第三話 函館の街



=T=

「いいんですか? 車を使わせてもらっちゃって」

広い敷地に止まっている車は、ミニバンと呼ばれるワゴン車と赤い軽自動車の二台で、健斗はその中のワゴン車を使わせてもらう事になった。

「別にかまわないわよ、あたしが使うんじゃあこの車はちょっと大きすぎてね? たまに旦那が帰ってきて使うだけだから、むしろ使ってもらった方がいいのよ、ここからバスで市内に出るのも結構大変だし、いつでも使ってくれてかまわないわよ」

深雪はニッコリと微笑みながら車のボンネットをポンと叩く、そのボンネットには一応若葉マークが貼り付けられているが、去年の六月に免許を取ったので、まもなく一年が経過しこのマークともおさらばになる。

「助かります」

「結構向こうでも運転したの?」

 ペコリと頭を下げる健斗に、深雪は微笑みながら質問を向けてくる。

「はい、向こうでも友達の車とかをよく運転していたし、結構出かけるのが好きなので、車の運転にはだいぶ慣れました」

 東京にいる頃は軽井沢や江ノ島などに友達とよくドライブに行ったし、その友達の車は、グレードこそこちらの方が上ながらも同じ型のワゴン車なので別に気にはならない、むしろ都内のごちゃごちゃした道を走るよりはこちらの方が楽であろう。

「そうだったら安心ね? でも、こっちの人の車の運転はマナーがあまりよろしくないという噂だから十分に注意してね? 安全運転が第一よ?」

深雪は子供をやさしく諭すように、人差し指を健斗の鼻先につけながらそう言うと、大人のフェロモンが健斗の鼻腔に広がり体の一部を刺激してくる。

だぁ、まただぁ……狙っているわけではないのだろうけれど、深雪さんのこの攻撃には気をつけないと、いつ理性が吹っ飛んでしまうかわからないよぉ……。

「ハッ、ハイ、十分に承知しています、知果ちゃんも一緒ですから、安全第一を心がけます、それじゃあいって来ます」

 まるで逃げ込むように健斗は運転席に乗り込み、すでに助手席に乗り込んでシートベルトを締めている知果を確認していると、玄関先から琴音の慌てたような声が聞こえてくる。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

エンジンをスタートさせて、ドアロックしようとしていた健斗の一連の動きが止まると、ガラッというけたたましい音とともに、スライドドアが開いたかと思うと、問答無用で琴音が後部座席に乗り込んでくる。

「な、なんだぁ?」

素直に驚いた顔をしている健斗はその姿をバックミラーで覗き見ると、琴音はちょっと息を切らしながらもホッとしたような表情を浮かべている。

「どうせ函館は初めてなんだから元町方面にいくんでしょ? したらあたしも連れて行ってくれないと……昨日の約束を忘れたとは言わせないわよ?」

昨日の約束? あぁ、ご馳走の事か……忘れてはいないけれど、なにもそんな事だけのために、そんなに慌てて来る必要もないんじゃないのか?

 健斗の呆れ顔を琴音はバックミラー越しに見たのか、顔に苦笑いを浮かべさせる。

「と、とにかくほれ、出発! 出発!」

照れ隠しなのか、無駄に元気を出す琴音の一言に、健斗は助手席に座る知果と顔を見合わせ、ため息を付き合いながら健斗は車をスタートさせる。

まぁいいかな? むさ苦しい男連中と一緒じゃないだけでもよしとしておこう。

 健斗はクスッと微笑みながら、大通りに向けてハンドルを操作する。

「何よぉ、あたし何かおかしい事をしたかしら?」

 後席から琴音の膨れた顔が運転席に突き出される。

「何もしていないってば、どうでもいいけれど、後席の方もシートベルトをしてくださいねぇ、まもなく一年とはいえ、まだまだ免許取立ての初心者ですからぁ」

 おどけたようにいう健斗に、琴音はブツブツ言いながらもシートに身を任せる。



=U=

「これはどうも……確かになかなか運転し難いかも……」

函館の外側を東西に半円の形で走る幹線道路の『産業道路』に出ると、それまで僅かだった車の量が一気に増え、乗用車だけではなくトラックや、観光地ならではなのだろうか観光バスなどの大型車の姿が多くなる。東京のような酷い渋滞こそしていないものの、他の車の動きにかなり運転がし難くなる。

結構車通りが多いんだな……それに深雪さんが言っていた通りだ、確かにマナーが悪いと言うのか、ウィンカーも点けないで曲がる車を結構見るし、いきなり右折するために右側の車線で止まってしまう車も多く見られる、割り込みも多いし、こんな運転をしていたら東京では間違いなくクラクションの嵐だぜ……。

少しヘキヘキした顔をしている健斗に、助手席に座ってナビを操作していた知果が、少し心配そうな顔をして覗かせてくる。

「おにいちゃん大丈夫?」

 健斗の顔にあまり余裕の無い顔をしているのが知果にわかったのか、その表情にも一抹の不安がよぎったようで、さらにその顔を曇らせる。

「な、何とかね? それより知果ちゃんナビよろしく」

 ルームミラーやドアミラーというミラーを全て駆使して車の周囲の状況を把握するため視線をキョロキョロと動かしているものの、健斗は勤めて冷静を装いながら知果の問いに答えるが、結構緊張しているという事はハンドルを握るその手を見れば明らかだ。

 こんなに周囲の動きに気を配ったのは初めてかもしれないぜ……。

「あたしはこんな所であなたと臨終なんて嫌だからね?」

 再びセカンドシートから身を乗り出してくる琴音に対して、健斗は口を尖らせる。

「だったらここで降りるか?」

「冗談でしょ? あんたにおごってもらうまでは降りないわよ」

 そう言いながら再びその身をシートにもたれかかせる。

 素直じゃないなぁ、というよりも命を掛けてまで俺におごってもらいたいのかこの娘は、それともただの食い意地だけだったりして。

 バックミラー越しに琴音の顔を見ると、その視線がばっちりと合う。

「あんたいま失礼な事考えていなかった?」

 セカンドシートからニュッと細い手が伸び、その手が健斗の首を絞める。

「ちょっと苦しいって! 本当に臨終しちゃうぜ」

 瞬間車がよろけ、後ろから走ってきた観光バスにクラクションを鳴らされる。

「まぁまぁお二人さん、あたしだってまだ若いんだから死にたくないよ、だからそれぐらいにしてくれると嬉しいんですけれど……それよりおにいちゃんはどこか行きたい所あるの?」

 助手席で苦笑いを浮かべながら知果が促してくると、琴音は口を尖らせたまま再びシートにもたれかかり、憮然とした顔のまま外にその顔を向けている。

 おいおい、そんな顔を周囲の車に提供しないようにしてくれよ? 恥ずかしいから……にしても、昨日といい今日といい、中学一年の女の子に促されるとは……本当に情けないな俺って、ちょっと反省かも……それにしても行きたい所か……。

 相変わらずキョロキョロと周囲の車の動きに注意を払いながら、健斗は思案顔を浮かべるが、車の運転に忙しくその考えはうまくまとまらない。

「そうだな、やっぱり函館といったらという所に行きたいかもしれないな?」

「う〜ん、もう少し具体的にどことかってない?」

 健斗のアバウトな回答に対して、困ったような顔をして知果はそう言い、悩むようにアゴに人差指を当てながら、思案顔を浮かべる。

事前調査によれば函館といえば、土方歳三、石川啄木、赤レンガ……それと美味い魚介類といった所だろうか?

「それだったらやっぱり『元町』じゃない?」

後部座席から琴音の声が上がり、バックミラーでその姿を見ると両手を首の後ろで組みながら、窓の外を眺めているその姿は、まるでどこかの会社の社長令嬢といった風である。

おいおい、なんだかずいぶんと偉そうな態度じゃないか? まるで俺が雇われ運転手のような気になるじゃないか……。

憮然とした表情を浮かべる健斗の事など眼中にないように、琴音は既に確定事項のように言い切ると、知果をも巻き込む。

「あそこなら『赤レンガ倉庫街』や『函館山』といった函館らしさを味わえると思うわよ? いわゆる観光地だからね? よし、それに決定! 知果ちゃんそこに向かってレッツゴー!」

 後席で嬉しそうな顔をして、琴音は拳を振り上げる。

ったく、仕切るなぁ。

 渋い顔をしながらも、それを否定する理由も見当たらず、健斗の目的の一つにもそこが入っていたため、健斗はそれに同意する。

「それでは、そのようにしましょうかお嬢様? 知果ちゃん大丈夫? 道わかるかな?」

後席で偉そうな態度をとる琴音を皮肉るように言い、助手席の知果の頭に手を置きながら健斗は苦笑いを浮かべながらハンドルを握り直すと、知果も頭に何かを思い描いたのであろう、その表情にも笑顔が浮かびあがる。

「おっけいだよ、元町ならお母さんともよく行くから道はわかっている、確かそこの信号を左に入って、おにいちゃん」

 少し頬を赤らめた知果は、ナビの操作を止めて、記憶を探るように周囲の景色を見つめる。



=V=

「じゃあ、おにいちゃんそこの信号を入って函館駅の駐車場に車を入れよう?」

「駅に何か用事なのかい?」

知果のナビに従って、駅に取り付く道路に車を向け、その一角にある駐車場に車を止めると、そこは昨日はじめてこの街に第一歩を示したモダンな駅舎の函館駅。

「アハハ、別に用事があるわけじゃないの、函館駅に車を止めて置いて、ここから電車や歩きで回るほうが元町は便利なの。あっちの駐車場は狭くて一杯になっていたりするし……」

「向こうに車で行って駐車場を探して渋々戻ってくるよりも、最初から割り切った方が、何よりも時間が稼げるでしょ?」

狭い後席から開放された琴音は、知果の台詞を奪うように身体を伸ばしながらそう言うと、知果もコクコクとうなずきながらその台詞に同意を示している。

「なるほどね、それでどうすればいいのかな?」

昨日も思ったけれど、この街は風の強い街という印象があるよな? 海が近いせいなのかも知れないけれど、ただでさえ寒いのにさらに風があるため体に感じる気温はまるで氷点下のような気がして、肌が露出している所は一気に体温が奪われてゆくぜ。

健斗は上着の襟に顔を隠すようにすぼめる。

「うーん、これからどうしようかな? おにいちゃんどこか行きたい所ある?」

知果もキャラクターのマスコットのついているピンク色のマフラーに顔を埋めながら、その視線を健斗に向けてくる。

「行きたい所ねぇ……」

 青く晴れ渡った空の中を、気持ち良さそうに飛んでいるカモメに視線を向ける健斗の頭の中に一つのキーワードが浮かび上がる。

「そうだな、歴史探訪なんてどうだい?」

歴史のある港街函館、その歴史を巡るというのは、以前から考えていた事だ。

「ウグゥ〜、歴史探訪かぁ……ちょっとボクの苦手な分野かも……」

知果はウ〜ンとうなりながら、その顔を本気で困ったような顔にする。

ハハ、まだちょっと知果ちゃんには早すぎたかな? ついこの間までランドセル背負って小学校に通っていたんだから無理も無いな?

涙目になっている知果の頭を、励ますようにポンポンと撫ぜながら、健斗が諦めかけた時、それまで人波を眺めていた琴音が口を開く。

「だったら、教会巡りかしらね?」

ライトブルーのフリースマフラーを巻き直す琴音に、健斗と知果の視線が集中すると、少しはにかんだような顔をしてその顔をそっぽ向かせる。

フム、教会巡りかぁ、それも趣があっていいかもしれないな? 確か『ハリストス正教会』とか、『聖ヨハネ教会』という有名な教会があったよな?

 無言で頷く健斗の視線が、琴音の足元でピタリと止まる。

それにしても、こんなに寒いのに琴音にしても知果ちゃんにしても、二人ともミニスカートなんか履いているのかねぇ、男的には確かに嬉しい光景なのだけれども、そんな格好で寒くないのかな? 知果ちゃんなんてストッキングも履かないで生足だよ。

「――なんとなく、いやらしい視線を感じたような気がするんだけれど……」

 スカートの裾を引っ張りながら、琴音は健斗の顔を睨みつける。

 グッ、す、鋭いかも……琴音ってそういう事には勘が鋭いのかもしれないなぁ……これからは注意しておこう……。

 図星を突かれたような格好になった健斗は、視線をあやふやにさせていると、琴音は諦めたようなため息を吐き出す。

「まったく……ここからだったら、市電を使うもよし、リーズナブルなワンコインバスの『LCSA元町』を使うもよしよね?」

 琴音の向けた視線の先には緑色の普通の路線バスよりもひとまわり小さなバスが止まっており、いままさに発車しようとしている。

「ワンコインバスって?」

 首を傾げる健斗に、琴音が顔を振り向かせると、その緑色のバスは扉を閉めて発車してゆき、その様子に琴音は苦笑いを浮かべる。

「エッと、ワンコインバスというのは、ここ函館駅から西地区……いわゆる赤レンガ地区や函館山ロープウェイ乗り場などの観光地を百円で巡ってくれるバスの事で、平成十三年九月から走っているの、ちなみに健斗が好きな女性ドライバーが案内してくれるらしいけれど?」

 リーズナブルで、なおかつ女性ドライバーが案内してくれるなんて、なんと素敵な……って、なんだって俺が好きなって断言するのかなぁ、否定はできないけれど……。

 意地の悪い顔をして健斗の顔を見つめる琴音に対して、健斗は口を尖らせるが、ぐうの音も出ないと言うのはこういう事を言うのであろう、琴音にきっぱりとした否定の言葉を言う事ができずに、恨めしそうな顔をして睨みつけるしかできないでいる。

「でも、いま行っちゃったよ?」

 知果がさりげなく言う言葉に対して、今度は琴音が難しい表情を浮かべる。

「確か二十分ぐらいおきに走っていると思っていたわよね? エッと、次のバスは……」

「電車だったらすぐに来るよ?」

 バスの時刻表を確認しに行こうとする琴音に対して、とどめを刺すような知果の一言に琴音の動きが完全に沈黙する。

「確かにそうかも……」

 完全に主導権を知果にとられたような形になった琴音は、引きつったような笑顔を浮かべながらあどけない笑顔を浮かべている知果の顔に振り向く。

「でしょ? 電車だったら『十字街』までなら五分間隔で走っているし、『どっく前』や『谷地頭』行きでも十分間隔で走っているから、待つ事無いよ……それで西地区に行くのならやっぱり『十字街』が良いのかな?」

 知果の提案に琴音は悩むように宙に視線を向ける。

「うーん、教会に行くのなら『十字街』の次の『末広町』の方が便利かもしれないなぁ……」

「それじゃあ決定だね、ほら行こう! おにいちゃん」

琴音のその提案に気分をよくしたのか、満面の笑みを浮かべながら知果はそう言うと、健斗の腕を取り、駅前にある市電乗り場に踵を返す。

さすがの琴音も知果には叶わないようだな? 意外に知果ちゃんって実力者だったりして。

微笑をこぼしながら健斗は、自分の腕にぶら下がるようにつかまっている知果のツインテールの頭に視線を向ける。

「なぁに? 健斗ぉ、やけに嬉しそうな顔をしていない? 知果ちゃんと腕なんて組んじゃって、まるではたから見るとラブラブカップルみたいだよ?」

そんな様子を見ていた琴音が、冷やかすように目を眇めながら健斗の顔を覗き込む。

「ちょっと……琴姉ちゃん」

冷やかされて頬を赤らめたのは健斗ではなく、知果の方で、一歩を踏み出したその状態で、まるで固まってしまったように立ち止まってしまっている。

「知果ちゃんに抱きつかれて、一瞬健斗の鼻の下が伸びたのを、あたしは見逃さなかったわよ」

 ギクッ! 鋭い……。

「なっ、なに言っているんだよ?」

少し躊躇しながらも健斗はキッと琴音を睨むが、泳いでいるその視線では説得力にかけるのか、それとも根本的に迫力不足なのか、琴音はそ知らぬ顔をしている。

「だぁって、健斗が嬉しそうな顔をしているんだもん、アァ、やっぱり健斗って……」

 琴音は、わざとらしく驚いたような表情を作り上げながら身を引くと、手を口にやり、目は眇められ、その視線は明らかに軽蔑したようなレーザービームを発している。

 ちょっと待て? お前さんとんでもない勘違いをしていないか?

「琴音! 言っておくけれど俺はあくまでもノーマルだぞ!」

 そんな健斗の一言に、知果は少しむくれたような表情を浮かべている。

「そぉ? でも、意外と知果ちゃんはまんざらでもなかったりして、イヒヒ」

 いやらしい笑いを浮かべながら、琴音は主導権を取り戻したといわんばかりに二人の前をスタスタと歩いてゆき、そんな後姿を知果は少し頬を赤らめながら見送る。

「もぉ、琴姉ちゃんの意地悪ぅ」



「ここから電車だよ『どっく前』行きの電車に乗って末広町っていう電停で降りるの」

当然の事ながら道路の真ん中にある市電乗り場は、ホームというのだろうか、線路と乗り場の間には、人が二人並ぶと通る事が出来ないほどの狭さで、他の人の迷惑にならないように知果が電停に掲げられている案内板を指差しながら説明する。

観光シーズンじゃないのに結構電車を待っている人が多いかな? よく見ればお年寄りや、買い物客のような人の姿も見受けられるし、市民の足になっているというのは客層を見ればよくわかる。確かに時間どおり来ないバスを待つよりも、市電の方が時間を読めるし、五分間隔で走っているというのもポイント高いだろうな。

プワァ〜ン。

車が引っ切り無しに曲がる駅前の交差点を、ほぼ直角に電車が曲がってくると、その電車の行き先は『谷地頭』となっている。

「この電車はだめね? 次の電車」

その行き先を見て知果は電車から離れ、壁に寄りかかるようにする。

「函館の市電は二系統あって、この『谷地頭』行きと、あたしたちの待っている『函館どっく』行きとあるの、途中の十字街までは同じだけれど、その先で別れるのよ、あたし達が行く末広町は十字街より『どっく』寄りになるからこの電車じゃだめなの」

琴音が事細かに説明をしながら、降りてくる人の流れの邪魔にならない場所に知果と一緒に移動するが、勝手の分からない健斗は物珍しそうに古臭いその電車を眺めている。

東京にも『都電荒川線』というのがあるけれど、道路の上を走っているのはほんの僅かしかないし、こうやって道路の上を走っている電車を見たのははじめてかも知れないなぁ、それにこの電車の古臭い感じが、なんとなく街のその景観にあっている様だ。

「ほぉら! そんな所でボォーとしていると、他の人の邪魔になるわよ」

そう言いながら琴音が健斗の腕を引くと同時に、健斗の肩に電車から降りてきた人と肩がぶつかり、一瞬崩れた体勢が、琴音の引く力を援護するような形に作用すると、健斗の身体はちょうど琴音に覆いかぶさるようになる。

「ちょ、ちょっと……」

 慌てた顔をしながらも真っ赤な顔をした琴音の顔が、健斗の顔のすぐ近くにあり、その近さに健斗の胸も高鳴る。

 ち、近い……まるで琴音の体温が伝わってきそうな距離だぜ……これは、最大接近遭遇だ。

「わ、わりぃ、押されて……」

 戸惑いの表情を浮かべながら健斗はすぐに身体を離すが、高鳴った心臓の音は、琴音だけではなく、その周囲にまで聞こえてしまうのではないかと心配になるほどだ。

 ひょっとしたら生まれてはじめて女の子の顔をあんな間近に見たかも……琴音って二重まぶたの上にまつ毛が長いんだな?

 大きな目が印象的な琴音の顔を、焦りながらも冷静に分析をするが、それによって胸の高鳴りはさらに大きくなり、寒いはずなのに顔の周りだけはまるで真夏のように暑く感じ、もしもうちわがあれば、今すぐにでもその顔をあおぎたいほどに火照っているのが自覚できる。

 やべぇ、また琴音に冷やかされる、『あたしの顔を見て、そんなに赤い顔をして』って絶対に言われるだろうな?

「ほら、そんな所に立っているから押されるのよ、こっちに来て!」

 あ、あれ?

 自分の予想が外れて健斗は拍子抜けしたような顔をするが、その予想の対象であった琴音は、寒さのせいなのか、どうなのかよくわからないが、その頬を赤らめながら再び健斗の腕を引き、健斗も今度は素直にそれに応じて壁際に体を寄せる。

「おっ、おう……」

「本当にあんたって、ドンクサイのね? 男ならもっとシャキッとしなさいよね?」

 顔をそむけるように言う琴音の一言が、なにげにおれの胸にクリティカルヒットしたぜぇ、何気に否定できないのが情けないかも……トホホ。

そんな二人の前を、多くの客を乗せて古臭い電車が走り去ってゆく。



『整理券をお取り下さい、整理券をお取り下さい……この電車は、十字街経由、函館どっく前行きです……』

電車を一本見送り次に来た電車に乗り込むと、その電車の中には油の匂いなのか、鼻をつくような匂いが車内に漂い、レトロチックと言えばそうだろうが、板張りの床には油が染みたようになっており、見るからに滑りそうである。

「十字街の次の電停が、末広町だよ」

自慢げな顔をして知果はそう言いながら健斗の顔を見上げてくるその様子は、健斗の失笑を買うには十分で、背の低い彼女は精一杯腕を伸ばし、必死につり革につかまっていると言うよりも、ぶら下がっているようにも見える。

いくらか背が伸びたとはいえ、やっぱりちっちゃいよな知果のやつ……百五十センチ無いんじゃないか? 俺の肩より低い位置に知果の頭があるぜ。

「こうやって見ると、健斗って結構背が高いんだね? いくつぐらいあるの?」

頭一つ分健斗より低い位置にある琴音も健斗を見上げてくる。

「百八十八」

「「でか!」」

間髪いれずに琴音と知果から同時に声が発せられる。

「おにいちゃんってそんなにあったの? 昔はそうでもなかったのに?」

知果は見上げる眼をまん丸にしながら言う。

いや、確かにあの頃とは全然違うよ、知果と最後に会ったのが、俺がまだ中学一年と時だったから、あの時よりも少なくとも二十センチは伸びているはずだ……。

「ウン、中学から高校で一気に伸びたな……おかげで膝が悲鳴をあげたけれど……」

健斗は照れたように頭を掻く。

小学校時代はそんなに大きい方ではなかったが、中学を卒業する頃から徐々に背が伸び始め、高校三年間でここまで育ってしまった……しかしあまり背が高くって良い事というのはない。背が伸び始めている時は、何をするのでも関節が痛くて仕方が無かったし、伸びれば伸びるで、電車の扉に頭をぶつけたり、車に乗り込む時に頭をぶつけたりとかそんな事だらけで、あまり良い思いをした思いが無いぜ。

「ちょっとカッコいいじゃない、百八十センチ以上もあるだなんて……」

「ん?」

琴音がボソッと言うが、その言葉は電車内の騒音にかき消され、健斗の耳に届く事は無かったらしく、キョトンとした顔をして琴音の顔を見る。

「な、なんでもない」

首を傾げる健斗に、琴音はそういいながらちょっと頬を染めながらうつむく。

「な、なんだよ……はっきりしないなぁ……」

 琴音がはじめて見せる女の子らしいその仕草に、一瞬健斗の心が高鳴るが、そんな様子は本当に一瞬だけで、すぐにいつもの琴音に変わっている。

「うるさいわねぇ、ただ背が高いだけでしょ? 洋服代がかかって仕方がないでしょ!」

 ベェッと舌を出し、健斗と視線を合わせようとしないで琴音は憎まれ口を叩き、車内にかかっている広告に視線を向けているが、ニットの帽子からチラリと見える耳は真っ赤になっているようにも見える。

 ちょっと、ず、図星かも……Tシャツなどは適当にLLサイズでもいいのだが、ズボンとかは、ウェストがなかなか合うサイズが無く、たまたま見つけてもバーゲンとは程遠いお値段だったりするんだよな?

 図星をつかれた格好の健斗に対して、そっぽを向きながらも広告を見つめている琴音は頬を膨らませながらも、その頬から赤みが取れる事は無かった。

第四話へ。