温泉の町・下田へ 〜平成三年八月〜
(一)
「なあー、今月いつか一泊旅行でもしょうカー。おまえんとこと俺んとこの、おやじやおふくろ達も一緒にー。下田の温泉なんかどがんだろか? ・・・・たしかあの当たりに旅館が建っとったばってん、あそこに電話すればまーだ間に合わんだろか。」
「そうねー、新婚旅行以、来旅行らしか旅行ばしたこつなかけんねー。」
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勤務している学校が夏休みに入って間もない八月のある日、わが家で行われた会話である。夏休みと言えば家族旅行を計画する家庭は多いもの。当然どこの旅館やホテルも予約が殺到するのが常だ。それを今頃になって旅行を思い立って、うまい具合に予約が取れるだろうか、多少不安はあったがとにかく電話を入れてみた。「もっと早くから、用意周到に計画すべきだったかな・・・・。」、自分の暢気さ加減に自分で呆れる事はよくあるが、何故かこの時はプッシュホンのピッ、ピッ、ピィーという発信音までもが、自分に反省を促しているように聞こえた。
今年四月に天草の本渡市内の学校へ転勤して来て以来、下島内のあちこちへ思いつくまま行ってみた。仕事柄、平日の長期休暇は取りにくいし、金銭的余裕もないので、あまり派手な旅行や遊びはできない。主に、土曜の午後や日曜日に、車で行ける範囲へ女房と二人で出掛けて来た。西海岸に沈む夕日は素晴らしいと言うことは、かねがね私も聞いていたので、こちらへ来た当初、写真の好きな私は、カメラバッグを持って週末の度に出掛けて行ったものだ。そしてその度に美しい風景を楽しむことができたし、海岸沿いの風光明媚な場所がどこにあるのかを知ることもできた。また、海岸の風景を楽しみながら軽い食事を取るのに都合の良い喫茶店を見つけることもできたし、どの当たりにどんな旅館や国民宿舎があるのか、およその見当がつくようにもなって来た。そんな事をして四カ月過ごすうちに、私たち夫婦は、熊本市内に住んでいたころにテレビのコマーシャルやグルメ番組などで目にしていた観光旅館が、今自分たちの住んでいる本渡市からほんの目と鼻の先にあるという現実に気づいたのである。さらにまた、ちょっと暇つぶしにドライブする度にそのような観光旅館の前を通り過ぎているうちに、だんだん「あーっ、いつでも泊まれる」という感覚になって来たのである。今回の家族旅行は、確かに手を打つのが遅れた観があった。・・が、そうなるに至るには、以上のような心理が私に働いたからではあるまいか。
・・・・とまあ言い訳はともかく、電話の結果はというと、これがまあ意外にも簡単に予約が取れてしまった。我々夫婦と、それぞれの実家の両親、計六名二部屋分いともあっさりと。「日頃の行いのせいかな・・・・」なんていう事を私たちは夫婦で言い合った。これまた暢気なものである。・・・・まあこんな風にして私たちの温泉町下田への旅は始まった。