第二十四話 お・も・い
=ゴカイ=
「ここは?」
グランマでのバイトを終えて、再び三人で自転車を走らせ、お店にも近い海岸沿いにある小さな公園に乗りつける。
「ここは『啄木小公園』といって、石川啄木がこの函館に住んでいた時こよなく愛した場所らしいの、かつては、ハマナスが咲き乱れた砂山と、このゆるやかに孤を描いた大森浜を、ここから眺めていたらしいわね?」
鮎美は海からの風に、少し首をすくめながら詩織に説明する。
季節の終わった浜辺には犬を散歩させる人ぐらいしかおらず、海から吹いてくる風も冷たいが、ちょうど正面に函館山が見え、そのバックには綺麗な青空が広がっている。
「わかる気がするよね? この景色はボクも大好きだよ……」
穏やかな表情をしながら、有希はそのきらめく水面を眺めると、薄く本州の陰が見える。
思いもしない事でこの北の街に来たけれど、今ではそんな意地悪をしてくれた神様に感謝している、気のいい仲間のいるこの街は今では大好きだ。
〈そっか……良かった〉
有希の意識も海を眺めているのか、優しい気持ちが伝わってくる。
良かったって?
〈だって、詩織さんがいて、また東京に戻りたくなっちゃったかと思った〉
ハハ、確かにそうだね? 正直に言うと再会した時は東京に戻りたい気持ちになっていた、詩織がボクのことを勇気と分かってくれてからその気持ちは強くなったよ、でもね……。
〈でも?〉
ボクはこの街に生まれ育った『青葉有希』なんだ、そして『広川勇気』はこの世にもう存在しないそれだけなんだ、仮に東京に行ってもそれは変わる事がない。
〈……それだけ?〉
わからないよ……後はこれからの時間がどうにかしてくれるでしょ?
〈そうかもね……でも、あたしの身体にあなたが来てくれてよかったって思えるように最近なってきたわ……ありがと〉
有希の意識はそう言いながら、スゥーっと消えてゆく。
どういたしまして、それに、そのお礼は俺の方が言いたいよ。こんな仲間と付き合っている有希と出会えた事が何よりも嬉しい。
『潮かをる、北の浜辺の、砂山の、かの浜薔薇(ハマナス)よ、今年も咲けるや』
鮎美が国道沿いにある啄木の座像に彫られている詩を読み上げる。
「どういう意味なの?」
詩織は首をかしげながら鮎美を見るが、その鮎美も意味までは良く知らないらしく、照れ笑いを浮かべながら首をかしげている。
「――この詩は、啄木が東京に戻ってから書いた詩なんだ。啄木の散歩コースだったこの大森浜には砂丘があり、その砂丘のことを当時は砂山と呼んでいた。その砂山にはハマナスの赤い花が潮風にそよいでいたらしい。啄木は二十七年間という短い人生の中で、函館にいたわずか四ヶ月間という期間が、人生の中で最良の時だったと語っており、亡くなる直前には周囲の人間に『死ぬ時は函館で死にたい』とまで言うほどこの街を愛していたみたい、それで『立待岬』の近くに、この大森浜を見下ろすように『啄木一族の墓』があるんだよ」
潮騒が耳に優しく響き渡る……いつ以来だろう、こんなにゆっくりと海を眺めているのは、なんだか、何となくわだかまりが解けてゆくようなそんな気がする。
「有希、あなたは……あなたは」
どこか思い込んだような顔をしている鮎美が、有希の顔を覗き込みながら何かを言おうとすると、それを遮るように詩織が声をかけてくる。
「今日はありがとう……きっと東京に帰ってもこの景色は忘れないと思う、そうしてこの景色を一緒に見た人たちの事も忘れる事は無い……大好きな人と一緒に見る事ができたこの景色なんだから……本当に……ありがとう勇気」
詩織のその一言に鮎美の顔が強張り、慌てたように有希の顔を見つめるが、その視線の先にいる有希の表情は優しく微笑んでいた。
「し……詩織さん……有希の事を……勇気の事を……知っている?」
二人のその雰囲気を鮎美は唖然と見守っているが、短めのスカートから伸びたその膝は、だれから見ても震えているのがわかるほどだ。
「ウン、昨日の夜確信しちゃった、だってあたしの大好きだった人の癖だよ? その人の癖を忘れるわけがないじゃない……」
――だった人?
詩織の台詞に違和感を覚えた有希は、隣のその顔を見ると昨日よりもさらに落着いたようなそんな顔をして鮎美を見つめていた。
「でも……でも……」
「勇気……有希ちゃんを説得してくれた?」
その一言に鮎美の震えていた足がピタリと止まり、今度はカーディガンを羽織った小さな肩が跳ね上がるようなまでに過敏なまでに反応する。
「いやだ…………まさか、有希……そんなの……」
力なく首を横に振る鮎美、その瞳には涙が浮かび、耐え切れなかったその雫はいくつかの筋になって頬を伝わっている。
「ちょ、ちょっと鮎美……」
「……鮎美ちゃん?」
その様子に有希と詩織も困惑した表情を浮かべ、二人が声をかけて手を伸ばすと鮎美の手がそれを拒むように払いのける。
「嫌だから……そんなの絶対にいやぁーっ!」
鮎美はそう叫びながら一目散に自転車に跨ると一気に走り出す。
「ちょっと、待てよ! 鮎美!」
有希も慌てて近くの自転車に跨り鮎美の追跡を始める。
「ちょっと鮎美!」
幹線道路である漁火通りには車通りも多く、歩行者こそまだ少ないものの、今の状態はかなり危険である事だけは間違いない。
五メートルぐらい前を鮎美の自転車が走り、視界には入っていないがちょっと離れた後方には詩織が着いて来ている事が雰囲気でわかる、何とかこの間隔を縮めないと危ないし、止めて真実を話さなければ。
有希の足に力がこもり背後にあった詩織の気配が遠のいてゆくと、鮎美の背中が徐々に大きくなってくる。
よし、もう少し……って、ウソだろ?
右手からは勢いよく走ってくる車、どう見ても一時停止をしそうに見えない、そうして有希の脳内ではじき出されたタイミングではちょうど鮎美と出会い頭にぶつかる。
ヤバい!
「鮎美! 止まれ! 車だ!」
叫ぶと同時に有希の足の力は、今までのそれ以上の威力を発揮させてペダルをこぐ。
有希頼む、力を……俺に男時代の力を一瞬でいいから戻してくれ!
「ウォ~~~~ォッ!」
サドルから腰を浮かせ、チェーンが引きちぎれそうなほどの力でこぐと、見る見るうちに鮎美の背中が大きくなり、もう一息で掴める位置まで来たが、その瞬間、
キキィ~ッ!
タイヤの軋む音と同時にゴムの焦げる匂いと、遠く背後から詩織の悲鳴が聞こえてくる。
周囲の動きが一気にスローモーションになる、異常なほどに様々な動きが良く見える。
「どぉりゃぁぁぁぁ~~~~っ!」
有希はその瞬間自転車のハンドルから手を離し、鮎美をかばうように抱きしめ、力の限りにその身体を持ち上げるが、同時に右足に激しい痛みがはしる。
「有希! 有希ぃ!」
次の瞬間見えたのは涙を流す鮎美の姿……どうやら怪我はないようだ……よかっ……た。
=ゆきとゆうき=
「あれ?」
次に気がついたのはベッドに横たわっている有希の姿、細いふくらはぎや、二の腕には痛々しく包帯が巻かれている、そうして……。
この感覚……宙に浮いているようなこの視線はあの時と同じ……。
「――まさか、一年に二度も……」
ようやく思い出した、この事を臨死体験というのだろう、自分の魂が抜けて、目の前に自分が横たわっている姿を見るという事を、しかし……。
「まだ死んでいないわよ」
不意に声が聞こえる方を見ると、そこには見慣れた有希の姿が漂っていた。
「有希、お前、元に戻れたのか?」
今朝自分で着替えたのと同じ服装をしている有希の姿を目前にしながら勇気は声をかけると、その有希は苦笑いを浮かべながら、こちらの顔を覗き込んでくる。
そういえば、声もいつものような女声じゃない太い声は、どこか懐かしさを感じるけれど、なんとなく違和感があるなぁ。
「勇気だって元に戻ったのかな? あなたのその姿をやっと見ることが出来たよ」
ニッコリと微笑む有希の一言に、勇気は自分の姿を見るようにキョロキョロして、見える範囲にあるパーツは、どこか懐かしい男の自分の姿。
「俺……元に戻った? という事は……」
そう、もうこの姿はこの世に存在しない、という事は……。
「そっか、とうとう死んじゃったのか?」
勇気のその台詞に、有希は少し寂しそうな顔をしながらため息をつく。
「違うと思う……だって、あの肉体は生きているもの」
有希の指差すその身体は、微弱ながらもその胸元が小さく上下に動いている。
「でも……」
そう、あの身体に入り込んでいた二人の意識は今ここに浮かんでいるわけだ、という事はあの身体の中は今無人……いや、もぬけの殻といっても良いだろう。
「そうね? あの中は、今は無人……だけれどこの状態という事は、どちらかがあの中に戻る事が出来るという事なのかもしれない」
有希の表情は、真剣にその自分の姿を見つめている。
あの身体に戻れば、俺は、形はどうであれこの世に残る事ができる、しかし……。
「……有希、お前が元にもどれよ……」
勇気のその一言に、有希は驚いた表情で顔をあげ、勇気の顔を見つめているが、勇気は穏やかな顔をして有希の事を見つめていた。
「だって! そうしたら、勇気は……」
今にも泣き出しそうな顔をしながら有希は勇気の顔を見つめる。
「だってよ……あの身体は元々有希のものだ……そもそも俺に、女の子をやるというのには無理があったんだ、ここは収まる所に収まるというところだろう、それに、あの身体を借りていたのは俺の方なんだ、という事は有希が戻って当たり前なんだろ?」
あれ? 俺はなんだってこんなに切ない気持ちになるんだろう、身体の持ち主が元に戻るだけなのに……そう、そうして、俺はこのややっこしい状況から解放されるわけだ、ホッとするはずじゃないのか?
勇気はなんとなく歯切れ悪くベッドに横たわっている有希の身体を見つめる。
「そんな事はないよ……」
そう言ったかと思うと、周囲の景色が暗い廊下に変わり、そこには一人の少女が自分のひざをぎゅっと握り締める姿が見えてくる。
よかった、鮎美は大した怪我はしていないようだな?
長椅子に座る鮎美は左腕に包帯を、ひざにはちょっと大きめの絆創膏が張られている以外に大きな怪我はしていないようだ。
「有希……有希……いやだからね……絶対にいやなんだから……」
鮎美は念仏を唱えるように呟き、唇を真っ白になるくらいの力でかみ締め、その隣では真澄が元気付けるように鮎美の肩を叩いているが、その顔も蒼白になっており心配しているという様子が手に取るようにわかる。
「鮎美……真澄ちゃん……」
勇気はその様子を見た瞬間、胸の奥にある何かが、まるで何かにギュッと鷲づかみされたような感覚に陥り、何かがこみ上げてくるような感情にとらわれる。
「それがあなたの気持ち何じゃないの?」
「俺の……気持ち?」
「あなたには、なんであの時に鮎美がいきなり駆け出したかわかる? きっとそれが鮎美の正直な気持ちなんだと思うな?」
勇気を諭すように有希は言葉を続ける。
「あの時鮎美はきっと、有希……ウウン、有希の中にあるあなたの気持ちが、詩織さんに向いてしまったんだと勘違いしたと思う、そう、それは有希に対する憧れでもなんでもない、勇気に対する気持ち……恐らく『好き』だと思うよ」
鮎美が、俺の事を好き?
勇気は首をかしげ有希の顔を見るが、その顔は穏やかに微笑んでいる。
「それに、あなたが今感じている気持ちも、同じじゃないかな?」
俺の気持ちも同じ……でも。
「でも、俺にはもう戻るところが……ない……」
その台詞を吐くと、胸の奥の疼きがさらに強くなる。
そう、俺の心の奥にある鮎美に対する気持ちは『好き』だと思う、でもその鮎美ともここでお別れになってしまう……詩織だけではなく鮎美まで失ってしまう事になってしまう。
「あるじゃない、あなたには勿体無いようなとびっきりの身体が」
有希はケラケラと笑いながら勇気の顔を覗き込んでくる。
「でも、そうしたら……有希は……お前はどうするんだ、一生このままになってしまうのかもしれないんだぞ? 今がチャンスじゃないか、きっと神様も間違いに気が付いてこういう場面を作ってくれたんだと思う、戻るのは有希だけで十分じゃないか」
そうだ、その身体は、あるべきところに戻るべきだ。
「ウウン、それは違うよ……」
有希はそっと勇気の頬に手を添える。
「もう、あたしの思い出だけじゃなくなっていると思う、きっとあの身体は……鮎美をはじめ、ミーナも都も、拓海も、みんなあなたとの思い出が出来上がっているはず……そう、有希の中にいる勇気と言う存在がいる事が、一つの思い出として出来上がっているの」
有希の中の勇気……思い出。
その瞬間、鮎美の言った一言が勇気の頭の中に思い出される。
『いいじゃない、思い出なんてこれから作っていけば、有希はちょっと男っぽくなっちゃったということで、今までの思い出と一緒にこれから作っちゃえば良いよ』
「――鮎美」
ケラケラと笑っている鮎美の姿が脳裏に浮かび上がってきて、それを思い出した瞬間に勇気の目頭が不意に熱くなる。
「それに……」
有希が正面から見つめてくる、その瞳には光るものが湛えられている。
「もし、あなたが戻ってくれないと……あなた……勇気はこの世から無くなってしまう、そんなのあたしは嫌……どんな形であれ、あなたには生きていてもらいたい」
有希……。
有希の瞳からは堪えきれなくなったものが溢れ出して頬を伝う。
「有希……その……」
勇気はその涙に動揺するが、次の瞬間には有希は涙を流しながらも、ニッコリといつものように微笑む。その表情はまるで落着き、全ての信頼を勇気に委ねたかのような穏やかのもの。
「だから……だから……あたしと一緒に生きようよ、辛いかもしれないけれど、あたしも手伝うから、だから、あたしと一緒に生きようよ……ね?」
有希はギュッと勇気の手を握る。
「本当に俺なんかで……いいのか?」
勇気はそう言いながら有希の顔を見つめると、有希は言葉無くうなずく。
「……俺、女に慣れていないから、何するかわからないぞ?」
再び有希はうなずく。
「……ネコミミつけられちゃうかもしれないよ?」
「……それはひかえて貰いたいかも……」
苦笑いを浮かべる有希に、勇気は微笑み返す。
「……俺、えっちだよ?」
「それはよく知っている!」
……即答ですか?
「ちょっとは考えてもらえると嬉しいんですけれど」
勇気は口を尖らせながら有希を見ると、有希は目尻の涙を小指で拭いながら、穏やかな顔で勇気にその顔を近づける。
「ウフ……勇気は、ス・ケ・べ、だよ?」
有希はその指を勇気の鼻先に突きつけながら口を横にニィッと開く。
「……そんなストレートに言わなくっても良いじゃないか、ちょっと寂しいよ」
トホホといった表情を浮かべている勇気に意地悪い笑顔を浮かべている有希。
「だって、本当に勇気はスケベだよ……でも……ボクだけにスケベだったら許せるかな? ボクだって、鮎美に負けないぐらい……」
有希はそう言いながら勇気に背を向ける。
「ん? どうした?」
勇気がその表情を見ようと前に回り込もうとすると、有希は急に身体を振り向かせる。
「エヘヘ、ボクだって女の子なんだぞ?」
有希がそう言いながら勇気に抱きつき、お互いの顔が接近し、お互いの息吹を感じる所が優しく、しかし、しっかりと重なり合ったと思うと、その瞬間に二人の身体が光に包まれる。
「鮎美にも負けないくらいに……あなたの事が…………」
なんだか気持ちのいい光……まるで、昔に戻ったようだ、愛しい人の包まれているような、そんな感じがする……そうだ、昔お袋に抱かれていたようなそんな感じだ。
「……勇気の事が……好き……」
優しく包み込まれている光の奥から、有希のそんな言葉が耳に聞こえてきたような気がする。
「有希…………俺もだよ……」
光の向こうからは、穏やかな有希の気持ちが流れてきたような気がするが、周囲の景色はめまぐるしく動き、その感覚に勇気の器官が追いついていかなくなる。
「うっ……ううん……」
またあの時の感覚だ……脳の信号をまるで無視するような身体……まるで、五体が悲鳴をあげている様なそんな感覚……。
「――――き? ねぇ、有希、目を覚ましてよぉ、お願いだからぁ」
耳元で聞こえてくる声は涙でかすんでいるようで、その声に今度は胸が痛む。
目を……目を開けなければ……そうじゃないとずっとこの娘は悲しんでしまう……心配しちゃうんだよ、おせっかい焼きだから。
ゆっくりとまぶたを開けるように脳から信号を送ると、ぼやけながらも徐々にその視界が広がってゆき、そこにはポニーテールの髪の毛が見える。
「……あ……、鮎美?」
フワッと匂うシャンプーの香りに、有希の意識が徐々に覚醒してゆき、やっとの思いで開いた視界に入ってきたのは、涙や様々なもので顔をグシャグシャに濡らしている鮎美の顔が、その視界いっぱいに広がる。
「気がついた? 有希……わぁ~ん、有希ぃ~! よがっだよぉ~~~~」
鮎美は叫ぶように言いながら、有希の胸元をギュッと握り締めながら泣き続ける。
どうやら俺は有希の身体に戻ってきたようだな? ヘヘ、そんなに離れていたわけじゃないのに、なんとなく懐かしさを感じるよ……もしかしたら前の勇気よりも居心地がいいのかもしれないな? これも、運命というのか。
身体にすがりつく鮎美の背中を有希はそっと抱きしめ、目の前で揺れている鮎美のポニーテールをジッと見つめる。
「――鮎美ぃ」
有希の一言に慌てて体を離す鮎美の目は真っ赤に充血して、まぶたも赤く腫れ上がっている。
「ゴメンどこか痛かった? あたし思わず……」
申し訳無さそうな顔をする鮎美は、有希に巻かれている包帯をキョロキョロと見回して、心配そうにそこをさすったりしている。
「鮎美ぃ……」
有希が真剣な顔をして見ている事に気が付いたのか、鮎美は少し頬を赤らめて、視線を色々な所に飛ばしている。
「――ひでぇ顔しているぞ? お前……」
その一言に鮎美はハッとしたような顔をしていたが、やがてふぐと同じようの頬を力一杯に膨らませて、病室を出て行く……有希のギブスを叩いてから……。
「いてぇ……はは、これが最良の答えなんだよな? きっと……」
そんな呟きに、もう一人の有希が微笑んだような気がする。
=またね?=
「しかし……有希ちゃんって、結構おてんばなのね?」
病室では、見知った看護師が有希の顔を見ながら苦笑いを浮かべる。
「アハ……そんなことないですよぉ~」
目の前ではプリッとしたお尻が、左右に振られ、ベビーフェイスなその顔には不釣合いな豊かな胸は、たまに有希の頬に柔らかく触れる。
たはは……。
「なに目尻をたらしているのかな?」
見舞いに来てくれている鮎美は、そんな有希に不機嫌そうな顔を遠慮なく向ける。
「有希ちゃん、気が付いたって?」
看護師と入れ替わりに病室に入ってきたのは、あの制服を身にまとった詩織だった。
「詩織……」
大きな荷物を持っているところを見ると既に帰り支度なのであろう、ベッドに横になっている有希の姿を見てホッとしたような、心配そうな不思議な表情を浮かべ、詩織はその大きなボストンバックを無造作に床に置く。
「よかったぁ……昨日はずっと意識が戻らないっていわれたから……よかった、本当によかったよぉ~、これで、もしも有希ちゃんにまでなんかあったら……」
詩織はそう言いながら涙を浮かべ、有希の事を見つめている。
「ゴメン、心配かけて……」
「ウウン……謝るのはこっちの方よね?」
詩織はそう言いながら二人に顔を向けると、コホンと一つ咳払いをする。
「有希ちゃん、ゴメンね? あなたを困らせたかった訳じゃないの、ただ……勇気の記憶を持っている人がいると言う事で、あたし浮かれちゃったのかもしれない……だからゴメン」
「詩織……」
「それに鮎美ちゃん、あなたも困らせちゃったよね? 大丈夫、今あたしの目の前にいるのは勇気じゃない……有希ちゃんなの、だから……」
「詩織さん……」
病室の中に重苦しい雰囲気が流れる。
「だから、バイバイ」
詩織はそう言いながらニッコリと微笑むが、その瞳からは涙が零れて頬を濡らしていた。
「詩織さん!」
詩織が床に置かれた大きな荷物に手をかけた瞬間、鮎美がその背中に声をかける。
「?」
ボストンバッグを肩から担ぎながら、詩織は鮎美を見て首をかしげる。
「バイバイじゃないですよ? また遊びに来てください……函館はまだまだいい所が目白押しです、一回だけじゃあこの街の良さはわかりませんよ……それに、あたしや有希……それに勇気君にも会いに来てください、勇気君の事を知っているのはここでは詩織さんだけなんですから、今度は勇気君の事をゆっくりと教えてください」
鮎美はそう言いながら、驚いた表情を浮かべている詩織に向け右手を出す。
「鮎美ちゃん……ウフ、そうね? 函館に新しい友達ができたんだもの、何回も来るわよ」
詩織の顔が一気に意地の悪い表情に変わる。
「有希ちゃんの心もゲットしたくなってきたし……」
「あぁ~! そ、それはダメです」
慌てたように鮎美は詩織と有希の視線の間にその身体を強引に割り込ませると、鮎美の背後にいる有希は苦笑いを浮かべる。
ハハ、やっぱりややこしくなってきたかな?
「今日、帰るんだったよな?」
苦笑いを浮かべて鮎美の背後から有希が詩織に向けて声をかける。
「うん、お昼の便だから、あまりゆっくりできないし……でも最後に話ができてよかった」
そう言う詩織の表情は穏やかで、口には笑みが浮んでいる。
「見送りに行けなくって申し訳ないな、春休みには来るといいよ、その頃には拓海も車の免許を取っているだろうから、足代わりにしよう」
有希のその台詞に、詩織はちょっと考えるようなそぶりを見せ、再び大きなボストンバッグを足元に置くと、有希の耳に口を近づける。
「――知っている? 拓海が好きだったのは……勇気なんだよ?」
その一言に有希は唖然とした表情を浮かべる。
「あたしの事を好きだと見せたのは建前……一度呼び出された時に告白されたのは、その事だったの『俺は勇気の事が好きみたいだ』って、みんなあなたの事を取るんだからちょっと女としてはショックだったわよ?」
詩織はそう言いながら有希の鼻先を指でつっつく。
「だって……その頃のボクは男だぞ?」
目を白黒というよりも、いま詩織に言われた事項が処理できないように視線をキョロキョロと忙しなく動かしている有希。
「だからよ、そんな事は小説やドラマの中だけの事だけだと思っていた、同性を愛する事ができるなんてちょっと不思議だったよ。だけれど……今になっては、ちょっとわかったような気もするかな? 拓海の気持ちが……」
意味深な笑顔を浮かべて詩織はバストンバックを再び担ぐ。
「ちょ……詩織、どういう意味だよ」
有希は慌てて起き上がろうとするが、やはり身体が思うように動かす事ができず、ただベッドの上でのたうち回っていると、慌てて鮎美が介護してくれる。その様子を見ていた詩織は舌をペロッと出すと二人に対してウィンクする。
「ウフ、そのうち有希ちゃんたちにもわかるんじゃないかな? あぁ~っ! いけないもうこんな時間、じゃあまたね? お二人さん」
詩織は腕時計を見るなり慌てた様子で病室から飛び出していった。
「また……」
その様子を呆気に取られたような表情で見ていた二人は思わず口をそろえる。
「「……なんだか慌しいなぁ……」」
有希がため息をつきながら詩織の消えた病室の扉を見つめていると、隣でも鮎美がそれに同意するようにため息をつく。
「ホント……誰かに似ているような気がするけれど……」
「あぁ、確かに……あっ!」
二人の視線が交わると、どちらとでもなく微笑が浮かぶ。
「真澄ちゃんだぁ」
そうだ、あの慌しさは、お袋……真澄ちゃんの慌しさに似ている。
「ウン、真澄さんに似ていると思った……あは、ホントに似ているかも……」
鮎美はそう言いながら有希が横になっているベッドサイドに腰を下ろす。
「……ねぇ、有希」
鮎美はベッドサイドに置かれている無粋なパイプ椅子に視線を向けながら、まるで呟くように声を発する。
「今度、あたしを東京に連れて行ってね? その時は有希が観光案内する番だよ?」
鮎美のその申し出に、有希は優しく首を縦に振る。
「あぁ、とびっきりの東京観光を君にプレゼントするよ」
ニコッと微笑む有希に鮎美も満面の笑みを膨らませる。