Right or Left?
前編
五月の上旬といえば、新緑の季節。
とはいえまだそれほど汗ばむ気候ではない。
ましてや、山に囲まれた渓谷となるとなおさらで。時折肌を撫でる風はひんやりとしていて、去り行く春の名残を惜しんでいるかのようだった。
そんな爽やかで心地よい空気に包まれているにもかかわらず、手塚は自らの額にじっとりと汗が滲む感覚を味わっていた。
強張った頬を引き攣らせながら眼鏡を指で押し上げた手塚はひとつ唾を飲み、目を皿にして右と左にせわしなく視線を往復させた。そして、
(どっちだ……。どっちだった? 跡部――っ)
じりじりと焦燥感の募る中、己の記憶と闘う手塚は、絶叫を堪えるようにぐっと唇を噛み締めた。
絶好の行楽日和に恵まれたその日、休日を利用して手塚は跡部と渓流釣りに来ていた。
彼が愛してやまない山と、二人の共通の趣味である釣りに没頭できる休日は、手塚にとってテニスコートに立っているときとはまた一味違った至福の時に感じられた。
穴場だと、跡部が自信を持って告げた場所に向かって山道を小一時間ほど歩いて進むと、絶好のポイントへと辿り着いた。
「ここだぜ、手塚」
「ほう、ここはなかなかいい場所だな」
得意げに言い放った跡部の言葉に、周囲を見廻した手塚はゆっくりと頷く。
「釣れるといいな」
「そいつぁ、てめえの腕次第って奴だろ。勝負するか?」
「俺は負けない」
笑んだ跡部の挑発を手塚が真顔で受けてたち、そうして、二人はしばらく釣りに没頭することになった。
さすが穴場と称するだけはあり、周りに人の姿はない。川の深さはそれほどでもないようだったが、流れはわりと早い。二人はそれぞれある程度の距離を置いて岩場に陣取り、時折白くなって岩面を流れ落ちる水の音と、鳥のさえずりに耳を傾けながら、一時間ばかり竿を垂れていたのだが、どちらにもあたりはない。ふと手塚は場所を変えようかと思いつき、跡部に声をかけた。
「跡部、ちょっとこの上の辺り、見てくるぞ」
「ああ。だが、気をつけろよ」
念を押すように言った跡部に了承の頷きを落とし、手塚は少しばかり上流の方へ行ってみたのだが、どうにも最適な場所は見つからず、結局元居た場所へと戻ってきたところ、跡部の姿が見えないことに気がついた。
「ん? 跡部……?」
不審に思って声を上げたが返事がない。ただ流れる川の音が耳を打つばかりだった。
お前はここに居てくれという意をこめて行ってくると告げたというのに、一体彼はどこへ行ったのだろう。荷物はあるから、用足しにでも行ったのだろうかと、訝しく思いながら、辺りを見渡していた手塚は、あることに気がついて眉根を寄せた。
先ほどまで彼が使用していた竿が見当たらないのだ。たとえこの場を少しばかり離れるにしても、わざわざケースに竿をしまうとは思えない。
「跡部?」
益々おかしい。同時に手塚の胸には小さな不安が生まれつつあった。
(まさか――。いや、そんなはずは)
手塚はふと浮かんだ可能性を否定しつつ、岩場に立って川を覗き込むようにして目を凝らした。すると、対岸のいくつかデコボコとした岩が集まっている浅い水面に流木がひっかかっているのが目に留まる。そこに、見覚えのあるものを見つけ、息を呑んだ。
それは、先ほどまで跡部が使用していた竿だった。流木とともに岩にひっかかり、川の流れに逆らうように浮いていた。
それを発見したときの手塚の鼓動は止まらんばかりで、最悪の状況を想像せずにいられなかった。
「跡部っ」
(まさか、川に落ちたんじゃないだろうな?)
冷や汗をかきながら、いや、跡部に限ってそんなことはと、手塚は首を横に振った。彼は渓流釣りには慣れている。素人ではないのだ。しかしながら、川は侮れないという思いも交錯した。
おそらく誤って竿を川に落としてしまったのだろう。しかし、それならば、どうして跡部の姿が見当たらないのか。
嫌な予感と不安が一気に手塚を襲った。
血相をかえた手塚がどんなに川を覗き込んでも跡部の姿は見つからない。落ちたとしても、おそらくこの流れでは長くは留まってはいられないだろうと、思う。この流れの先を思い出して、居てもたってもいられなくなった手塚は、屈めていた身を起こして勢いよく駆け出した。
というのも、この先の下流には小さな滝がある。落差は3、4メートルといったところだが、もしかするとそこまで流されてしまったのではないだろうか。
急ぎ川に沿うようにして道を下り、小さな滝壺へと到着した手塚は、呼吸も整わないまま再び目を凝らした。しかしながら、人影はない。
「跡部−っ!?」
声を限りに叫んでみても、流れ落ちる滝に呑み込まれるように掻き消されてしまった。
あいにく携帯は圏外で通じない。窮地に陥った手塚は、蒼ざめた顔でしばし吸い込まれるように水面を見据えながら、どうするべきかを考えていた。とりあえず、携帯の通じるところまで急いで移動しようと、決めたとき。
流れ落ちる水の音に包まれていたその場所に、突如、奇怪な音が響き渡った。
ポロン、ポロロンと。
鍵盤の上を滑るような音色。
それは、確かに聞き覚えのある音だったのだが、あまりにも今の状況にはそぐわないものだったので、手塚はすぐさまその音の正体に気がつけなかった。
しかし、次の瞬間、信じられないことに滝壺の中央の水面が突如割れ、そこからぬっと男が姿を現したのだ。
その姿を見て、手塚は目を瞠り、その音の記憶に辿り着いた。それは、ピアノの音だ。そうして、現れた男を凝視し、声を荒げる。
「さ、榊先生!?」
「私はこの川を守る主。サカーキである」
低く響き渡る声は、やはり手塚が知っているその人の声に思えた。
不思議なことに水の中から現れたにもかかわらず、まったくその身体は濡れていない。右手で前髪を後ろに撫で付けるようにして整えたサカーキと名乗る男の顔は、どこからどう見ても氷帝学園の教師、榊太郎に相違なかった。しかしながら彼は同時に人間離れしていた。
どうやっているのか手塚には見当もつかなかったが水の上に素足で立っているのである。しかも、その格好は奇妙奇天烈で、手塚の知るところの古代ギリシャ人を彷彿とさせる白いローブのようなものをその身に纏いながら、首には薔薇模様のスカーフがまかれている。彫りが深い顔立ちだけにそこそこ似合っているところが、また何ともいえない。
面食らってしまった手塚は、二の句が継げなかった。あまりに疑問が多すぎて、どれから口にすればいいのかわからない。
どうして氷帝の教師がここにいるのか。
なぜそのような不思議な格好をしているのか。
どうやって水の上に立っているのか。
なぜスカーフをまいているのか。いや、スカーフはこの際どうでもいい。
混乱の渦に巻かれ溺れそうになっていた手塚の名を、低くよく通る声で彼は呼んだ。
「手塚君、」
やはり、自分の名前を知っているのだから、榊先生に違いない。
「君は何かを捜している、そうだろう?」
あまりに現実離れした場面に遭遇し、一瞬大事なことを失念していた。促されて我に返った手塚はあっと小さく叫び、縋るように彼を見た。
「榊先生。跡部を……っ。跡部を知っているんですか?」
「私はサカーキだ」
榊先生もといサカーキは落ち着いた口調で、訂正した。そうして、彼はふと身を屈め、足下の水中に手を入れると、そこから手塚の捜していたものをいとも簡単に引き上げたのである。
「跡部……っ!?」
意識がないのかぐったりとした様子の跡部が身体の半分ほどを水面上に、サカーキの手によって襟首を掴まれた形で引き上げられていた。安堵よりも、驚きが先に手塚の身体を貫いた。なぜなら、右と左の両手にそれぞれ。つまり二人の跡部がいたのである。異様すぎる光景だった。
どうして二人? とさらにパニック状態に陥りながらも手塚は、そんなサカーキの握力に感服した。あの跡部を、たとえ浮力を利用していたとしても片手で、それも軽々と持ち上げるなど並々ならない力がいるだろう。しかも、水に濡れた跡部を二人となるとその重さは相当に違いない。現実を逃避したいがためなのか、人間というのはこういう理解しがたい状況に陥ったとき、どうでもいいことを考えてしまうものなのだなと、手塚は頭の片隅で思ってから、再度二人の跡部を凝視した。
そうして気がついたのだが、半身は水中にあるというにもかかわらず跡部もまたサカーキ同様まったく濡れた様子がなかった。
「さて、手塚君。君の落とした跡部はどちらかな?」
「……」
正確に言えば俺が落としたわけではないのだがと、つっこみたい衝動を抑えながら、妙な風貌の他校教師にだしぬけに出題された難問に手塚は深く眉間に皺を刻んだ。
どちちかと問われても、右も左も跡部だった。
彼らは水上にいるため、近づいて確認することはできなかったが、遠目で見る限り姿かたちに関しては、どちらの跡部にも違いがあるようには思えなかった。
「わからないのか? 手塚君。君は跡部の恋人なんだろう?」
淡々とまるで当然のことのように問われた手塚は言葉につまり、困惑した表情でしばらく二人を見比べていたが、やがて重い口を開いた。
「あの、榊――いや、サカーキ先生。右と左の跡部は、一体どこが違うのでしょうか?」
性格だなどと言われてしまえばお手上げだ。なにせ今跡部はどうやら意識を失っているようなのだ。どちらの跡部も目を閉じて微動だにしない。それとも、瞳の色とでもいうのならば確かめようもないと、思いかけた手塚は、とあることに気がつき音にならない声を上げた。
「!」
「わかったかね?」
閉じられた目の下。
そうホクロの位置だ。
サカーキの右手に抱えられている跡部は、右目の下にホクロがあったが、左手の跡部の方は左目の下にそれがあった。
違いに気がついたものの、手塚の状況は依然変わらなかった。食い入るように二人の跡部を交互に見つめ、ぎゅっと唇を噛み締めた。
いつも見ている跡部の顔だ。ホクロがあることはむろん知っている。どこにホクロがあるかと問われれば、目の下だと即答することができる。だが、どちら側にホクロがあったかと、問われたら正直自信がない。右であったような気もするし、左であったような気もする。
(どっちだ? どっちだった? 思い出せ)
必死で記憶を辿った。今日、山道を共に歩いていた跡部の横顔に、果たしてホクロはあっただろうか?
なかったような気がする。いや、あったか?
そもそも、いちいちホクロがあるかどうかなんて確認したことはない。はっきりいって、そんなもの右だろうと左だろうとどちらでも構わない。手塚の思考は混乱を極めた。
「手塚君。悪いのだが、私も色々と忙しい身でね。次のレッスンを控えている」
レッスン? と一瞬、不可解に思ったが、それどころではない。
「どちらも君の落とした跡部ではないというのならば、このまま私はふたりとも連れて行くが」
「待ってくださいっ!!」
切羽詰った制止の声を上げ、手塚は縋った。そうして、深呼吸をして目を閉じた。
今朝の車中の記憶を必死で辿る。後部座席にゆったりと座す跡部の左の横顔。そこにホクロはあっただろうか?
ぎゅっと眉根を寄せて考えていた手塚は、決意とともに目をあけた。
「俺の、俺の落とした跡部は――」
後編へつづきます。