(一)タモ
その時私は釣り具屋の商品棚の前で迷っていた。片手にはさっき買ったばかりのエサと、まき餌が入ったビニール袋をぶらさげて。私の見つめる商品棚には大きな釣り用の「タモ」がズラリと並んでいる。1キロのチヌでも2キロのクロでも、スッポリ入る、どれもそれ位その「口」は大きいし、頑丈そうだ。ただし値は高い。品物と正札を見比べながら、買おうか、買ういか迷っている私だったのだ。
釣り用品の一つである「タモ」、それは長く伸ばしたり短く収納したり自由に調整できる棒の先に、丸く大きな網を付けたものである。形はそんな説明でだいたい分かるとして、釣りをしない人には、いったいそれを、どんな時に何のために使うのか、全く分からないであろう。敢えてここでその説明に字数をさくことにする。こうである。分かりやすいように堤防での釣りを例にする。 海には当然の事ながら潮の満ち干きがある。干潮になると水位はグット下がり、釣り人の立っている位置よりも何メートルも下になってしまう。場所によっても違うが、私が知っている大多尾漁港の堤防では、水面と釣り人の足元の高低差が五、六メートルになることすらある。そんな潮の状態で、キロ級の大ものがかかったとしよう。リールで何とか水面まで獲物を引き上げることはできても、それを空中に持ち上げて、足元まで引き上げることはとてもできない。魚の重みで竿がしなり過ぎるからだ。無理に持ち上げようとすると、糸が切れることもある。そんなとき伸縮自在な棒の先に網を付けた「タモ」を使って水面まで引き上げた魚を「すくう」のである。
「タモ」、その一般的機能の説明をするとすれば以上がほぼ全てである。がしかし、私個人としてはこの「タモ」はもう一つ別の機能をもっていると思っている。それは「タモ」に対して私個人が持っている「感情」とでも言った方が良いかもしれない。即ち、釣り場で持ち歩かれている「タモ」は、それを持っている釣り人が過去に大物を釣った実績があり、今も大物を釣るつもりでこの釣り場にやって来ている、そんなことを周りの釣り人にアピールする機能も持っている気がするのである。
「タモ」、それは釣り人が初心者か実績のある玄人なのかを見分けるシンボルでもあるのだ。私にとっては、柔道で言う「黒帯」のような存在なのである。だから「タモ」を持つためにはそれなりに資格がいる、そう私は思っている。その資格とは、もちろん自他ともに「大物」と認める魚を、「タモ」無しでは竿がひん曲がって上げられない魚を、一匹でよいから釣ることである。それなしで「タモ」を持ち歩くことは、実力も無いのに道具ばかりをそろえるという素人の浅はかさを(またこの「タモ」は値段も高い。どうかすると竿より高い)、まわりに露呈しているようで、黙っていれば他人には分からないことであるとは言え、私にとっては何となく後ろめたい事なのである。
私は天草に来て、やがて二年になろうとしている。そして、ここへ来るのとほぼ時を同じくして釣りを始めた。だから、この天草の地での釣りも二年になろうとしている訳であるが、実は、私はこの「タモ」を、まだ買っていなかったのである。私はこの二年間、前述の私流の基準で、私自身を評価し続けて来たのであるが、とうとう「白帯」の域から脱することができなかったのである(我ながら情けない話であるが)。
ところがである、そんな私もついに報われるときが来た。そう、先週の日曜日、牛深のとある波止場で大ものの「クロ」を立て続けに釣り上げたのである。もちろん「タモ」を必要とする大物をである。隣の人から借りた「タモ」で四回もすくい上げた。周りには数人の釣り人がいたが、あの時は私だけが忙しく「タモ」を使っていた。たまたまその日は見物人も多く、私のしなる竿が幾度となく人々の注目の的になった。私は天草の釣り場で、生まれて初めて優越感に浸ることができたのだ。他人の目から見たら、あの時の私は明らかに釣りの玄人であった。 それから一週間、私のまぶたの裏には海面を浮遊する赤いドングリ浮きが、グウット海中に引き込まれる光景が焼き込まれたままで、目をつむるたびにそれが頭の中に広がった。 「よし今度の週末もいっちょう行って見るか。」と、土曜の午後、仕事の終わるのを待ちかねたように車に道具を積んで出掛けるのは私だけであろうか? いや誰しもが取る自然な行為である。ただその時私が取った行動で特異なのは、いつもの様にエサとまき餌を買った後、「タモ」を買って行くべきか否か迷ったことである。一週間前の釣果は、私が私自身に対して
「タモ」を買う資格があると判断するのに十分な材料であるとは思うものの、いざ釣り具屋で正札の値段と一緒に実物を見ると、今買うべきか、あるいはまたの機会にすべきか迷う私であった。冒頭の私、片手に買ったばかりのエサとまき餌をぶら下げて、商品棚を見つめている私は、以上のような一週間の履歴をもっていたのである。(続く)
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