第十三話 Singin’ in the Rain 



=蝦夷梅雨=

「雨じゃないか……」

 休み時間、ぼけらぁ〜と校庭を眺めてしまう。既に雨が降り始めて一週間が経とうとしているがその様子はまさに『梅雨』そのものであり、俺の知っている限りでは『北海道には梅雨がない』というのが定説だったのだが、目の前で細かい雨を降らせているのは紛れもなく『梅雨らしい雨』だった。

「よく降るよね?」

 隣にはいつの間にか鮎美が立っていた。

「あめぇ〜」

 有希はそう言いながら立っている鮎美の顔を恨めしそうに眺め、今にも泣き出しそうに眉根をしかめながら見上げる。

「あ、あたしに言わないでよ……仕方が無いでしょ? この時期は内地にだって梅雨があるんだから、それと同じだよ」

 鮎美は苦笑いを浮かべながら悲しそうな目で見つめている有希をなだめるように頭を撫でながらそう言う。

「北海道には梅雨がないんじゃなかったのか?」

 有希は頬を膨らませる。既に一週間もの間、外に出ての活動を自粛せざるを得ない状況が続き、身体を動かす事のできない有希の中にはストレスが溜まっている。

「ウフ、これはね『蝦夷梅雨』といって、内地の梅雨と同じようなものなのよ、でも、内地のそれとは違って、ジメジメがないからいくらかはましとよく聞くけれど、ちがうの?」

 有希の中にいる勇気が東京からの人間と知っている鮎美は、逆に質問するように首をかしげながらその顔を覗き込ませてくる。

「違わないし、確かにそうかも知れないけれど……やっぱり晴れている方がまし!」

 有希は小さくため息をつきながらそう言い再び雨にぬれる校庭を眺める。

「確かにそうよね? こう雨が続くと靴下は濡れるし、髪の毛もまとめ難いし……確かにうっとうしい事は間違いないわよね?」

 鮎美はそう言いながらポニーテールにした髪の毛を弄ぶ。

「それ! 何で鮎美はそんなにちゃんとできるの? ボクなんてなんだか髪の毛がペチャっとなっちゃって、なんだか張り付いているみたいでカッコが悪いよ」

 有希も背中まである髪の毛の毛先を目の前に持ってくると再び頬を膨らませる。

「あは、有希の髪の毛はいつもそうよ、髪の毛が細いからなのかしら? 普段だとサラサラで綺麗な髪の毛なのに、この時期になるとまとまり難いって言っていたよ? そうだ! だったらあたしと同じようにしてみる?」

 鮎美はそう言いながら、上着のポケットに入っていたピンクのヘアバンドを取り出す。

「ほら、こっちに来て……一つにまとめるよりも、こうやって両サイドで三つ編みにしてみて後毛先をこれで結んで……」

 鮎美はブツブツと呟きながら有希の髪の毛を結い上げる。

「ハイ完成、見てみて、可愛くなったよ?」

 鮎美が小さな鏡をポーチから取り出し、有希にそれを渡すとその小さな鏡に写っている有希の姿は、三つ編みにした髪の毛を両肩に乗せはにかんだような顔をしている。

「ヘェ、鮎美って結構器用なんだな?」

 いつものように飾り気のない髪型と違い、なんとなく可愛らしくも見える。

 いつもながら思うけれど、女の子というのはこうやって髪型一つ変えるだけでだいぶ印象が変わるんだなぁ……我ながらビックリだよ。

〈そう思うんだったら、もう少しは気を使ってくれないかしら? あなたは髪型に無頓着すぎるのよ、たまにドライヤーもかけないで寝ちゃったりするでしょ? あれをやると髪の毛が絡んじゃうのよ〉

 だって面倒臭いし……いっその事髪の毛を短くするっていうのはどうだ?

〈それは絶対にダメ!〉

 いつに無い強い有希の意識にさすがの勇気も怯む。

 じょ、冗談だよ……そんなにムキにならないでくれ。

〈髪は女の命なのよ? そんなに簡単に切るなんていわないでよ〉

 有希の意識はそう言いながらか細く消えてゆき、その様子に勇気は心の中で首を傾げる。

「ありがと、でも女の子だったらこんな事は当たり前よ? 有希も素材がいいんだから、ちょと気を使ってみれば?」

 鮎美はそう言いながら有希の鼻先を人差し指で突っつく。

「別に……あまり気にならないし面倒臭いから……さて、おトイレ行ってこよ」

 有希は苦笑いを浮かべながら席を立つと、鮎美も付き合うといわんばかりに無言で席を立つ。

 いまだに不思議なのだが、なぜ女の子というのはこうもトイレに一緒について行きたがるのだろうか? 男同士であればツレションというのだが、女の子も同じなのかしら?

「有希、あなた今、変な事考えていたでしょ」

 廊下を歩きながら、有希の顔を覗き込み鮎美がそう言う。

 最近この娘も鋭くなってきた、というかボクの行動を把握されつつあるのかな? ウマい所に突込みが入るというか、考えている事が鮎美にバレているようなそんな気がする。

「そんなことないよ……多分」

 有希がシラをきるように言うと、鮎美は頬を膨らませながら有希の腕に抱きついてくる。



「さっぱりした……」

 ハンカチで手を拭きながら女子トイレから出てくると、今まさに掲示板に何かを張ろうとしている女子が一人椅子の上に立ち、かなり危なっかしい動きをしている。

「ん? どした?」

 有希の背後から鮎美が同じような動作をしながら出てくると、立ち止まっている有希の顔を覗き込んでくる。

「いや、なんだか危なっかしいなぁって」

 有希はその掲示板娘から視線をはずさずに答える。

「あぁ、彼女は生徒会商業二年代表の中原泉水(なかはらいずみ)さん、確か隣のクラスだったかな? いわゆる都たちがやっているクラス委員のお頭っていうところかしら?」

 鮎美は顎に人差指を当てながら考えるようにそう言う。

 ――お頭って、海賊や山賊じゃないんだから……。

「わ、わ、わわわ……」

 鮎美とそんな会話を繰り交わしていると、その泉水の動きにさらに危険な香りのする変化が現れ始めたその瞬間、有希の身体は無意識に動き始めていた。

「あぶない!」

 有希のその足は、瞬発力を最大限に駆使してバランスを崩し乗っていたその椅子から落ち始めている泉水に対して突進する。

「うぁ〜〜〜っ!」

 無意識に鮎美はその光景から視線を外し、ギュッと目を瞑り、その後聞こえてきた破壊音に肩をすくめる。

 ドンガラガッタァ〜ン!

 窓などの学校備品類が壊れたような音がしなかった事に胸をなでおろしながら、鮎美がそっとその瞳を開くと、泉水がちょうど有希に覆い被さるような格好になっている。

「いてて……」

「ちょっと有希! 大丈夫?」

 慌てた様子で駆け寄ってくる鮎美に手を上げながらそれに応え有希はそっと目を開く。

 どうやら間に合ったみたいだな? ん? って、わぁ〜っ!

 有希の目の前には、待ち望んでいる空の色と同じ色のパンツが露になり、それは鼻先まで数センチの距離に迫っている。

「ボクは大丈夫だけれど……ちょっと重いかも……」

 ボクも女の子だから、そんな過敏な反応するわけじゃないけれどもこんなにも目前に女の子のヒップがあるのは生まれて初めての経験かもしれない。

「有希、また変な事を考えたでしょ!」

 ホッとしたような顔を浮べながらも、有希のその状況を見て鮎美は機嫌悪そうにプクッと頬を膨らませている。

 やっぱり鮎美にはバレているようだ、あいつはエスパーか?

〈勇気が変な行動ばかりするからじゃないの?〉

 クスクスと笑うような感覚で有希の意識が問いかけてくる。

 これは人名救助のうちでしょ? 変な行動なんかじゃないと思うけれどなぁ……どうでもいいけれど皆さん、とりあえずボクの上にいる女の子をどかそうという意見はないのかな?

「ムギュゥ……って、あぁ〜、ゴメンなさい!」

 泉水はやっと気がついたのか、慌てて有希の目の前からその豊かなヒップをどかして詫びるが、その顔は茹で上がったばかりのズワイガニのように真っ赤になっていた。

「いいえ、怪我はない?」

 有希はお尻をさすりながら立ち上がると頬を膨らませたままの鮎美が手を貸してくれる。

「ハイ、おかげさまでなんとも無いみたいです、本当に有難うございます」

 泉水はそう言いながらぺこりと頭を下げると、腰まである長い髪の毛がフサッと人懐っこい顔にかかる、そしてその左手にはなにやら紙切れがしっかりと握り締められており、視線を掲示板に向けるとそこには貼られたばかりであろう校内ポスターが無残にも切り裂かれていた。

「……それ」

 有希がそのポスターに視線を向けると、それに促されるように泉水は視線を向ける。

「あぁ、せっかく張ったのに、無意識につかんでしまったんですね?」

 その状況を見て大きな瞳に涙を滲ませながらも、ペロッと舌を出す泉水は制服を着ているから高校生とわかるかもしれないが、街中で会えば恐らく小学生ぐらいにしか見えないであろう。

 郁美先生といいコンビニなりそうだが……小学生コンビ?

「まぁ、怪我がなくってよかったじゃないか」

「ハイ、有難うございます!」

 目尻の涙を拭いながらニッコリと微笑む泉水の顔は、恐らくそんな趣味のある人にはたまらない笑顔であろう。

「鮎美、行こうか?」

 有希はそう言いながら歩き出すが、再び泉水に声をかけられ振り返る。

「エッと、あのぉ〜……お名前は?」

 少しモジモジしながら泉水は上目遣いで有希の顔を覗き込んでいる。

「ボクは青葉有希、商業科二年B組だよ」

 有希はウィンクしながら泉水に背を向けるが、その背中を見る泉水の視線は熱く、頬を紅潮させているが、有希たちはそれには気がついていなかった。



=よく確かめて……=

「……ひま」

 漁火通り沿のファミリーレストラン『グランマ』の店内は客の姿はまばらで、おそらくホールにいるのはお客よりもバイトの方が多いであろう。

「確かに……お客さん少ないよな」

 蝶ネクタイ姿の拓海も手持ち無沙汰な顔をしながら有希の隣でため息をつき、トレーを指先に乗せてそれを弄んでいる。

「こんなんじゃあ潰れちゃうよ」

 表情を曇らせながら有希は大きな窓の外を眺めると、そこには細かい雨粒に霧に煙った津軽海峡が見え、店内に視線を向けるとそこには指折り数える程度の客しか見て取る事しかできなく、その表情は苦笑いしか浮かばなかった。

 やっと仕事に慣れてきたところに潰れちゃったら困っちゃうよ……。

「有希ちゃん、潰れるなんて縁起の悪い事をいわないでよ」

 異常におでこが広がっている店長は、口を尖らせながら有希に文句を言っているが、今にも泣き出しそうなその表情では説得力に欠ける。

「ハハ、ゴメンなさい……でも」

 有希はそう言いながら店内を見渡すが、やはり客の姿が増える事はなくいつも店内に流れているBGMがかけに大きく聞こえる。

「……いつもお客が少ない時期だけれど、今日は特に少ないわね?」

 店長、またお姐言葉になっているんですけれど……。

「有希ちゃん、拓海君、今日はもう帰っていいわ、後は何とかなるし」

 ため息をつきながら店長は肩を落とし、バックヤードに姿を消しその後姿を有希と拓海が見送りながら小さくため息を付く。

「いいのかなぁ……」

 ため息交じりの有希の呟きに、拓海も蝶ネクタイをはずしながらため息を吐く。

「仕方が無いだろう? 客がいないのにバイトを置いておいても無駄なだけだからな……バイト代稼ぎ損ねちゃったよ」

 確かにそうかも、でもここが潰れるよりはいいかな?

「有希ちゃん上がりだって?」

 厨房から暁が声をかけてくるが、その顔もどこか暇を持て余しているようにも見え、それに有希が頷いて応えると、暁は申し訳なさそうな顔をして手をあげる。

「急に時間ができちゃったな? 拓海君とデートでもしてきたらどうだい?」

 暁の一言に有希は少し頬を赤らめて曖昧な笑顔だけを暁に向ける。



「お疲れ様でしたぁ〜」

 従業員用の裏口を出ると相変わらず雨がシトシトと降り続いており、有希は憂鬱そうな顔をしながらピンク色の傘を広げる。

「さてと有希はどうするんだ? 家に帰るのか?」

 後から出てきた拓海も傘を差しながら、有希の顔を覗き込んでくるその表情は何かを期待しているようだが、

「うんそうだねぇ、早めに帰って夕食の手伝いでもしようかな? 拓海は?」

 無残にも拓海の期待は有希の一言によって潰えるが、そんな事お構いなしに有希は自転車を押しながら歩き出す。

「そっか……そうだよな?」

 なにを拓海の奴はそんなに情けない顔をしているんだ?

首を傾げる有希に曖昧な笑顔を見せる拓海の二人は店を出て歩き出す。舗装のよくない所々には大きな水溜りが構築され、それを車が勢いよく撒き散らして走り去ってゆく。

「俺は、コンビニにでも寄って弁当を買っていくよ、今日は夕飯にありつけなかったからな」

 頭を掻きながら車道側を歩く拓海の顔がさっきからガッカリ顔を浮べているのはそのせいなのかな? 拓海の夕食はあのお店でのまかない料理らしく、休憩時間にたらふく食べていると暁さんが言っていたから……。

「栄養偏るよ? たまには自分で作ったら?」

 有希が意地悪い顔をしながら拓海の顔を覗き込むと、近くでひときわ大きな水のはねる音が聞こえる。

「わ、わ、わ」

 びしゃぁ〜……って、冷たいぞ……。

 一瞬の出来事に何が起きたのかわからず有希は立ち尽くす、その姿は濡鼠というのだろう、全身びしょ濡れで、スカートの裾から水が滴り落ちている。

「有希! あの車ぁ……」

 拓海は怒り心頭という顔で、走り去ってゆく車を睨みつけているが、やがて有希にその視線を向けると一瞬その頬が赤らむ。

「だぁ〜、最低だぁ、びしょびしょ」

 有希はそう言いながら、スカートの裾を持ち上げるが、それは水に濡れすっかりと重みを増しており、絞るとそこから水が垂れるほどだった。しかも、上半身まで濡れてしまい、ペッタリと身体に張り付く布の感覚がなんとも言えずに不快感だ。

 きもちわりぃ〜、全身から泥水をかぶっちゃったよ……。

 頭からその水をかぶった有希は、髪の毛からはしっとりと水が滴り制服も水に濡れてペッタリとその肌に張り付き、着ていたブラウスはその肌の色がわかるほどに透けている。

「大丈夫か……って、そんな格好じゃ帰れないだろ、俺の家に寄って着替えていけよ」

 拓海はそう言いながら、有希から視線をはずすのは健全な男の子ならばそうであろう、有希の肩から胸元には普段あまり見ることのできないデコレートされた下着のラインがくっきりと現れ、男心を刺激するには十分なものだ。

「でも……くしゅん」

 くしゃみをすると、拓海はさらに顔を赤らめながらそっぽを向く。

「ほら、風邪ひくべ? 別にやましい気持ちなんてないから、家に寄って行け、ここからなら五分ぐらいで着くから」

 拓海はそう言いながら強引に有希の手を取り、引っ張ると、思いのほかにその小さな身体が簡単に動き拓海の力にそって動く。

 おぉ、拓海の奴いつの間にこんなに力つけたんだ? まぁ、ボクが女になったという事もあるし、でも、拓海の手ってこんなに大きかったんだな?

「本当に何もしない?」

 茶化すように有希が言うと、拓海は正面を見据えながら真剣に答える。

「何で俺がお前に何かしなければ……いけないんだ!」

 拓海は視線をはずしながらも、顔を赤らめたままで否定する。



「散らかっているけれど、入って……今シャワーつけてくるから」

 そんな事無いよと言いたいけれど、本当に散らかっているなぁ、床には洗濯されているのか分からない服の山が置いてあったりバイク雑誌がいたるところに散らばって置かれていたりして、足の踏み場もない状態ね?

 有希を玄関先に置き去り拓海はその部屋にある獣道のような場所を器用に縫って歩いてゆき、風呂場らしい扉の中に姿を隠す。

「お前ねぇ、少しは片付けとかしろよ……足の踏み場のないじゃないか」

 有希はそう言いながら、恐る恐るとその部屋に足を踏み入れる。

 何か踏んではいけないものを踏んでしまいそうだな……男やもめになんとやらだな……。

 足元を気にしながら部屋の中に入る有希に、風呂場から顔だけ出している拓海が頭を掻きながら視線を向けてくる。

「年に数回、妹が来て片付けてゆくけれど、一週間で元に戻るよ……シャワーだけでも浴びてゆけば? そんな格好じゃあ風邪ひくだろう、着替えも用意しておくし……」

 拓海はそう言いながら風呂場の扉を指差す。

「うん、そうするよ……そういえば夏美ちゃんだったっけ? お前の妹。元気しているのか?」

 拓海に促されながら風呂場に足を踏み入れ、肌に張り付いているブラウスのボタンをはずし始めたところで有希のその手が止まる。

 ……ちょっと、このシチュエーションってやばくないか? 独り暮らしの男の部屋でシャワーを浴びるって、なんとなく貞操の危機を感じるんですけれど。

〈やっと気がついたの? あなた仮にも女なんだから、そう言う軽はずみな行動はどうかと思うけれど?〉

 呆れたように有希の声が頭の中に響き渡る。

 でも、相手は拓海だぜ? 小さい頃だって一緒に風呂に入った事だってあるし……。

〈それは男時代の事でしょ?〉

 そうでした……でも、あのままじゃあ風邪ひく事は必死だし、緊急処置という事で……。

〈ふ〜ん、でもあなたが男だったらどうする?〉

 ――ちょっとドキドキする。

〈でしょ? 自意識過剰かもしれないけれど、あなたは女で彼は男なのよ?〉

 グゥ〜……確かにそうかも……。

〈もぉ、うかつすぎるわよ!〉

 プリプリと怒ったまま有希の意識が消える。

 確かにうかつだったかもしれない、もし、ここで拓海に覆いかぶさられたらきっと体力的にかなわないだろう……後は奴の良心にかけるしかないな。

 シャァー。

 意を決してシャワーを浴びると、それまで冷えきっていた身体に温もりが戻ってくるような感覚を覚え、それに有希はホッとため息をつく。

 大丈夫、奴は俺の事を知っている……俺もあいつの事をよく知っている……だから……そんな事を奴がするとは思えない……いや、してほしくない。

 頭からシャワーを浴びながら有希がそんな事を考えていると、

「――有希?」

 脱衣所から拓海の声と共にそのシルエットが脱衣所とを隔てている扉に浮かびあがり、有希は思わず身構える。

「な、何だ?」

 シャワーヘッドを壊れるんじゃないかというほど力強く握り、脱衣所にあるその拓海のシルエットを睨みつける。

「――着替えここにおいて置くから使ってくれ、ちゃんと洗濯してあるから大丈夫だ」

 拓海のシルエットはそれだけ言うと再び消えてゆく。

「あっ、ありがとう……」

途端に有希の肩から力が抜け、思わずその場にへたり込んでしまう。

 まさかとはいえ……緊張したぜぇ。



「これ、拓海の?」

 脱衣かごに置かれていたのは拓海がいつも学校で使用しているワイシャツで、それに袖を通すと有希の顔に苦笑いが浮かぶ。

「アハハ、想像通りだ……ぶかぶか、こんなに体格が違っちゃうんだな」

 有希は得もいえない寂しさに少しとらわれ、自分のその格好を見つめるように裾を引っ張る。

「オッ、ちゃんと温まったか……ヘェ」

 バスルームから姿を現した有希に拓海は視線を向けると感心したような顔を見せるが、すぐに照れ臭そうに視線をうつむかせる

「な、何だよ……」

 有希はその視線にちょっと照れたようにうつむき、頬を膨らませる。

「いや、そうやって見ると女の子だなぁって、思わず劣情に駆られるかも……」

「拓海、あんたはなに考えているの? 仮にも幼馴染だぞ! しかも、俺は元男なんだ」

 有希は慌ててその姿を拓海から隠そうと物陰に飛び込み、顔だけを拓海に向ける。

「ハハは、冗談だよ、ちょっと可愛かったからからかっただけだ……ほら、そんなところにいないでこっちに来てコーヒーでも飲めよ、もっと温まるから」

 まるで野良猫を呼び寄せるように有希に手を差し伸べる拓海に対し、これまた怯えた子猫のようにその様子を伺う有希。

「……本当に何もしない?」

 有希は上目遣いで拓海の事を見る、その視線の先にいる拓海はケラケラと楽しそうに微笑み、ウンウンとうなずき、コーヒーの入ったカップを差し出す。

「大丈夫だよ……ほら、チチチ」

「猫じゃないもん、ボクは!」

 手を差し出しながら言う拓海に有希は、頬を膨らませながらその全容を拓海に晒し出すと、再び拓海は感心したような声を上げる。

「ほぉ〜、やっぱり見た目は女の子だな? まさか有希がそんな格好で俺の家にいるなんて想像もしなかったぜ?」

 嬉しそうな顔をする拓海のその表情に、有希の頬は無意識に赤く染まる。

「なに言っているんだ、ボクは……ボクは……女……」

 言い難そうに言う有希に、拓海は申し訳なさそうな顔をして視線をそらす。

「そうだ、有希は女の子だ……だから俺が守らなければいけないのも男の俺として当たり前だろ? まずは風邪をひかないようにさせないといけない訳だ」

 拓海はそう言いながら、コーヒーの入ったカップを机の上に置くと知らん顔をするように有希からその視線をそらせてついているテレビに向ける。



「ヘェ、そんな事があったんだ……拓海も苦労したんだね?」

 それから一時間ぐらいだろうか、ボクは拓海の函館に来てからの事などをじっくりと聞いた、その話のほとんどは両親の離婚の事で、嫌気をさした拓海は学校に登校しなくなり、留年したという事などだった。

「まぁ、辞めちゃうつもりだったんだけれど、就職するにも高校卒業するほうが有利だというお袋の進めもあってね」

 照れくさそうに話す拓海の顔は、中学時代と変わりなかった。

「お前の方こそどうなんだ? 詩織ちゃんとその後」

 避けていた話題を事も無げに振ってきやがったな、こいつ……。

 拓海の好きだった女の子、菅野詩織は中学卒業寸前に勇気に告白してきた……しかも、拓海と一緒にいる時に……。

 あの時の拓海の表情は、これからも忘れないだろう、悲しいのに、気を使って俺に向けてくる笑顔は、情けなかった。

「……あの後しばらく付き合っていたよ、同じ高校だったしね? でも……」

 葬式の時の詩織のあの泣き顔と、最後の一言が有希の頭の中に響き渡る。

「……スマン、気が利かなかったな」

 拓海は申し訳なさそうに有希に頭を下げる。

「気にしなくていいよ、もう終わった事なんだし、もう勇気は彼女の前に姿を現さない……もう一生彼女には会えないだろうよ」

 長い沈黙が部屋の中を支配する。

 パァ〜ラパパパララァ〜……。

 長い沈黙を破るように、有希の携帯が、津軽海峡と青函連絡船を題材にした演歌のメロディーをいきなり奏でる。

「わぁ、びっくりした……鮎美かぁ」

 有希はその携帯の画面を見て微笑む。

「ハイ、有希でぇ〜す」

 おどけたように電話に出るが、その向こうからは、ちょっと重苦しい雰囲気が流れてくる。

「……鮎美、どうしたんだ? 何かあったのか?」

 有希の表情が真剣なものに変わり、その様子を拓海も汲み取ったのか表情を引き締める。

「……有希ぃ、あたしどうしよう……グス」

 明らかに電話の向こうの鮎美は涙声だった。

「今どこにいるんだ?」

「明義病院……お父さんが……入院しちゃった」

「マスターが入院って……どうしたんだよ……おい、鮎美!」

 電波の状況が悪いのか、雑音が入ったかと思うとぷつりと切れる。

「有希どうしたんだ? 顔色悪いぞ?」

 さっきまでの表情とは打って変わって真剣な顔の拓海は有希の顔を覗き込みながら問う。

「マスターが……鮎美のお父さんが入院したって……」

「入院って……どこの病院だ?」

「……明義病院」

 有希がそう言うが早いか、拓海が立ち上がるが早いか、拓海はバイクのヘルメットを有希に投げわたす。

「新川町にある病院だったよな? 場所は分かるからそれをかぶって来い!」

 有希は拓海のその勢いに呆気に取られながらも、コクリとうなずくと、駐輪場に置かれていたバイクを目の前にするが……。

「どうした、早く乗れ!」

 玄関先で拓海はバイクのエンジンをふかしながら有希の顔を見るが、その有希の表情はまるで凍りついたかのようにそのバイクを眺めている。

「……バイク」

 有希の脳裏には、あの雪の中での光景がよみがえる。

 宙を舞い、人形のように転がる自分の体、忘れていた記憶が目の前に鮮明に戻ってくる。

「お、おい、有希、どうしたんだ?」

 怪訝な顔で拓海は有希の顔を見つめるが、その表情は、まるで何かに怯えているように蒼白になり、唇は小刻みに震えている。

 バイク……。

「ダメ……怖い……猫……が……」

 身体が無意識に震えるのが分かる、気持ちは前に進もうとするけれども足がすくんで動かす事ができないでいる。

「有希、怖い気持ちはよく分かる、しかも死んでしまうぐらいだからな? でも、今お前が行かなければいけないのはどこなんだ?」

 軽く拓海に頬を叩かれると有希の眼がそれまで失っていた光を再び灯す。

 そうだ、ここで俺が怖がっている場合じゃない、鮎美はもっと不安に駆られているはず、だったら俺が行って励ましてあげないと!

「ゴメン、今行くよ」

 有希はそう言いながら、拓海の背中に抱きつくようにバイクのセカンドシートに跨る。

第十四話へ。