第二話 一つ屋根の下
=Ⅰ=
「あれ? 琴姉ちゃん起きたんだぁ? 早いね?」
「あんなに早い時間に、みんなでガサゴソしていれば目も覚めるわよ……って」
背後で二つの影が動く気配を感じる事ができる。一人は知果であるという事はその声によりこれが間違いないという確信ができるが、もうひとつは深雪さんでなければ人数が合わない。しかし、その声は俺の記憶の中では聞いた事のない人物の声だよな? しかも深雪さんは、いま自分の前でノホホンと洗濯物を片付けている……という事はだ、いま俺の背後で知果と会話をしている女の子は一体誰なんだ?
健斗の頭の中に一秒足らずで発生した疑問を払拭しようと一気に振り向くと、そこにはバスタオルを一枚だけ身にまとった格好をした女の子が、まん丸の目をさらに丸くして、まるでお化けでも見ているかのような顔をして健斗の顔を見ている。
「キッ……キャァ――――――!!!」
耳をつんざく声というのはこの事を言うのだな? その声は、俺の聴力を一瞬にして奪うには十分すぎるぜぇ、いまだに耳の奥で共鳴していやがる。
そのタオル娘のあげた悲鳴は、近くに置かれていた食器棚のガラスをビリビリと振動させ、知果は顔をしかめながら手で耳を覆わらせ、恐らくその攻撃のターゲットになった健斗の耳からは、感覚を失わせるほどの破壊力があるものだった。
「どうしたの?」
さすがの深雪も、驚いた表情を浮かべながらそのタオル娘に顔を向けると、タオル娘は半泣きの表情で深雪の顔に訴えかける。
「み、深雪さん、この痴漢は、一体誰なんですか!」
痴漢とは随分と失礼な言われようだな? 変な人と妙なオブラートを通したような言われ方はした事があるけれど、痴漢とまでひどい事を言われた事は無いぞ? この世に生まれてから十八年間、そこまで愚弄されたことはない!
健斗は、キッとその女の子を睨みつけると、その視線が再び合う。
「キャァ~! ちょっと、こっち見ないでよ!」
タオル娘は叫びながら台所の陰にその身体を隠し、顔だけをそこから覗かせながら、健斗の顔を睨みつけている。
「あっ、ごめん……って、何で俺が誤らなければいけないんだよ!」
健斗も反射的にそのタオル娘に対して背を向けるが、あまりにも理不尽すぎるその女の子の言葉に対して、背中越しに文句を言うが、
「うるさい! 痴漢!」
タオル娘も負けずに健斗に対して反撃してくる。
「あのなぁ、痴漢、痴漢言うな! なんだって俺が痴漢なんだよ! 知らない人が聞いたら本当に痴漢に勘違いされるじゃないか!」
健斗はタオル娘に背中を向けながらも口撃を向けるが、どうにも自分にとっては分が悪いような気分になってくる。
「うるさい! 本当に痴漢なんだから痴漢以外になんと呼べばいいのよ!」
タオル娘はその口撃の手を緩めようとはせずに、たたみ込む様に健斗に罵声を浴びせる。
痴漢痴漢って連呼しないでくれないかなぁ……しかし、事故とは言え、女の子の半裸姿を見てしまったのは、俺も悪いかもしれないよな……しかも見た感じではお年頃のようだし……。
「まぁまぁ、二人ともそんなに熱くならないでぇ……健斗君はそのままそっちを向いてくれるかしら? 琴音(ことね)ちゃんは部屋に戻って早く服を着てきなさい、いつまでもそんな格好でフラフラしていると風邪をひくわよ?」
風邪をひくとかの問題なのかなぁ……それ以前のような気がしないでもないんだけれど。
深雪さんが笑顔を浮かべながら仲裁に入ると、健斗の背後で女の子がトントントンと階段を上がっていく音がして、リビングに静寂が戻る。
「ハイ、健斗君、もうこっちを向いていいわよ」
深雪の合図で健斗が振り向くと、当然の事ながらそのタオル娘はいなくなっており、深雪が微笑みを浮かべながらそこに立っている。
「はぁ~驚いた……なんなんですか? 今の娘は……」
健斗はため息を吐き出すとともに、一気に疲れたようにその身体をソファーに沈め込むと、それまで傍観者顔をしていた知果が、まるで楽しいものを見たというような笑顔を浮かべて、健斗の隣にちょこんと座る。
「ごめんねぇ、後でちゃんと説明するつもりだったんだけれど……彼女は、うちの旦那の友達の家の娘さんなのよ」
深雪は、ソファーで疲れきったようにぐったりしている健斗に、申し訳なさそうに苦笑いを浮かべてコーヒーを渡してくれる。
「叔父さんの友達の娘という事はわかりましたが、その彼女が何でここにいるんですか? しかもあんな格好をして……」
チラッと見たさっきのその姿が頭に浮かび上がり、青少年の証を刺激するが、目の前に置かれ、いい香りと湯気をたたえているコーヒーをすすると、今まで上昇しっぱなしだった健斗の血圧が徐々に落ち着いてくる。
「うちに下宿しているのよ……彼女」
思いもしなかった深雪の一言に、健斗の頭の思考はフリーズし、その顔は見事なまでの間抜けな顔を形成させると、頭上には大きなクエスチョンマークが浮かび上がる。
「はぁ?」
そんな間抜け面の健斗に、深雪は苦笑いを浮かべたままキッチンに消えてゆく。
ちょっ、ちょっと待ってくれよ? この家に下宿しているという事は、彼女はここに住んでいるという事なのか?
間抜けな顔から難しそうな顔をする健斗は、眉間にシワをよせ、その深く刻まれたシワの深さを測るかのように人差指でなぞる。
「ハァ~ィ! 琴音おねえちゃんでぇっす! 琴姉ちゃんは今年から明和大付属高校の三年生だよ、ちなみにぃ、ボクは明和大付属中学一年B組でぇっす!」
知果は能天気なまでに元気よく手を上げるが、彼女たちの通っている学校の名前に聞き覚えがある事に健斗は気がつき、その顔を上げる。
ん? ちょっと待てよ? 明和大って、俺が四月から通う大学の事じゃないか?
「明和大付属って……もしかして……」
振り絞るような声を上げる健斗に、キッチンからトーストを持って戻ってきた深雪が、それまであった事を気にした様子も見せずにニッコリと微笑む。
「そのとおり、明和大学は小学校からの一貫教育をモットーにしている学校で、小・中・高と、同じ敷地内に併設されているの。ちなみに知果は小学校も明和大付属よ」
一瞬にして深雪の一言が健斗の頭の中のモヤを吹き飛ばしてくれた。
ハハ……確か学校案内にそんな事も書いてあったような気がする……。けれど、それとこれでは問題のレベルが違いすぎないか? 少なくとも彼女は高校三年の女子高生で、俺は大学一年の男なんだ、そんな二人が同じ屋根の下で暮らすと言うのは倫理上に問題があるように思えてならない。深雪さんと知果においては親戚という事で問題無いにしても、あのタオル娘とはそのような規制がないわけなのだから……って何を考えているんだろう俺は……。
「でも、それじゃあ……」
「なによ、何か不満でもあるの?」
面白いぐらいに動揺の表情を浮かべている健斗に対して、明らかに不機嫌そうな声が聞こえそこに顔を向けると、リビングの入口にハイネックのTシャツにジーパンという随分とラフな格好をして腕組みをしているタオル娘の姿があった。
「別に……」
健斗はその姿に気がつくと、再び自分の血圧が上がっていくような気がして、挑発的な態度をとるタオル娘から視線を外すが、不穏な空気はそのままリビングに流れている。
「ねぇ琴姉ちゃん、おにいちゃんと仲良くしてよね?」
知果がその空気を読み取ってなのかはわからないが、その剣呑な空気を払拭するようにニッコリと微笑みながらタオル娘の事を見る。
「ウ~ン、それはどうかなぁ? 知果ちゃんのお願いだから、何とか聞いてあげたいところなんだけれど……どうもねぇ……」
タオル娘は知果の頭にやさしく手を載せながら微笑むもの、次に健斗にその視線が向く時には、それまでの穏やかな視線は険のあるものに変わる。
なんだぁ? やけに好戦的な表情だな、まだやるっていうのか?
普段であれば穏やかな健斗であっても、そこまで酷い事を言われれば黙っている事などできず、その視線にも険しさが増す。
「はいはい、とりあえずコーヒーでも飲んで、少し落ち着いたら琴ちゃん?」
そんな不穏な空気を打ち消すように、深雪がさりげなく二人の間に割って入り、湯気が立っているコーヒーカップをタオル娘に差し出す。
「あっ、すみません、いただきます」
カップを受け取ったタオル娘は、それまでの好戦的な態度を一変させると、一気にしおらしい表情を浮かべながら、知果の座っている隣の椅子に腰を落着かせる。
しおらしい所だけを見ると確かに可愛いらしい女の子に見えるけれど、一言口を開けば人を罵倒する言葉しか出てこないところを見ると、彼女の言うとおり俺と彼女は仲良くなれないのかもしれないな? 少なくともお互いの第一印象は最悪のはずだ……。
「琴姉ちゃんは、おにいちゃんの事が嫌いなの?」
知果が困ったように眉毛を八の字にしてその顔を覗き込むと、コーヒーカップを少し乱暴にテーブルに置くと、キッとその険しい視線を健斗に向けてくる。
「まぁ、好きではない事だけは確かね!」
即答断言するかふつう……、初対面に人間に対しては少しぐらいの気遣いと言うものがあんたにだってあるだろう? それを面と向かって断言されると言うのは少し寂しいかも……。
「琴姉ちゃん、こう見えてもおにいちゃんいい人だよ? 優しいし、背が高いし」
こう見えてもって、知果ちゃん、それってどういう事なの? 俺の気のせいなのか、弁護されているような気がしないけれど、まあ、救いの手を向けてくれただけでも感謝します。
知果の一言に苦笑いを浮かべるしかなかった健斗の事を、タオル娘はチラリと一瞥する。
「まっ……まぁ、悪人ではないという事はわかるけれど……」
チラッと健斗を見ると、徐々にタオル娘の台詞はしどろもどろになり、それまで険しかった視線を、所在無げに宙に泳がせはじめる。
「だったらいいじゃない、別にバッチリ見られた訳じゃないんだし、減るもんじゃないでしょ? 飼い犬に噛まれたと思って、ほらぁ、仲直り!」
――知果ちゃん、その例えの使い方は間違っていると思うよ、それを言うなら野良犬に噛まれたが正しい例えだと思う……って、俺はそんなに酷い事を俺はしたのか?
知果はそんな健斗の心の突っ込みにまったく気がつかずに、グイグイと健斗とタオル娘の二人の手を引くと、強引に握手させようとする。
「ちょ、ちょっと知果ちゃん」
タオル娘は少し戸惑ったような表情を浮かべて知果の顔を見ると、今までで一番接近したであろう健斗の顔を照れくさそうに見る。
「おいおい……」
知果によるあまりにも強引な和平案に、健斗も戸惑いを隠せない。
「はい! 握手! しぇいくはんど、だよ?」
しぇいくはんどって……坂本竜馬じゃあるまいし……。
以前読んだ本に書かれていた坂本竜馬の一言を思い出しながら、健斗は苦笑いを浮かべ、やがて根負けしたような格好の二人は、知果の力を借りてだが、和平の象徴である握手を行なう。
すげぇ温かい手をしているなぁ、この娘……。
タオル娘の手に触れた途端に伝わってくるその温かさに、健斗は素直に驚いた顔をして、少し口を尖らせながらも、照れ臭そうに視線をそらせているその顔を見つめる。
…………よしっ!
健斗はそんなタオル娘――琴音の顔を見ながらバツが悪そうに鼻頭を人差指で掻くと、意を決したように目をつぶりながら口を開く。
「そのぉ……さっきは悪かったな……」
仮に……いや、間違いなくなんだが、事故とはいえ彼女のセミヌードを見てしまった以上は謝るしかない、衆人から見れば、きっと俺の方が百パーセント悪いと言われるであろうし、何となく俺自身も悪い事をしたような気がする。であれば、いつまでもグチュグチュした気分でいるのは嫌だ、少しでも自分に非があるような気がするのであれば素直に謝った方がいい。それにこれから同じ屋根の下で暮らしていくのであれば、わだかまりを残しておきたくないという気持ちもある……俺って典型的な日本人だな?
深々と頭を下げないのは健斗の最後の意地なのか、それとも恥ずかしさのためなのか、そっぽを向きながらも小さく頭を下げている。
「エッ?」
琴音は素直に頭を下げている健斗の事を、戸惑った顔をして見つめる。
「なんだよ……」
健斗はそんな琴音に対して口を尖らせて、ちょっとムッとした表情を浮かべながら琴音を見るが、彼女はそれまでの態度から打って変わって、眩いばかりの微笑みを健斗に向ける。
オッ?
そんな琴音の笑顔に健斗の頬は思わず熱を帯びると、それを隠すように顔をあらぬ方に向けて、わき目でその笑顔を盗み見る。
なんだ? この娘はこんなに可愛い笑顔を浮かべる事ができるんじゃないか? さっきまでのツンツンしたイメージがその笑顔で払拭されちまったよ……。
その笑顔に対して、自分の胸が高鳴っている事にはこの時点では健斗は気がついていない。
「ウウン、あたしこそごめんね、あんな酷い事を言って……ちょっとビックリしちゃって、あたし、沢村琴音(さわむらことね)、よろしくね?」
今度は琴音自身の意思で手を差し出すその姿は、健斗の知っている中ではかなり可愛いと評価する事ができる事が出来る容姿をしている。
確か高校三年といっていたが……美音と同じかぁ……当たり前の事なんだけれど、同い年でも性格がまったく違うよな?
「なに?」
背中まであるであろう長い髪の毛をポニーテールにしている彼女は、小首を傾げて健斗の顔を覗き込んでくる、その表情は知果から聞いていた年齢よりも少し幼く見える。
美音と同い年にしてはちょっと幼い顔立ちをしているかな? 美音が大人っぽいわけじゃないけれど、やっぱり美音の方が上かも……。
そんな失礼な事を考えている健斗の気持ちが琴音に伝わったのか、小首を傾げていた琴音の表情に少し険が現れはじめる。
「あっ、いや、別になんでもないよ、俺は茅沼健斗だ、よろしく」
健斗は取り繕うようにそう言いながら、琴音から差し出されたその手を握り返すと、隣にいた知果は嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「これで、おにいちゃんと琴姉ちゃんは仲良しだね?」
そんな単純なものではないと思うけれど……でも、確かにこれからは仲良くしていきたい気持ちはあるかな? 同居人として暮らすわけだし。
そんな言葉に健斗と琴音は顔を見合わせ、お互いに作ったような笑みを浮かべる。
「ハイハイ和平が成立した所で、それじゃあ朝食にしましょうかしらね? 健斗クンはトーストと目玉焼きでいいかしら?」
キッチンからコーヒーサーバーに入ったコーヒーを持ちながら出てくる深雪さんは、優しい微笑を健斗に向けて、既に一敗目が空になったカップに注いでくれる。
「ハイ、よく考えたら、昨夜上野駅で『立ちソバ』を食べたきりで、列車の中ではその他何も食べていなかったですね?」
「立ちソバ?」
キョトンとした顔をしている琴音に、健斗は苦笑いを浮かべる。
「そう『立ち食いソバ』の事だよ。忙しいサラリーマンのお父さん方の味方だよ『早い・安い・うまい』ってね? 俺も学校の近くにあった店でよく食ったよ」
琴音は呆れたような顔をして健斗の顔を覗き込む。
「呆れたぁ、自分で料理とかはしなかったの?」
「ハハ、苦手でした……それに、ここに来る時だって駅弁にしようと思っていたんだけれど、最近のそれって意外に高くってね?」
経済的には親からの支援があるとはいえ、引越しやら、函館までの交通費などで今月はちょっと赤字気味のため、駅弁よりもリーズナブルな立ち食いを食べるに留まっていた事を思い出すと、健斗の腹はキッチンから香ってくるベーコンを炒める香ばしい匂いに、思わずグゥという音で元気に答えたようだ。
「立ち食いだけじゃあお腹がすくわよね? ウフ、じゃあ早く作るようにするわね?」
健斗の鼻先をチョンと指で突っつき、琴音や知果と違った甘い香りを健斗の鼻腔に残して、深雪はキッチンに姿を消す。
大人の色気というやつですか? 若い女の子には無いフェロモンが……さっきまで納まっていたというのに……。
再び青少年の一角が首を持ち上げ始め、健斗は紛らわせるようにテレビに視線を向ける。
「あ、じゃああたしも手伝いますよ、自分の分も作らなければいけないし」
深雪の後を追うように琴音は腰を上げキッチンに消える。
「琴姉ちゃんって、ああ見えても料理が上手なんだよ?」
テレビを見ていた知果が視線を健斗に向けるが、その目は少し意地の悪いものが混じっているようで、その口の端も上がっている。
それはどういう意味なのかな?
健斗はわけがわからんといった顔をしながら知果の顔を見ていると、知果のその表情は、嬉しそうに満面の笑顔に変わる。
「エヘへ、だってぇ、料理の苦手なおにいちゃんからすると、料理が得意な女の子ってポイント高いでしょ? それにぃ琴姉ちゃんって可愛いから、もしかしたらおにいちゃんが惚れちゃうんじゃないかなぁなんて、ねぇどう思う琴姉ちゃんの事ぉ」
もしかして、知果は俺と琴音をくっつけようとしているのか?
知果の一言に、健斗の顔には困惑したようなものが浮かび上がると、その様子は知果の思惑の想定外だったようで、それまでの意地悪い顔は、そのまま驚きの表情へ変化する。
「エッと、もしかして、おにいちゃんって好きな人がいるのかな? 東京に遠距離恋愛になっちゃった彼女がいたりとかしちゃったりして、その人を一途に思っているとか……」
……まあよくもそこまで考えが回るものだ、呆れるを通り越して、感心してしまうよ。
「お生憎様、俺にはそんな人はいないよ、彼女だって厳密に言えば……いない」
一瞬健斗の頭には美音の顔が浮かび上がるが、彼女は特定の彼女と言うわけではないし、彼女に告白されたから付き合いますというわけでもない、とりあえずはメール友達と言う事から始めるという事で合意している。
「厳密に? と言うことはそんな人がいるの?」
まるで芸能レポーターのような顔をしながら、知果は健斗に質問を浴びせてくる。
=Ⅱ=
「疲れたかも……」
窓から差し込んでくる日差しがだいぶ傾きはじめている。
俺が初めてこの街に足を踏み入れてから、既に十時間が経過しようとしており、片付けを手伝ってくれている知果ちゃんの表情にも疲れた表情が浮かんでいるな?
「知果ちゃん今日はこれぐらいにしておこう、ダンボールも全部開いたし、後は収納するだけだからもう大丈夫、寝る場所も確保できたからね」
健斗はそう言いながら、高く積まれている荷物の山の中で、ポッカリと穴の空いたようになっているベッドを見る。
とりあえず寝床だけでも確保できれば何とかなる、後は野となれ山となれだ。
「ウン、ボクも疲れたよ……」
「アハハ、本当にありがとう知果ちゃん、これを一人でやっていたら、いつ終わるのかわからなかったよ、手伝ってくれた御礼に今度ご馳走するね」
笑顔を浮かべながら健斗はそう言い、知果の頭をポンポンと撫ぜると、知果は少し頬を赤らめながら、まるで猫のように嬉しそうに目を細める。
「あたしはラッピのチャイニーズチキンバーガーでいいわよ」
部屋の入口から声がしてそれに視線を向けると、そこには呆れたような顔をしている琴音が立っており、その惨状とも呼べるような部屋の中を見つめている。
「あんたには関係ないだろうに? とくに手伝いもしないで……」
健斗は苦笑いを浮かべて琴音の事を見ると、その横では知果もそんな健斗の意見に同意したようにブンブンとうなずいている。
「仕方がないじゃないのよ、貧乏学生だからバイトに行っていたの、手伝おうと思って早く帰ってきたらお開きになっちゃっていたと言うのがこの現状なんだもん……ねぇ、本当にこれでお開きにしちゃっていいの?」
足元に置かれている(散らかっていると言った方が適切かもしれないが)本や、着替えを踏まないようにソッと入ってくる琴音の言葉に、健斗は一瞬怯む。
ウッ、確かに……この状態では夜トイレに行く時につまずいて、余計に散らかすのが容易に想像できてしまうよな?
そんな健斗の事を、琴音は目を眇めながら見つめている。
「それとも、知果ちゃんと二人きりでいたいのかしら? お礼と称して知果ちゃんだけにおごるだなんて、ひょっとしたら……あなた……」
琴音が何を想像したのかは、その表情が雄弁に物語っている。
うぉい!
「んなわけないだろ! それじゃあ犯罪者になっちまうぜ」
この娘の想像した事がすぐにわかったぜ。絶対にとんでもない事を想像したに違いがない、多少の事ならまだしも、そんな誤解だけは放置しておく訳にはいかない。
その琴音の疑惑を、真っ向から否定する健斗の表情は必死で、頭から湯気が出るほどの勢いで琴音に詰め寄る。
「そうなの?」
しかし、そんな健斗にも動じた様子も見せずに、軽蔑したように目を眇めたままでいる琴音は、その疑惑を拭い去る事ができないようにその顔を見据えている。
「当たり前だ!」
唾を吐きかけるような勢いで健斗はぴしゃりと言い放つ。
「じゃああたしにもおごって?」
だから……何でそうなるんだよ……。
ニッコリと微笑む琴音の顔に、根負けしたように健斗の体から力が抜けてゆく。
「だったら、今度三人で行こうよ、ラッピ」
その状況を取り繕うかのように知果が言う。
まさか中学一年生の少女にその場を取り繕ってもらえるとは思ってもいなかったよ……我ながらちょっと情けないかも……。
苦笑いを浮かべる健斗に対して知果はニコッと微笑む。
「それにしても本だらけね?」
琴音はそんな事を気にした様子もなく、足元に積み重なっていた文庫本の一冊を取り上げると、その中をパラパラとめくって見る。
「あっ、ちょっと勝手になに見ているんだよ!」
健斗はあわててそれを取り上げようとするが既に時遅し、琴音は中身を見て驚いた表情を浮かべ、次にニヤッと皮肉ったような顔をして健斗の顔を見る。
あちゃぁ~、なんだか自分の恥ずかしい所を見られたような感じかも……よりにもよって、この娘に見られるなんて、ちょっと照れ臭いぜぇ。
「これって恋愛小説じゃない?」
キヒヒと口を横に広げながら、茶化したような顔をする琴音は、その文庫本をさらにパラパラとめくって中身を見ている。
「悪いかよ……」
健斗はムッとした表情を浮かべて琴音の事を睨むが、その頬は照れくさそうにちょっと赤らんでおり、琴音はその顔に対して今度は優しい微笑みを浮かべる。
「ううん、別に悪くはないけれど、ちょっとイメージが違うかな? あなたってどっちかというと漫画ばかりだと思っていたから」
再び琴音は視線をその文庫本に落とし、それをしみじみと読み出す。
「人のイメージというのは、必ずしも自分の思った通りにならないと言う事を思い知ったか」
健斗は少しやけ気味にそう言うが、琴音から特別な反応は返ってこない。
おいおい、今度は無視ですか? 少しは何とか言ってくれよ……開き直って言っている自分が情けなくなるじゃないか。
「――これ面白そうね……」
視線をその本に落としたままにしながら琴音がつぶやき、健斗が横からそれを覗き込むと、その手に持たれているのはシリーズ物の恋愛小説で、自分でも結構気に入っている作品だった。
「うん、それは面白いよ、今三巻まで出ているけれど、五月に新刊が出るらしいね? その作家さんの小説は結構現実味があるから面白いんだ」
健斗の物言いに対して小説に視線を落としていた琴音は、驚いたような顔をしながら顔を上げて健斗の顔を見つめている。
いけね、つい好きな小説だから力説しちまった……ちょっとオタクっぽかったかな?
後悔先に立たず……すでに健斗の口から出た台詞を元に戻す事はできない。
「へぇ……あなたって本当に小説が好きなのね?」
後悔しきりの健斗はバツが悪そうな顔をしているが、しかし琴音からは軽蔑されたような表情はなく、むしろ感心したような顔をして健斗の事を見ている。
「琴姉ちゃん、あたしはこれが面白そうだから借りたよ?」
横で知果も文庫本を三冊取り出す。それは恋愛を主体にしたライトノベルで、イラストが多く漫画チックではあるが、話の内容はむしろ普通の恋愛小説よりも現実的で、入り込みやすいかもしれない、それにしても知果も恋愛に興味を持つ年代になったのかと思ったよ。
ニコニコする知果に相槌を打ちながら琴音はその部屋の様子を見渡す。
「それにしても本当に本ばかりね? 何でこんなにいっぱいあるの? 見れば小説以外にも、旅行雑誌とかも結構あるし、まるで図書館みたい」
琴音は本が主体になっている健斗の部屋の中を見回し終わると、ため息ともつかない吐息を吐き出して健斗の顔に向く。
「――笑わないでくれよ? 俺は小説家志望なんだよ、たまに自分でも書いて投稿はしているし、知合いと一緒に同人誌も出したりしている」
健斗は言い難そうにボソボソっと答えると、琴音からの冷やかしたような声は聞こえてこないで、内心ホッと胸を撫で下ろす。
昔の友達からは、その時点で大笑いされた事があったけれど、こいつはそこまで酷くはないのかな? 真剣に俺の話を聞いてくれているみたいだ。
「フーン、じゃあおにいちゃんはSFとか、魔導師物とかも書くの? アドベンチャー系というんだっけ? 魔法を使ってエイってやっちゃったり、怪しい呪文で敵を倒したりとか、お城に閉じ込められたお姫様を助けに行ってモンスターと戦ったりとか……」
その話しに、知果は少し驚いたような顔をしながらも、どこかワクワク感を隠せないように健斗の少し赤くなった顔を遠慮なく覗きこんでくると、納得顔をしながら本を大切そうに抱えていた琴音の表情がちょっと輝く。
「も、もしかしてボ、ボーイズラブ系だったりして……」
琴音はそこまで言いながら、照れくさくなったのだろうか、その顔を耳たぶまで真っ赤にしているが、その眼の輝きはそれまで以上にきらめかせている。
おいおい……。
「お生憎様、俺の書くやつは恋愛系と旅行紀行関係ばかり、たまにファンタジー系も書いたり、SFを書いたりもするけれど、俺の主はその二点が多いな」
確かに最近の小説にはそういった類のものが増えてきている。その作風は否定しないが、あまり書き慣れないせいなのか、自分の中に抵抗があるのも事実。俺の書く本には魔法も出てこなければ妖怪も出てこない、普通の日常の中にあるドラマを書くのが信念みたいになっているかもしれない……だからダメなのかなぁ……とちょっと反省。
「フーン、そうなんだ……という事は、この本の山の中にそういった類のものはないのね?」
それまできらめいた表情だった琴音の表情がちょっとがっかりしたものに変わり、それに対して健斗は苦笑を浮かべる。
最近の女子高生の間では、いわゆるボーイズラブ物と呼ばれている物が流行っているらしく、文芸部に所属していた女の子の中でも何人かが書いていたらしいが、顧問の先生にそれがバレて却下されていたよな? まぁ、文化祭でコッソリと売って、かなり儲かったという話を聞いた事があるが、俺にはそんな世界はわからんし、わかりたいとも思わん……いわゆる男と男の恋愛物なのだが、俺にはいまいちそれが理解できん。確かに同性での恋愛も在りかなとも思わなくも無いけれど、それを物語として書き綴るには、俺の経験値が少ないと思うし、やはりノーマルの恋愛感が一番良いと思っているよ。
「ネネ、今度書いてみない? ボーイズラブ物」
よほど諦めきれないのだろうか、琴音は顔をズイッと健斗に近づけてきたかと思うと、その大きな瞳を輝かせながら、鼻息を荒くしている。
「い・や・だ!」
健斗は間髪いれずに答えると、琴音は拗ねたように口を尖らせながら、さくらんぼのような色をした舌をベェッと出し、軽く健斗の事を睨みつけてくる。
「まぁ、別にいいけれど……そうだ夕食の準備をするから、知果ちゃんを借りていくわね? それとあと……この本借りていって良いかな?」
少し照れ臭そうにする琴音は、健斗がうなずくのを見ると嬉しそうな顔をして、その本を胸に抱えて健斗の部屋を出てゆく。
「健斗クンは明日からどうするの? 学校はまだでしょ?」
夕食の食卓は今まで一人で食べるのが当り前で、これだけの大人数で談笑しながら食べるのは何年ぶりだろう? それまでコンビニ弁当を儀式的に食べていた夕食が、こんなにも楽しかったという事を忘れていたよ、ただそれだけでも料理が美味しく感じるのに、深雪さんの作る料理がこれまた天下一品の味で、元々ホテルのコックをやっていたという腕はさすがプロだし、料理が得意といっていた琴音の作ったという煮物も美味い。いわゆるお袋の味と言うのだろうか、俺の口にはベストマッチしている気がして箸が止まらないぜ。
ニコニコしながら箸を進めていた健斗だったが、深雪の質問にその手を止め、口の中に入っていた物が全て喉を通り過ぎた事を感じてから口を開く。
「はい、学校は来週からだし、買い物ついでに明日あたりからこの辺をちょっと散策してみようかなと思っていたんですよ、函館は生まれて初めての街ですし、色々な名所や旧跡がある街だからちょっと見てまわってみようかなって思っていたんですよ」
ここに引っ越してくる事前にリサーチしておいた場所が数箇所あり、そこに行く事が明日の目標だったし、知り合いからは美味しいお店もあると聞いているので、暇にはならないで済みそうだ……本当はあの散らかった部屋を見たくないという現実逃避も若干入っているけれど。
「もしなんだったらボクもお付き合いしようか? ボクは東京から引っ越してきてからもう三年経つし、おにいちゃんよりはこの街の事は知っていると思うよ?」
先に食事を終わらせた知果が、健斗の横で自慢げに鼻を膨らませながらそう言うと、対面に座っていた深雪はポンと手を叩き、それに賛同の意思表示を表す。
「あら、それはいい案ね? どうせ家にいたって漫画を読んでいるだけなんだから、健斗クン、もしも邪魔じゃなかったら連れて行ってくれるかしら?」
フム、一人で巡るよりも、この街に慣れた人と歩く方が楽しいだろうし、何よりも心強い。
「邪魔だなんてそんな、むしろ俺の方が歓迎ですよ、知果ちゃんのガイド付きで函館見物かぁ、なかなかいい企画だね、お願いしちゃおうかな?」
深雪の一言に頬を膨らませていた知果だったが、健斗の言葉にその顔に笑みをあふれさせ、健斗の腕に抱きついてくる癖は、その昔と変わらないが唯一変わったのは……。
なにやら柔らかいものが腕に当たってくる……。
あまりそういうシチュエーションに慣れていない健斗の頬は、無意識に赤く反応をするが、その変化に気がついた人間は誰もいない。
「ウンまかせて! お願いされちゃう!」
そんな健斗のドキドキを気にもしないで、知果は嬉しそうな顔をしながら健斗の顔を見つめており、その横では食事を終えて、食後のお茶を飲みながら真剣な表情を浮かべている琴音が、健斗の部屋から持ち出した小説を読みふけっている。