第十二話 桜の木の下



=春風の中=

「う〜ん、美味しいよぉ〜」

 五稜郭公園の桜がそろそろ満開という頃の昼下がり、ポカポカとした陽光が差し込む教室の中ではいつもと同じメンバーが頭とお弁当箱をつき合わせながら、忙しそうに箸を動かす。

「鮎美、あんまりボクのおかずを取らないでくれよ……」

 有希は弁当箱を鮎美から隠すように手で覆うが、その隙間から違う箸が差し込まれ、目の前から卵焼きを消し去ってゆく。

「アッ、都もぉ、取らないでくれよぉ」

 睨みつける有希に都はしてやったりという様な笑みを浮かべながら口をモゴモゴと動かし、それを名残惜しそうに喉に流し込んでいる事が有希の目からもわかる。

 あ〜ぁ、ご飯ばっかり残っちゃっているよ……。

 男時代には信じられないほど小さなお弁当箱の中にはおかずが残り少なくなり、白いご飯がやけに目立つようになってきている。

「エヘヘ、だって青葉さんのおかずは本当に美味しいんだもん、これをみんな手作りしているんしょ? ちょっと感心しちゃうなぁ」

 茜と共に朝のお弁当作りは日課になっている。恐らく一般家庭より朝の早い青葉家は茜が六時に階段を降りる音で有希が目を覚まし、有希が居間に降りお湯を沸かす時間に真澄が降りてくるというスケジュールが組まれており、全員が集合したところで朝食作りに弁当作成がスタートするという寸法だ。

 ちなみに男時代の俺は朝が苦手で、放っておけば昼どころか深夜まで寝ている可能性があるほどだったが……これは完全に有希の遺伝子だな?

「日課だからね? 気にならないよ、それに前は茜がずっと一人で作っていたらしいから手伝ってあげないと可哀想でしょ?」

 ……だよな? 有希。

〈ハイ、その通りでございます、感謝しているよ勇気には……〉

 申し訳なさそうな有希の意識はため息をついている。

「鮎美のだって美味しいじゃないかぁ、親父さんのお手製か?」

「あっ! ダメ、有希それは……」

 今までのうらみ晴らすというような感じで、有希は鮎美のお弁当箱から小さなハンバーグを略取し、口の中に放り込むが、

 ん? 気のせいか……味がしないかな?

「……あれ?」

 有希が首をかしげると、力なく鮎美はうなだれる。

「ダメだっていったじゃない……それは、あたしが作ったの、でも、味付けするのを忘れちゃって焼けばハサパサになっちゃうし……失敗作なの」

 今にも泣き出しそうな……いや既に涙を目にためている鮎美。

「……はは、失敗は成功の元、昔ボクもやったことがあるよそれ、その時は妹に一週間ぐらい文句言われたっけ」

 苦笑いを浮かべる有希を、ちょっと驚いた顔で鮎美は見る。

 よくやるんだよね? こねている時に塩コショウを忘れて、つなぎが少ないから焼くとパサパサになっちゃうのって。

「有希でもそんな失敗するの?」

「成功するほうが珍しかったよ、最近になってやっとまともになったんだ」

「まったくだ……俺も何回その餌食になったものだが……やっとまともな物が作れるようになったみたいだな?」

 有希が箸を向けていた肉団子が、気がつくとそこから消えていた。

「た、拓海?」

 有希が顔を上げると、指でつまんだその肉団子を口に放り込んだ拓海が、口をモゴモゴと動かし、吟味するように宙を向きながら名残惜しそうに指先についた甘酢を舐めている。

「フム、確かに上手になったようだ」

 拓海はそう言いながら、有希の弁当箱に視線を向け次の獲物を選んでいる。

「お褒めいただいて有難う、でも、これ以上はあげないよ」

 有希は弁当箱を抱え込み拓海に対してベェーっと舌を出す。

「なんだ、せっかく昔の味と比べてあげようと思ったのに……」

 拓海はおちゃらけた様子で有希を見ているが、有希の隣に座っている鮎美と都はなぜ拓海がここにいるのか理解できないような顔で見上げている。

「やだよ、お腹空いちゃうじゃないか……ただでさえ、鮎美たちに取られて残り少なくなっていたのに、これ以上食べられちゃったらご飯しか残らないじゃないか」

 そのお弁当を死守するべく有希はそれを胸に抱え込み、顔だけを拓海に向ける。

 いくら少食になったからといって、今現在残っている量でさえたりないかもしれないものをこれ以上減らされてたまるか。

 有希は力一杯抗議の顔を拓海に向けるが、その拓海には応えていない様だった。

「それよりもなんでお前がここにいるんだ? ここは商業科だよ? 普通科のお前が通りすがるような場所じゃないだろ?」

 そうだ、たとえ学食帰りといってもよほど気が向かなければこの教室にたどり着くことはないだろうし、それに、この女子の密度の高い……いや、この教室に限れば女子しかいない、ここに顔を出すというのはかなり恥ずかしいと思うが。

「俺だってあまり気乗りはしなかったけれど……ほら」

 拓海は視界から消えた弁当の物色をやめ一冊のノートを有希に突きつける。それは有希には見覚えのあるものだった。

「ボクのノート……なんで拓海が持っているんだよ」

 べつに日記のように見られて恥ずかしいものでは無いのだが、なんとなく恥ずかしくなり顔が赤くなる事が自分でもわかる。

 有希はそのノートをひったくるように取り上げその赤い顔を惜しげもなく拓海に向けると、その視線の先の拓海も気まずそうに視線をそらし、鼻先を掻く。

「昨日グランマのスタッフルームに置きっぱなしだったのを津久井さんが見つけたんだよ、ちょうど上がった俺がそれを預かったという事だ……昨日届けようかとも思ったんだけれど、夜遅かったから今日にしたんだ」

 その台詞に有希の頭の中では昨日の行動がフラッシュバックすると原因に突き当たる。

 そっか、あの時スタッフルームでバイトのシフトを確認しようとして取り出して、そのままだったんだ……すっかり忘れていたぜ。

「ありがとう、ぜんぜん気がつかなかったよ……よかった、今日この授業あるし、助かった」

 ニッコリと微笑みながら頭を下げる有希に対し拓海は顔を赤らめていた。



「商業科二年青葉さんと高宮さんは、放課後部室までお越しくださぁ〜ぃ」

 どこの学校にでもありそうな、箱型のスピーカーからどことなく甘えたような、しかし拒否を許さないような声が響き渡り、有希は自分の机に突っ伏す。

 あちゃ〜、一週間勉学に励んでいた(?)この学校からやっと開放され、バラ色の週末に突入しようとしているのに、最後の最後に郁美先生から呼び出されるとは……今週末の運勢はきっと最悪であろう……トホホ。

 うんざり顔の有希が助けを請う様に鮎美のいるであろう席に視線を向けると、そこには有希と同じ行動をとる鮎美の姿が見て取れる。

 スマン、俺と行動を共にしているがために、鮎美にまで迷惑をかけているようだが……頼むから俺を一人にしないでくれ。

 心の底から詫びる有希の視線がうつろな、それこそ遠洋漁業から帰ってきた漁船からクレーンで吊り上げられた凍りついたマグロのような瞳をしている鮎美と交わる。その瞳は有希を攻めるわけでもなく、認めるわけでもない、やけに中途半端な微笑を浮かべているように感じる。

 あぁ、きっと攻めているよぉ……あの目はきっと怒っている、俺なんかに付き合っているからこんな目に合うんだと、その目は訴えているに違いない。

 有希はその冷めたような鮎美の視線から目を逸らす。



「やぁ、有希君、来てくれたんだね?」

 部室に入ると、やたらと無駄な感じのする矢野の微笑が有希たちを出迎える。

「……来たくて来たわけじゃねぇんだけどな……」

 ぼそっと呟く有希のわき腹を突っつくのは苦笑いというよりも諦めに近い、そう、まるで『毒を喰らわば……』のような悟りを開いたような鮎美の顔だった。

「有希、言葉遣い……気を抜くと出ているよ? 地が……」

 その一言に有希は、両手の人差し指で強引に口を横に広げるふりをする。

「うっ、うん……何の用なんだよ、ですわ……」

 頬を引きつかせながら有希は微笑むものの、目だけは今にもその相手(矢野)に飛び掛りそうな鋭い視線を向けている。

 話の内容によってはこいつの事を……殺(や)る。

「ハハは、そんな嬉しそうな顔をする事はないではないか。大丈夫最初は優しくしてあげるから、痛いのは、一瞬だけだよ」

「んで! 本題わっ!」

 これ以上こいつと一緒にいるとアホがうつる……イヤだ、アホにはなりたくない、という以前に、こいつと同じ次元にいたくない。さっさと話を聞き、それを否定して(きっと否定する話題しか持って来ないはず)この場から離れたい。

 有希は、うんざりしたような表情で矢野の事を睨みつけ、鮎美の事を背に回す。

「有希?」

 有希の背後で鮎美は、ちょっと驚いたような、それでも頬をちょっと赤らめている。

「フム……有希君、春だと思わないか?」

 ……つかみどころがないというか、訳が分からない所から話を持ち出さないでいただきたいのですが……。

「きっと桜も咲いている事ですから、世間一般的には春というのではないですか?」

 非一般的なあなたの頭の中は年中無休でお花が咲き乱れているでしょうし、そんなあなたに付き合っている漫研の諸メンバーがどう思っているかは知りませんが。

「その通り春だよ、そして桜も咲いている、これほどまでの舞台が整ってやる事といえば一つしかないと思う」

 矢野の端正な顔に満面の笑みが浮かぶ。

「ハハ、あなたをその桜の木の下に埋めてしまうということですね?」

 ニッコリと微笑みながら有希はちょっと怖い事をさらっと言う。

「桜の木の下には死体が埋まっているとよく言うからな……と言う事は、僕は有希君に殺されろという事なのかな? それはそれで名誉な事なのだが……」

 寂しそうな表情を浮かべる矢野に対し、有希はそれに躊躇することなく台詞を続ける。

「だったら一思いにいきましょう、錆びついた包丁で刺されると大層痛いそうなので、それでいきますか?」

「……優しさがない」

 さらに表情を曇らせる矢野に対し、有希はニコニコと微笑む。

「こらぁ、この部室でなんていう危険な話をしているのかしらぁ?」

 有希の足元から舌足らずな声が聞こえ、有希はそれに視線を落とす。

「神聖な部室でそんな話をしないでよねぇ」

 ぷんぷんという擬音が見えそうに頬を膨らませている郁美が矢野と有希の顔を見上げている。

「もぉ、春といったら桜、桜が満開といったら『花見』しかないでしょ!」

 やっぱりそうでしたか。

「それで、ボクと鮎美がここに呼ばれたという事と、それが絡み合う事はありえる事なのでしょうか? というよりも絡ませないでもらいたいような気がするのですが」

 有希は恐る恐ると郁美の顔を眺めるが、その顔はニコニコと微笑んでいる。

 ……絡める気だ……この人は俺たちをそこに呼ぶ気でいるんだ。

「お姉さま、絶対に来てくださいね?」

 ぎゅっと腕に抱き疲れる感覚、それに視線を向けると、腕にぶら下がっているのは岬で、その頭には思い出したくもない三角形のものが。

「岬ちゃん、何でそれを……」

 平間あたりに無理やりつけられたのではないのかと、有希はそれに手を伸ばす。

「あん、お姉さまも付けますか? ネコミミ、やっぱりお姉さまの方が似合うと思ったんですけれど、どうしてもつけたくってお願いしちゃいました、エヘ」

 イヤだ……というより、岬ちゃんのそれは、自己申告で装着したの? 嬉しそうな顔……をしているのだろう、前髪がその顔の半分ぐらいまでかかって表情が読みにくいものの、行動から見てかなりのご満悦のようだが……しかもしっぽつきのフル装備。

「決まりね? じゃあ、明日の休みに五稜郭公園で開催決定」

 郁美は満面の笑みを浮かべながら有希と鮎美の顔を代わる代わる見つめる。

「決まりって、ちょっと待ってくださいよ」

「俺も参加させてもらっていいかな?」

 有希が反発の声を上げようとした時、部室の入口からぶっきらぼうな声が参加表明する。

 この声って……まさか。

「た、拓海?」

 その入口で入室を躊躇しているのは拓海だった。

「あらぁ? 江元君がここに来るなんて珍しいわね? 目覚めたのかな?」

 何になんでしょうか?

「別にそんなんじゃないけれど、たまたま前を通りかかったら面白そうな話をしていたから顔を出してみただけだよ、言っておくけれど好きでこの部に入ったわけじゃないから、それだけは誤解のないようにしてくれ」

 その視線は有希にしっかりと向けられている。

「じゃあ、あたしも混ぜてもらおうかな?」

 拓海の背後で金髪が揺れる。

「わぁあ、ミーナ、いつからそこにいるんだ?」

 それまで、ニヒルに決めていた拓海だが、ミーナの登場に心底驚いたようで、一メートルぐらい飛び跳ね、カッコよく決めていたその顔には動揺の色が浮かび上がっている。

「何よ、人の事をまるでお化けが出たような顔をしてみるなんて……ちょっとショックかも」

 ミーナは頬を膨らませながら拓海の顔を睨みつけている。

「まぁ、八雲さんまで、嬉しいわね? お願いしてこの部に入ってもらってから一回もここに顔を出してくれないから、幽霊部員さんになっちゃったのかなって心配していたのに、嬉しいなぁ、みんなこの部の良さに目覚めてくれたのね?」

 目尻に嬉涙を浮かべながら郁美はその二人の顔を見つめる。

「「ちがぁ〜う」」

 ミーナと拓海の叫び声が、かなりぴったりの息で響き渡る。



「それでは分担を発表する」

 どこから持ってきたのか、矢野は体育館や講堂に置いてあるような演台を前に、まるで閣議決定するかのようにそれを発表してゆく。

「まず資材調達班だが、これはミーナ君と鮎美君、後は、霞に任せる」

 金髪のツインテールを揺らしながら元気よく手を上げ立ち上がるミーナに、いつの間にか、その渦中に入り込んでしまいちょっと戸惑った表情の鮎美、そうして、これまたいつの間に現れたのか分からない霞がニッコリと微笑みながらコクリとうなずく。

 さっきまでどこにもいなかったのに……この人だけは謎だ……。

「フム、ではこれは決定事項として、次に飲料担当であるが、これは明らかに体力のある男子が行わなければいけない、そこで平間、君にこの重要任務を与えよう」

 矢野はそう言いながら、ピッと人差し指をその存在を消そうとしていた平間に向ける。

「あうぅ〜、やっぱりそうなるんですかぁ?」

 泣き出しそうな表情を浮かべる平間に対し、明らかに偉そうな態度で矢野はのたまう。

「当たり前ではないか! 貴様がやらずして誰が出来る! この重要な任務は貴様にしかできない事だ! 俺は貴様の任務遂行に期待する」

 ……断言かい。

 その勢いに平間は、ちょっと怯みながらも、なんだか徐々に顔を紅潮させながら、しまいには涙を流しているようにも見える。

 ……アホがいる……やっぱりここに染まってはいけないんだ。

 有希は眉間にしわを寄せ、そのしわを人差し指で撫ぜる。

「はっ! 喜んでその任務を遂行させていただきます!」

 平間は、敬礼をしながら矢野に満面の笑みを浮かべている。

「よし! そして、弁当班だが……」

「それはやっぱり、稲田さんに決定!」

 間髪いれずに郁美がそう言うと、それに納得したように矢野がうなずく。

「そうだな、去年の実績から考えればそれは妥当な案だと思います、実を言うと来年から早希君のそれが食べられなくなるのが非常に残念で仕方が無い所だ」

 あなたは来年もここに居坐る気なんですか? それと同時にあなたも卒業するんですよ?

 有希は心の中で激しく突っ込む。

「そうですかねぇ、そんな事を言われるとちょっと嬉しいです」

 猫目をさらに嬉しそうに細めながら早希はそう呟きながらちょっと照れくさそうにうつむく、その姿は、今まで早希に持っていたイメージを覆すような仕草であった。

 うぁ……可愛いかも……、男心を刺激するよ……。

 有希はそんな早希の可愛らしい仕草に、感心したような表情を浮かべる。

「では、お弁当は稲田さんにお願いするとして、一人ではちょっと心もとないわよね?」

「ハ〜イ! お弁当は有希が適任かと思います!」

 思案顔を浮かべる郁美に対して、ミーナは手をあげながら有希の事を推薦する。その一言に、矢野と早希の視線が有希に突き刺さる。

「……そのココロは?」

 矢野はミーナの顔を見つめる。

「有希のお弁当はサイコ〜に美味しいです、これが推薦の根拠です!」

 ミーナは満面の笑みを浮かべながら周囲を見渡す。

「ほぉ、それは楽しみだな……」

 鼻を鳴らしながら矢野は疑念の表情で有希の顔を見る。

「それは俺も保障するよ」

 横から拓海も矢野を挑発するような表情で微笑みながら有希の肩をぽんと叩く。

「決まりみたいだな?」

 その拓海の表情を受けたように、矢野はそう言う。

 なんだか二人の間に火花が散っているようにも見えるんですけれど……。



=五稜郭公園の桜=

「おはよ〜」

 晴天、晴ればれの函館の街に鮎美の元気な声が響き渡るが、その晴天に雲を刺すような表情の有希、それはどんよりといった感じだった。

 曇り、もしくは雨で中止というのが好ましい結果だったのだが、生憎の天気というかな?

 どんよりとしたその有希の瞳とは反比例したように爽やか! という文字が浮かび上がりそうなその青空に向けられる。

「……天気そうで何よりですってか? はぁ〜……青空にこんなに憂鬱になるとは……」

 有希の深いため息は今までと違いその周囲を白く濁す事はない。

「何よ元気ないなぁ、せっかくの良いお天気なんだから満喫しないと損しちゃうぞ?」

 周囲のその感覚に刺激されているのか、店の前で手を振る鮎美は上機嫌な表情を浮かべながら有希の顔を見つめている。

「ん? なんだか重そうな荷物だな?」

 鮎美の足元に置かれているのはあきらかに重そうなトートバッグ。

「うん、ちょっと重たいかな? でも、お父さんが『花見に行くならこれぐらいの物を持って行け』ってうるさいから」

 鮎美は苦笑いを浮かべ、そのバッグを持ち上げるがその表情はしかめ面になる。

「ちょっと、それはボクが持つから鮎美はこれを持っていって」

 有希はそう言いながら自分の持っていたトートバッグと引き換えに鮎美のそのバッグを持つ。

 これは……十分に重いじゃないか、一体何が入っているんだ?

 ズシッとした重量のバッグを持った瞬間有希の眉間にはシワがより、かなりの力を振り絞っている事がわかり、その小さな手のひらに持ち手がくい込む。

〈ちょっと勇気、そんなものを持ったりするから、最近あたしの腕が太くなったんじゃない?〉

 慌てたように有希の意識が勇気に問いかけてくる。

 これで十分だよ、お前の腕力はちょっと頼りなさ過ぎる、少し肉をつけたほうが良い。

 そんな一昔前のスポコン漫画のちゃぶ台をひっくり返す親父のような事を言う。

〈そんなぁ〜、あたしだってか弱い女の子なのよぉ〜〉

 恨むのなら神様を恨んだほうが手っ取り早いような気がするな? そもそも男をこの身体に入れちまったんだから、本能的に女の子が困っていると、助けたくなるのが心情ではないか?

〈……フ〜ン、勇気って結構紳士なんだ、ちょっと意外かも……〉

 結構とは失礼な言われ方だな? こう見えても結構気を使うんだぞ、女の子に対しては。

〈ちょっと妬ける……かな?〉

 誰に対してという勇気の問いかけに有希は答える事無くその意識を消す。



「有希こっちだ!」

 函館市電の『五稜郭公園前』から歩いて十分ぐらい、箱館戦争の舞台になったこの五稜郭も、百三十年以上の長い年月を経て今では函館市民や観光客の憩いの場となっており、この季節は満開の桜がその堀を桜色に染めている。

 その名残を残す大砲が置かれている門前から公園内に入り、携帯に入った場所に向かうと、矢野たちの姿はなく、場所取り班を拝命した拓海が声をかけてくる。

「矢野たちは?」

 有希は重たい荷物をそのブルーシートの上に置きながら周囲を見渡すが、郁美や岬の小さな姿や、ミーナの金髪は見当たらない。

「有希たちが一番乗りだ」

 頬を周囲の桜の色が映ったような色にしている拓海は、座り込みながら有希の顔を見上げる。

「そうなんだぁ……場所取りお疲れ様」

 拓海はニッコリ微笑む有希に視線を向けることができなくなったようにうつむいてしまう。

「有希ゴメンね、ちょっと行って来る」

 有希の背後でモジモジしていた鮎美がお弁当の入ったカバンを置き、駆け出すように五稜郭タワーに向かっていく。

「何だ? 鮎美の奴どうしたんだ?」

「エヘへ、ひみつ」

 市電を降りた頃から、鮎美がしきりに『やばい』と言っていた、それは月に一度のものが始まる前触れだったらしいが、その事については触れないでおく事にしよう。

「それにしても温かくなったね? もう、春っていう感じじゃないか」

 温かいというよりも、日溜りは既に暑いと言ってもいいだろう、有希は羽織っていたカーディガンを脱ぎ、履いていたミュールを脱ぎ『お邪魔します』と声をかけながらブルーシートに足を乗せる。

「あぁ、特に今日は日差しが強いからな?」

 拓海は真っ赤な顔をして有希のそんな姿を見る。

 よかった春物にしておいて、これだけ日差しがあると暑いぐらいだよな?

拓海が視線をそらす有希のその格好は膝より少し下になる丈のレモンイエローのワンピース長袖ながらも生地は薄く肩の辺りが膨らんでいる。

 以前はスカートなんてスースーしていて嫌だなと思っていたけれど、最近になってはむしろ楽だったりして……とくにこのワンピースというのは被るだけでいいから着替えが楽かも。

 有希はそのワンピースのスカートを膨らませながらそのブルーシートの上にちょこんと座る。

「最高気温が二十度超えるって言っていたよね? 紫外線も強いみたいだし日に焼けちゃうかもしれないなぁ」

 個人的にはこんがり小麦色という方が好きなのだが最近の女の子の風潮は、日焼け厳禁、紫外線はお肌の大敵と言わんばかりにUVカットしまくりらしい、鮎美もそんな事を言いながらならヌリヌリしていた。

「……なぁ、有希」

 いつになく真剣な表情の拓海が有希の顔を見る。

「ん? どした?」

 桜を見上げていた有希は、そんな拓海の言葉にちょっと首をかしげながら、その視線を素直に受け止める。

「……いや、有希は『勇気』なんだよな?」

 再び頬を赤らめながら、拓海はちょっと照れくさそうな表情で視線を有希からはずしながら呟くようにそう言う。

「そうだよ? いまさらなにを言っているんだよ拓海は」

 ケラケラと笑う有希に、拓海はちょっとムッとしたような表情を浮かべる。

「何って……まるっきり女の子だなと思って……」

 拓海のその一言に、有希の口がニィーっと横に広がる。

「……そう言ってもらえると嬉しいよ、今まで男しかやった事がなくって、いきなり女の子になっちゃったからだいぶ戸惑ったけれど、でもみんながそんなボクの事を女の子として接してくれるし、みんな助けてくれる。だからボクはボクなりの生き方をしているだけ、それに、それが、この身体を譲ってくれた娘に対する誠意だからなのかな?」

 一度は死んだこの命を、ちょっと変わった形でつなぎ止める事になったけれど、意識しかない有希よりも何十倍も幸せな事と思うし、何よりも、こんな仲間と出会えた事に感謝したい、それに、一番は……有希と出会えた事かな?

〈エヘへ、ありがと〉

 照れくさそうな有希の意識が頭の中に心地よく響く。

「だから、そう言ってもらえると褒められたみたいでボクは嬉しいよ」

 手のひらに落ちてきた桜の花びらを見つめていた視線を上げて優しい微笑みを浮かべる有希に対し、拓海の顔は音を立てたように一気に赤くなり、何かに動揺したかのように身体をソワソワさせはじめる。

「あっ、いや……その……嬉しいのか?」

 視線をはずしながら拓海は再び有希に問う。

「うん! 女の子らしいって言ってくれたんでしょ? だったら嬉しいよ」

「でも、男の勇気は……」

 ちょっと納得いかないような顔をしながら拓海が顔を上げるが、そんな視線に怯む事無く有希はニッコリと微笑む。

「男の『勇気』は、あの有希の日にバイク事故で死んだんだ、だからここにいるのは『有希』なんだよ、ちょっとややっこしい記憶がいろいろとあるけれどね?」

 有希は広がっているスカートを見てそう言うと、拓海は視線を自分の膝先に視線を落とすが、やがて諦めたようなため息をつく。

「まぁ、勇気……有希がそう言うなら……」

 拓海はそう言いながら顔をあげると、有希の顔が間近にあることの驚き飛びのく。

「な、何だ?」

 動揺した拓海は身体を反らしながら意地の悪い笑顔をする有希から距離をとるが、その顔は完熟トマトのように真っ赤になっている。

「拓海ぃ、ボクに惚れない方がいいよ? ボクは拓海のいろいろを知っているんだから」

 キヒヒといやらしい笑い顔を作る有希に拓海は顔を今度は蒼ざめさせる。

「お前……嫌な奴だなぁ……ひょっとしてマゾなんじゃ……」

「あぁ〜、そんな事を言うとお前の恥ずかしい過去を話しちゃうぞ」

 怯む拓海は下唇を噛みながら有希の顔を見上げ、何かがひらめいたようにその顔に不敵な笑みを浮かべる。

「そんな事を言うとお前の恥ずかしい過去も話しちゃおうかな?」

「フムそれは非常に興味があるな、江元君キミがどんな事を知っているか今度じっくりと聞かせてもらいたいものだ」

 有希の背後から、矢野の声がボソッと聞こえてくると、有希のその背筋にはまるでなにか棒でも入れられたようにピンと伸びる。

 ど……どこから聞かれたんだ? まさか『勇気』の辺りからじゃあないだろうな、そんな事がこの非常識男に知られたら……生きていけない。

「い、いつからいたんですか?」

 恐る恐る振り向く有希の首は、油の切れたロボットのようにギギっと音を立てそうだ。

「いやねぇ、江元君と青葉さんの雰囲気がよかったから見とれちゃった」

 腕組みをしながらつまらなそうな顔をしている矢野の隣では、春らしさを醸し出すフリフリの格好をした郁美先生、その姿はまるっきり小学生で、この人が教鞭をとっていると言っても誰も信用しないだろうし、このメンバーの中で一番年下と言えば恐らく全員が頷くであろう。

 確かにみんな私服かもしれないんですけれど、先生のその格好は……特殊な趣味を持ち合わせた人間が泣いて喜びそうな……魔法でも使います?

 力なくうなだれる有希の腕がギュッと抱きしめられる。

「お姉さま、男になんてうつつをぬかしたらダメです! 男なんて不潔なだけです」

 岬ちゃん、それはあまりにもの偏見だと思いますよ? 男の中にだって女の子の手を握る事ができずに悔し涙を流している人間だっているんだから……そんな偏見で見ないでくれ。

 岬は春らしく薄ピンク色のワンピース姿だが……頭にはよほどお気に入りなのであろう、ネコミミを装着しっぱなしだった。

 ――しっぽのオプションも付いているし……。

 呆れ顔の有希の視線の先にはフサフサと言う形容が似合う見事なしっぽが岬の小さなお尻の先で揺れている。

「もぉ、ちょっと手洗いに行っている間に二人っきりでなにやっているのよ!」

 頬をふぐと競っているような勢いで膨らませている鮎美だが、その隣にはちょっとうつむき加減のミーナが立っている。

 ヤベ! ミーナの奴誤解しているんじゃないか?

 有希が拓海の顔に視線を向けると、困ったような顔をしながらもその口はどこか嬉しさを隠せないのか、その端は上を向いている。

 ダメだ……何かこの男は夢をみているようだ……。

 一緒にその誤解を解いてくれるのではないかと期待をした有希だったが諦め顔を浮べる。

「誤解! ボクは何も……」

 有希の一言に我に返った拓海も、疑惑の目を向けられている事に気がつく。

「そうだ、俺は別に有希の事なんて……なんとも……思っていないよ」

 拓海はちょっと口ごもりながらそれを否定する。

「そう、なんでもない!」

 きっぱりと有希も否定するが、その有希の顔を寂しそうに拓海はチラッと横目で見ていた。



「さて、恒例でもある漫研の花見を開始しまぁ〜す」

 郁美の音頭で、全員が紙コップを手にする。

「それでは、不肖私矢野隆明が、乾杯の音頭を取らせていただきます」

 矢野はそう言いながらその場にスクッと立ち上がる。

「そもそも、この漫画研究会は、ここにおられる鹿島郁美先生が創立にご尽力頂き、初代部長を私が勤め上げるという非常に歴史の浅い……」

 ウダウダと長話をする矢野はまるっきり無視し、有希は輪をなしているこの集団の中心に置かれているその物体を見つめていた。

「有希、どうかしたの?」

 隣にいる鮎美が有希の顔を覗き込んでいる。

「いや、これはジンギスカンをやる鉄板だよな? 何でそれがここに置かれているんだ?」

 それはコンロに乗せられ、後は野菜などの具材をのせられるのを待っているそれは、独特の形をしたジンギスカン用の鉄板だった。

「そうか、有希は初めてだものね?」

 鮎美は他のメンバーに気がつかれない様に声を潜めながら有希の頬に顔を近づけてくると、フワッとしたシャンプーなのかコロンなのかわからない、その香りとともにその体温を感じ、有希はその頬を周囲の桜と同じ色に染める。

「こっちではね、お花見の時には必ず『ジンギスカン』をやるのが当たり前なの、だから公園の入り口ではこの鉄板の貸し出しをやったりしているし、コンビニに行くと使い捨てのアルミでできたこの鍋が置いてあったりするわ」

 耳に鮎美の吐息を聞きさらに頬を赤らめる有希だが、その地域差に目を見張る。

 ちょっとしたカルチャーショックだな? 確かに東京では考えられない光景がいたるところで繰り広げられている。酔っ払いは全国共通の花見にはなくてはならないアイテムではあるが、必ずそのグループには最低でもひとつのジンギスカン鍋、それに酔っぱらいのいるグループにはお酒の一升瓶と……なぜか居酒屋などでよく見るビールサーバー……このビールサーバーも公園で貸し出してくれるらしいが、さすが北海道というのだろうか、規模が違う。

 周囲を見回す有希は素直に驚きの表情を浮かべている。

「夜桜見物もオツな物があるけれど、やっぱり寒くって……みんな毛布持参は当たり前、ツワモノになるとストーブ持参で花見をしている事もあるぐらいよ」

 鮎美は苦笑いを浮かべてそう言うが確かにそうだろう、いくら日中暖かいからと甘く見ていると、夜になってからの寒さに凍える事になる、事実いまだに青葉家では、夜になると冷え込むためにストーブをつける日があるぐらいだ。

「北海道の夜桜見物は、ある意味命がけかもしれないね?」

 有希もそれに対して苦笑いを浮かべる。

 桜を愛でながら……凍死なんてシャレにならないぜ?

「命がけは大げさかもしれないけれど、油断をすると間違いなく風邪を引くわよね?」

 眉を八の字にしながら鮎美が言うと、その隣の有希も困ったような顔をしてどうでもいいような事を言っている矢野の顔をスルーし、ミーナに問い詰められている拓海の顔を見る。

 ウ〜ン、ちょっと女の子に思われると言う事が羨ましく感じるかな?

 困ったようにミーナに対して言い訳をする拓海は、チラチラッと助けを請うような顔を有希に向けてくるが、それに脈がないとわかると拓海は力なくうなだれる。

「それでわぁ〜、かんぱぁ〜い!」

 おそらく誰も聞いていなかったであろう矢野の最後の一言にみんな反応を示す。



「美味しい……お姉さまのお弁当最高に美味しいですぅ〜」

 桜の花びらがハラハラと落ちる公園の中、ブルーシートの上で繰り広げられる宴席の中でネコミミを揺らしながら岬は有希のお弁当に箸を進める。

「ホント、あたしも脱帽だわ」

 早希もその料理に舌鼓を打つ。

「そ、そうですかねぇ、でも早希先輩のもすごく美味しいですよ? 岬ちゃんのも美味しいし、あたしなんてまだまだ未熟者ですよぉ」

 照れる……料理でこんなにみんなから褒められるというのはなんだかすごく照れる、でもちょっと嬉しいかな?

「いや、これは美味いと思うぞ? これで来年のこの『花見』の目玉ができたというものだ、いや、早希君が来年卒業という事でどうするか懸念していた所であったが、これで安泰だ」

 だから、あんたも一緒に卒業だろうって……。

 矢野はどこから出したのか、扇子を広げながらまるで殿様のようにそれで扇ぐ。

「これをお前が作ったのか?」

 拓海がそう言いながら、卵焼きに箸を伸ばす。

「うん! 朝早く起きて茜と一緒に作ったんだ、ほら、ちゃんと拓海の大好きなたこさんウィンナーもあるよ?」

 有希はそう言いながら、たこさんウィンナーを箸でつまみ上げ、拓海の前にそれを差し出す。

 拓海は、昔からたこさんウィンナーが大好きだったよね? 中学校の運動会の時も、お袋さんの作ったたこさんウィンナーを恥ずかしそうに食べていた事を覚えている。

「お、お前、そんなことを言うなよ……べ、別に好きなわけじゃないけれど……」

 真っ赤な顔をして拓海はそのたこさんウィンナーを見つめる。

「……ゴメン、変な事言っちゃった?」

 そうだった、拓海の両親は離婚したんだ、その思い出を今更むしかえすような事をしてしまったのではないか?

 有希は素直に頭を下げるが、拓海はそんな有希に対し優しい笑顔を浮かべる。

「誤る事なんてないよ、ほら、そこに置いてよ、食べたくてもそのままじゃ食べられないだろ?」

 拓海はそのたこさんウィンナーを置くように目配せする。

「そんなのいいじゃない、ほら、あーんして?」

 その行動に一同が色めき立つ。

「有希、あなた……」

「イヤだ、お姉さま、そんなのいやぁ〜」

 ……すさまじく誤解されたような気がする、浮かれて軽はずみな行動をとってしまった自分が憎いかも。

第十三話へ。