ver 1.0 2009.7.8  キスカ島の花 脚注

(参考)松島艇長の手紙と堀田軍医長の手記 対照表

2006年8月の調査で Williamson & Associates 社が撮影したキスカ島沖のソナー画像
松島艇長の図 堀田軍医長の図

此の位置で3隻共魚雷の攻撃を受け
私の艦だけ運よく逃げました。

杉野艇(25号)と松島艇(26号)の位置が逆。
 当時のアメリカの潜水艦は前部に6本の魚雷発射管があり、 3隻横陣で航走中の駆潜艇隊に対し、右後ろから全射線同時に扇状に発射したようです。 少なくとも5本は直進し、うち2本が別々の目標に命中して爆発しています。  中央の杉野/春山司令艇にまず命中し、右側の篠田艇がその次に煙に包まれ、一番左の松島艇は、時間的余裕があって 素早く旋回して3本の魚雷を避けています。(日本の駆潜艇は旋回性能に優れた船型にしていました。) 篠田艇は二度雷撃を受けたようにも読めます。アメリカの潜水艦は後部に4本の魚雷発射管があり、 前部の6本を発射してすぐ回頭して後部の発射管からも発射する撃ち方もしていました。
 グラニオン号はキスカ島の湾口で待ち伏せしていて、ここは駆潜艇隊の対潜掃討エリアの外側です。グラニオン号は数日間湾口を監視していて、駆潜艇隊の対潜掃討のパターンを観察して攻撃計画を立てたのかもしれません。
 また、ここは10日前(1942年7月5日)に米潜グロウラー号(SS-215)が駆逐艦霰を雷撃したところとほぼ同じ位置です。 グロウラー号は7月17日に真珠湾に帰っているので、グラニオン号とグロウラー号は洋上で情報交換をしたのかもしれません。
松島 堀田
備考
キスカ方面の状況 想ひ見れば故篠田君と佐伯、呉と共に同じ道を歩み、勇躍出陣しました I [キスカ方面の状況]
(1) 敵のキスカ攻撃はミッドウェー作戦以後である。
(2) 初空襲はS17.6.12からと記憶している。
(註)コンソリデーテットB24  5機来襲
高度 2000 m位   1機撃墜
                 2機撃破
(3) 初空襲以後 間断なき空襲が繰り返された。(夜間 殆どなし)
(4) 日増しに敵潜の攻撃が目立って来た。

1942.06.12 駆逐艦「響」空襲により損傷。
1942.06.19 日産丸 空襲で沈没。
1942.07.05 駆逐艦「霰」「子日」が潜水艦の雷撃で沈没。「霞」「不知火」が大破。
海象 (記載なし) (1) 日時・・・・S17.7.15  11:33 AM頃 (現地時間)
(2) 天候・・・・曇天、雲低し 霧(mist)なし
(3) 波浪・・・・2〜3
視界はよく、海は穏やか。



 御戦死当日は丁度港口付近に潜水艇出没する為め之が掃蕩を行なふ事となり、
杉野君の艦が当直にて先航し、
当日午前7時半頃まで私の艦と横付けして篠田君と二人にて、 帰国の途中は北海道の温泉でもなど語り合いつつ
III [当日の模様]
 当日(S17.7.15)敵潜掃蕩打ち合わせの為 25号、26号、27号の三艇はキスカ湾内に集合、 当日早朝小生司令艇25号艇より26号艇に移乗
第十三駆潜隊
25号:杉野/春山司令艇
26号:松島艇
27号:篠田艇
隊の軍医長は通常、司令と一緒に居て、作戦時分乗するものか。
対潜掃蕩 8時頃出港しまして3隻合体し、敵潜掃蕩を勤めました。 諸準備完了、 掃蕩作戦行動開始 湾外に出る。
帰投予定正午12:00
小生終始見張りを兼ねてBridgeに在り。
Bridge:船橋(ブリッジ)
対潜掃討の内容は不明。巡航して、計画の位置で威嚇の爆雷投射をするものか。
1:(第一撃)
雷撃を受けた時
そして最後の針路に入りし時、
(備考: あらかじめ作戦のログ/航程を決めていて、  最後の直線コースだったようです。)
作戦概ね完了。 帰投キスカ湾口に向かう。 臨戦準備を解き、見張るだけとなる。
11:00AMキスカ島近し。
IV [以下 現況を述べることにする]
 湾口間近となる。 小生昼食を摂る為、士官室に入り椅子に安坐し乍ら雑誌(講談クラブ?)を手にとる。 
士官室とは船橋下の1階の小部屋と推定。  (戦闘配置の時は、配置の位置で食事をするので。 )
甲板(露天)は1階のことで、士官室から船橋に行くには一旦外(左舷側?)に出るらしい。 反対舷が見えてないように読める。
1:- 2:
駆潜艇25号(杉野/春山艇)被雷(第一撃)
先ず最初に杉野君の艦が物すごい水煙に包まれていました。
そして其の水煙が消えると共に艦の姿も見えませんでした。
(1)7.15 11:33AM 突然ドスンと云う大きな音響を耳にしたので、 直ちにBridgeに走る。
不安に駆られ乍ら甲板より左舷を見る。   
(註)小生空襲と判断するも魚雷攻撃 座礁 衝突 艇内事故なるや原因は皆目不明。
(2)25号艇の全長の約半分以上を海面上に望見せしも、 瞬時にして水中に没す。
艇首なるや艇尾なるや不明。
  (註)本26号艇との距離約500m、爆発 火煙等全く見ず。
松島艇長は、杉野艇の沈没時にまず水煙を見て、沈没中の船体は見ていない。 堀田軍医が杉野艇の船体を見たのは、松島艇長が他の方向の見張りで目を離した一瞬のことらしい。
船尾には舵とスクリューがあり、堀田軍医の絵を見ると、堀田軍医が見たのは杉野艇の船首らしい。 駆潜艇25号は、2006年のソナー映像でも半分しかないように見える。
2:- 3:
駆潜艇27号(篠田艇)被雷(第一撃)
あっと思ふ間に篠田君の艦が黄色の煙に包まれ、
同時に私の艦に間近く3本の魚雷の来るのを発見、
この間に堀田軍医は士官室から船橋に移動したらしい。
堀田軍医は篠田艇が煙に包まれるのを見ていない。

松島艇長は、杉野艇/篠田艇への雷跡を見たか書いていない。
杉野艇/篠田艇への第一撃は、艦底起爆の魚雷の水中爆発の衝撃で、 篠田艇への第二撃は触発尖の魚雷による直撃だったのかもしれない。

全速力にて之[3本の魚雷]をかわして
(備考: 右に旋回?。 駆潜艇は旋回性能が いいので、急速度に大角度の転舵を繰り返したようです。)
(3)右舷を見るに約500mの距離に27号艇あり、煙突から陽炎のような空気の揺れを望見した。
尚、何となく27号艇全体の大きな振動があるように見受けられた。
(4)直ちに舵を右にとり(面舵)、 本26号艇は状況確認の為、27号艇に接近を試みる。
煙突から陽炎というのは、駆潜艇の主機関はディーゼルで、 篠田艇はスクリューを失って主機が空転していたのかもしれない。 大きな振動というのは、第一撃(黄色の煙に包まれる)を受けた後のうねりか?
3:
駆潜艇27号(篠田艇)被雷(第二撃)
篠田君の艦を見ると、 再び艦首方向より爆発に依る火焔の全艦を包むのを発見しました。 すると、 全く突然眼前に紅赤な絨毯を広げたような幕が見られ、 それも瞬時に消失、 然も海面には何も存在しなかった。
更に近接、海面を検するに相当広範囲にどす黒い煤が拡がっていた。 その他浮遊物は何もない。
(5)本艇26号は、25号・27号両艇の沈没(轟沈)の原因に疑問を抱き乍ら
直ちに状況判断の為、舵を左にとり(取舵)キスカ湾口に向かう。
  (註)逃げたのではなく飽くまで状況判断確認の為。
杉野艇が水柱に包まれたのに対し、 篠田艇は炎を伴う爆発で轟沈したらしい。 特に火災は発生していなかった様に読めるので、 爆雷や火薬庫の誘爆ではなさそうである。 魚雷の直撃による轟沈か。
4:
駆潜艇25号(松島艇)への雷撃
私の艦を魚雷から かわすと共に反転しまして、
(備考: 篠田艇への第二撃とは別の、第三撃でしょうか。  この魚雷は松島艇の船底を通過して、爆発していません。  米海軍の魚雷の起爆尖には触発尖と磁気/船底起爆尖があって、  どちらも問題があり、不発、早発しました。また、深度調節にも問題がありました。  鹿野丸への雷撃に出ています。解決には丸2年かかりました。)
(6)魚雷発見、本26号艇尾左舷30°。 この時点で始めて25号、27号両艇の事故は敵潜魚雷攻撃なること確認出来たのである。 小生Bridgeより雷跡を確認 艇は 直ちに面舵[右]をとったが、 この時居合わせた機関科の准士官?(美髭を貯う氏名忘却)が慌てて、取舵[左]一杯  魚雷は艇尾の死角に入り視界より去る。 小生命中を覚悟 屈位をとりしばし瞑目やがて魚雷は艇尾を通過 キスカ島海岸の砂浜に打ち上ぐ。   (註)魚雷の直径53cm。
機関科准士官の咄嗟の好判断で本26号艇は難を免れたのである。
松島艇長は予備士官(商船学校出身)で、 艇の操艦は、とっさには固有の乗員(軍人)がすることがあったようである。
その後 両艦の沈没位置に引き返し救助に向ひましたが、 少量の油のみ浮流し木片も溺死体も何もありませんでした。
当日夕方まで捜索し
翌日も捜索しましたが、遂に一名の死体も発見出来ませんでした。
(7)この時点で初めて、25号、27号両艇の轟沈は敵潜の魚雷攻撃によるものと断定、 直ちに反転 掃蕩作戦に入る。
併し25号、27号両艇の沈没直後だけに爆雷攻撃には抵抗があったと云うのが真相である。
コメントと纏め 何しろ小さい艦に全艦火薬と弾丸ですから、魚雷の命中が火を呼び一瞬にして沈没、全員戦死された事と思います。 V [コメントと纏め]
(1)湾口とか海峡等では必ず威嚇投射が必要である。                  
(註)@ 小生 常に爆雷の威嚇投射を従来主張してきた。     
 A 帰投時 湾口近くで威嚇投射をしておけば、このような事故は完全に避けられたと思う。明らかに作戦ミス、一文惜しみの銭失いの感強し。     
 B 東京湾口、マラッカ海峡、バシー海峡、フィリピンの諸海峡等 数うるに暇なし、 大西洋の真只中での被害は極めて僅少である。
(2)26号艇が魚雷攻撃を受けた時点で始めて事故原因が判明し、 それまではいかなる原因で25号、27号両艇が沈没したのか原因理由が皆目不明であった。    
従って直ちに爆雷攻撃など出来るはずがないし、 ましてや敵前逃亡的な批判がもしあるとすれば、 それは現状認識欠く全く無責任な発言と云うべきである。
以上 記憶を辿り乍ら現場での状況を御報告申し上げる次第です。
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おわり