おじさんバックパッカーの一人旅   

中国・雲南の旅(3)  三江併流地帯 

 4,300メートルの峠を越え、梅里雪山の明永氷河へ

2008年4月13日

    〜4月16日

 
第五章 雲南省最北端・三江併流地域
 
 第一節 いざ、チベットへ

 4月13日(日)。大理、麗江という典型的な観光地の旅を終え、今日はいよいよチベット世界へ進む。金沙江(長江)の向こう側はもうチベットである。「チベット」というと、現在の「チベット自治区」と考えがちだが、本来のチベットの範囲はもっと広い。「チベット自治区」はチベットを植民地支配している中国(漢族)が、チベットを分割統治するために勝手に決めた行政区分に過ぎない。現在、「雲南省デチェン・チベット族(迪慶蔵族)自治州」という行政区分となっている雲南省最北部は、元々、チベット・カム地方の南部に当たり、「デチェン」と呼ばれていた地域である。今日はこのデチェン・チベット族自治州の州都と目指す。

 ただし、この州都の名称がまたややこしい。バスの行き先標示も「香格裏拉(シャングリラ)」「迪慶(デチェン)」「中甸(チョンティエン)」の三種類が混在し複雑である。さらに、昔も今も、この地に住むチベット族は、この街を「ギョルタン」と呼んでいる。この地を占領した中国はこの街を「中甸」と名付け、正式な行政名称とした。ところが、2002年、自治州政府は突然に街の名前を「香格裏拉」と変更すると発表した。その理由は笑い話である。「映画化もされ、世界的に有名となったジェームズ・ヒルトン著の小説『失われた地平線』の舞台となる理想郷・シャングリラとはこの街である」という何の根拠もない、妄想としか思えない主張である。中央政府もこの主張を認め、以降「香格裏拉」が正式名称となった。中国の文化程度を示すお粗末な笑い話である。

 お粗末な話しはさておき、デチェンに入域するにつき心配があった。3月14日にチベット自治区のラサにおいて大規模な騒乱が発生し、続いて甘粛省甘南チベット族自治州や四川省アバチベット族・チャン族自治州などのチベット族居住地域においても同様な事態が発生している。このため、現在、中国政府はチベット自治区への外国人の立ち入りを禁止している。しかし、デチェン地域については争乱のニュースも立ち入り制限のニュースもないため、入域について問題ないと考えていた。ところが、大理で出会った旅行者が「現在、デチェンには外国人は入れないらしい」と言っていた。「そんなバカなーーー」と一笑に付していた。現に、一昨日、バスターミナルへ香格裏拉までのバスチケットを買いに行ったが、問題なく入手できた。所が、帰国してから気がついたのだが、外務省の海外安全情報に次のような記事が掲載されていた。

 『雲南省のチベット族居住区域については、現在のところ暴動等が発生したという情報はありませんが、4月3日付けの同省外事弁公室からの在重慶日本国総領事館への通知によれば、観光客の安全を確保するため、同省迪慶チベット族自治州は現在一時的に観光客の受入れを停止しているとのことです。ついては、同自治州に渡航を予定されている方及び現地に滞在されている方は、最新情報を入手する等、安全確保に努めてください。また、危険な状況に遭遇した場合は、在重慶日本国総領事館に御連絡ください』

 どうやら、外国人のデチェンへの入域はこの時点では禁止されていたようである。
 

 第二節 香格裏拉への道

 朝8時20分、ゲストハウスを出る。ナシ族の下働きの女の子が手を振って見送ってくれた。他のスタッフはまだ寝床の中である。20分ほど歩いてバスターミナルへ行く。既に一昨日、9時10分発香格裏拉行きバスのチケットを入手ずみである。この真新しいバスターミナルは、大きさだけでなく、その機能が素晴らしい。なにしろ、すべての放送に英語放送が入るのであるから。まるで国際空港にいるような気分になる。ただし、利用者の中に英語を解せるものがいったい何人いることやら。

 バスに乗り込んで驚いた。一昨日、玉龍雪山で一緒であった日本人がいるではないか。しかも、席が隣どうし、不思議な因縁である。バスは定刻に発車、満席であるが、外国人は我々二人だけのようである。ここから香格裏拉まで約170キロ、約5時間の旅である。今日は晴れてはいるが雲が多く、玉龍雪山の山頂は雲に隠れている。昨日と同じ国道214号線を走り、約2時間で金沙江(長江)に達する。15分ほど右岸沿いの道を下流に向かって走った後、金沙江を渡ってデチェン・チベット族自治州に入る。途端に道は素晴らしくよくなる。さらに左岸沿いに15分ほど走って、トイレ休憩となった。

 すぐに、橋を渡って虎跳峡へ向かう道が分かれる。ここまでは昨日来たコースである。ここに検問所が設けられていたが、乗客を調べることもなく、運転手への事情聴取ただけであった。やがて、金沙江を離れ、流入する小中甸川に沿って奥へ進むと街並が現れた。虎跳峡鎮(橋頭)と地図にある街である。割合大きな街で、客桟も何軒かあり、乗り合いワゴン車も見受けられる。昨日虎跳峡に行った際、対岸にあった展望台にはここから行けるようである。知っていれば、昨日はこの街から虎跳峡に行って、ここに泊まるのだったが。後の祭である。

 沿うている小中甸川はかなりの荒れ沢で、所々崩壊跡を見る。バスの調子が悪いと見え、道端の修理工場に寄って15分ほど点検、大丈夫だろうか。やがてバスは沢筋を離れ、急斜面をジグザグを切って登りだす。断崖絶壁の道だがガードレールなどない。下はまさに千尋の谷である。恐怖感が湧く。その時、大音響とともに、すぐ目の前に落石、バスは急ブレーキをかける。落石の収まるのを待って通過する。危険な道だ。バスはさらに上昇を続ける。高度計は3,000メートルを越えた。

 3,400メートルに達すると、広々とした高原地形が現れた。チベット高原の一角に登り上げたのだ。荒れ地となったうねる大地が大きく広がっている。そして、目に入る情景も一変した。時々現れる小さな集落の家々の屋根にはタルシンがはためき、道端にはタルチョ(経文籏)たなびくチョルテン(仏塔)が見られる。見かける人々の顔つきは色浅黒い丸顔に変わった。明らかにチベット族の顔だ。草を食む牛の群れにはヤクが混ざる、放牧された馬の群れも見られる。野生なのか家畜なのか、ヤギの群れが崖に取りついている。ついにチベットにやって来たのだ。周囲に見える丘のような低い山並みにも残雪が斑に張り付いている。ということは、標高4,000メートルはあるのだろう。いつの間にか空はどんよりと曇り、風景は寒々としている。

 やがて行く手に大きな街並が見えてきた。香格裏拉だろう。14時15分、バスは香格裏拉のバスターミナルへ到着した。バスを降りてびっくりした。寒いのである。涼しいなどという程度ではない。長袖のポロシャツの上にセーターまで着込んでいるのだがそれでも寒い。考えてみれば、この街の標高は3,276メートル、日本第二の高峰・白根北岳の山頂よりも高いのだ。

 同乗の日本人はホテルを予約してあるとかでタクシーで去っていった。さて私も何処か宿を確保しなければならないが当てはない。ターミナルの石段に腰掛け、ガイドブックを開く。旅行社の客引きが何人か声を掛けてくるがゲストハウスの客引きは現れない。何と、雨がしとしと降ってきたではないか。寒さに震え、雨に打たれて侘びしさがつのる。地図によるとこの街は南に旧市街があり、その北側に新市街が広がっている。現在いるバスターミナルはその新市街の北の外れである。安宿は旧市街及びその周辺にあるらしい。タクシーを捕まえ「Tibet Cafe & Inn」へ行く。旧市街入り口にある安宿である。マネージャーの若い男は英語も話せ感じがよい。見せてもらった部屋は素晴らしい。しかも1泊80元(約1,200円)と安い。チェックインする。ただし、部屋に暖房がなく寒くて仕方がない。魔法瓶に入ったお湯をもらってきて熱いお茶を飲んでひと息つく。

 
 第三節 香格裏拉探索

 17時頃雨が止んだので、街に出てみることにする。セーターの上にダブルヤッケを着込んだがそれでも寒い。地元の人は羽毛服を着込んでいる。街の商店や役所の看板は漢字とともにチベット文字が副書きされている。マネージャーに「この街では日常何語が話されているのか」と聞いたところ、「チベット語」との答えである。この地は紛れもなくチベットである。街は旧市街と新市街に見事に分かれている。旧市街を歩く。この街も茶馬古道の要衝として発展した。麗江古城に比べれば街はずいぶん小さいが、その基本構造は同じである。街の真ん中に広場(四方街)があり、細い石畳の道が四方に延びている。古い木造建ての民家が軒を連ね、古い交易都市の雰囲気をよく残している。ただし、麗江古城が観光客で溢れんばかりの賑わいを見せていたのに比べ、香格裏拉の旧市街は閑散としている。寒さと、低く立ちこめた雨雲と相まって、何やら侘びしさが漂っている。連なる土産物屋を覗いてみると、いずれもチベッタングッズである。そしてまた、辻にたたずむチョルテンに「ここはチベットだ」との思いを強くした。

 旧市街の一角に大亀山という小高い丘がある。市内が一望できるというので行ってみた。「茶馬古道重鎮」と刻まれた石碑があり、頂に向かって急な階段が続いている。標高が高いためか、さすがに息が切れる。頂には朝陽楼という寺院風の楼閣があり、その脇に金色の巨大なマニ車がある。取り付けられた綱を力いっぱい引いてみたが、1人では回すことは出来なかった。高所だけに展望が素晴らしい。足下にはくすんだ板葺き屋根の旧市街の家並み広がり、その向こうに近代的な新市街が広がっている。その背後に、明日行く予定の松賛林寺の巨大な伽藍が微かに見える。街を取り囲む低い山並みには豊富な雪が見られ、春の訪れの遅さが感じられる。

 丘の麓に中心鎮公堂という寺院風の大きな建物がある。地元では蔵経閣とも呼ばれている。1714年建造の中国様式とチベット様式を合わせ持つ建物である。長征中の紅軍がここに司令部を置いたとのことである。そのためか、庭に僧侶と紅軍兵士が手をとりあっている像が建てられている。当時はその様な光景があったのかも知れないが、今となっては何ともよそよそしい像である。政権を取るや、中国共産党はチベットに侵攻し、チベット仏教を徹底的に弾圧した。その弾圧は今も続いている。そしてまた、チベット族の抵抗も続く。3月14日に発生したラサにおける争乱にその怨念をみる。

 この地に来るに当たって、密かな楽しみがあった。ここ香格裏拉は松茸の産地として知られている。ガイドブックには安く腹いっぱい食べられるとある。夕食にメニューをめくってみると期待通り松茸がある。喜んで注文したのだが、「今はオフシーズンでありません」。がっかりである。夕食後街に出てみた。部屋に閉じこもっても寒くて仕方がない。日の暮れた新市街をブラブラ歩く。高層ビルこそないが、近代的な街並である。デパートもあり、通りにはタクシーも多い。また小型の市内バスも頻繁に行き来している。にぎやかな音楽が聞こえる。行ってみると、街の中心の大きな広場で、大勢のチベット族の人々が輪になって踊っている。老いも若きも、男も女も。見物人などいない。皆、輪の中である。聞くところによると、この踊りの輪は毎晩毎晩続くとのことである。私には、「彼らは輪になって踊ることによって、チベット族の民族のアイデンティティを確認しているのだ」と思えて仕方がなかった。

 ゲストハウスに戻る。部屋は寒いが、ベッドには電気マットが備えられていた。外は再び雨が音を立てて降りだしている。
 

 第四節 ソンツェンリン・ゴンパ(松賛寺)

 4月14日(月)。今日は1日香格裏拉の街を探索するつもりである。朝起きると雨は止んでいたが、雲が低く立ちこめ、何しろ寒い。泊まっているゲストハウスのマネージャーは30歳ぐらいの若い男であるが漢族だという。その下に3人のチベット族の女性がいる。この街はチベット族の街ではあるが、やはり支配層は漢族が握っているようである。

 先ず向かうのは街の北4キロの丘の上に立つソンツェンリン・ゴンパ(松賛林寺)である。チベット仏教最大宗派・ゲルク派の寺院で、1681年にダライラマ5世により建立された雲南省最古にして最大のチベット仏教寺院である。丘の上に立つその壮大な伽藍の姿より「小ポカラ宮」の異名がある。多くのチベット寺院同様、文化大革命時に破壊されたが、最近急ピッチで復興が進んでおり、もとの姿を取り戻しつつあるとのことである。

 ゲストハウスの前より3路のバスに乗る。運賃は1元均一、小型のワンマンカーである。バスは新市街の街並を抜け、石畳のガタガタ道に入って行く。ソンツェンリン・ゴンパが近づいたところで、料金所があった。運転手が、「バスを降りてチケットを購入して来い」と身振りで指示する。入場料は30元(約450円)。すぐに終点である寺院前広場に着いた。

 見上げる丘の上に巨大な伽藍が折り重なるように聳えたっている。確かに、ラサのポカラ宮によく似ている。広場には民族衣装に着飾ったチベット族の女性が、写真のモデルとなるべくヤクやチベット犬を連れて待っている。もちろん有料であるが。ヤクもチベット犬も長いふさふさした毛を持つ寒冷地に適応した動物である。山門を潜り、塀で囲まれた境内に入る。長い階段が、丘の上の伽藍めがけて一直線に続いている。平地を歩く分には何も感じないが、登りとなるとにわかに息苦しさを感じる。ここは3,300メートルの高地なのだ。

 立ち並ぶ伽藍の中央に聳え立つのは扎倉と吉康の二つの大殿で、五階建てのチベット式の建築である。大殿内部に入る。約1,600人が収容できるという広大な空間が広がり、壁にはチベットの伝統的な黄色と青を主とした色とりどりの絵が描かれている。正面にはいろいろな仏像が祀られていて、その一つ一つに祈りを捧げていく。仏像の前に1人の老僧が座しており、人々はその前に跪いて五体投地の礼を取る。こうなれば私も逃げるわけに行かない。老僧の前に進み、跪いて手を合わすと、老僧は経を唱えながら手首に数珠を掛けてくれた。どうやらこの老僧はポンド・リンポチェ(崩主活仏)という偉い坊さんらしい。手首に巻かれたこの数珠が今回の旅の安全を護ってくれるであろう。

 境内を歩き回る。参拝者に混じり多くの僧侶が行き来している。この寺には500人もの僧が修業に励んでいるという。大理の崇聖寺とは異なり、ここは生きた寺である。境内のあちこちに崩れかけた土壁が見られる。文化大革命時に破壊された跡なのだろう。丘の上だけに展望が素晴らしい。眼下に香格裏拉の街が広がり、その背後には雪の残る低い丘陵が続いている。満足して、長い階段を下りだすと、何と、あの日本人が登ってくるではないか。立ち話となった。タクシーをチャーターして市内及び周辺を回っているとのこと。私の旅とは少々違うようだ。3路のバスでいったんゲストハウスに戻る。

 明日はどうしようかと考えた。香格裏拉の街中にはソンツェンリン・ゴンパ以外特に見所はない。郊外には白水台(パイシュイタイ)、碧塔海(ビーターハイ)などの見所もあるが、いずれも交通不便である。ツアーでもあればと思っていたが、この街にはツアーはなさそうである。タクシーをチャーターしてまで行く気もおきない。考えているうちに、この寒々とした街を一刻も早く逃げ出したくなった。明日は徳欽(デチェン)に行こうと決心した。

 チケットを得るため、1路のバスに乗りバスターミナルへ行く。どうせ英語は通じないだろうと、メモ用紙に書いて窓口に差し出したら、係りのお姉さんは流暢な英語で対応してきた。英語の通じない中国にあって、昆明でも麗江でも香格裏拉でもバスの切符売り場のお姉さんは英語が話せた。何か不思議だ。切符販売窓口がそれほど上級な職種とも思えないのだがーーー。

 旧市街の背後に盛り上がった小高い丘の上に小さなチベット仏教寺院がある。展望が素晴らしいとガイドブックにあるので、行ってみる。この辺りの山々はいずれも樹木はなく、草地になっている。未だ冬枯れのままの草地の急坂を登る。息が切れる。昔は富士山を駆け上がったものだがーーー。30分ほどで山頂の寺院に着いた。この寺はガイドブックでは「北鶏寺」とあるが、途中にあった道標には「百鶏寺」とあった。どちらの名前が正しいのやら。素晴らしい展望が待っていた。眼下に、寒々とした香格裏拉の街並が広がっている。満足して山を下る。山の稜線に沿って崩れた土塀が何処までも続いている。おそらく昔の城壁の跡なのだろう。何と、雨が降りだしてきた。寒さが一層身にしみる。

 
 第五節 4,300メートルの峠を越えて徳欽(デチェン)へ

 4月15日(火)。今日はいよいよこの旅の最終目的地・徳欽(デチェン)に向かう。茶馬古道の要衝にして雲南省最北の街である。すなわちこの街の先はもうチベット自治区であり、現在、外国人は入域できない。徳欽は一般旅行者が行く街ではなさそうで、ガイドブック「地球の歩き方」にもこの街は載っていない。ただし、雲南省とチベット自治区の境に聳える梅里雪山を一望するためにはこの街まで行かざるを得ない。この旅の三つ目のキーワード「17人の友を探して」を果たすために、私はこの街に向かう。

 徳欽はまた「三江併流地域」の中心に位置する街でもある。チベット高原に源を発する三つのアジア有数の大河、すなわち金沙江(長江)、瀾滄江(メコン川)、怒江(サルウィン川)は雲南省北部において約170キロにわたって併流している。各河川の間隔は最短距離で、瀾滄江と金沙江は66キロ、瀾滄江と怒江はわずか19キロしか離れていない。このため、「四山併立、三江併流」と称される世界でも特有な自然景観になっている。このような地形は動植物の多様性をもたらし、動物791種、植物約6,000種がリストアップされている。また、16の少数民族(チベット族、ナシ族、リス族、イ族、ヌー族など)計300万人が住み、多様な風俗や習慣が共存する世界でも珍しい多民族・多言語・多宗教の地域でもある。このような理由によりこの「三江併流地域」は2003年7月世界遺産として認定された。

 朝起きると、相変わらずどんよりとした天気である。ゲストハウスの前より1路のバスに乗りバスターミナルへ行く。昨日、9時20分発の徳欽行きチケットを取得してある。待つほどにバスが入線した。41人乗りの普通バスである。満席だが外国人は私1人のようである。車掌はおらずワンマンカーである。私の席は一番前、実に展望がよい。徳欽まで約200キロ、7時間の旅であるが、このバスの旅はかなりハードとなりそうである。何しろ途中4,292メートルの峠を越えていくのであるから。発車するとすぐに、運転手はタバコをくわえ、携帯電話をかけだした。危なかしくって見てられない。

 郊外に出るとすぐに広大な草原の広がりが現れた。未だ若草は萌え出でていないが、無数の馬と牛の群れが枯れ残った草を食んでいる。草原の奥は大きな水溜まりのような湖水が広がっている。ここはナパ海(納怕海)と呼ばれる場所で、雨期には湖水が広がり、乾期には大牧草地となって多くのチベット族が放牧にやって来るとのことである。ナパ海を過ぎるとバスは谷筋に添って山を登りだした。標高3,500メートルを越えると道端には雪が現れだす。峠を越えると遥か彼方に雪山の連なりが見えた。白芒雪山(5,137メートル) 辺りであろうか。すると突然スキー場が現れたではないか。意外な施設の出現にびっくりする。既に営業は停止していたがゲレンデにはまばらに雪が着いていた。天気は幾分回復し、時には薄日が差すようになった。

 ここから金沙江(長江)まで高度差約1,500メートルを下ることになる。バスは斜面に点在する小集落を縫いながら徐々に高度を落としていく。集落の景観が素晴らしい。到るところに満開の花をつけた梅の木が見られ、大きな方形の白壁の家々が多い。屋根にはタルチョがはためき、どこかブータンの景色に似ている。尼西というちょっと大きめの集落で検問があった。兵士がバスに乗り込んできて1人1人チェックする。私には何も言わなかった。

 大きくジグザグを切って谷底めがけた急な下りとなった。舗装されているものの道は余りよくない。荷物を満載した大型トラックが多い。開けた谷に下りきると小規模な麦畑を見る。「幸福村」と標示のある小村を過ぎると渓谷沿いの道となった。垂直に切り立つ岩壁に無理やり刻まれた凄まじい道を下流に向かうと、少々大きめの渓谷に合流した。最初気がつかなかったのだが、この渓谷こそ天下の長江(金沙江)であった。虎跳渓以来の再会である。高度計は2,100メートルを割っている。金沙江を橋で渡ったところで大掛かりな検問があった。金沙江に架かる橋はめったにないであろうから、検問場所としては最適な場所なのだろう。今度はパスポートの提示を求められた。

 金沙江の右岸沿いを進むと、次第に谷が開けてくる。11時45分、ドライブインで30分の昼食休憩となった。長い長い登りに備えて、バスには大量の冷却水が補充された。発車してすぐに奔子欄(ベンズーラン)の街並に入った。小さな街だが何軒かの客桟もある。香格裏拉以来初めての街らしい街である。さて、いよいよここから金沙江に別れを告げ、4,292メートルの峠へ向けて約2,300メートルの登りが始まる。

 バスは急斜面をジグザグをきりながらグイグイ登って行く。金沙江の流れが見る見る眼下となる。周りの山々は全く草木のない茶色一色の岩山である。いかにもチベット的な荒涼とした、かつ壮大な景色である。登るに従い、金沙江の刻んだ谷が如何に深く、如何に雄大であるかを知ることが出来る。さすが天下の長江だとの思いを新たにする。標高2,700メートルに達すると、斜面にへばりつくように建つ東竹林寺(トントゥプリン・ゴンパ)が見えてきた。1667年にダライ・ラマ五世によって建立されたゲルク派の寺院で、500人の僧侶を抱える大寺である。

 バスは再び荒涼たる山肌に刻まれた道をひたすら登り続ける。もはや人家は見られない。道は大型車がぎりぎりすれ違える程度、ガードレールなどない。下は千尋の谷でありスリル満点である。もはや運命をバスに託すしかない。過積載と思われる大型トラックの通行が多い。ラサまで行くのだろうか。この道は眞蔵公路(注 眞はサンズイ)、雲南とチベットを結ぶ主要国道である。もちろん、昔の茶馬古道である。標高3,300メートルに達すると、道はなぜか石畳に変わった。茶馬古道の名残なのか、はたまた、アスファルトは積雪に弱いためか。標高3,500メートルに達すると雪が現れだした。バスは大きく開けた谷間の上部をウンウンいいながら登って行く。

 行く手遥かに雪をかぶった峠が見えてきた。ついに高度計は4,000メートルを示した。この辺りが森林限界になっている。もう峠は目の前だ。付近はゆったりした大きな尾根が複雑に絡まっている。峠と思われる地点に登り上げたが、何の標示もない。あれ! と思ったら、さらにその先に峠らしき地形がある。何処が峠の中心ともわからないだだっ広い雪のプラトーに達した。タルチョのはためく石積みのケルンがあり、「区界」と「標高4,292メートル」の標示があった。ここが目指す峠である。すなわち金沙江と瀾滄江の流域を分ける分水嶺である。この峠の名前がはっきりしない。地図にも峠名の記載はない。各種旅行記にはこの稜線の最高峰・白茫雪山(5,137メートル)の名前を冠して「白茫雪山峠」とか「白茫峠」とか記しているが、正式名称ではなさそうである。ちなみに、車の越える世界最高所の峠はボリビアにある約5,600メートルらしい。

 峠に興奮しているのは私だけのようで、他の乗客は何の関心も示していない。バスもそっけなく通過して行く。目の前に聳えているはずの白茫雪山も雲の中と見えて姿を現さない。峠を越えると同時に、目の前に梅里雪山の連なりが現れた。白き山々が雲の間から見え隠れしている。明日が楽しみである。道は一転して急な下りとなった。すぐに石畳からアスファルト舗装に変わる。4,000メートルまで下ると、貧相な開拓部落が現れ、道端のトイレで10分ほどの休憩となった。さらに下ると文明村との標示の見られる小村に達した。ここに、「十三白塔観景台」という13基のチョルテンの並ぶ展望台がある。梅里雪山連峰が全貌を晒しているのだが、もちろん、バスは停まってはくれない。

 やがて眼下の谷底に街並が現れた。徳欽である。バスは急坂をグイグイ下り、16時、小さな街並の中のバスターミナルー着いた。先ずは宿を探さなければならない。この街の標高は3,300メートル、ほぼ香格裏拉と同じであり、日が暮れると寒さが襲ってきそうである。たまにはまともなホテルに泊まりたい。この街の唯一の星印ホテル(三つ星)・彩虹大酒店に行ったのだが、「本日は満室です」と流暢な英語で断られてしまった。街中で見かけた梅里酒店へ行く。受付の女性は英語をひと言も話せなかった。部屋も余りきれいとは言えず暖房もない。ただし、電気マットがあり、お湯が豊富に出てバスタブまである。1泊80元(約1200円)と安いのでチェックインする。

 明日、明永氷河へ行くつもりなので、フロントの女性に行き方を筆談で苦労しながら聞くと、「明永行きバスがターミナルから8時、9時、10時に出る」との答え。「おかしいなぁ、到着時にターミナルで確認したのだが、明永行きは14時30分の1本だけであったが。民営のマイクロバスが出るのかな」。そのまま街に出る。この街も茶馬古道の重鎮である。街は谷底に位置するため、残念ながら梅里雪山を望むことは出来ない。街並は200〜300メートルのメインストリートとその周辺だけの人口1万人の小さな街である。その割にはタクシーの姿が目立つ。街は西から東に大きく傾斜しており、標高が高いだけにこの坂道を歩き回るのはかなり大変である。観光地ではないので土産物屋の類いは一切ない。西の端に市場がある。歩き回ってみたら、何と、食肉用として篭に入れて生きた犬(狗)を売っている。そういえば、麗江の街角で「狗肉」の看板を掲げた食堂を見かけたがーーー。日が暮れると寒さが襲ってきた。

 
  第六節 梅里雪山(メイリーシュエシャン)と「17人の友を探して」

 4月16日(水)。朝起きると快晴の空が広がっていた。この日だけはどうしても晴れてほしかった。我が願い天に通じたようである。今日はいよいよ梅里雪山の明永氷河を目指す。この旅の最終目的地である。梅里雪山は雲南省とチベット自治区の境に聳える急峻な山塊である。6,000メートル峰が13座連なっているので「太子十三峰」とも呼ばれる。最高峰は「カワカブ(カワカルポ)」の6,740メートルである。このカワカブは雲南省の最高峰でもある。

 カワカブはチベット族にとって聖なる山である。チベットにある八大聖山の一つで、西の横綱がカイラス山としたら東の横綱はこのカワカブといってもよいほど東チベットの人々に信仰されている。人々は10月半ば、雨期が明けるとカワカブ一周巡礼の旅に出る。4千メートルを越える雪の峠を幾つも越える半月掛かりの命懸けの巡礼である。2003年には10万人以上の人々が巡礼に訪れたという。

 そしてまた、この山は日本海外登山史上最悪の遭難を引き起こした山として知られている。手元に1冊の本がある。「『梅里雪山 十七人の友を探して』小林尚礼著 山と渓谷社」である。以下この本に基づいた記載である。(素晴らしい本です。是非一読を!)
  さほどの聖山を無謀にも登頂しようとした者たちがいた。京都大学学士山岳会である。日中合同登山隊を編成し、1990年12月、地元チベット族の激しい反対を国家権力をもって押しきり、強引に山へと分け入った。しかし、5,100メートル地点の第三キャンプに結集した17人の登山隊は、1991年1月3日午後10時の交信を最後に連絡を絶つ。日本海外登山史上最悪といわれる遭難である。当然、この遭難に対し、地元チベット族は「神のたたり」「ざまあみろ」と冷たい視線を投げ掛けた。

 この遭難に懲りず小林尚礼氏を中心とする京都大学学士山岳会は1996年、再び日中合同登山隊を組織して復讐戦を挑む。地元民の反発に対し、自動小銃で武装した中国公安官を同行するほどの強引な登山である。しかし、この登山も失敗する。ところが、1998年に到り、カワカブ山頂直下から落下する明永氷河末端近くで、遭難した登山隊の遺体が次々と発見される事態が生じた。以降、小林尚礼氏はカワカブ麓の明永村に通い詰め、また長期に渡り滞在し、遺体収容に努める。最終的に、現在まで、16人の遺体を回収するのだが、その長期にわたる遺体回収作業の過程で地元チベット族の人々と心の触れ合いを強めていく。そして「聖山とは何か」を考える。

 『「カワカブに登ることは、誰であろうと許さない!」彼は足を止めて僕を睨みつけた。「聖山とは、親のような存在だ。親の頭を踏みつけられたら、日本人だって怒るだろう。俺たちチベット人が、なぜ命を賭けてカワカブを巡礼するかわかるか!」一瞬僕はたじろぐ。己の存在を賭けたようなチャシの言葉に圧倒された。』

 カワカブは未だ処女峰のままである。

 
  第七節 明永氷河を目指して

 明永行きのバスがあるとのホテルのお姉さんの言葉を信じて、8時のバスに乗るべくバスターミナルへ行ったのだが、それらしきバスは見当たらない。チケット売り場のお姉さんに(筆談で)聞いてみると、やはり14時30分のバスしかないとのこと。どうも、何か行き違いがあったようである。筆談であったし、チベット族にとって漢語は母語でもない。ホテルに戻り改めて行き方を相談する。結局、タクシーをチャーターすることになった。元々、計画ではそのつもりであった。1日200元だとのこと。ずいぶん安い。300元は覚悟していたのだがーーー。電話をしてもらい10分ほどでタクシーがやって来た。人のよさそうな若い運転手である。もちろん言葉は通じない。8時10分出発。谷底の徳欽からグイグイ高度を上げていく。時折、放牧地へ向かう牛の群れが道路を塞ぐ。抜けるような青空が広がっている。素晴らしい展望が期待できそうである。梅里雪山は11月〜3月の乾期を除いて、すっきり見える日は少ないと聞いている。何と幸運なことか。

 20分も走ると、尾根末端に位置する飛来寺村に達した。ここには飛来寺という古刹がある。ただし、見学するのは帰りだ。晴れている間に、一刻も早く梅里雪山に行きたい。尾根を大きく回り込むと大展望が待っていた。飛来寺の展望台である。運転手は当然のごとく車を停め「どうだ、これがカワカブだ、俺たちの神の坐す山だ」とでも言うように、私に向かってにっこり微笑む。ドアを開けるのももどかしく、外に飛びだす。大きな谷を隔てた向こうに、真っ白な山々が連なっている。遮るものは何もない。その山並みの中央にひときわ高く天を突き刺す秀峰が、紛うことなくカワカブである。寒さも忘れただ山に見入る。

 一番左、鋭い穂先となって天に突き上げているのがメツモ(6,054メートル)、カワカブの妃とされる美しい山である。その右隣の山頂部がグジャグジャになった変わった山がジャワリンガ(5,470メートル)。山並みはいったんニセヤグ峠(4,600メートル)に落ち込み、再びプジョン・ソンジェウーショ(6,000メートル)に盛り上がる。しばらく平坦な稜線が続いた後、一気にカワカブへと盛り上がる。その山頂直下から麓に向かって滑り落ちる大きな雪の斜面は明永氷河であろう。稜線はメリツモ(6,379メートル)の盛り上がりを最後に高度を下げてなお、右へ長く続く。

 展望台には数個のチョルテンが建ち、タルチョがはためいている。この場所は、今は展望台などといわれているが、元々はカワカブを拝礼する聖なる場所であるのだろう。その時ふと気がついた。梅里雪山ばかりに気を取られていたが、足下から深く切れ込んでいる巨大な谷こそ、瀾滄江、すなわち、メコン川のはずである。今日はこの川に再会することも大きな楽しみの一つである。

 ここから瀾滄江の谷底までの標高差1,500メートルを一気に下ることになる。谷に落ち込む急な斜面に無理やり刻まれた道を進む。もちろんガードレールなどなく、下は千尋の谷である。所々落石の跡もある。周りは岩肌剥き出しの荒涼たる景色である。カーブを繰り返しながら次第に高度を下げていく。梅里雪山は常に視界の中にある。早朝のためか、通る車はほとんどない。

 三叉路に達した。道標が真っすぐ進む道を「西蔵 85公里」と示している。我がタクシーは大きくUターンして、なおも谷底へ落下し続ける。下れども下れども、谷底は異常に深い。これでもか、これでもかと、下り続ける。ついに瀾滄江の流れが見えてきた。泥水を解かしたような真っ茶色に濁っている。中流や下流でもこの川の流れはこの色であった。長江の青みを帯びた色とは明らかに違う。同じチベット高原から流れ出しているのにこの違いは何なのだろう。ついに谷底に下りきった。ここの標高は約2,000メートルである。料金所があり、入域料60元(約900円)を徴収される。橋を渡り右岸に移る。下流へ続く道は雨崩村へ、明永氷河へ続く明永村は上流に向かう道である。

 9時30分、ようやく明永村に到着した。思った以上に観光地化しており、土産物屋、食堂、客桟がある。立派な駐車場も整備されていた。ここから明永氷河まで標高差約800メートル、片道約8キロ2時間ほどのハイキングである。馬がたくさん控えていて、引き馬でも行ける。馬方が声を掛けてきたが、もちろん、私は歩いて行くつもりである。背中のサブザックには雨具と出かけに買ってきたペットボトル入りの水と昼食用のパンが入っている。準備万端である。歩き出そうとしたら、運転手が「これをもっていけ」と飲み物と菓子を渡してくれた。実に感じのよい若者である。

 氷河から流れ出す谷川の左岸沿いの小道を奥へ進む。木々に包まれた谷で、新緑が実に美しい。はじめは緩やかだった道も次第に傾斜を増してくる。道は確りしているが馬の糞だらけである。どうも思ったほどの速度で歩けない。引き馬にどんどん抜かれ、若者のグループにも抜かれ続ける。1人で登っている者もいないし、まして外国人の姿なぞない。谷は次第に狭まり、桟道も現れる。徳欽へのバスで一緒であった4人連れの若者に追いつかれた。向かうも覚えていて声を交わすが、何せ言葉が全く通じない。1時間も歩くと、数頭の馬が待機している場所に出た。歩くのを諦めて、ここから馬に乗る者を当てにしているようである。傾斜がますます増し、ジグザグの登りを繰り返すようになる。谷の奥にはカワカブの一部なのだろう、雪のピークが見えている。

 11時45分、小さな寺院の建つ広場に到着した。馬もここが終点である。谷の奥の高所に展望台がみえ、そこに向かって急な桟道が続いている。寺院の裏手に回り込むと、すぐ目の下に、ついに明永氷河が見えた。末端は真っ黒に汚れている。そして、その上方に、初めてカワカブが姿を現した。ヒィーヒィーいいながら展望台まで行くと、ここは第一展望台、その奥に第二展望台、さらに奥に第三展望台と続いているではないか。こうなれば意地でも一番奥まで行ってやる。のろのろと登り続ける。12時10分、ついに最奥の展望台に到着した。ここまでやって来る者は半分程度で、第一、第二展望台を終着としているものが多い。

 目の前に明永氷河がその迫力ある姿を晒している。表面はでこぼこで、氷塊が積み重なったような情景である。視線を少し上げると、凄まじいアイスフォールが落下している。まさに氷塊の滝である。そして、その遥か上空にはカワカブの鋭い山頂部が天を突き刺している。氷河とは雪渓の大きなもの程度に思っていたが、全く別物と思い知った。ただただ、氷河を見続ける。その時、大音響とともにアイスフォールの一部が崩壊した。展望台は日がぽかぽか射して暖かい。17人の遺体は、この氷河の流れに乗って5,100メートル地点から、7年の月日を掛けて、ここ3,100メートル地点まで流れ着いた。17番目の遺体は未だこの氷河のどこかに眠っているはずである。

 ここが、今回の旅の終着点、後は日本に向かって引き返すだけだ。12時30分、思いを断ちきって、展望台を後にする。帰りは早い、14時には明永村に帰り着いた。運転手は日陰に車を停めてすやすやとお休みであった。徳欽まで行くという男を1人拾って、車は猛スピードで崖っぷちの道を飛ばす。怖くて怖くて思わず目をつぶってしまう。飛来寺の展望台で再び車を停めてくれた。幾分雲が掛かり始めた梅里雪山は、朝方のスッポンポンの姿よりむしろ格好良く見えた。1キロほど先に進んだ飛来寺の前で再び車を停めてもらう。この寺は1614年に創建された古刹である。行ってみると、意外に小さな寺で、数人の老人が祠を周りながら参拝していた。16時にホテルに帰り着いた。満足できる一日であった。
  

         (雲南4に続く)

 

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