第十話 女の子の葛藤



=ふぁみりーれすとらん『グランマ』=

「気持ちいいなぁ〜」

 進行方向右側に広がるのは津軽海峡、うっすらと水平線の先に見えるのが本州という事を鮎美に教わり意外に近く見えるのに驚いた。

「こんなに寒いのに?」

 隣にいる鮎美はマフラーで顔半分以上隠し信じられないと言うような顔で有希を見る。

「なんで? 気持ちいいよぉ〜」

 心地良さそうに目を細める有希の顔を、信じられないといったように目を眇める。

「有希ぃ〜、こっちだよ!」

津軽海峡からの潮風を浴びながら心地よさを堪能しながら自転車を走らせると、目の前で大きく回転する看板が立っており、その看板の下には遠くからでも分かる金髪の女の子が大きく手を振りながら立っていた。

「やぁミーナ、待たせちゃったかな?」

 ニコニコと微笑みながら手を振る有希に対して、ミーナは一気に不機嫌そうな顔になる。

「なんで……なんで鮎美も来るの?」

 有希の隣に自転車を止めてちょっと息を切らせている鮎美に、ミーナは遠慮なく方頬を膨らませ口を尖らせている。

「何でって……えらい言われようねぇ? あたしは今日、お客さんとしてきたのよ!」

 鮎美は頬を膨らませながらミーナの顔を睨む。

 面接の時も鮎美が付き添ってくれた、今日は場所が分かるから大丈夫と言ったのに、何か理由をつけてついてきてくれた……まぁ、鮎美がいてくれた方が心強いから助かるけどね?

 相変わらず憮然とした顔をしているミーナだがやがて諦めたのか、フッとため息をついて有希の手を握る。

「ふう〜ん、お客さんねぇ……まぁいいわ、有希ちゃんこっちが従業員用の入り口だから、こっちから入ってね? 鮎美は正面から入ってよね? お客さんなら」

 ミーナはそう言いながら有希の手を握ったまま駐車場裏にある通用門に向かう。

「う、ウン、鮎美、じゃあね?」

 ミーナに引きずられながら有希は鮎美に手を振る、その様子を鮎美は思いっきり頬を膨らませながら見送る。

 なんだか機嫌悪そうだなぁ……やっぱり来る時に海辺を通らなかった方がよかったのかな? 鮎美の奴、道産子のクセに寒がりなんだから……。

 腰に手をやり有希たちを睨み付けている鮎美はモコモコしたコートを着込んでいる。



「こういう飲食店では朝じゃなくっても、必ず挨拶は『おはようございます』からなのよ、憶えておいてね?」

 表の雰囲気とはまるで違い、無骨な鉄扉はまるで倉庫のようなそんな雰囲気がするが、ミーナは手馴れたようにその重そうな扉を開く。

 ハハ、本当に裏方なんだな……、嫌いじゃないけれど。

 有希もミーナの後ろについて入り込んでゆくと、美味しそうな料理の香りがその扉の中から漂ってきて、思わずお腹が鳴りそうになるのを押さえる。

「おはようございまぁーす!」

 ミーナは元気に声をかけながらスタッフルームに入ってゆくと、そこにはコック帽をかぶったコックさんがタバコをふかしながら雑誌を読んでいる。

「ミーナちゃんか……おはよ、ん、その娘は?」

 そのコックさんは吸っていたタバコを灰皿に押し付けながら有希の顔を不思議そうに見る。

「ハイ、今日からホールの方に入った新人で青葉有希ちゃんです……有希ちゃん、この人は料理長の津久井暁さん、大先輩よ」

 ミーナが紹介する男性は、コック帽と調理服を着ていなければどこにでもいるような普通のオヤジといった雰囲気で、がっしりした体型に無精ひげを生やしているその風貌はおおよそ料理人という感じではない。

「はじめまして青葉有希です、今日からよろしくお願いします」

 営業用スマイルを浮べながらペコリと頭を下げる有希に対して暁はニッコリと微笑む。

「やあ、よろしく有希ちゃん、仕事結構きついかもしれないけれど、がんばって!」

 無精ひげ面ながら、かけているメガネの奥にある瞳は優しそうな感じがして、その優しい瞳が何となく有希の気持ちの中に引っかかったようなそんな感じがする。

 優しそうな人だな……って何を考えているんだ俺は? どこにでもいるオヤジじゃないか、それを見て……そうか、相談に乗ってくれそうな人そういった感じなんだよきっと。

 今までに感じた事のない感覚に戸惑う有希にミーナは関係ないように再び手を握ってくる。

「有希ちゃん更衣室はこっちだよ、じゃあ津久井さん失礼します」

 ミーナと有希は、雑誌に視線を落とした暁に向かってペコリとお辞儀をすると、暁は軽く手をあげてそれに答えるのを確認してスタッフルームの奥にある更衣室に入り込む。

 当然ながらもここも女子ロッカーだよな?

 華やかさのない更衣室の扉をミーナが開く後ろで、有希はミーナに気がつかれない様に小さくため息をつく。

 誰もいない時に着替えるようにしよう……って……これは!

 部屋に入った途端、今まで予定していた行動予定が水泡に帰した。

「有希ちゃんのロッカーは……あった、ここを使って」

 スチール製のあまり綺麗でないロッカーが並んでいるその更衣室はお世辞にも広くはなく、四人も一緒に着替えれば、恐らくみんなの手がぶつかり合ってしまうだろう。

 な、なんだってこんなに狭いんだ、女の子の多い職場だからロッカーは広いから、ミーナと顔を見合わせないで着替える事ができると算段していたのに、これでは……。

 軽く脱力する有希の事などお構いないなしにミーナは自分のであろうロッカーを開く。

「制服は店長から預かっているわ……はい、これ」

 ミーナから渡されたそれは以前面接の際に目の当たりにしたこのお店の制服。男視線から見れば可愛いそれも、実際自分で着るとなるとちょと恥ずかしい、というよりも、コスプレ?

「サイズは以前聞いたサイズだから大丈夫だと思うけれど、もし合わないようだったらフロアマネージャーに言えば交換してくれるよ」

 それに視線を落とし再び脱力している有希の隣でミーナはそう言いながら、やおら着ていたブルゾンを脱ぎ出したかと思うと一気に……、

「うぉ!」

 衣擦れの音に無意識に振り向いた先で繰り広げられていた少し艶かしさを感じる光景に対して、有希は思わず声をあげる。

 親の育て方なのか、アメリカ人の血筋のせいなのか、大胆というか……しかし、でっかいオッパイだなぁ……。

 有希の視線は、そのスレンダーなボディーがそれを強調させているのではないかといわんばかりの胸の膨らみを見つめる。

「なぁに、どうかしたの? 有希ちゃん」

 青い瞳に金髪のナイスボディーな女の子が下着姿で俺に微笑みかけてる……男の時代なら欲情する事間違いないシチュエーションだが、今は、その身体に見惚れている、それはやっぱり女の子なんだろうな?

 薄いピンク色の下着姿でミーナは呆けている有希の顔を小首を傾げながら覗き込んでくる。

「アッ、いや……大きな胸だなって」

 慌てて視線をミーナから外す有希だが、思わず自分の思った事を口走ってしまう。

「そう? でも、あたしももう少し小さいほうがいいなぁ、結構肩がこるのよね?」

 ミーナは恥ずかしがる様子もなく苦笑いを浮かべながら自分の肩をもむ仕草をする。

 確かにそうかも……大きい小さいの差はよくわからないけれど、意外に重い物だという事を初めて知った。男時代にはついていなかったものだから余計なのだろうけれど、意外に邪魔に感じることもあるぐらい。運動すると重心がぶれるし体重異動が意外にむずかしい。

「ウ〜ン、確かにそうかも……ちょっと邪魔に感じる事があるよね?」

「そっか、有希は元々……!」

 ここではじめて気がついたのかミーナは慌てて胸を隠す仕草をするものの、既に遅い。

「アハハ、ゴメン」

 有希はバツが悪そうにそう言いながら振り向き、何事もなかったように着替えを開始するが、頬を膨らませたミーナの目に意地悪さが光る。

「有希のえっち……そんな娘は……こうだ!」

 脇の下からニュッと伸びてくる手でいきなり胸が鷲掴みされ、ワシャワシャと揉まれる。

「アハハハ、くすぐったいって」

 その奇妙なくすぐったさに有希は身を捩って避けようとするが、しっかりと掴まれた胸はミーナの手から離れる事がなくワシャワシャと揉み続けられる。

 この光景って他の人に見られたら絶対誤解されるだろうな?

 目尻に涙を浮かべながら身を捩る有希だが、何かを感じ取ったかのようにミーナの手がぴたりと止まる。

「あれ? 有希、あなた大きくなったんじゃない?」

 それまで揉みしだく手つきだったミーナの手は有希の顔を背後から覗き込みながら今度はその大きさを計る様に優しく動かせる。

「えっ?」

 その顔に有希は戸惑いの表情を浮かべる。

「絶対そうよ、ほら、今着けているこのブラだってサイズ合っていないじゃないのよ、それじゃあ苦しいでしょ?」

 そう言われても、この手の奴はみんな有希のお下がりなわけだし、サイズなんてよくわからないし……買いに行った事なんて当然無いし。

 困惑した顔をする有希にミーナは軽くため息をつく。

「……今日の帰りに付き合ってあげようか? 有希の事だからそんな知識ないでしょ?」

 ミーナは優しい表情で有希にウィンクする。

「よろしくお願いします……鮎美にこのテの話をすると、いやな顔するからさぁ」

 苦笑いを浮かべる有希の脳裏には機嫌悪く頬を膨らませた鮎美の顔が浮かび上がっている。

 そう、胸の話になると鮎美の機嫌は百パーセント悪くなる……それは間違いない事実だ。

「それはそうよ、あの娘は天然のナインちゃんだから……結構気にしているみたい、って、これは本人には絶対秘密よ?」

 誰がいるわけでは無いがコソッと有希に耳打ちしてくるミーナの表情は少し意地悪い。

「ナインちゃん?」

 有希はわけわからんという顔をしながら首をかしげながらミーナに振り向く。

「そっ、あの娘Aカップでしょ? 下手するとトップとアンダーの差が十センチ切っているかも知れないわよ?」

 そう言われてもよくわからないけれど、ようは貧乳さんという事なのだろうな?

「そうなの? 気にならなかったけれどなぁ……」

 有希は着替えを再開させながらちょっとわざとらしく首をかしげる。

 あまりこの手の話題に乗らない方が良さそうだ、この後鮎美と付き合っていく以上は……。

「まぁ、今の時期は厚着をするから、外見からはよく分からないでしょうね?」

 確かに、みんなモコモコの格好をしているからそんな胸の大きさなんて分からないし、大きいと思っていたけれどミーナの胸がそこまで大きいなんていう事にすら気がつかなかったぐらいだからな……。

 心の中でため息をつきながら有希は着替えの最終段階に入る。

「有希ちゃんリボン結んであげるよ……こうやって、ほら完成、鏡見てみなよ、可愛いよぉ」

 ミーナに背中を押されながら有希は化粧台にある鏡とご対面する、そこに写るメイドチックなそのコスチュームを着用している有希の姿は、きっとその筋の人であればたまらないであろう格好……このお店のオーナーの趣味なのかな……でも有希、可愛いじゃないか。

〈……ありがと〉

 どこからともなく有希の意識がお礼を呟いている。

 何の、まさかこんな格好をさせられるとは思わなかったけれど、まるで可愛い女の子に知り合ったみたいでちょっと嬉しかったりして。

〈ハハ……意外にナルシストだったりして〉

 そんなことないと思うけれど……でも、鏡の中に写る有希は可愛いから好きだよ。

〈ちょっと勇気、そんなドキッとすること……言わないでよ〉

 何となく恥ずかしげな意識が有希から送られてくる。

 ハハ、ドキッとした? 俺に惚れるなよ?

〈さて、どうでしょうか? あなたの姿をあたしは見たことないし……あたし結構面食いなのよね? ちょっとやそっとじゃ揺れ動かないんだから〉

 ウ〜ム……それはよくわからないな、ただ事実は女の子にあまりモテなかったと言う事かな。

〈あら? じゃあ、都会の女の子は見る目が無いって言うことなのかしら?〉

 そう言って貰えると多少は救われるな。

〈ウフフ、さぁ、ミーナが待っているわよ?〉

 ヘヘ、見る目がなかったっていう風に言われるとちょっと嬉しいな? 有希に合格点もらったみたいでちょっと嬉しいかも。

なんとなく上機嫌な有希はニッコリと微笑みながらミーナに振り返ると、そこには同じように頬を赤らめたミーナの姿があった。

「えへへ、ありがとう、ちょっと照れくさいかな?」

 頬を上気させる有希は、すっかりと女の子だ。



=女の子としての気持ち=

「いらっしゃいませぇ〜、グランマへようこそ! お客様はお二人様でよろしかったでしょうか? 喫煙席と禁煙席がございますが……」

 ニッコリと微笑む有希の笑顔は完全に営業用だ。

「こちらのお席でよろしいでしょうか? ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」

 その姿に見とれているのは男の客だけではなく、女も頬を染めているようで、カウンター席に座っているポニーテールの女の子もさっきからずっと見つめている。

「ちょっと鮎美? せっかくのホットコーヒーがアイスコーヒーになっちゃっているよ?」

 元気にフロアーを動き回っている有希と同じ格好をしているミーナが、コーヒーポットを持ちながら鮎美にコソッと声をかける。

「ウン、お変わり頂戴」

「鮎美ぃ、会話に成っていないよぉ、話が続かないよ?」

 呆れ顔でミーナが鮎美の視線をたどると、そこでは新人らしからぬ動きを見せている有希の姿があり、その視線にミーナの顔は不機嫌なものになる。

「……ゴメン、何だっけ?」

 上気した顔のまま鮎美はミーナの顔を見上げる。

「なんでもないよ! コーヒーの御代わりですね?」

 ちょっと足音を大きくしてミーナはカウンターの奥に消えてゆく。

「オーダー入ります……」

 入っていったカウンターの奥では、すっかり慣れたように厨房にオーダーを通す有希の姿に、周囲の従業員も呆気に取られている。

「……ミーナちゃん、いい娘を紹介してくれたよね?」

 ミーナの横にはおでこが広くなり、ちょっと中年の哀愁すら浮かんでいる店長が、ニッコリと微笑んでいる。

「はぁ、あたしもビックリです……すっかりなじんでいますね?」

 ミーナも多分にもれずに呆気に取られた様子で有希の動きを見ている、気のせいか有希が近くを通るたびに客はオーダーを入れているようにも見える。

「ウン、ウン」

 店長は目を細めながら有希の動きを見ている。

「なんだか一人だけ元気に見えるけれど、他のスタッフはどうしたんだい? あまり目立っていないようだけれど、新人さんに負けるなよ!」

 厨房からは料理長の暁が意地の悪い笑顔を見せながらフロアーを見つめている。その一言に我に帰ったウェートレスが一気に動き出す。

「いらっしゃいませぇ〜」

「こちらのお席でよろしかったでしょうかぁ〜」

 先輩ウェートレスの動きが暁の一言に後押しされたようにフロアーを縦横無尽に動き出し、店の中全体が活気付く。

 気のせいかなんだか活気付いてきたかな? なんとなく楽しいし、忙しい方がやりがいがあるし、なんだか気に入ったなこのお店。

「有希ちゃん、三番のお客さんオーダー取りに行って!」

 ミーナの一言に額の汗を拭いながら有希も元気な笑顔を浮かべる。

「いらっしゃいませ、ご注文お聞きします」

 有希はお客にお冷を提供したり、お代わりのコーヒーを注いだり、オーダーを取りにと忙しそうに店の中を動き回っている。

「有希、あたしもコーヒーお代わり」

 カウンター席に座り続け、既に三時間は経過したであろう鮎美が有希に声をかける。

「はぁ〜い、今お持ちしまぁ〜す」

 有希はそう言いながらコーヒーの入ったポットを持ち鮎美の席に近づく。

「お待たせいたしました、コーヒーのお代わりお持ちしましたぁ」

 鮎美はすっかり営業スマイルが板についた有希にちょっと口を尖らせる。



「お疲れ様でしたぁ」

 従業員通用口で有希は頭をぺこりと下げる。

「ハイ、お疲れ様、長く勤めてね?」

 店長はそう言いながら自分のおでことも頭とも取れない場所をなで上げる。

「ハイ! がんばります!」

 有希がペコリと頭を下げると、その仕草に店長は再び目を細める。

「ウン、ウン」

 ハハ、なんだか変な感じだぁ……オヤジに媚を売っているよ、俺……気色悪ぃ。

 店長に向けて苦笑いを浮かべながら有希は再びぺこりと頭を下げ、ミーナたちの待っている駐車場に小走りに駆け出す。

「おまたせぇ……ん? どした?」

 明らかに機嫌の悪い顔をしている鮎美に対し、苦笑いを浮かべるミーナ、その雰囲気はなんとなく普段と様子が違うように見えるが……。

「有希ちゃぁん、さっきから鮎美の機嫌が悪いのよぉ」

 有希に泣きつくような顔を浮かべているミーナ。

 いや、それは見ただけでよくわかる、明らかに機嫌が悪いというのがその眇めた目だけではなく鮎美の顔全体に広がっている。

「機嫌悪くなんてないよ! なんだかちょっと気分が悪いだけ!」

 ……十分機嫌悪いじゃないか?

「……そんなにコーヒー不味かったか?」

 煮立ったコーヒー……確かに美味しくは無いだろう、特にそれが喫茶店の娘ともなればなおさら鼻につくと思う……だったら、ここで飲まなければいいのに。

「そんなこと無いよ、コーヒーは美味しくなかったけれど、ケーキは美味しかったよ」

それでも頬の膨らみは納まらないのね?

「だったらなんで?」

 有希の質問に対し、鮎美は怒りのぶつけ所が無いといった様子で下唇をかむ。

「うぐぅ……なんでもない! さぁ、帰ろ! 有希!」

 プンプンという擬音が聞こえてきそうな勢いだな……しかし、俺はこの後……。

「ワリィ、ちょとミーナと買い物に行くんだ、鮎美は先に帰っていて……」

「何で! だったらあたしも行く! 買い物!」

 有希のその提案がさらに鮎美の怒りに火を注いだようで、振り向くその顔はまるで夜叉のようにも見え、思わず有希とミーナの背筋がピンと伸びる。

 心底怒っているようなんですが……どうしましょ?

 有希はやれやれといった顔でミーナの事を見ると、ミーナもやはり同じような表情を浮かべ、首を力なく横に振る。

「別にいいけれど、ランジェリーショップよ?」

 ミーナのその一言に、鮎美はそれまでの怒りの火を一気に消されたかのように今までの勢いを失いうつむいてしまう。

 効果あり……というよりもそこまで気にしているのか?

 夜叉のようだった顔は今ではまるで借りてきた猫のようにシュンとして、顔色を失ったように白い顔をしている。

「いや、そんな無理に付き合わなくってもいいよ?」

 そんな様子にさすがに心配になった有希が鮎美に声をかけるが、力を失いながらもその首は横に振られている。

「嫌だ……あたしも……行くモン」

 シュンと首をうなだれさせながら、自転車を押し始めるその表情はまるで何か意を決したような決意を持ったような顔をしている。

 そこまで気合を入れなければいけないのか? 女の下着を買いにいくというのは……。

 有希は息を呑みながらミーナの顔を見るが、呆れ顔をしたミーナのその表情にホッとする。

 鮎美だけなのね? そこまで気合を入れるのは……。



「すっかり遅くなっちゃたね?」

 自転車を走らせる有希は、隣に併走している鮎美の顔を見る。その鮎美の顔には覇気がなくショボンと落ち込んでいるようにさえ受け取れる。

「ウン……そうだね」

 間違いなく元気が無い……どうしたんだろうお店に入ってから元気がなくなったみたいだけれど、一体あの店で何があったのかな? 俺はミーナの指導の元で色とりどりの下着に顔をなかなか上げることができなかったけれど、その時鮎美は単独行動をとっていたよな? その時に何かがあったのだろうか?

 正面の信号が赤に変わると二人は自転車をこぐ足を止める。

「鮎美一体どうしたんだ? 元気がないようだけれど……やっぱり疲れたのか?」

 いくら有希の事が心配といっても四時間もお店にずっと座りっぱなしで、コーヒーばかり飲んでいたのだから、きっと疲れているに違いないだろう。

 心配ないといったけれど、やっぱり鮎美は俺の事が心配でついて来てくれたんだからな、ちょっとこっちにも罪悪感があるかもしれないよ。

 心配げな顔を鮎美に向けるが、そのうつむき加減の口が小さく動く事に有希が気づく。

「……有希がBカップになった……Aカップの仲間だったのに」

 念仏のように言う鮎美の瞳には気のせいなのか涙が浮かんでいるようにも見える。

 仲間って……そんなのがあったのか?

 念のためといって店員が有希の胸を計ると、そのサイズは確実にアップしていたらしい。

〈ウフフ、あたしもちょっとびっくりだったよ、この前までAカップだったのに、Bカップでしょ? あは、ちょっと嬉しいかもぉ〜〉

 うつむく鮎美とは違い、嬉しそうな意識の有希が飛び出してくる。

 嬉しいのか? 俺からすれば邪魔なだけだけれどな?

〈何で? やっぱり大きい方がいいじゃない、その方が……ねぇ、元男なら分かるでしょ? 大きい方がいいって〉

 いや、俺は大きさよりも形……、

〈前に聞いたけれどやっぱり大きい方がいいじゃない? 女の子の象徴なんだから無いよりある方が絶対にいいでしょ?〉

 力説する有希の意識に怯みながらも苦笑いを浮かべる。

「有希の裏切り者、あたしを差し置いてBになるなんて裏切り行為でしかないわ、あたしなんて、店員さんに『AAでもいいかも』って言われたわよ!」

 恨めしそうな顔で有希の顔を睨みつける鮎美の目尻にはやはり涙が滲んでいる。

 おいおい……そんな涙を流すほどの事かよ。

〈流すほどの事よ……鮎美にちょっと同情しちゃうかも〉

 ……同情している場合じゃないだろ? ものすごく鮎美の機嫌が悪いようなんですけれど、俺は一体この後どうすればいいんだ?

〈ウフフ、それが乙女心っていうものよ、勇気も早く乙女にならないといけないわね?〉

 それはまた無茶な事をおっしゃりますが、基本的に俺は男なんだよ? どうやって慰めていいかなんてわからないよ。

〈でも、身体は女、慣れなくっちゃだわよね? 慰めるなんて男も女の同じじゃないかしら?〉

 ケラケラと笑いながら有希の意識はそう言う。

 そんなもんなの?

〈そんなもんよ、まだまだだよ? 女の道は険しいんだから〉

 有希の意識はそう言いながら消えてゆく。

 おい、俺を一人にしないでくれ、有希! ちょっと戻ってきてくれ!

「……どうせあたしはぺちゃんこよ……ぐしぃ」

 ぎくぅ〜。

 涙声でうめくように言う鮎美の声に有希の背筋は思わず伸びる。

鮎美……そんな自虐的なことを言わなくっても……あぁ、もう仕方が無いなぁ。

「……気にすること無いだろ? 女の子が思っているほどそこは重要じゃないと俺は思うけれどな? 確かにナイスバディーなお姉ちゃんは魅力的だけれど、それは印象の一つでしかないよ、俺はそれよりもその女の子の持っている内容が重要だと思うよ? 鮎美はそれを十分に達成していると思うけれどな?」

 有希は照れ臭そうにそう言いながら正面に見える信号を見つめると、その信号はまもなく青に変わろうとしていた。

「有希? ウフ、そうなの? 男の子の目ってそんな風に女の子を見ているのかな? やっぱり男の子ってえっちなんだね?」

 一瞬戸惑ったような顔をしていたが、やがて鮎美はちょっと意地悪い表情を浮かべながら有希の顔を見る、その時ちょうど正面の信号が青に変わった。

「そうかもね? よっと……でも、案外と男の方がウブだったりするぜ?」

 有希は自転車のペダルに足を乗せ、再びその二輪を自宅に向けると、その隣には今までは違い、ニコニコした顔の鮎美が併走し始める。

「ふーん、そうなんだぁ……エヘへ」

 鮎美はそう言いながらペダルを強く漕ぎ一気に有希の事を追い抜いてゆく、その抜き去るときの風にはほんのりとシャンプーの香りが混ざっていた。

「鮎美?」

 その様子を見て有希は呆気に取られた表情になり、その後姿を見つめる。

「有希、今日の格好可愛かったよ、驚いちゃった」

 有希を追い抜きながら鮎美は有希の事を振り返る。その表情はなんとなく嬉しそうで、街灯の中、その頬は赤らんでいるようにも見えた。

「なっ、なんのこっちゃ?」

 脈略の無い鮎美の一言に素直に首を傾げる有希。

「べぇ〜つにぃ〜、なんとなくそう思っただけ、ほらぁ、早くしないとみんな心配するよ? いくら暖かくなってきたからって早く帰らないと風邪ひいちゃうよぉ」

 振り向かない鮎美の後姿を見ながらホッとしたため息をつきながら頬を撫でる風を感じる。それは鮎美たちとはじめて出会った時とは違う穏やかな風だ。

 そうだな? 大分寒さが柔らんできたかな? この街にもそろそろ春がくるんだろう。

「それよりも有希、言葉遣い!」

 ホッとしたようなため息をつく有希に対していきなり振り向く鮎美に身構えるが、その鮎美の表情はいつものようなキツさは無く、むしろ柔らかい感じがする。

 ヘイヘイ……。

第十一話へ。