第四話 観光? デート?



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「ほらぁ降りるわよ……ここが末広町で、そこの角にある緑色の建物が『相馬株式会社』大正五年に建てられた下見板張の壁に、鉄板瓦が特徴的な洋風建築で、夜にはライトアップされてその外壁の色や、パラディアン窓が映えて綺麗なの。その昔の函館大火の被害にもあわなくって、いまだに社屋として使われているの」

電車を降り、進行方向に歩いていくと幅が広い交差点の信号の角に、さほど大きくはないものの、ミントグリーンというのであろうか鮮やかな緑色の建物が見えて、その姿は歴史を感じさせるには十分な佇まいで、この街の景色に溶け込んでいるようにも見える。

大正ロマンというよりも明治モダニズムと言うのかな? そのあでやかな色使いとともに、そのハイカラな佇まいはまるでその時にタイムスリップしたような気にさせられるよな? そんな雰囲気が漂っているのが函館という街なのであろう。

 感心した顔をしてそれを見ている健斗に対して、琴音と知果は慣れたようにそれをわき目に見て、片側三車線ぐらい取れそうな広い坂道に出る。

「この坂が『基坂』よ、名前の由来は明治時代に里数を測る基点が造られたのが由来なの。函館の街はここを基準にして作られたっていうわけ。それに、この坂は下から見るのが綺麗な坂と地元でも言われているのよ?」

「ずいぶんと広い道だね?」

健斗が見上げるその路肩には、どこの街に行っても同じような路駐している車が、その景色をぶち壊しているが、それを補うには十分な景色が広がる。

ヘェ、これはどうして……この景色を切り取って持ち帰りたいような風景だな? 函館山をバックに、洋館がそびえ建っている景色というのは、日本の中でもそんなに見る事ができる景色じゃないぜ? 異国情緒と言って括ってしまうのは簡単かもしれないけれども、それをライブで見る事ができるのは、そんなにあるものじゃないぜ?

坂を見上げる健斗は、素直に感心した顔をしてその坂を見上げる。

「ウン、 この街を何度も襲った大火を教訓に、延焼を防ぐための防火帯を兼ねていたみたいね? この他にも二十間坂とか広い坂は結構あるの……」

琴音はそういいながら、緩やかに伸びるその坂を上りはじめ、その後を健斗もついて行くが、健斗は、さっきから目の前にそびえ、海の色を模したようなブルーの外壁の洋館に指をさす。

「なぁ、あの建物は?」

琴音はその健斗の声に振り向き、

「あれは『旧函館区公会堂』。その昔、相馬哲平が建てた洋風建築の粋、国の重要文化財にも指定されているの、その手前にあるのが『元町公園』もともと『箱館奉行所』あった場所で、その後も開拓使支庁や、北海道支庁など道南の行政の中心地だったの」

 函館湾から吹き上がってくる海風に、スカートの裾と髪の毛を押さえながらも琴音が、その建物の説明をしながら坂を上りきり、右手を見ると静岡などでは有名な像が見え、それに健斗は手のひらに拳をポンと叩きつける。

「あれは確か……そうだ、ペリーだ、黒船の艦長のペリー提督の像だね?」

見上げるその像は、俺が以前中学の臨海学校で下田に行った時、そこにあった銅像のそれと同じ顔である、まぁ同一人物なのだから当然だが……。

「そう、ペリーは千八百五十四年五月にここ函館に来港したの、その時には既に開港は決まっていたから、視察というような意味合いでこの港に来たらしいけれど、この港の安全性や、入出港のしやすさにペリーは『函館の港は東洋のジブラルタル』とも言って、二週間滞在していた間に色々な文化を伝来して言ったといわれているし、事実国際貿易港となった函館はこの時から発展していったといっても過言じゃあないわね? ちなみにこの銅像が建っているこの場所、『旧市立函館病院跡』はその昔『アメリカ領事館』が建っていた場所と言われているの」

詳しい琴音の説明に、健斗は興味深くその銅像を見上げていると、それにちょっとした違和感を持ち、マジマジとそれを見据える。

「よく見て? 礼服のボタンを……ひとつ足らないでしょ?」

琴音に指摘された所を見ると、確かにその服のボタンが見一つ足らない、健斗がさっき感じた違和感はこれだったのであろう、その顔にはホッとしたような表情すら浮かんでいる。

なんだか憑き物が落ちたような感覚だな? 細かい事であってもそう言うことに執着してしまう俺の悪い面が、首を持ち上げていたようだ。

「ほんとうだ!」

先に感嘆の声を上げたのは健斗ではなく、隣で話を聞いていた知果で、印象的なキョロッとした目をさらに大きく見開いて、驚きの表情を周囲に提供している。

おいおい、地元の民だろ?

苦笑いを浮かべながら、健斗がそんな様子の知果の事を見るが、地元といっても歴史まで詳しく知っているというわけでもなく、むしろ、地元の人間だからこそ知らないというのがほとんどであろうし、知果においてはそこまで学校で教わっているかも怪しいところだ。

「でも何でボタンが無いの? どこかに落としちゃったのかなぁ……」

 首を傾げる知果に対して、琴音は柔らかな笑みをこぼしながら、そのツインテールにまとめられている知果の頭を撫でる。

「これはね、ペリーがここに来る前に寄った下田で、物資の代金の代わりに金ボタンを渡したからなんですって、だからボタンがひとつ足りないという事なの」

 それはちょっとしたトリビアだなぁ……まぁ、どうでもいい事なのだろうけれど、それだけ史実に基づいて作られているという事なのであろう。

「ヘェ〜、じゃあペリーって貧乏だったのね?」

おいおい、貧乏って……知果ちゃん、相手はあのアメリカの提督だから、そんな事はないと思うけれどね? まぁ話だけ聞くとそんな風にとられてもおかしくないかも知れない。

知果の無邪気な一言に、健斗は琴音と顔を見合わせながら苦笑いを浮かべ、再びその坂道の突き当たりにある、ライトブルーの外壁に黄色の縁取りが印象的な『旧函館区公会堂』を中心に広がる『元町公園』にたどり着く。

「さっき下にあった『相馬株式会社』といい、ここといい、華やかな色をしているよね? 街中もよく見ればカラフルな色をした屋根があったりして……」

 いま昇って来た坂を見下ろすと、新しいビルとレトロチックな古い建物が混在する街並みの一部が見る事ができ、家の屋根や外壁は東京などと違って色とりどりだ。

「確かに言われてみるとそうかも……赤い屋根があったり、派手な外壁のビルがあったりして、派手かもしれないわね? あたしもいまはじめて気がついたわ」

 琴音はそう言いながら健斗と同じように視線を街並みに向ける。

「そっか、ここって雪国じゃないか、だから雪に覆われても見えるように派手な色を使うようになっていたりして……ってそんな事は無いか」

 自分で言っていていながらも馬鹿らしいと反省……下からならまだしも、空から見て自分の家が分かってもあまり役に立たない、役に立つのはカラスとかカモメぐらいだろう。

 きっと呆れられているだろうなと思いながら、恐る恐ると琴音の顔を見ると、その顔は意外にも納得したような表情を浮かべている。

「言われてみれば、知果ちゃんの家の屋根も深緑色よね? もしかしたらそうなのかも……あんた意外な所に目をつけるわね? さすが作家志望なだけあるわ」

 いやいや、んな訳は無いだろう?

 呆れ顔を浮かべる健斗の事など気にしていないのか、自分の中で見つけた回答に納得したように頷き、ニコニコと微笑みながら歩き出す琴音の後をついて歩く健斗にも笑みが浮かぶ。

「琴姉ちゃん、ここの説明は?」

 首を傾げる知果に、機嫌よさそうな顔をした琴音が振り返る。

「ん〜あるわよ? ここ『旧函館区公会堂』は明治四十年の大火で焼失した町会場の再建のために市民からの寄付を募ったんだけれど思うように集まらず、それに見かねた『相馬株式会社』の創始者である相馬哲平が当時のお金で五万円という大金を寄付して、それを元に明治四十三年に完成したものなの、すごいよね?」

 知果は首を傾げながら琴音の説明を聞いている。

「ねぇ、会社を作るほどのお金持ちなら、もっとお金を出してもいいじゃない? 五万円ってセコくないかなぁ……もうちょっとドォ〜ンと……」

 知果の疑問に、再び健斗と琴音は顔を見合わせながら笑みをこぼす。

「知果ちゃん、それは当時のお金だから、いまで言うと十億ぐらいの金額になると思うよ?」

「ウフ、正解よ健斗。この建物は当時のお金で五万八千円、今ではきっと十億を下る事の無いという金額をかけて建設されたの。ルネサンスビザンチン風の木造建築で、左右対称の綺麗なシルエットはコロニアルスタイルと呼ばれ、その優雅さからなのか、大正天皇も滞在した事があるほどの由緒ある建物で、昭和四十九年に国の重要文化財に指定されたの」

 確かに雰囲気的にどこか重厚感があるというのか、今にも舞踏会を終えた貴婦人が出てきそうな雰囲気すら漂っているよな?

 明治ロマンという言葉がこの建物にはピタリと当てはまるであろう、それを見上げていると知果に腕を引かれ、元町公園を回り込むように歩き出し散策再開になる。

「この元町公園の中には『旧北海道函館支庁庁舎』という洋館もあって、一階が観光案内所、二階が『函館写真歴史館』になっているの、そこに行くと昔の函館の街並みや、当時の人々の生活ぶりがわかって、中には『日本最古の銀板写真』が展示されているのよ? もしも函館の歴史を勉強するならここもお勧めかもしれないわね?」

 あまり広くない道は、日陰が多く、その日陰にはまだ溶けきらない雪がまだ山になって残っており、その溶けた水が所々で凍っており、何度か健斗はそれに足をすくわれそうになる。

「おにいちゃん、大丈夫?」

 足元を気にしながら歩く健斗の事を、知果は心配そうな顔をしながら覗き込み、その腕に自分の腕を絡めると、少し照れ臭そうな顔をする。



「ほら健斗、ここからの景色って見覚えない?」

前を歩く琴音が振りかえり、自慢げな表情を浮かべながら視線を向ける方向に、健斗も追いかけるように視線を動かすと、はじめて来たはずなのに、どこか見覚えのある景色が広がる。

「あっ! ここは……」

石畳の坂の先に見える函館港の景色は、よくテレビのCMで見る景色で、坂の街函館を象徴する景色の一つであろう。

いいロケーションだなぁ、まっすぐ海に向かって伸びる石畳の坂道、その先にはキラキラときらめく函館湾と、旧青函連絡船の摩周丸……強いてあげるのであれば、この路駐をしている車がなければもっといいのだけれど、贅沢はいえないよな?

「ウフ、この坂は『八幡坂』といって函館の景色を象徴する一つよね? 洗剤のCMで有名になったの、おじいちゃんとおばあちゃんがスキップするやつ、ちなみに地元の人はこの坂の事を『チャーミー坂』って呼ぶ人もいるわよ?」

 ハハ、なるほど……『チャーミー』ねぇ……。

「さっき見た『基坂』は坂の下から見ると綺麗な坂で、ここ『八幡坂』は坂の上から見る景色が綺麗な坂として有名なのよ、でも、坂としてはこっちの方が全国区になっちゃったかな? あたしはどちらかというと『基坂』をお勧めするけれど……」

 琴音はそう言いながら手を腰の後ろで組みながら、その坂の様子を眺める。

「あのCMで、おじいちゃんとおばあちゃんが手をつないでこの坂を歩くでしょ? ちょっとそれにも憧れているかもしれないなぁ……」

 観光客であろうか、坂の突き当りには大勢の人間がカメラを片手にその景色をファインダーに収め、それの邪魔にならないように避けながら説明する琴音の後を歩くと、不意に坂の下から海風なのだろうか、突風が吹いてくると、健斗の目の前にあった琴音のスカートがふわりと舞い上がり、その観光客の視線を浴びるような声を琴音は発する。

「キャァ〜〜〜〜〜ッ!」

 周囲の人間の失笑をかいながら、琴音は頬を膨らませて恨めしそうな顔をして健斗の顔を睨みつけている。

「見た?」

 一瞬彼女の言っている意味が分からず首を傾げるが、それがかえっていけなかったのか、琴音は赤らんだ顔をさらに真っ赤にして健斗の胸倉を掴まん勢いで寄ってくる。

「見たんでしょ! このスケベ!」

 ちょっとそれって理不尽でないかい? 別に俺がめくって見たわけでもないし、見たくて見た訳(いや見たいというのが本音なのだが)でもない、それをそんな頭ごなしに言われるというのは心外だし、見えたのは黒いストッキング越しにチラッとしか見えなかった。

「スケベって、風のせいだろ? 一種の事故だ! 俺だってたまたま後ろにいただけで……」

「やっぱり見たんだぁ〜、やっぱりスケベッ!」

 気のせいなのか、涙を浮かべながら抗議する琴音の表情に対して、徐々に健斗の心の中で罪悪感が生まれ始める。

 またか……しかし、この娘とはそういう場面にしか出くわさないように運命付けられているんじゃないか俺って……初めて会った時といい、今といい……事故だから仕方が無いと思うけれど、結果的にはこっちが折れるしかないんだよな?

 心の中で嘆息する健斗の事を、琴音はアヒルのような顔をしてジッと睨み付けている。

「……チラッとだけだ、でも、ストッキングしか見えていなかったし、しっかりとは見ていないぞ、俺だってすぐに目を逸らしたから……」

 言い訳をするようにモゴモゴと言う健斗に対して、なぜか琴音はちょっと驚いたような表情を浮かべ、遠慮なく健斗の顔を見据えている。

「ちょっと複雑かも……」

「きゃぁ〜!」

 呟く琴音の言葉をさえぎるような知果の悲鳴に、無意識に顔を向けるとそこには……。

 毛糸のクマさんか……冷やさないようにという深雪さんの心遣いがわかるぜ。



「この六角形の屋根と風見鶏が目印なのが『カトリック元町教会』で、江戸末期に仮聖堂として建てられたのが始まり。その歴史は横浜にある『山手教会』や、長崎の『大浦天主堂』と同じぐらい古い歴史を持っていて、祭壇は日本では唯一ローマ法王ベネディクト十五世から贈られた貴重な物もので、聖堂の裏には『ルルドの洞窟』と呼ばれる洞窟があって、そこには聖母マリア像が捧げられているらしいわね? そして、この後ろが……」

琴音に促され振り向くと、これまた見覚えのある建物が威風堂々と建っている。

「こっちが『ハリストス正教会』白壁に緑の屋根が綺麗でしょ? ここは、ロシア領事館の付属聖堂として建てられ正確には『函館復活聖堂』といわれるらしいわ。ロシア司祭『ニコライ』によってギリシャ正教を布教したのが始まりなの。『ハリストス』というのはギリシャ正教でキリストの事を言うの。ちなみにここはよく『ガンガン寺』なんて呼ばれるわね?」

「ガンガン寺?」

 意味のわからない健斗は素直に首を傾げていると、玉ねぎのような格好をしたキューポラのある塔から、不協和音のような鐘の音が聞こえてくる。

「これが?」

 意外にも大きなその音に、健斗は琴音に顔を近づけながら少し大きめの声で問いかけると、大きくうなずきながら健斗に顔を向ける。

「そう、礼拝前に鳴らす鐘の音で独特でしょ? この音にちなんでついた名称が『ガンガン寺』でこの音は『日本の音風景百選』にも選ばれているのよ?」

 確かに、はじめ聞いた時は不協和音のように聞こえていた音だけれど、聞いているうちにこの音と、目の前の風景がマッチしたようで、どこか落着いたような雰囲気が周囲に流れているような気がする……不思議な街だな、函館という街は。

「確かあなたがいた東京に『ニコライ堂』という所があるでしょ? そこの鐘はここから移設された物らしいわね?」

そういいながら、琴音は両サイドに雪が所々残り、石垣に囲まれたような急坂に入り込んで行き、そこを流れる風は心なしか少し冷たく感じる。

「ずいぶんときつい坂だね?」

健斗は疲れた様子の知果の手を引きながら琴音に後姿について歩くが、元気いっぱいに歩く琴音の隣に並ぶ事は無く、徐々にその差が開いてゆく。

「あら? もう弱音を吐いているの? だらしがないわねぇ、この函館は『坂の街』としても有名だから、まだまだこれからも上ったり……下りたり……っと……」

琴音は気勢を張るように言うが、その表情にはさっきみたいな余裕が見られなくなりはじめ、ちょっと疲れたような表情が彼女の顔に垣間見える。

「わかったよ、それでこの坂は?」

微笑みながら健斗は琴音を見ると、瞬間顔を赤くしながら、

「な、何よその変な笑い……この坂は『チャチャ登り』って言うの、『チャチャ』というのは、アイヌ語で『おじいさん』という意味なの」

そう言い、微笑む健斗から視線をはずしながら説明する。

「フーン、おじいさんが登る坂っていう意味なのかな? 函館に住んでいるおじいさんというのは元気があるんだね? こんな急坂を上るなんて……」

 感心したように健斗が言うと、琴音はクスッと微笑む。

「ウフ違うわよ、おじいさんのように腰を曲げて登るほどきつい坂という意味なの」

なるほど、よく見れば琴音にしろ知果にしろ、そうしておそらく自分もそうであろう、腰を曲げながら一歩一歩をゆっくりと踏み出している。

「それでここからの景色、見て!」

チャチャ登りを上がりきった所で振り向くと、そこには青い空をベースに白壁と緑色の屋根のハリストス正教会が見事なコントラストで浮かび上がり、それはテレビなどでよく見る景色だけれど、そのライブで見る景色はまるで絵画のようにも見える。

「これは見事だ、青い空に白い教会がすごく映えている、これは正面からじゃあわからないよなぁ、この景色を案内してくれた琴音ちゃんに感謝だな」

その景色に見とれたような顔をし、満面の笑みを浮かべながら健斗は素直に琴音に礼を言うと、琴音は照れたような笑顔を見せながらうつむく。

「そんな、お礼を言われるほどの事じゃないよ、ただ、綺麗な場所だから、せっかく見るんだったら、ここからの方が絶対にいいと思ったから……案内しただけ」

琴音はうつむきながらぼそぼそと話す。が、その顔はさっきまでの笑顔と違いどこか寂しそうにも見え、健斗は首をかしげる。

なんだ? 拍子抜けしたような顔をして……疲れたのか?

そんな表情を浮かべている琴音の事を、少し心配そうに見ている健斗に気がついた琴音は、作ったような笑顔を浮かべながら健斗の肩を押す。

「まっ、まあいいじゃないのよ、さてと……ただそれだけなんだから!」

疲れたと申告してきた知果に健斗も同意し、しばらく景色を堪能しつつ休憩をとり、再びその坂を下りはじめる。

「右側に見えるのが『聖ヨハネ教会』よ」

今までロマンチックな建物ばかり見ていたせいなのか、著名そうな名のわりにこの建物は新しく見え、そのデザインも斬新に感じる。

「ここは英国聖公会の教会で、明治七年イギリス人宣教師デニングが函館に来て伝道を始めたのが最初で、初めはここではない所にあったの。ここに再建されたのは大正十年の大火の後で、この建物になったのは昭和五十四年に改築されたの、ちょっと歴史を感じるには斬新過ぎる建物だけれど、この建物には実は秘密があるの」

「秘密?」

健斗が首を傾げると、まるでそれを真似るように知果も首を傾げ、その様子に琴音はニコッと微笑みながら斬新さを感じさせる茶色い尖った屋根に視線を向ける。

「この建物は空から見ると十字架の形に見えるの。これは中世期のヨーロッパの教会に見る事のできる建築様式で、近代建築と融和させたような物なのかしらね?」

琴音はペロッと舌を出しおどける。

「だから?」

 キョトンとした顔をしている健斗は、琴音の顔を見るが、琴音も健斗のその反応が予想外だったのであろう、それ以上の回答を用意していなかったのか戸惑ったような顔をして、なぜだか健斗の顔を見返してくる。

「だからって、そういう事よ」

 琴音は少し頬を膨らませながら、健斗のキョトンとしている顔を睨みつける。

「いや、秘密というから、もう少し大仰なものだと思っていたからちょっとね」

「なによ! 屋根が開いて何かが飛び出すとか、地下になにやら得体の知れない秘密結社があるとかそんな事を想像していたの?」

 秘密結社って……いや、そこまでは想像していませんでしたが……。

 むくれたような顔をしている琴音を手で制しながら、青い空に突き立ち映える茶色のその屋根を見ると、琴音では無いがそんな物が本当に出てきそうな気になってくるから不思議だ。

 んなわけないよなぁ?

「でも、空から見ても十字架に見えるメリットって何かあるのかなぁ」

 苦笑いを浮かべる健斗の着ているジャケットを握りながら、その建物を見つめている知果がぼそりとそう呟くと、思わず健斗もうなずいてしまう。

 俺も確かにそう思うぜ? 四方からそう見えるのであればなんとなくわかるが、空から見て十字架に見えるその理由が分からない。

 健斗は知果と二人で首を傾げる。

「ヘヘ、答えはあそこにあるのかもしれないよ?」

 そんな二人に勝ち誇ったような顔をした琴音が指差す方向には、こんもりとそびえ立つ函館山と、トゲのように立つアンテナやらが目立つ展望台。

「函館といったら夜景でしょ? 世界三大夜景の一つで、ナポリや香港と並んでいるあそこは、夜景も綺麗だけれど、昼間に見る景色もすごく綺麗なのよ、扇状に広がる街の形に、弧を描くような大森浜に函館湾は、夜景じゃわからない面もあるぐらいなのよ、そのため見学に来る客も後を絶たないのだからじゃないのかしら……」

 なるほどね、山頂から見ても十字架に見えるようにしたというわけか。まあ本意はどうしてなのかわからないけれど、確かにそう言われれば納得もいくよな?

 さっきまで呆けた顔をしていた健斗は、今度はそれを関心顔に変えて琴音を見ると、琴音は健斗のその顔に嬉しそうな顔をしている。

「だとしたら、今度は夜景を見なくっちゃ、だよね?」

 何気ない健斗の一言に、琴音はそれまでの明るさを一気に失ったような顔をする。

 ん? どうしたんだ琴音のやつ、いま一瞬悲しそうな顔をしたように見えたけれど、俺の気のせいなのかな?

 しかし健斗の視線の先にいる琴音は、その顔を再び笑顔に変えていたが、どこか不自然さを感じる笑顔にも見える。

「そ……そうかもね? 一度見に行ってみるといいわよ……本当に綺麗だから……」

 やっぱりさっきまでのテンションとは違うよな? どこか不自然さを感じるというのかな? 目がうつろというか、何か嫌な思い出でもあるのかもしれない。

「何だ付き合ってくれないのか? 観光ガイドの達人が……」

 ふざけたように言う健斗の顔を、琴音は驚いたように目をまん丸にして、そうしてその表情をまるで隠すように、わざとらしく頬を膨らませている。

「なんだってあんたの観光ガイドをあたしがしなければいけないのよ、これだけ有名な場所なんだからそんなの必要ないでしょ? 一人で行ったらどうなの? 子供じゃないんだから!」

 怒ったように言うが、その目だけはどこか健斗に救われたというような目をしていた。



「琴姉ちゃん、ボク疲れたよ……」

日本の道百選に選ばれたという『大三坂』の石畳を下りはじめると、それまで元気だった知果がついに弱音を吐き出す。

「そうね? そろそろお昼になるし、メインイベントの『ベイ』に向かいましょうか?」

ニッコリと琴音が微笑みながら、疲れ切ったようにうんざり顔をした知果に言うと、知果はそれまでの顔を一気に無くし、それまでとは他人のように晴れやかな顔に変わる。

「ベイ?」

キョトンとした表情をして健斗は琴音を見る。

「赤レンガ倉庫郡の『金森倉庫』が並ぶ函館ベイフロント、いわゆる『赤レンガ倉庫群』の事を総称して『ベイエリア』と地元では呼ぶの、函館というとこの景色を真っ先に思い浮かべる人も多いんじゃないかしら? いまでは函館観光のメインスポットになっているわよね? それに昨日話していたラッピ『ラッキーピエロ』の本店があるのもベイなの」

さっき一瞬失った元気を取り戻した琴音は、そう言いながら健斗にウィンクする。

なるほど、それでメインイベントなのか……まぁ、今日はこんなに案内してくれたんだし、案内料としてそれぐらいはいいかな?

「やったぁ」

琴音の意見に知果が飛び跳ねながら、勇んで走り出す。

「知果ちゃん、ちょっと走ると危ないわよ!」

琴音のその台詞は、すでに知果の耳には届いていないようだ、まぁほぼ直線なので知果の姿を見失う事もないだろうし、中学生になって迷子もないであろう。

 相も変わらず坂の下からは冷たい風が、健斗の頬を刺してゆくが、そこからの眺めというのは格別で、寒さも忘れてしまいそうになってしまい、健斗はその心地良さに思わず伸びをする。

「そんな心配しなければいけない訳じゃないから大丈夫だよ、俺たちは歩いていこう」

伸びをしながらも知果の後姿を目線で捉えている健斗がそう言うと、隣に寄り添っていた琴音の頭が小さく縦に振られる。

「う、うん……」

うつむき加減の琴音はその表情こそ健斗に見せないが、その様子は少し照れ臭そうである。

「それにしても、本当にいい景色だな?」

目前に広がる景色を見るとつい感嘆の声をあげてしまう。確かにこの風景ならCMや映画の舞台にする気持ちもわかるな。風情のある石畳の坂道に、ポプラ並木の中にひっそりと佇む洋館、坂の下を走ってゆく路面電車、初めて来た街なのに懐かしさが漂っているような気がする。

「そうかもね? あたしは札幌の出身だけれど、この景色は好きだな……いつかはこんな街並みを二人で腕を組みながら歩いてみたい……って」

うつむいた顔を上げた琴音の視線は、隣で歩く健斗の視線と交錯し、再びその顔をうつむかせ、湯気が立っているのではないかと言わんばかりに顔を赤らませている。

「その隣にはいったい誰がいるんだろうね?」

そんな琴音の様子には気がついていない健斗は、そんな事を言いながら意地悪い顔で琴音の顔を覗き込むと、さらに琴音は真っ赤な顔をして視線を逸らす。

おっ? なんだ? 真っ赤な顔をして琴音の奴……そっか、琴音も多分に洩れずに、恋に恋をしている純情な乙女というところなのかな? ちょっと可愛いじゃないか。

「馬鹿! 誰だっていいじゃない、少なくてもあなたじゃない事だけは確かじゃないかしら?」

怒ったような表情で健斗を見る琴音だが、顔は紅潮したままだ。

「でも、今は二人で歩いているよ?」

健斗が意地悪く言うと、さらに琴音の体は縮こまってしまう。

「これは違うの、カウントされないの……知果ちゃんもいるし三人なのよ」

琴音はムキになって否定をする。

そこまでムキになって否定されるのは……ちょっと寂しいかな?

会話が途切れ、照れたように先を歩く琴音を追いながら、健斗は少し寂しげな表情を浮かべて、小さくなり始めて知果の後ろ姿を追う。



=U=

「ここが『ラッキーピエロ』通称『ラッピ』函館限定のハンバーガーショップよ」

健斗たちが見上げる看板には大きなピエロの絵が描かれ、アメリカンチックともブロークンとも言えるのだろうか、アメリカの下町にあるハンバーガーショップといった雰囲気で、そのお店の前にはかなりの人だかりが出来ている。

「このお店の事を函館の人間で知らない人はいないと思うよ? もしもいたとしたら、その人間は間違いなくモグリの函館っ子だね?」

 モグリの函館っ子って……。

待ちきれないといった顔をしている知果は、ニコニコしながら健斗の顔を見上げる。

「そうなの?」

 そんな知果の様子に苦笑いを浮かべながら、健斗は琴音の顔を見ると、さっきまでの赤みは消え、今朝家を出た時健斗に見せたのと同じ笑顔を浮かべている。

「そう、この街にも以前に大手ハンバーガーチェーンが進出した事があって、ラッピと一騎打ちみたいになった事があったんだけれど、開けてみればラッピに軍配が上がって、その大手が已む無しに撤退した事があると言われるぐらいなの」

琴音はちょっと鼻高々といった表情を浮かべる。

「へぇ〜、そんなに美味しいんだ?」

そんなアメリカンな雰囲気のお店の佇まいを見上げると、それを証拠付けるように後から後から客が入っては店内の影になっている。

「美味しいなんていうものじゃあないわよね? 誰だって一度食べたら絶対に病み付きになるわよ……ア〜ン、もぉ待ってなんていられないよぉ、早くはいろ? ね?」

ソワソワしているのは琴音だけではなく、健斗の隣にいた知果もそうで、その顔は今にも涎を垂らしてしまうのではないかというぐらいに切羽詰った顔をしている。

ハハ、どうやら琴音にしろ知果にしろ、二人は食いしん坊さんのようだ。まぁ、理由はともあれ琴音に元気が戻ったという事は好ましい事だな? さっき一瞬でも元気が無くなった様に見えたのは、俺の気のせいという事にしておこう。

尻尾を振るように店の中に消えてゆく琴音と知果の後姿を眺めつつ、健斗はそれに続き店に入り込むとそこにはまるで立錐の余地も無いほどの客でごった返している。

「これはすごい人気だなぁ、大手ハンバーガーチェーンが撤退したという話しも、これを見れば納得できるかもしれないよ……」

「でしょ? ちょうどお昼頃になるとお店の中に入りきれないで、みんなお店の外で待っているぐらいなんだから、でも待ってでも食べたい味なのよね?」

 琴音は完全に戻ったようで、その顔は壁に掛かっているメニューを見るので余念が無い。



「知果は、チャイニーズチキンとラキポテ、あとはゴマシェイク!」

メニューも見ずに注文するという事は、だいぶ通い慣れているなぁ?

順番が回ってきて、カウンターに並べられているメニューも見ずにオーダーを出す知果に、健斗は内心苦笑いを浮かべ、次に健斗の隣で思案顔を浮かべている琴音に視線を向ける。

「うーん、あたしは土方歳三バーガーにしようかな? それとシルクソフト」

な、なんだ、それは?

悩みあぐねいていた琴音のオーダーに、健斗の首は大きく左に傾くと、それを見ていた琴音はニッコリと微笑み、カウンターのメニューの一つを指差す。

「これよ? 『Myバーガーコンテスト』と言うのをやっていて、その第一回目に第一位になったのがこれなの。ドラマ『新撰組!』にちなんで出来たメニューで、ホタテフライのハンバーガーで結構あっさりしていて美味しいわよ? あとあたしのお勧めは……これも美味しいでしょ? これも美味しいし、ア〜ン、悩んじゃうよぉ」

カウンターに置かれているメニューにその白い指を置くが、それを特定する事は無くいろいろなものをさ迷いながら指し、なかなか一つに限定できないでいる。

ヘェ、ハンバーガーだけじゃなくってカレーやスッパゲッティーに、なぜかノリ弁当? 色々とあるんだなぁ……これは確かに迷うかも……俺は……うん、これが美味そうだな。

「スノーバーガーにしよう」

 メニューの写真で見る限りボリュームがあり、ネーミングからも気になる物をチョイスする健斗に、琴音は満面の笑みを浮かべて頷いている。

「へぇ、あなた結構見る目あるわよね? それ美味しいのよ、あたしも好きなんだぁ、ねね、ドリンクはどうする? コーヒーにする?」

 楽しそうに健斗に寄り添い、頭をつき合わせるように同じメニューを覗き込む琴音。

「なんだか琴姉ちゃんとおにいちゃん恋人同士みたい……」

 そんな様子を後ろから見ていた知果が頬を膨らませながら言うと、それまで限りなく近かった二人の距離が一瞬にして離れる。

「な、なに言っているの知果ちゃん!」

「だってぇ、後ろから見ていると、カップルみたいだったんだもん」

 拗ねたように口を尖らせ上目遣いに二人の事を見る知果は、どこか涙を浮かべているようにも見え、周囲のお客も、どこか固唾を呑んでいるようにも見える。

 おいおい、こんな所で何を言い出すんだ……、昨日知り合ったばかりの二人がそんな関係になるわけ無い……って、何を考えているんだ俺は!

 自然と健斗と琴音の視線がかち合い、恥ずかしそうにその顔を互いにそむかせる。

「知果ちゃん、大人を冷やかしていないで、早く席を確保してきてちょうだいっ!」



「うん、これは確かに美味い! ハンバーグから肉汁が染み出てくる、それにパンズも美味いし、このボリュームこれでこの価格はかなりお得かな……これは確かに病みつきになる!」

席でしばらく待たされ出て来たそれは、某有名チェーン店のハンバーガーに比べると一回り以上は大きく、一つあれば十分にお腹が満足できるボリュームだ。

「でしょ? ここは作り置きしないでオーダーが入ってから作るの、だからちょっと時間がかかるけれど、その分美味しいっていう事! それにボリュームもあるでしょ?」

琴音も満足げな表情を見せながらそれを口に運びモグモグと忙しそうに動かし、見ているこっちの方が幸せになりそうな、そんな笑みを浮かべている。

「待つかいがあるという事だよな? 確かにこれならば待ってでも食べたくなるよ……俺も今日からファンになったぜ、これは本当に美味い!」

 モゴモゴと口を動かしながら健斗も幸せそうな顔をする。

「ここ函館という街は、長崎や横浜と同じように日本ではじめての国際貿易港だったわけでしょ? だから異国の食材や料理が日本にいち早く入ってきたの、そのせいで洋食文化が発達しているみたい……よくこの街の美味しいものはと聞かれると、お寿司とかの海産物が上げられるけれど、あたしは洋食を一番にお勧めするわよ、ここ以外にだって美味しくって、しかもリーズナブルな洋食のお店って結構あるのよ」

 一気に自分の持つ食文化について語る琴音のその目は生き生きしている。



=V=

「はぁ、大〜満足! おにいちゃんごちそうさまぁ」

お店を出ると知果はお腹をさすりながら満面の笑みを健斗に見せる。

う〜ん中学生、しかも女子がそういう仕草をするのはあまりお勧めできないけれど……それだけ満足そうな顔をされると俺もおごったかいがあるよ。

「どういたしまして」

幸せいっぱいと言うような顔をしている知果のその表情を見て、健斗も笑顔を浮かべる。

「健斗、ご馳走様」

予想もしていなかった方からも声がかかる、その声の持ち主も満足そうな顔をして健斗の顔を見つめているが、健斗は驚きの表情を浮かべ琴音の顔を見る。

当たり前のようにおごってもらっている訳じゃないのか?

「な、何よ、そんなハトが豆鉄砲を食らったような顔をして見なくたっていいでしょ? あたしだって一通りの礼儀をわきまえているつもりよ? 健斗にご馳走してもらったんだもん、お礼ぐらいするのが当然でしょ?」

琴音はそんな健斗の表情にちょっと頬を膨らませながら言うが、その膨らんだ頬のてっぺんはちょっと赤らんでいるようにも見える。

「いえいえ、俺はおごって当然だと思ったからね? 今日は良い所を案内してもらったし、それのお礼も兼ねてね、ありがとう琴音ちゃん」

健斗がそう言うと琴音はさらに顔を赤らめ、それを隠すように顔をうつむかせるが、ニットの帽子の隙間からわずかに見える耳が赤くなっている事が分かる。

「あぁ、琴姉ちゃん照れているぅ……なんだか可愛いなぁ」

茶化すように知果が言うと、そんな真っ赤な顔で琴音は知果を振り向く。

「そんな事はない! 断じてあたしが……もぉ、知果ちゃん!」

なんだか言っている事が支離滅裂になっているような気がするけれど、フム、この娘も結構可愛いところがあるな、ちょっと意地っ張りだけれど。

琴音は、観光客の老若男女が入り乱れている赤レンガ倉庫群の中を駆けて行く知果の事を追いかけかけて走ってゆく。

ヤレヤレ、なんだかあの二人って本当の姉妹みたいだよな? 息が合っているんだか無いんだか、俺にはよくわからないけれど、少なくとも仲は良さそうだ。

時たま振り返っては琴音の位置を確認し、ホッとした顔をして再び挑発するような事を言っているのであろう、琴音がそれに文句を言いながらついて行くという光景は、第三者として見るには非常に微笑ましい光景にも見えるのだが、当事者になると結構つらいかも……。

「お〜い、どこに行くんだぁ?」



「さてと、まだ案内したい所が盛り沢山なんだけれど、これからあたしバイトなのね」

昼のひと時、なんとなく街全体が弛んだ様な雰囲気が流れている頃、一行は函館駅の駐車場に置かれている車にたどり着き、琴音が少し残念そうな顔をする。

「えぇ〜琴姉ちゃん、今日もバイトなの?」

残念そうに頬を膨らませながら知果が琴音の腕にしがみつくと、琴音は申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせる。

「ゴメンね知果ちゃん、だからあたしはここで……」

「バイト先はどこなの?車で送るよ」

手を振りながらそこから別れを告げようとする琴音に健斗が声をかけると、その顔には明らかに困惑した表情が生まれている。

「だって、そんな悪いよ……」

緯線をそっちこっちにさ迷わせながら言う琴音の表情は、どことなく頬が緩んでいるようにも見えるが、それに気がついた人間はその場にいない。

「遠慮するなよ、街を案内してくれたお礼だし、どうせ後は家に帰るだけなんだから……」

健斗はそう言いながら、まだ力の入っている琴音の肩を押し車の助手席へ招き入れる。

「でも、ここからだと遠回りになっちゃうよ……」

なおかつ遠慮をする琴音を尻目に運転席に座った健斗は問答無用に車のエンジンをスタートさせ、助手席の琴音に顔を向ける。

「でもも、ストライキもないの! 人の好意は素直に受け取りなさい」

ウィンクしながら健斗がそう言うと一瞬唖然とした顔をして、次に笑顔をこぼす。

「アハハ、面白い言い方ね? ありがとう、じゃあお言葉に甘えちゃおうかな?」

諦めに似たため息を吐くと、琴音は助手席のシートに座り直し、シートベルトを締める。

「知果ちゃんごめんね?」

琴音は上半身だけ捻りながら後部座席に座っている知果に詫びる。

「気にしなくっていいよ、大丈夫」

知果はセカンドシートで足をぶらつかせながらニコッと微笑みながら答え、鼻歌交じりに窓の外に視線を向けている。

「それで、バイトはどこでやっているんだ?」

駐車場から車を出し、駅前通に入る頃、助手席に座る琴音に健斗が問いかける。

「うん、産業道路沿いにあるファミレスなの……和風れすとらん『ふうりん』というお店」

どこか少し恥ずかしそうに言う琴音をフォローするように、セカンドシートに座る知果が体を乗り出させてくる。

「琴姉ちゃんはね、そこのウェイトレスさんなんだぁ、あのお店の制服が可愛いから、あたしも高校になったら絶対にやりたいの!」

知果は夢見る少女のように目をキラキラさせながら言う。

「でもきついぞ! 夜の八時までやらなければいけないし、ずっと立ちっぱなしだから足はパンパンになるし、お客はわがままだし……」

苦笑いしながら琴音は後席の知果に声をかける。

「えぇ、でもあの制服は絶対に可愛いよ、琴姉ちゃんに似合っているからなのかな?」

そ、そんなに可愛いのかな? いかんつい想像してしまう……。

表面は真面目に車を運転している風だが、健斗の心の中は激しく揺さぶられ、口の端に気味の悪いシワが刻み込まれている。

「うーん、確かにあたしもあの制服が気に入ったからあそこでバイトしているようなものだけれど、でも、やっぱりキツイよなぁ、時給は安いし、こきは使われるし、変な男が声かけてきたりするし……変な人も多いからなぁ」

琴音はそう言いながらも、なぜか笑顔のままだ。

「なんだ琴音、そんな事を言いながらやめられないという理由が他にもありそうだね? もしかして、そのバイト先に気になる人でもいたりして」

健斗の一言に琴音の顔が一気に紅潮する。

「な、なに言っているのよ、そ、そんな訳ない、ないじゃない……」

アハハ、どうやら図星のようだな? 動揺しちゃって可愛いねぇ。

健斗は、微笑みながら琴音の顔を見ていると、口を尖らせながら琴音が睨みつけてくる。

「何よ!」

 プンプンという擬音が聞こえてきそうな顔をしている琴音は、頬を膨らませ顔を赤らめ口を尖らせ精一杯怒っているような表情を作っているが、健斗から見るとむしろ可愛らしく見える。

 琴音は美音とはまったく正反対の性格のようだな? でも素直な感じが美音よりも子供っぽく見えるのだろう……口が裂けても琴音にはそんな事言えないけどね?

「いいえ、何でも……おっ、そこかな?」

健斗の視線の先にファミレスが見えてくる、それは函館地域限定のファミレスらしく、店の前で回っている看板も聞いていた店名と一致する。

第五話へ。