第十四話 きゃっと?



=誤解が生む……=

「拓海、有難う!」

 有希はそう言いながら、ヘルメットを拓海に投げながら正面玄関から病院内に駆け込むと、外来診察の終わったそこはシンと静まりかえり、不気味ささえ感じる。

 俺の入院していたこの病院、確か救急はこっちだったはず。

 有希ははじめてこの身体に入った時の事を思い出しながら入組んだ病院内の廊下を駆け出す。

「こらぁ、病院内を走らないでって……有希ちゃん?」

 薄暗い廊下の一角ですれ違った看護師が有希の顔を見て驚いた顔をしている。

「えっ? あ、めぐみさん、ご無沙汰しています……じゃなくって、鮎美のお父さん……高宮さんは……?」

 有希の慌てた様子にちょっと驚いた表情を浮かべているめぐみは、やがて笑顔になりながら一点を見つめる。

「さっき救急で搬送された……あっちの救急処置室にいると思ったけれど、さっき搬送されたの、有希ちゃんの知り合いなの?」

 めぐみのそんな台詞を聞いてか聞かずか、有希はその視線の先に駆け出して行く。

「ちょっと、有希ちゃん走るなって……もぉ」

 背後から、そんな諦めにも似ためぐみの声がするが、今はそれどころではない、今の最優先課題は鮎美の親父さんの様態だ。

 有希が走りついた先にある待合室には、鮎美が憔悴しきったような表情でうつむいている。

「ゆ、有希? どうしたの、その格好……」

 鮎美は、驚いた様子で、その有希の格好を見つめる。

「どうしたって……マスターが、倒れたって……だから……」

 有希は息からがらに、鮎美の前で呼吸を整えようとするが、なかなか思うようにいかない。

 やっぱり有希、お前運動不足だよ。

〈ヘヘ、ゴメン〉

 そんな有希の声が聞こえたような気もするが、今はそれを気にしている場合じゃない。

「有希、だからってそんな慌ててこなくたって……」

 鮎美がそう言うと、処置室の札のかかっている部屋から一台のストレッチャーが出てくる、それに横たわっているのはマスターだった。

 有希は、慌てた様子でそのストレッチャーに駆け寄る。

「マスター……」

 有希が、その顔を見るとそこにはマスターの笑顔。

「よぉ、有希ちゃんどうしたんだ? 検査で来たのかい?」

 ――やけに元気そうじゃないか……?

 呆気に取られている有希に対し、マスターはキョトンとした顔をするがやがてその理由に気が付いたのかため息を付く。

「いや、だって、マスターが倒れたって言うから……」

 その有希の台詞に、マスターと看護師は顔を見つめあい、マスターは大きなため息をつくと、有希の隣でモジモジしている鮎美の顔を睨みつけている。

「ウフフ、心配いらないですよ? 急性虫垂炎ですから二週間ぐらいで退院できますよ?」

 看護師はニッコリと微笑みながら有希の顔を見るが、その有希の表情はさっきから呆気に取られたままだった。

 急性虫垂炎って……盲腸?

「いいですね高宮さん、こんな可愛い娘さんが心配してくれるなんて、幸せじゃないですか?」

 看護師はどうやら勘違いをしているようで、有希の顔を見ながら『娘』と言っている。

「確かに……この子が娘だったらね?」

 マスターはそう言いながら待合椅子に座っておどおどしている鮎美に意地の悪い顔を向ける。

「えっ?」

 今度は看護師がキョトンとしている。

「ハハ、まぁ、大した事がなくってよかったよ……」

 有希は脱力感からため息を吐きながらマスターの顔を見るが、そのマスターはちょっと浮かない表情を浮かべていた。

「有希ちゃん……お願いがあるんだけれど」

 真剣な顔をして見上げるマスターの顔に、有希は息を呑む。

「どうしたの?」

 今までに見た事のないマスターの真剣な顔、何か意味があるに違いない。

 有希はマスターに手招きされると、素直に顔を近づける。

「有希ちゃんにお願いしたいんだ、鮎美に飯を作ってやってくれないか……あいつ、俺がいないときっときっとコンビニ弁当とかで済ませるつもりでいるから……悪いんだけれど、お願いできるのは有希ちゃんしかいないんだ」

 なんだか、どっかで聞いた事のある台詞だなぁ……。

「分かっていますって、お隣さんのよしみですよ、家で一緒に食べればいいでしょう、お風呂とかもうちで済ませれば経済的ですし」

 ニッコリと微笑む有希に対し、マスターは涙を流さんばかりの顔をして有希の手を握る。

「有難う、そう言ってもらえると助かるよ」

 マスターはそう言いながらストレッチャーに乗せられながら病室に向かってゆく。

 ハハ、親の考える事は同じ……さて……そのお騒がせ娘は……。

 有希の視線に、鮎美はバツの悪そうな顔をしながら作り笑いを浮かべる。

「あは……アハハ、ほ、本当にびっくりしたのよ、いきなりお腹押さえて倒れこむんだもん、だから救急車呼んで、病院にきたら緊急手術だなんていわれるから……だから……気が付いたら有希に電話しちゃって……だから……ゴメンね有希」

 申し訳無さそうに頭を下げる鮎美に対して怒る気力も無く有希はため息を付く。

「怒ってなんていないよ、驚くのは仕方がないよ」

 優しい目を向ける有希に鮎美はホッとした笑顔になるが、すぐに有希の格好を見て、その優しかった眼をすぐに険しいものに変える。

「ちょ、ちょっと、有希その格好は一体どうしたの?」

 動揺した鮎美の台詞を遮るように拓海の声が廊下に響き渡る。

「有希ぃ、忘れもんだぁ」

 その声に鮎美の顔色が変わる。

「拓海君?」

 鮎美の視線が拓海に向けられると、そのマスターの病状を知らない拓海は心配げな表情を浮かべながら鮎美の顔を見る。

「そのぉ……なんだ、鮎美、大変だろうが、何かあったら気を使わずになんでも言ってくれ、俺にできることなら手伝うから……」

 有希は、そんな神妙な顔の拓海の顔を見て思わず微笑む。

 ヘェ、拓海も結構いいところあるじゃん、心配しているんだな?

「……有難う拓海君、じゃあお言葉に甘えて一つ質問させてもらっていいかしら? 有希の着ているシャツは拓海君のよねぇ? Gパンもそうじゃないの? 有希の体形に全く合っていないし……一体二人は何をしていたの?」

 鮎美の瞳はつりあがったままで有希の顔を見ている。

 ……もしかして、ものすごい誤解をしているんじゃないか?

 有希と拓海は視線を合わせると、お互いに頬を染める。

「鮎美、誤解だ……これはボクが車に水をかけられて……」

「そうだ、仕方がなく俺の部屋でシャワーを浴びて……」

 馬鹿! 言わなくっていい事まで……。

 有希は思わずキッと拓海の顔を睨みつけるが、時既に遅し。

「拓海君の部屋でシャワーを浴びたぁだぁ〜ッ!有希! ちょっとこっちにいらっしゃい!」

 鮎美にまるで引きずられるように、有希は病院の外に連れ出される。

「ちょっと鮎美、何だよ……」

 ズカズカという音が聞こえてきそうな足取りで鮎美は無言で進んでゆくと、病院の中庭で鮎美は足を止める。

 怖い……なんだかいつもの迫力とは違う迫力があるよ、鮎美の奴。

「有希……あなた……」

「誤解だって! そもそも今日はバイトが早く終わって……」

 それから、鮎美に本日の足取りを事細かに話し、拓海の家であった事などを質疑応答のように答えると、やっと鮎美は納得したような表情を浮かべた。

「最後に聞くわ、あなた拓海君の事をどう思っているの?」

「幼馴染の男の子、それ以上でも以下でもない……」

 即答するその一言に、鮎美はホッとしたようなため息をつく。

「それにしたって、軽率よ! あなたはどうであれ女の子なんだから、そう言う行動は慎んだ方がいいよ、それに、もしそんな事がミーナの耳にでも入ったら……可哀想でしょ?」

 ミーナの気持ち……拓海の事が好きなのは、おそらく拓海以外は知っているであろう。

「……ゴメン、今後気をつけるよ」

 思わずうつむく有希に対し、さっきまでの表情が嘘のように、鮎美は微笑みかけてくる。

「エヘ、分かればよろしい、さてと、お父さんの所にいこ、ああ見えても結構寂しがりやさんなのよあの人」

 鮎美はそう言いながら有希の腕を取る。



=侵入者?=

「有希、あたしの家で着替えて行きなさいよね?」

 喫茶『シオン』の店前で、有希は鮎美に腕を取られる。

「何で?」

 有希が首をかしげると、鮎美は呆れたように手で顔を覆う。

「あなたねぇ、自分の娘が男物の洋服を着て帰ってきたなんていったら、お母さん卒倒しちゃうでしょ? それにあの純朴な茜ちゃんなんて気を失っちゃうわよ」

 鮎美は呆れ顔で有希の顔を覗き込む。

 確かにそうかもしれない、真澄ちゃんはそうでもないだろうけれど、かがりさんにバレたらきっとあることない事……いや、かがりさんの事だからない事ない事を話し出して、その内容は絶対に茜に聞かせる事ができないような事、そうして茜は……あぁ、恐ろしい。

 有希の顔が一瞬蒼ざめた事を確認すると、鮎美はうなずきお店の鍵を開けるが、

「……あれ?」

 鍵を回しながら鮎美は、首をしきりにかしげる。

「どうかしたの?」

 有希はその様子を覗き込むが、鮎美は鍵をまわして鍵をかけたり開けたりを繰り返しやがてその首を傾ける。

「アハハ……鍵かけ忘れたみたいで……」

 戸惑ったような、困ったような難しい表情を浮かべる。しかし、唯一言えるのは、その表情は、有希に助けを請う表情だった。

「……全く無用心だな、ほら、一緒に……」

 有希はそう言いながら、開いた扉から鮎美の家に入り込んでゆく。



「変わった様子はないか?」

 日が暮れはじめ、電気をつけていない家の中はちょっと薄暗くなっている。

「……うん、見た感じは変わりないようだけれど……」

 恐る恐る部屋の中を確認する鮎美の左手は、有希の右手を離すことはなかった。

「まぁ、これだけ人通りの多い所だから、泥棒もそう簡単には入らないだろうよ」

 そういった瞬間お店の厨房からガサッと物音がし、鮎美は有希に抱きつく。

「ヒッ! 有希ぃ、何かいるよ……」

 鮎美の肩は小刻みに震えている。

 確かに何かいる。空気が何かいる事を知らせてくれている……しかし、何がいるんだ?

 有希の顔にも緊張が走り、周囲を見渡すものの、それに匹敵するようなものは全くといって見えない。

 電気をつけるべきなのか? しかし、相手がいきなり飛び掛ってきたら……。

「有希……」

 鮎美が心配そうな顔で有希の顔を覗き込む。

 そんな顔してみないでくれよ、ボクだって心は男でも、身体は女の子なんだから。

 有希はそんなことを考えながらも、厨房の中に入り込み、その物音のした方に向かって歩き出すと再び、ガサッという物音が聞こえる。

「ヒッ!」

 鮎美が再び有希に抱きつく。

「鮎美、抱きつくと身動きが取れないよぉ……って、わ、わ、わ」

 よろめいた拍子に、有希は足元にあった何かにつまずき、大きく体制を崩すと、鮎美の身体も有希と共に崩れ落ちてくる。

 どたぁ〜ん……フギャ〜。

 二人がもつれるようのその場に尻もちをつき、大きな音を立てると同時に、なにやら二人の声とは違う、声……と言うか、鳴き声?

「いててて……鮎美、大丈夫か? って、わぁ」

 有希が顔をあげると、鮎美の顔が目の前にあり、その二人の空間はほんのわずかしかない。

「いたぁ〜いぃ……きゃ」

 鮎美もその状況に気がつき、慌てたように有希の身体から飛び跳ねるように離れる。

「……」

 二人の間に、微妙な沈黙が訪れる。

 ――鮎美って、まつ毛長かったんだな……。

「……」

 ガサッと、再び物音がし鮎美が再び身体を有希に寄せてくる。

 既に犯人は分かっている、さてそれをどうやって捕獲するかだが……これは?

 有希がつまずいたその物体に手が触れる、それは缶詰で、そのラベルには『業務用ツナ』と書かれている。おそらくツナサラダとかに使われるものであろう。

 いい物があるじゃないか……。

 有希はニヤリと笑い、その缶詰を開けはじめる。

「ゆ、有希? 一体なにを?」

 そんな有希の行動をキョトンとした顔をして見つめている。

「ヘヘ、犯人捕獲作戦……って、あれ?」

 キ〜コ、キ〜コと缶切りの音が鳴り響く厨房の中、いきなり有希の足首にフワッとした感覚が走る。

「えっ?」

「み〜」

 有希がその感覚に反射的に視線を落とすと同時に、鮎美もその視線を追うように視線を有希の足元に向けると、その視線の先には白い丸い毛玉……耳がぴょこぴょことうごめいているのがちょっと可愛らしい。

「……なんだ、自から投降して来るとは潔いけれど……ずいぶん、人間に慣れているようだが、飼い猫なのかな?」

 有希が手を伸ばしてその毛玉を持ち上げると、小さな子猫の全貌が明らかになった。

「こ……子猫?」

 鮎美は目尻に涙を浮かべ呆気に取られたような表情のままその子猫を見つめるが、徐々にその表情は笑顔に変わってゆく。

「あぁ、開いていた隙間から入り込んできたんだろう」

「に〜ぃ」

 首根っこを持ち上げられ、子猫は寂しそうな鳴き声を上げながら後ろ足をばたつかせる。

「はいはい、お腹が空いているんだな、ちょっと待っていろ」

 有希はそう言いながらその子猫を床に置くと、その猫は行儀よくチョコンと座り、有希のその様子をじっと見つめている。

 キィ〜、キィ〜……カパ。

 缶の開く音に子猫の耳がピクピクッと反応する。

「み〜、み〜!」

「はいはい……どうぞ召し上がれ」

 ツナ缶を皿に移し変え、それを子猫の目の前に置くと、その子猫は一心不乱にそれに顔を突っ込む。その様子を有希と鮎美は屈みこんで見つめるとお互いに微笑みが膨れる。



「それで、この猫ちゃんは一体どうするの? 家は見ての通り食べ物を扱う店だから猫なんて飼えないし、預かるわけにもいかないわよ?」

 クハァ〜っと欠伸をして目を閉じるその子猫を眺めながら、鮎美はため息交じりに有希の顔を見つめるが、有希もその問いに首をかしげるしかなかった。

「フム、ボクの所も客商売だからやっぱりまずいんじゃないかと思うんだよなぁ……だからといって放っておく訳にもいかないし……」

 有希はそう言いながら、気持ち良さそうに寝息を立てているその猫の背中を撫でる。

「どこかの飼い猫だったら、飼い主が見つかるかもしれないし保健所に預ける?」

 鮎美の一言に有希は顎に手をやり、ム〜っと唸る。

「保健所はねぇ……もし見つからなかった時の事を考えると寝覚めが悪くなりそうだよ、それに、首輪をしていない所を見ると捨てられた公算が強い……だとすれば、人間にとって都合のいい方法……処分という名の……」

 有希がそこまで言うと鮎美が首を振る。

「ダメ! そんなの……可哀想だよ……こうやって一生懸命に生きているっていうのに、そんな人間に都合よく殺されちゃったら可哀想……」

 鮎美はそう言いながら、目に涙を浮かべる。

「だからといって、この雨の中外にほっぽり出す訳にはいかないし……」

「それもダメ!」

 そんな目でボクを見ないでくれよぉ、なんだかボクが悪者になっているような気になってきたよ……仕方が無い、乗りかかった船だ知らん顔も出来ないだろう。

 有希は小さなため息をつきながら、背中を丸めているその白い子猫を見下ろす。

「……聞いてみるよ、知り合いに当たってみよう」

 有希はそう言いながら携帯を取り出す、その携帯には今までの有希の交友関係がよく分かるほど、様々な人間のアドレスが入っている。矢野まで入っているのはどうかと思うが……。



「ダメだぁ……」

 客のいないお店の中に有希の声が響き渡り、携帯がカウンターに投げ出される。

「ダメ?」

 鮎美はコーヒーを入れたカップを有希の前に置きながら、その顔を覗き込んでくる。

「ダメ! 徹底的にダメだぁ……恥を偲んで矢野にまで電話をしたというのに『僕の家にはシベリアンハスキーがいて、いつその子猫ちゃんを襲うか分からない……有希君のような子猫ちゃんなら、僕が食べてしまうのだが』だそうだ」

 有希は、矢野の口真似をしながら、そう言うと鮎美は笑うものの、すぐに真剣な顔に戻る。

「じゃあ……」

 手立てがない……保健所行きが現実味を帯びてきたな?

 パァ〜ラパパパララァ〜……。

 有希の携帯が演歌を奏でる。

「ん? 誰だ?」

 その携帯に映っている携帯の番号は、有希の携帯にメモリーされていないものだった。

「ハイ、青葉です……あぁ、拓海かぁ」

 電話の向こうからは、拓海の声が聞こえてきた。

『その、鮎美の誤解は解けたのかなって思って、鮎美の奴えらい勢いで怒っていたから……』

 心配してくれたのかな? それなりにちょっと嬉しかったりして……そうだ!

「その件については大丈夫、有難う拓海」

 その一言に、電話の向こうからホッとしたようなため息が聞こえてくる。

「それで拓海、子猫ちゃんはいかがですか? とても可愛らしい子猫ちゃん!」

 有希は、ファミレスでのバイト経験を生かしながら拓海に対しまるで、サイドメニューを勧めるように言うと、電話の向こうでちょっと息を飲むような感じがする。

『こ、子猫ちゃんって……有希?』

 あぁ、この男もなんだか病んでいるみたいだ……なんで俺が子猫ちゃんなんだ? それじゃあ矢野と発想が変わらないじゃないか……。

 有希は、深いため息をつきながら肩を落とす。

「……馬鹿」

 有希はそう言いながら携帯を切ろうとするが、電話の向こうから慌てたような拓海の声が響き渡る。耳を放しておかなければきっと耳がキーンとするような大きな声だった。

『ちょっと待て! どういう意味だ?』

「だから子猫を保護して困っているんだ、誰か預かってもらえる人がいないか探していた所、用が無いのなら切るぞ!」

 有希の剣幕に驚きながらも、電話の向こうの拓海は真剣に考え込んでいるようで、その間に期待を込めて有希は息を呑む。

「――誰か、思い当たる人いる?」

 その一言に、隣にいた鮎美の表情もちょっと明るいものに変わる。

『……悪い、現状では誰もいないよ……せめて何日かくれれば、探す事もできるんだけれど』

 拓海の一言に有希の表情が曇ると、鮎美にもその表情が移る。

「そうか……気にしないでくれ、何とかボク達で考えるから」

『いや、そんな……有希?』

 電話を切る寸前、電話の向こうから拓海の慌てたような声が聞こえたが、気にしなくっていいだろう、今の最優先課題はこの子猫をどうするかだ。

「拓海君、何だって?」

 鮎美は希望をつなぐように有希に問いかけてくるが、その表情は既に結果を分かっているためなのか覇気がない。

「――想像通りだよ、数日あれば何とかなるかもしれないとも言っていたけれどね?」

 その一言に鮎美の表情が一気に曇る……というより、予想通りだったようだな?

 鮎美はそう言いながら、心地良さそうに眠っている子猫を哀れむような表情で見る

「あとは……真澄ちゃんの虫の居所がいい事を願うしかないかな?」



=ゆうき=

「で?」

 あぁ、真澄ちゃんの機嫌はそこはかとなくよくない様だ……、気のせいか、頬が引きつっているようにも見える。何でこんな日に限って機嫌が悪いんだ?

 滅多に機嫌の悪い日が無い真澄にしては、珍しく今日は機嫌が悪いようだ。

「今日、パーマのかかりが悪いって、文句言っていったお客さんがいたのよ、いつものあのおばさん、文句だけ言って帰っていくわりにはいつも来てくれるんだけれどね?」

 かがりがコソッと有希に耳打ちする。

 何で今日来るんだよ、明日でもいいじゃないか……。

「全く、どこかけたんだか分からないようなおばちゃんパーマの癖に、文句だけはいっちょ前に言うんだから、だったらパーマなんてかけるんじゃないわよ、悔しかったら、マイナスイオントリートメントとか、デザインパーマをかけて見なさいって言うんだわさ!」

 技術者が言う台詞ではないな……お客様は神様と、大阪万博の歌を歌っていたおじさまが言っていたじゃないですか?

 プリプリと怒った表情の真澄はまさに取り付く島が無いといった状況で、それだけで有希のその意見はすべて却下されたような勢いだった。

「……やばいかも」

 有希の呟くその台詞に、鮎美はものすごく寂しそうな表情を浮かべ、視線を自分の胸でじゃれている子猫に向ける。

「有希ぃ〜、最後の砦なのよぉ〜」

 最後の砦って……そんなプレッシャーをかけないでくれよぉ〜。

「にぃ〜……みぃ〜」

 その声に、ぎょっとしたような表情を浮かべる真澄にかがり。

「ちょ、ちょっと、今の声……」

 真澄はそう言いながら周囲を見渡す……と言うか、気がつけよ、さっきから鮎美の胸元に子猫がぶら下がっているじゃないか?

「ハイ、猫……のようですが」

 かがりも周囲を見渡す……だからぁ。

「みぃ〜」

「いたい! ちょっと、ダメだって」

 気がつくと、その子猫は鮎美の呪縛から放たれ、宙を舞ったかと思うとストンと見事に着地し、この家主である真澄の足元に絡みつく。

「この子は?」

 真澄はその足元に絡み付いてくる白い毛玉に、目を眇める。

「あのぉ〜その……カクカク云々で」

 そのあと有希と、鮎美は身振り手振りを交えてその猫の生い立ちを説明し、いかにこの子猫が可哀想かを(ちょっと誇大な所はあるものの)説明する。

「そうなの……」

 真澄はそう言いながら、自分の足元にじゃれ付いているその白い毛玉を見下ろす。

「可哀想に……ヨヨヨ」

 本気で泣いているよ、かがりさん……ちょっと自己嫌悪かも……。

「そうなんです! 可哀想なんです、この子わ!」

 鮎美は勢いでそう言う。

 いいのか? そこまで言って……。

 有希は、ちょっと罪悪感に苛まれながらも、しかし、それを否定をすれば、そこでこの子猫の人生……いや、猫生というのだろうか、が、途絶えてしまうような気になっていた。

「……有希、それで?」

 真澄はそう言いながら有希の顔を穏やかな表情で見つめる。

「はぁ、一時保護といいますのでしょうか、飼い主が見つかるまで一時的にここに置いてあげてもいいかなって……」

「ねこちゃんだぁ」

 鼻先を掻きながらその猫に視線を移そうとすると、風呂に入っていたのであろう茜が、髪の毛を濡らしたまま店に出てくる。

「茜ぇ、髪の毛乾かしなさい!」

 有希にそういわれながら、茜は真澄の胸元で喉を鳴らしている猫を覗き込んでいる。

「可愛いなぁ……真澄ちゃん、この子家で飼うの?」

 茜のそのキラキラした視線に真澄は苦笑いを浮かべ、有希と鮎美の顔を見る、その視線の先の二人も真剣にお願いするような眼差しを真澄に送る。

「はぁ、仕方が無いわね? お店には出てこないようにしてよね? うちだって客商売なんだから、その子は母屋の方で飼うようにして、あと、面倒は有希と茜が責任持ってやるように」

 真澄はため息をつきながらそう言いその子猫のわき腹を持ち上げながら、その全身をだらりと垂れさせるとちょっと頬を赤らめる。

「アハハ、この子オスだわ……我が家唯一の男の子ね?」

 何を見て頬を赤らめたのか……。

「だったら名前が必要ですよ、飼い主が見つかるまでの源氏名」

 かがりさん、源氏名って使い方違っている。

「あは、そ、そうねぇ、有希、何か言い名前ある?」

 真澄は引きつりながら深く掘り下げず、有希に話題を振ってくる。

「そうだなぁ……鮎美がつけたらどうだ? 元々お前の家にいたんだから」

 有希がそう言うと、鮎美は真剣な顔で悩み始め、しばらく動きを止めると、やがてパッと笑顔を浮かべながら有希を見る、その笑顔はちょっと意地の悪いものも含まれていた。

「ウフフ、男の子なら『ゆうき』でどうかしら? 唯一のこの家の男の子」

 おいおい、そりゃねえぜ……猫の名前になっちゃうのか? 勇気は……。

「フム……いいかもしれないわね? 有希もその方がいいでしょ?」

「お姉ちゃん『ゆうき』にしようよぉ」

「みぃ〜」

 事の経緯を知っている三人は、そう言いながら有希の顔を見る、しかし、その顔は意地の悪いだけではなく、勇気の名前を残しておくという、みんなの心遣いを感じるような、そんな暖かな眼差しだった。

「……ゆうきかぁ、かっこいい名前じゃない?」

 そう言いながら有希はその猫を見る。真っ白だと思われていたその猫は、ちょうど耳の先っぽだけ黒い模様が入っており、ちょっと愛嬌がある。

「しょっているわね? カッコイイだなんて、でも決まりね? えへへゆうきクンこれからもよろしくね?」

 鮎美がそう言いながら、ゆうきを頬ずりする……なんだかちょっとくすぐったい感じ。

「ほら、有希も早くお風呂に入ってきて、ご飯作ってよ」

 真澄は一件落着といった表情で、わざとらしく頬を膨らめ有希の顔を見つめる。

 そうだ、忘れていた。

 有希は、マスターの事を真澄に話す。

「かまわないわよ、困ったときはお互い様ってね? もしなんだったら家に泊まっていきなさいよ、その方がみんな一緒にいられるからいいでしょ?」

 思いもしなかった真澄の一言に、鮎美の表情が困惑する。

「そうしなよ、朝だって一緒に食事できるし、あたし、お姉ちゃんの部屋にお布団引いてくる」

 茜の頭の中では確定のランプが灯ったようだな……隣で鮎美も思案顔を浮かべている。

「じゃあ、お言葉に甘えちゃいます」

 鮎美はそう言いながらちょっと頬を赤らめ、有希の顔を見つめる。

「甘えちゃいなさいよ、若いうちから遠慮なんかするもんじゃないわよ」

 真澄のその一言に、鮎美の表情が微笑む。

「じゃあ、着替えとって来ます! お世話になりまぁ〜す」

 鮎美は、まるで転がり落ちるようにお店を飛び出してゆく。

 鮎美ぃ、そんなに慌てると転ぶぞ? 雨降っているし……。

「きゃぁ〜ぁ?」

 ……ほら転んだ……。

 有希は、鮎美のその姿を想像して、顔を手で覆う。



「いい気持ちだったぁ、お風呂頂きましたぁ」

 台所で夕食の支度をしていると、風呂場から出てくる鮎美の姿、その姿はいつもと違いパジャマ代わりのフリースのトレーナーを着ており少しラフな感じ、いつもポニーテールにしている髪の毛は、洗ったのであろうタオルで巻きアップにしている。

「おう……、ド、ドライヤーならお店にいくらでもあるから勝手に使ってくれ」

 なんとなくドキドキしているのは、鮎美の雰囲気がいつもと違うせいなのか?

「うん、ありがとう」

 ニッコリ微笑む鮎美に、有希の頬がちょっと赤らむ。

「お姉ちゃん、後はどうするの?」

 茜専用の踏み台(有希作)に乗りながら玉ねぎをみじん切りにしている茜にどやされ、有希ははっと我に返る。

「ゴメ〜ン、次はねぇ……」

 有希は手元にあったフライパンに、バターを引き茜作の玉ねぎのみじん切りをそれに投入すると、玉ねぎの炒めるいい匂いがキッチンにひろがってゆき気がつくと鼻歌を歌っている。

 フフフンフンフフン……♪。

 有希の中でなんだかちょっとウキウキしていることに気がついているのは、有希の中にいる有希だけだった。

〈この場合どうなるんだろうな?〉

 有希の意識は嬉しそうに、でも困惑したような感じ。

 何が?

〈ううん、なんでもない……〉

 言葉を濁すように有希の意識が消える。

 何なんだ? 有希の奴。

「なに作っているの?」

 玉ねぎを炒める香りの中にフワッッとシャンプーの香りがしたかと思うと、隣で鮎美が首をかしげながらそのフライパンを覗き込んでいる。

「ヘヘ『エスカロップ』といって、根室で有名な料理なんだ……バターライスにカツを乗せて、デミグラスソースをかけるだけの簡単な料理だけれどね」

 以前読んだ雑誌にレシピが載っており、暗記するには簡単だったもの。

「ヘェ、よく知っているね?」

「うん、好きだからね?」

 ニッコリと微笑む有希に対し、風呂上りだけではない赤みが鮎美の頬に浮かび上がる。

「鮎美お姉ちゃん、顔赤いよ?」

 茜の一言に慌てる鮎美……ハハ、ホント、純朴な感じがするな、この娘。



「有希……」

 有希の部屋の中、ベッドに横になっている有希に対し、茜が用意した布団にもぐりこんでいる鮎美が声をかける。

「ん?」

「拓海君……有希の事好きなのかなぁ」

「なっ!」

 有希は慌ててベッドから飛び上がる。

「何で、そう言う結論に達するんだよ」

「だって、拓海君、有希が……ううん、勇気君が有希になってから変わった感じがする、有希の事をお見舞いに来たのだって、郁美先生にいわれて仕方が無くといっていたし……でも、あの時から拓海君の雰囲気が変わった気がする」

 鮎美は布団に横になったままそう言う。

「そうか? あいつは昔からああだったぞ?」

 有希は、ベッドの上に座り込みあぐらをかく。

「……だったら、昔から有希の事が好きだったの?」

 どういう意味だ?

「有希の事が……ううん、勇気の事が?」

 鮎美もハッとなり、布団から飛び起きる。

 ……やめてくれ、頭がおかしくなりそうだ。

「……まさかね? そんなことがあるわけ無いじゃない……男が男をだなんて、でも、女が女を好きになる事もある……」

 鮎美はそう言いながら有希の顔をジッと見つめる。

 まさか、鮎美……お前……。

ドキドキする、この感覚は勇気のものなのだろうか?

「……まさかね? そんなの絵空事よ……ありえないわ、さぁ、明日も学校なんだから早くねよ? おやすみぃ〜」

 鮎美はそう言いながら布団を頭からかぶる。

「あぁ……お休み」

 そういい横になるものの、ベッドの下で横になっている鮎美のことが気になる。考えてみれば女の子と一緒に枕を並べて寝ているんだよな? でも、ボクも女の子……なんだ。

 フッとため息をつきながら有希はベッドの下に横になっている鮎美の事を見る。既に眠りについたのか、胸の辺りが統一された間隔で上下している。

 ……ボクは眠れるのだろうか?

第十五話へ。