キスカ島の花

− ”当地の花を送り、僕の心をこれに託そう。”
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篠田勇 駆潜艇27号艇長の手紙
篠田千代夫人(97歳)
手紙とキスカ島の花(2008.12)
手紙は66年前のもの。昭和17年7月7日(* 注 1)付けで、 千代夫人が今も持っている。
写真で、手紙の左端の縦2行が篠田艇長のあとがき。     
”和郎に良く勉強する様に伝えて居いて呉れよ。     
 当地の花を送り、僕の心をこれに託そう。”     

亡父の五十回忌法要を迎えて‥‥父の想い出

平成3年5月3日
 篠田 和郎

篠田勇 駆潜艇27号艇長
 昭和17年7月15日、 その前晩は母の里鏡島村大名田の氏神様津島神社の提灯祭り が催されるので、私たち母子4人は母の実家へ遊びにきていました。当時私たちは岐阜市鍵 屋に住み、父の留守を守っていました。そして父が出征してからは、自宅の裏にある北野神 社に毎日朝食前に母子4人で父の武運長久を祈るため日参していました。しかしその日だけ は前晩から鏡島へきていましたので、日参を欠かしました。
 それから数ヶ月後の11月初旬のある朝、私が洗顔していると母が「昨夜お父さんが白衣を 着て夢枕に立った。何かお父さんに変事でもなければ」と不安そうに言いました。私はとくに 気にもせずいつもの通り登校(当時木之本国民学校)しました。ところが午後の1時間目の授 業中に、小使いさんが教室へ入ってきて先生に何か耳打ちをしました。先生は私にすぐ帰宅 するように言われ、私は急いで帰宅しました。自宅には金蔵伯父(父の兄)が来ており、仏壇 に灯がともされていました。そして目を泣きはらした母から父の戦死を告げられたのです。まだ 小学3年であった私には、父が亡くなったという重大でしかも突然の出来事がすぐ実感となら ず、父が最後に買ってくれたゲームを壊したことが頭をよぎり、これで叱られずに済むという思 いが先に走りました。
 父はいつも外国航路に勤務し家を留守にしていることが多く、たまに帰宅すると普段留守 にして寂しい思いをさせている妻子へのサービスのつもりか、よく旅行に出かけることが多かっ たため、家庭での父との日常の触れあいというものにあまり馴れていませんでした。父は明朗 活発である一方、辛抱強い几帳面な人で、数少ない私との接触では優しさの中に常に厳し い人でした。そのためたまに帰宅すると、母馴れしている私には怖い存在でした。こんな状況 でしたから、父の死を告げられた瞬間このようなたわいもないことが子供心に浮かんだものと 思われます。しかし伯父に手招きされて仏壇に向かって手を合わせるうちに、父がもう帰って こないという実感が込み上げてきて声を上げて泣きました。数え年5才の妹(達子)、3才の弟 (政明)は何事もないように隣の部屋で無心に遊んでいました。
 戦死した日が日参を欠かした7月15日であったこと、公報が入った前晩に父が白衣を着 て母の枕元に立ったこと、これらは現実を超越した何かが関係しているとしか考えられません。
 父は岐阜市中心部にかなりの土地を保有する地主の子孫で、友三郎の三男として明治37年に生まれました。 岐阜一中を出て海軍兵学校を受けましたが、身長が足りずやむなく神戸高等商船学校(現神戸商船大学)に入りました。 同時に海軍砲術学校で海軍将校としての訓練も受け、 日本郵船に入社しました。そして世界を航海し、その間に集めた世界の切手集が今でも遺品として残っています。 30代半ばで船長の資格も取りましたが、太平洋戦争を 間近にした昭和16年6月、海軍に応召しました。たまたま陸上勤務であったためか早く召集 されたようです。しかし世界を広く見てきた父にとってこの戦争は資源の少ない日本にとって 不利であることは明白であったようです。
 初めは海軍予備大尉として舞鶴鎮守府に入隊しました。そして砲艦に乗り組み南方を航 海したりしていましたが、12月8日に太平洋戦争が始まると同時に、横須賀鎮守府に移り、 奇しくも私が現在勤めている石川島播磨重工業の東京第一工場(艦艇事業部)、当時の石 川島造船所深川工場で駆潜艇の艤装員長として建造監督に当たり、東京湾で試運転を終 えて竣工するや、第27号駆潜艇の艇長として乗り組み、呉鎮守府に移りました。それから九 州の佐伯軍港を拠点として備後水道で海上訓練を重ね、昭和17年5月末に呉基地より北 太平洋へ出陣しました。
杉野艇長と春山司令の駆潜艇25号(駆潜艇27号も同型)

 当時国民学校へ行っていた私は、重代叔母(母の妹)と留守番し、母が妹と弟を連れて呉 へ見送りに行きました。父はその時死を覚悟していたのか私にしきりに会いたがり、私を呼び 寄せたいと連絡してきましたが学校を休むことができず、これが父の最後となったのです。3人 が呉で父と別れたのは5月18日、その後5月24日付および5月28日付の便りを最後に出国 したようです。当時数え年の39才でした。横須賀局気付第27号駆潜艇長篠田勇より 母に宛てた5月28日付の検閲済の軍事郵便は次の如くです。(原文のまま)
篠田勇 駆潜艇27号艇長の手紙 1942年5月28日
『 お別れをして丁度今日が10日目皆元気で居てくれる事と思ふ。僕は非常に元気で 戦闘意識で充満して居る。或るいはこれが最後の便りに成るかも知れぬ。決して心配しな いで。僕らの行動に関しては間もなくラヂオで放送される事と思ふ。何うか僕の武運長久を 祈って居て呉れ。もう只今の僕は只如何にしてお国の為に尽くせるかそれのみで何も無い。 腕は鳴る。心はもう戦地に行って居る。力の続く限りやって来ます。総て留守中の事はよろ しく頼んだよ。若しもの事が有っても何うか女々しい事の無い様、三人の子供を立派に育 ててお国にお返しして呉れよ。もう何も申す事は無い。総て僕の心の中はお前に通じて有 る。今日は何と言ふさっぱりした気持で有ろう。天候は良し。 海上は波静かで本当に我々の前途を祝福して居る様うだ。さてそれでは元気にやってきます。 呉れ呉れも留守中の事は頼んだよ。 身体を大切にしてね。皆さんによろしく。
5月28日 千代さん 
夫より  』

 途中青森の大湊港に寄ったらしく、写真館で撮った写真を送ってきました。これが最後の 遺影となったのですが、母と叔母が開封して見て強い不吉感を覚えたそうです。写真の原版 が割れたまま現像されたらしく、父の軍服姿に中央斜めにくっきりと亀裂線が入って居たので す。
キスカ島の花 (左 トシ.ミカガワ写 2007年8月; 右 2006年8月の遠征時 )

 6月8日戦地に到着、数回の便りが来ました。現地の行動は機密のため一切触れられず、 ただ日本より寒いところであること、家族の健康への注意、子供3人の養育を母に依頼、そし て私達からの便りや写真を楽しみに待っているという内容ばかりでした。 7月7日付で現地の花びら(今も保存)を同封した手紙を最後に便りは来なくなリました。

『 千代さん、当地に来て明日で丁度1ヶ月に成るよ。此の1ヶ月の長かった事、又此の1ヶ 月程変化の多い日を送った事は無い。世の中の総てを味わって来た僕、連日爆弾雨下 に有って鍛錬して来た只今の僕の精神、ね千代よ、実に僕にとって之の1ヶ月は金には代 えられ無い尊いものでした。来たときの真白な綿帽子に包まれた寒い姿に代えて昨今の 様子、全島緑したたる若草に取り巻かれ、白に黄に或いは赤紫色に今を盛りに咲き乱れ ている草花を眺める時は何うして内地の春を思はずに居られませう。此の美観は只今我々 としての唯一の慰めなんです。しかし此の美観も一瞬にして修羅の巷とも化すのです。 如何なる危険にさらされ様とも、我々は此処を死守せねば成りません。幸いにも今日に至る 迄、軽傷だに負わず元気に軍務に服して居られるのも之一重に神助に外ならぬと今更の 如く有難く思ふと同時に益々お国の為に尽くさねば止まぬ底力が湧いてきます。 丁度 我々の行動が詳細に 6月25日の大阪朝日に出て居ります。 一度ご覧なさい。
 千代よ、初めから自分勝手な事ばかり書いて済まなかったね。さっぱりお前からの便りが 受け取れないので何だか心配だが屹度皆元気で居て呉れる事と思ふがね。もう大分暑い 事でせう。いやな蚊で夜は閉口してる事でせう。送れるものならば当地の寒い空気でも送 ってやりたい位だよ。充分皆食物、健康に注意してね。決して油断しない様に。留守中頼 むよ。僕は元気で居るから決して心配しないで、屹度3人の子供を立派な人間に育てて呉 れよ。お願いするよ。色々細かい事は書きたくとも許されないからつい何時も同じ事に成る から只安否のみお知らせする事にして止しませう。暇があったら子供の様子知らせて呉れ。 それから如何に古いものでも良いから何か読む本を送って欲しいがね。鏡島(母の実家) とお寺(瑞龍寺、父の伯母)、郡上の方(父の姉の嫁ぎ先で母の叔父)に元気で居る事を 通知しておいて下さい。元町(父の実家)の方へは手紙出して居るからよろしい。お前達4 人の健康と幸福をお祈りして筆を止めませう。
 和郎に良く勉強する様に伝えて居いて呉れよ。
 当地の花を送り、僕の心をこれに託そう。
7月7日 千代さん
戦地の夫より  』

攻撃下の駆潜艇(27号の同型艦)

 それ以来便りはぷっつりと切れ、心配した母は父の最も親しい友人で当時海軍省におら れた島川様に父のことを心配している旨の手紙を出しました。既に父の戦死の連絡を入手 していた同氏は、母の手紙を見て真実を伝えることが許されず、親友の残された妻子のことを 思い男泣きに泣いたと、後に葬儀にきて話されました。 そして11月に入ってやっと公報が届いたのです。
 それから母と私は大変でした。呉鎮守府合同海軍葬儀遺骨返還への出席、善福寺での 本葬、岐阜市公会堂での岐阜県合同葬儀と続きました。
 呉の海軍葬には母と私それに金蔵伯父と祖父(母の父)が付き添って行き、その盛大な 葬儀は悲しくも厳粛に行われ、身の引き締まる思いがしました。今は海上自衛隊の基地にな っていますが、その隣には石川島播磨重工呉工場(旧海軍工廠)があり、今でも時々出張し たとき当時のことを思い出します。旅館には父の友人や海軍省の方々など多くの人が訪れま した。その人達の話から父の戦地での様子がおおよそ判りました。
 駆潜艇は3隻編成、第25号には司令の現役少佐と杉野艇長、第26号には父と同期の 松島艇長そして第27号には父が艇長として、アリューシャン列島キスカ島基地へ向かったの です。駆潜艇は字の如く、敵潜水艦を見つけ爆雷を海上から投下しこれを撃沈させるもので した。キスカ島に着任してからは周辺海域のアメリカ潜水艦の掃海任務に当たっていました。 そして、米空軍の攻撃を受けて第25号と第27号が撃沈されたというものです。帰還した第2 6号の松島艇長からは、その後悔やみの手紙を受取り、皇国のため立派な戦死であったと毛 筆で書かれていました。
 しかし終戦になるや改めて松島様から父の戦死当時の真実を詳細に手紙で知らせてくだ さいました。その全文は次の通りです。

松島 稔 駆潜艇26号艇長の手紙 (戦後)
『 其の後如何が御暮しで御座いますか。僅か此の2−3年の間に全く思ひも懸けぬ大変 化、全く予想も為し得なかった転換に我々一同思考力も失った様な気がしましたが、漸く 少し宛平常な気持に帰った様な気が致します。
 御主人を失われた皆様方は、敗戦・復員と聞かれる度に再び思いを新しくされる事でせ う。想ひ見れば故篠田君と佐伯、呉と共に同じ道を歩み、勇躍出陣しましたのに。
 御戦死当日は丁度港口付近に潜水艇出没する為め之が掃蕩を行なふ事となり、杉野君 の艦が当直にて先航し、当日午前7時半頃まで私の艦と横付けして篠田君と二人にて、 帰国の途中は北海道の温泉でもなど語り合いつつ8時頃出港しまして3隻合体し、敵潜 掃蕩を勤めました。そして最後の針路に入りし時、先ず最初に杉野君の艦が物すごい水 煙に包まれていました。そして其の水煙が消えると共に艦の姿も見えませんでした。あっと 思ふ間に篠田君の艦が黄色の煙に包まれ、同時に私の艦に間近く3本の魚雷の来るのを 発見、全速力にて之をかわして篠田君の艦を見ると、再び艦首方向より爆発に依る火焔 の全艦を包むのを発見しました。私の艦を魚雷からかわすと共に反転しまして、両艦の沈 没位置に引き返し救助に向ひましたが、少量の油のみ浮流し木片も溺死体も何もありま せんでした。当日夕方まで捜索し翌日も捜索しましたが、遂に一名の死体も発見出来ま せんでした。何しろ小さい艦に全艦火薬と弾丸ですから、魚雷の命中が火を呼び一瞬に して沈没、全員戦死された事と思います。
此の位置で3隻共 魚雷の攻撃を受け
私の艦だけ運よく 逃げました。(* 注 3)

 当時誰れも彼もが勝つんだ勝つんだ聖戦だ聖戦だと夢に酔った職業軍部の指導者に あやつられ、失わなくともよい主人や親を失わせ国を滅し、又世界人類に此の上なき惨し い戦禍を巻き起しました。正しく聖戦であると云われたものが聖戦でなく、ほんとうに犬死の 様な結果になった事は返す返すも残念な事です。戦判に依り軍部の色々な事が明るみへ 出される度に、戦死された方々がさぞ無念でせうと思ひます。併し篠田君も立派に命ぜら れた任務は全力を尽くして全うされました事です。例え戦争が聖戦でなくとも。
 以上の様な当時の状況です。恐らく氷降る北の海に今は敵も味方もなく、 故国の平和と再建を願い御家族の幸福を祈りつつ、 馬鹿な戦争をしたもんだとほほえんでおられる様 な気がします。どうぞ残られた御子供様方の為めに大いに元気を出して下さい。 では又寒くなりますからどうぞ御体を御大切に、家内よりも呉々も宜しくと申しておりま す。
篠田千代様 
松島 稔  』

当時の修身の教材(篠田千代さん蔵)

 前に戻りますが、呉の海軍葬でもらった白木の箱には、父の写真が1枚入っていただけで す。帰宅後、出征前に長髪を丸刈りにしたときに残していった遺髪を入れました。
 呉から岐阜駅へ到着すると、関係者が大勢出迎えていました。自宅まで行列し、自宅の 玄関前で木之本国民学校の全校生徒が交互に整列しお参りしてくれました。父の駆潜艇に 岐阜県出身の若き水兵さんが5人も乗り組んでおられ、呉では杉野艇の人々と一緒に合同 葬儀が行われました。後に祖父がこの5人の水兵さんの遺族の家をすべて弔問し、各々の遺 影を頂いてきてくれました。
 ご先祖が祀ってある善福寺での本葬も盛大に行われました。雪の降る寒い日でしたが、島 川様をはじめ多くの友人や関係者が参列されました。島川様が日本郵船(株)社長など 三つの弔辞を読まれたのを記憶しています。岐阜市公会堂での合同葬は遺族が旅館に泊まり2日間行事が行われ、 誰か忘れましたが宮様も出席され、私が遺児代表で謝辞を読みました。

岐阜県出身の水兵さん

日本郵船の豪華客船 浅間丸
 父は日本郵船の神戸支店に席を置いていましたので、結婚後母と神戸に住んでいました。 私が生まれる時一時岐阜へ帰りましたが、次弟の正郎が生まれる前まで神戸に住んでいまし た。岐阜へ帰ってからも父が帰国した時はよく神戸へ行き、短いときはホテルに、長いときは 借家にいたこともあります。この頃から私の記憶があります。当時は陸上勤務は少なく、船が 造船所のドックに入ったとき家族を呼び寄せていました。このような状況でしたので父は日本 にいることが少なく、自宅を殆ど留守にしていました。そのためか留守家族の私達と便りを交 換するのが楽しみであったようです。外国から絵葉書や珍しい物をよく送ってよこしました。 土産も必ず持って帰宅しました。便りでは、母には子供のことをよろしく頼む、私には立派な人 間になれ、長兄として妹弟の面倒を見るようにと書いてきました。
 昭和14年7月に次弟の正郎が数えの5才で疫痢にかかって死亡した時も、父は外国航 路でした。やっと帰国し岐阜駅へ着いた時、出迎えた私と金蔵伯父、忠男伯父(母の兄)を 見るや、父は今までこらえていたものが込み上げてきたのか人込みの中で私の手を握って泣 きました。母が打った電報を受け取る前に、正郎が父の夢枕に立ったと父は言っていました。 正郎の魂が洋上はるかな父のもとまで行ったのでしょう。それからは家の便りには私達子供の ことへの注意を一層細かく書いてきました。私が便りを出すと、とても喜んで返事をくれまし た。
 父は朗らかで真面目な人柄で島川様をはじめ多くの親友を持っていました。もし戦死した ときは、互いにその遺族の力になろうと話し合っていましたが、同期では父が早く逝ったので 他の親友やその奥様から慰めや激励の便りがよくきました。とくに島川様からは、長男の私に 父親代わりの便りを頂き、私が岐阜一中に合格したときはとても喜んでくれました。しかし島 川様も戦後日本郵船に復帰されましたが、その後ロッテルダムに入港中の船長室で急死さ れました。今では他の人達も殆ど亡くなってしまいました。日本郵船の新鋭客船(今も横浜港 に係留されている氷川丸(* 注 2)など)で世界各国を回っていた父は、 帰宅すると日頃家族が世話になっている隣人の家族を招待して、 すき焼きパーティをするなど、欧米先進国感覚の社交をする人でした。 外国で買ってきたチーズをポケットから出し、汽車の中で爪楊枝で私に食べさせてくれた記憶があります。 帰港したときは家族を船に呼び寄せ、珍しい洋食を船内でご馳走してくれました。 いずれ神戸にマイホームを建てるため、船のカーペンタ(大工さん)に描かせた設計図も用意していました。
 父の遺言通り母は(当時数え年32才)、戦中・戦後の苦しい時期を必死で3人の子供を 育ててくれました。独身の叔母も私達の心の支えになってくれました。 空襲が激しくなった5年生の春 母の実家に疎開し、戦後は実家の人と同居し大変世話になりました。 長男としての 私にも自然に責任を負わされ、幾分線の細かった私は窮屈な人間になりがちでした。妹や弟 は幼かったので、父の想い出や戦死の悲しみはほとんど記憶になく、兄という私の存在もあっ てか比較的のびのびと成長したようです。父が亡くなった当時、小学3年であった私は、成長 するに従って父親がいない寂しさを強く感ずるようになり、父の夢をよく見ました。これは大学 を卒業するまで続きました。
 戦死する2年前に生まれた弟が、父の明朗さ、我慢強さ、潔癖さを受け継いでいるようです。 妹の容姿は父に似ているようです。

 世界の海を駆け巡って視野を広め、その上軍部の命令とはいえ国のために戦争という体 験をし、試練の中で死んで行った父の短い人生に比べ、すでに20年も多く生きてきた私の 過去を顧みまして、父を乗り越えた何かをなしえたか、この機会に自問自答し、残された人生 を有意義なものにしなければと思っております。
 戦争は松島様も言っておられるように、人を不幸にするだけです。私共家族よりもっと悲惨 な目に会った人も多いでしょう。つい先頃も中東湾岸戦争があり、今もその後遺症で多くの 人が苦しんでいます。世界の平和、人類の平和の尊さ大切さを子孫に伝えていかねばなら ないと思います。一方で今の日本の平和に甘んじ浮かれた世相に節度ある対応をしなけれ ば、再び暗い時代を迎えないとも限りません。
 父がいよいよ戦地へ赴くとき、「もし私に万が一の事があったら、必ずお前達をあの世から 守ってやる」と言い残して国を出ていったそうです。お陰で私共兄弟も無事成人しました。

 最後に若くして未亡人となりご親族の皆様に支えられながら、私達3人の子供を育ててく れた母には、どれだけ感謝しても言い尽くせません。今は7人の孫、1人の曾孫に恵まれまし たが、これからも父の分まで幸せに長生きしてほしいと願っております。

以上  

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篠田家 (2008年12月23日)
お仏壇
    千代夫人、息子さん二人とお孫さん二人。
    千代さんの後ろのポスターに氷川丸が写っている。(勇さんが乗船)
右上の額が、篠田勇艇長の写真。
篠田家は7代以上続く。

    注:
  1.  7月7日は七夕です。
  2.  横浜港の氷川丸の写真  http://commons.wikimedia.org/wiki/Hikawamaru
  3.  下は、2006年8月の調査で Williamson & Associates 社が撮影したキスカ島沖のソナー画像です。 松島艇長の手紙から、右上(北)の赤丸内が駆潜艇27号(篠田艇)、 右下が駆潜艇25号(杉野/春山司令艇)であるらしいことが分かります。 篠田艇は北北東(キスカ港と反対側)を向いているように見え、 杉野/春山司令艇の水柱を見て反転したのかもしれません。 杉野/春山司令艇のソナー画像は、途切れているように見えます。 これは画像処理の結果かもしれませんし、爆発で船体の半分がなくなっているのかもしれません。  (参考)松島艇長の手紙と堀田軍医長の手記 対照表


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更新履歴
2009.07.08 ver 1.04 「(参考)松島艇長の手紙と堀田軍医長の手記 対照表」リンクを脚注3に追加。
2009.01.08 ver 1.03 朝日新聞 1942年6月25日紙面を追加。
2009.01.01 ver 1.02 初期ページ