◆目次
夜は何のためにあるか
遠くの山へ
甲斐駒の翌日、赤石へ−T
甲斐駒の翌日、赤石へ−U
黒戸尾根
山小屋とテント
雨と夜
走る
憧れ
遠くの山でもあきらめることはない。「日数がかかる」という固定観念から自由になるのだ。日数が足りないなら、行動スピードを上げればいい。行動スピードが上げられないなら、行動時間を長くすればいい。そうすれば遠くの山にだって行くことができる―
朝の聖岳に登るにはどうすればよいかを考えていたとき、このことに思い当たった。午前0時に畑薙ダムを発ち、歩き通しで午前9時、晩秋のどこまでも青い空の下、南アルプス最南部の3000m峰である聖岳の山頂に立つことができた。そして、日がな一日誰もいない聖平周辺の草原で寝そべったり歩きまわったりして過ごし、翌日、上河内岳から茶臼岳へと稜線をたどり、畑薙へ下山した。数年前の秋のことだ。
この山行を終えたとき、山歩きの視野が、一気に開けたように思った。夜は眠るためだけのものではない。眠らずに歩けば、短い日数でも、遠くのさまざまな山に行くことができるのだ。
寝ずに歩けばどこだって行けると思い、前夜発日帰りの黒戸尾根往復で6月初旬の甲斐駒ケ岳に登った。夜10時に竹宇駒ケ岳神社を発ち、2時間ほど行ったところで使い古しのヘッ電が壊れて身動きがとれなくなり、道祖神の前でごろ寝するアクシデントに見舞われた。ヤッケを被って、すぐ近くを通り過ぎる動物たちの足音を聞きながらうつらうつらしたが、丑三つ時を過ぎると底冷えが厳しくなり、地面に横になっていることができない。午前3時、満月の明かりと薄明をたよりに歩き出す。
真っ暗な中、足裏感覚で歩いた黒戸尾根は、歴史を感じさせる良い尾根道だった。信仰の対象だった山のそこかしこに先達が積み上げた石仏や道祖神が、闇の中で今も息づいて、独りで登っている自分に話しかけてくるかのようだった。大げさかもしれないが、「黒戸尾根」という歴史と伝統の中の、最も現在に位置するところに自分も居させてもらっているような気持ちになる。単独行であって単独行ではない―、そんな思いを抱きながら登ったのは初めての経験だった。
朝7時。甲斐駒の山頂から、塩見、荒川といったはるか南の3000m峰を望む。ふと思う。この夜通し歩くパターンだと、いったい何日であの峰々まで行けるだろうか。学生時代のアルプス全山縦走のようなことができないだろうか。
帰宅してすぐに地図をにらむ。前夜発で黒戸尾根を登り、夜中のうちに甲斐駒を通過し、白峰三山に寄り道しなければ、夜になる前に塩見岳の手前、雪投沢の幕地までなんとか行けそうだ。翌日も暗いうちから歩き通し、荒川、赤石岳を越えて百間平まで、そして3日目に聖岳を越えて上河内岳、茶臼岳、そして畑薙ダムに下山する。黒戸尾根から畑薙ダムまで丸3日で行けそうではないか!雷の危険性をはじめとする午後行動のリスクや、3日間フルに歩きとおす体力の必要性をクリアできれば、社会人には不可能だと思い込んでいたアルプス大縦走ができるかもしれない。甲斐駒を踏んだ翌日の夕方に赤石岳の山頂に立っているなんて、魔法のようじゃないか!
もう居ても立ってもいられない。翌週からすぐに夜間長時間山行のトレーニングを開始する。奥多摩駅から雲取山、長沢背稜をめぐり日原まで13時間、渋沢駅から塔ノ岳、蛭ヶ岳、犬越路をまわり西丹沢まで12時間、奥多摩駅から金峰山まで24時間、など。これらの山行で、長時間にわたって夜の山を歩き続ける体力には問題がないことを確認できた。あとは、幕営道具一式を含めた10キロほどの荷物を背負ってこれと同じように歩けるかだ。だが、これに関しては、実のところあまり心配はしていない。これまでの経験で、重い荷物を背負えてもそれがすなわち山を速く歩く能力にはつながらないが、速く歩ける力があれば重い荷物も問題なく背負うことができる、ということが分かっているからだ。
満を持してのぞんだつもりの南アルプス大縦走は、7月に大失敗した。黒戸尾根から畑薙ダムまでを前夜発2泊3日で踏破する。そのためには夜中のうちに甲斐駒を越えてしまわねばならないと考えたのだが、7合目をすぎ、森林限界を抜けたあたりで悪天につかまった。深夜2時、雨が叩きつける頂上に登りついたが、闇夜の濃霧で下山路の位置がわからない。やむなく頂上神社の陰でビバークする。
しかし、明け方に向け、風は暴風に変わった。シェルター型のテントが激しく揺さぶられ、暗闇が恐怖を増幅する。夜よ早く明けてくれ。寒さのなか、テントごと宙に飛ばされないよう四つ足で大地に踏ん張りつづける。 長い長い数時間が過ぎ、ようやく外が薄明るくなってきた。風も少しおさまってきたようだ。しかし、心はもう完全に下山モードだった。大縦走計画に夢中になるあまり、計画どおりいかなかった場合への心構えや、遅れの許容範囲など、ほとんど何も考えていなかったのだ。
朝5時。明るくなった頂上を逃げるように後にする。霧の濃さは夜が明けても変わることなく、北沢峠方面の道が相変わらず判然としないままであったことをたった一つの言い訳にしながら。
下るにつれ、雲は天高く遠ざかり、まぶしいばかりの夏空になった。
◇1日目
2004年8月5日。再び中央本線長坂駅に降り立つ。夕闇にその姿を消そうとしている甲斐駒ケ岳は、上半分が真っ黒な雲に重く覆われ、悪天をうかがわせる。
今回は計画を修正した。深夜の岩稜や砂礫帯で道を失うことを避けるため、甲斐駒山頂に夜明け頃到達するよう設定した。そして、前回は、計画が硬直化していたことに加え、黒戸尾根をできるだけ早く登りきろうとする意識が強すぎて体力の消耗し、それが気力の低下につながったのではないか、という思いがあり、登りの実働時間6〜7時間に加えて、2時間の休憩時間をもつことにした。そして荷物も食糧を中心に軽量化をほどこし、1キロ減の9キロとした。
また、この長い計画、とくにもっとも長い区間を歩く初日を成功させるには、北沢峠についた時点で疲れを覚えることなく、まるで何事もなかったかのようでなくてはいけない。甲斐駒は「できるだけ速く」ではなく、「できるだけ消耗しないで越える」ことを念頭におくこととした。
登山口は雨だった。しかし、生命の危険を感じるほどの悪天以外は、あらかじめ出会う覚悟さえできていれば、どうということはない。今回は、たとえ3日間すべてが雨の中であっても歩きとおすつもりできた。19時30分。竹宇駒ケ岳神社を出発し、急登をゆっくりと登り始める。
歩き出して4時間、五合目小屋に着くころには雨はどうやらあがってくれたようだ。ここで大休止をとり、時間調整を行おうと、無人の小屋にあがり、紅茶を沸かしたり、うとうと居眠りしたりして2時間ほどを過ごした。
午前2時、出発。空を見上げると満天の星空が広がっている。ここから塩見岳手前までノンストップで歩きとおすつもりだ。
7合目へむかう尾根は、急傾斜で高度がぐいぐい上がっていく。しかし無理は禁物だ。さきほどからどうも右のふくらはぎに少し痛みがある。前回の敗退後、気合を入れようとトレーニング強度を上げたときに痛めてしまった箇所だ。先ほど聴いていたナイター中継で解説の鈴木啓示氏が、「ふくらはぎを痛めて戦線離脱というのは選手生活も晩年だという証拠なんですよ」としゃべっていたのを思い出した。もっとも僕の場合は年というよりも、単なる筋力不足かもしれないが。この程度の痛みなら支障はないので、これ以上ひどくならないよう注意して最後まで歩きとおそう、と思う。
八合目付近で、クライマーが愛用する有名な岩屋を見つけ、小休止。なるほど、広々して、登山道のすぐ下とは思えないすばらしい環境だ。ここから森林限界を、無風の中、抜けていく。
漆黒だった空は音もなく群青色へと移ろいはじめた。それが紫色に変わるころ、甲斐駒ケ岳頂上に到着。3週間前のビバーク時と同じ場所とは思えない、夜明けの静けさにひたる。紫に染まる砂礫のなかに刻まれた北沢峠からの道を一人の登山者が登ってくるのが、今日こそはっきりとわかる。東の空がオレンジに変わり、やがて日が昇った。単独縦走の若者が上がってきた。彼は、南アルプスを北上すること12日目だそうで、主要な頂上では赤石岳をのぞいて、すべてご来光を拝むことができたそうだ。こちらの2泊3日計画を話すと、驚いた顔で、「少し悔しいな」、と言った。こちらこそ、山にどっぷり浸れてうらやましいよ。正直でまっすぐな眼をした若者だった。これから黒戸をおりて、そのまま八ヶ岳を縦走するらしい。お互いがんばろうと言葉を交わし、それぞれ反対方向へ下山路をとる。
北沢峠を、ほとんど疲れのない状態で通過する。初日を塩見岳手前まで歩きとおすには、まるで北沢峠から入山したかのような余力がないと難しいと思っていたので、ここまでは順調にきたと言っていいだろう。
仙丈岳まで約1000m登り返す。黒戸尾根が標高差2200m、北沢峠まで1000mを急下降して、更にこの登りだから、脚に負担になっていないはずはないが、山頂にむかって広がる青空と白雲の爽快さに疲れを感じずにすんでいるのかもしれない。
大勢の登山者でにぎわう夏のアルプスらしい仙丈岳山頂を後に、仙塩尾根へ踏み出す。一転して人影はなくなり、ここからは、視界のない樹林帯の中、ひたすらいくつもの小ピークを越えていくことになる。行く手に目をやると、緑に覆われた延々と続く稜線はその先で立ちはだかるような三峰岳を越えていく。その三峰岳のはるかかなたに、今日の目的地である塩見岳が小さく見えている。地図上でその遠さを想像してはいたつもりだったが、実際に目にする高低差と距離感の上に広がる空間は信じられないほどに広大で、あんなところまで歩けるわけがない!と思わせるに十分なスケールがあった。だが、逆に、これを歩きとおすことによる充実感は、これまで味わったことのないものになるだろうということも容易に想像できた。
仙塩尾根特有の、小ピークが繰り返すアップダウンに力は徐々に吸い取られ、三峰岳の800m程の登り返しで、最初の疲労がやってきた。樹林帯の中、折りしも降り出した強い雨がやむまで、ポンチョを被りうずくまって休憩する。三峰岳は、白峰三山から見ると単なるでっぱりだが、仙塩尾根上にあっては、まるで壁のように立派な山容を誇る不思議な山だ。その2999mの山頂に、15時15分、ようやく到着。今日の行動可能な時間は、おそらく夕暮れまでの残り3時間ほどだろう。さあどこまで行けるか。
熊ノ平小屋から塩見へ向かう道は、これまで何度も歩いているが、そのいずれも、特に起伏のない穏やかな森の散歩道で、あっという間に塩見岳に着いてしまうという印象だった。しかし、今日の疲れた身体ではまったく違った山道を味わうことになった。ちょっとした登りがつらい。平坦な道もどこまで歩いても終わることがなく、もう完全に疲れ果てた。塩見手前の幕地である雪投沢源頭まで行くと、完全に夜になりそうなので、目的地をその少し前、北荒川岳南側の幕地に切り替える。
今日最後の急登、北荒川岳を根性で登りきると、夕立が雷とともにやってきた。木々のない砂礫に覆われた頂上稜線を、横殴りの雨にうたれながらダッシュで走り抜ける。やがて道は花畑の中に降りていき、北荒川岳の幕地に着いた。18時00分。長く、充実した一日がようやく終わった。
昔は、この幕地には夏だけ管理人がいたものだったが、今は閉ざされた小さな小屋がひっそりと佇むだけの、荒廃した寂しい広場に変わっていた。暮れはじめた花畑だけが昔とかわらず夏の花々を咲かせている。
僕のほかにはだれもいない。おだやかに降り続く雨の音が、静かに聞こえるだけだ。ジフィーズを味わうように食べ、すぐに寝入った。
◇2日目
2時55分。テント場を出発。今日は塩見岳、荒川岳、赤石岳の3つの3000m峰を越えて百間平まで行くつもりだ。
昨日も今日も、ラジオをつけて歩く。普段はそんなことはしないのだが、昨日たまたま聞いたNHKの深夜番組「ラジオ深夜便」が面白かったのだ。昨晩は、トミー藤山という女性カントリー歌手が落ち着いた語りと歌をきかせてくれ、広島平和祈念館の元館長高橋さんという方が、平和への思いを淡々と語っていた。そして今日は、ビートルズとクラプトンのクラシックにつづき、沖縄1フィート運動という活動をつづけておられる中村フミ子さんという90歳の元教師の方が、戦地へ送り出した教え子たちへの悔恨の思いを語っておられた。日中のメディアでは接することのできなくなった、静かに淡々とした方々が実に魅力的であった。それにしてもつくづく思う。今の日本が平和だからこそ、こんな大縦走をやっていられるのだと。その当たり前の事実に気付かされる。深夜放送なので普段は縁がないが、いつかまた聴きたいと思う。穏やかで静かな、そして芯のある良い番組だ。
塩見岳山頂で、昨日につづき日の出を見る。北の方には、甲斐駒ケ岳、仙丈岳がはるか遠くに見える。昨日の朝、あそこにいたとはにわかに信じがたい光景だ。
三伏峠への道はおだやかな森の中に続くが、脚がどうもおかしい。疲労だけでなく、ふくらはぎの痛みが激しくなってきている。本谷山で休憩しながら考える。この脚で、あがらないスピードで、本当に南部に突入できるのか?南部はエスケープに使える下山路も少なく、またあったとしても丸1日を要するような道ばかりだ。今回の山行には予備日はない。どこかで脚を完全に痛めて歩けなくなるかもしれない。そんなときはどうするのか?きちんと下山することを最優先に考えるならば、今回は三伏峠で下山とすべきではないか?
悩んでいたとき、隣で休んでいた福岡から来たという元気な50歳くらいの女性2人組と声をかわす。広河原から入り、白峰三山、塩見、そして赤石岳まで足をのばして下山する1週間のコースとのこと。仙塩尾根から来たの?、小屋が少ないから自分たちには難しいけど、いつか行ってみたい憧れのコースなのよ。何、脚が痛いの?じゃあこの湿布をあげるわよ。これは市販のじゃないからよく効くわよ。
昨日だってそうだ。単独行と言ったって、独りではない。すれ違う人たちからやる気と元気をもらいながらここまで来たのだ。この脚がすぐに治ることはおそらくないだろうが、これ以上痛めることのないスピードを探りながら注意深く歩けば、もしかしたら目的地にたどり着けるかもしれない。
腹を決める。行っちまえ!
ずっと以前、トップクライマーのリン・ヒルを紹介した新聞記事で見た、「Go For It!」という英語のフレーズが忘れられない。クライミングルート中の、困難で、落ちたら怪我するかもしれないという恐怖を覚える箇所で、行くか逃げるか迷ったとき、彼女は「Go
For It!(行っちまえ!)」と自分に言い聞かせるのだ、というような内容だったと思う。ただやみくもに突っ込むのではなく、リスクを承知した上でそれでも行こうと心に決める―、ここにある心の働きこそがクライミングをクライミングたらしめる部分であり、それはまた、危険の程度に違いはあれ、山登りにも同じことが言えるのだと思う。「Go
For It!」の精神を失くしては、あらゆる山登りは面白くない。そして一旦腹を決めたら、全力を尽くしてとことん行くのだ。
三伏峠は、沢沿いに点々とあったテント場が廃止され、幕営可能地は峠部分だけになっていた。通りがかった沢小屋は、人影もなく静まり返っていた。この沢沿いにたくさんのテントが花を咲かせ、みんなが大声で笑い合っていた昔の光景が脳裏に浮かぶ。北荒川の幕地もそうだった。山々が人里から離れているから寂しいのではない。変わらぬ山々と対照的に、時の流れの中で急激に消え果ていく人為の姿を山中で目にするときに、悲しみに似た寂しさを覚えるのだ。人間とはなんとはかない存在なんだろうと。
小河内岳へ向かう途中で、小学生の男の子とお父さんの2人連れに出会う。すごいね、遠くまでいくんだねー、と驚いてくれる。すれ違い、別々の方向に遠ざかりながら、時折後ろを振り向くと、親子がこちらを見ている。そして、お互いが稜線の向こうに消えていこうとするとき、子供が遠くの声でなにかを叫んでいる。どうやら「がんばってねー!」と言っているようだ。よーし気合が入った。これはもう頑張るしかないでしょう!「ありがとおーっ!!」
森の中にある高山裏のテント場も、草が生い茂り、かなり荒れ果てていた。沢沿いにいくつかあった幕地もすでに消滅していた。どうやら、アルプスのテント利用者は激減しているようだ。
午後になり、雨が降り出した。荒川岳への標高差数百メートルのガラ場を登る。脚をかばうためスピードはあがらないが、止まることなく、1時間ほどで淡々と登りきることができた。14時30分、前岳を越えて荒川小屋へのお花畑を下降していくうちに雨はあがり、前方に巨大な赤石岳が見えてきた。あまりにも大きなその姿に圧倒される。それはともかく、これから赤石を越えるとすると、百間平到着はおそらく18時過ぎとなるだろう。昨日よりペースが落ちたため、想定タイムより2時間ほど遅くなってしまった。体力はまだ残っているが、天候が今ひとつ不安定なこと、悪天になったとき、暗くなったとき、岩稜帯で道を失ったときのことなどを考えると今日は荒川小屋でストップすべきだろう。
荒川小屋に15時20分到着。岳樺に囲まれたかつての美しいテント場はつぶされて、真新しい小屋が立っていた。テント場代を払うために小屋の扉をあけると、中は中高年登山者で一杯だった。本当に満員状態だ。それに比べてこのテント場の空き様はどうだ。どうなっているんだ、今、山を登っているのはほんとうに登山者なのか。
突然、バケツをひっくり返したかのような雷雨がやってきた。あっという間にテント場は川のような流れになり、雷の爆音が真上でがんがん鳴りだした。この天候で赤石岳に向かっていたら一体どうなっただろうか。身を隠すもののない3000Mの稜線をこの雷の下歩くことはありえないし、あってはならない。また、人間の雨具をせせらわらうかのような大雨と強風に2〜3時間打たれ続けたら自分の余力はどうなっただろう、考えるだけで身震いがする。山をなめてはいけない。ちっぽけな自分の力なんぞを過信してはならない。自分の持てる力をすべてつぎ込んだ山行だからこそ、このような思いもまた一層強烈に心に刻み込まれたような気がする。
◇3日目
荒川小屋を2時50分出発。見上げる空に雲はなく、今日も好天が望めそうだ。
斜面を巻くトラバース道を終え、森林限界の稜線を頂上へ向かう。星がすぐ近くに見える。小赤石への稜線に出るとき、オリオン座を目指して歩いているかのような感覚にとらわれた。振り返ると、荒川小屋に無数のヘッドライトが、まるで宇宙に浮かぶ遠くの星雲のように瞬いている。
星空と地平線の薄明からなるまだ暗い夏の夜明け前、稜線はいっとき無音の世界となる。時折訪れる朝風が這松の匂いをはこぶ音のする以外は、砂地を刻む自分の足音と息遣いが聞こえるだけ。僕は、夏のアルプスのなかで、この一瞬がもっとも好きだ。あまりの静謐さに満ちたこの時間がもう少し続いてほしいような、すぐそこまで来ているエネルギーに満ちた夏の朝が待ちきれないような、そんな空間を二本の足で登っていく自らの身体に意識は集中し、全身に力がみなぎる感じがする。夜明けに向かういっときの時間は、一日のうちでもっとも生命が生き生きと躍動する時間帯なのかもしれない。
赤石岳の山頂。3日目の朝日を見る。北の方角には、おとといから歩いてきた山々が延々と見えている。ああ満足だ。甲斐駒の翌日に赤石岳の頂上にいる、という目標こそかなわなかったが、よく歩いたものだと思う。この先に待ち受ける行程はまだまだ長い。今回の山行に予備日はなく、昨日、百間平までたどり着けなかった時点で茶臼岳まで踏破するのは難しいと考えていたが、今朝、脚の状態が更に悪くなっているのが分かり、赤石岳で下山することを決める。
百間平から聖岳へと続く稜線もぜひ行きたかったが、今回は今の自分が持っている全ての力を出すことができた気がして満足することができた。残念な思いとは別に、悔いなく下山することができそうだ。
脚をひきずりながら、暗い森のふかふかした道をサワラ島へ駆け下りる。3時間ほどで林道に降り、そこから畑薙ダムへと歩く。今、この道を歩く人は誰もいない。サワラ島で泊まることを前提に、みんなリムジンバスに乗るのだ。でも、僕はそれがいやだった。この区間は、昔から一度もバスに乗ったことがなく、歩くものだと思っていたし、特に今回はどうしても、黒戸尾根から畑薙ダムまでを歩いてみたかったのだ。脚は痛かったが、杖をつけば快調なペースでとばすことができる。晴れ渡る空の下、やがてダムが見えてきた。終着点だ。
バスを待つ間、夏の強い日差しを浴びながら、夢のような3日間を振り返る。まだ冷静に振り返ることはできないが、いろんな人に励まされることで力をもらった3日間だったように思う。そして、2本の脚よ、ほんとうにお疲れさま。
◆黒戸尾根
標高差2000mを超える黒戸尾根を入山口に選んだのにはわけがある。黒戸尾根こそが南アルプスの玄関口なのだ。高校生の頃に購入し、今も愛用するヤマケイのアルペンガイドに次のような記述がある。長くなるが抜粋しよう。
「甲斐駒ケ岳の表登山道として、この黒戸尾根コースがある。数本ある甲斐駒の登山道のうちでも、この黒戸尾根を登って頂上にたった、ということが、まず南アルプス登山をりっぱになしとげたことにも通ずるのだ。」、「甲斐駒ケ岳と仙丈岳をつなぐ山旅は、交通機関の関係もあって、山梨県側から入るのがもっとも順当であり、古くからそれにそって縦走がなされていた。最近は、伊那北方面から戸台〜北沢峠に至り、ここをベースにして甲斐駒と仙丈を往復登山する、という形式が増えてきているが、やはり、昔ながらの大荷物を背負い辛い登りや長丁場に耐えてこそ、山はいつまでもその人の心に生きつづけるのではないだろうか。」(「アルペンガイド南アルプス」山と渓谷社)
古くさい昔の考え方だと思う人もいるかもしれない。僕もこれを初めて読んだ高校生のときは、押し付けがましいと感じ、甲斐駒は黒戸尾根以外から登ろうとすら思ったものだった。しかし、全山縦走も含めて何度も何度も南アルプスの山々を越えていったのちも、この言葉はなぜか私の心に残り続け、いつしか南アルプスという存在を説明するうえでなくてはならないものとなっていった。楽をしては山を本当に楽しむことなどできない―こうした馬鹿馬鹿しいほどに実直な考え方が、どっしりとした山々が重厚に連なる南アルプスの登山をそのまま表しているのだ。かく言う僕も学生時代におこなった大縦走はいずれも北沢峠を起点にしたものだったので、今回こそは、絶対に黒戸尾根から縦走を始めようと、心に決めていた。
この執筆者は山岳写真家の白旗史朗氏。氏の写真と同じく、対象に正面から向き合うかのような文体で貫かれた緑の表紙のガイドブックは、単なるガイドにとどまらない、南アルプスへの敬意と愛情にあふれたすばらしい一冊の作品であり、名著であったと思う。最近のガイドブックには、このような気合の入ったものが見られなくなった。カラー化して情報量を増やせばよいというものではない。この山々に自分という存在をぶつけてみたい―そういう気持ちをかきたて、山へいざなってくれるものが本当のガイドブックであると、僕は思う。
数年ぶりに夏の南アルプスを本格縦走して、とにかく驚いたことがある。それは、以前にくらべて幕営地で見かけるテント数が激減したことだ。甲斐駒七合目、熊ノ平、雪投沢、三伏峠、高山裏、荒川小屋―いずれも、テントは数えるほどだった。もしかすると、曜日の関係や、僕が通過した時間帯の影響もあるのかもしれない。ただ、閑散とするテント場とは対照的に、山小屋はどこもにぎわっていたし、事実、山で出会う登山者の装備は、どれも小屋泊まりを伺わせるものであった。
テント泊から山小屋利用へという、南アルプスにおける山行スタイルの変化は、まずは中高年登山者が激増したことに、その要因が思い当たる。今回、すれ違った人たちの多くは、いわゆる中高年登山者と言われる年齢層の人たちで、以前に夏のアルプスの主流をなしていた大学・高校をはじめとする若者たちのパーティをみかけることは、ほとんどなかった。テント山行は荷物が重くなり体力を要するので、テント泊と山小屋利用の比率は、単純に若者と年配者の割合と比例するのだろう。
荒川小屋が幕営地をつぶして宿泊棟を建てたことに、こうした傾向が顕著に現れている。中高年登山者の増加と山小屋の充実は相乗効果をなして、アルプスの山々がどんどん手軽に入山できるようになる傾向にあるように思えた。
これに関しては、僕はテントを背負う体力のない人たちでも南アルプスの3000m峰に立つことができるようになり、よかった、とは思わない。登山はその山域に見合った体力が要求されるものであり、体力のない人たちでも楽しめるよう山の設備を充実させていくことは、本末転倒であるように思うからだ。もちろん、山はいろんな楽しみ方ができてよいと思うし、山小屋の存在を否定するつもりもない。しかし、現在のテント泊と山小屋利用の比率は、あまりにもアンバランスであるように思うし、山小屋利用での登山が当然であるかのようになっていきそうな(既にそうなっている?)傾向には強い違和感を覚える。
なぜなら、「すべてを自力で行うこと」こそが、ほかでは味わえない、登山ならではの魅力であると思っているからだ。すべての必要な荷物を自分で背負い、すべての判断を自ら行うことこそが登山だと思っているからだ。僕には、山小屋は「他力」であると思える。山小屋を利用して高くて眺めのいいところに登るというのは、登山というよりも、旅館を利用して珍しい場所に行ってみようという、旅行に近いのではないだろうかという気がする。
そして、偉そうなことは言いたくないが、山小屋利用の3000m峰と、テント泊の低山山行とどちらを選ぶかといわれれば、僕は後者を選ぶ。テントでは、夜の静けさ、布地を揺らす風と雨の音、周囲をうろつく動物の足音など、山の息遣いをより濃く感じることができるからだ。
山の高さなど重要ではない。頂上からの眺めだって、写真が自分の記憶と取って代わってしまうくらいのものでしかない。だけど、五感で感じた山の気配は、不思議と心に残り続ける。より強く山を感じる―テント泊はそのための、とても有効な手段なのだと思う。
◆雨と夜
だいぶ以前の10月、東北の山々―月山、八甲田、白神(追良瀬川)、浅草岳を2週間ほどかけて、はしごしたことがある。この年の東北地方は、天候不順に台風の襲来が重なり、農作物に大被害が出た。稲は育たず、スーパーの店頭には、傷物のりんごが安値で並んだ。
山も、見事に雨だった。2週間、雨の降らない日は一度もなく、靴の中には常に水がたまり、毎日濡れたシュラフで眠った。
僕が雨の山を楽しめるようになったのは、このときからだ。
最初は濡れるのがイヤだった。少しでも濡れないように、濡れたものは乾かすようにしようと思っていた。しかし、雨が4日も降り続くと、そんな努力が馬鹿らしくなってくる。濡れたから何だ?何か困るか?別に濡れたままでいいじゃんか。そう思うと、一気に気楽になった。確かに濡れること自体は「愉快」に属するものではないが、先入観抜きに現在濡れている自分を眺めてみると、「絶対避けるべきもの」と言うほどでもない。体を冷やしすぎることさえ気をつければ、別に濡れたっていいのだ。
それからはぐっしょり濡れたテントをたたむのも、滝のような道を歩くのも、濡れた藪を漕ぐのも平然と行えるようになった。慣れてさえしまえば、雨の山独特の風情が心を捉えるようになる。真っ白なガスは遠近感を失わせ、近くのはずのピークを水墨画の遠景のごとくに見せる。濡れて鮮やかさを増した緑の葉々は落ちてくる雨粒にゆらゆらとゆれ続ける。
これに対し、夜の山には慣れることがない。いや、夜間山行を繰返せば、慣れはする。だが、夜の闇に対する恐怖感は必ず心のどこかにある、というべきだろう。ほかの人に聞いてみたわけではないが、暗さに視界を奪われるということは、人間にとって本能的に恐ろしいことなのだと思う。
しかし、ひとつだけ、夜の山でしか絶対に味わえない楽しみがある。それは、朝の訪れだ。夜にどんなになれたつもりでいても、鳥の鳴き声とともに朝の明るさがやってきたときに必ずといっていいほど感じる安堵感と喜びは、闇がいかに自分の心をこわばらせていたかを気づかせてくれる。これは、一晩中闇の中を歩き続けた者にのみ与えられる、夜からのご褒美だ。
いくつの不愉快を楽しさに変えうるか。いくつの先入観から自由になれるか。これは、僕にとって結構重要な山の楽しみである。
◆走る
夜間山行によって遠くの山へ行けることに喜びを見出した僕だったが、山を走ろうとは全く思わなかった。山を走るというやり方があるのは、なんとなく知っていた。しかし、それは山を楽しむというよりも、走っている自分自身にのみ興味が向きがちな、山を「単なる走る場所」としか捉えられない行為ではないか、という印象をもっていた。山は僕にとって楽しみ味わうために歩くものであり、走る場所ではなかった。
しかし同時に、自分が行ってきた山歩きのスタイルには限界、というか、モヤモヤしたもどかしさを感じていた。じわじわと長時間行動するだけではない、もっと突き抜けた山行ができるはずだ。そう考えはじめていた僕が、「山は歩くもの」という固定観念を捨て、「一度走ってみるか」と思ったのは、必然だったのかもしれない。
10月。秋の奥多摩を走った。6月の夜間山行と同じコース、奥多摩駅〜石尾根〜雲取山〜長沢背稜〜一杯水だ。青く澄み渡る秋空の下、石尾根を走り出す。遠くにみえていた山があっという間に近づいてくる!なんという速さだろう。雲取山はこんなに近かったのか。そして、夜間山行で13時間だった所要時間は、8時間だった。登りは走らず(走れず)、その他の部分も大したスピードで走れたわけではない。それでもこの速さで帰ってこられる。ゆっくりであっても、「走る」こと自体がいかに歩きとは違うスピードをもっているか、ということだ。風を切って走るその感覚は、文句なしに楽しかった。まるで自分が風になったかのようだ。「単なる走る場所」どころか、山を走りまわる獣たち同様に、山の一部になったような気がした。山を楽しめるかどうかは、走る歩くに関係なく、それ以前の山に対するスタンスの問題なのだ、ということもよく分かった。
半日あれば1泊分の、1日あれば2泊分の行程を楽しむことができるなどということは、歩きの枠に留まっていては考えることすらありえなかった。
山を走る―このことは、「限られた時間で遠くの山へ行くには」という試行錯誤への、決定的な答えとなった。
◆憧れ
僕の山の世界に広がりを与えてくれたのは、芦沢一洋氏だった。
「テントを張ること、テントで一日を過ごすことの楽しさを教えてくれたの、”ニック・アダムス”だった。私は ニックに憧れ、彼の生活を慕い、川岸にテントを張ることばかり夢見て毎日を過ごしていた。ニックとの出会いは、ずいぶんと昔のことなのだが、そのころ芽生えたテントへの憧れ心は、今も少しも変わっていない。」(『アウトドア・ものローグ』芦沢一洋著、森林書房)
ニック・アダムスは、ヘミングウェイの短編集『われらの時代に』に登場する主人公だ。
「テントの開口部には、蚊除けの寒冷紗を張りつけた。背嚢から取り出してきたいろいろなものを手に持って、ニックはその下をかいくぐり、テントの中に入った。持ち込んだ物は、傾斜したキャンヴァス屋根の下の枕元に置いた。褐色の屋根から光が透過してテントの中は明るかった。キャンヴァスのいい匂いがした。テントの中にはもう、心の安らぐ何か不思議な雰囲気が籠もっていた。テントの中に這い入るとき、ニックは幸福だった。今日これまでも幸福を感じたことはあった。だがこの心地はやはり格別だ。何もかもが済んだ。さっきまではテント張りの仕事が残っていた。今はそれも済んだ。辛い一日だった。本当に疲れた。だがそれも今は済んだ。キャンプができた。居場所ができたのだ。何ものも彼に触れることはできない。ここはいいキャンプ地だ。そのいい場所に今、彼はいる。自分で選んだ場所に、自分で作った家の中にいるのだ。彼は空腹を覚えた。ニックは蚊除けの下をくぐってテントの外に出た。」(『ヘミングウェイ釣文学全集』上巻「鱒」ヘミングウェイ著、谷阿休訳、朔風社)
自分がそれまで、何気なく山でテントを張ってきたときの感情がここに詰まっている、それを純化し豊かに表現したものがここにあるのだと思った。
先人が残した文学や遠い国の人への芦沢氏の想いは、多方面に及ぶ。ニック・アダムス、田部重治、石川欣一、ケルアック、ロバート・フランク、ヘンリー・D・ソロー・・・、。彼らを紹介する氏の文章は、彼らへの憧れと自然界に対する敬意に満ちあふれ、その先人たちの文学と同じくらい魅力的だった。いわゆる登山家でもなければ、強靭な体力にめぐまれていたわけでもなかった氏は、先人たちへの憧れを抱いて、森と川にそっと親しんだ。その穏やかで優しいあり方は、僕にとって、どんな山を登ったか、どれだけ難しいルートを登ったか、というような価値基準とはちがう親しみを覚えさせるものだった。先人たちの世界がどんなに魅力的なものか、そして、山の中にいることがどんなにすばらしいことか、僕はそれを氏から教わったと思っている。
芦沢一洋と出会ってから長い時間がたったが、そのころ抱いた氏への憧れ心は、ハードなスタイルで山を歩くようになった今も、少しも変わっていない。