ねぶながしの由来
 『能代ねぶながし』の起源については、阿倍比羅夫や坂上田村麻呂が蝦夷との戦いにおいて、多数の燈籠を用いたことに由来すると伝えられている。元禄時代(1690s)には、子供たちが旧暦7月6日の晩に、『ねぶり流れ、豆の葉に止まれ』と囃して歩き、眠りを流したという意味で、これが『ねぶながし』の語源になったと言われている。『ねぶながし』は、炎暑の眠気を覚まし、秋の豊作を祈願した祭りで、疫病払いに米代川へ燈籠を焼き流したとも言われている。
 燈籠の形は、文化(1805s)文政(1820s)時代は担ぎ燈籠から屋台人形とさまざまであった。天保(1830s)の頃,清助町出身で大工の宮腰屋嘉六によって、名古屋城を模した城郭型燈籠が作られた。これが好評を博した。高さ三丈(9m)から五丈(16m)、幅は三間四方(5.4m x 5.4m)もある燈籠を夜明けまで引き廻したとある。
ねぶながしの由来
 毎年8月1日『川下子供七夕』、2日『子供七夕』、3・4日には『天空の不夜城』の燈籠が千年の時を経て運行される。6日は役七夕(ねぶながし)と、それぞれ城郭をかたどった大若燈籠が繰り出される。流麗な笛の音と勇壮な太鼓の音、田楽を先頭に、大勢の若者によって大若燈籠が町を練り歩く。7日は、哀調の笛、太鼓で、役七夕の最上部に取り付けられている「シャチ」を米代川に焼き流して、夏の夜の街の勇壮華麗な一大絵巻が終わる。
 大若燈籠は,下から富を表す牡丹(ぼたん)、堀を表す池や海、城郭の桜や松、雲の上にそびえる本丸と4層で構成されている。その最上部に巨大な一対のシャチが取り付けられている。このシャチは、運行の時、電線などをかわすために倒すことができる。運行前にシャチの目を描いて入魂式を行い、人々の健康や安全を祈願する。

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