第二十三話 朝の函館
=チカラ関係=
「……いつまでこっちにいるんだ?」
函館山から家に向かう途中にある石畳の坂道、会話が途切れた時に不意に有希の台詞が詩織へと向けられる。
「ウン、明日もう一日自由行動なんだぁ、明日も有希ちゃんに街の案内お願いしようかな?」
満面の笑みを湛えながら詩織はそう言い有希の顔を見つめる。
ちょうど詩織と俺は同じぐらいの背の高さになるのかな? 目線をそんなに移動させなくても詩織の顔を見る事ができる……以前は結構下に向けないと見られなかった詩織の表情が、いま目の前でコロコロと変わって、結構新鮮に感じるかも……。
「そうかぁ……ウン、だったらこの街の魅力をボクが案内してあげるよ」
有希はそう言いながら胸をぽんと叩くが、一抹の不安が脳裏をよぎる。
そうは言ったものの、俺だって函館の初心者みたいなものなんだよね? 知っているのはいわゆる基礎程度の場所ばかり、もっとディープな所を紹介してあげたい気もするけれど、それにはまだ知識がついていていないだろうよ……。
そんな心配をしている有希の脳裏には鮎美のニッコリとした表情が浮かび上がる。
「エッと……鮎美も一緒でよければ……だけれど」
ちょっと躊躇しながらの有希のそんな提案に少し詩織の表情が曇るものの、やがて少し引きつったような笑顔を作る。
「当然でしょ? 鮎美ちゃんがいれば『函館の達人』になる事ができるよ」
微笑む詩織の表情は、さっきまで見ていたその表情と違う事は有希には気がつかなかった。
良かった、反対されるかと思ったけれど、そう言ってもらえると助かる。
有希はその台詞の意味を、自分の解釈で良い方に理解したのであろう、笑顔を浮かべながら詩織を見るが、当の詩織は理解されないもどかしさからなのか、ちょっと憮然とした表情を浮かべている。
「でしょ? やっぱりここは『函館の達人に聞け!』だよね?」
詩織は諦め顔を浮かべて、深いため息をつく。
「ハァ〜……そうね」
ギュゥ〜。
詩織は足元にある有希の足を思いっきり踏みつけてくる。
「いてぇ〜!」
飛び上がる二人の視線の先には喫茶『シオン』と美容室『はる』が仲良く肩を寄り添うように見え、そのシルエットの中には一人の少女の姿が見とれる。
「ほら、彼女がお待ちかねよ?」
嫌味っぽく言う詩織もその姿を確認したのであろう、ちょうどそのお店の狭間に鮎美の姿がぼんやりと見て取れる。
「何であんな所にいるんだ?」
有希は詩織に踏まれた足をさすりながら首をかしげるが、なぜだかちょっと胸の中にホッとした感覚が生まれる事を知る。
「ホント、女の子になっても鈍感な所は変わらないのね?」
詩織はため息をつきながら、こちらに気がついて手を振る鮎美に対して手を振り返す。
鈍感言わないでよ……結構気にしているんだから。
プクッと頬を膨らませる有希を尻目に、詩織はまるで鮎美を挑発するかのように有希のその腕にしがみつく。
「アァ〜!」
かなり遠くから鮎美のその声が聞こえてきたような気がする。
有希の視線に写るその鮎美の姿はどことなく憤慨しているように見え、まるで頭から湯気を出しているかのように地団駄を踏んでいる。
「あれが彼女のあなたに対する気持ちなんじゃないのかな?」
楽しそうに微笑む詩織のその顔を有希はぼんやりと見つめるだけだった。
鮎美の気持ち?
「彼女はあなたの事が好き……それが有希ちゃんに対してなのか、勇気に対してかはわからないけれど、でも、思う気持ちは同じだと思うよ」
その一言に有希は詩織の顔を見つめる。
「鮎美がボクの事を? それはないんじゃないかなぁ、ただ鮎美は幼馴染である有希の事を心配してなんじゃないかなぁ」
これは本音では無いと一瞬頭の隅で思うが、だからといって本音もまだ自分でもよくわかっていないというのが実情だ。
「ふ〜ん……そうなの?」
問い詰めるような詩織の視線に有希は曖昧な顔をして答えるしかなかった。
「ちょっとぉ、有希ぃ遅いぞっ! もう夕ご飯出来ているんだからね、茜ちゃん一人でがんばっていたみたいだし」
なんだか理不尽な文句を言う鮎美は、プックリと頬を膨らませプンプンという擬音を背負いながら有希に詰め寄る。
「そんなに遅かったかなぁ……」
まるで門限に遅れた女の子が、お父さんに対して言い訳を考えているような気になり、有希は苦笑を浮べるが、鮎美の怒りは収まる事無く、腰に手をやり有希の顔を睨みつけている。
「そんなに遅くないんじゃない?」
有希の腕にしがみつきながら詩織が腕の甲に付けてある腕時計の文字盤を見ると、その針は二人が『シオン』を出てから一時間ちょっとしか経過していない事を示している。
「うぐぅ〜……それでも遅いのっ!」
うろたえるようにそう言い放つ鮎美の顔は、まるで小さな女の子が友達を取られてやきもちを妬いているようなそんな表情を浮かべており、そんな顔に有希の頬が思わず緩む。
「アハハ、ゴメンよ鮎美」
有希は思わずそんな様子の鮎美がいじらしく感じ、その小さな頭に手をのせる。
「ぶぅ〜」
そんな有希の行動に、鮎美はホッとしたのか頬を膨らませながらも、さっきまでの険しい視線が緩む、しかし、今度は詩織から険しい視線が飛んできた。
「有希ちゃん、明日のデート楽しみにしているからね?」
再び詩織は有希の腕にしがみつくと、その反対の腕には鮎美がつかみかかる。
「デ、デートって、ダメ! 女の子同士でそんな事……」
何を想像したのかよく分かるよ……変なところで素直なんだからなぁ、鮎美のやつは……。
真っ赤な顔をしてうつむく鮎美だが、その眼光は怯まないで詩織の事を睨みつけている。
「怖い顔をしちゃって……あなたも誘うつもりでいたんだけれど、その意思表示は不参加と取らせてもらって良いのかしら?」
詩織はその眼光に怯むことなく、むしろ挑発的な表情で鮎美を見る。
なんだか二人の背中にありえないものが見えるような気がする……鮎美の背中にはオオカミが、そして、その吼えているオオカミをまるであざ笑うような、冷徹な表情のキツネを背負っているのは詩織……恐らく近からずも遠からない力関係のような気がしないでもないかも……。
その二人の視線の中心に立っている有希は、その火花に焼かれている鮭だろうか?
「そ、そんな事ない! よ、喜んで参加させてもらうわよ……有希よりもこの街の事はあたしの方がよく知っているんだから」
あっ、力関係が、一瞬キツネに傾いたかも……じゃなくって、いつまでも傍観者面している訳にはいかないだろう……。
間に入り込み有希は二人を抑えるように両手を左右に広げる。
「はいはい、これで確定だ、明日函館駅に七時集合という事で、夜露死苦!」
パンパンと手を叩きながら有希はその状況を収集させるべく提案を起こし、ほぼ無理やりな状態で双方を納得させる。
出来る事ならこの二人には仲良くしてもらいたいのだが……無理なのかなぁ。
気付かれない様にため息をつく有希に対し、共に渋々合点したように頷く。
「わかったわよぉ……函館駅七時集合、了解いたしました、じゃあね、有希ちゃん……そのぉ、また明日よろしくね?」
詩織はそう言いながら宿泊先のホテルに向かって駆け出す、一瞬その横顔には笑顔がこぼれ出しているといった風であった。
「何よ、その嬉しそうな表情は……」
鮎美もその表情に気がついたようで、腕を組みながらその後姿を見送っている。
「さて、なんなんでしょうかね?」
はぐらかすように言う有希に対して、鮎美は再び頬を膨らませながらその顔を睨みつけてくるが、何かを思い出したかのように有希の腕に自分の腕を絡みつかせて首をひねる。
「うーん……」
「な、なんですか鮎美さん?」
そんな思いがけない鮎美の行動に少し顔を赤らめながら、有希は自分よりも少し高い所にある鮎美の顔を見上げる。
「ちょっと違うのかなぁ……」
鮎美はブツブツ言いながら、今度は有希の腕を自分の腕に絡ませるように組み替える。
「鮎美さん?」
何がしたいのかよくわからない有希は、されるがままの状態でその行動を見つめている。
「うーん、やっぱりこっちの方がしっくりくるわよね?」
「鮎美ってばぁっ!」
声を上げる有希にやっと気が付いたのか鮎美はその腕を解き、少し頬を赤らめながら申し訳なさそうな微笑を浮かべる。
「ゴメン、ちょっとね? アハハ」
誤魔化すように言う鮎美の事を有希は目を眇めながら見つめると、鮎美はその視線を避けるようにスタスタと歩き出す。
「あ〜ぁ、あたしもそう少し背が低い方がよかったかも……そうすれば、あの娘と同じように腕を……この歳になってはじめてこの背を恨むよ……」
そんな鮎美の呟きは有希の耳には届かず、その行動にキョトンと首をかしげていた。
「ほら有希、早くしないとご飯が冷めちゃうよ!」
振り向いた時には鮎美の表情は今までと同じものに変わっていた。
「あぁそうだな、飯だ、飯! お腹が空いたぞぉ〜」
地を出す有希の言動に、鮎美は呆れたような顔をしている。
「有希! 女の子が『飯だ!』なんていうんじゃないの、それにさっきお店でパフェを食べたばかりでしょ? そんなに食べると太るぞ?」
「甘い物とそれは別腹なんだよ!」
有希はべぇっと舌を出しておどけた顔をする。
=朝市=
「ふわぁぁ〜〜〜〜…………ねむ」
まだ人通りの少ない店の前で、心地よさそうに大きく伸びをする有希の隣では、鮎美が寝起きの機嫌の悪さをそのまま引きずっているような顔をしている。
「――なんだってこんな朝早くなのよ、まだ、街だって目覚めていないでしょ?」
膨れっ面をものの見事に形成している鮎美のその顔は、頬は膨らませ目尻は重力に反する事ができないように下がり、しかしその目尻を持ち上げるかのように眉毛は顔の筋肉に逆らうかのように上に向かうようにつり上がっているが、その位置がおそらく顔の筋肉の限界点なんだろう、それは引きつり、ピクピクと筋肉がヒクついている。
「だって函館の達人だろ?」
有希のその一言に、鮎美は目を覚ませたように目を見開くが、それは僅かな時間ですぐに表情は元の状態に戻ってしまう。
「わかっているわよ……でもね? ふわぁぁ〜……はむ」
そう言った途端に鮎美の口は大きく開き、その周りのものをすべて吸い込むかのような大あくびをひとつすると、口をムニュムニュと動かす。
そんな酷い顔は絶対に男には見せられないよなぁ……って、そうすると俺は一体どうなるんだろう……俺の立場というのは相変わらず微妙だよなぁ……。
苦笑いを浮かべている有希に気が付いたのか、それとも一気に意識が覚醒したのか、正気に戻ったのであろう鮎美は慌てたように手で自分の顔を覆う。
「な、何よぉ、女の子の寝起きの顔をそんなにマジマジと見るものじゃないわよ?」
今度ははっきりと目が覚めたのだろう、膨らんだ頬はそのままでキープされており、目尻も垂れる事はなくなっていた。
「女の子の寝起きの顔を見るなって、ボクは毎日見ているよ?」
有希の一言に鮎美のこめかみに青筋が浮かび上がる。
「毎日女の子の寝起きの顔を見ているですってぇ〜っ! 一体どーゆー事よっ!」
近所に気遣い一応声を押さえているのであろうが、鮎美の一言はどこかお腹の芯に響くような重低音のようにも聞こえ、思わず有希の背筋がシャキッと伸びる。
「だっ、だって鮎美じゃないか『朝起きたらちゃんと鏡をみろ』って言ったのは、だからちゃんと鏡を見て髪の毛を直したりしているよぉ」
最初の頃は面倒臭くって鏡なんて見なかったけれど、最近ではちゃんと見て身なりを整えるように気を使っているんだよ?
プクッと頬を膨らませる有希に対して、鮎美は顔を赤らめる。
「そっ、そう言う事だったのね? アハハ、あたし勘違いしちゃった……」
「ほらぁ、彼女だってこんな朝早く起きて来られないわよ……」
待ち合わせの函館駅前には詩織のその姿はなく、どこかのツアー客であろう団体が高らかに大声を上げている。
「アハハ、だろうね?」
有希もその意見に賛同したように左手首にはめた腕時計を見ると、その時間は待ち合わせの時間の五分前を示しており、所在無げに周囲を見渡す。まだ新しいその駅舎は中央部分が吹き抜けになっており、大きな窓は開放感を与えてくれているが彼女の姿はまだ見えない。
「だろうね……って、そんないい加減な……」
「有希ちゃ〜ん」
開放的なその駅舎の中に一人の少女の声が響き渡る。
そう……ここって吹き抜けになっているからやたらと声が響き渡るんだよね? おかげで周囲の視線が俺達に向けられていて……ちょっと恥ずかしいかも……。
「ごめぇ〜ん、待たせちゃった?」
自分の置かれている立場がわかっていない詩織は、ニコニコと微笑みながら小走りに駆け寄ってきて、わざとらしく二人の間に割り入る。
「いや、ボクたちも今来たところだから……」
相も変わらず周囲の視線は詩織を加えた三人組に注がれており、ところどころからまるでドラマの中でしかあり得ない様な事が囁かれている。
「ねぇ、あの三人なんだか怪しい雰囲気じゃない?」
「ウン、あたしもそう思ったのよねぇ、やっぱりあれかしら、禁断の恋なのかしら? しかもよりによって三角関係?」
「女の子同士の淡い恋……ちょっとドラマティックよね?」
「そうね? やっぱりドラマティックな恋を支える街なのね函館って……画になるわぁ」
おいおい、皆さんは何を根拠に断定しているのかな? それに、恋と決め付けないでいただきたいんだが……って、をぃ……。
詩織はそっと寄り添ってきたかと思うと、有希の腕に自分の腕を絡めてくる、それは衆人が向けてくる視線の事など、まったく気にしないというようなそんな素振りで。
詩織ってこんなに積極的な娘だったっけ?
有希が首をかしげる間もなく、その行為に頬を力いっぱい膨らませた鮎美が、反対側の有希の腕にしがみついてくる。
「キャァ〜ッ……」
実際にはそんな声は聞こえないものの、三人をとりまくその周囲の雰囲気はそんな奇異な空気が漂っているように感じる。
「それで有希ちゃん、今日の函館観光の一番目はどこに行くの?」
既に疲れを感じ、うなだれてしまっている有希の顔を覗き込むように、詩織が満面の笑みを浮かべて問いかけてくる。
「あ、あぁ、とりあえず函館の名所のひとつだよね?」
有希と鮎美は互いに顔を見合わせながら微笑む。
「「それは、ここ!」」
見事までに声を揃えた有希と鮎美のハーモニーに、大げさなまでに手を広げて紹介するのは函館駅前にある函館朝市。
「函館の駅前にあるんだからまさに函館の顔、この朝市で売っていないものといえば、棺桶と墓石ぐらいしかないと言われるぐらいに品ぞろえが豊富なのよ、それに『どんぶり横丁』では、ウニやイクラ、活イカを使った新鮮などんぶりが食べられるのよぉ」
朝食をとっていないせいなのか、鮎気は舌なめずりをするような勢いで説明をする。
「地元の人間が『渡島(おしま)ドーム』と呼んでいる朝市には、海産物の他にも野菜や衣類まで豊富に揃っているし、隣接している『えきに市場』には魚介類は当然ながら、野菜や活イカの釣堀があったりして、見ていているだけで楽しいし、それにここの活気は、みんなに元気を分け与えてくれるような気がして、まさに函館の台所という感じかな?」
いたるところから威勢のいい声が上がり、三人組に対しても同じにかかってくる。
「お姉ちゃん! どうだい、良い物が入っているよ、寄っていってぇ〜!」
四角い顔をしたおじさんに声をかけられたかと思えば……。
「若い女性にはやっぱり低カロリーなこれ!」
ゴムエプロンをしたショートカットの若い女性が三人の目の前にそのものを突き出す。それはウネウネと手というか、足というか、それを動かし苦しそうにもがいているようにも見える。
「き、キャァ〜ッ!」
鮎美と詩織は、そのグロテスクなものを目の当たりにして悲鳴を上げながら抱き合うが、有希はまじまじとその物体を見つめ、笑顔を浮かべる。
「あは、これは新鮮ですね? 『スルメイカ』ですか?」
それに物怖じしない有希に、ちょっと意表をつかれた様な顔をしているその女性店員の顔は徐々に笑顔に変わってゆく。
「ヘェ、お嬢ちゃんは結構料理が出来ると見たわ? ご名答よ、これはスルメイカ、北海道では『真イカ』と呼ばれているの、六月中旬から取れ始めるわね? ちょっと肉は薄いけれど、高タンパク低カロリーでお酒のおつまみには最高よ? 肝臓の味方といわれる『タウリン』も豊富に含まれている……って、まだあなたたちにはお酒は早いよね? でもイカは最高よ」
女性はペロッと舌を出し、嬉しそうに有希に話しかける。
「はぁ、お酒は母がよく飲みますので良いかなと思ったことがありますけれど……本当に新鮮なんですね? ほら鮎美見てみなよ『イカ提灯』がこんなに出ているよ?」
有希はそのイカの胴体を指先で突っつくとその場所の色がサッと変わる。
「そ、そうなの?」
鮎美は恐る恐るといった感じでその様子を見つめている。
「ほら、噛みついたりしないから触ってごらん? 鮮度が良い証拠だよ、目は黒く澄んでいるし、色も黒っぽい茶色……東京ではなかなか見られないよね?」
有希に勧められ、やはり恐る恐る指先でそのイカを触ろうと手を伸ばす鮎美、その手にイカの最後の抵抗なのであろう足の吸盤がピトッと引っ付く。
「キッ……いやぁぁ〜」
鮎美はそれにまるで嫌々するように手を思い切り振りながらそれに抵抗するがイカの吸盤はそう簡単に外れるわけもなく、店員の手から見事な放物線を描きながら宙を舞った。
ありゃりゃ……そんなに嫌がる事ないのに……。
ベシャという情けない音と共にそのイカは路上で蠢いており、上げていた足だか手をそっと路面に横たえる。
「――すみません、それ買わせていただきます」
有希はそう言いながら財布を出すが、その背後ではパニックを起こしたように鮎美が何だのかんだのと悲鳴じみた声を上げている。
ヘンな所で余計な出費をしてしまったじゃないか……。
「まったく……」
朝市を後にする三人組、有希は頬を膨らませ、鮎美は申し訳なさそうにうなだれ、詩織はニコニコと微笑んでいる。
「だぁって……ピトって、イカの足が張り付いたんだよ? ほらぁここ、ここよ?」
鮎美は袖を捲り上げて細い腕を見せ、イカが張り付いたであろうそこを見せながら顔をあげるものの、それは有希のジトッとした目で追いやられる。
「まぁまぁ二人共、結局美味しいイカそうめんが食べられたんだから良しとしようよ」
鮎美の放り投げたイカは、その場で女性店員と思っていた女将さんがさばいてくれ、美味しいイカそうめんに姿を変えて、それを三人で突っついた。
「そうそう、本当に美味しかったよね? やっぱり新鮮だからよね?」
詩織の助け舟に、ホッとした表情を浮かべ鮎美は相槌を打つが、再び有希に睨まれると肩を落とし、その様子を見ていた詩織は苦笑いを浮かべている。
「それで有希ちゃん、この後の予定は?」
シュンとしている鮎美をチラッと見ながら詩織は有希の顔を見つめる。
まったく、昨日まであんなに敵意を見せていた相手にすがりつくなんて……まぁ、理由はどうであれ、この二人が仲良くしてくれるのは喜ばしく受け入ることにしよう。
「これからは、ちょっと交通手段を……よかったぁ、開いている」
再び函館駅構内に戻った三人組の目の前にあるのは『レンタサイクル』の文字。
「……自転車?」
鮎美と詩織は息を合わせたように声をそろえる。
「そっ! 函館の見所は徒歩圏に集中してあるけれど、ちょっと足を伸ばせば、もっと良い所があるんだ、な? 鮎美」
「ウン、そう……意外にこの街って郊外に良い所があったりするわ、史跡もいっぱいあるし、何よりも内地の人には知られていないビュースポットがあったりするわよ」
シュンとしていた鮎美の表情が、徐々に生き生きしはじめる。
ウン、やっぱり鮎美を連れてきて正解だったな、これなら良い函館観光が出来そうだ……。
パァ〜ラパパパララァ〜……。
自転車を借りながら話をしていると、コブシの利いた有希の携帯が鳴り響く、既に鮎美と詩織は慣れたような顔をしていたが、近くを通りかかった観光客は呆気に取られたように有希を見て、どこかのオジサンは『あぁあぁ〜』とその後の歌詞を歌い始める。
「おねぇちゃん渋いねぇ」
やっぱり代えた方が良いかな?
苦笑いのまま、そのコブシの利いた音楽を奏でる携帯をポケットから取り出すと、その携帯の液晶に浮かび上がっていた相手は拓海だった。
「ハイ……青葉です」
なんとなく後ろめたい気になり、二人に背を向けながら話し出す。
『有希か? 良かったぁ起きていたんだな?』
ちょっと慌てたような感じの拓海の声が携帯の向こうから聞こえてくる。
確か拓海は今日『お店』の早番だったはずだよな……。
有希は瞬時にバイトのシフト表を思い出す。
確か拓海は、朝七時からの早番だったはず、それに俺は明日だったはずだよな? なんでこんな時間に拓海から電話が掛かってくるのか理解できない。
「起きていたって……」
別に恥ずかしがる所ではないと自分ではわかっているんだけれど、つい鮎美や詩織と一緒という事を隠すように言葉尻を濁す。
『わりぃ、実は桂さんが風邪をひいたらしくって休みになっちゃってよ、店長と俺の二人で今フロアーをやっているんだけれど、団体が来て忙しくって手が回らないんだ、悪いんだけれどヘルプに入ってくれないか?』
拓海の背後からは、客が呼ぶチャイムの音が鳴り響いており、ざわめく店内では店長の悲鳴じみた声も聞こえてくる。
『ちょっとぉ〜、だれでも良いからぁ〜!』
店長がお姐言葉になっている……。
「そんな事を急に言われても……」
有希の様子を見ていた二人に視線を向けると鮎美の視線とかち合い、バツの悪そうにその顔を背けて再び声を潜める。
「……ちょっと今用事が……」
声を潜めながら言うその台詞に、拓海の落胆したようなため息が聞こえてきたかと思うと、普段ホールでは聞こえない人物の声が聞こえてくる。
『拓海、これはどこのテーブルだ?』
今の声……暁さん?
『それは……番……で……後、四……でオーダーを……』
いつものような雰囲気でない周囲の雑音に、有希はその異常さを感じ取る。
「拓海、何で暁さんが?」
くごもった声の後再び拓海の声が聞こえてくる。
『わりぃ、予定があるならいいんだ……』
ため息と共に諦めたような拓海の声が聞こえてくると思わず有希の声が荒がる。
「ちょっと待って! そんなに酷い状況なの?」
「いらっしゃいませぇ〜『グランマ』へようこそ! お客様は、お一人様でよかったでしょうかぁ? カウンター席にご案内いたしまぁ〜す」
お客で混みあっているグランマの店内に有希の元気な声が響き渡る。
「オーダー入ります、モーニングワンでぇ〜す」
「有希ちゃん悪いね、せっかく友達とお出かけだったのに」
厨房にオーダーを通す有希に、申し訳なさそうな顔をした店長が声をかけてくる。
「いいえ、あの二人も朝食まだだって言っていたし、ちょうど良かったんじゃないですか?」
拓海のおごりでモーニングという事で二人とはさっき話がついた……拓海は泣き出しそうな顔をしていたけれど……恨むのなら先輩を恨んでくれよな?
「そういってもらえると助かるわよ、もうすぐすればお客も減ってくると思うし、次のバイトも早めに来てくれるって言っているから、来たらすぐに交替してちょうだいね?」
再び忙しそうに店長はモーニングセットの乗ったプレートを持ってお客の元の向かって行き、それと入れ替わりに拓海が入ってくる。
「何で、お前が詩織と一緒なんだよ……」
「何でって、別になんでもないよ? 観光案内を頼まれたから付き合っているだけ、だから鮎美も一緒なんじゃないか?」
憮然とした顔をしている拓海がチラッと鮎美と詩織の座っているテーブルに視線を向けると、そこでは楽しそうに談笑している姿が見え、有希のニッコリと微笑みながらはぐらかす様な答え方に拓海は納得がいかないような顔をして、厨房に取ってきたオーダーを通す。
「本当かなぁ……」
忙しそうにコーヒーを沸かしている有希の後姿に、拓海は首をかしげながら呟く。
「有希ちゃん、モーニングあがったよ!」
厨房でホッとしたような顔をしている暁が、有希に湯気をたたえたプレートを差し出すと有希はニッコリと微笑んでそれを手に取る。
「はぁ〜ぃ」
有希は着慣れている制服のフリフリスカートを翻しながらホールに飛び出してゆく。
「正直いって助かったな?」
配膳台から顔を出す暁は拓海にそう言うが、対する拓海は憮然とした顔をしてホールを飛び回っている有希の事を見る。
「俺的には今日の給料が削られるというのがキツいんですけれどね? ネネ暁さん、チョコッと伝票改ざんしても良いですか?」
「それはダメ」
きっぱりと暁にダメ出しされた拓海は、力が抜けたように頭を垂れる。
「お待たせいたしましたぁ〜、モーニングプレートにブレンドでぇす」
ニッコリと営業用スマイルを向ける有希に対して、鮎美はちょっと頬を赤く染め、詩織においてはキョトンという表情を通り越し、呆然としているように見える。
「エッと……有希ちゃん?」
詩織は、いま目の前の事が理解できないといったような表情を浮かべながら、無遠慮に有希の姿を頭の先からつま先まで見ると、折り返して再び有希の顔までジンワリと上がってくる。
「なに?」
小首をかしげる有希に、詩織の顔が赤く反応する。
「ちょっと、そんな可愛い格好でいつもバイトしているの?」
メイドチックなその制服に頬を赤らめたまま詩織は有希の顔を一点に見つめている。
「エヘへ、そうだよ、可愛いでしょ?」
フリフリスカートの裾を、ちょんとつまみ上げてペコリと頭を下げる有希の姿に、周囲にいた男性客からため息が洩れる。
「可愛いって……」
詩織はため息をつきながら有希がつまみあげているそのスカートの裾についているフリルを触ると、再び有希の顔を見上げる。
「このお店の制服は可愛いんで有名なんですよ、それに……」
鮎美は周囲を見渡すと、心なしか客……特に男性客の視線が有希に向いているようにも見える、いや事実向いている。
「でしょうね? これならあたしもファンになってしまいそうよ……」
詩織はため息交じりに頬に赤みを残しながら有希の顔を見上げる。
「はぁ……なんとなく女として敗北を感じるわ」
詩織のその呟きは、周囲の雑踏にかき消され、誰に届く事無くそれの意味がわかっているのは詩織本人だけが苦笑いを浮かべる。
「ん? 何か?」
有希は忙しそうに他のテーブルに移り、うつむいている詩織の目の前にいる鮎美が怪訝な顔をして見つめている。
「ううん、なんでもない……やっぱり良い街よね? この街……本当に好きになっちゃった」
ニッコリと微笑む詩織に対し、鮎美は満足そうにうなずく。
「ハイ、また機会があったら遊びに来てください、今度拓海君が車の免許取るっていっていましたから、その時はもう少し足を伸ばして案内できると思いますので」