おじさんバックパッカーの一人旅   

中国・雲南の旅(1)  大理とその周辺 

 南詔国、大理国の古都を訪ねて

2008年4月1日

    〜4月7日

 
第一章  旅の序曲

 中国・雲南(ユンナン)へ行ってみる気になった。中国は、各地に歴史を秘めた名所旧跡が豊富に点在し、旅行対象として著しく魅力的なのだが、非友好的な国民性と人間性をも無視したトイレ事情を考えると、行こうという意欲は急速に萎えてしまう。しかし、中国辺境の地・雲南は非漢族の世界、それほど不快な目に会うこともあるまい。

 雲南省は過去2度訪れている。2005年1〜2月にはタイのバンコクから陸路で西双版納(シーサンパンナ)まで旅した。2006年9〜10月にはバンコクから陸路でカンボジア、ベトナムを経て省都・昆明(クンミン)まで旅した。しかし、いわば雲南の核心部である大理(ダーリー)や麗江(リージァン)は未踏破である。今回の旅のキーワードは「南詔国、大理国」「茶馬古道」「17人の友を探して」の3項目である。すなわち、8世紀から13世紀に掛けて雲南地方に栄えた南詔国、大理国の首都・大理を出発点とし、雲南ーチベットーインドを結ぶ主要な交易路であった茶馬古道を辿り、悲劇の山・梅里雪山(メイリーシュエシャン)に至る道筋を頭に描いている。

 先ずは雲南省の省都・昆明を目指すことになるのだが、現在日本からの直行便はない。ソウル経由、上海経由、香港経由とルートはいろいろ考えられるが、バンコク経由で行くことにする。遠回りのようだが、このルートが一番安い。何しろバンコクまでの往復航空運賃は香港往復よりも安いのだから。ただし、バックパッカー御愛用のエアラインであったビーマン・バングラデシュ航空とエア・インデアの二つの航空会社が昨年より東京ーバンコク間の運行を止めてしまった。それでも、全日空の1ヶ月fixチケットが39,000円で入手できた。バンコクー昆明間はバンコクで安チケットを探すつもりである。

 中国は15日以内の滞在はビザ不要だが、今回は1ヶ月近い滞在を予定しているので、ビザを取得する必要がある。所が、東京の中国大使館ではビザの個人申請を受け付けていないので、手数料を払って業者に依頼せざるを得ない。いたって不親切である。ともかく準備を整えて、4月1日、寒風の吹き荒れる成田を出発した。機内アナウスはバンコクの天候を「晴れ、気温35℃」と告げている。

 
第二章 雲南省の省都・昆明へ

 4月3日(木)。12時20分発チェンマイ経由昆明行きTG616便は、20分遅れで北へ向かって飛び立った。出発前に、空港の両替所で1万円相当分を人民元に両替しておいた。昆明空港に両替所があるか否か不明である。もしもの場合、人民元なしでは動きが取れない。機内は90%ほどの乗機率であるが、ほとんどが中国人と思われる。1時間ほどでチェンマイ空港着。1時間ほど待合室に待機させられた後、改めて昆明目指して飛び立った。

 飛行時間は実質1時間、時差が1時間あるので形式的には2時間で昆明国際空港に着陸した。入国手続はいたって簡単である。数年前の中国を思うと、「中国もずいぶん進歩したものだ」と感慨を覚える。空港に中国銀行はあったが、既に営業時間を過ぎているためか窓口はしまっていた。国際空港の名前が泣く。この辺りが、未だ中国の限界なのだろう。バンコクで両替してきて大正解である。

 空港ビルの外にでると、空気はひんやりして涼しい。昆明は標高1,900メートルの高原都市である。さて、どうしようか。いずれにせよ市内まで行かなければならない。一服していると、タクシーの運チャンや旅行社の客引きが盛んに声を掛けてくる。もっとも、すべて中国語なのでさっぱり分からないが。空港の外にバス停が見える。荷物を担いで行ってみると、ちょうど67路のバスが発車の構えなので構わず乗り込む。どこへ行くのか分からないが、いずれにせよ市内へは行くだろう。私もずいぶん無茶をする。ワンマンバスで料金は1元(約15円)均一であった。バスは満員であったが、大きな荷物を担いでノソノソ乗り込んできたおじさんを見て、若い娘さんが、さっと席を譲ってくれた。「中国人民もなかなかやるわい」。入国早々いい気持ちである。タイではしばしば席を譲られた経験はあるが、日本では未だ譲られた経験はない(当たり前か)。

 ガイドブック記載の地図を見ながらバスの走路をチェックする。どこへ行くとも知らぬバスに乗っているのだから。いい具合に、バスは春城路を北上して市内の中心部に向かう。昆明は1年半前に訪れているので土地勘は十分持っている。環城南路との交差点に達したのでバスを降りる。ここから500メートルも西に歩けば北京路に出るはずであり、昆湖飯店という安宿があるはずである。きれいな街並の大通りをのんびり歩く。懐かしい街並である。時刻は既に19時近いが、まだ十分に明るい。旧知の中国銀行の前を通る。当然店は閉まっていたが、何と、24時間稼働のATMがある。1年半前にはなかった代物である。これは大助かりである。1000元(約1万5千円)ほど人民元を引きだす。

 程なく目指す昆湖飯店に到着した。受付の女性は、案の定、英語は全く通じないが、笑顔で迎えてくれた。1泊180元(約2,700円)、少々高いが仕方あるまい。荷物を部屋に放り込むと、すぐに歩いて10分ほどの昆明バスターミナルへ行く。明日の大理までのバスチケットを取得しておく必要がある。大きなターミナルでチケット販売窓口は混雑していた。皆並ぼうとはせず、我先にと金を握りしめた手を窓口に差し入れて大声で叫んでいる。中国でよく見かける光景である。さて、どうしたものか。英語は通じないだろうし。メモ用紙に「昆明→大理 明早天 1張」と書き、負けずと窓口に手を差し伸べた。メモ用紙をちらりと眺めた掛かりの女性は、驚いたことに、英語で対応してきたではないか。「これは大変失礼しました」である。突然の英語に、我先にと争っていた者どもは一瞬ひるんで、皆手を引っ込めた。無事に明日9時40分発のチケットを入手してやれやれである。

 
第三章 古都・大理(ダーリー)とその周辺
 
 第一節 大理古城(ダーリー・グーチョン)への路 

 4月4日(金)。快晴である。今日は昆明の西約400キロに位置する古都・大理を目指す。約5時間のバスの旅である。9時前、ホテルをチェックアウトしてバスターミナルへ行く。ターミナルはごった返していた。待つほどに乗るべきバスが入線して来た。トイレも付いた上等なバスである。発車してすぐにミネラルウォーターが配られた。乗客の中に、珍しいことに、50年配の欧米人旅行者が1人いる。中国は世界でもっとも英語が通じない国の一つで、欧米人が通訳なしに個人旅行をすることは難しいと言われている。この点、日本人は漢字の読み書きが出来るので何とかなる。

 バスは昆明市内を抜け、大理へ続く高速道路をひた走る。車内ではビデオが上映されている。リクライニングシートなのだが、乗客は後ろの席を気づかって誰一人倒さない。タイと同じである。どこまでも低くうねる大地が続く。畑では麦が黄色く色づいている。高速道路と言っても日本ほどには設備が調っていない。一応ガードレールで道路外とは仕切られているが、二輪車や人間は入り込むことが可能である。現に人間が道路端を歩いているのを目撃した。また、ガソリンスタンドやドライブインが助走路もなく道路端にある。そこから大型車がのっそりと顔を出す。いたって危険である。標示によると、制限速度は小型車120キロ、大型車80キロとなっている。日本と比べると乗用車の通行は極端に少ない。性能の劣る車が多く走っているので、時々前がつかえる。

 2時間ほど走って、楚雄の手前のドライブインで30分の昼食休憩。トイレは中国定番の様式、溝に沿って低い仕切りがあるだけで、戸は一切ない。よくぞ丸見えの中で排便できるものだ。そのくせ、後々気がつくのだが、中国人はタチションをしない。文化の違いは如何ともしがたい。

 再び高速道路を走る。白壁に黒い瓦葺きの家々が並ぶ好ましい景観の集落が点々と続く。ぺー族(白族)の居住圏に入ったのだろう。幾つかのトンネルを抜けると、突然、眼下に近代的な大きな街が見えてきた。大理下関(ダーリー・シャーグァン)の街並みである。実は大理は二つの街からなっている。古都として古い歴史を持ち、観光の中心となる大理古城と、その南約13キロに位置する近代都市・大理下関である。行政、交通、経済等の都市機能はすべて大理下関にある。このバスの終点も大理下関である。

 「下関」の名称は王都・大理の南の防衛線としてこの地に関所が設けられていたことに由来する。王都の北側には「上関」がある。一方、「古城」とは古い街すなわち旧市街という意味である。「城」という字は日本では城郭を意味するが、中国ではもともと都市を意味する。北京や南京も昔は北京城、南京城と呼ばれた。

 15時、バスは大理下関のバスターミナルへ到着した。ただし、今日は大理古城まで行かなければならない。当然、連絡バスか何らかの標示があると思ったが何もない。そもそも現在地がどこなのかもよく分からない。この街にはバスターミナルが8カ所もある。バスを降りた乗客は散り散りに去り、私と同乗の欧米人の二人だけが残された。彼も勝手がわからず、うろうろしている。声を掛けあって行動を共にする。カナダ人だという。バスターミナル前のバス停に行き、二人で居合わせた人々に英語で問いかけたのだが、誰も英語を解せない。ちょうど2路のバスが来たので、運転手に「ダーリー・グーチョン、ダーリー・グーチョン」と連呼すると、ともかく乗れとのジェスチャー。しばらく走り、小さなバスターミナルの前に来ると、運転手がここで降りろとのジェスチャーをして何度も指4本を示す。どうやら「ここで4路のバスに乗り換えろ」とのことのようである。

 4路のバスは市街地を抜け、北に向かって田園地帯を行く。車窓の左、すなわち西側には山頂近くに雪をいただいた山並みが続く。4,122メートルの馬龍峰を主峰とする蒼山(ツァンシャン)の連なりである。車窓の右側には大きな湖が沿うている。耳海(アールハイ)である。大理はこの蒼山と耳海(耳はサンズイ 以下同じ)の間の平野に開かれた街である。やがて行く手に城壁で囲まれた街並が見えてきた。目指す大理古城である。バスは城壁を抜け、古風な街並の中に入る。

 街の中心に近いと思しきところでバスを降りる。若い女性が寄って来て何事か話し掛けるが言葉が分からない。示された名刺でようやくゲストハウス(客桟)の客引きとわかる。私は断るが、カナダ人の男は女に付いていった。私はガイドブックで目星をつけておいた四季客桟に行く。所が門が閉まっている。はてな、と門前にたたずんでいたら、通りかかった若い女性が何か言う。分からないのでメモ用紙に書いてもらった。彼女は「不存在了」と記した。どうやら営業していないようだ。続いて、桑尼園、さらに楡安園に行くが、いずれも看板はあるが建物そのものが取り壊されている。ガイドブックに載っているゲストハウスが全滅である。いったいどういうことなんだ。あてもなく歩いていたら「一閑居客桟」に行き当たった。家族経営のゲストハウスで、おばさんはニコニコして感じがよい。だが英語は全く通じない。ツインベッドの大きな部屋が70元(約1,050円)だというのでチェックインする。とにもかくにも、無事に大理古城に到着出来た。

 
 第二節 大理の歴史

 大理は8世紀から13世紀掛けて雲南の地に栄えた南詔国及び大理国の古都である。8世紀の初め、雲南地方には六詔と呼ばれる六つの部族国家があった。このうち最も南(巍山)に位置し、南詔と称した蒙舎詔が勢力を強め、738年に六詔の統一に成功する。そして王・皮邏閣(ビロコ)は唐より雲南王の冊封を受け、ここに南詔国が成立した。国を担った民族は彝(イ)族であったと考えられている。754年には唐の攻撃を退け、さらに王都を大理に移し、次第に強大化する。839年に、日本、南詔を含む五ヶ国の使節が唐の皇帝に謁見している。この時の席次は南詔国が一番、日本が二番であった。このことからも南詔国の強大さを伺い知ることが出来る。南詔国は9世紀半ばに最盛期を迎える。四川省の成都を占領し、タイ、ビルマ、ラオス、ベトナムにも勢力を伸した。しかし、902年、内部抗争の果てのクーデターにより10代、164年続いた南詔国は滅亡する。

 937年、ぺー族出身の段思平が大理に攻め込み、大理国を建国する。以降、大理国は大理を王都として雲南の地を安定的に支配し続ける。雲南の外へ外征することもなく、また他国から攻め入られることもなかった。しかし、1253年に到り、元の皇帝フビライ自ら率いる10万のモンゴル軍により王都・大理は包囲され、陥落する。こうして、23王318年続いた大理国は滅亡した。元は行政の中心地を大理から昆明に移したので、雲南の中心としての大理の栄華は500有余年で終わることとなった。また、大理国の滅亡は、有史以来独立を守ってきた雲南地方が初めて中国中央政権の版図の中に組み込まれたことを意味した。元朝の後を継いだ明朝は、大量の移民を雲南地方に送り込み、その支配を一層強固なものとした。その後、中国中央政権は清朝、中華人民共和国と変われども、中国による雲南植民地支配の構図は変わることなく現在に至っている。

 
 第三節 ぺー族の街・大理

 部屋に荷物を放り込むと、早速街に出た。ここは標高1,976メートル、燦々と降り注ぐ陽は暖かいが、空気はひんやりして高原の気候である。時刻は16時だがまだ陽は高い。暗くなるのは20時頃である。中国は広大な領土にもかかわらず、標準時間は北京時間1本である。従って北京から大分西に位置するこの辺りは、時計の時刻と自然の時刻との間に大分差が生じている。

 大理古城は他の中国の古い都市と同様に城壁都市である。周囲6キロ、高さ8メートル、幅7メートルの煉瓦造りの城壁で囲まれている。東西南北に4つの城門があり、それぞれ耳海門、蒼山門、南城門、北城門と呼ばれている。街は西から東に向かって緩く傾斜しており、城内には石畳の道が碁盤の目のごとく東西南北に走っている。道路脇には水路が設けられ、透き通る清流が心地よい水音を立てている。街の中心部は車の乗り入れが禁止されており、通りは観光客で溢れている。ただし、観光客の99.9%は中国人で、外国人の姿を見ることはほとんどない。要するに、観光地化が著しく進んでおり、何やらテーマパークにやって来た雰囲気である。

 街を歩くとすぐに、「ぺー族」がこの街の最大のセールスポイントであることが分かる。街並はぺー族の伝統的住居である白壁と黒い瓦屋根の家々に統一され、軒を並べる土産物屋や食堂の女店員はいずれもぺー族の伝統的民族衣装で身を飾っている。そしてまた、土産物屋の店先に並ぶのはべー族の衣装や伝統的手芸品である。中国各地からやって来た観光客に対し、ことさら異国情緒を演出しているように感じられる。

 もちろん、雲南省大理白族自治州の州都である大理はぺー族の街であり、街の人口約52万人の内、約2/3がぺー族である。かつて大理国を興し、雲南の地を支配したぺー族は総人口185万8千人(2000年統計)ほどの民族で、多くは大理白族自治州に居住している。民族衣装として、若い女性は白いシャツの上にピンクのチョッキを着ているが、豪華な頭飾りがひときわ目を引く。言語はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派のペー語を話す。日常会話はぺー語であるが、もちろん全員が漢語をも話す。
 

 第四節 蒼山(ツァンシャン) 

 4月5日(土)。朝8時前、どこかで朝飯をと思い街に出る。しかし、店は未だどこも開いていない。どうもこの街の生活リズムは1時間ほど後ろにずれている。人通りも少ない早朝の古都をのんびり歩いていたら、働き者の旅行代理店のおばさんに捕まった。いろいろな商品を勧めてくるが、中に、「往復120元の蒼山ロープウェイ・チケットが100元で購入できる」というのがあった。西方上空を見やると、真っ青に晴れ渡った空に万年雪をいただく蒼山がくっきりと浮かび上がっている。行ってみることにする。蒼山には南寄りにロープウェイ、中央付近にはリフトが設置されており、歩かずして中腹の2,500メートル付近まで登ることが出来る。

 蒼山は大理古城の西側に南北に連なる全長42キロメートルの山脈で、北は上関に始まり、南は下関に達している。19峰から成り、最高峰は4,122メートルの馬龍峰である。蒼山の雪は、耳海の月、下関の風、上関の花とともに大理が天下に誇る風花雪月と言われている。そしてまた、天候により刻々と姿を変える雲霞が有名である。山中には多くの渓谷や池があり、豹や熊などの野生動物が数多く生息しているという。

 ワゴン車のタクシーに乗せられ、感通寺前の広場に到着した。開店準備中の茶店の並ぶ参道の石段を登るとロープウェイ乗り場にでた。感通寺は南詔国初年に建立された大理最古の寺院である。帰りに参拝するつもりで(結果的にはこのことが大失敗であったが)、ロープウェイに乗る。4人乗りのゴンドラで、中年の中国人夫婦と一緒であった。ゴンドラはグイグイ上昇する。背後に大展望が開ける。耳海の湖面が朝日に輝き、その岸辺から山裾にかけては黄金色に色づいた麦畑が広がっている。その平地の一角に、正角形に縁取られた大理古城の街並が見える。大きな谷の上空にさしかかると、強風が吹きつけ、ゴンドラは大きく揺れた。

 約20分ほどで終点に着いたが、同乗の夫婦は降りることなくそのまま下っていった。ゴンドラを降りたものの、展望以外特段見所もない。山腹を巻くように北へ進む石畳の小道があり、道標が行く先を「七龍女滝 4.5公里」と示している。行ってみることにする。小道には頻繁に「喫煙厳禁」の立て札が立つ。誰もいない小道を数分進むと、森林保護員の腕章を付けた警備員がおり、入山届を提出させられた。眼下に広がる大展望を眺めながら小道をのんびりと進む。辺りは見事なまでに松の純正林である。

 夫婦と中学生ぐらいの少女の3人パーティに追いつかれた。父親が何か話し掛けてきたが、中国語なので分からない。私が外国人と知ると父親は「お前の出番だよ」とばかり娘を前に押しだした。彼女は少し英語が話せた。中国では最近まで「英語は敵国の言葉」として、英語教育は全く行われなかった。このため、世界で最も英語の通じない国の一つとなった。しかし、北京オリンピックを控え、ようやく小中学校での英語教育に力を入れだした。従って、小中学生は少し英語を理解できる。家族は大理に住むぺー族で、休日の一日、ハイキングを楽しんでいるという。少女が「大理の印象はどうか」と聞くので、"Very beautiful as same as you"と答えると大喜びし、家族全員で"Thank you" "謝々"を連発した。

 1時間ほど歩き、山腹に大きく食い込んだ谷に達すると、3軒ほどの小屋掛けの茶店があり、谷の上部に通じる小道を「七龍女滝」と標示している。谷に沿った急坂を登ると、急峻な滑滝に出た。何段にも分かれ、かなり上部まで通じている様子である。数人の若者が賑やかに遊んでいる。どうやらここが目指した七龍女滝らしい。「まぁこんなもんか」と茶店に下って米線(ウドン)をすする。小屋の中ならいいだろうとタバコを吸っていたら、森林警備員が飛んできて怒られた。

 ここからもと来た道を戻るつもりでいたが、道標がさらに先に続く巻き道を「中和寺 6公里』と標示している。中和寺まで行けばリフトが下界に通じているはずである。行ってみることにする。反対側からやって来る多くのハイカーとすれ違う。ただし、外国人の姿は見られない。1時間半ほど歩いてようやく中和寺に着いた。南詔国時代に建立された仏教寺院である。仏前に手を合わせていたら、寺男が線香を手渡してくれた。この境内からの展望も素晴らしい。寺の裏手がリフトの乗り場であった。リフトに揺られながら最後の展望を楽しむ。リフトに平行して登山道があり、多くの家族連れが歩いて、或いは馬に乗って登ってくる。14時、ゲストハウスに帰り着いた。

 
 第五節 崇聖寺(チョンションスー)

 日暮れまでにまだ数時間ある。大理最大の見所・崇聖寺に行ってみることにする。北西城外約1.5キロ程の蒼山の麓にある。バスもあるが歩いて行くことにする。今日は本当によく歩く。北城門を潜り城外に出る。大理石を加工する工房が軒を並べている。日本でもよく知られた建築石材・大理石はこの地の特産品であり、蒼山から切りだされる。ただし、採掘跡が蒼山の景観を著しく汚すため、現在では採掘は裏側でのみで行われているとのことである。

 少々道に迷い、30〜40分掛かってようやく崇聖寺の豪華な大門に達した。中を覗くと、広大な境内の奥に崇聖寺の象徴である三塔が見える。崇聖寺は南詔国、大理国の王室の菩提寺であった。7キロ四方の寺域を誇る実に広大な寺院で、雲南随一の仏教寺院と言われた。創設は8世紀前半、南詔国の創始者・皮羅閣王の治世である。その後、南詔国時代の836年に、今に優雅な姿を見せている主塔が建立され、さらに少し後に両脇の2つの小塔が建てられた。以降、崇聖寺は三塔寺とも呼ばれるようになった。しかし、壮大な伽藍を誇った崇聖寺も19世紀半ばに戦火で焼失し、今に残る南詔国及び大理国時代の建物は三塔のみとなってしまった。現在、目の前にある壮大な伽藍は、雲南省政府と大理州政府が1.82億元(約27億円)と言う巨費を投じて2005年4月に再建したものである。

 121元(約1,800円)という安からぬ拝観料を払って境内に入る。広々とした石畳の参道の先に崇聖寺三塔が蒼山をバックにすっくとそそり立っている。左右の小塔は内側に幾分傾いている。参道を進んで三塔の下に立ち、数百年の時を経た塔を眺める。 美しい姿だ。主塔は高さは69.13メートル、16層の方形である。またの名を「千尋塔」という。塔基前に「永鎮山川」の文字が大書されており、各層には仏像がはめこまれている。主塔の左右に建つ2基の小塔は、高さ42.19メートル、十層八角である。仏塔の層数は奇数が原則だが、三塔とも偶数になっている。

 三塔の奥に博物館があった。1978年に三塔の大規模な改修工事が行われ際に発見された多くの仏像や仏具が展示されている。ここで気になったことがある。各々の展示物に製造年代が説明として添えられているのだが、すべて「唐代」とか「宋代」とか中国本土の王朝年代で示されている。これらの文物は雲南に未だ中国本土の支配が及んでいない時代のものである。「○○世紀」「××世紀」あるいは「南詔国時代」「大理国時代」と標示すべきであろう。こんな所にも中国植民地主義の思想が現れている。

 鐘楼、雨銅観音の大きな伽藍を過ぎ、二体の仁王が守る山門を潜ると大黒天神を祀る天王殿(護法殿)に達する。さらに阿弥陀仏を祀る阿弥陀殿、十一面観音を祀る観音殿と続く。いずれも巨大な伽藍である。一つの伽藍を過ぎると、また巨大な伽藍が現れる。いったいこの寺院、どこまで続いているのやら。その巨大さに驚嘆し、かつ璧僻する。目の前にさらに巨大な、如来仏、文殊菩薩、普賢菩薩を祀った仏殿(大雄宝殿)が現れた。高さは26メートルもあり、幅は51.7メートルあるという。この奥にさらに伽藍か続くようだが、もはや体力の限界である。戻ることにする。

 日本や東南アジア諸国で多くの仏教寺院を見学したが、これほどの巨大寺院は見たことがない。その時、ふと思った。この寺には僧の姿が全くないではないか。僧院もない。「なぁんだ、伽藍堂か」。ここは寺院ではない。言うなれば、寺院を模したテーマパークである。そういえば、巨大な金ぴかの仏像は数多あったが、祈りを捧げている人の姿は見かけなかった。考えてみれば、共産主義国家・中国が巨費を投じて仏教寺院を再建するわけがない。振り返ると、幾つもの巨大伽藍の背後に耳海が夕日に輝いていた。
 

 第六節 茶馬古道の古鎮・喜州と周城

 4月6日(日)。今日も朝から快晴である。耳海周辺にはぺー族の小集落が点在しているが、今日はその中の古城の北19キロに位置する喜州(シージョウ)と北23キロの周城(ジョウチョン)を訪ねてみるつもりである。両集落とも茶馬古道の古鎮でもある。古い街並がよく残っているらしい。

 8時前、ゲストハウスを出て、蒼山門近くの広場から耳源(耳はサンズイ。以下同じ)行きのミニバスに乗る。バス乗り場は昨日確認しておいた。バスは簡易舗装のがたがた道を進む。十数人の乗客の中で外国人は私一人である。大理古城から北へ向かう街道は、耳海沿いの道と蒼山の麓沿いの道の2本ある。現在進んでいる後者の道が旧街道である。周りはどこまでも気持ちのよい田園風景が続く。ただし、運転はかなり乱暴である。40分ほど乗ると、畑の真ん中の三叉路で、車掌が降りろと合図する。喜州の集落はここから1.5キロほど東の耳海の辺にある。

 三叉路にはトゥクトゥクと馬車が客待ちしていた。馬車がすぐ発車するというので飛び乗る。6人乗りで、隣のおばさんが親しげに話し掛けてくるが、もとより言葉が通じない。道は丸石を敷き占めたガタガタ道である。ということは、この道は茶馬古道である。何やら嬉しくなってきた。

 約15分でトゥクトゥクと馬車がたくさん停まっている四つ角に着いた。ここが終点とのこと、馬車の運賃はわずか2元であった。集落は思ったより大きく、村というより小さな町という趣である。馬車を降りたものの、さてどこへ行ったらよいやらーーー。ガイドブックに載っている民家の写真を御者に見せると、「この道を真っすぐ行って、左に入るんだ」とのジェスチャー。示された道は集落のメインストリートのようで、小さな間口の店が並んでいる。しかも、露店がずらりと並び、早朝から大賑わいである。ぺー族の民族衣装に身を包み、竹で編んだ四角い篭を背負ったおばさんたちで溢れ返っている。ぺー族の民族衣装というと白と赤の派手な衣服を思い浮かべるが、既婚者や中年・熟年の婦人たちは、藍か黒のシャツにエプロンをかけた地味な服装である。

 人波を縫って通りを進む。白壁と黒い瓦葺きの古びた家並みが続く。典型的なぺー族の集落の街並である。辿っている道は、どうやら茶馬古道のようである。しばらく進むと左側にチョウタラのある大きな広場があった。古い交易集落では必ず集落の中心にこのような広場がある。隊商の休み場であり、また市の開かれる場所でもある。この街が茶馬古道の要衝であった証拠である。チョウタラとは、方形または円形の石積みの塚で、荷駄の積み下ろしをするための施設である。広場には多くの屋台が出ていた。水ギョウザが1杯わずか3元、食べてみたが美味しかった。

 広場に面して大きな民家があった。ここがガイドブックに載っていた「厳家大院」であった。古いぺー族の民家である。5元の入場料を払い見学する。「三方一照璧」と呼ばれるぺー族の典型的な民居である。二階建ての家を「コ」の字に建て、正面に大きな壁を設置して中庭を主な生活の場とする住居である。家の周囲を完全に塞いでしまう防衛的な住居といえる。

 あてもなく、さらに街の奥に進むと、マイクロバスやタクシーが出入りしている大きな民居があった。覗いてみると、ぺー族の踊りなどが見られる観光施設の様子。よく分からないが、50元の入場料を払って入ってみる。ここも「三方一照璧」の古い民居であった。一室で「三道茶」を振る舞われて、ぺー族の舞踊や模擬結婚式の様子を見学できる。三道茶とは、ペー族が客人をもてなすためにたてるお茶で、三種類のお茶がワンセットになっている。一杯目は煎った緑茶に熱湯を注いだ苦茶で、人生のつらさ厳しさを表すという。二杯目は胡桃と黒砂糖の入った甘い甜茶で、人生の喜びが表すという。三杯目はシナモンと生姜の入った回味茶で、人生の最後に苦楽を思い出すためのお茶だとのこと。三杯のお茶は「一苦・ニ甜・三回味」という言葉に集約される。
 
 喜州の見学を終え周城に向かうことにする。トゥクトゥクで行こうかと思ったが、50元などと吹っかけてくるので、バスで行くことにする。街並を抜け、畑の中の石畳の道をバス停に向けのんびりと歩く。丸石を敷き占めた道は少々歩きづらいが、茶馬古道を歩いていると思うと気分は爽快である。正面には青空をバックに雪をいただいた蒼山がすっくと聳え立っている。周りは刈り入れを待つばかりに色づいた麦畑、一面に黄色く染まった菜の花畑、そして、大きく膨らませた莢(サヤ)をたわわに付けたソラ豆畑である。

 耳源行きのミニバスはすぐにやって来た。約10分ほどでちょっとした街並に入ると、車掌が「ここが周城だ」と降車を促す。運賃はわずか2元であった。周城も喜州と同じぐ、茶馬古道の古鎮で、人口約8,000人のぺー族の街である。バスを降りたものの、さてどこへ行ったらよいのかさっぱり分からない。ぶらりぶらりと街道を北へ歩いて行くと、左側に大きな広場があった。真ん中に、大木の茂るチョウタラがある。広場では小規模な市が開かれている。ここが街の中心のようだ。また、広場の隅にはガイドブックに載っている1895年建設の劇台も確認できる。

 チョウタラに座り込んでひと休みしていたらぺー族のおばさんが話し掛けてきた。筆談の結果、藍染工房の見学を誘っていることが分かった。この街は藍の絞り染めの産地としても有名である。おばさんの後について数分集落の中を歩くと、ここにも、小さな広場に、大木の茂るチョウタラがあった。藍染は家の中庭で行われている家内工業で、当然販売を兼ねている。義理で、テーブルクロスを一枚買わざるを得なかった。

 集落の中をあてもなく歩く。周城の街は蒼山の山裾にあるため街は西から東に向かって傾斜している。歩くのが大変である。集落の中は細い道が複雑に走る。カギ型、三叉路、行き止まりの連続である。しかも、道の両側は「三方一照璧」の厳重な土壁の連続で、中は全く伺い知れない。街全体がまさに要塞である。13時のバスで大理古城に戻る。
 

 第七節 杜文秀とパンゼーの乱

 大理古城に戻ると、先ずは大理市博物館を訪ねた。「総統兵馬大元帥」の扁額の掲げられた門をくぐる。博物館らしからぬ門構えである。実は、元々ここは、清朝末期、パンセーの乱を率いた杜文秀の総司令部があった建物なのである。

 大理を含む雲南地方は1253年に元朝によって大理国が滅ぼされて以来、中国中央政権の版図に組み込まれてしまった。しかし、ほんの一瞬であったが、漢族のくさびを断ち切り、独立政権を樹立した時があった。1856年、農民出身の杜文秀は、1850年に起った太平天国の乱に乗じて、雲南西部の回族を率い清朝からの独立を目指して反乱を起こす。これがパンゼーの乱である。杜文秀の軍は大理を占領して本拠地とし、雲南省西部一帯に支配権を確立する。そして、清朝から独立した「平南国」の樹立を宣言するのである。しかし、清朝の雲南支配の拠点・昆明を何度か包囲するも攻略するにいたらず、情勢は次第に清朝に傾く。そして、1872年、逆に大理は清朝軍に包囲される。杜文秀は自ら命を絶ち、パンセーの乱は終結した。杜文秀及びパンセーの乱は、農民による専制政治への抵抗として、現代中国においては高く評価されている。

 博物館には多数の大理時代の石碑や、出土した文化財が多く展示されており、一見の価値があった。続いて南西城外の一塔寺まで歩いて行ってみたが、工事中とのことで境内に入ることは出来なかった。
 

 第八節 耳海遊覧

 4月7日(月)。大理を表す言葉として「一海三塔十九峰」という表現がある。もちろん、耳海、崇聖寺三塔、蒼山を言い表している。「三塔」と「十九峰」は既に訪れた。今日は残る「一海」に行ってみることにする。昨日、旅行社で「耳海半日ツアー」を申し込んでおいた。耳海は昆明のテン池に次ぎ雲南では2番目に大きな湖で、南北約40キロメートル、東西3〜9キロメートル、面積246平方キロメートル、 最大水深20メートルある。 形が耳に似たことから耳海の名が生まれた。

 桟橋で30分ほど待たされ、10時、ようやく乗客10人を乗せた小型観光船は出帆した。私以外はすべて中国人で、英語の話せるものは誰もいない。それでも、少人数のこともあり、すぐに打ち解けて、菓子や果物を分けてくれた。今日も天気は晴れ、昨日に比べると若干雲は多いが、それでも陽春の光が降り注ぎ、蒼山がくっきりと見える。昔から蒼山の眺めは耳海からが一番美しいと言われている。船は湖を横断し、対岸近くの小普陀と呼ばれる小島を目指す。島の頂には高さ数十メートルの楼閣が建っていて、耳海の一つの景色をなしている。島で約30分の休憩。乗客はてんでんばらばらに楼閣を目指す。私も急な階段を登って行ってみたが、別段面白いこともない。

 船は再び湖面に乗りだし、進路を南にとる。湖面には、時折、観光船が行き交うだけで、漁船の姿は見られない。雲が蒼山の頂を隠し始めている。やがて船は金梭島の船着き場に着いた。ここで1時間の昼食休憩だという。周りは土産物屋や食堂が建ち並んでいる。1人で食事をする気にもならず、所在がないので船に戻ると、船頭が気を利かせて出発間際の別の船に乗せてくれた。13時には大理古城に帰り着いた。

 今日で大理及びその周辺の見学を終え、明日は世界遺産の街・麗江(リージァン)に向かうつもりである。夕食にこの街での日本人の溜まり場・菊屋食堂へ行く。たまには日本食が恋しくなる。おばさんは日本語が話せる。ここは旅行代理店も兼ねているので、明日の麗江までのバスチケットを手配する。どのガイドブックでも大理古城から昆明や麗江への移動は、大理下関のバスターミナルまで出向かなければならないと記載されている。しかし、実際は、大理古城にたくさんある旅行代理店に申し込めば、バスは店頭まで迎えに来てくれる。ついでに、「麗江のよいゲストハウスを知りませんか」と尋ねたところ、「知り合いのゲストハウスに電話して、バスターミナルまで迎えに来さす」とのありがたい回答があった。

 菊屋の小学校低学年の息子が、食堂の隅で英語の教科書を開いていた。北京オリンピックを控え、中国政府は、遅ればせながら、ようやく英語教育を始めている。教科書を覗いたところ、何と例文は"The Chinese are  a great people"。戦前の日本と同じ教育がなされている。怖い国だ。
 
                          (雲南2に続く)

 

 アジア放浪の旅目次に戻る    トップページに戻る