第次大戦における日本の電探兵器による防空作戦の実態
       
       〜澤木修一氏の聞き取りから〜

澤木修一氏(1921〜)は私(野島恭一)の大叔父に当たります。第二次世界大戦末期、陸軍将校として電探兵器(レーダー)の部隊に所属していました。2004(平成16)年に聞き取りをした際、自分の軍歴をまとめてくれましたのでここに掲載します。
 澤木氏の聞き取りのきっかけは「浜松 大久保空襲」聞き取りの過程で、なぜこんな田舎が艦載機でねらい打ちに様な空襲を受けたのかという疑問を持ったことがあります。今回の聞き取りでその疑問が解けました。警戒機乙から発信される電波を米軍は傍受し、その方向に進めば日本本土の目的地に難なく到着できます。日本軍のレーダーはアメリカ軍にとっても利用価値があったのでした。大久保がねらわれたのは、アメリカ軍の気まぐれではなく、大久保町西の平・雄踏町田端にあった日本のレーダー基地を攻撃するためだと思われます。この事情は殆ど知られていないのではないかと思います。電探部隊は編成が新しく戦友会も存在しないとのことです。本土決戦期の貴重な証言ではないかと考えています。

私の経験した電波探知機(電探)澤木修一
 太平洋戦争(第2次大戦)の中頃(18年頃)から雄踏町宇布見(現在田端町営住宅)付近に陸軍の電波探知機の基地がありました。電探は大戦勃発時に日本軍はフィリッピンのマニラに侵攻、米軍の使用していたレーダーを参考にして日本で製作したと言われています。
  日本陸軍が実戦配備したのは18年頃からと思います。電探には当時次のような種類がありました。
 ○警戒機 甲 A点(たとえば水窪)からB点(例えば雄踏)に向かって常時電波を発信する。もし、A・B線上を  航空機が横断通過すれば受信所Bで発生する唸音で通過を探知する。内陸地では縦横にこの警戒線を設置  してあった。 (以下説明及び図は澤木氏本人による警戒機甲の説明)

 ○警戒機 乙 基地送信機から要警戒方向に60°〜90°位電波を発信する。航空機がその中に入れば電波  が反射して返ってくる。それを受信機で受信して方向距離を探知する。(方位は直北0°直南 180°)
  内陸地では山などの固定反射が妨害して実用にならず、海岸付近に設置して海上300kmまでの警戒に当た  った。 警戒機乙の説明

 ○標定機  対空射撃用として高射砲部隊で使用、移動可。20km程度以内、目標物の方位、仰角距離を測定  して砲手に伝達する。

□警戒機基地の配置 18年夏頃から20年2月まで
 中部軍(大阪)防空情報連隊(中部7437部隊・本部大阪)警戒隊
 浜隊(雄踏・中隊本部)
               ┬─浜松小隊(基地 雄踏)
               ├─御前崎小隊(基地 地頭方)
               └─水窪 甲受信分隊
 波隊(波切・ 〃  )
               ┬─多度小隊(基地 多度山)
               ├─波切小隊(基地 波切)
               └─小牧小隊(基地 小牧山)
 潮隊(潮岬・ 〃  )
               ┬─潮岬小隊(基地 潮岬)
               ├─田辺小隊(基地 白浜) 
               └─木の本小隊
 岬隊(観音寺・ 〃 )
               ┬─室戸岬
               └─足摺岬
 各基地・小隊の編成は
 指揮官1 各分隊の情報
 送信分隊1
 受信分隊3・4
 監視分隊1 可視範囲内 双眼鏡で監視する
 通信分隊1 指揮室勤務で刻々の情報を有線無線により軍司令部作戦室に報告する
 (澤木氏本人による警戒機乙配置図・索敵範囲:東海・関西地区太平洋側:1944年)

□軍司令部作戦室での我々情報隊員の業務
各基地からの有線無線の情報を受信(女子通信隊員・軍属・20歳前後で高専・高女卒 50人ほど) 時刻(○時○分)目標について 2〜3分ごとに位置(基地からの方位距離)等、隣接基地からの 情報を確認して大地図番(数メートル四方)に表示する。目標は刻々移動するので現時点での位置 ・速度・推定高度・推定機数・進行方向・各地到着予定時刻等を参謀に報告する。
これにより司令部は警報(警戒・空襲)の発令・解除のラジオ放送、応戦体勢、味方機の発信、対空砲の発射準備その他防空体制を指示命令する。

□20年2月
全軍の編成が変わり(陸軍)
中部地方以東 東部総軍 東京 司令官 杉山元 元帥
近畿以西   西部総軍 広島  〃  畑俊六  〃
名古屋には第13方面軍(東海軍)がおかれる。(管下東海北陸)
  情報連隊は航空総軍の隷下におかれ、航空情報連隊となったが名古屋は連隊編成できず当分大阪からの派  遣隊

□20年6月
  名古屋(東海軍)に航空情報連隊編成、部隊長以下要員の多くは宮崎県都城から移動してくる。大阪から派   遣隊は新連隊に編入。連隊本部は三重県多度村小学校、宿舎は村内の寺院等に分散。
  配下部隊は浜隊 波隊 小牧(隊名未定 蒲郡幡豆町に基地新設予定) 大聖寺(福井県 隊名未定、海岸   近く及び能登半島富木に基地新設予定)
  しかし新基地の新設も計画段階、要員の配置もできぬまま8月15日を迎える

澤木修一氏軍歴
1941.12.8太平洋戦争勃発
1942 昭和17
 4月浜松高等工業在学中徴兵検査 甲種合格 4.18 B17数機による本土初空襲
 6月右肋膜炎発病
 9月20日 高等工業通信科卒業 日本無線(株)就職 研究部配属
10月 1日 現役兵として名古屋中部第2部隊(歩兵連隊)へ入隊
    6日 通信教育隊へ
   11日 肋膜炎重症で陸軍病院に入院(担当軍医浜松市中島町出身)
1943 昭和18
 1月 入院中幹部候補生試験合格
 3月31日退院原隊復帰 モールス信号の送受信暗号の解読等全然できず大変苦労する
 6月頃 名古屋師団に動員下令
  第43師団編成される(師団長中将賀陽宮殿下)
  通信教育隊は師団通信隊(中部第12部隊)となる
1944 昭和19
 1月10頃中部軍(静岡県〜兵庫県)管内で兵科階級を問わず大学あるいは高専の電気科または通信科を卒業   したもの30名、指名されて特殊兵器教育のため東部軍へ派遣される。南武線溝の口にある歩兵連隊(東部   62部隊)を宿舎として小生を含む15人は日本電気(NEC)で警戒機を、他の15名は東芝で標定機をいずれ   も工場の技師から理論・構造・組み立て実習・操作等教育を受けた。
 3月31日教育終了それぞれ原隊復帰
 4月1日 命令 現役満期除隊 任陸軍軍曹 将校適任証授与 即日招集  
   6日大阪防空情報連隊(中部7347部隊)へ配属
   (その後まもなく名古屋43師団はサイパン島へ出発 7月殆ど全滅)
   10日潮岬中隊へ転属
   14日田辺小隊(白浜)へ転属 送信分隊長
 6月頃以後約三ヶ月 1期検閲の済んだ初年兵50人に電探教育に当たる
 9月頃               〃 下士官候補10人  〃
 12月頃              〃二ヶ月 下士官50人(18.12.1入営の学徒が殆ど)いずれも電波探知機専門の教   育に当たる
1945 昭和20
  2月硫黄島全滅 本土空襲ますます激しく
  2月8日 名古屋派遣隊へ転じ東部情報班編入 東海軍司令部作戦室で航空情報任務に就く
  5月14日 名古屋大空襲により宿舎にしていた野砲連隊の兵舎が焼失、三重県多度村の小学校宿舎となる。       本部情報班勤務から指揮班勤務となる
  6月 情報連隊編成
  7月米艦隊 太平洋岸に接近 航空母艦から発進する小型機による低空空襲 艦艇からの艦砲射撃(浜松7・     29など)
  7月下士官兵約60名の小隊長を命ぜられ村内の寺院を仮宿舎として新設予定基地(幡豆町)への進駐待機
  8月10日幡豆町現地調査 8/17進駐と打ち合わせて帰隊
    15日終戦
    16日部隊長から警備隊長を命ぜられ部下隊員に小銃実弾を持たせ昼夜村内の警備に当たる。脱走・略        奪・暴行・盗難等の防止のため 。 17日予定の幡豆町進駐は取りやめ
  9月2日復員・帰郷     
                    浜松小隊配置図(澤木氏本人よる)

 この配置図の送信基地(大久保西の平南端)を西方向からかすめるようにグラマンが飛来し、基地の小屋の屋根を銃撃で吹き飛ばして東方向に去っている。ただし送信アンテナには攻撃を加えていない。(野島による大久保町和久田氏の聞き取りから・・・別掲の予定)


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