パヤオはパヤオ湖という大きな湖の辺に位置する風光明媚な小都市である。そしてまた、歴史にとんだ街である。1096年、この地にパヤオ王国が成立した。小規模なムアン(部族国家)ではあるが、タイ族の歴史上最初期に属する国である。13世紀には、王国中興の英雄・ガムムアン王が現れ、北のラーンナー王国のメーンラーイ王、南のスコータイ王国のラームカムヘン王と同盟し(三王の盟約)、タイの歴史に名を残した。

 ただし、現在においては、パヤオ県はタイで最も貧しい県の一つで、出稼ぎや人身売買、売春婦の故郷として知られている。この都市を紹介した日本語のガイドブックはない。私は2005年2月に、この街を訪れた。今回は2度目である。

 8時過ぎ、ホテルをチェックアウトしてトゥクトゥクでバスターミナルへ向う。切符売り場はいつもの通り長蛇の列である。何とかならないものかといつも思う。それでも、9時発のパヤオ行きのチケットが取れた。定刻、冷房完備の大型バスは満席の乗客を乗せて出発した。ひと山越え、約1時間走って、メー・カチャンの街で15分のトイレ休憩となる。ここで、チェンライへ向う道と別れ、パヤオ盆地を仕切る山越えとなる。かなりの登り坂の連続だか、道は例によって非常によい。峠の頂に達すると、眼下にパヤオ湖がちらりと見えた。ちょうど12時、バスは懐かしいパヤオのバスターミナルに滑り込んだ。

 パヤオに来たからには、まずガムムアン王にご挨拶をしておかなければならない。ターミナルから数分歩くと湖の岸辺にでた。波静かな湖面が視界一杯に広がる。対岸の背後にはパヤオ盆地の西を区切る山並みが連なっている。その麓にサン・パサック村があるはずである。岸辺の一角にガムムアン王は以前と同じ姿でたたずんでおられた。

 昼食後、いよいよサン・パサック村に向う。トゥクトゥクと交渉したのだが、160バーツを固守するので物別れ、100バーツ程度と思うのだがーーー。次にモーターサイと交渉するも150バーツを譲らない。仕方がないかーーー。バイクはチェンマイへ続く国道を暫く走った後、脇道に入って湖の西側に回り込んでいく。意外に遠い。15分ほど走り、運転手が「この辺りがサン・パサック村だが、どの家だ」と聞く。「俺も知らない。その辺りで聞いてみる」と言うとあきれた顔をしている。2度ほど聞いて、漸く目指す中島家に到着した。何と、村の一番奥の家であった。

 奥さんのメイさんと娘のエミさんが家から飛び出してきて迎えてくれた。「パヤオのバスターミナルから電話が掛かってくると思い、ずっと電話のそばで待っていたのにーーー。まさか、直接家まで一人でやって来るとは思わなかった」と言われてしまった。今まで200人を越える日本人が訪れたが、直接家までやって来たのは2人目だそうである。考えてみれば、数千キロ離れた日本から、タイの片田舎の家に住所だけを頼りに辿り着くのは神業なのかも知れない。ともかく無事に到着した。やれやれである。

 
 第8章 サン・パサック村滞在記
 
 第1節 中島家の人々

 中島家の家屋は洋風とタイ風を合わせ持った造りで、二階建てだが高床式の面影を残している。その二階の一室を私のために用意してくれた。家の裏手には約千坪の果樹園が広がっている。その真ん中に六角堂がある。村おこし活動の中心であり象徴となる建物である。ここに寝ころぶと風が通るので実に涼しい。

 お世話になった中島家の家族を紹介しよう。一家は日本人の貞孝さんとタイ人のメイさんご夫婦、それに長女のエミさん、長男のサダオ君の4人である。ただし、2007年4月に奥さんと二人のお子さんのみ奥さんの故郷・サン・パサック村に帰国し、貞孝さんは日本に残留した。このため、現在では家族は日本とタイに別れ離れになっている。メイさんは優しさと活力を合わせ持つ典型的なタイの女性である。お子様の教育と広大な果樹園の管理を切り盛りしている。もちろん、母語はタイ語であるが、日本語もほぼ不自由なく話される。タイの社会は日本よりも遥かに男女平等社会であり、女性が一家の大黒柱となっている例も多い。「専業主婦」と言う言葉はタイにはない。概して男の方がだらしがない。

 長女のエミさんは14歳、5月の新学期から中学3年生になる(タイの新学期は5月である)。中島さんの自慢の娘さんである。私に付き切りで話し相手になってくれている。小学校卒業まで日本で過ごし、中学からタイに移り住んだ。現在パヤオにある王立の超エリート校に通っていて、普段は寄宿舎生活だそうだが、ちょうど夏休みで自宅に戻っていた。日本語、タイ語、英語の3カ国語の会話、読み書きを完璧にこなすという才女でもある。タイと日本の二重国籍を有している。20歳になったとき、果たしてどちらの国籍を選択するのだろう。

 彼女の通っている中高一貫校が凄まじい。男女共学だが全員寄宿舎生活。家に帰れるのは月に1度。授業はすべて英語。夕食後も、更に土日も授業があるという。携帯電話もテレビも禁止。こんな生活に日本の中学生は耐えられるだろうか。「ゆとり教育」などやっている余裕はなさそうである。

 長男のサダオ君9歳は小学校2年のやんちゃ盛り、近所の子供たちと、外を駆けずり回っている。このためか、タイに移り住んでまだ2年なのだが、母語は完全にタイ語になっている。もちろん、日本語も解するのだが、もはや話すのはかなり苦しそうである。子供は言葉を覚えるのも早いが、忘れるのも早い。彼も二重国籍である。家族3人の会話はタイ語となっている。
 

 第2節 お寺と小学校

 エミさんと村外れの高台にあるお寺に行く。思いのほか立派な本堂と仏塔があった。荒れ果てていたが、2007年に中島さんの援助で修復されたとのことである。タイにおいては、どんな小さな集落でも、必ず寺はある。もちろん、信仰の場としての役割が第一ではあるが、社会生活上なくてはならない存在である。鎮守であり、冠婚葬祭の場であり、集会場であり、学校であり、時には孤児院にもなる。そして、僧侶は集落の精神的支柱でもある。

 寺のある丘の麓に小さな校庭を持つ小学校がある。所が、この小学校は2年前に廃校となったという。現在、サン・パサック村の子供たちは隣村の小学校に通う羽目になっている。集落から小学校が消えてしまったのである。もちろん廃校の理由は児童数の減少である。貧困、エイズ、麻薬等による集落の荒廃が進み、若者が減少し、子供が減少した。かつて150名ほどいた生徒数が20人ぐらいまで減少したという。しかしである。日本でもそうであるが、小学校の消滅は間違いなく集落の衰退をもたらす。小学校は、単に学びだけの施設ではない。集落に、明日への希望と活力をもたらす施設でもある。単純に、合理化の対象とすべき存在ではないと思うのだがーーー。子供たちの元気な声の消えた平屋建ての小さな校舎が、寂しく残されている。

 村の2キロ程奥にメナルア池という池があるという。エミさんの案内で行ってみることにする。サダオ君とその遊び仲間も付いてきた。山に向って緩やかに登って行く。周りは林や牧草地である。蕎麦畑が広がっていたのには驚いた。チークの大木が目に付く。チークの木をタイ語で「パサック」と言う。サン・パサック村の名称はおそらくここから来たのだろう。数10年前まで、この辺りは鬱蒼としたチークの森であったに違いない。50〜60年前までは象やトラが生息していたという。コブラとの遭遇を期待したのだが、「食べ尽くしてしまった」とのことであった。30分程で到達したメナルア池は人造湖と思われた。乾期の灌漑に使われるのであろう。

 
 第3節 村の様子

 自転車を借りて、一人集落内を巡ってみる。戸数100戸に満たない小さな集落である。緑の多い村内に高床式の家々が点在している。村には電気も水道も電話線も引かれている。しかも、村内の小道はすべて舗装されている。新築家屋が多く、また、多くの家に自家用車(ビックアップトラック)がある。衛星放送用のパラボラアンテナを備えた家も多々見られる。一見、村が意外に豊なのに驚く。

 しかし、中島さんによると、「現在、村は一見平穏に見えます。 しかし、消費者ローンが普及し、新たな問題が発生しつつあります。 若者も携帯電話の便利さに、支払が追いつかず四苦八苦しているようです。ローンで購入した生活用品や車の支払で右往左往している有様です。多重債務の新たな悪循環が無知な人たちから始まるような気がしてなりません。基本的には農民の収益が上がり、生活が豊かになったのではないように思います。仮に、豊かになったとしたら出稼ぎによる収入かと思います。 サン・パサック村からも韓国、台湾に若者たちが渡航しています」とのことである。

 20世紀末の村の状況を中島さんはホームページで次のように語っている。
 『貨幣時代が到来し、電気も灯る頃になると、お金がなければ生活が窮屈になりだし、豊かな人たちの情報が正夢のように飛び交い、無知な村民の意識を変え始めました。金持ちになりたい、もっと裕福になりたい・・多くの村民がなけなしの田畑を売り払い都会へ出奔し、借金してまで海外渡航を企て・・・。かくして、多くの若者がブローカーの餌食になりさらに困窮し、多くの若者がエイズや薬害に倒れました。そして・・サン・パサック村も例外ではなく、風が吹いて木の葉が路地裏に吹きたまるような貧困舞台となり、暗がりで孤児らが震え、術をうしなった老人が途方に暮れ始めました。自然災害でもない、戦争災害でもないこのような貧困は、渦巻いてなお堂堂巡りのように修羅場化します。あがけばあがくほど窮地に追い込まれた貧困者の中には、手っ取り早い現金収入の誘惑に負けて麻薬密売人になり、性産業に身を投じ、児童人身売買や森林不法伐採に手を汚したりします。HIV感染者やドロボー、麻薬密売人が横行し、エイズ患者や麻薬中毒者が増え、海外で不法就労する者も後を絶ちません。健全に働く気力を失った人達も多く、悪あがきは巡り巡って世界の迷惑となっていました』。 

 
  第4節 面白いものを見つけた!

 村の中を巡って面白いものを二つ見つけた。一つは村の入り口に設置された「門」である。竹と藁で作られた日本の鳥居の様な形で、道路を跨ぐように設置されている。北の入り口と西の入り口の二つを確認した。聞いてみると、昔からあるとのことである。集落の入り口にこのような「門」を設置する習慣はアカ族が有名である。私も何度か実物を見ている。しかし、タイ族の集落で見るのは初めてである。物の本でも読んだことがない。タイ族にもこのような伝統があるのだろうか。

 二つ目は、村の辻々に設置された壺の置かれた棚である。壺の中を確認してみたが、どの壺も空っぽであった。これはミャンマーで今でも広く普及している給水施設とまったく同じものである。本来、壺の中には飲料水が入っていて、通りかかった人は誰でも自由に呑むことができる。聞いてみると、昔は給水施設として使われたが、今は単なる飾りであるとのことであった。タイにおいても、このような施設が広く普及していた時代があったことが伺い知れる。ここパヤオ地方は16世紀〜18世紀に掛けて長くビルマの占領下にあった。その当時伝わった習慣なのだろうか。

 
 第5節 入村式

 そろそろ夕食かと思ったら、これから入村式が行われると告げられた。手順は僧侶役が簡単な儀式を行い、その後、村人を招いて食事だとのことである。村に客が滞在する場合に古くから行われている習慣だとのこと。思うに、「客を歓迎する」儀式であると同時に、不審な他所者が村に入り込むのを防ぐ意味合いがあったのだろう。

 小さな祭壇らしきものが設けられ、僧侶役の中年の男性と祭壇を挟んで向いあって座る。この男性は現在は中学校の体育と家庭科の先生だが、昔、12年間僧侶であった由。このような小さな祭事は、寺の僧侶ではなく、彼のような僧侶の経験者がこなすとのことである。ブロイルされた鶏とビールが用意され、彼がパリー語とタイ語で経を唱えながら、鶏の内臓を時々つまみ出す。そして、時々共に乾杯する。最後に私の手首に白い糸を巻いて、儀式は15分ほどで終了した。

 庭に敷かれた敷物の上にご馳走と酒が並べられ、宴会が始まる。近所の人が三々五々やって来て、先ず私に挨拶し手首に白い糸を巻いて、宴席につく。この席で、私は主賓なのかホスト役なのかよく分からない。いずれにせよ、堅苦しい席ではない。主食はタイ米ではなくカオニャオ(糯米)である。これは大助かり、カオニャオは大好きである。野外なので蚊を心配したが、意外に少ない。人々は適当に食事をし、適当に帰っていった。

 
 第6節 サン・パサック村の1日

 4月20日。朝6時に、メイ奥さんと車で隣村の朝市を見学に行く。賑やかである。近郊の農家が新鮮な野菜を持ち寄っている感じである。ただし、特に珍しいものも見当たらない。豆腐やお茶などの照葉樹林文化の産物はなかった。聞いてみても、お茶を常用する習慣はないとのことである。この地方は照葉樹林文化圏ではなさそうである。ただし、「カオニャオ・ホー」があった。カオニャオにココナツミルクと砂糖を加えて煮詰め、それにバナナを合わせ、バナナの葉で包んだ食べ物である。ラオスや北タイで朝食やおやつとして日常的に食べられている。ラオスで食べたことがあるが、甘くて美味しい。メイ奥さんが、朝食用にと幾つか買ってくれた。

 市場の入り口に、中年の僧と7〜8歳の小坊主の二人の托鉢僧が立っている。ここなら人が集まってくるので、歩き回るよりよほど托鉢の効率が良いのだろうがーーー。「こんなのありーーー」とも思えるが、そこは仏教国タイ、托鉢の坊さんの前は素通りできないとみえ、喜捨する人が絶えない。メイ奥さんも、いつもそうしていると見え、喜捨用に市場で米飯とおかずのセットを二つ買い求め、私を促して坊さんの前に膝まづいた。メイさんは履物も脱ぎ裸足になっている。私はそこまでしなくてもいいだろう。一緒に膝まづくと、小坊主が朗々と経を唱える。

 市場を後にしてパヤオ湖畔に車を走らす。集落を抜けると、目の前に大きな湖水が広がった。対岸にパヤオの街並みが見える。岸辺には一切観光施設らしきものはなく、漁に出る小舟が何艘か静かな水面を渡っていた。話を聞くと、何と、この湖水を横断する道路が計画されているという。タイも何とバカな事を考えるのだろう。湖水を一周してサン・パサック村に戻る。

 さて、今日は一日やることもない。のんびりと、タイの田舎の生活を満喫しよう。六角堂で昼寝をし、自転車で村内を巡る。道で会う村人が笑顔を向ける。入村式がすんだので、私の存在は公知なのだろう。不思議なことに、昨日は吠えついていた集落の犬どもも吠えつかなくなった。どう見ても、平和そのものの集落なのだがーーー。10年前まで、貧困、エイズ、麻薬で壊滅状態に合った集落とは思えない。集落の外にでると、一面の田んぼが広がっていた。

 午後からはサダオ君の遊び相手、果樹園の叢でバッタを探す。燕がたくさん飛んでいる。日本に渡らないのだろうか。アイスクリーム屋がやって来た。子供たちが小銭を握ってわっと集まる。数10年前、日本で見られた光景である。夕方、二人の男が袋を担いでやってきた。袋の中は蜂の巣、山から採ってきたとのこと、庭先で蜂蜜を搾り出す作業が始まった。少しもらって舐めてみると、強烈な甘味が舌を刺激した。この蜂蜜をお土産に一瓶いただいた。

 
 第7節 さらば!  サン・パサック村

 4月21日。お世話になったサン・パサック村とも今日でお別れである。朝、散歩をしていたら、サダオ君の友達の男の子が追いかけてきて一緒に歩き出した。タイ語対日本語の奇妙な会話をしながら集落の中を歩く。丘の上のお寺から、大人の僧と小坊主3人が降りてきて、托鉢を始めた。辻々に村人が喜捨の食物を持って待っている。何処でも見られるタイの早朝の風景である。

 出発前に、メイ果樹園での植樹を求められた。この樹が大きく育ち、たわわに実を付けるころ再び訪ねてみたいが、私ももう若くはない。ちょっぴり感傷的になる。中島さんはこのサン・パサック村に世界一の果樹公園を作り上げるのだと夢を語っている。既に、2万坪の土地も確保され、2010年の「果樹の森公園」開園に向け着々と準備を進めておられるようである。その壮大な夢の実現を期待しよう。

 パヤオのバスターミナルまで、一家三人で送ってくれた。さらば、また会う日まで。

     (2)に続く   

 

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