おじさんバックパッカーの一人旅
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2008年4月8日〜4月12日 |
第4章 世界遺産の街・麗江(リージァン)とその周辺
第一節 麗江古城への道 4月8日(火)。昨夜は、真夜中に隣家に大声で人が出入りし、うるさくて眠れなかった。中国人はどうも公衆道徳の精神に欠ける。平気で道路にゴミを捨て、つばや痰を吐くし、また、所かまわず、大声で会話する。側で聞いていると、まるで怒鳴り合っているようである。他人への迷惑という感情は持ち合わせていないのだろうか。 今日は大理の北約200キロに位置する世界遺産の街・麗江(リージァン)を目指す。朝、庭で一服していたら、ゲストハウスの若オーナーが、筆談を試みるべく紙と鉛筆をもってやって来た。外国人の私は気になる存在のようだ。おまけに、中国語が話せないのに、漢字の読み書きが出来るのも不思議らしい。「4年前に82才の日本人の爺さんが1人でやって来た」とか話していた。 今日もいい天気である。9時前に菊屋に行く。おばさんは麗江のゲストハウスのことは何も言わなかったので、私も話半分と思い何も問わなかった。8時55分に麗江行きバスがやって来た。19人乗りのマイクロバスで、私以外はすべて中国人。わが物顔で大声で会話する彼らに苛立ちを覚える。バスは、左右に蒼山、耳海を見ながら耳海沿いの新道を北上する。一昨日訪れた喜州を抜け、40〜50分も走ると続いてきた平野は尽きた。バスは潅木のまばらに生えた岩山をヘアピンカーブを繰り替えしながら登り始める。耳海が見る見る眼下となる。山を登りきると、眼下に現れた盆地へと下りだす。そしてまた、山に登り盆地に下る。その繰り返しが何度も続く。山は松の純林、盆地は黄色く色づいた麦畑である。そして山裾には白壁と瓦屋根が美しい小集落が点在する。 幾つ目かの山を越えると、遥か彼方の山並みの背後に、遠目にもただならぬ山容の真っ白な鋭峰が姿を現した。一目、玉龍雪山だ! 目が釘付けになる。麗江に到る道路は有料道路ではあるが高速道路ではない。乗用車はほとんど走っておらず、荷物を満載した大型トラックと大小のバスがほとんどである。2時間走って道路端の究極の公衆便所で10分ほどのトイレ休憩、こんなトイレでも5角(7.5円)の使用料を取る。初めて大きな街を通過した。信号機まである。何処だろうと窓外に目を凝らすと「鶴慶」の文字を見つけた。隣の男が、何と、タバコを吸いだした。車内に特に禁煙との標示はないがーーー。 何回目かの坂道を登り詰めると、広々とした平地に出た。そして、今までちらりちらりと見えていた玉龍雪山がついにその全貌を現した。乗客全員の目が一点に注がれる。何人かは慌ててカメラを取り出した。剣岳にも似たいかつい山容で、豊富な残雪の白と岩肌の黒のコントラストが美しい。やがて前方に大きな街並が見えてきた。麗江だろう。しかし、バスは街並に入ることなく、12時10分、郊外の真新しいバスターミナルに到着した。 バスを降りたもののここが何処なのかさっぱり分からない。案内書ではバスターミナルは市街地にあることになっている。おそらく、最近新しいターミナルが出来たのだろうがーーー。客引きの姿もない。今日の宿は旧市街の麗江古城に取るつもりでいるが、さてどうやって行ったらよいものやら。市内地図が張られていたので、そばにいた女性に「ここは何処だ」とジェスチャーで聞くと、地図の範囲外を指し示す。 その時1人の男が現れた。歳は30代だろう。上下とも真っ白な服、髮は総髪、真っ黒な顎髭は胸まで延びている。まさに三国志の張飛を彷彿させる風貌である。彼は私に近づくと、何も言わずに、手にした携帯電話を私に押し付けた。少々びびりながら携帯電話に出てみると、何と、相手は菊屋のおばさんであった。約束通り、ゲストハウスの迎えを差し向けてくれたのだ。連れていかれた先は旧市街南部の「香巴拉客桟」というゲストハウス、1泊120元(約1,800円)と少々高いが、経緯上やむを得ない。チェックインする。
麗江(リージャン)は玉龍雪山(5,596メートル)の麓に広がる広大な麗江盆地の中央に位置する雲南省有数の都市である。13世紀にナシ族の領主・木氏によって開かれて以来、茶馬古道の要衝として発展してきた。街の標高は2,400メートルある。南200キロにある大理が政治都市、軍事都市として発展したのに対し、麗江は商業都市として発展した。 茶馬古道とは、もう一つのシルクロードとも呼ばれ、ユーラシア大陸の東西を結ぶ歴史を秘めた古街道である。直接的には雲南とチベットを結ぶルートではあるが、雲南の先には東南アジア諸国が控え、チベットの先にはネパールやインドが控えていた。唐の時代にはすでに交易が始められ、20世紀中ごろが交易の絶頂期であったと言われている。主な交易品は、雲南地域より塩、茶、銀製品、食料品、布製品、日用品などが、チベットからは毛織物、薬草、毛皮などが運ばれた。茶馬古道の要衝といわれる都市はラサ、徳欽、迪慶(香格裏拉)、麗江、大理、思茅などであるが、雲貴高原とチベット高原の境に位置する麗江は特に重要な拠点であった。麗江からチベットに向かう駄馬は最盛期には年間10,000頭以上に達し、麗江には隊商を営む商店が1,200軒もあったという。 大理が四方を堅固な城壁で囲まれているのに対し、麗江には城壁はない。中国の古い都市としては珍し。代々麗江の支配者であった木(ムー)氏が、「木」を四角(城壁)で囲うと「困」という字になるために城壁を築かなかったとの伝説が残るが、実態は、周囲に対し「政治的軍事的野心はありません」との意思を無言で示したのであろう。事実、木氏は時の支配権力に対し最大限の目配りをし、友好関係を保ったため、麗江が戦火にまみえることはなかった。宋、元、明、清と続く中国中央政権ともうまく接し、麗江の世襲的支配権を維持し続けた。このため、戦火で焼けることもなく古い街並が今に残った。 麗江も大理と同じく二つの都市に分かれている。観光の中心になるのは旧市街、すなわち麗江古城である。旧市街の北側に、連続する形で新市街、すなわち麗江新城が広がっている。もちろん、行政、経済、交通等の都市機能はすべて新市街にある。1996年2月3日、麗江を中心とするマグニチュード7.0の大きな地震(麗江地震)があり、死者309人、負傷者17,057人の大きな被害が生じた。この地震が麗江に転機をもたらした。旧市街を復興する際にコンクリートの建物を排除し、家の高さ、規格など昔風の建物に統一して街並を整えた。そして、1997年、世界遺産登録を果たし、観光都市へと変身した。現在では、中国有数の観光都市である。 大理がぺー族の街であったのに対し、麗江はナシ族の街である。麗江の人口の約60%を占める。ナシ族は麗江周辺に居住する少数民族で、総人口は308,839人(2000年)である。カム高原から南下して雲南に来住した烏蕃系の子孫であると考えられている。日常、チベット・ビルマ語族彝(イ)語グループに属するナシ語が話されているが、ほぼ全員が漢語も話せる。近年、ナシ族を有名にしているのは彼らの保有するトンパ(東巴)文字である。日常使用される文字ではなく、彼らの固有の宗教・トンパ教の教典に使用される文字であるが、世界で唯一の現役の象形文字といわれている。今や、麗江観光資源の一翼を担う存在で、商店の看板や役所の表札に漢字と並んで使用されている。 女性の民族衣装は独特で、青地の服に白い襷で、背中に北斗七星をあしらった7つの丸い模様のついた背当てを背負っている。
荷物を部屋に放り込むと、すぐに麗江古城探索に出発した。古城の中心広場・四方街まで、ゲストハウスのスタッフの張敏さんという名の22才の女性が案内してくれた。漢族とのことだが英語も達者で、なかなか美人だ。古城内は石畳の細い道が迷路のごとく走り、位置を確認しながら行かないともとの場所に戻れなくなるほどである。道は凄まじい人波でごったがいしている。ガイドの掲げる旗の下、ツアーの団体が何組も行き交っている。道の両側に並ぶ家並みはすべて同じ規格のナシ族風木造建築の二階家、両端がせり上がった独特の瓦葺き屋根である。通りに面した家々はすべて土産物屋や食堂、客桟などで、女性の売り子は皆ナシ族の民族服姿である。到るところ清流が流れ、金魚が群れている。よくぞここまで街並を整えたものだとほとほと感心してしまう。しかし、生活の匂いは薄く、言うなれば、完全なテーマパークである。 麗江の象徴的景色は、上方から眺めた甍の波と、北方に聳える玉龍雪山である。ビュー・スポットを求めて、街の西方に盛り上がった獅子山を目指す。土産物屋や客桟の並んだ階段の道を登る。たいした登りでもないが、標高が高いせいか苦しい。登るに従い、眼下に素晴らしい甍の波が見えてくるはずなのだが、この街は何ともせち辛い。ビュー・ポイントとなりそうな所はすべて、「展望良好」などと看板を掲げて喫茶店や食堂となっている。しかも、覗き見できそうな場所は、完璧までに立ち木や屏で隠されている。明らかに意識的な仕業である。 ビュー・ポイントを求めて、獅子山の山頂部に達してしまった。山頂部は樹木の茂った公園になっており、好展望が得られそうである。所が何と、入場料が麗江古城維護費80元+公園入場料15元の計95元(約1,425円)必要だという。余りの高額に頭に来て、入場を見送る。幸いなことに、チケット売り場のわずかな隙間から、玉龍雪山の大展望が得られる。眼下に新市街の街並が広がり、その背後に山頂部の鋭い岩肌を豊富な残雪で白く染めた鋭峰が青空をバックにすっくと起立している。さすが5千メートル峰。なかなかの山容である。 私と同じく、公園への入場を見送り、玉龍雪山に見とれている若者がいた。筆談で話してみると、広州からやって来たとのことである。この街の観光客も99.9%中国人で、外国人の姿は見られない。四方街に下ると、大勢の観光客がひしめき、まともに歩けないほどの賑わいである。昔はこの広場にチベットに向かう隊商が荷駄を積んだ馬を曳いて続々とやって来たのだろうが。 あてもなく古城の中の迷路をさまよう。バックパッカーにとっては余り居心地の良い街ではない。一度は来る価値があるが、二度と来ようとは思わない。日暮れ後、再度、四方街へ行ってみると、観光客でごった返す広場の真ん中で、ナシ族の老人たちが輪になって踊っていた。
4月9日(水)。昨真夜中、前の道路での大声の長話に眠りを妨げられた。まったく中国人民の大声は目(耳)に余る。今日は麗江の北12キロに位置するナシ族の古鎮・白沙に行くつもりである。茶馬古道の残映を求めて麗江にやって来たが、ここは人工的に作られたテーマパーク、これ以上歩き回ろうという気力も湧かない。白沙は代々麗江の支配者であった木氏の出身地である。いまだに伝統的なナシ族の静かな農村景観が保持されているらしい。自転車で行くことにする。天気も良いし、玉龍雪山を眺めながらペタルを踏むのも気持ちがよさそうである。 自転車はゲストハウスにあるマウンテンバイクを自由に使ってよいとのこと。ただし、まともな地図もなく、白沙への道はよく分からない。まぁ、北へ向かっていけば行き当たるだろうと軽く考えているのだが、張敏が心配して、「白沙へはどういったらいいのですか」と中国語で書いた紙を渡してくれた。9時出発、新市街の真ん中を南北に貫く香格里大道を北上する。緩やかな上り坂となった大きな通りである。道の先には玉龍雪山がその全貌を晒している。道は真っすぐに何処までも続く。途中、同じく北へ向かって自転車を漕いでいる若い二人連れと挨拶を交わすが、何せ言葉が通じない。 いい加減漕ぎ疲れたころ、ようやく郊外に出て、ロータリーとなった三叉路に突き当たった。道標があり、左を「束河古鎮」、右を「玉龍雪山」と標示している。右を選択する。東に向かって1キロも進むと、南北に走る道路に突き当たる。北、玉龍雪山へ進む。一直線のだだっ広い道が緩い登り坂となって何処までも続いている。通る車は少なく時々観光バスが追い抜いていく程度である。周りは家がぽつりぽつりある程度で人影もない。高く昇った太陽が容赦なく熱線を降り注ぐ。「この道を進めば、どこかに左、白沙に通じる道があるはずだが」と見当をつけているが自信はない。進むに従い、人家もまばらとなり、周りは広大な荒れ地の広がりとなる。段々不安が増す。雲南大学のキャンパスを最後に人家は絶えた。荒れ果てた草地が何処までも広がり、その中を道が真っすぐに玉龍雪山に向かって続いている。人影も全くない。出発してから既に2時間近く経っている。いくら何でもおかしい。不安が急速に増大する。 Uタウンして大学まで戻り、女子学生に張敏に書いてもらった紙を見せると、道をそのまま北へ向かう方向を指さす。「おかしいなぁ」、信じがたく、今度は男子学生に紙を見せる。やはり「道を北へ向かえ」という。半信半疑で、原野の中を進む。「これは少々ヤバイかなぁ」。行く手には見渡すかぎり人家も人影も見えない。不安が極限に達したとき、「白沙第一村」と書いた石碑があり、西に向かう小道が分かれているではないか。「白沙」ではなく「白沙第一村」とあるのが少々気になるが、何とか手掛かりを見つけてホットする。やれやれと草のまばらに生えた荒れ地に座り込み、玉龍雪山を見つめる。まさに上から下までスッポンポンである。 小道をしばらく進むと小さな集落に入った。しかし、「あれっ」と思ううちに集落を出てしまった。目的の白沙村ではなさそうである。「困ったなぁ、どうしよう」と、困惑したその時、細い石畳の道に行き当たった。しかも、「白沙壁画」との道標まである。やれやれ、これでどうにか白沙に辿り着ける。丸石を敷き占めた小道を進むが、極めて走りづらい。どうやらこの道は麗江古城から白沙に到る古街道「白沙街」なのだろう。道の両側に古びた家並みが現れ始めた。ナシ族の服装をしたおばさんが道端を流れる清流で野菜を洗っている。野菜を入れた篭を背負った老人がのんびりと歩いて行く。石畳の道は軽いカーブを繰り返しながらさらに続く。何やら荷駄を満載した隊商が今にも現れそうな雰囲気である。 石畳で激しく上下する自転車を懸命に操り、古街道を進むと、道を跨ぐ楼門が現れた。「白沙」の扁額が掲げられている。楼門を潜るとそこは石畳の広場となっていて、ナシ族の古びた民居がぐるりと取り囲んでいる。ついにやって来た。ここが白沙古鎮である。時刻は既に11時半、何と麗江から2時間半も掛かった。 広場に面した食堂に飛び込む。もう喉がカラカラだし、朝食抜きで来たので腹もぺこぺこである。食堂のお姉さん(英語が話せた)相手に、雑談していたら、近くにいた男がいきなり日本語で話し掛けてきた。びっくりする。「従姉妹の旦那が日本人なので習った」と言っていた。これ幸いと、日本語でしばし会話する。彼から聞いたところによると、『この村には漢族は居らず、全員ナシ族。日常話されている言葉はナシ語だが、年寄りを除いて漢語も理解できる。ほとんどが農家で、主として麦を耕作している。米は出来ない。女たちは夜なべに手芸品を作り、土産物として売っている。楼門の内側の集落が元々の白沙古鎮で、外側の集落は100年ほど前に出来た集落。ナシ族の伝統的宗教はトンパ教だが、自分も含めクリスチャンが多い。子供が多く、自分は11人兄弟の末っ子。祖母は114才でまだ元気』。最後に男が「自分の家は築300年、見に来ないか」というので行ってみる。典型的な四合院住宅で、作業場となった中庭の四方を2階建て住宅が囲んでいる。傍らでおばあさんが作ったという民芸品を売っており、それを買ってほしいというのが真意であったようである。 男と別れ、白沙壁画を見に行く。白沙はかつて木氏の本拠地であったため、その近郊に多くの壁画が残されている。中でも有名なのが大宝積宮にある壁画である。明代初期からナシ族、チベット族、ペー族、漢族の画家らが数百年を費やして共同で制作したものと言われる。大宝積宮は現在の小村・白沙には不釣り合いなほど大きなチベット仏教寺院であった。壁画は壁一杯に描かれた大きなもので、密教、道教、トンバ教の三教合一作品で釈迦を初め密教の孔雀明王、道教の道士やトンバの神様もいるとのことだが、素人眼にはどれがどれだかよく分からなかった。。 大宝積宮を出て、村内を歩く。広場から続く家並みも100メートルも北へ歩くと途切れ、畑の向こうに玉龍雪山がくっきりと聳えている。
4月10日(木)。泊まっているゲストハウスは、張敏と30歳代の男がマネージャーとして運営している。二人とも漢族である。そして、私を出迎えてくれた男と20才前後の女の子の二人の従業員がいる。二人ともナシ族である。見ていると、いじめに近い形で従業員をこき使っている。ここはナシ族の街といわれているが、支配層は完全に漢族が構成している。まさに、漢族による植民地支配を目の当たりにする思いである。 今日は麗江の西約50キロに位置する石鼓(シーグー)という金沙江右岸の小村に行く。ここは「長江第一湾」と呼ばれる場所である。長江(揚子江)は上流部において金沙江と名前が変わる。チベット高原から南に向かって流れてきた金沙江は、この地点で135度湾曲し、大きく方向を変える。そして、この地点こそ中国の数々の歴史が造られた場所でもある。雲南省と四川省の間は金沙江(長江)により隔てられている。この激流となって流れる大河を渡河することは極めて困難で、渡河可能地点は限られている。川が大きく湾曲するために流れが比較的緩やかになるこの長江第一湾もその渡河地点の一つである。それだけに、また、重要な軍事拠点でもあった。 遠く三国志の時代、蜀の諸葛孔明がこの地点で渡河し、雲南を平定したとの伝説が残る。また、1253年には、皇帝・フビライ自ら率いる元の大軍がこの地点で渡河し、雲南の地に栄えていた大理国を攻め滅ぼした。近代においては、1935年4月25日、「長征」途上にあった賀竜将軍率いる紅軍第二方面軍2万の軍勢が、この地点でついに長江を越えることに成功し、延安に到る「長征」を成し遂げた。 泊まっているゲストハウスの二人のマネージャーは旅行情報に全く疎い。ゲストハウスのマネージャーとしては失格である。昨日も、石鼓への行き方を聞いたのだが分からず、中国語のガイドブックを開くありさまである。結局、従業員の女の子が「石鼓までミニバスが出ているので、発着場まで案内する」と申し出てくれた。 8時過ぎ女の子とゲストハウスを出発、新市街に行く。市街のあっちこっちから近郊に向かう民間のワゴン車が発着している。所が、数カ所の発着場に行ってみたが、石鼓行きのワゴン車が見つからない。結局、40分も歩き回った末、バスターミナルへ行くはめになった。ここから本数は少ないが石鼓経由巨甸行きの公営バスが出ている。全く朝から振り回される。いい具合に、5分待ちで、9時発のバスがあった。 バスは19人乗りのミニバス、ただし乗客は7人だけである。車掌はおらずワンマンカーである。途中下車となるので運転手に石鼓で降りる旨伝えておく。郊外に出ると八重桜の並木道となった。ちょうど満開である。日本を出発したとき、ちょうどソメイヨシノが満開であった。今年は2度も花見が出来た。バスは麗江の西を塞ぐ低い山並みを登る。道路は到るところ工事中で、のろのろ運転である。山を越えると、大きな湖(拉市海)のある盆地に下った。拉市郷と呼ばれる山里である。桃の花が咲き、畑は菜の花の黄色で染まっている。そしてその先には、玉龍雪山が春霞の中にぼんやりと浮かんでいる。何とも言えない景色である。ただし、道は悪い。簡易舗装のガタガタ道で、おまけにあちこちで道路工事が行われている。この道は雲南とチベットを結ぶ国道214号線、すなわち昔の茶馬古道である。このため、大型トラックの通行も多い。もう少しまともな道でもよさそうに思えるのだが。 盆地が過ぎると、ヘアピンカーブを繰り返しながら再び山を登りだす。山肌は一面に松の純林である。登りきると大きく開けた高原状の地形が現れた。高度計は2750メートルを示している。大きくうねる大地は、ただ一面に麦畑とジャガイモ畑となっている。麗江を出発以来、乗客の乗り降りは全くない。大きな下りに入る。ジグザグを切ってグイグイ下る。長江の川底まで約1,000メートルの下りである。いったん小集落で傾斜は緩むが、すぐに急降下が再開する。やがて遥か眼下に金沙江(長江)の流れが見えてきた。感激の一瞬である。世界第三の大河・長江、この川に出会うのは初めてである。見え隠れしながら、大河はぐんぐん近づいてくる。 下りきると、道は二分する。右はチベットへ向かう道、昔の茶馬古道である。バスは左に折れ、小さな集落で初めて停まった。石鼓かと思い降りる素振りをしたら、運転手が「まだだ」と身振りで示す。金沙江の右岸沿いを進む。道が急によくなった。窓に顔をくっつけ、金沙江を見続ける。それにしても、石鼓は意外に遠い。50キロとのことなので1〜1.5時間で着くと思っていたが、既に出発してから2時間以上経っている。やがてバスは小さな街並に入り停まった。運転手が降りろと身振りで示す。 バスを降りたものの、観光地らしき雰囲気は全くない。観光客の姿も見られない。さて、何処へ行ったものか。道端には麗江をはじめ近郊各地に向かうワゴン車が多数停まっている。どこかに紅軍渡河記念碑があるはずである。露店のおばさんに聞くと、近くの小高い丘を指さす。入場料を払い丘に登る。そこには、紅軍兵士と櫓を手にした船頭が手をとりあっている像が立っていた。何とも好ましい像である。実際このような場面があったのだろうと想像出来る。今では「長征」などという勇まして言葉で呼ばれているが、実際は蒋介石軍に本拠地・瑞金を追われての果てしない逃亡の旅であった。このさまよえる軍団に手を貸した辺境の地の船頭たちにも明日への思いがあったのだろう。その後歴史は大きく動いて中国革命は成った。しかし、果たして、手を握りあった兵士や船頭の思いは達成されたのだろうか。誰もいない丘にたたずみ、歴史の一場面に思いをはせる。 この地点は小高い丘の上だけに、大きく湾曲する金沙江の流れが俯瞰できる。チベット高原を平行して南下してきた三本の大河、怒江(サルウィン川)、瀾滄江(メコン川)、金沙江(長江)のうち、金沙江のみこの地点で大きく方向を変え、その後長江と名を変えて東シナ海へと向かう。もし、この湾曲点がなかったら、中国の歴史も、世界の歴史も変わってしまっただろう。ついつい、こんなくだらないことを考えてしまう。 丘の麓に小さな博物館があり、石鼓の地名の由来となった鼓状の大きな石碑が飾られている。「漢柏玉」と呼ばれるこの石碑は、西から攻めてきたチベット勢力を撃退したことを記念して1561年に建てられたものである。川岸に大きな建物が見えるので行ってみる。観光船の運航施設のようだが、未だ営業はしていない様子である。建物の裏に回ると川辺に出た。エンジン付きゴムボートの乗り場があるが、乗客はおらず閑散としている。しばしの間、長江の流れを見続ける。川幅は200〜300メートルあろうか、流れは意外に速い。手漕ぎの船で向こう岸に渡るのはかなりの技術がいるのだろう。蒙古軍は羊の皮で造った船で渡ったという。羊曩(ようどう)渡江と呼ばれている。この流れはこれからいったいどれほどの長きにわたり旅を続けるのだろう。行く先は東シナ海だ。少し移動すると水辺に降りることが出来た。流れにそっと手を入れてみる。ついに長江に触れたとの思いが残った。 もはや見るところもなさそうである。帰ることにする。道端で何時来るとも分からぬバスを待っていたら、麗江行きワゴン車が発車の構えなので乗り込む。ただし、定員一杯の8人詰め込まれ、身動きも出来ない。最悪の乗り心地である。おまけにこの狭い車内でタバコを吸うわ、携帯電話をかけるわ、他人の迷惑など頭にない様子。それでも、2時間のドライブで麗江新市街のワゴン車溜まりに到着した。料金は20元であった。中国では、ベトナムやインドと違い、ボルということはないので安心である。
第六節 ナシ族の神の宿る山・玉龍雪山 4月11日(金)。今日はいよいよ玉龍雪山に行く。この山はナシ族にとっては神の坐す山であり、未だ処女峰であるとのことである。三日間この山を見続けたが、その神々しい姿は神の山の名に恥じない。主峰・シャンズィドゥ(扇子走 注 走はコザトヘン)の標高は5,596メートルである。麓から眺めて実に美しい山であるが、観光対象としてのこの山の最大の魅力は、その山頂直下4,506メートル地点までロープウェイで登れることであろう。私も今回、このことを大きな楽しみとしてこの地にやって来た。私のこれまでの最高到達地点は2003年10月に訪れたブータンのチェレ・ラ(チェレ峠)の3,988メートルである。今日は我が人生で初めて4,000メートルを越える。 昨日、張敏に玉龍雪山への行き方を聞いたのだが、全く要領を得ない。「バスターミナルへ行けばバスがある」などといい加減なことを言う。夜、改めて「張飛」に聞くと、「7路のバスに乗れ。乗り場は新市街の紅太陽酒店前」と、要領よく教えてくれたので安心する。 7時過ぎ、ゲストハウスを出発する。下働きの女の子以外、スタッフは未だ起きてこない。私以外お客がいないからといっても少々怠慢である。天気は雲一つない快晴。絶好の登山日和である。30分ほど歩いて、教えられた紅太陽酒店前の広場に行くと7路のミニバスが停まっていた。しばらく待っていると、何と、中年の1人の日本人が現れたではないか。カンボジアでアンコール遺跡の修復作業をしているとかで、休暇を利用しての1人旅とのことである。自ずと行動を共にすることになった。今回の旅で出あった唯一の日本人旅行者であった。 8時にバスは発車した。19人乗りのバスはほぼ満席だが、旅行者は我々二人だけ、他は大きな荷物を抱えたおばさんや楽器を抱えた若者である。車掌は若いアンちゃん、くわえタバコで切符を切る。バスは二日前にふうふういいながらペタルを漕いだ道を、眼前に聳える玉龍雪山目指して一直線に進む。30分ほどで玉龍雪山風景名勝区入り口ゲートに達した。係員が乗り込んできて、入場料190元+古城維持費80元の計270元(約4,500円)と安からぬ金額を徴収する。 再び走り出したバスは松林の中をヘアピンカーブを繰り返しながらグイグイ登っていく。やがてバスは広々と開けた高原状の地形に登り上げた。甘海子と呼ばれる3,100メートル地点で、玉龍雪山遊覧の中心となる場所である。バスはさらに奥の雲杉坪まで行くが、我々はここで降りる。目の前に、玉龍雪山が一点の雲もない青空をバックにデンと聳えたっている。何とも素晴らしい景色である。 150元(約2,250円)もするロープウェイの乗車券を購入して、待合室を兼ねた大きな施設に入る。内部は観光客でごった返している。公営バスでやってきたのは我々二人だけなのだから、大部分は観光バスでやってきたツアー客なのだろう。ただし、外国人の姿はない。売店では携帯用酸素ボンベが盛んに売られ、また有料で羽毛服が貸し出されている。私は日本から冬山用のダブルヤッケと手袋を持参してきた。準備万端である。ここからロープウエイ乗り場まで専用バスで行くことになる。場内放送によって、チケットに記載された番号順に乗り場に呼び込まれる。30分ほど待ってようやく我々の番が来た。バスは専用道路を登り、原生林の中の3,356メートル地点へと乗客を運ぶ。 ロープェイ乗り場で、さらに小1時間並ばされ、ようやく待望のロープウェイに乗り込むことが出来た。このロープウェイは多数の6人乗りゴンドラを連続的に運行させる形式である。全長2,968メートル、高度差1,150メートルで、1988年12月に完成した。終点は4,506メートル地点である。ガイドブックには「世界で最も高い地点までいけるロープウェイ」とあったが、調べてみると、南米のベネズエラには4,756メートル地点まで行けるロープウェイがある。ロープウェイはものすごい岩場の急斜面に設置されており、よくぞこれほどの所に架設したものだと、ほとほと感心する。ゴンドラは高速でグイグイ高度を増す。3,800メートル付近から雪が現れだし、松林がシラビソの林に変わる。4,000メートル付近が森林限界、日本の南アルプスの森林限界が2,700〜2,800メートルであるから、さすが南国である。眼下は雪と岩の世界に変わる。 30分ほどで、ゴンドラは終着点に到着した。恐々ホームへ降りる。ここはもう、4,500メートルを越える高所なのだ。幸い身体の変化も息苦しさも感じない。駅舎の外に出る。ただ一面の雪景色が広がっている。寒風が吹き寄せ、あわててヤッケのフードを降ろす。眼前間近には雪をまとった鋭い岩峰がそそり立っている。その上に広がる空は、青というよりも黒に近い。下界では見ることのない空の色だ。周りを少し歩き回ってみる。相変わらず息苦しさはない。「なぁんだ、こんなもんか」。夏には、この地点からさらに4,680メートル地点まで登れるとのことだが、今は雪のため登山道は閉鎖されている。30分ほど留まった後、満足して山を下る。下りきったロープウェイ乗り場は長蛇の列であった。 玉龍雪山風景名勝区内にはまだ見所はいろいろあるのだが、麗江に戻ることにする。ちょうどやって来た7路のバスに乗り込む。隣に座った北京からやって来たという74歳のおじいさんと年齢はシークレット答えた若い娘さんたちのグループとすっかり仲良しになり、筆談を繰り返す。ここまで行動を共にした日本人は、白沙へ寄るとのことで途中下車した。バスは12時半に終点の紅太陽酒店に到着した。 バスの終点から近いので、そのまま黒龍潭(ヘイロンタン)へ行ってみることにする。玉龍雪山の雪解け水が湧水となって造りだした玉泉と呼ばれる池を中心とした庭園である。清朝の乾隆年間(1737年)に造られた。ここから眺める玉龍雪山の姿が美しいことで知られている。入園料を払い園内に入る。典型的な中国式庭園で、池を囲んで得月楼、五鳳楼、解脱林、一文亭、五孔橋、鎖翠橋などの明.清年間に建築された建物が立ち並んでいる。遥か彼方に、春霞み霞んだ玉龍雪山がうっすらと浮かんでいた。境内では老人たちがカードや麻雀を楽しんでいる。 麗江古城に戻り、明日の虎跳峡ツアーの申し込みをするため、ゲストハウス近くの旅行代理店へ行く。本来、路線バスを利用して行きたいのだが、行き方がわからない。昨日、ゲストハウスで聞いてみたのだが、「バスターミナルから虎跳峡行きのバスに乗ればよい」などといい加減なことを言う。ターミナルへ行って調べてみると、虎跳峡行きバスは1日1本きりない。ということは、帰りのバスが確保できそうもない。ガイドブックには、「タクシーをチャーターするか、ツアーに参加するかせよ」とある。気は進まないが、ツアーに参加することにした。しかし、ツアーといっても中国人対象の中国語のツアーである。旅行代理店のおばさんは、案の定、英語はyes,noも通じない。何とか筆談で意志疎通は図れたがーーー。ツアー料金は昼食付きで200元(約3000円)であった。 四方街をふらついていたら、突然タイ語が聞こえてきた。思わず振り向くと、3人連れの若い女性がタイ語で会話している。意味もなく嬉しくなって、タイ語で話し掛けてしまった。タイからの観光客がいたとは意外であった。
第七節 長江の造る大渓谷・虎跳峡(フーティアオシア) 4月12日(土)。昨夜、ゲストハウスの中庭で従業員が友人達と盛大にパーティーを始めた。所が、11時を過ぎても騒ぎ続けている。うるさくて寝られない。堪忍袋の緒が切れて、文句を言いにいったのだがーーー。少々気まずい雰囲気となった。まったく、何というゲストハウスだ。騒ぎは12時過ぎまで続いた。おまけに、睡眠中ベッドから落ちて膝をしたたか打った。何と寝相の悪いことか。 今日も朝からいい天気である。8時に昨日の旅行代理店に行くと、おばさんが笑顔で迎えてくれた。若い女性に案内されて古城外の道路端でバスを待つ。やがて51人乗りの大型バスがやって来た。既に7〜8割の座席が埋っている。さらに2カ所で参加者を乗せ座席は満席になった。ただし、私の横だけただ一つ空席である。樂でいいのだが、何となく疎外感も味わう。私以外はすべて中国人、しかも、一人参加も私だけのようである。男のガイドが1人同行しているが、もちろん英語は話せない。 このツアーは長江第一湾+虎跳峡行きである。長江第一湾は一昨日行ったばかりなのだがーーー。バスは一昨日と同じ道をひたすら西に向かう。途中道路工事で片側1車線通行となって大渋滞。交通整理もされず、しかも互いに譲り合う精神もなく、我先にと突っ込んでくるので身動きが取れなくなる。相変わらず山里の桃の花と菜の花畑が美しい。玉龍雪山が春霞の中にぽっかり浮かび上がっている。やがて金沙江(長江)に下り着き、三叉路に達する。左、上流に向かえば長江第一湾、右、下流に向かえば虎跳峡である。バスは左に向かい、11時に長江第一湾に着いた。ただし、ゴムボート乗り場に20分ほど立寄っただけ、一昨日1人で来ておいて正解であった。ガイドがゴムボートに乗る者を募集し、8人がボートに乗って長江を下っていった。 バスは三叉路まで戻り、金沙江沿いの道を下流に向かう、川沿いのわずかな平地では盛んに苺の露地栽培が行われている。道端には苺を売る露店が点々と並ぶ。しばらく走ったら車は道端でストップ、ここで川を下って来る8人を待つという。しかし、なかなかやって来ず、停車は1時間に及んだ。ようやく発車したが、すぐに昼食のためドライブインへ。7〜8人掛けの丸テーブルが7卓用意されており、席は自由。こんな時、たった1人の外国人のおじさんは何処へ座ってよいやら、多いに疎外感を味わう。場違いのところに紛れ込んだ心境である。 再び走り出したバスはアーチ型の橋を渡って金沙江の左岸に移る。途端に道が素晴らしくよくなる。車窓から金沙江を見続ける。川面にはただ一艘の船も見られない。やがて国道214号線と分かれ、再び右岸に渡り返す。14時30分、ようやく虎跳峡の駐車場に到着した。ここから各自勝手に虎跳峡に行くことになる。再集合は16時である。 長江第一湾で向きを北へ変えた金沙江は、玉龍雪山(5,596メートル)及びその西側に聳える哈巴雪山(5,396メートル)にぶち当り、両山の間を深い渓谷となって無理やりに通り抜ける。この17キロにわたる深い渓谷が虎跳峡である。稜線から谷底までの高度差は3,000メートルにも達する。全長6,300キロにも及ぶ長江の流れの中で最大の渓谷である。この峡谷は川幅が狭まり、最も狭い場所では30メートル程度しかない。このため、猟師に追われた虎が飛び越えて逃げたとの伝説が残る。「虎跳峡」の名の由来である。虎跳峡は上流より順に上虎跳峡、中虎跳峡、下虎跳峡の3つに分けられているが、上虎跳峡には遊歩道が設けられ、観光地化が図られている。 駐車場を出発し、水面から20〜30メートル上の絶壁に刻まれた遊歩道を足早に上流に向かう。展望台まで2.5キロ程のはずである。この遊歩道は人力車に乗ることも可能で、同じバスに乗っていた何人かは人力車で私を追い越していった。進むに従い峡谷は深まり、左右の斜面はその角度を増す。到るところ「小心落石」の注意書きが見られる。ついに斜面は垂直となり、遊歩道は岩壁をくりぬいた半トンネル状態となる。完全なトンネルも3カ所程現れる。ちょうど黒部川下ノ廊下の水平道路と同じ様な景色である。しかし、その迫力は段違いに下ノ廊下が勝るが。ただし、流れている渓流が天下の長江だと思うと特別な感慨が湧いてくる。 約30分で展望台に到着した。渓谷が一番狭まった地点である。流れの真ん中には虎跳岩と呼ばれる大きな岩があり、激流に懸命に耐えている。岩を経由すれば虎ならば充分に対岸まで渡れそうである。対岸にも展望台が設置されているが、こちらの賑わいとは雲泥の差で、数人の人影が見えるだけである。早々にUターンして駐車場に戻る。 バスは時刻通り16時に帰路に着いたのだが、途中、何と宝石屋に連れていかれ、麗江古城に帰り着いたのは19時40分であった。明日はいよいよ麗江を離れ香格裏拉(シャングリラ)へ向かう。 (雲南3に続く) |