第十話 ライブハウス『おんぷ』



=T=

「次は『本町』に行くわよ!」

上磯から再び函館の中心に向かって車を走らせると、助手席に座る琴音は、鼻息荒くそう宣言すると、ナビを開始する。

「って、まだ買い物するのかよ?」

徐々にだが『函館流』の車の流れに慣れてきた健斗は、指示通りに車を走らせながら、苦笑いを浮かべながら、チラッと横目で琴音の顔を見る。

「当たり前じゃない、この函館の一番の繁華街の本町に行かずして、何が買い物よ。本町といえば、函館ファッションの発信地といっても過言では無いと思うわよ? 『丸井今井』や『ダイエー五稜郭店』もそうだけれど、『行啓(ぎょうけい)通り』沿いには色々なお店が並んでいるの。やっぱりお買い物といえば外せない場所よあそこは」

手にコブシを作り、力説する琴音に、健斗は気づかれないようにため息を吐き出す。

徐々に当初の目的がうやむやになりつつあるような気がするが、それは俺の気のせいなのだろうか? さっきのピンクのワンピースの辺りからズレが生じているような気がするよ。

「そういえば、健斗も何か用事があるって言っていたわよね? どこに行くつもりなの?」

 思い出したように琴音は助手席で手をパンと叩く。

「うん『五稜郭公園』近くにあるあのお店だよ、今日決めようと思って」

明和大の連中からかなりヒンシュクを買ったあのお店……、そんな事を思い出しながら苦笑いを浮かべて健斗はハンドルを操るが、助手席に座る琴音は浮かない顔をしている。

「やっぱり決めるの? 『おんぷ』に……」

それまでニコニコしていた琴音の顔から笑顔が消え、心配そうな顔を健斗に向けてくる。

だからぁ、そんなに心配そうな顔で見ないでくれよ、そんな噂みたいに悪い店じゃないし、マスターも良い人だし、ママさんも綺麗だし。

「あぁ、なんだろう、親父の紹介と言うのもあるのかもしれないけれど、あのお店の事は嫌いになれないんだよな? 俺のカラーに合っていると言うのか……」

親父に言われて入ったお店があの『おんぷ』だった。近所に買い物に来た時に思い出して、立ち寄ったのがきっかけだった。最初は確かにガラの悪いお店だなという印象は否めなかったけれど、でもそのうちマスターとの話に共感して、いつの間にか話し込んでいた。やはり、音楽が好きなのだろうなって自分でもその時思ったよ。

「そうなの? でもちょっと心配かも……もしも健斗が不良になったらあたし嫌だし」

おいおい、この歳(今年十九歳)になって不良になるも何もないと思いますが? にしても、俺が不良になったら困るって……ちょっとドキッとしたよ。

ハンドルを握る健斗の表情が和らぐ。

「そうしたら一緒に行ってみようか? 今日はバイトの詳細と、シフトについて聞こうと思っていたところで、ちょっと話しこむかもしれないけれど、この時間ならママさんもいると思うから、何か軽く食べる事もできると思うよ?」

既に履歴書などは渡して、今すぐにでも来てくれと頼まれていたのだが、なかなか授業との兼ね合いなどもあり、スタートする事が出来なかったのが現状だった、今日は、やっと目安がつき、マスターと打ち合わせをする予定でいただけだし、ちょうどランチの時間になるから、誤解を解くにはちょうどいいかもしれない。

ハンドルを握りながら腕時計にチラッと視線を向けると、ちょうど昼を過ぎ、マスターとの予定していた時間にはいい頃合いに着きそうな時間を示していた。

「でもぉ……」

思わぬ健斗の提案に琴音の表情はさらに不安そうになり、少し口を尖らせながら健斗の顔を見据えてくる。

「大丈夫だよ、俺と一緒なんだから。それにマスターもいるし、ママさんも優しい人だから平気だよ。ママさんのランチは本当に人気があるんだから、一度食べてみたらどうかな?」

信号に引っかかり健斗がそう言いながら顔を向けると、そこには真っ赤な顔をしてうつむいている琴音の姿があった。

「……そんな、俺がいるから大丈夫なんて言われると、ちょっと照れるわね……」

そんな琴音の呟きは、辺りの騒音にかき消され、健斗の耳にははっきりと聞き取る事はできず、首を傾げていると、その赤い琴音の顔がいきなり健斗を向く。

「なんでもないよ! ほら信号変わるわよ?」

まだ信号が変わるには時間がかかるものと思われますが、なんだって琴音はそんな赤い顔をしているんだ?

キョトンとした顔をしながら首をかしげて正面を見る健斗の横顔を、琴音はチラッと横目で見て、再びその顔をうつむかせる。

「本当に、そのお店は美味しいの?」

 その一言に、健斗はその顔を琴音に近づけ、ギュッと親指を立てるが、意表をつかれた様な格好になった琴音はかなり驚いたような顔をする。

「うぁぁ! ちょ、ちょっとそんなに顔を近づけないでよ! ビックリするじゃない!」

琴音は真っ赤な顔をしたままで、まるで助手席から飛び上がらんばかりに驚き、恨めしそうな視線を健斗に向ける。

別にそんなに驚かなくてもいいじゃないかよ……ちょっと傷付くぜ?

「わりぃ、そうしたら『おんぷ』でランチを食べて、その足でショッピングというのもいいんじゃないか? 駐車場タダだし……」



=U=

「さてと……」

マスターに指定された駐車場に車を置き、数分歩いた二人は『五稜郭公園前』電停近くにある雑居ビルの地下に降りる薄暗い階段を見る。

「ねぇ、本当に大丈夫なの?」

琴音の顔は緊張で引きつっている……いや、正確には緊張ではなく、おそらく恐怖心の方が大きいだろう。ポニーテールの先がかすかに震えているようにも見える。

「大丈夫だって! ほら」

健斗はそう言いながら無意識に琴音の手を引くと、琴音の顔からちょっと緊張した感じが抜けてゆくようにも見える。

「……うん、って、なんで手を握るのよぉ」

 そう言いながらも琴音は自分から手を離そうとはせず、健斗が手を離そうとすると、

「でっ、でも、階段が急だし、レディーをエスコートするには良いかも知れないわね?」

 素直じゃねぇなぁ……俺も思わず握っちゃったと言うのもあるんだけれど……琴音って柔らかい手をしているんだな? それに温かい……もしかしたら女の子と手をつなぐのって初めてかもしれないか?

 店に向かう階段は薄暗いために、顔を赤くした健斗の事には誰も気が付かない。

カラン……。

薄暗い階段を降りきった所にある重厚な扉を開くと、中からは静かなクラッシック音楽が流れてくる。しかし、その音は少なくても小さな音ではなく、むしろ大音量といってもいいほどの音ではあるが、耳障りと言うような音では無い。

「いらっしゃ……あら? 坊や、もう来たの?」

カウンターから中年女性がメガネ越しに、健斗に笑顔を振りまきながら声をかけてくると、健斗も微笑み返す。

「ハイ、ちょっと早かったッスかね? マスターは?」

カウンターに近寄りその女性に挨拶をする健斗の後ろからは、琴音が店の中に入ったにもかかわらず健斗の手を握り締めたままでついてくる。

「今、奥で仕込みをやっているところ。今呼んで来るからちょっと待っていて? ところで坊や、その手をつないでいる女の子は坊やのこれなのかな?」

カウンターにいる女性は小指を立てこれ見よがしに健斗に見せると、それまで飄々とした顔をしていた健斗の顔が、一気に赤くなり、隣にいた琴音の顔も真っ赤になる。

「なっ、なに言っているんですか! 違いますよ!」

動揺している健斗の事を女性は、カウンターに頬杖をつきながら、ニヤニヤと少しいやらしい表情を浮かべながら二人を見つめている。

「ほんとかなぁ? ちょっと怪しいなぁ〜、まあ細かい事はいいけれどね? お嬢さんはじめまして、あたしは、このお店のママをやっているマヤです。よろしくね?」

笑いを堪えるような顔をしながらマヤは琴音を見るが、琴音の表情は緊張したままだ。

「は、はじめまして、健斗の友達で沢村琴音です」

 ギギッと油の切れたロボットのような動きをする琴音に、マヤは意地の悪い顔をしたまま細いタバコに火をつけ、その視線を健斗に向ける。

「ククク……本当に可愛いなぁ、坊や本当にキミの彼女じゃないの?」

紫煙を燻らせながら、マヤは琴音と健斗の顔を見据えながら少し優しい表情を浮かべる。

「違いますよ、この娘は俺が下宿しているところにいる娘です、それだけです!」

 とりあえず全身を使って否定をする健斗だが、それによってマヤの表情から意地悪さが消える事はなく、むしろ、それまで以上に目をキラつかせている。

「まぁ! という事は一緒に暮らしているの? だったら何があってもおかしくないわね?」

 わざとらしく驚いたような仕草をするマヤに、健斗は顔を赤らめながらそれを否定し、隣にいる琴音も顔を真っ赤にしてうつむいてしまっている。

「何を言っているんですか! そんなわけないでしょ? 彼女の事を知ったのはつい最近なんですから、そんな事あるはずないじゃないですか!」

 確かにヘンな気にならなかったといえばそれは嘘になる。性格はどうであれ、琴音は俺の知っている女の子の中では、かなりハイレベルな女の子である事は間違いないわけだし……って、なにを俺は考えているんだ?

 否定しながらも肯定しているような健斗は、徐々に自分の気持ちが分からなくなりはじめ、軽い頭痛も感じはじめる。

「そんな事を言って、じつは『健斗君いけないわ、そんな所に手を入れたら……あたし』とか『もう俺の理性は取り返せないんだ』とか言って……」

豊満な胸の前で何かを抱しめるように手を交錯させ、太く一本の三つ編みにした髪の毛を振りながらマヤは一人芝居をはじめる。

「ったく、何をやっているんだ? この女は……」

カウンターで身悶えているように一人芝居をしているマヤの頭を、ヒゲ面の男性がボーイ服で現れて、その頭を小突くとマヤは照れたような笑顔を浮かべる。

「テヘヘ、ちょっと欲求不満かな?」

 ペロッと舌を出しながらおどけえたような表情を浮かべるマヤの事を、ヒゲ面の男性は苦々しい顔をして一睨みしてから、すぐに健斗の顔を向く。そのヒゲ面に、隣に座っていた琴音の肩が、ビクッと反応する事が健斗からでも分かるほど大きく動く。

 ハハ、琴音って結構ビビリなのかな?

「マスターすみません、やっと時間が使えるようになりました」

申し訳無さそうな顔をしながら、健斗はその男性に向かって会釈をすると、それまで苦々しそうな顔をしていた顔を、満面の笑みに変える。

「ヘヘ、本当に待っていたよ、じゃ、打ち合わせしようか? 都合の悪い時などは遠慮なく言ってくれ、まずはだ……」

二人はカウンターに向かうと、健斗は手帳を取り出し予定を見て、マスターはカレンダーを取り出して、そこに何かを書き込みはじめると、琴音は一人蚊帳の外といった感じになる。

「琴音ちゃん……だったわよね? もしもお昼がまだだったら、何か食べて行きなさいよ、ランチでよければサービスしてあげるから?」

ぽつんとしている琴音に気がついたマヤが声をかけてくる。その表情は、さっきまでのような意地悪な表情はなく、優しい表情で琴音を見つめている。

「あっ、はい、いただきます」

慌てて頭を下げる琴音の表情からは、さっきまでの怯えた表情は徐々に抜けはじめ、その表情を見たマヤは落着いた笑顔を見せる。

「クス、そんなに緊張する事ないわよ? 確かにあなたみたいに純朴な娘にはちょっとディープな印象かもしれないけれど、健全な場所なんだから……たまぁにヘンなのが来たりもするけれど……でも、基本的には喫茶店兼バーといった感じだから心配ないわよ」

 少し苦笑いを浮かべながら、マヤは微妙な言い回しで店の事を話す。

「ランチの時間になれば、近所のOLさんとか結構来てくれるし、格好はかなりヤンチャな奴らも来るけれど、基本的にみんな気の良い奴ばかりよ?」

 ペロッと舌を出すマヤに、琴音の顔からはさっきまでの緊張した様子はなくなり、安心したように微笑んでいる。

「さっき健斗も言っていました。マヤさんの料理は美味しいって」

 リラックスをしたような琴音に、マヤもホッとしたような顔をして『ちょっと待っていて』と言いながら厨房に消え、再び一人になった琴音は隣に座っている健斗に視線を向ける。

「えぇ、その辺りはちょっと試験に入るんで……」

 隣では健斗が真剣な顔をしながらマスターと話をしており、声をかけるには少し躊躇し、視線を店内に向けると、その視線の先には健斗やマヤの言うとおり、近所のOLの制服を着た女性が二人談笑している姿が見え、ステージの横にあるボックス席には髪の毛がツンツン尖っているというイメージの若者たちが四人いるが、相対的に見た感じ、はじめ琴音が想像していたイメージとはだいぶ違うという事が分かる。

「ヘイおまち。ランチで申し訳ないけれど」

 琴音が薄暗いその店内をちょうど見渡し終わった頃、目の前にはサラダを中心にしたヘルシーなランチが置かれ、その隣にはいい匂いを放ちながらコーヒーが置かれていた。



「琴音ちゃんは、彼の事どう思う?」

想像以上に美味しかったランチを琴音は満面に笑みを浮かべながら食べきり、食後のコーヒーを飲んでいると、どこか嬉しそうな顔をしてマヤが顔を覗き込ませてくる。

「どうといわれましても……彼とは知り合って、まだ一ヶ月ぐらいしか経っていないですし、別にこれといっては……」

既に打ち合わせが終わっているのだろう、隣に座る健斗とマスターは音楽談義に花を開かせており、それを見るマヤの視線につられるように琴音もそちらに視線を向けと、隣で話をしている健斗はまるで子供のように視線をキラキラさせていて、その表情は琴音が見た事のない表情で、一瞬その顔が赤らむ事に気がつく。

「彼がね、はじめてこのお店に来た時にうちの旦那……あぁ、マスターの事なんだけれど、すごく息があったみたいで『うちの店で働け』ってしつこく誘っていたのよ。まあ、彼の親と、うちの旦那が仲良かったというせいもあるのかもしれないけれどね?」

肩をすくめながらマヤは、琴音の顔を見て苦笑いを浮かべる。

「でも、それだけじゃないわね? あたしが言うのもなんなんだけれど、うちの旦那って基本的に無口なのよ、それがあんなにベラベラ喋るなんて意外なのよね? ちょっと彼にヤキモチを妬いちゃうぐらいにね?」

 クスッと微笑むマヤに、琴音も微笑む。

「でも、あたしは坊やの事が好きよ? 生憎と年の差もあるし、あたしも旦那持ちだからそれが恋愛感情では無いから安心してね?」

 意地悪く言うマヤに、琴音は慌てたように視線を虚空に向けていると、先ほど談笑していたOLが伝票を持ってマヤの元に来る。

「ママさんごちそうさま! 今日も美味しかったですよぉ」

 ショートカットのOLはそう言いながらお金と一緒に伝票をマヤに渡すと、隣で話をしていたマスターが顔を上げる。

「よぉ莉奈(りな)ちゃん。今日は随分と遅い昼だな?」

 ヒゲ面に笑顔のマスターの一言に健斗も顔を上げると、その女性と目が合う。

 OLさん……だよな? その割には髪の毛を明るい色に染めていて、よくそれで社会人として通用するよな? よほど懐の深い会社なんだろう。

 明るい栗色で染めたその髪の毛はかろうじて耳を隠しているが、その隙間から見える耳には、キラリとピアスが光っており、然程大きくないその瞳は健斗の事を見据えている。

「新しい人?」

 首を傾げる女性はクスッと微笑みながら視線を健斗から外し、マスターに向ける。

「あぁ、来週からバイトに来てもらう茅沼健斗君だ」

 紹介された健斗は立ち上がり、その女性にペコッと頭を下げる。

「はじめまして、茅沼健斗です」

「ウフ、元気ね? あたしは赤坂莉奈(あかさかりな)近所の会社でOLをやっているの」

 スッと手を差し出された健斗は、ちょっと照れ臭そうにその手に触れると、その手に少し違和感を覚えて、視線を莉奈に向ける。

 この手は……もしかして……。

「さすがね? 手を触っただけでわかるなんて」

 満面に笑顔を浮かべながら莉奈は健斗の顔を覗き込んでくる。その表情はOLというよりも健斗たちと同じ学生のようにも見える。

「えと、ギター……いや、ベースかな? そのタコは……」

 言いよどみながら健斗の視線は莉奈の右手の指先を見ると、さらにその笑顔が膨らむ。

「さっすがぁ〜! シノブカヤヌマの息子さんね? そこまで分かるなんてたいしたものよ、初めてかもしれないなぁ、そこまで言い当てた人間は」

 指をパチンと鳴らす莉奈に、今度は健斗が驚いたような顔をする。

 な、なんで彼女は知っているんだ? 俺の事を……彼女には俺の名前しか教えていないはずなのになんだって俺の親父の事を知っているんだ?

 キョトンとした顔をしている健斗に、莉奈は少し意地悪い顔をしてその顔を近づけてくる。

「ヘヘ、こう見えても『GoAhead』のベーシストはだてにしていないわよ? 特にあたしは『シノブカヤヌマ』の大ファンだから、あなたの名前と顔を見ればすぐにでもね?」

 意地悪い顔をしながらウィンクする梨奈に、健斗は思わず顔を赤らめていると、同僚に声をかけられ慌てて店を出て行こうとするが、マスターに呼び止められる。

「莉奈ちゃん! 来週のライブ頼んだぜ!」

 そんなマスターの声に莉奈がグッと親指を立て了解の意思を示すと、店を飛び出してゆく。

「彼女は、月に一回このお店でライブをやっているアマチュアバンド『GoAhead(ゴーアヘッド)』のリーダーなんだ。腕も一級品だぜ?」

 莉奈の出て行った扉を見ながらマスターが説明すると、健斗は隣の席で小さくうずくまっている琴音に気がつく。

「どうした琴音? どこか具合でも悪くなったのか?」

 店内が薄暗いためその表情は見て取る事ができないが、顔色がよくないという事だけはそんな状況下でもよく分かる。

「ウウン、な、なんでもないよ……ちょっと……ね?」

 笑顔を浮かべて顔を上げる琴音だが、やはりその顔色はあまり芳しいものでもなく、健斗は、色々と歩き回って疲れたのだろうと判断し、帰る事を琴音に進言する。

「ウン……ゴメン……」



=V=

「ゴメンね、せっかく楽しそうに話をしていたのに……」

 申し訳無さそうな顔をして助手席に座る琴音は、先ほどよりいくらかよくなったものの、まだ顔色は優れず、その横顔にはいつもの笑顔が浮かんでいない。

「別に気にするな」

 聞きたい事はいくらでもある。決して琴音のさっきの様子は具合が悪いわけではなく、何かに動揺していた……軽くパニックを起こしていたと言ってもおかしくないだろう。その原因を聞いても良いのかも知れないけれど、なぜか聞いてはいけないような気がするのは、なぜなんだろう。彼女の踏み込んではいけない所に踏み込んでしまいそうな気がしたから、だから俺はなるべく聞かないようにしている。気丈な琴音がここまで動揺するのだから、その理由はよほどの事なのだろう。

 言葉少なに言う健斗の横顔を、琴音はチラッと見つめ、心の中で葛藤しているその表情を怒っているのだろうと勘違いしたのか再び顔をうつむける。

「ホント……ゴメン」

「――琴音らしくねぇぞ? そんなシュンとした顔……お前はいつだってニコニコ微笑んでいるんだ、その方がお前らしい……」

 照れ臭そうに言う健斗を、琴音は少し驚いたような顔をして見ると、そこには赤い顔をした健斗が微笑んでいた。

「健斗……」

「それになぁ、一緒に帰って、お前がそんな顔をしていたら、どんな疑いが深雪さんや知果ちゃんからかけられるか、俺の身にもなってくれ」

 まさか事実を言うわけにもいかないし、だとすると、彼女たちが俺にかけてくる疑いを全て俺が被らなくてはいけなくなる。少なくとも俺は後四年間あそこにお世話にならなければいけないのだから、あまり波風は立てたくないというのも本音だ。

 そんな健斗の心の呟きなど知らない琴音は、力ないながらもやっと笑顔を浮かべる。

「別に、あたしはあなたがどうなろうと関係ない……じゃない」

 本人は気がついていないだろうが、その琴音の声は涙声になっている。

 おいおい、励ましているのに泣く奴があるかよ……ったく、仕方がねぇなぁ。

 家に向かう道すがら、健斗はハンドルを切って脇道に入ると車を止める。

「まぁ、それで気が済むならどうぞ?」

 頭の後ろで手を組み、顔を琴音から逸らしながら健斗が言うと、助手席からは琴音の泣き声が聞こえてきて、健斗は顔をしかめながら外の景色に視線を向ける。

 ったく、何があったんだか……。



「いくらか落着いたか?」

 助手席から琴音の嗚咽が聞こえなくなりはじめたのは、車を止めてから一時間ぐらいが経ってからぐらいであろう。

「…………ウン」

 完全に琴音が泣き止んだ事を確認した健斗は、それまで開いていた小説を閉じ、ポケットの中からクシャクシャになっているハンカチを取り出すと、それを琴音に渡す。

「見た目は汚いけれど、一応洗濯はしてあるから……気になるならいいけれど」

 我ながら汚いハンカチだと思うよ。洗濯してそのまま干してあったのを持って来ただけだし、俺だったらきっと丁重にお断りするかもしれないほどだけれど、でも、泣いている女の子に出さないよりはましだろう……。

 苦笑いを浮かべながらも、琴音に視線を合わせないようにする健斗は、そっぽを向きながらそれを差し出すと、意外にもすんなり琴音はそれを受け取る。

「ありがと……洗って返すよ」

 琴音の声は、さっきよりもだいぶ落着いたようで、健斗はホッと胸を撫で下ろし、ゆっくりと琴音の方に向くと、そこにはまだ目を赤くした琴音が、少し照れ臭そうな顔をしながら、健斗から受け取ったハンカチでその涙を拭っている。

「別にいいよ、気にしないで……」

 再び健斗は琴音から顔をそらせる。

 ヤベ、いまの琴音すっげぇ可愛いかもしれない……ドキッとしちゃったよ。普段見せない表情を見せられると男は弱いというけれど、確かにそうかもしれないなぁ……つくづく男って単純な生き物なのかもしれないぜぇ。

 徐々に暗くなりはじめた周囲に、車の窓ガラスは鏡のようになりはじめ、そこに映る健斗は苦笑いを浮かべ、その隣では目を拭っている琴音の表情が見る事ができる。

「エヘ、ありがとう……なんだか久しぶりにいっぱい泣いたら、ちょっとホッとしたかもしれないよ。本当にありがとう健斗」

 窓ガラスに映る琴音がこちらを向く。

「気にするな。さて、落着いたなら帰るぞ? あまり遅くなると深雪さん心配するからね?」

 キーを廻しエンジンをスタートさせる健斗に、琴音がそれまで浮かべていた照れ臭そうな顔を、真面目な顔に変えて、健斗の顔を見据えてくる。

「――何も聞かないの?」

 助手席に座る琴音の表情に、健斗は顔を引き締める。

「聞いていいのか?」

「……」

 健斗の一言に琴音はその視線をさ迷わせて、うつむいてしまうと健斗は小さく嘆息する。

「話したいのなら俺は聞くけれど、話したくないのなら俺は無理に聞いたりはしないよ。いずれ琴音が話したくなった時にでも話してくれれば俺は良い」

 ハンドルを抱え込みながら話す健斗の事を、琴音はボンヤリと見ている。

「お前さんがそこまでなるという事は、よほどの事だと思うよ。本音は聞きたいというのが正直なところかも知れないけれど、まだ、自分の中でもまとまっていないんだろ? お前の気持ちがまとまってから俺は聞く事にするよ」

 シートベルトを締め、車を走り出させる健斗の横顔を、それまでボンヤリと健斗の事を見ていた琴音は、その頬を赤く染めて正面に視線を向ける。

「――結構健斗ってそういうのに慣れているのかな?」

 ボソッと呟く琴音の声は、車内の騒音にかき消されてしまい、首を傾げる健斗に、

「健斗って、結構そういう事に慣れているように見えたわよ! 何度もそういう場面に遭遇した事があるみたい……もしかして!」

 ようやくいつもの琴音に戻ってきたみたいだな?

 心の中でホッとため息を吐きながら健斗は車を走らせる。

「ばぁろい、だてに小説を書いていると思うなよ? いろいろな事を書いているから、自分でも色々なシチュエーションに対応できるものなんだ……」

 自分で言ってちょっとヘコんだかも……えぇえぇ、どうせ想像上の事でしかありませんよ。

 ハンドルを握りながら、口を尖らせている健斗を見た琴音は、徐々にその顔を笑顔に変えてゆき、やがて大笑いをはじめる。

「アハハハッ! 健斗って最高かもしれない!」

 どういう意味だよ!

 口を尖らせながらも、車を運転中のために視線を琴音に向ける事ができない健斗は、心の中で琴音のその言葉に反論する。

「本当に健斗って彼女をいないの?」

「いないよ……どうせ」

「ゴメン、悪気はないのよ? ……健斗って意外にいい男だったりするのかなって一瞬思っちゃったの……ご、誤解しないでね? 客観的にそう思っただけなんだから」

 それまでの笑顔をなくし、申し訳無さそうな顔をして健斗を見る琴音に、健斗もつられて笑顔を浮かべるが、その心中は穏やかでない。

 それは喜ぶ所なのかどうなのか、俺にはわからん……どこか素直に喜べないような気がして仕方がないのだけれど……。

 微笑の中にも憮然としたものを浮かべている健斗に気がついたのか、琴音はそれを否定する。

「誤解だよぉ〜、健斗ぉ〜!」

第十一話へ。