第一話 別れと出会い。


=プロローグ=

「茅沼先輩……好きです!」

はい?

どこからかともなく仰げば尊しが流れ、桜の花びらがハラハラと舞い散る校舎裏では卒業式に良く見られる光景が繰り広げられているが、まさか、その場に自分が居合わせ、しかもその主人公になるとは思っていなかった。後輩から告白されるなどとは夢にも思わなかった。

まったくそのようなシチュエーションに慣れていない茅沼健斗(かやぬまけんと)は、あまりの驚きによって頭の中が真っ白になり、呆然とその目の前で真剣な表情を浮かべる同じ文芸部の後輩の青山美音(あおやまみお)の顔を見つめる。

彼女のその容姿は、十人いれば、少なくとも七人が可愛いと言うのは間違いのないほどの美少女だ。その人気は同じ学校の生徒だけでは留まらず、他の学校にもファンがいるとの噂も聞くし、毎年文化祭で行われる『学園の美女十選』の上位に、必ずその名前があがるほどの実力者だぜ? そんな娘が何だって俺の目の前にいるんだ?

健斗は今の自分が置かれている状況がわからなくなり、再度確認作業に入る。

確か、朝登校したら机の中に手紙が入っていて、それには『卒業式が終わったら校舎裏に来てください』という内容のもので、どこにも差出人の名前もなく、半信半疑でここに来たら美音がいたというのが現状だ……さて、それで彼女はなんて言ったんだっけ? 確か『茅沼先輩好きです』と言っていたような気がするんだが、俺の気のせいなのか?

「――もっと早く、自分の気持ちに気が付けばよかったのかもしれないです。ちょっと気付くのが遅かったかもしれません……でも、この気持ちを、先輩に伝えておかないときっと後悔すると思ったから、だから……だから、あたしの気持ちを伝えさせてください」

美音の言っている事がまるで他人事のような気がする。頭の中では、目の前で現実に起きている事がまったくといっていいほどに理解ができなくなっている。そもそも、俺にはそんな恋愛云々などはまったく関係ないと思っていた、俺から告白する事はあっても、女の子の方から告白されるという概念はまったくなかった。

小刻みに震えている美音の肩を見つめながら、健斗は必死に頭の中を整理しようとするが、それは許容量を超えているせいなのか、その疑問は堂々巡りを始める。

なんだって彼女は俺の事を好きだなんて言っているんだろうか? 俺はただの文芸部の一部員だけでしかなく、何かとりえがあるわけでもないし、色男でもない、ただ平凡な高校生(元になるけれど)でしかないんだ……恋愛なんて小説や漫画の中だけの事と思っていたぐらいに自分には縁が無いものだと思っていたでも……。

キャメルブラウンのブレザーに、丸襟のブラウスという姿がよく似合っている美音は、先ほどから自分の足元を向いたままで、その愛らしい顔を健斗に向けてくる事は無い。

美音に対する気持ちもそうだ。彼女の性格の良さが滲み出ているのか、学校や同じ部の中でも男女の垣根を取り払って人気があり、そんな彼女は俺には高嶺の花以上の存在だったし、自分の心の中にある危機回路が作動したのか、彼女に対しての気持ちがそれ(恋愛感情)になる事はなかった。そんな彼女に良く『何で文芸部になんている』と失礼な事を言う奴もいるが、小説家希望の彼女のその文才はたいしたもので、文化祭などで販売する同人誌があっという間に売り切れるほどの人気があり、正直に言えば俺にもねたみに似たものがあったぐらいだ。

お互いに小説家を目指しているというのは、部活の最中に健斗と美音の間でよく話題に上がり、日が暮れる頃までお互いに熱中して話し合っていた事もあるぐらいだった。

今年で三年生になる彼女に対して好意を寄せている男達はいくらでもいるはずだ。腰まで伸びるサラサラのロングヘアーに、整った顔立ちは、間違いなくヒロインというポジションになるであろう。そんな娘がいま俺の前で涙を流している……俺の事を好きだと言いながら……。

「先輩……」

どれくらいの時間が経ったのだろう。長く感じる二人の沈黙の中、先に美音が顔を上げて、健斗の事を見上げてくると、その両目にはまだ涙が残っているが、少し笑顔を取り戻していた。

「先輩の……第二ボタンをあたしに貰えますか?」

健斗は無言で胸にあるボタンを引きちぎると、それを美音に渡す。

「ありがとうございます、あたし絶対に行きます函館に……だから待っていてください」



=T=

「寒いじゃないか」

一夜の宿となった上野発の夜行列車から、北海道第一歩の地になる函館駅で降りた時、健斗の顔からそれまでまとっていた暖気を奪うような冷たい風が吹きぬける。

いくら北海道とはいえど、もう四月になるんだぜ? なんだってこんなに寒いんだ? 車窓からの景色も所々に雪も残っていたし、ホームを行き交う人はまだコートを羽織っているぜ?

ホームから段差無くたどり着いたモダンな駅舎の中には、まだ朝早いというのに結構な賑わいを見せている。その集団は一様に改札を抜けると、旗を持つバスガイドと合流した後、右手にある西出口に消えて行く。そんな様子を見送りながら、健斗は迎えに行くと言ってくれた叔母さんの顔を思い出しながら一息つく。

確か親父の妹だったよな? 叔母さんって……まだ三十六歳だったと思うが、その顔にはモヤがかかってよく思い出せないな? まっ、何とかなるでしょ?

お気楽な考え方で思考をやめた健斗は、まだ寒風の吹き荒ぶ街の様子を眺めながら待合スペースにあるベンチに腰を下ろし、あの告白の後に貰った、美音お手製の小説をカバンから取り出すとしみじみとそれを見つめる。

――確かにお手製だよな? チープな作りだ、でも……。

コピーで作られたその小説は、申し訳程度の表紙がつけられ、製本テープだけで出来ている物だが、はにかんだ笑顔を浮かべながら美音が渡してくれた時の事を思い出し、視線を吹き抜けになっている駅舎の天井に向ける。

美音が作った小説……彼女ほどの力があるのなら、今すぐにでも作家デビューができるであろう。その彼女が俺なんかのために小説を書いてくれた……しかも、どこにも発表していない完全オリジナルの小説を俺だけのために……嬉しいよりも、ちょっと恥ずかしいかな?

先輩へ。

表紙には、今まで何度も見てきた少し丸っぽい美音の文字でそう書かれたタイトル、そこから読み出すと、本文はワープロで打ち出された文字が続き、そこに描かれているのはデフォルト化された健斗と、それに対して、やはりデフォルト化された主人公でもある美音の気持ちが書き綴られており、主人公の伝えようとする気持ちが、話の中だけとわかっていながらも、健斗にヒシヒシと伝わってきて、つい頬が赤らむ。

『高校に入って初めての部活、思い切って入った部屋の中にいたあの人は、柔らかな笑みを浮かべて私の顔を見つめてくれた、その一瞬、私の心の中で何かが弾けたような気がした』

 あの人って……もしかして俺の事か? 確かに彼女が入部したいと入ってきた時、俺が応対したけれど、そんなだったかなぁ……。

その内容は、美音が高校に入って文芸部に入った経緯から、健斗との出会い、合宿での出来事など事細かに表現されており、中には自分でも気がつかなかった事までも書き綴られている。

『初めて先輩と二人きりで話をする事ができた。他愛もない話の内容だったけれども、私はそれだけで幸せになる事ができる……私ってこんなに単純だったのかしら? それとも、彼に対して素直になっているという事なのかなぁ……わからないよぉ、でも、私には一つだけわかった事がある。彼が自分の夢を話している時って、まるで少年のように瞳を輝かせながら話をしているという事。そんな彼を見る事ができた私は、ちょっと幸せモードに突入しているかもしれないなぁ……小さな幸せ見っけた♪』

さすがと言うのかな? 彼女の文章力は。俺に同じような文を書けといわれても絶対に無理だと思うよ……読んでいる方をひきつける魅力があると言うのかなぁ……でも、これがその時に彼女が感じていた気持ちなのか?

まるで美音の日記を盗み見てしまったような気になり、健斗は顔が火照っている事に気がつき、無意識に手をその温かな頬に置く。

『あの人が北海道の大学に合格したという事を聞き、私の気持ちはまるで何者かの手で振られたような感じになり、今までに感じた事の無い胸の痛みが突き抜けてゆく……あの人が私の目の前からいなくなる事は、至極当然の事なのだけれど……でも、私の気持ちの中では彼は既に先輩では無い存在にまで膨れ上がっていた……そう、彼は私の大好きな人に代わっていた』



「エッとぉ、茅沼健斗……さんですか?」

どれぐらいの時間が経ったのだろうか、小説を読みふけっていると、背後からオドオドとした声をかけられ、その声に対して無意識に顔を上げる。

「はい?」

同意ともなんとも取れない曖昧な返事をしながら顔を上げた健斗の前には、ツインテールにした髪の毛を揺らしている美少女が、モジモジしながら、恐る恐るといった表情を浮かべて健斗の顔を上目遣いに見据えている。

「あぁ、よかった、ちょっと雰囲気が変わっていたからちょっと心配だったんだぁ」

健斗の顔を確認するように再度見ると、少女は確信を持ったようにホッとため息を吐き出し、今度は満面の笑顔を浮かべてくるが、対する健斗の表情は、まだその答えがわからないのか、相変わらず曖昧なまま凍りついている。

めまいを起こしそうなほどに記憶が激しくフラッシュバックするが、なかなかそれに該当する人物にヒットしないぜぇ、という事はだ、ここは当事者に聞くのが一番の得策であろうし、しいては時間短縮にもつながるはずだ。

「えぇっと……君は?」

 申し訳なさそうな顔をしながら健斗が口を開くと、その美少女はわざとらしく頬を膨らませて、その顔を健斗に近づけてくる。

「ブゥ、やっぱりぃ、ボクの事を覚えていないな?」

少女は意地の悪い顔をしながら首をかしげている健斗の顔を睨みつけるが、その間近に迫った距離のためなのであろう、シャンプーのような甘い香りがフワッと健斗の鼻腔をくすぐる。

「ボクだよ、知果、黒石深雪(くろいしみゆき)の娘の黒石知果(くろいしちか)……昔よくおにいちゃんの家に遊びにいったじゃないのよぉ、思い出した?」

知果はそう言いながら健斗の腕を取り、その体を引き上げるようにすると、不意に温かく柔らかい物体が健斗の腕に当たる。

おぉ、知果かぁ、確か最後に会ったのは、俺が中学一年の時だったよな? あの時はまだ小学校に上がったばかりで、まだ幼子といった感じのイメージだったけれど、大きくなったなぁ。

健斗は思わずその柔らかい物の正体に顔を赤らめるが、そんな事を気にしたような様子を見せない知果は、小首を傾げながら健斗の顔を覗きこんでくる。

「どした?」

 不思議そうな顔をしながら覗き込んでくる知果に対して、健斗は慌てたように両手を力一杯に振ると、さらにその顔には怪訝そうな色が浮かび上がる。

「いっ、いや……そうかぁ知果かぁ、大きくなったなぁ」

 話題をすり返るように健斗はベンチから立ち上がり、知果の頭をポンと叩くと、知果も恥ずかしそうな顔をしながらも、ニッコリと笑顔を膨らませる。

記憶を証明するような幼い笑顔の中には、その時のイメージが若干垣間見えるだけで、パッと見た目でそれを確証するのは絶対に難しいよな? あの頃は、日に焼けていて真っ黒だったのに、今では色白な女の子(しかも結構レベルは高位置)になってしまって、なんだかんだ言っても、知果もやっぱり女の子なんだなぁ……。

フリースのパーカーに、寒いというのにミニカートという格好の彼女の、そのスカートから長く伸びる白い生足を見ながら、健斗はヘンなところに感心をしてしまう。

「もぉ、やっと思い出してくれたの? なぁんて……とは言っても、実はボクも忘れかけていたんだけれどね? エヘヘ」

ペロッと舌を出し、悪戯っ子のような笑顔を見せる知果を見て、健斗はその当時の面影が残っている事を思い出し、それまでのあやふやな記憶が、確定に変わる。

フム、確か今年中学に入ったんだったよな? 自分の事をボクという癖は昔のままだが、近頃の子供の成長は早いというか、ちょうど大人の階段昇り始めといった感じなのかな? やる事は子供でも、身体つきは大人になり始めているという……非常に微妙な年頃だよな?

一瞬頭に浮かび上がった自分の考えを慌てて打ち消すように、健斗は首を振りながら否定し、意識を軌道修正させるべく次の話題を知果に振る。

ヤベ、色々なオタク連中と付き合っているうちに、その毒素が俺にも蔓延し始めていたのかな? 一瞬ヘンな考えになっちまうところだったぜぇ。

「そ、それにしても知果が迎えに来てくれたのか? 深雪さんはどうしたんだ?」

深雪さん……親父の実の妹であり、俺の叔母に当たる人が迎えに来てくれるという事しか考えていなかったため、知果が迎えに来たという現状に、正直ちょっと戸惑っている。

確かここから家まで結構距離があると言っていたよな? 勘弁してくれよ? 貧乏学生がタクシー代を出すのは結構カツカツなんですからぁ。

「お母さんなら向こうに置いた車の中で待っているよ? この辺りは路駐の取締りが厳しくって、あまり出来ないらしいから……さっ、早く行こうよ、おにいちゃん」

知果はそう言いながら、健斗の足元に置いてあった荷物を持ち上げようとするが、今年中学に入りたて、しかも平均よりも大幅に小柄な彼女にとって、それはかなり重過ぎるようで、そのトランクはビクともしない。

「ウッ、おもっ!」

知果は両腕を突っ張らしたような状態のまま、口をヘの字に歪め、助けを請うような視線を健斗に向けてくる。

「ハハ、大丈夫だよ、俺が持っていくから」

そう言いながら健斗がそのトランクをヒョイと持ち上げる様子を、知果はなにやら感心した様子で眺めている。

「やっぱりおにいちゃんは男の子なんだね?」

 男の子って……俺だって今年大学に入ったんだぜ? 男の子呼ばわりされるとは思っていなかったぜ? せめて男の人と呼んでもらいたいものだよな?

 知果のそんな当たり前の質問に対して健斗は少ししかめ面を浮かべるが、少し頬を赤らめた知果は気にした様子もなく、トテトテという足音を駅構内に残しながら、大きなガラス扉の中央出口に向かって小走りに駆けてゆく。

「ほら、おにいちゃんこっちだよ」

 振り向きざまに手招きする知果に促されるように、健斗もその歩幅を少しだけ広げ、自動ドアーになっているガラス扉に向かい歩き、それが開くと、今までいた東京のそれとは違った冷たい風が健斗の肌が露出した所を容赦なく刺してゆく。その寒さに、健斗は着ていたコートの襟を無意識に立てるが、目の前を歩く知果は、ミニスカートに生足といった、今時女の子の格好で、東京で見るその光景であれば喜ばしいその姿も、この寒さの中で見るには少し辛い。

「知果は寒くないのか?」

「ウン! ボクは全然へっきだよ、それにボクだって女の子なんだから、お洒落をしなくっちゃあ若さが腐っちゃうし、それに今日はおにいちゃんが来るって言うから……ボクだって一生懸命お洒落をしたんだよ?」

 イヤイヤ、知果ちゃんの歳で若さが腐っていたら……これ以上は言わないでおこう……俺だって世間の目を気にしなければいけない年頃になった事だし……。

 恥ずかしそうな顔をする知果に、健斗は思案顔を浮かべながらそんな知果の後を歩いてゆくが、その足元にはまだ除雪された雪が山になって積み上げられており、気のせいか、風もそれを撫でて冷たさを増しているようにも感じ、体の奥から湧き上がる寒さに身を震わせる。

「ほらぁ、おにいちゃんこっちぃ、寒いから早く車に行こうよぉ」

 知果は不安そうに何度も振り返り、健斗の位置を確認しつつも、足踏みをしながら健斗の動きを促す。その姿は昔、健斗の家に遊びに来ていた知果と変わる事無く、健斗の頬を緩ませる。

「ほいほいって、知果ぁ、そんなに急ぐと雪に足を取られて転ぶぞぉ」

「ヘヘェンだぁ、ボクだってもうこっちに引っ越してきて何年経っていると思っているの? 今ではすっかり道産子だよ……って、ふぁ?」

 そんな事を言う健斗に知果は振り向きざまに舌を出すが、その瞬間小さな体が宙を舞う。

 ――だから言わんこっちゃない……。

 見事というしかないほどの勢いで転んだ知果は、そのスカートの中身まで見事に露呈しながらその場にしりもちをつく。

「おにいちゃん……見た?」

 そんな知果の泣きそうな声に首を振り、健斗の目にこびり付いた北海道らしいキャラクターのイラストが描かれていた物を消去する。



「健斗君ようこそ函館へ、待っていたわよ?」

駅前のロータリーに止めてあったワインレッドのワゴン車の運転席には、昔のイメージのままの叔母さん……深雪さんが笑顔で出迎えてくれる。

「ご無沙汰しています、お世話になります」

荷物をワゴン車のトランクに乗せてから、セカンドシートに乗り込んで、バックミラーに写る深雪の顔を見ると、その顔は年齢を感じさせず、叔母さんと言うにはちょっと語弊があるかもしれない、長い髪の毛をまとめ上げている雰囲気は、どちらかと言うと綺麗なお姉さんと言った風情で、知果のお姉さんと言っても納得する人間は多いであろう。

変わらないよなぁ、昔からまったく歳をとっていないみたいだよ……二十代前半と言っても、きっとみんなは納得すると思うよ?

健斗がホッと一息をついたのを確認したのか、深雪はハンドルを握り直しサイドブレーキに手を伸ばし、出発体制に入る。

「じゃあ早速行きましょうか? 引越しの荷物はもう運び込んであるから」

深雪はそういいながらサイドブレーキを下ろすと、少し乱暴なアクセルワークで車輪を空転させながらも車寄せから車を発進させる。

今日からこの函館での住処になる黒石家。俺がこっちの大学に合格した時に、この深雪さんがすぐに連絡をしてきてくれて、家の提供を申し出てくれた。親父は少し渋ったけれど、お袋の賛成に押し通されたような形で渋々合意してくれた。これから通う学校にも程近く立地条件はいいのだが、ちょっと市内から離れているのが難点なのかな?

「忍(しのぶ)兄さんや、お義姉さんから連絡はくるの?」

手馴れたようにハンドルを握る深雪は、赤信号に止まると、後席に座る健斗の顔をバックミラー越しにチラッと見る。

「はい、この前も電話がありました……真夜中に」

うちの両親は、二人ともミュージシャンという職業についていて、今はその仕事柄、アメリカに住んでおり、日本に帰ってくる気配をまったく見せない。あまつさえ親父においては何かにつけて俺にアメリカに来いと言い出す始末だ。

「アハハ、今どこだったっけ? 最初に行ったのはニューヨークだったでしょ?」

そんな親父の唯一の肉親である深雪は、健斗の一言に大笑いをしながら、青になった信号に従い、車を再度スタートさせる。

「ロスです……時差を考えないで向こうの時間感覚でよく電話をかけてくるから、こっちはいい迷惑ですよ、この前は明け方に昼飯を食いながらと言う親父から電話がありましたし……」

いま昼飯を食いながらなんだけれど、元気か? というような内容だったような気がするが、こっちはようやく街が朝の活動をし始めた頃だったため、健斗の脳みそはお座なりにその質問を適当に流し、その会話の記憶は留まらなかった。

時差と言うものをまったく気にしないで電話をかけてくる俺の両親は、向こうの活動時間帯に合わせてくるが、向こうの活動時間イコールこっちの睡眠時間という事を説明してもなかなか理解をしてくれないんだよなぁ……本当に困った親だ。

健斗は苦笑いを浮かべながら、運転をする深雪の後姿を見る。

「アハハ、兄さんたちらしいわよね? ゴーイングマイウェイというのか、だからあっちに行って帰ってこないのよ、健斗クンという大事な一人息子がいながら……」

 そんな健斗の両親の事をよく知っている深雪は、少し同情した表情をバックミラー越しに健斗に送ってくると、健斗もそれにあわせて失笑を送る。

本当に大事なんですかね? 当事者からするとそんなに大切にされているような感情を感じた事がないんですけれど……どちらかというと投げ出されているような、そういうふうに感じているのは俺の気のせいなんでしょうか?

「まあ、もう慣れっこになってしまいましたから……」

 これは本音だ。俺が中学に進学するのを機に、両親は二人で手をつないでアメリカに旅立って行き、中学一年生の身空で一人暮らしをはじめる羽目になった。

「へぇ〜、おにいちゃんの両親ってアメリカで暮らしているんだぁ……ちょっとカッコいいかもしれないなぁ? て言うか、インターナショナル?」

 ――能天気な事を言わないでくださいな? 息子を一人日本に置き去りにしてアメリカに行ってしまうような親の事を、普通の親と一緒にする事は九十パーセント以上を締める普通の親の事を冒とくする事になるんじゃないでしょうか?

 知果の憧れのような眼差しに、健斗は曖昧な笑みを浮かべてその視線を外に向ける、その先を流れていく景色は、間違いなく生まれて初めての街だ。

 北海道かぁ……高校の同級生は羨ましがっていたけれど……でも、観光で来るのと暮らすのとでは大きく違うよな? この寒さも……そうして……。

『先輩、あたし絶対に北海道に絶対に行きますから……だから……だから……その時はあたしに会ってくれますか?』

 不意に健斗の脳裏には、卒業式の時の美音の寂しそうな顔が浮かび上がる。

 仲の良い人と離れなければいけないという事も……夢ではなく、いま自分の目の前で現実として起きている事なんだ……。

「ハァ……」

 深いため息をつく健斗に知果と深雪の二人から視線が向けられる。

「エッと、寒い……ですよね?」

 誤魔化すように声に出しながら、隣を走る路面電車に視線を向ける。

 そもそも本当に会いに来てくれるかの方が心配なんだよ……美音……。



=U=

「さぁ、遠慮しないで上がってちょうだい、引越しの片付けは後であたし達も手伝うから、まずは一服しましょう? ちょっとお茶にしてからにしましょ?」

函館駅から車で二十分ぐらいかかっただろうか、ちょうど函館市郊外といった雰囲気の一角に黒石家はある。そこは健斗が思わず見上げるほど大きく、見た目だけでも恐らく百坪ぐらいの広さはあるであろうか、二階建てのその佇まいは東京に人間から見れば贅沢すぎるほどの土地の使い方であり、その敷地の一角には車が二台止まってまだ余裕があるほどだ。

この大きな家には深雪さんと知果の二人で住んでいるらしい。叔父さんは相変わらず出張族と深雪さんは笑って言っていたが、これだけ大きい家に女性二人だけというのは無用心のような気がする……まぁ、俺がいても大して変わらないかな?

玄関を開けるとそこは玄関ホールというのが正しいであろう広いスペースが広がり、そのホールにもしっかりと暖房が効いていて暖かい。

「おにいちゃんこっちだよ」

 知果に腕を引かれながら通された部屋は、この家のリビングであろう。そこは一昨日まで健斗の住んでいたアパートの部屋よりも十分に広く、恐らく二十畳ぐらいはあるに違いなく、そこには暖炉を模したような石油ストーブが赤々とついており、健斗はどこか自分の居場所が無い(根本的に拒絶?)ような気持ちにもなってくる。

 なんだか、えらくハイソな雰囲気が流れている家だなぁ……、俺にはちょっと不釣合いかな?

「コーヒーでいいわね?」

深雪はそういいながらキッチンに姿を消し、行き場を失ったように健斗はその場に立ち尽くすと、その感覚の中に不思議と安っぽい雰囲気を感じ、少し首を傾ける。

 何でかな? どちらかというとハイソなイメージな雰囲気の部屋なのに、何でそんな安っぽい感じがこの部屋に流れているんだろう?

周囲を見渡すものの、その雰囲気につながるような物は見当たらず、首を傾げながら知果のつけたテレビを見ると、そこには昨日まで住んでいた東京の空が映し出されていた。

『東京のただいまの気温は十六度、快晴の空に桜が映えていますよぉ』

おなじみの朝のテレビのアナウンサーの晴れやかな表情と、軽やかな服装から、東京の暖かさを表現しているが、そのブラウン管の反対側でそれを見ているこのリビングでは、まだまだストーブ現役で活躍し、俺はついさっきまでコートを着ていた。

「おにいちゃんはこっちに座れば? パパが使っていた所だよ」

知果はそういいながら、この家にいる人数にしては多い椅子が置かれているダイニングテーブルの一角を指差す。上座と思われるその場所は、確かにテレビがよく見える特等席に思われ、この家の主が座るべき場所と容易に想像がつく、そうしてそこから眺める光景に、さっき健斗が持ったその違和感の理由に気がつく。

なるほど、このテーブルか……この家の住人の数よりも明らかに多い椅子の数といい、周囲のハイソな家具の中では、十分に浮き立っているような安っぽいこの長テーブルが、なんとなくそんな雰囲気を醸し出していたんだな?

健斗はそのテーブルと椅子の数に疑問を持つものの、そんな事に気がつかない知果は、健斗の荷物を取り上げると、健斗のその腕をグイグイと引っ張る。

「でも、悪いんじゃないか?」

苦笑いを浮かべ、健斗は腕を引く知果の顔をチラリと見ながら躊躇していると、深雪がキッチンからコーヒーサーバーを持ちながら戻ってくる。

「いいのよ健斗クン、あなたはこの家で唯一の男の子なんだから、一番いい所に座ってね? もしかしたら、あの人よりも…………健斗クンの方が役に立ちそうだし……ウフ」

微妙だ……いまの深雪さんの言い回しは、青少年に対しては非常に微妙だ……いま一瞬見せた深雪さんの妖艶な笑みと、言葉に最後にあった『ウフ』の後に、俺の気のせいなのかハートマークが見えたような気がするよ。

 そんな深雪の微妙な一言に、ドギマギしたような様子を見せる健斗に、知果はキョトンとした表情を浮かべている。そんな知果は、さっきまで着ていたフリースのパーカーを脱ぎ捨て、まるで真夏のようにTシャツ姿になっており、まだ膨らみの乏しいその胸元からは、石鹸の香りが立ち上っており、そんな状況に免疫力のない健斗は鼻の奥にツンとした感覚に駆られ、無意識にその鼻頭を押さえる。

 前門の虎、後門の狼と言うのはこういう事を言うのだろうか……深雪さんの場合は親戚と言う贔屓目を除いても、世間一般的には綺麗なお姉さんといった感じだし、知果だってよく見れば、かなり可愛い分類に分別される妹キャラになる……。

「そっか、そうだよね? おにいちゃんはこの家で唯一の男の子だよ!」

 そんな心の葛藤と戦っている健斗を気にした様子も見せずに、知果は天使のような笑顔を浮かべながら、健斗のその顔を覗き込んでくる。

唯一の男の子って……この歳になって言われるのもかなり照れくさいかな? まぁ、確かにこの家には出張から帰ってこない叔父さんを除くと、男は俺しかいないわけだし、小さいレディーと、大人の女性の二人の暮らしを支援できるのであれば買って出るけれどね? 家賃をタダにしてもらっている以上はそれなりに自分の肉体で労働報酬を払わなければ……ん?

テレビから視線をそらせ、奥にある客間であろう和室に視線を健斗が向けると、その視線の先には洗濯物が干されている。別にそれだけであれば、然程気にもしないのだが、その洗濯物の中に違和感を覚えて、ついそれを凝視してしまう。

あれって、もしかして……。

どう見ても小さい娘がつけるような下着ではなく、大人の女性が着けるにはおとなしすぎる物が、暖気の流れに揺らめきながらぶら下がっている。

どう考えてもおかしいよな? 知果の物では無いよな? さっきも見てしまったけれど、あんな物を履く歳にはなっていないようだし、だからといって深雪さんの物にしてはそのデザインでは幼すぎる……だとするといったい誰のなんだ? あのピンクのボーダー柄のパンツと星模様のブラジャーは……。

中学から高校までの都合六年間、ほとんど女の子との接触のなかった健斗にすれば、そんな物を目にする事など、デパートに自分のパンツを買いに行った際に視界の片隅に見るだけで、こんな近くでそれを見る機会などなく、その青少年の身体の一部を鈍く刺激する。

「ん? あらあら、琴音ちゃん起きたのね? 下着をこんな所に干しちゃって」

頬を赤らめている健斗のその視線に気が付いた深雪は、たいして慌てた様子も見せずにその洗濯物をハンガーごと取り上げると、違う所に移動させる。

琴音?

聞きなれない固有名詞が深雪から発せられ、それに健斗は首を傾げながら、背後にチョコンと座っているであろう知果に視線を向けようと首を動かす。

第二話へ。