第二十二話 夜景



=ジンクス=

「さてと、やっぱり函館に来たのならこれを見なくっちゃ、でしょ?」

 既に、有希たちのいる喫茶『シオン』の窓の外は夜の帳が落ちはじめ、街灯がちらりほらりとつきはじめている。

「ウフ、そうよね? やっぱり函館の夜景よね?」

 詩織はそう言いながら有希と同じように窓の外に視線を向ける。

「有希ぃ、まさか夜景を見に行くなんて言わないでしょうね?」

 にわかに忙しくなってきた店内を、お店のエプロンをしてオーダーを取りながら歩いている鮎美が口を尖らせながらキッと有希の顔を見る。

「だってさぁ、夜景を見なければ函館のしめくくりはできないでしょ? 世界に誇る『百万ドルの夜景』だよ? 函館を代表する景色を見ておかないと損した気分になっちゃうよ」

 その一言に合わせたように鮎美の動きがピタリと止まる。

 ん? どした?

「確かにそうだけれど……でも……」

 無意識なのだろう鮎美は手に持っているダスターをギュッと握り締めると、ニッコリと微笑みながら詩織も鮎美の顔を見つめている。

「三人で行こうよ、みんなで見たいな函館の夜景……香港やナポリに負けないほど綺麗だって聞いているし……やっぱりライブで見てみたいなぁ」

 詩織も憧れていたものを見られるというような、少しウットリとした表情を浮かべながら鮎美の事を見るが、その答えについては鮎美の首が横に振られた時点で半減してしまう。

「アー……あたしは遠慮しておく……お店も忙しいし……その……二人で行って来てよ」

 鮎美はそう言いながら再びお店のカウンターの中に姿を消す……というよりも隠れたと言った方がいいかもしれない。

 なんだぁ、鮎美のやつ……。

「じゃあ、あたしと有希ちゃんで行ってきても良いと言う事なのかしら?」

 詩織は再び挑発的な態度で鮎美に言うが、相対する鮎美は力なく微笑みながらコクリと首を縦に振るだけだった。

「ウン……」

「エッ? ちょっ、鮎美?」

 思いがけない鮎美の一言に首をかしげる有希の脳裏には、以前ミーナと鮎美、矢野達漫研の連中と話した『函館山のジンクス』が思い浮かぶ。

確か地元では結構有名なジンクスらしいけれど、まさか、それを信じているわけじゃないだろうなぁ……鮎美が一緒じゃないとするとちょっと……。

 ちょっと複雑な表情を浮かべている有希を尻目に、詩織は拍子抜けしたような顔をしながらも、嬉しそうな笑みを浮かべる。

「フ〜ン……じゃあ、有希ちゃん案内よろしくね?」

 詩織は鮎美を挑発するような笑みを浮かべながらそう言い、鮎美はちょっと寂しそうな笑顔を浮かべながらその二人を見つめているだけだった。

「ウン、行っていらっしゃい……」

 鮎美のその一言を聞くまでもなく詩織は立ち上がり、ノソノソしている有希の腕を引く。

「うん! 行ってきます鮎美ちゃん! ほぉらぁ、有希ちゃん早く行こうよ!」

 なんだかテンション高いなぁ……さっきまでとは大違いだ。

ひきづられるように詩織に立たされ、有希は困ったように眉を八の字にして鮎美を見るが、その視線の先では寂しそうな笑みを浮かべて力なく手を振っている。

「あ、鮎美……」

「ほら! 有希ちゃん行きましょ!」

 カランとカウベルが音を立て、九月の半ばとは思えないように冷え込んでいる空気が二人を取り込み、二人とも無意識に首をすくめる。

 寒くなってきたなぁ……秋もあっという間に終わりだな。



「うぁ〜、すごい……人がいっぱいいるね?」

 斜面に張り付くようにある函館山ロープウェイの山ろく駅に足を入れると、そこにはどこからこんなに人が来たんだというほどに混雑している。

 シーズンから外れて観光客が減ってきたとはいえ、さすがに観光スポットのメインだ、こんなに人がいるとは思っていなかったよ? でもやっぱりね。

「ウン、やっぱりみんな考える事は一緒でしょ? 函館に来たのならここからの景色、これは絶対に外せないよ」

 二人はチケットを購入し、長い列を成しているその最後尾に並びながら、先頭があるであろう場所を恨めしそうに睨みつける。

「確かにそうかも……それにしても、何で鮎美ちゃんは来なかったのかしら……」

 渋々といった感じで詩織もその隣に立ち止まり、不思議そうな顔をして有希の顔を見る。

「ウ〜ン、何だろう、まさかあのジンクスを気にしているわけじゃないだろうし……」

 有希の台詞の中にあったジンクスという所で詩織の目が輝く。

「なになに? そのジンクスって」

 今の詩織に尻尾をつけたら、きっと千切れんばかりに動き回るであろうよと思う、その目はキラキラと光っている。

 ハハ詩織も結構こういう話が好きなんだな? 意外な一面を見たよ。

「うん、『函館山からの夜景を見たカップルは別れる』っていうジンクスが地元では有名なんだ、事実同級生でも別れたという事例を聞いた事がある」

 まぁ、本気にするほどの物でもないであろう、別れなかったカップルもいるし、新婚旅行で来ているカップルだっている訳だから、そのジンクスの効能はさほどではないと思うが……。

 しかし、目の前にいる詩織はそのジンクスを鵜呑みにしたのか、それまでの期待に満ちた笑顔が一気に消える。

「エェ、そうなんだぁ……だったらやめようかなぁ」

 ちょっとお嬢さん? ここまで来てそれは無いと思うけれど。

 有希は呆れたような笑みを浮かべていると人が動き出し、その流れに沿うように有希と詩織は流されはじめる。

「アハハ、それは、あくまでもカップルだけだから、ボクたちはそのジンクスの対象外なんじゃないのかな? 女同士だし」

 そう言うものの、有希の本心ではない。

 微妙な仲だよなぁ……俺と詩織の仲って、かつてのカップルではあるけれど今では女同士のお友達、別れる以前のような気がするけれど……。

「そう……よね……」

 詩織はため息を付きながらチラリと有希の顔を見る。

「それにボクはあまりジンクスとかを気にしないタイプだし」

 ニコッと微笑む有希に詩織も微笑み返してくると、モーター音と共に大きなシルバーボディーのゴンドラが見えてくる。

「大きいわね?」

 気を取り直したのか詩織はその大きな車体をため息混じりに見つめている。

「このゴンドラはオーストリア製で百二十五人も乗る事ができるみたい、広さは畳で三十畳ぐらいあるんだって」

 有希は鮎美から以前聞いたウンチクを詩織に披露する。

「へぇそうなんだぁ、それで有希ちゃんここでのお勧めは?」

 ニコッと微笑みながら詩織は有希の顔を見つめる。

「う〜んと、そうだな詩織さんは初めてでしょ? だったらロープウェイに乗ったら山ろくを見ないで山頂を見ながら乗っていたほうがいいよ」

 有希は初めて夜景を見た時に真澄に教わった乗り方をそのまま詩織に伝授する。

「なんで?」

 首をかしげる詩織に対して有希はウィンクを飛ばしながら微笑む。

「それは山頂についてからのお楽しみ!」



=光の絨毯=

『お待たせいたしました、まもなく山頂駅です』

 普通のロープウェイの数倍の大きさであろうその大きなゴンドラは、軽い衝撃と共に薄暗い函館山山頂に到達する。

「うぁ、すごく寒いね?」

 開いた扉からは真冬のように冷たい空気が二人を取り込み、慣れていない詩織はその冷気に首をすくめる。

「そっか、ゴメンね気が付かなくって、ここの山頂は山ろくより二、三度気温が低いんだ、まだ展望台の中は暖房が効いているから良いけれど、外に出たら寒いから……」

 有希はそう言いながら羽織っているジャケットを詩織に渡す。

「でも、それじゃあ有希ちゃん寒くない?」

 気のせいかちょっと頬を赤らめながら詩織は有希の顔を見つめる。

「慣れているから大丈夫、それよりも後ろを振り返ってごらん」

 有希に促されながら詩織が振り返る。

「わぁ〜……素敵……」

 既に他の客は展望台に入り込み、ロープウェイの降り口にいるのは有希と詩織だけで、そこから視界に広がるのはちょっと障害物があるものの、百万ドルの夜景が広がる。

「でしょ? 展望ラウンジの上に行けばもっと綺麗に見えるけれど、初体験の人はここでまず一回感動してもらいたいよね?」

 有希も満面の微笑を浮かべる。

 それまでテレビや写真では見たことがあったけれど、はじめて見た時の感動はここだった。鉄塔などで一部の景色の欠落はあるものの、そこから見る夜景は綺麗に孤を描き、まさに扇のように光が広がっている。

「だから有希ちゃんは、山ろくを見ないでずっと山頂を見ていろと言ったのね?」

 詩織の目はどことなく潤んでいるようにも見える。

「うん、どうしてもみんな夜景が見たくって山ろくの方を見ているでしょ? 何回か見た人はいいかもしれないけれど、初めての人はやっぱり上に上がってから見るほうが感動するよ」

 有希も詩織につられる様にその夜景を見る。

「うん、感動したよ……」

 有希の横顔を見ながら詩織がそう言い、何かを言おうとして口をつむぐ。

「どうかした?」

 視線が合った途端に詩織はその視線を振り払い、人でごった返す展望ロビーに足を向ける。

「ウウンなんでもないよ……さぁて、有希ちゃん早く展望台に行こうよ! 早くもっと綺麗な景色を見たいかな?」

 なんだかさっきから詩織のペースに押し切られているような気がする……。

 有希は苦笑いを浮かべながら、足早になっている詩織の後について歩き出す。

「ちょっと待って、あまり急ぐと迷子になっちゃうよ?」

 展望ロビーの中に入った瞬間、詩織の表情から笑顔が消える。

「すごい人、これじゃあゆっくり夜景見物という雰囲気ではないわね? なんだか人を見物しているみたいかも……」

 ちょっとした満員列車のような雰囲気のロビー内は背の低い有希と詩織には人の背中とお腹しか見えず、目的である夜景などは、はるか遠くの人の隙間に見えるだけだ。

 シーズンから外れているといってもこれだけの人がいるわけだから、シーズン中になるとどれだけの人が訪れるのだろうか……。

「うん、しかも蒸し暑い……」

 人が多いせいなのか、暖房が入っているのか分からないけれど、まるで、市民プールの更衣室のような蒸し暑さ……安物の香水の香りに、コロンの匂いが入り乱れ、その匂いで酔ってしまいそう、せっかく綺麗な景色を見るんでも、これじゃあ滅入っちゃうよ。

「あっちから展望台に行こうよ、これじゃあ夜景どころの騒ぎじゃない」

 人波に酔いそうになってきた有希は一刻も早くその場から離れたくなり、詩織の手を握り人垣の向こうに見える外への扉に向かって歩き出す。

「うはぁ、身が引き締まるというか、やっぱり寒い?」

 扉を開けたその場所で、再び二人を冷気が包み込む、その冷気に有希はちょっと首をすくめるが、隣にいる詩織はどことなく顔を赤らめうつむいている。

「ウウン……大丈夫」

 街灯に映し出される詩織の頬はやはり赤らんでいる。

「顔赤いよ? 風邪でもひいちゃったかなぁ」

 風邪の潜伏期間を無視したような有希の台詞に、大きく首を横に振って否定する詩織の表情は、やはり赤らんでいるみたいだ。

「ウウン、ちょっと人に酔っちゃったのかな? 大丈夫心配ないよ」

 ニッコリと微笑みながら詩織がそういう。

「だったらいいけれど……あそこ! ちょうど人がきれている!」

 有希は観光客が立ち去った後を見つけ、すかさずその隙間に身をよじりこむ。

「有希ちゃん?」

 驚いた様子で手招きをする有希を見ている詩織の表情は徐々に笑顔に変わってゆく。

「いいから、ここから見てごらん……ほら」

 有希の体と入れ替わりに詩織の体が入り込む。

「……わぁあ〜……すごい……」

 詩織はそういったままその景色にしばし見とれている、その横で有希もその眼下に広がる風景を見つめていた。

 扇形に広がる光の絨毯は、まるで地表に降りた星空のようで、その光に負けないよう、空には満月が顔を見せているが、その明かりには叶わないよう。

「どう?」

 自慢げに有希は鼻を鳴らしながら詩織を見る、その詩織の瞳はまるで夜景がそのまま映りこんだように煌いているようにも見える。

「……素敵……写真とかでは見た事があるけれど、やっぱり生の迫力は違うわね? みんながこの景色に見惚れるのも分かる気がする」

 満面の笑顔を見せる詩織……その笑顔だけでここにつれてきたかいがあったというものだ。

「でしょ? 右に見えるのが津軽海峡だよ、そして海に浮かんでいる光の点々がイカ釣り船の光『漁火』だよ、左手の海が函館湾、あの浮んでいる船は函館湾のクルーズ船だよ」

 二人の視線の先には黒い海の上に光をたたえた船が、今まさに着岸しようとしていた。

 今日は空気が澄んでいるみたいで綺麗に見えるなぁ。

「……有希ちゃんはこの街の事、好き?」

 それまでの会話にはなかったような台詞が詩織の口から発せられ、有希はその意味を理解するのに数秒の時間がかかってしまう。

「好きだよ……良い人ばかりだし」

 数ヶ月前いきなり来たこの街だったが、慣れるにしたがいこの街の事が気に入っていくのが自分でもよくわかる。初めの頃は『ボロが出ないように』と、真澄や茜、そして楽しそうに鮎美がこの街を案内してくれた。確かにみんな心温かい人たちだと言う事は身をもって痛感しているし、それと同じようにこの街の事は大好きになった。

「そうなんだ……」

 詩織はそう呟いたまま、再び眼下に広がる星空のようなきらめきに視線を向けている。

 なんだ? なんだかすごく重苦しい雰囲気なんだけれど、この雰囲気はあの時……そう、詩織に告白された時と同じような雰囲気。

 有希は思わずのどをゴクリと鳴らす。

まさか女の子同士での告白なんてありえないだろうし、そもそもこの身体で出会ったのは昨日が初めてだ、そんな訳があるはずない。

有希はしきりにそう自分に言い聞かせるが、その二人の微妙な空気の層は取り除かれる事はなく、心の中の動揺だけを抑えるのに精一杯だった。

「――松尾先生、結婚するんだって……しかもできちゃった婚らしいわ」

 詩織のその一言は、恐らく周りの人間には聞き取る事ができなかったであろうが、有希の耳にはしっかりと届いていたらしく、その顔色が明らかに変化する。

「マジで? だって去年大学を出て赴任してきたばかりじゃないか? あのまゆっちょがねぇ佐々岡とか岡崎はさぞかしがっかりしているだろうよ……って、あっ……」

 思わず口をついた台詞は、勇気の記憶の中のもので、松尾先生とは去年大卒で赴任してきた音楽教師の事で、ちょっと頼りないところが可愛らしく、あっという間にファンクラブが構成されていたという事は、当然の事ながら有希が知っているはずがない。

 いけねぇ思わず語っちまったよ……その事を知っているのは勇気の記憶だけだよね?

「……エッと……」

 有希は白々しい微笑を浮かべながら、頭の中でありとあらゆる所から知恵を振り絞っていたが、なかなか妙案が浮かび上がる事はなかった。

 どうする? 拓海に聞いたとシラをきるか? ダメだ、拓海は違うクラスだったから佐々岡や岡崎の存在を知らないはずだし、そもそもあいつはその時には既にこっちの高校だから知る由もないはずだ。だったら矢野か、奴の方が真実味あるが……しかし奴等に借りを作りたくないし、そもそもそんな腹芸が奴等にできるわけがない。

「……広川くん?」

 詩織の一言にオドオドと視線を周囲に巡らせていた目を止め、ピクッと有希の肩が無意識に反応すると、そんな有希を認めるようにゆっくりと顔をあげる。その詩織の顔は、涙でびしょびしょに濡れていた。

「――あっ……うぅ〜……」

 有希はそんな涙まみれの詩織の視線から顔を逸らすが、しかしその耳には詩織のしゃくりあげる声が聞こえてくる。

「グスッ……やっぱり広川くんなのね?」

 退路はすべて閉ざされてしまった……自分のせいなんだけれど……さて、この状況をどう打破すれば良いんだ?

「そのぉ〜……ですね? 話せば長く……!」

 有希の台詞をさえぎるには十分な衝撃だった。柔らかなその温もりは懐かしくも、勇気の記憶の中で唯一心残りになっていた。

詩織が有希の胸に抱きつきながら嗚咽を漏らしている。その姿は周囲から見れば女の子が女の子に抱きついているという、異様なものに写るかもしれないが、二人の間にはそんな視線を跳ね返すには十分の世界が出来上がっていた。

――やめた、変な言い訳をするよりも素直に認めたほうがお互いの為になりそうだ、有希、悪いけれどちょっとの間だけ俺は『勇気』になるよ?

〈ダメって言える訳ないでしょ? この身体は『勇気』の意識で動いているんだから……でも、みんなの事も忘れないでね?〉

 有希の意識が答えてくる。

 当たり前だろ? みんながいてくれるから俺がいるんだ……。

〈ウン、だったら詩織さんにちゃんと話してあげて勇気〉

恩にきるよ……。

「わりぃ……詩織を騙す気はなかったんだ、でも、こんな事になるなんて自分自身でもわからなかったし、まさか詩織がここに来るなんて思ってもいなかったし……」

 有希はそう言いながら人垣のできている展望台から詩織の肩を抱くように後にする。

「広川くん……」

 詩織は止め処もなくこぼれ落ちる涙を指先で拭いながら有希の顔を見上げる、その目は既に真っ赤に充血し、瞼もちょっと腫れ上がっているようにも見える。

「でも……詩織が俺の葬式に来てくれたことは知っているよ……有難う」

 穏やかな表情で有希は詩織の顔を見つめると、その顔はさらに涙でグシャグシャになる。

「エヘ、見ていたんだぁ……」

 泣き笑いといった表情の詩織は、はにかみながら頬を赤らめながら再びうつむいてしまう。

「でも……これでやっと、また思い切ることができるかも……」

 ギュッと目をつぶる詩織。

「詩織?」

 函館山の展望台から離れた所にある人気のない場所。そこからも十分に夜景を見渡す事ができるその場所で詩織は口を開く。

「……勇気……」

 か細い声でそう言う詩織の目からはさっきと違い、大粒の涙がこぼれ落ち、抱きついている有希のフレアースカートに染みを作ってゆく。

「詩織?」

 有希はそのか細い肩をしっかりと受け止め、詩織のいま言っていた台詞に首をかしげる。

「やっと……やっと言えたよ……広川くんの事を、勇気って……」

 しゃくりあげながらそう言う詩織の目からは相変わらずの大粒の涙、受け止めている肩は小刻みに震えている。

「思い切って言おうと思っていたのに……その前の日にいなくなっちゃうなんて……」

 詩織……。

 有希は沈痛な面持ちで、頭を垂れている詩織の頭を見つめるだけしかできないでいた。

「でも、神様もたまには気の利いたことをしてくれるのね? こんな形でだけれど、広川くんの事を勇気って呼ぶことができた……伝える事ができた」

 顔をあげる詩織の顔は……細かい表現は割愛させていただくとして……その顔は涙でグシャグシャになっているが、それは悲しみのためではないという事が、いくらか柔らかくなったその表情から見て取る事ができる。

「そうかもしれないな? 最初は何でこんな意地悪をするのかと思っていたけれど、結果的には結構小粋な事をしてくれたという事になるよな?」

 有希はそう言いながら周囲からその詩織の顔を隠すように、そっとその顔を膨らんでいる胸に押し付ける。

 なんだか変な感じかもしれないけれど、俺の心残りもなくなったのかも知れない、泣いている詩織の顔は見たくない。詩織のその寂しさを抱きしめて受け止める事ができるという事が何よりもいまは嬉しい。

「……勇気? ウフ、そうかもしれないなぁ……ゴメン、もう少し泣いちゃう」

 一瞬抵抗があった詩織の身体は、程なく勇気の力に従い再び嗚咽をこぼし始める。

「詩織……わりぃ」

 有希はそう言いながら泣きじゃくる詩織の頭を撫ぜるだけだった。

〈よかったね?〉

 あぁ、ありがとう有希……。

〈ウウン、あたしもちょっと罪悪感に苛まれていた所だから、よかったわよ〉

 ホッとしたような有希の意識が勇気の中で暖かく広がっていくような感じがし、いつの間にか有希の瞳にも涙が滲んでいた。



「いくらか落ち着いた?」

 帰りである山ろくに向かうロープウェイの中は、時間的にまださほど混雑している感じではなく、徐々に現実に戻されるかのように今まで見ていた夜景が近づいてきて、そうして自分たちもその夜景の一部に溶け込んでゆく感覚にとらわれる。

「ウン、少しは……」

 そう言う詩織の瞳はまだ熱く火照っているように赤く充血している。

「そうか……」

 これからあの夜景を見るために山頂に向おうとする観光客の波に逆らうように、二人はロープウェイ乗り場を背にする。

 がぁ〜、会話が続かないよぉ〜……。

〈彼女の気持ちはまだ勇気の事が好きなんだよ……それはわかっているわよね?〉

 優しい感じの有希の意識が問いかけてくる。

 ――わかっている、でも、俺はどう答えて良いのかわからない。

〈そうやって考えているって言う事はわかっていないんじゃないの?〉

 有希の意識に言われた事に、思い当たる節が幾つかある。

 だけれど、俺の今のこの姿は女の子なんだよ? 詩織の気持ちに応える事ができるわけがないじゃないか!

〈何で?〉

 まるで勇気を試すかのように有希の意識が微笑むが、勇気はその問いの答えに詰まる。

〈なまじ客観的な性別があるからややこしくなるんじゃない? その相手が異性であれ同性であれ、好きという気持ちは変わらないんじゃないかな? まぁ、それが異性なら恋になって、愛に変わり、同性だったら友情になるという差はあるかもしれないけれど、でもスタート地点は同じじゃないかな……もしかしたら同性にも有るのかもしれないよ、恋というものが〉

 好きという気持ちは異性も同性も変わらない……かぁ。

〈でも、あたしは鮎美の事を応援するからね?〉

 鮎美の事を? なんの事だ?

〈ハハ、やっぱりあなたは気がついていないみたいねぇ〉

 有希の呆れたような意識に、勇気はクエスチョンを投げかけている。

〈詩織さんも苦労したんだろうなぁ勇気には……ちょっと同情するかも……〉

 だから何の事なんだよぉ〜。

〈まぁいいわ、難しく考えるから難しくなるんじゃない? 素直になれば良いだけよ〉

 ハハ、素直になれば、かぁ……。

 フッと有希の肩の力が抜けるとその感覚に詩織は気がついたのであろう、詩織はゆっくりのその顔を有希に向ける。

「?」

「確かにややこしいよね? ボクは女の子になっちゃんたんだし……でも、それだけなんだよ、身体が女の子になっちゃっただけ、気持ちは勇気のままなんだ」

 詩織はキョトンとした顔で有希の顔を見つめるが、やがてその意味を理解したかのように笑顔を膨らませる。

「でも、今はちょっと時間が欲しい……ボクの中でまだ整理がついていないんだ……」

 申し訳なさそうに頭を下げる有希は肩を震わせる。

 そう、整理がついていない……俺は勇気……東京生まれの男だけれど、有希の気持ちも良く分かる……そう女の子なんだ、俺は……、詩織の事は好き、でも、好きという事で括ってしまって良いのか?

 ため息をつきながら、有希の事を見つめている詩織を見る。

「相変わらずね? 優しい所なんてちっとも変わっていない」

 ロープウェイ乗り場を背に帰路につく二人の事を、ライトアップされた教会や、レトロチックな建物の光が優しく包み込み、優しい微笑を湛えた詩織の横顔を照らし出す。

「……照れるよ」

 有希は鼻先を中指で掻きながら、ライトアップされた教会のとんがり屋根を見つめる。

「それよ!」

 詩織が嬉しそうにその仕草をする有希の腕に抱きつく。

「その癖……身体が変わっても変わらないのね? すぐにピンときたわよ……まさかそんなことありえないと自分ですぐに否定したけれどね?」

 ペロッと舌を出す詩織の表情からは既に涙は消えていた。

「その仕草を見ているうちに、有希ちゃんの横顔が勇気に見えたのよね?」

 詩織?

 その詩織の表情は生き生きとしているという感じがヒシヒシと伝わってくる。

「それで、ちょっとカマをかけて呼んでみたら……見事に露呈したのよね? 本当に素直なんだか、ウソがつけないんだか……そんな姿を見ていたらなんだか胸のつかえが取れたような気がして……そうしたら今度は涙が止まらなくなっちゃった……エヘへ」

 はにかむようにモジモジしながら視線を逸らす詩織のその姿は、勇気が付き合っていた頃のそれとは違っていた。

 詩織もこんな表情をするんだな? もしかしたら、ボクと付き合っていた時は、かなり無理をしていたのかもしれない……この顔がきっと彼女の素直な表情なんだろう。

「でも、有希ちゃんには申し訳ないけれど、勇気の意識がこの世に残っているというだけで、あたしは嬉しいなぁ……確かに身体は変わってしまったかもしれないけれど、その身体の中にあるのは……」

 詩織の足がピタリと止まり、それに合わせるように有希の足もそこに止まる。

「……あたしの大好きな人の意識と……あたしの大好きな人の記憶……それが、この北の港街に残っていた……それだけでもこの研修旅行は意義のあるものだったよ……」

 憂いのある表情で有希の目を見つめる詩織の瞳は、再び涙が湛えられていた。

「あとは、勇気の気持ちが有希ちゃんを説得してくれるかよね?」

第二十三話へ。