第十一話 幼馴染



=FanClub?=

「おっはよぉ〜」

 元気よく玄関を開くと、それまで身体を包み込んでいたヒンヤリとした空気はなく、ようやく春らしいポカポカ陽気になってきたのはゴールデンウィークが終わり、その連休の余韻が抜けた頃、そしてその玄関先で有希に声をかけてきたのはコートを脱いだ鮎美の姿。

「おはよ鮎美、やっとコート脱いだんだな?」

 道産子のくせに寒がりな鮎美は、十分暖かいこの数日中でもコートを着込んでいた。

「うん、さすがにこう暖かくなれば大丈夫だよ……ウ〜ン気持ちいいよね?」

 ニッコリと微笑む鮎美は全身で春を満喫しているかのように大きく伸びをすると、気持ちよさそうに身体をピョンと跳ねさせる、その様子は服装が軽くなってきた分、心が弾んでいるそんな感じなのだろうか。

「しかし、ゴールデンウィークを過ぎてから桜が見られるなんて思っていなかったなぁ、東京だとちょうど入学式の頃って相場が決まっていたからちょっとびっくりだよ」

 ぽつんと一本立つ近所の桜の木を見て有希は感心する。その木はまさに満開の桜色に染まり、その花を心地よさそうに海風が揺らしてゆく。

「へぇそうなんだぁ、こっちでは桜イコールゴールデンウィークというイメージがあるからべつに驚かないし、むしろよく言う入学式に桜が咲いているという光景に憧れるかも……」

 本当に憧れているのであろう、鮎美は視線を中にさ迷わせながらその光景を想像している。

 確かに、俺が学校に行きはじめた頃にはまだ道端に雪が残っており、その空気は東京で言う所の真冬の空気だったよな?

「でも、それがあたしの中では当たり前になっているから憧れでしかないんだけれどね?」

 想像がついていかなかったのか、鮎美は諦めたような表情を浮かべながらペロッと舌を出しながら有希の顔を覗き込んでくる。

「そうかも……ボクもそれに早く慣れるようにしなくっちゃだよね?」

 鮎美と合流してから十分も歩いただろうか最後の関門になる校門に向かう坂の途中、同じ制服を着た生徒が我がもの顔で歩くその中をいくらか軽装になった有希と鮎美が歩く、その道端にはもう雪の姿は無くなっている。

 ウ〜ン、やっと春になるんだぁ〜。

 有希はその坂道から函館湾を見下ろすと大きく身体を伸ばしながら海から吹き上げてくる潮風を心地良さそうに全身に浴びる……が、

「……美少女二人の朝の登校、ウン、絵になるねぇ」

 背後から聞こえるその声に、有希と鮎美は無意識にその場を飛びのき、まるでファイティングポーズを取るように爽やかな笑顔を湛えている声の持ち主に対して構える。

「矢野だぁ……矢野が出た!」

 周囲に危険を知らせるように有希が言うと、その対面にいる鮎美もコクコクとうなずく。

「……有希君、君には年上を敬うという言葉を持っていないのかい? せめて『矢野先輩』と呼んでもらいたいのだが」

「そんなものはこの間亀田川に落としてそのままです、今頃津軽海峡に流れ着いてタコが食べちゃって、お腹を抱えて痛がっていると思います」

 矢野を先輩と呼ぶ気は微塵も無い……同い年だし、そもそもその存在を先輩と敬ってしまったらその他大勢の先輩方に大変失礼だと思うぜ!

 どうにか慣れてきた女言葉で必死に矢野に交戦体制を取る有希に対して、なにやら少し寂しそうな顔をする矢野。

「……海洋汚染につながるじゃないか、落し物は早く拾った方がいいぞ?」

 ――堪えない奴だ……。

「とにかく、こんな人が大勢いる所で声をかけないでください! 間違って仲間と思われたらどうするんですか?」

 失いかける意識を振り絞りながら有希は周囲を見渡すが、既に数人の視線が有希に対して痛いほどに突き刺さっている。

「……仲間ではないのか?」

「違います!」

「即答とはちょっと寂しいぞ……」

「一人で寂しがっていてください!」

 有希は畳み掛けるように矢野に言葉をかけると、さすがに堪えたのか矢野はいじけた様な行動をとるが、有希はそれをまるっきり無視する。

「オッ? 勇気ぃー」

 その名前に有希は無意識に振り返ると、そこには濃紺のブレザー姿の拓海が立っている。

女子の場合、商業科はセーラー服、普通科はブレザーと分けられているが、男子は共にブレザーに統一されているというのはこの学校が女子の獲得に必死かを物語っているよな? 力の入れ様がまったく違うよ……って、その名前に反応してしまうと言うのは……まだまだ俺も修行が足りないのかな?

「拓海?」

 この学校の男子は比較的大人しいのか、その制服を着崩してきている者は少なく、目の前にいる拓海のように着崩している人間を見つける方が難しいほどだ、ゆえに周囲の目はこのような格好を『不良』として認識しているようで、みんな遠巻きに見ている。

 ――まぁ、普通と言えばそうなのかもしれないけれど……ガラがあまりよろしくないように見えるのは、お前の素行の悪さと己を恨む事だな?

 目を眇めながら有希が見る拓海はお世辞にも『普通』の生徒には見えず、どちらかというと生活指導部の常連といった風である。

「ゆうき?」

 いつの間にか隣にいる矢野はそう呟き首をかしげながら有希の顔を見つめてくる、そんな矢野の顔を見て拓海は一瞬躊躇する。

「い……いや、その……そう『ゆ〜き』だ、誤解をするな、そんな事よりもなんでお前が矢野なんかと一緒にいるんだ?」

 慌てた様子で言い換えるものの憮然とした表情で矢野の事を見る拓海に対し、矢野はちょっと思案顔するものの、すぐに爽やかな表情に戻る。

「なんかと言われる事にちょっと不満を感じ得ないが、着目点が良いので答えてあげよう、それはだ、彼女たちは我が漫研のアイドルとしてだな……」

「何だかやけに偉そうだな……」

 その台詞が癇に障ったのか目を眇めながら険しい視線を矢野に向ける拓海だが、そんな視線に動じた事無く矢野は次の台詞を続ける。

「何よりも新たに生まれた漫研の猫姉妹……」

「だから違うって言っているでしょ?」

 慌ててそれを打ち消すように言う有希の脳裏にあの消えないネコウマ……いや、トラウマが浮かび上がり、必死に首を振って消し去ろうとするが、それはしがみつくように消えることが無い、隣では、鮎美も同じなのであろう、目をギュッと瞑って顔を赤らめている。

「アイドル? そういえば漫研でなんだか面白い催しをしているというのは聞いたが、もしかしてお前らがやっていたのか?」

 呆れ顔をして拓海は有希の事を見る。

 ――頼むからそんな哀れむような顔で俺の事を見ないでくれ……俺だってその記憶をリプレイする事自体辛いんだ。

 哀れむような視線の拓海から顔を逸らす有希。

「そっ、それは……それを否定は出来ないかもしれない……でも、少なくともボクは漫研のアイドルになった記憶は無い! あくまでもボクはノーマルだ!」

 おぉよぉ! 支離滅裂になっているのは自覚しているさ、少なくともあの姿を幼馴染が見ていなかったと言うことだけは神に感謝するぜ。

何処から何処までがノーマルで、何処がアブノーマルなのか有希の中での判断基準が狂いはじめていることに自覚を持ちながらも、口にしない訳にはいかないのというのが有希の今感じている最優先の気持ちだった。

慌てふためき手足をバタつかせる有希を涼しげな顔をして見る矢野は、当たり前というような顔をしながらそんな有希の顔を見つめる。

「十分アイドルではないか? ファンクラブ希望者がいっぱいいるぞ?」

 ファンクラブって……そんなものがいつの間に……。

「ちょっとファンクラブって?」

 鮎美は唖然とした顔をして矢野の顔を見るが、その目には既に打ちのめされた様で力はない。

「君たちのファンクラブに決まっているではないか? 変な事を言うなぁ」

 カンラカンラと笑う矢野に対して思わずポカァンと口を開く有希の背中に、不意に抱きつく一人の……そのぉ猫娘? に対して激しい動揺を憶え、男時代よろしく大きく体を捻り反射的にそれを除去しようとするが、その猫娘はそれを楽しんでいる様子だった。

「アハハ、あたしがその第一号になりました!」

 その腕はしっかりと有希の首に巻きつき離れる事は無く、遠心力で振り回される事をも楽しんでいるみたいだ。

「み、岬ちゃんいつの間に?」

 近寄ってくる気配をまったく感じなかった、まさに猫のように近づいてきたのであろう。ゴロゴロとのどを鳴らしているようなその顔はまさにそれのようにも見える。

「御姉さまの事なら、たとえ数十キロ離れていても分かりますぅ〜」

 それはえらい遠視だよ? 今度眼医者に行った方がいいと彼女に伝えてあげよう、というよりも……その御姉さまはやめてもらえないだろうか……。

「有希、お前……まさか……」

 そんな様子を見ていた拓海は一歩引き下がるように身を反らす。

 あぁ、激しく誤解しているよ拓海の奴、でも元々男という事を奴は知っているはずだからある意味ノーマルなのかもしれないし、でも、見た目からはやっぱりアブノーマルなのか? あぁ良く分らないよぉ。

 軽い混乱を解消しようと首を振る拓海に対し、有希はどう反論すればいいのか分からなくなってくるそんな拓海に対して矢野の悪魔のような爪が立つ。

「江元君もファンクラブに入るかい? 今なら特典で有希君の生写真を進呈している、しかも、君は漫研の部員だから特別に二枚!」

 なんだその生写真っていうのは! って特典なのかよ!

 言葉を失いながらそれを否定してもらいたい有希は、拓海の顔に助けを請うような顔をして見つめるがそれには気がつかないように視線を逸らす。

「……考えておく」

 拓海はそう言いながらその集団から離れて歩き出す。

 おいちょっと、お前考えておくってどういう意味だ? そこはきっぱりと断ってくれ! 頼むからぁ、ちゃんと断ってくれよぉ〜!



=新入バイト=

「いらっしゃいませぇ、グランマへようこそ!」

 有希の元気な声がフロアーに響く。

「いいねぇ有希ちゃん、元気だし、明るいし、器量いいし」

 調理室から暁が身を乗り出し、バックヤードにいる店長に対して背後から声をかける。

「ウンウン、いい娘が入ってきたよ、彼女が来てからお客さんも増えたような気がするし、何より、他のバイトの娘たちも明るくなった、後は男のバイトが欲しいんだよねぇ?」

 背後に暁の声を聞きながら店長はそう言いバックヤードにあるビールサーバー用の樽を片付けたり、ビールケースを片付けたりして一人大汗をかいている。

「はは、確かに女手はあるけれど、フロアーには男手が足りないな? 彼女たちに男友達とかを紹介してもらったらどうなんだ?」

 暁の呆れ顔に店長はその細い首を力なく横に振る。

「彼女たちに男の子紹介してと頼んでも、あまりいい顔しないんだよね?」

 吐息とともに吐く店長のその台詞に暁は身を乗り出す。

「なんで?」

「他の女の子と仲良くなったらいやなんだって……」

 恨めしそうな顔で店長がそういうと、厨房内の暁は呆れ顔をしながら肩を竦めてまるで労をねぎらうような顔をしながら店長の顔を一瞥する。

「そんなもんなんだ……時代だね?」

 暁はそう言いながら厨房に姿を消すその後ろでは店長の深いため息が聞こえてくる。

「もう少し男に力がある時代だったら良かったのになぁ……」

「店長! お客さんがお待ちですよ!」

 そんな大人の呟きに気がつかないようにフロアーマネージャーが店長の肩を押すと、力なくその身体がふわりと動く。

「いらっしゃいませぇ〜グランマへようこそぉ〜」

 念仏のように言う店長のその姿にフロアーマネージャーは軽く嘆息をつき、作ったような笑顔を浮かべて店長の後を追う。

 ――フロアーマネージャーも色々と大変なのね? バイトに気を使いながら、店長にも気を使う(この場合は面倒を見るといったほうが正しいかもしれないが……)だなんて……到底俺には真似できないかもしれない。

 哀れむような顔をしながらフロアーマネージャーの美佳(みか)に有希は視線を向ける。

「店長、そこ穴開いているから注意して……」

 美佳のその一言を聞いてか聞かずかその細い体を見事に横たえる……不憫すぎるかも……。



「いらっしゃいませぇ〜グランマへようこそ……お客さまわあぁ〜!!」

 入ってきた客に愛想よく声をかける有希の表情が笑顔のままで固まり、額には目に見えるほどの勢いで汗が流れ落ちている。

「ん? あぁ〜っ! お、お前……な、何やっているんだぁ?」

 その客も驚きを隠さずに有希の顔を見るその雰囲気は、まるでお互いにお見合いをしているような感じで、その場の空気の時が一瞬止まるが、

「いや……とりあえず、お客さまお一人様でよろしかったでしょうか? こちらにどおぞ!」

 これぞプロ根性なのか気を取り直すように有希は営業用スマイルを浮かべ、その客の事を他の客と同じようにカウンター席に案内する。

「エッと、こちらのお席でよかったでしょうか? ご注文お決まりになられましたらお呼びください……って、何しに来たんだよ拓海!」

 有希はコソッとメニューを見る拓海に対して周囲から見えないように声をかける。

「何って、俺は飯食いに来たんだよ、俺の家はこの近くだからたまに来る」

 普段と違ってどこか落ち着きのない拓海は、有希と視線を合わせようとしないで渡されたメニューを無意味に見つめている。

「そうなんだ、でも親御さんはどうしたんだ?」

 確か拓海の家は両親健在だった筈だよな?

 僅かに残る記憶をあてにしながら有希が言うと、拓海は開いていたメニューをそっと閉じながら呟くように言う。

「――離婚したよ、こっちに来てすぐの頃だったかな? 母親は東京に妹を連れて帰ったし、親父は訳の分からないお姉ちゃんと一緒にどこかに行っちまった、気がついたら俺はここに独り暮らしっていう事……」

 ちょっと寂しそうに言う拓海の横顔に有希の表情は強張る。

「ゴメン! 変なこと聞いちゃったね?」

 自分の言った事に対して有希は素直に頭をペコリと下げる。

「あっ、いや、そんな気にする事ないって、別に俺もどうとも思っていないし……」

 照れ臭そうな顔をする拓海を見て有希が首を傾げるが、すぐに次の声がかけられる。

「有希ちゃん、これお願い」

 店長の声に有希は振り返り、拓海の席から離れる。

「拓海、コーヒーはお代わり自由だからゆっくりしていってね?」

 ウィンクを送る有希に対し、拓海の表情は明らかに赤くなっていた。

「お待たせいたしましたコーヒーです」

 有希を見送るとほぼ同時にコーヒーカップが拓海の手元に置かれ、それに驚き顔を上げると、そこにはツインテールの金髪が揺れている。

「ミーナ? お前もここでバイトしていたのか?」

 拓海は有希の時と同じように驚きの表情を浮かべミーナの事を見る。

「ハイ、やっていましたよ? ちなみに有希をスカウトしたのもあ・た・し」

 自慢げに自分の鼻先を突っつくミーナ。

「そうか……ちょっと顔を出し難くなったな……」

 拓海はちょっと意地悪な顔をしてミーナの事を見る、その視線の先のミーナはキョトンとした表情で拓海の事を見つめる。

「なんで? 別にいいじゃない?」

 あっけらかんと言うミーナに対して照れ臭そうに鼻先を弄りながら拓海はその顔を見上げる。

「だってよぉ、コーヒー一杯で粘っているなんて恥ずかしいじゃないか……、同級生の女の子に見せられる格好じゃないよ」

 拓海はそう言いながら元気に動き回っている有希に無意識に視線を移す。

「……フーン、本当にそれだけなのかしら?」

 再びミーナの表情が曇る。

「それだけだよ、こう見えても俺にも自分でキャラクターという物を持っているからね?」

 苦笑いの拓海に対し、ミーナは思案顔を浮かべるがすぐに笑顔に変わる。

「だったら、ここでバイトすれば? コーヒーも飲めるし、食事も格安で食べられるし、給料も貰えるし、一石三鳥!」

 いつになく満面の笑顔を浮かべるミーナに対し、今度は拓海が思案顔に変わる。

「でも、この店は男を取らないっていう噂なんだけれど?」

「そんなことありません!」

 ミーナの横から、頭とおでこの境が分かりにくくなった店長がそのおでこを赤くしながら憤慨したような顔で拓海の事を睨みつけている。

「て、店長? どうしたんですか? そんな赤い顔をして」

 ミーナもさすがに驚いた様子で、頭から湯気を出すような勢いの店長の事を見つめる。

「どうもこうも、男性スタッフがいなくってフロアーはキリキリ舞いになっているというのに、そんな噂が流れていたら、あたしの体がいくつあっても足りません! 即採用です、あなたのお名前は?」

 マスターは血走った目で拓海の顔を見つめ、その視線の先にいる拓海はその迫力に完全に気圧されしていた。

「エッと……江元拓海です……」

 呆気に取られたままに拓海は店長に頭を下げると、フンと鼻息荒く拓海の顔をジッと見つめながらまるで泣き出しそうな顔をして拓海の手をギュッと握り締める。

「拓海君か、よろしく頼んだよ!」

 店長は拓海の手を取り、まるでブンブンという音が聞こえそうな勢いでその手を上下に動かすと、その相方になっている拓海は苦笑いを浮かべ曖昧な笑顔を浮かべているのもの、店長はまるで感涙に咽ぶ様に涙を浮かべている。

「はぁ……こちらこそ……お願いします」

 拓海は思わずそう呟いてしまった、そんな顔をしているとちょうどオーダーを聞いた有希がカウンターに戻ってくる。

「有希ちゃん、彼が明日からきてくれる江元拓海君だ、仲良くやって頂戴ね?」

 エッと、店長? たまにおネエ言葉になるのは俺の気のせいなのかな?

 有希が苦笑いを浮かべ、新人と店長が指差す大きなガタイは良く知っている江元拓海。その拓海は、何が起きているのかよく分からないといった様子で視線をキョロキョロさせている。

「た、拓海がぁ?」

 思わず大きな声を出してしまう有希は、慌ててその口を自らの手で覆う。

「何だよ……俺がいたんじゃ不満か?」

 一気に不機嫌な顔になる拓海、それに対して有希は声を潜めながら拓海に顔を近づける。

「別に不満じゃないけれど……どうして?」

 そんな有希の様子に拓海は頬を赤らめながら顔を逸らす。

「……わからねぇよ、気がついたらこんな事になっていた……まっ、まぁ俺としては、一石四鳥だけれどな……」

 一石四鳥? なんのこっちゃ。

 首をかしげる有希に対し、拓海は慌てた様に手を振りそれを否定しようとするが、その様子を見ていたミーナはちょっと自嘲気味な笑顔を浮かべながら有希のわき腹を突っつく。

「だって、給料もらえるし、タダでコーヒー飲めるし、格安でセットが食べられるし……何よりも有希と一緒にいられるし……じゃないの?」

 その一言に拓海の顔が、まるでボンッと音を立てたかのように真っ赤になる。

「ミーナ! おっ、お前なに言っているんだぁ!」

 明らかに動揺しまくっている拓海だが、それにまったく気がついていない有希はキョトンとした顔をするしかできないでいる。

 俺と一緒にいるのならば、学校にいるのと同じじゃないか? なんら変わりが無いじゃないか、そんな事に何を動揺しているんだ? 拓海の奴……。

 真っ赤な顔をして反論できないようにうつむいている拓海に、有希は首を傾げるしかできないでいる。

「ウンウン、青春だねぇ」

 隣でそんな経緯を見ていた店長は意味深な顔をしながら目を細める。



「おつかれさまぁ〜」

 グランマの通用門に有希とミーナの声が響き渡る。既に周囲は夜の帳が下り、街灯が煌々と点いている時間に変わっている。

「ミーナお疲れ様、また明日学校でね?」

 有希はそう言いながら愛車(?)の自転車に跨る。

「ウン! 有希も気をつけて帰ってね?」

 ミーナもそう言いながら自転車に跨ろうと足を上げると、その瞬間物陰に動く人影が二人の視界に飛び込んでくる。

「ヒッ!」

 ミーナが怯えた表情で自転車を倒したまま有希の腕に飛びつく。

 さて、おいでになったのは変質者か? それともストーカーか? それとも無ければ……変な……あまり考えたくないけれど……ファンか?

 今までにも何度か心当たりのある有希は思わず拳に力をこめる。

 まともにやり合って敵う訳は無いけれど、相手の動きを封じる事は出来るはずだ……。

「……誰?」

 有希は大きく息を吐き出しながら目を眇めて拳を構え、その人影に対して声をかける。

 いきなり飛びついてくることは無いだろうとは思うけれど、第一次戦闘配備だけは解除できる状況ではないな?

「……終わったのか?」

 街灯の届かない暗闇から聞こえる声は二人に聞き覚えがあり、その声に有希の拳からは徐々に力が抜けてゆく。

「なぁんだ、拓海かぁ……驚かせるなよ」

どうやら戦闘配備解除だな。

「なんだじゃねぇよ有希、いくらお前が元々とはいえ、今は女なんだから少しは怖がるとか、逃げる体制をとるとかしろよな?」

 暗闇から現れる拓海は呆れ顔で有希の顔を見ると一気に有希の肩の力が抜ける。

「そんな事言ったって仕方ないだろ? ミーナの方が圧倒的にか弱いんだから」

 そう、俺の場合は元々男という利点を持っている為、相手の油断に付け入る事が出来るが、ミーナにはそうはいかない、それに、女の子は守らなければいけないと反射的に思うのは男時代の産物であろう。

「そうかもしれんが……」

 拓海はそう言いながら有希の背後に隠れているミーナの事を見る。有希よりも頭二つ分ぐらい背が高く、身体の大きいミーナが有希の体の影に隠れるわけもないが、有希の背後からミーナは少し震えながら拓海の事を見つめている。

「悪かったなミーナ、怖い思いをさせちまったな?」

 拓海は鼻先を掻きながらミーナに詫びると、ミーナはちょっと頬を赤らめながら首を横に振る。その仕草は今までに有希が見た事がないちょっといじらしい仕草だった。

「ウウン……」

 ……なんだかやけにミーナの奴しおらしいなぁ。

 背後でモジモジするミーナに心の中で首を傾げる有希だったが、一つの仮定を頭の中で打ち出しニヤッと頬を緩ませる。

 なるほど……ミーナは拓海の事が……。

「さて、送っていくよ、暗いから危ないだろう」

 頃合良く拓海はそう言いながら二人を見ると、有希は千載一遇のチャンスとばかりに二人の間からその身を避ける。

「だったらミーナを送っていってあげてよ、ボクは一人で大丈夫だから!」

 有希の意見にミーナの顔は一瞬華やかになり、対照的に拓海の顔は曇る。

「でも……」

 まるですがる様に言う拓海などお構いなしに、ミーナの倒した自転車を起こしながら有希は笑顔を浮かべながらそれをミーナに渡す。

「さっきも言ったでしょ? ボクよりもミーナの方がか弱いって」

 有希はニッコリと微笑みながら拓海とミーナを見る。そのミーナの顔は照れたような、困ったようなそんな顔をしてうつむいている。

 ビンゴのようだな? ミーナは……。

 有希はその様子でミーナの気持ちを察し、ニッコリと微笑み二人に手を振る。

「じゃあね拓海、送り狼になるなよ?」

 ニッと笑みを浮かべながら親指をギュッと突き出す有希に対し、ミーナは真っ赤な顔をしながら首をフルフルと力なく横に振る。

「なんだってミーナなんかに劣情を感じるか!」

 そんな拓海の台詞の後になにやら肉を叩くような音がしたような気がしたけれども、見なかった事にしていた方が良さそうだよね?

 振り返らずに手を振る有希の背後には、にこやかに手を振るミーナと、片頬を腫れ上がったように膨らませている(実際に腫れているようにも見えるが……)拓海の姿があった。

 ミーナがねぇ……あの拓海の事をねぇ……、そっと見守っていたい様な気もするけれど、素直な気持ちはどうなんだろう……妬ける? 誰に対して?

 モヤモヤした気持ちが有希の中に浮かび上がっているのは否定できないが、その相手が一体誰に対してなのかもわからない有希は月の浮かぶ潮風の中、その首を傾げる。



「へぇ、拓海君が『グランマ』でバイトかぁ……なんだか楽しそうだなぁ」

 夕食を終え、風呂上りの有希の部屋には鮎美がいるのは既に日課になっている。

「どうなんだかね? 店長は偉く感激していたしミーナも嬉しそうだったけれど、拓海はまるで寝耳に水状態だったよ?」

 ポカァンとした拓海の顔が有希の脳裏に浮かび上がり、その表情に思い出し笑いを浮かべる。

「アハハ、拓海君も大変だ」

 ポテトを口に投入しながら鮎美は楽しそうに笑う。

「ところで鮎美、何でボクのバイトの日は毎日夜来るんだ?」

 そう、バイトのある日は必ずといっていいほど鮎美は有希の部屋を訪れる、まるで有希がちゃんと部屋にいるかを確認するように。

「べ、別に意味はないわよ……ただ、バイト先で嫌な事があったら愚痴でも聞いてあげようかなぁって思って来てあげているのよ、結構疲れるでしょ? それに、あなたはまだ女の子になれていないから心配なのよ」

 ちょっと頬を膨らませながら鮎美は有希の事を睨む。

「それはお気遣い有難うございます……でも嫌な事より面白い事の方が多いよ、この前も暁さんに面白い料理の仕方教わったの、今度作ってあげるよ」

 料理長の暁とはすっかり仲良くなり、料理談義によく花を咲かせている。

 ニカァ〜っと顔を緩める有希に対して鮎美のその表情は険しさを増してゆく。

「……暁さん?」

 鮎美の眉間にしわが寄り、穏やかだった視線に険が帯びる。

「うん、グランマの料理長の津久井暁さん、料理が上手でよく話をするんだ、今年で三十歳だって言うけれど、あの料理の腕は本物だねぇ」

 有希はそんなことには気がつかず、その料理談義のことやら、暁の普段の生活の事まで楽しそうに話している。

「……有希、なんだかずいぶんと熱心ね?」

 意地の悪い顔をしている鮎美に対し、一瞬の間をおいて有希の顔が真っ赤になる。

 なっ、なんだぁ? 一気に顔に血液が逆流したみたいに顔が熱くなってきたぞ?

 自分の身体に起きた異変に有希は戸惑い、キョロキョロする。

「へ? なに? 何なんだ?」

「……有希、もしかしてあなた……その暁さんっていう人の事が……」

 意地の悪い顔から一転して、鮎美の顔は驚きの表情に変わる。

「へっ?」

 訳が分からないといった顔をしている有希に、鮎美は大きなため息……まるで身体の中に溜め込んでいた空気をすべて吐き出すように吐き出す。

「はぁ〜……、何も言わないわよ……微妙よねぇ、あなたって……」

 何かを悟ったような表情で鮎美は有希の肩を叩き、同情するようにウンウンとうなずく。

 何だ? 何の事なんだ?

「な、何だよ? 俺何か変か?」

「変……と言えば変なのかなぁ……」

 だからぁ! 何がなんだよぉ!

 有希は、頭を拭いていたタオルを握り締めながら鮎美に対し目をつり上げる。

「変なのか? 俺、変なのか?」

「き、気にすることないよぉ……ただ、その感情はどっちなのかな?」

 再び鮎美は意地の悪い顔に変わり、有希の鼻先を人差し指で突っつく。

「どっちって?」

「その気持ちは……その暁さんに対して『Like』or『Love』って言うこと」

 ……ちょっと待て……なんで俺が三十代のオジサンに対して『Love』にならなければいけないんだ? そもそも暁さんに対してそんな感情を持つ訳が無いじゃないか。

「んなわけないだろ? 何で俺が男に惚れなければいけないんだ? それは変な世界になってしまうだろう? それに俺はノーマルだ!」

「ノーマルだからじゃないの?」

 一瞬の間が有希と鮎美の周囲を包む。

「――そうだよな……俺は女だったんだよな?」

 きっと今自分の顔を見たら間抜け面しているだろうな?

 その通りだった。だらしなく半開きになった口に、比較的大きな目はうつろな状態、口だけに微笑が浮かんでいるものの、相対的には間の抜けた顔が構成されている。

「……あなたねぇ、それってマジレス?」

 呆れかえっている鮎美は大きな瞳だけに鋭さを待たせながら有希の事を見つめる。

「あぁ、そうだよな、女だから暁さんに憧れても決して変ではないわけだよな?」

 有希の中になんだかちょっとホッとしたような、安心したような感覚が生まれているが、それにはまだ気が付いていない。

「それって……有希その暁さんに惚れちゃったの?」

 今度は泣き出しそうな顔だな……鮎美って本当に表情がコロコロと変わってみていて飽きないというか、可愛いよなぁ。

「違うよ、憧れかな? 美味しい料理を作るコックさんに対して……ちょっと憧れなのかな?」

 有希はそう言いながら鮎美の顔を見ると、その顔にちょっと戸惑いが浮んでいる。

 難しいなぁ……なんて言ったらいいんだろう……。

「前にも話したよね? ボクが料理を作るきっかけになった事は」

 ベッドの淵に腰掛け、床に座り込んでいる鮎美の顔を覗き込むと、その事を思い出すように鮎美は宙に視線を泳がせている。

「確か両親が共稼ぎで、妹さんの為に作るようになったって……」

 自信なさそうな顔で鮎美は有希の顔を仰ぎ見る。

「正解、妹がいなかったら俺だってきっとホカ弁とかコンビニ弁当とかで済ませていただろうし、事実、俺が作れないときはそれで賄っていたんだ」

 勇気が風邪を引いた時など、勇気が食事を作れない時は、妹がいつもホカ弁を買ってきてそれが食卓の上に置かれていた。

「妹さんは料理できなかったの?」

 首をかしげながら鮎美はそう言い有希の顔を覗き込むが、その有希は苦笑いというよりももっと酷い……落胆したような表情を浮かべる。

「……あいつは料理を作らない方が人類の為、いや、世界平和のためにもいいかもしれないだろう……あれは一種の破壊兵器といっても過言では無い……」

 深いため息……それはきっと青函トンネルの一番深い所二百四十メートルよりも深いであろうと思われるほど深いため息をつく。

「……そこまで?」

 鮎美はゴクリと息を呑みながら有希の顔を見上げている。

「……あれは一種の殺人兵器だ、あいつの料理を口にした瞬間お花畑が見える……河の先で誰かが手を振っていた様な気がする、きっとお年寄りならあれでイチコロだと思うぜ……」

 その時の事を思い出したのか、有希は顔を蒼ざめる。

「……そんなに酷いの?」

 鮎美は無意識なのであろう、握り拳を膝の上におきながら身を乗り出す。

「……有希や鮎美の様な物損的なものなら何とかフォローする事ができるが、あれは間違いなく内部から破壊を始めるであろう……」

 力なく首を振る有希に、鮎美はゴクリと息を呑む。

「まぁ、そんな事もあって、あの家の食事はボクが作っていたんだ、だから俺が料理を作るイコール必要不可欠なものだったわけで、人を喜ばせるといった感覚は無かった」

 一区切りつけるようにニッコリと微笑む有希。

「でも、茜や真澄ちゃんは嬉しそうに食べてくれる、それがすごく嬉しいんだ……そのせいなのかもしれないな? コックさんってすごいなって思ったんだ……その憧れからなのかな?」

 ……ウソではない、確かに憧れているかも知れない。

「ふーん……有希っていいお兄さんだったのね?」

 鮎美はちょっと意地の悪い顔をしながら有希の顔を見つめる、その瞳はまるで有希の事を吸い込んでしまいそうな純朴な、そして、本気で羨ましがっているような表情を浮かべている。

「そうかな? 決していい兄ではなかったと思うよ?」

 照れくさそうにそう言う有希に対し、鮎美は穏やかな笑みを浮かべる。

「それはどうかな? 妹さんに聞いてみないとわからないよ」

 穏やかな顔をしながら鮎美は有希の顔を覗き込んでくる。

第十二話へ。