気づいたときには、『真理の扉』の前に立っていた。
「…また、来ちまった…か」
低く呟き視線を足下に落とすと、エドワードは苦笑した。
俺がこの扉をくぐりぬければ、俺の世界は守られる。
そう信じて、迷いを切り捨てここまで来たけれど、この胸に蟠る未練はなんだ?今すぐにも還りたいと思うのは、俺の心が弱いからなのか?
ゆるゆると顔を上げると、軋むような音を立てて扉がゆっくりと開いた。
しかし。
扉の中にあったのは、真っ黒な姿をしたモノ達の、沢山の目や嘲笑する口ではなく。
黄金色の光の中に立つ…
「…師匠(せんせい)…?」
そこには、師であるイズミ・カーティスが立っていた。
「イズミせん…ぐはっ!」
懐かしさに駆け寄った瞬間、イズミの見事な右ストレートが決まり、エドワードは思いきり吹っ飛ばされた。
「こンの…馬鹿弟子がっ!!」
状況が掴めず、左の頬を抑えて尻餅をついたまま呆然としているエドワードの胸倉を掴みあげると、イズミはずいっと顔を寄せてきた。
「…師匠…なんで…?」
「なんでじゃない!お前こそ一体なにをやっとるんだ?!」
そう言って、掴んでいた手を離す。再び尻餅をついたエドワードを見下ろし、イズミは腕を組んだ。
「なにって、俺は」
「どうしてお前はそうやって独りですべて背負おうとするんだ!」
ああ、師匠はすべて知っているんだ。
エドワードは立ち上がると、正面から師と対峙した。
「これは、俺が招いた厄災です。だから、俺が片をつけなくちゃならない」
まっすぐに見つめる、決意を秘めた金色の目。イズミはエドワードとアルフォンスが自分に弟子入りを志願した時のことを思い出した。
ああ、この子はあの頃と変わっていない…
己の信念を貫く意志を持った、強い瞳。
イズミは溜息交じりに苦笑すると、そっとエドワードに腕を伸ばした。そしてその肩を抱き、そっと自分の胸へと引き込む。
あの頃より大きくなったけれど、まだ充分包み込める小柄な身体に、イズミはなんだか嬉しくなって笑った。
「…せ、師匠、あの…」
突然のことに戸惑うエドワードをさらに強く抱いてやり、言葉を封じる。
「エド…お前はもう自分のために幸せになっていいんだよ。お前だけがこんな風に辛い思いばかりをすることなんてない」
そしてそのまま優しく、諭すように言葉を続ける。
「もう充分だよ、エド。お前は充分に苦しんで…罪を贖った。だからもう、自分の幸せのために生きていいんだ」
「で、でも…俺が元の世界に戻りたいと思ったから、沢山の人が死んで…」
今にも泣き出しそうな顔を上げたエドワードが、次の瞬間、表情を強張らせる。
「それより師匠…なんでここに…」
聡い子どもは、すべてを察したようだった。
「ああ、死んだんだよ、私は」
「!」
愕然としたエドワードに優しく微笑みかけて、イズミは彼の金の髪を梳いた。
「人体錬成という禁忌を犯し、等価交換であちこち内蔵を持っていかれていながら、私は随分と長く生きたよ。…これは寿命だ。お前の所為じゃない。それに、私の身体はぼろぼろだったけど、それ以上にとても幸せだった。最愛の夫はずっと側にいてくれたし、…お前達という弟子も…いや、私にとっては息子同然だったが…うん、お前達がいてくれた」
慈愛に満ちた微笑みを湛え、イズミはエドワードを見つめる。
「だからね、エド。師匠として…いや、お前のもう一人の母親として、私はお前に、お前自身のために幸せになって、生きて欲しいんだよ。お前が望む…お前の世界で」
「イズミ師匠…」
呆然と呟くエドワードをそっと離し、その両肩を強く叩く。
「エド。こちらの門は私が破壊してやるよ」
「え…?」
にやりと口元を上げると、イズミは立ちつくしたままのエドワードの横をすり抜けた。
「…っ!イズミ師匠!!」
慌てて振り返ると、晴れやかに笑うイズミがこちらを向いて立っている。
「いいかいエド。幸せになるんだよ。…誰でもない、お前自身のために」
「せんせい!!」
その名を叫んでも声は届かず…イズミは金色の世界に溶けるように消えた。
「…エドワード」
イズミが消えた空間をただ立ちつくして見つめていたエドワードの背後から、自分を呼ぶ別の誰かの声がする。
「エドワード」
…この声の、主は…
「…オヤジ?」
振り返れば、ホーエンハイムが優しく微笑みながら立っていた。それを認めた瞬間、エドワードの脳裏に『赤』がフラッシュバックする。
「…あ…」
ふらりとよろめいた息子をの腕を、ホーエンハイムは慌てて掴んで支えた。そして安心させるようにその頭をぽんぽんと軽く叩いてやる。
「まったくお前は…父さんが折角門を開いてやったというのに、またあちらに戻ろうというのかい?馬鹿な子だね」
「…っ誰もそんなこと頼んじゃいない!」
子ども扱いされて、エドワードはその腕を振り払った。
「俺は、あっちの世界で生きる覚悟を決めたんだ!こっちの世界に帰れなくても構わなかった!なのに…なのにアンタが…っ」
自分の命を代価に、エンヴィーを媒介にして門を錬成した。
龍の顎でかみ砕かれ、大量の血を流し…
「アンタを死なせてまで帰ろうなんて思わなかった!!」
エドワードの血を吐くような叫びに、ホーエンハイムは困ったように微笑む。
「だって、お前辛そうだったから」
「…え…?」
思いもかけない言葉に、エドワードは呆然とする。
「様々な可能性を模索して、失敗するたびに憔悴していくお前をみているのは…正直私も辛かったよ。だから、私も世界を渡る道を探していたんだ」
錬金術の存在しない世界で、お前を元の世界に還すために。
「トゥーレ協会を利用したのは…まぁあまりいいやり方ではなかったけどな。でも彼らは、私の予想以上の結果を生んでくれたよ」
そう言って笑う父親は、自身を含めて沢山の人間の命が失われたことなどなんでもないことのようで、エドワードにはそれが理解できない。
「だからって」
「うん。ただ私はどうも昔から、自分がよかれと思ってやったことがすべて裏目に出てしまうようでね」
ダンテのことも、エンヴィーのことも。
そして、トリシャと息子達のことも。
「いつもその罪の重さに逃げ出して…それこそ四百年も逃げ続けて。…まったく最低だな」
自嘲するホーエンハイムに、エドワードはかける言葉を失い彼を見つめるしかない。
「でも、お前は違っていたね」
そう言って、父はにっこり笑った。
「自分の罪の大きさを知りながら、そこから逃げることをせず、正面から向き合った。そして罪を犯した己を認め、必死に戦ってきた…私には出来ないことを、お前は果たした。本当に、自慢の息子だ」
「オヤジ…」
「だから私は父親として…お前になにかしてやりたかったんだ」
立ちつくす息子をそっと引き寄せると、ホーエンハイムはエドワードを抱きしめた。
「…ふがいない父親だけど…お前達を愛しているのは本当だ。…もっとも、そんな言葉でお前達に許して貰おうなどとは思っていながな」
応えないエドワードに、ホーエンハイムは言葉を続ける。
「いいかい?エドワード。お前は理解したはずだ。人は、生きていく上で世界とは無関係ではいられない。それはおそらくどの世界あっても変わらない。多分…等価交換よりも確かな、世界の理なんだ。そして、私たちは世界の一部である以上、あらゆる世界に存在するすべての人と無関係ではない。お前が生きるということは、すべての人間と関わるということだ」
こくりと、エドワードは頷いた。
「お前はどうも私と一緒で…思いこんだら突っ走る傾向にあるようだからな。走り出す前に、一呼吸置いて周りを見なさい。お前が大切に思う人達の顔を思い浮かべて、それでもなおやる価値があるかどうかを見極めなさい。周りを哀しませてなお、やる価値があるかどうか」
「…それは…オレがあちらの世界に戻ろうとしていることを言ってるのか?」
唇をとがらせて、拗ねたように呟いた息子に、どうだろうね?とはぐらかすように父親は笑った。
「私はお前に帰って欲しいと願ったよ。アルフォンスも、お前を取り戻したいと願っただろう。エドワード、お前は?」
帰りたいに決まっている。出来ることなら、あの優しい人達のいる世界に。
けれど。
「門を破壊するのは、オレにしかできない」
「私がやるよ」
間髪入れずに返ってきた応えに、エドワードは顔を上げた。そこには、優しく微笑む父親がいる。
「私が創った門だ。あの門のためにお前がお前の世界に帰ることを諦めるというなら、それこそ、本末転倒じゃないか」
だから、還りなさいと、そう言って笑う父は、幼い頃慕っていた父親と何一つ変わらなかった。
今なら、素直に言えるだろうか?
「…ありがと、オヤジ」
照れくさいので、父親の胸に顔を埋めて。
「あのさ…短い間だったけど、アンタと暮らせて…その…結構楽しかったぜ」
そして、おずおずと背中に両手を回して、一呼吸置いて。
「アンタのこと…たぶん嫌いじゃないから」
素直ではない息子の言い様に、ホーエンハイムは小さく笑う。
「ああ、知っていたよ。…お前の父さんだからな」
「自惚れンなよ、ばーか」
ははっと笑って、甘えるように頬をすり寄せる。大嫌いだと思っていたコロンの香りに、知らず、一筋の涙がこぼれた。
「愛しているよ、エドワード」
万感の思いを込めて、父親は息子を強く抱きしめた。
しばらくそうしていたものの、流石に照れくさくなってエドワードはゆっくりを顔を上げた。
しかし、自分を抱きしめていたのは父親ではなく…
「…アル…フォンス?」
にっこりと笑う蒼い瞳。それは間違いなくアルフォンス・ハイデリヒだった。
「な…んで?なんでお前がここに…」
言いかけて、はっと目を見開く。
ここに存在できるのは、魂だけだ。自分のような例外を除いて。
つまりは…
「アルフォンス…まさか…お前!」
辿り着いた結論に大きく目を見開き、顔を歪ませ、エドワードはがくがくと震えだす。
「…お前…俺の所為で…そんな…」
「エドワードさん」
ハイデリヒの呼びかける声も届かず、あまりの結末にエドワードは猛然と暴れ出した。
「いやだっ…アルフォンス…!」
「エドワードさん!落ち着いて!」
「アルッ…アルフォンス!!」
「エドワードさん!」
泣き叫ぶエドワードをハイデリヒは強く抱きしめた。震えの止まらない身体を撫で、あやすように背中を優しく叩く。
しばらくそうしていると、腕の中の小さな身体の震えがおさまってきた。時折小さくえずくように震えるものの、もう大丈夫かとハイデリヒは力を緩める。
「大丈夫ですか?エドワードさん」
覗き込んで問いかければ、こくんと頷くのが見て取れた。
「ごめん取り乱して…もう大丈夫だ」
ゆっくりと呼吸を整え、エドワードは顔を上げると、ハイデリヒを見つめた。自分を取り戻した様子に、ハイデリヒは安心したように微笑む。その微笑みが胸締め付けられるように苦しくて、エドワードは再び泣き出しそうに顔を歪ませる。
「…アルフォンス…」
「エドワードさん、実は僕、貴方に黙っていたことがあるんです」
「え?」
突然の切り出しに、エドワードは出鼻をくじかれた。
「ルーマニアで初めてあなたに出逢ったとき、僕は既に医者に余命一年の宣告をされていました」
「…え?」
「でも、あなたと一緒にいたかったから、頑張ってあそこまで長生きしたんですよ」
凄いでしょう?と、おどけたように笑いながら言うハイデリヒに、エドワードは訳が分からず面食らったような顔をする。
「エドワードさんと、少しでも永く一緒にいたいと思ったら、身体の方が頑張ってくれたみたい」
「…アルフォンス…」
「あなたといるのは本当に楽しかった。一緒にロケット工学を学んでいるときは、あなたの発想と理解力、知識の豊富さに驚かされたし、宇宙への夢を語るのも楽しかった。あなたが家に転がり込んできてからは、それこそびっくり箱みたいな毎日だった」
懐かしむように思い出を語りながら、くすくすと笑う彼は、微笑んだままエドワードを見つめる。
「十七年間生きてきて、自分から、誰かのためになにかしたいと思ったのは、あなたに対してだけだ」
家族とも違う、友情、というのともまた違う感情をあなたに抱いていた。だから、あなたがいつもどこか遠くの世界を見つめているのがとても切なかった。
「でも、あなたにとっては、弟さんと瓜二つの、夢の中の人間というだけだったかもしれないけど…」
「違う!」
エドワードは、即座に否定した。
「確かに、初めてお前に会ったときはアルが…弟が大きくなったらこんな風になるんだろうなって思った。だからお前に近付いた。でも、お前と一緒に過ごすうちに、外見が似ているだけだったすぐに気づいた。お前はお前だ。アルじゃない。俺にとって、お前はアルフォンス・ハイデリヒっていう一人の…大切な人間だ!」
「…ありがとう、エドワードさん」
エドワードの言葉に、にっこりと、ハイデリヒは嬉しそうに笑った。
「それより、俺はお前にずっと酷いことをしてた。俺は俺の都合でお前の世界を自分が構築した夢だと思いこむようにしていた。お前や、グレイシアさんや、ヒューズさんが、もといた世界の人と似ているのは、オレの勝手な想像なんだって、そう思い込もうとしていた。あの時お前に言われて気づかされた。…言われなければ気づかなかった!お前は俺にとって紛れもない現実だったのに…」
でも、もう取り戻せない。
優しいアルフォンス。彼がいてくれたから、たぶん俺はあの世界で生きることが出来た。
「ごめん…アルフォンス、ごめん…!」
黄金色の瞳を潤ませ、額を胸に押しつけて、小さな肩を震わせるエドワードの背中をそっと包み込むと、ハイデリヒはその金の髪を優しくあやすように撫でた。
「エドワードさん。僕は後悔なんてしていませんよ。覚えてるかな、僕は、僕が生きた証を残したいって言ったこと」
こくり、と顔を上げずにエドワードは頷いた。
「結局、ロケットで名前を残すことは出来なくなってしまったけど、後悔なんてないんですよ。…あなたを、ちゃんと僕の力であなたの世界へ送り出せたから」
だから、僕の死をあなたが悔やむことはない。
ハイデリヒはエドワードを抱きしめ、彼の髪に頬を埋めた。
「ねえ、エドワードさん。僕のこと、忘れないでいてくれますか?誰でもない、あなただけは、アルフォンス・ハイデリヒという人間がいたということを覚えていてくれますか?」
ハイデリヒの言葉に、エドワードは彼が自分に求めていることを理解した。いつも自分に優しかった、彼の願いを叶えたいと心の底から思う。
ならば自分が、彼の生きた証になろう。
「ああ、忘れない。絶対に。たぶん俺は、弟が少しずつお前の歳に近付くのを見つめながら、お前のことを思い出すよ。それから、星空を見るたびにお前と宇宙に行く夢を語ったことを思い出す。お前が俺にしてくれたことを、過ごした日々を、俺は絶対に忘れない」
真っ直ぐに見上げる瞳は、強く輝いていた。ああ、僕はこの瞳が大好きだった。太陽の光を溶かし混んだような色の瞳が僕を映し、微笑んでくれるのが嬉しかった。
「…あなたのこと、誰よりも愛おしく思っていました」
「アルフォンス…」
ありがとう、と。臥せたエドワードの瞳から、幾筋もの涙がこぼれ落ちた。それをそっと指先で拭って、敬愛を込めてその額に口づける。
「だからあなたは生きてください。…あなたの世界で、僕の分まで」
濡れた瞳で自分を見つめるエドワードに優しく微笑みかけて、ハイデリヒは彼の肩を突き飛ばすように強く押したのだった。
その4へつづく⇒