クロという魚がいる。別名メジナ。タイ、チヌなどと共に釣り人が最もよくターゲットとする魚である。一年で最も寒い時期、十二月、一月、二月は、「寒グロ釣り」といって、釣り人にとってこのクロを狙うのに最も適した時期である。「寒グロ」と言うくらいだから、冷え込みが厳しい時ほど良く釣れるというのが釣り人の間での一般的な見解だ。だから私など、どんより曇って今にも雪が降りだしそうなくらい寒々した日など、職員室の窓越しによく、 「ああー、今日釣りに行けば、さぞ釣れるだろうなー」と、恨めしげに牛深や、通詞島、大多尾漁港方面の空を見つめるものである。(この点私は、高校生より、精神的にまだまだずっと若い。寒さが続くとどうしても生徒達の間では風邪がはやり、彼らは元気がなくなる。)
このクロと言う魚、名前が「クロ」と言うだけに、黒い色をしている。、が良く見るとその黒みは頭から背中にかけてが中心で、胸ビレから腹にかけてはだんだんその黒みはとれて白っぽくなっている。それからその頭から背にかけての「黒色」であるが、これも一言「黒」で片付けてしまうことのできるほど単純な「黒色」ではない。海中から陸のうえに釣り上げられ、釣り人にその全容貌を露にしたばかりの「クロ」は、その「黒色」の部分が時として青っぽい光を放つ。
いやいや、単に「青っぽい」と言う言葉でも片付けられない。縦糸に青色を使い、緑、エメラルド色、パール、シルバー、そんな形容的言葉をほどよい割合で横糸にして、丹念に織り上げてできた、そんな「青」とでも言った方が適切であろうか。あるいは、それまで海水を通って間接的に魚の肌に触れていた太陽の光が、魚が海中から大気中に出た瞬間、直接その肌に触れ、その結果化学反応を起こしたように青く光る、とでも言った方がより適切であろうか。
ともかく釣り上げて間もない「クロ」は、そんな「青っぽい」光も放つ。その色はまるでついさっきまで彼らが泳いでいた大海の色であり、その光り方は、彼らが 「俺たちはこんな色の海を泳ぎまくって成長したんだぜ」、と釣り人に対して言っているような光り方である。激しいやり取りの末、ついに釣り上げられてしまった彼らの、釣り人に対する最後の抵抗とも思えるような光り方である。実は私はこの時の「クロ」の色、光り方が非常に好きである。と言うことは私の性格の中には潜在的に「嗜虐性」が潜んでいるのであろうか?いや私に限らず釣り好きな人は多かれ少なかれ必ずこの種の嗜虐的性格を持っているはずである。ともかくそんな抽象的な思考さえ私にさせるくらい釣り上げたばかりのクロと言う魚の色は複雑できれいである。だから釣りをしない人にこの魚の本当の色を説明するのは難しい。
ところで、今私の竿に掛かって、それをグイグイ引っ張っている魚がいる。半円状にしなり、先端を小刻みにふるわす竿。手元に伝わるズッシリした重量感。ピンと張った糸としなった竿を通して手元に伝わる確かな魚の手応え。爆発しそうな緊張感に酔いしれながら、しかし冷静に、基本どうりに竿を真っすぐ上に立て、まだ姿の見えぬこの獲物の抵抗を必死にこらえている私があった。やがて二秒だろうか、三秒だろうか、手元に力を入れても全く動かない瞬間に遭遇した。一瞬、根掛かりしたのではないかと心配するほどビクともしない。が、私の仕掛けは確かに獲物を捕らえていた。それを示すかのようにやがてブルッ、ブルッ、という手ごたえを私の手に伝えながら、ピンと張った糸の、水中にもぐり込んだその先三メートルほどに居るはずの獲物は、ゆっくり動きだし、私のすぐ足元の海面下に移動した。一段と強まる竿のしなり。これは明らかに「クロ」のひきだ。
もともとこの「クロ」、良型のものがヒットすると、大変強い引きを示す。またチヌなどと違い、岸へ、岸へと引くのが特徴なのだ。だから掛かったときの竿のしなりかたは他の魚のときと比べて非常に大きい。よって、海面に引き上げるまでのやり取りは大変面白いということで知られた魚なのだ。それから察するに、これは確かに「クロ」の引きなのである。緊張感に酔いしれながらも私はそんな判断をするだけの冷静さも辛うじて保っていた。 「おーい、タ、タモ。」 リールを巻きながら、私は見物するために一緒に来ていた女房に叫んでいた。車の中から、今日買って来たばかりの「タモ」を女房が運びだす。 「スッ、ザバッ 」 タモの網が海面に滑り落ちるのと、巨大な「クロ」が海面に姿を現すのがほぼ同時だったような気がする。
海面に引き上げられた「クロ」の様相は一変する。大きなエラから大気を腹一杯吸い込んでぐったりなるのだ。 「ジー、ジー、ジー・・・。」 私は獲物の引きがやや弱くなった時を見計らい、ゆっくりリールを巻き上げた。彼には海面下に居た時の烈しい動きはもはやできない。しかし時々彼が ジャバッ、ジャバッ、と水音を立てて身をくねらす様には、釣り人をしてそれが彼の最後の抵抗かと思わしめる程の力強さがあった。私はその感覚を楽しみながら(ああ、私の中にはやはり嗜虐性が潜んでいる)、獲物を海面上で移動させ、タモに納めた。 ******************************* 「釣れたですなー。」 散歩に来ていた近所の老人が、すくい上げたタモの中味を、いつの間にか私と一緒にのぞき込んでいる。ちょうど私は興奮を押さえながら、無我夢中で獲物の口から針をはずそうとしている最中だった。 「釣れたですなー。」それまで私が相対していた「クロ」の抵抗とはうって変わった、老人のこの細々とした声は、広い波止場の局所的な部分で繰り広げられた私と「クロ」との戦いの世界から、私を現実の静かな夕暮れ迫る港の世界へ引き戻すのに充分なくらい、静かに私の胸に染み込んだ。ここは牛深の後浜新港。先週の日曜日、私が大物を釣り上げたのと同じ波止場である。やがて日が暮れる。土曜であるせいか、この前とうって変わって人気は少ない。釣り人は私一人である。 「タモを買って来て良かった。」 ポツリと一人ごちる私。ここは牛深・後浜新港。やがて西海の茜を浴びながら、たくさんの漁船が船団を組んで東シナ海から帰ってくるだろう。 (終わり)〜The end〜 平成5年1月 〜1993 . 1〜