第六話 学園らいふ



=Teacher郁美=

「おはよぉ〜」

有希と同じセーラー服を着ている都が気軽に声をかけてき、その隣には見覚えのあるブレザーを着たミーナがニッコリと微笑みながら立っている。校門に向かうその坂道には有希やミーナと同じ制服を着た生徒たちが道を占拠したように歩いている。

 いよいよこの中の一員となるんだ……女として。

 周りの学生集団を眺めつつ、有希はちょっと緊張した面持ちになる。

〈緊張している?〉

 意地の悪い有希の意識が勇気をくすぐる。

 当たり前だろ? 転校ならまだしも見知らぬ学校に今までいたような面下げていなければいけないんだ、おまけに性別まで変わっているし、緊張しない方がおかしいぜ?

〈意外に照れ屋さんなのかな? 勇気は〉

 照れ屋という以前のような気がするけれど……って意外って何だよ、こう見えても結構人見知りする方だぜ?

〈アハハ、本当に意外だよ……でも大丈夫だよ、あたしもある程度のフォローぐらいはしてあげるから、そんなに緊張する事ないよ〉

 フォローで済めばいいけれど……。

〈鮎美だっているから大丈夫よ〉

 有希の意識は楽しむように消えてゆき、それに促されるように有希の視線が隣を歩く鮎美の顔に向くと、いつから見ていたのか、鮎美のその視線とばっちりと合う。

「おっ?」

 鮎美は慌てたようにその視線を外し、正面を見据えるがポニーテールにしてあらわになっているその耳は赤くなっている。

「なっ、何よ?」

 いや、それは俺の台詞だから……。

「――緊張しているかなって思って……」

 鮎美は正面を見ながら呟くようにいう、その横顔は同情しているような鮎美もまた緊張しているようなそんな様子。

 鮎美も気を使ってくれているんだ……。

 そんな鮎美の横顔を見つめる有希の視線が再び顔を上げた鮎美の視線と交わる。

「ん? どうかしたの?」

 微笑み浮かべている有希の顔を、怪訝な顔をして鮎美が覗き込んでくるが、その表情にも少し照れたような色も見える。

「ううん、なんでもないよ、鮎美これからもよろしくね?」

 ニッコリと微笑みながら有希は鮎美の顔を見つめる。その視線の先にいた鮎美はちょっと頬を赤らめているようだ。

「あら? あたしたちは?」

 ツインテールにした金髪をたなびかせながらミーナが意地悪い顔をして覗き込み、その隣で都もコクコクと首を上下させている。

「あは、ミーナも都もよろしくね?」

 有希がミーナと都に対して微笑みを向けると、その隣ではちょっとつまらなそうに鮎美が口を尖らせている。

「青葉さん、元気になったのね?」

 ん? 気のせいか今足元から声がしたような……。

 有希はそう思いながら視線を落とすと、そこには小学生ぐらいの女の子がにこやかに微笑みながら有希の顔を見上げている。

「へ?」

 有希は首を傾けながら、その幼子の事を見下ろす。有希も決して背の高い方ではないが、その有希よりもさらに低い位置にあるその頭にはカチューシャが装着され、可愛らしいその顔と相まって愛らしさを醸し出している。

「ウフ、元気そうで良かった」

 ニッコリと微笑むその笑顔にはなんだか癒されるな? しかしこんな所に小学生がいるというのはあまり感心できない。

「えっと……学校はどうしたのかな?」

 有希はその娘の視線まで腰を下ろし、極力優しい口調で問いかけながらニッコリと微笑み返すと、その愛らしい顔の一部がヒクッと脈動する。

「ちょ、ちょっと有希、その人は……」

 背後で鮎美が慌てたように言うが、既に時遅し、有希は優しくその娘の頭を撫でる。

「……青葉さん、あまり先生をからかうのはいい趣味じゃあありませんね?」

 その幼子の顔からは笑みが消え、口がヘの字にゆがみ、その口の端には八重歯が牙のように見え隠れしている。

「せんせ? って、もしかして教員ということ?」

 有希は頭の上に載せた手をそのままに、無遠慮にその容姿を見る。

 確かによく見れば小学生にしてはちゃんとした格好をしているし、どこに売っているのかその小さな足にはパンプスが履かれ、小学生の必須アイテムであるランドセルを背負っていないし、その代わりにファイルケースを抱えるように持っているものの、相対的に見るとやはり幼く見えるのはそのメリハリの無いボディーラインのせいなのか?

「ヴゥ〜〜〜〜〜〜」

 への字にしたその口からはうなり声が聞こえてくるが、有希はまだ納得がいかないようにその姿を見つめている。

 エッと、先生って言うことは、俺よりも年上って言うことだよな? 俺より年上ということは、大人って言うことであって、ゆえに、今この目の前にいる娘はそれをどれ一つとしてクリアーしていないじゃないか?

 首をしきりに傾げる有希に対して、諦め顔の鮎美はその顔を手で覆っている。

「そうよ、鹿島郁美先生……一年生の時の担任で、漫画研究会の顧問」

 鮎美のその一言に有希は慌てて手を下ろすが、郁美の表情が晴れることはなく、への字だったその口は徐々に歪んでゆく。

 やばい、泣かれる。

 直感でそう思った有希は反射的にその先生を小脇に抱き上げ、周囲の視線など気にした様子も見せずに校舎の影に駆け込む。

「ゴメン! 俺が悪かった……だから泣かないでくれ、なっ? 帰りに何か買ってあげるからね? だから泣かないでくれよぉ〜」

 無意識に幼子をあやすように言う有希を見るその大きな瞳からは涙がコンコンと湧き出しており、その表情に有希の心は得もいえない罪悪感に駆られる。

「だぁってぇ、青葉さんってばぁ……ふみぃ〜ムグゥ……」

 泣き出す郁美の口を思わず手で覆うとその小さな手足がジタバタと動かされる。

 なんだかものすごく悪いことをしているような気になってきたよ……頼むから誰か助けてくれ、犯罪者になった気分だぁ。

「ちょっと有希、郁美先生!」

 慌てて有希たちを探しにきた鮎美は、ちょっと息を切らせながらその様子を見てハッとしたような顔をする。

 やっぱりそういう誤解を招く行為だよな? 人さらいか、幼女をいたずら目的に連れ込んでいるというロリコンの図だろうか?

「鮎美ぃ、頼むから助けてくれよ、俺、ものすごい悪人になった気がして仕方が無いんだ」

 懇願するような表情で鮎美を見る有希に対し、鮎美はハァとため息を吐きながら苦笑いを浮かべる。

「ハハ、そうでしょうね? 郁美先生の必殺技だもん……その涙に耐える事が出来るのはよほどの悪人じゃないかしらね? にしても有希、言葉遣い!」

 キッと鮎美に指摘されて有希は慌てたように口をムニュムニュと動かし、モードを切り替えを図る。

 いけね、慌てていたもんだからつい……。

「ふみぃ〜〜〜〜……って、青葉さん、あなた今自分の事を『俺』って言わなかった?」

 ――ウソ泣きかい!

 突然思い出したように泣き止み、有希の顔をキョトンとした表情で見上げる郁美、その表情はやっぱり幼子のようだが、眼力はやはり大人なのであろう、全てを見透かしたように真っ直ぐに有希の顔を見つめ、その勢いに有希のこめかみにうっすらと汗が滲む。

「えっと……言いました?」

 ごまかすように微笑みながら有希は言うものの、隣にいる鮎美は呆れたように両手を広げ、郁美の表情はどんどん怒ったようなものに変わってゆく。

「エェ、言いました! あたしの耳は節穴じゃあありません、あなたが『俺』と言ったのを、あたしはちゃぁ〜んと聞きました!」

 今この先生に擬音をつけるとしたら、絶対に『ぷんぷん!』であろう、そんな勢いで怒っているようだが、有希にしてみれば、まったくと言っていいほど怖くない。

「エェ〜? ボクそんな事言ったかしら……」

 しらを切るようにそう言いながら、助けを請うように鮎美の事を見るが、鮎美は既に諦め顔を浮かべている。

「言いました! それに、そのわざとらしい『ボク』って何ですか? 今まであなたは『あたし』って言っていましたよ? ハッ、まさか、入院というのは嘘で、その事実はあなたをCIAが連れ去って人体実験しちゃったとか、宇宙人に連れ去られて、いろいろなことをされた挙句に、脳みそが他人と入れ変わっちゃったとか、宇宙人の人格が入っちゃったとか……」

 郁美の話は徐々に世界的な事から宇宙的な所まで話が飛んでいっている。

 うーむ、一部は合っている様な気がするけれども、それにしても話が飛躍しすぎるよぉ……。

 有希は苦笑いを浮かべるだけしか郁美の話についていける方法が無かったが、その話はどんどんと違った方向に進んでいくような気がする。

「宇宙船が目の前に現れて、それと衝突した挙句、性別をその宇宙人が間違えちゃって女の子になっちゃったとか」

 以前読んだ小説の設定にそんなのがあったような気がするし、確か有希は元々女の子だった筈だ、まぁ、そんな事はどうでもいい、話が徐々に現実から一気に離れていってしまう、誰かこの先生の暴走を止めてくれぇ〜。

「それともこんな設定はどうかな……」

 設定って……。

 郁美の表情はそれまでの怪訝なものから、何かを楽しんでいるような恍惚の表情に変わってゆく。その表情に有希と鮎美の二人は反論する事もできずに、ただそれが早く収まる事を祈りつつうなだれているしかできなかった。



「――と言う事なんです……分かってもらえますでしょうか?」

 ようやくこっちの世界に帰ってきた郁美に有希は今までの経緯をゆっくりと話をすると、郁美はウンウンとうなずいている。しかしそれを本当に理解したかは良く分からないし、隣にいる鮎美も怪訝な表情を浮かべながら郁美を見つめている。

「うーん、なんとなく……かな?」

 なんとなくって……、しかもなぜ疑問系?

「郁美先生! これは本当に起きてしまった事なんです! 事実なんです!」

 呆れ顔を浮かべている有希の事を押し分けて、鮎美は真剣な顔をして郁美に言い切る。

「まぁまぁ、高宮さんそんなに熱くならないでよぉ、今の青葉さんの説明でなんとなく分かったけれど、ただ理解するのにはまだ時間を要しそう……まさか、そんなややっこしい事が起きているなんて思っていなかったし……そんな漫画チックな事がこんな身近に起きているなんて思わなかった……」

ため息混じりに郁美は有希の顔を見上げる、その表情はやっぱり幼い女の子にしか見えないのだが……どこか表情は楽しそうというか、嬉しそうに見えるのは、口の端から見え隠れしているその八重歯のせいなのか、それともその幼い瞳がキラキラと光っているからなのだろうか。

「まぁ、確かにボクもそう思いますけれど、現実はこれなんですから仕方が無いですね?」

 有希はそう言いながら腰をかがめて郁美の視線まで自分の顔を持ってゆく。

「ウン、こんな事をみんなに話して、奇異の目で見られるのも辛いでしょうし、そもそも誰もそんな話しを納得するはずが無い……それに、あなたが一番辛いでしょうしね? それにこんな面白いネタが身近に……」

 ん? 今何か言った?

「アァ〜なんでもないわ、とりあえずこの話はここだけにしておきましょう」

 郁美は慌てたように手足をばたつかせながら有希の疑念の顔を払拭しようとする。

「じゃぁ、先生、有希の事は……」

 隣にいる鮎美はそんな様子に気がつかないのかホッとしたような表情を浮かべながらしゃがみこみながら、郁美の顔を覗き込む。

「黙っていた方がいいですね? それに、病気は記憶喪失ということで、少し性格変わっちゃったということで……」

 おいおい、教師もそれを使うのか?

 キョトンとした顔をしている有希を尻目に、鮎美と郁美は既にそれが確定したようだ。

「ハイ! そう言う事にしておいたほうが、あんなことや、こんな事をされる……」

 鮎美は何を想像したのか顔を真っ赤にすると、やはり大人なのだろう、その内容がわかったかのように郁美の顔に一瞬笑みがこぼれる。

 やっぱり大人なんだな郁美先生は、一瞬その幼顔が妖艶に見えたのは気のせいか?

「エト……確かに危険ねぇ……まだ、あなたたちは未成年者だし」

 その言葉は確かに先生らしい一言だが、その顔からその台詞が発せられるのはちょっと違和感があるよな?

 鮎美と顔を見合わせながら有希は苦笑いを浮かべるが、郁美はニコニコとその表情を崩したままだった。

『鹿島先生、至急職員室までお越し下さい』

 そんな校内放送にそのニコニコ顔が凍りつく。

「あぁ、いけなぁーい、今日職員会議だったんだぁ」

 郁美は腕時計を見ると、真っ青な顔に変わり小さな身体を一生懸命走らせる、その後姿を、有希と鮎美は苦笑いを浮かべて見送る。

「すごい先生だね?」

 ランドセルが似合いそうなそんな後姿を見つめる有希は思わずそう呟くと、隣に立っていた鮎美もため息を吐きながらコクリと頷く。

「ウン、この学校でもしかすると最強かもしれない……」

 鮎美のその一言に、有希は無意識に同意する。

 確かにそうかもしれない、ガミガミ怒る先生なんかより怖い存在かもしれないなぁ……。



「青葉さーん」

 校長の長話を聞き、一通りの新学期の恒例行事を終わらせた有希と鮎美は、教室で帰り支度を始めていたが、今年も担任に任命された郁美から声がかけられる。

「ハイ?」

 有希は首をかしげながら、かなり地上に近い位置にいる郁美を見る。

「悪いけれどこれから部室に行ってくれる? 今年の新入生の部活動の説明会を手伝ってもらいたいの、高宮さんも一緒に」

 部室って……もしかしてあの禁断の?

 有希は恐る恐ると鮎美の顔を見るとその疑念は当たりだったらしく、その小さな肩は力なくうなだれて、深いため息をついている。

 何だって、俺がそんなかったるい事をしなければいけないんだ……拒否したいが……きっとこの先生のことだ、また涙をたたえながら人の顔を見つめるであろうよ。

 鮎美も同じ考えのようで、諦めきった表情を浮かべている。

「よろしくね?」

 にっこりと微笑む郁美先生の表情は、そのシチュエーションが好きな人にはたまらなく萌えるであろうが、生憎とその趣味はないしそもそも、俺は女だ。

「……鮎美ぃ、部活って、例のやつだろ? 幽霊部員じゃなかったのか?」

 漫画研究会。通称漫研。勇気の時代に通っていた学校にもあったが、何せそこにいる人種というのは勇気とはまったく異世界の人間で、さすがの勇気もそこには近寄らなかった。

「ウン……ちょっとやばいかな?」

「やばい?」

 有希はそう言いながら鮎美の顔を覗き込む。

「そっ、郁美先生に目をつけられちゃったみたい……郁美先生の好きそうなシチュエーションだからかなぁ……でも、なんであたしまで?」

 鮎美はしきりに首をかしげながら、部室が並んでいる校舎に足を向ける。

「目をつけられたなんて、穏やかな話じゃないなぁ、それに郁美先生の好きなシチュエーションって、一体何なんだ?」

 有希のその一言に鮎美は足を止める。

「……郁美先生は重度のアニメオタクなの、この学校の漫画研究会を設立したのも郁美先生で、先生のお眼鏡にかかって初めて漫研に入れるほどなのよ、だからあそこの漫研に入ることが出来るのはエリート中のエリートオタクなだけ」

 エリートのアニメオタクって、ちょっと怖いかも……。

「でも、ボクたちは確か頼まれて入ったんじゃなかったっけ?」

 そうだ、有希の話と鮎美の話を総合すれば人数が足りなくって、郁美先生に頼み込まれて入った……と言うか、一種脅迫にも近かったらしいが……。

「だからよ! 先生が決めているから部員の数が減っちゃって、部活の必要人員に満たなくなっちゃったんだって、だから帳尻合わせで入ったって言うこと」

 納得しました、ということはその部の代表として部紹介をやるっていう事は、俺もエリートオタクになるって言うことかぁ?

「ちょっと待て、もしかして、俺はその郁美先生のお眼鏡にかかっちゃったっていう事か?」

 鮎美は有希に視線を合わせないようにキョロキョロと曖昧に飛ばしながら、諦めきったような笑顔を浮かべながら言葉無くうなずく。

「……オタク道一直線かも」

「帰っていいですか?」

 踵を返す有希の腕を鮎美につかまれる。

「郁美先生に泣かれるよ? もしかしたら有希の正体を話されちゃうかも……、そうしたら、オタクがわんさかと有希の所に来るかも……そうしたら、どうする? 男の子が女の子になっちゃったなんて、マニア受けするのは必死よ?」

 脅迫じみた意見ではあるが、それを否定する要素はまったく無く、肯定する事柄だけが有希の頭の中に浮かんでは消えてゆく。

「ボクには……選ぶ道はないって言うこと?」

 ギギィと油の切れたロボットのような感じで有希は首を振り向かせる。

「一蓮托生、あたしだって今すぐここからUターンして家のベッドに横になりたいぐらいなんだから、でもそうすると明日からの学園生活はきっと暗いものになってしまいそうな気がして仕方が無いのよね?」

 ハハ……既に、この時点で明るい学園生活に霧がかかってきた様な気もするんですけれど。

「何がどうしたって?」

 背後、というよりやはり足元から郁美の声が聞こえてくる。

「いっ、郁美先生」

 驚いた表情を浮かべながら有希と鮎美は振り向くとそこには天使のような、しかし二人からすれば悪魔的な笑顔を湛えた郁美が立っている。

 ……お迎えが来たようだ……ハハ。

 逃げる事ができなくなった事を感じた二人は肩を力なく落とし、まるで引きずられるように郁美の後をついて歩くことしか出来なかった。

 どんな学園らいふになるのか、本気で心配になってきたぜぇ……せめての救いが鮎美と一緒だということぐらいか?

 有希は隣でお座なりに歩く鮎美の横顔を見るが、その表情も暗く落ち込んでいるようだった。



=漫研=

「ヤッホー、みんな集まっている?」

 旧校舎の二階の角部屋が漫研の部室、そこに郁美は臆することなく手を上げながら入り込んでいき、それに続いて有希と鮎美の順で入ってゆく。

 まるで牢屋に入っていくような気持ちだ……入った事がないからわからないけれど、きっとこんな感覚なのは間違いないと思う。

 足かせを嵌められたような重い足取りでそこに入るとフワッといい香りが漂ってきて、その香りに有希は顔を上げる。

「おっ、郁美先生おひさしぶり! 会えなくって寂しかったよ」

 部室の中は有希が思っていたような雰囲気とは違い、ソファーが置かれ有希の鼻腔をくすぐったコーヒーのいい香りがどこからとも無く漂っている。そのソファーに座っていた男子が郁美の事を見て爽やかな笑顔を浮かべながら立ち上がる。

「やぁ、矢野君、久しぶりって、春休みの間だけ会わなかっただけじゃない? それに、女の子にそんなことを安々と言っていると、彼女に嫌われるぞ」

 郁美は笑顔のままその男子の顔を軽く睨むが、決してその事を嫌がっているわけでもなく社交辞令のように交わしている。

 さすが、そういう所は大人の女性なのかな?

 ピースサインを送る郁美を見つつ有希は部室の中をさらに見渡す。そこは漫画がいっぱい置かれているとか、こ汚い机で漫画を描いている長髪の男子がいるとか、エッチなフィギュアが置かれているとか、そういったものがまったく無い。むしろ綺麗に片付いており、漫研であることを象徴するのは、壁にかかっているアニメのポスターぐらいだった。

「やぁ、有希ちゃんに鮎美ちゃん、久しぶりだね?」

 有希の持っているアニメオタクといった雰囲気ではない矢野はニッコリと微笑みながら有希と鮎美の顔を見る。

 色男じゃないか? どことなく清潔感が漂っていてアニメオタクという雰囲気ではないが、しかし、妙に馴れ馴れしい奴だな、ちょと気にくわないかも。

 ちょっと眉間にしわを寄せている有希に対して、鮎美はひじで突っつく。

「有希、そんな顔をしないの……」

 鮎美がコソッと有希に耳打ちをする。

「何でだよ……あまり好きなタイプじゃないから……」

「そうでも女の子はそんなにはっきりと表情に出したらダメなの」

 表情に出すなって……難しいんだな女っていうのは……。

 気がつかれない様にヘの字になっていた口の端を人差し指でキュッと上げて、それを持続させるように意識をそこに持って行く有希の表情は、さっきよりも引きつり怖いかもしれない。

「珍しいじゃないですか? 郁美先生が人を連れてくるなんて」

 矢野はそう言いながら郁美をソファーに座るように促し、奥にいた男子に目配せすると、気の弱そうなその男子はそそくさと別の部屋に入って行く。

 なんだか偉そうだな……やっぱり気に入らないな、この男。

 再び眉間にしわがよると鮎美にわき腹を突っつかれる。

「エヘ、実は今回の部紹介と、新入生勧誘をこの二人に手伝ってもらおうと思って、今日連れて来たっていう事……ありがと平間君、二人もこっちに来て座ったら? 立っていたら疲れるでしょう、平間君の淹れたコーヒー美味しいんだよ」

 郁美はそう言いながら二人を手招きして、さっきの気の弱そうな男子が置いたカップに手を伸ばすが、両手でカップを持つその飲み方はおおよそ大人の女性という雰囲気ではなく小さな女の子がホットミルクを飲むような仕草だ。

「ほぉ、郁美先生が他人に力を請うなんて珍しいですね?」

 矢野はそう言いながら有希と鮎美を一瞥し、再び郁美の事を見る。

「べつに、この二人が可愛いから、アレをやってもらうには最高かなって、以前から目をつけてはいたのよ、確か青葉さんはメガネをかけるわよね?」

 郁美はソファーではしゃぎながらそう言い正面に座る有希の顔を見る。

「はぁ、普段はかけませんが、授業中とかは見難いのでかけますよ」

 有希の応用編がここで役に立った、視力はそんなに悪くないが、授業中など黒板が見難い時にだけメガネをかけるということは以前に有希に聞いていた。

「ほぉ、メガネ装着ですか」

 矢野の瞳がきらりと光ったような気がする。

「高宮さんはやっぱりポニーテールの良く似合うこということで」

 確かにそうだな、鮎美はいつもポニーテールにしておりその姿は良く似合っている。

「フム、クイーンオブポニーテールという所か」

 矢野はそう言いながら二人の姿を無遠慮に眺めながら顎に手をやり何かを考えているよう。

 なんとなく嫌な感じだな、何を考えているか良く分からない、まさかここで襲われたりする事は無いだろうけれど、悪巧みをしているという事だけは伝わってくる。

「有希ぃ」

 その雰囲気に耐えられなくなったのか、鮎美が怯えたように有希の腕を取る、その瞬間に矢野の瞳が光った。

「これだ! 女同士の禁断の恋」

 ――助けてください……。

 有希は一瞬薄れてゆく意識を寸前の所で踏みとどめるが、めまいに似た感覚はずっと残ったままだった。

「霞はいるか!」

 その一言に、部室の一角にいた女子が振り向く。

 いたの? 全然気が付かなかったよ、それにしても、この娘もずいぶんと美少女だな?

「はぁい、呼びましたぁ?」

 やたらと間延びした話し方をするその女子は、ニコニコしながら矢野の隣に寄り添う、腰まである長い髪の毛は内巻きにロールして、どことなく頼りなさそうな感じを出している所は郁美に似ているような。

「今度のイベントに出す作品の概略が出来た、打ち合わせをしよう……郁美ちゃん、概要は分かった、この二名に部紹介と勧誘は任せる、それと衣装は手芸部から既に受けとっている、早希が持っているから受け取るといい、それでは!」

 言いたい事だけを言って、霞と共に部室の片隅にある机に向かう。

「……有希、いま矢野先輩、衣装がどうのとかって言っていなかった?」

 鮎美はギュッと有希の腕を抱きしめたまま助けを請うような目で覗き込んでくるが、有希はこの後に起こり得る事が危惧しすぎだったと信じたい気持ちでいっぱいだった。

 たぶんだけれど……今は考えたくない……。

 そんな事を考えている二人などをまるで無視したように微笑む郁美は、ソファーの上に膝立ちしながら背後にいた女の子に嬉しそうに声をかける。

「決まりね? 稲田さん、衣装を持ってきてくれる?」

 まるで待っていたかのように、稲田と呼ばれたベリーショートな髪をしたその娘がニコニコ微笑みながらそれを持ってくる。

「二人にはよく似合うと思うよ、ハイ、郁美先生」

 ちょっと大人っぽい雰囲気を持つ彼女は郁美にそれを渡し、その笑顔を困惑している有希と鮎美に向ける。

 この中では一番まともそうな人だけれど、すっごく嫌な感じがするのは、きっと気のせいではないであろう。

 有希の中にある危険信号はさっきからレッドシグナルを鳴らし続けているが、だからといってどうできるものでもなく、そんな二人のやり取りを見ている。

「ウ〜ン可愛いね? これはリアルに出来ているかもしれないなぁ……いい、最高の出来栄えよ、さすが手芸部、脱帽ね」

 これでもかというぐらいの賛辞を手芸部に送る郁美だが、二人からすれば、その台詞は我をどん底に落としていくものだと、反射的に感じている。

「ハイ、結構お金もかかっていますねぇ、でもこの二人なら間違いなくこれを生かすことが出来ると思います」

 郁美と早希の視線が有希と鮎美に向く、その微笑みはきっと自分たちを不幸にする悪魔の微笑みのように感じ、鮎美においては今にも泣き出しそうな顔をしている。

 ……生かしたくないんですけれど……さっきからちらちらと見えているその毛皮のような三角形ものと、そのしっぽのような物はひょっとして……。

 有希は二人の手で弄ばれている物の予想が付いてしまい、ジリッと後ずさりする。

「ほら、可愛いでしょ? しかも、しっぽ付き!」

 なんていうことをするんだ手芸部、一体誰の陰謀にはまったのだ? こんなものにお金をかけないでくれよぉ〜。

 郁美の手に持たれているものは有希が想像した物、カチューシャには三角形の見事なネコミミが取り付けられており、反対の手にはブルマーに縫い付けられた、これまた立派な猫しっぽ、それを見た瞬間意識が遠のく。

 ダッシュで逃げ出したい……きっと俺ならば数秒でこの部屋から逃げ出すことが出来るであろう、しかし……。

 有希の隣では呆気に取られた鮎美が酸欠を起こした金魚のように口をパクパクさせ、恐らく半分以上は意識を失っているかもしれない。

 まさか彼女を放って逃げるわけにも行かないし、体力は有希なんだから鮎美を抱えて飛び出す事なども無理だ……となると残された道は……。

「ほら、試着してみてよ」

 ズイッとその二つを突きつけられる有希の額からは暑くもないのに汗が吹き出し、頬はピクピクと脈動を続けている。

「試着って……これを着るんですか?」

「当たり前じゃないだから試着というのよ?」

 キョトンとした顔をしていく見は有希の顔を覗き込むが、対する有希の顔は張り付いたような笑顔とともに額には大粒の汗が浮き上がっている。

「どうしても?」

「うん、どうしても」

 ニッコリと微笑む郁美の顔は愛らしいが、有希たちにはその笑顔が悪魔の微笑にも見える。

「拒否するとどうなるかな?」

 躊躇する有希の隣にいつの間にか早希が寄り添い、コソッと耳打ちしてくる。

「泣かれちゃうかも……」

 クスッと微笑む早希の表情は冷徹にさえ思える。

「ハァ……どうにもならないという事かぁ」

「そっ、気にする事ないよ、ぱぁ〜っと脱いじゃえ!」

 脱いじゃえって……郁美先生、もう既にこれはいじめではないですか?



「何で……」

 渋々とそれを装着する鮎美の口からはそんな台詞がさっきから何度もこぼれる。

「着替え終わったぁ?」

 着替えの為に向かった更衣室の前で郁美のワクワクした声が響き渡る。

 更衣室に向かう途中で逃げ出そうと思ったけれど、まるで監視するかのように郁美とそれをサポートするように早希が両側につき、完全にブロックされていた。

「有希ぃ、何であたしがこんな格好をしなければいけないの?」

 鮎美は今にも泣き出しそうな表情でネコミミを頭にのせる。

「……それはこっちの台詞だよ……」

 有希は力なく言い、これ専用といわれたスカートを履く。

 あははここまですれば完璧じゃないか? 確かにこれ専用だぁ、ちゃんとスカートのしっぽの出るところに穴が開いているよ、ウエストも測ったみたいにちょうどいいし、絶対に狙っていたんじゃないか?

 呆れ果ててその穴から尻尾を出すその姿はまさに滑稽ではなかろうか、今の自分の姿が想像され有希は諦めにも似た笑いがこみ上げてくる。

「でも、有希は逃げなかったね? 絶対にあたしを置いて逃げ出すと思っていた」

 鮎美はそう言いながら意地悪な表情を有希の顔を見る。

「確かにね、逃げようと思ったけれど、鮎美一人にしたら可哀想だと思って、さっき言っていただろ? 一蓮托生って」

 有希はそう言いながら最後にネコミミを装着する。

「ウフ、優しいんだね有希って」

 ちょっと嬉しそうな表情を浮かべて鮎美は有希の顔を覗き込む、ネコミミ装着で。

「さて、行きますか」

 有希はそう言いながら教室の扉を開く。そこには嬉しそうな顔をした郁美と、これまたさっきまでの大人っぽさを机の上に忘れてしまったのではと思うほど可愛らしい笑顔を浮かべる早希が立っていた。

「いやぁ〜ん、かわいいぃ〜、青葉さんも高宮さんもとってもプリティーよぉ」

 大きな目がなくなってしまったように表情を崩す郁美。

「ウン、可愛いよ……抱きしめたいぐらいね?」

 頬を赤らめる早希の視線は有希に向いていた。

「うぉ〜! ネコミミ最高! 可愛いよ、二人ともとても可愛い、君たちの為だけにこのネコミミというものは生まれたんだ!」

 どこから出てきたのか、さっきまで大人しかった姿を変化させた平間がデジカメを片手にパシャパシャと二人の写真を撮っている。

 怖い……この男が一番怖いかも、なんだかさっきより鼻息荒いし、目が血走っているし。

「平間君、駄目よ、そんなに血走った目で写真を取っていると、モデルが怖がるわよ、撮る時はちゃんと声をかけてからでないとマナー違反よ」

 モデルとか、マナーって……そう言う問題じゃないと思うけれど……。

 有希は肩を落としながら深いため息を吐く。

第七話へ。