第十一話 包囲網?



=T=

「ちぃ〜っす」

 サークル棟にあるmasの部室に入り込むと、アニメ班の班長小汐と小学生のような愛美(いまだに彼女が俺と同じ大学生、しかも首席入学者とは信じがたいのだが)が、なにやら怪しい雰囲気を作り出しているが、小説班である俺は既に座り慣れた感のある窓際の机に座り、持参したノートパソコンの電源を入れる。

「精が出るね、茅沼クン」

 起動を確認した所に、小説班班長の辻川がにこやかな顔をして健斗に声をかけてくる。

「はぁ、ちょっと調べたい事があったので……図書館でもいいんですけれど、あそこはちょっと静か過ぎて落着かないんですよね? ここはある程度ざわめきがあって落着けるので……ラインをお借りします」

 部室内にはネット用にLANジャックが配置されており、ケーブルさえあればどこででもネットができる環境が整っているあたりは高校との違いであろう。

「かまわんよ……そうだ、茅沼クンは小説を書いているんだよね? 今度一度キミの書いた小説を読ませてもらえないかな?」

 一旦離れかけながら何かを思い出したように辻川は振り返り、掛けているメガネをクイッと上げながら健斗に向く。

「それはかまいませんが……プリントアウトをしていないんで、データでもかまいませんか?」

 投稿などをする場合は必ずデータとプリントアウトした物を一緒に送るのだが、ただ書いた作品だけと言うのはほとんどがパソコンのフォルダーの中に入ったままホコリをかぶっているのが実情だったりする(しかも書上げていない作品もいくつも……)。

 苦笑いを浮かべる健斗に、辻川は微笑みながらコクリとうなずく。

「かまわんよ、メールで送ってくれてもいいし、メディアでくれても構わない。確か茅沼クンの作品はほとんどが恋愛物だと言っていたよね?」

「まぁ……駄作ではありますが……」

「気にするなよ、それを決めるのは君じゃなくって読んでいる人間なんだから、その判断は読ませてもらうボクが決める事だ」

 メガネの奥の細い目をさらに細める辻川に、健斗もコクリとうなずく。

「キミの作風を見させてもらって、もし良いようであれば、会報誌の『ないとビュー』に掲載するようにしよう。当然浪岡さんの作品も読ませてもらうつもりでいる」

 思わず背筋が伸びる。masの会報誌『ないとビュー』といえば、夏と冬にお台場で行なわれる『こみっくふぇすてぃばる』に出展されるほどの人気誌で、かなりの部数がそこで売られると聞いているし、その本から何人かがプロになったとも聞いている。

 顔を引き締める健斗に気がついた辻川は、その表情を和らげる。

「何もそんなに緊張する事はないよ。自分の持ち前を発揮すればいいだけだし、あくまでも作風を判断するために読ませてもらうだけだから」

「は、はい」

 しかし健斗の表情から緊張が取れる事はなく、辻川は苦笑いを浮かべながら離れてゆく。

 ないとビューに掲載かぁ……商業誌では無いけれど、色々な人に自分の作品を読んでもらって評価してもらうにはいいチャンスかもしれない。だとしたら、自分で好きな作品を辻川さんに読んでもらっていい評価をしてもらうように頑張るしかないな?

「茅沼クン?」

 パソコンを眺めながらブツブツと呟いている健斗に、ショートカットの女の子が声をかけててくるが、その声は届いていないのか健斗の顔を向く事はない。

「やっぱりあっちの方がいいのかなぁ……」

「茅沼クン?」

「この作品はまだ書きかけだし……でも話しは好きだし……書き上げる時間があれば……」

「お〜い」

「こっちはちょっとSFが入っているからどうかなとも思うんだよな?」

「ワァッ!」

「どぅわぁ〜!」

 いきなり背後から(いやそれ以前からそこにいたのだが)声をかけられ、健斗は飛び上がると、座っていた椅子から転がり落ち、驚いた顔をしているその主――冬花――を見る。

「いつのまに?」

「さっきから……声をかけているのに無視されたよ」

 タレ気味の瞳に気のせいか涙を浮べ、恨めしそうに健斗の事を見る冬花に、健斗は慌てて立ち上がり言い訳を開始する。

「そ、そんな事はないぞ? ただ、ちょっと作品を見直していたら真剣になってしまったから。すまん、昔から一つの事に没頭すると、俺は周りが見えなくなるらしい」

 慌てる健斗の事を見ながら、冬花は柔らかな笑みをこぼす。

「だったら、お詫びにカフェでコーヒーでもおごってもらおうかな?」

 ニコッと微笑む冬花に健斗は曖昧に微笑んで答えるが、冬花は健斗が覗き込んでいたノートパソコンのディスプレーに視線を向けていた。

「それよりも作品を見直しているって、なんでなの?」

 だいぶ温かくなってきたため薄着になった冬花は、幼く見えながらもそのナイスなボディーラインがくっきりとわかりはじめたその姿に、健斗は胸を高鳴らせながら、先ほどの辻川から聞いた話を冬花に伝えると困った表情に変わる。

「困ったなぁ、あたしまだ小説なんて書いた事ないし、何を書いて良いかなんて自分の中でもまとまっていないし……やっぱりダメだよぉ。茅沼クンは中学の時から書いていたから、いくらでも書けるかもしれないけれど、あたしには無理だよぉ」

 涙ぐみながら見つめてくる冬花の視線に動揺し、視線を逸らしながらも大きく盛り上がっている冬花の胸元を覗き見てしまう。

「あっ、いや、俺だって数があるだけで、まともな作品なんて数えるぐらいしかないよ。しかも書きかけの方が多いかもしれないし……」

 中学時代に文芸部の会報に載せた作品を読み返すと、顔から火が出るのではないかと思うほどにその文章はチープで、できる事ならこの世から抹殺してしまいたいぐらいだぜ。

 思い出す作品全てに苦笑いを浮かべる健斗を冬花は小首を傾げながら見つめるが、やがてその顔をうつむかせ、ブツブツと呟いている。

「どぉしようかなぁ……辻川さんに言って今回は見送ってもらおうかなぁ……」

 口を尖らせながら相変わらず瞳に涙を浮かべる冬花に、つい苦笑いを浮かべてしまう。

「でも、せっかくのチャンスだぜ? 今からでも書いてみればいいじゃないか? 浪岡さんがどのような作品を求めているのか俺にはわからんけれど……やるだけやってみてからギブアップしてもいいんじゃないかな?」

 パソコンを片付けながら言う健斗の顔を、冬花はジッと見つめながら、何かを考えるように人差指を自分のアゴに当てて小首を傾げる。

 しかし……この函館という街は、幼く見える女の子が多いのかね? 浪岡さんもそのボディーの割に幼く見えるし、琴音もそうだし愛美ちゃんなどその最たるものだ……そういえば朝市の魚屋さんの若女将にも驚かされたよな?

 つい苦笑いを浮かべる健斗の顔を見て、冬花は何かに気がついたようにその手をポンと叩く。

「そうだ、これから茅沼クンの家に行ってもいい? どんな作品を書いているのか見せてもらいたいし、話しも聞いてみたいから……ね? いいでしょ?」



「ただいまぁ」

 黒石家の玄関先、いつもなら一人の健斗の隣には少し驚いたような顔をしている冬花が、物珍しそうに辺りを見回している。

 なぁなぁのうちについて来られてしまった……別に隠すつもりでは無いのだが、女の子を連れて帰って来ると絶対に……、

「おかえりぃ〜、おにいちゃ……ん?」

 満面の笑みで出迎えてくれた知果は、『ちゃ』の所からその顔を不機嫌そうにしかめた事を健斗はすばやく察知し、続いて出てきた人物に諦めを感じた。

「おかえり健斗ク……ン?」

 続いてエプロン姿で出迎えてくれた深雪も、『ク』の辺りからその顔を意地悪そうに変化させ、その二人の視線は、まるで息を合わせたように同時に健斗に向く。

 やっぱり……知果ちゃんはまだ良いとしても、深雪さんの後の詮索がどこまで至るか俺は怖いんですけれど……この前の琴音の時は深夜一時まで続いたと思ったぜ。

 二人で買い物に行った帰りに琴音が大泣きした日、目を赤くした琴音と一緒に帰った健斗は、深雪に呼び出され、懇々と話しこまれ、果ては深雪の持っている恋愛論まで聞かされるはめになった事を思い出し深いため息を吐き出してしまう。



「とりあえず俺の書いているのはこんな感じだよ、ほとんどの内容は同じかもしれないし、キャラクターも同じような感じだな?」

 ディスクトップパソコンの前に冬花を座らせながら、いくつか作品をチョイスし話しの概略を説明する。その背後には、不機嫌そうな顔をした知果がベッドに腰掛けながらその様子を伺いつつも小説に視線を向けている。

「なるほどね? 茅沼クンって意外にロマンチストな恋愛感を持っているのかな?」

 決して冷かしでは無いとは思うが、健斗は思わず顔を赤らめてしまう。

 やっぱり失敗だったのかなぁ……知っている女の子にそれを説明すると言うのは気恥ずかしいぜ。物語として読んでもらうには気にならないんだが。

 バツが悪そうに顔を赤らめていると、良いタイミングで深雪がコーヒーを持って来てくれる。

「ハイ、お茶が入ったから一休みしてみたらどうかしら?」

 既に開きっぱなしになっている折りたたみテーブルの上に、微笑みながらコーヒーを置く深雪は、その表情のままそこにちょこんと座る。

「すみません、頂きます」

 それを疑問にも思わないのか、冬花はそう言いながらパソコンから離れ、美味しそうにそのコーヒーに口をつける。

 なんだかさっきから監視されているような気がして仕方がないんですけれど……知果ちゃんは本を借りに来たといったまま部屋にいついているし、深雪さんもコーヒーを持ってきたまま部屋を出る気配をまったく見せないし……まぁ、俺としてもヘンな疑いをかけられるよりもその方がいくらかラクだからいいんだけれどね?

 ため息を吐きながら健斗もそのコーヒーに口をつける。

「おいしぃ、いいなぁ茅沼クン、こんな美味しいコーヒーがいつも飲めるなんて」

 羨ましそうな顔をしながら冬花が健斗の顔を見つめてくると、視界の片隅に入る知果の頬が少し膨らむ事に気がつく。

「あぁ、深雪さんはコーヒーだけじゃなくって、料理も美味しいんだよ、元々ホテルのシェフをやっていたぐらいだからね?」

 健斗の言葉に深雪は照れくさそうに身をよじるが、冬花の瞳はキラキラと輝く。

「ヘェいいなぁ、あたしも一人暮らしだから、美味しいものを食べるとなるとつい面倒臭くなっちゃって外食で済ませる事が多いんですよ……」

「だったら、今日は家で夕飯を食べていきなさいよ」

 思いもよらない深雪の提案に冬花は驚いたような顔をしながら健斗の顔を見据え、知果は恨みがましい顔をしながら深雪を睨みつけている。

「あら? あたしったらつい……えへへ」



=U=

「本当に美味しいですぅ、こんなに美味しいのが家でもできるんですね?」

「ありがとう、そうやって言ってくれると作った冥利に尽きるわよ……もしも自分で作りたいなら、後でレシピを書いてあげるし、いつでも遊びに来て。いつでも作り方からコツまで、何でも教えてあげるから」

 よほど料理を褒められて嬉しかったんだろう、ニコニコ顔の深雪は今にもスキップをはじめそうな勢いでキッチンとダイニングを行き来している。

「もぉ、お母さんったら……」

 ブツブツと言う知果は、健斗が帰って来てからまったくと言っていいほど笑顔を浮かべず、不満げな顔を継続させている。

「いいなぁ茅沼クン、こんなアットホームな所に下宿しているなんて羨ましいよ。しかもこんなに可愛い姪っ子に『おにいちゃん』なんて慕われちゃって……」

 いきなり視線を向けられた知果は、それまで作り上げていた不機嫌そうな顔を照れ臭そうに変化させ、その視線を周囲にさ迷わせ、モジモジとしている。

 彼女がお世辞などで言っているわけでは無いという事は、その顔を見ればよく分かる。本当に羨ましそうな顔をしているよな? 確か一人暮らしだって言っていたけれど、やっぱり寂しいのかもしれないよな?

 少し同情したような顔をする健斗に、再び知果の頬が膨れ上がる。

「ただいまぁ〜」

 玄関先から疲れたような琴音の声が聞こえてくると、健斗は無意識にその体を身構えるように硬直させ、表情を堅くする。

「おかえりぃ〜」

 まるで援軍を得たような勢いで知果は玄関先に飛び出してゆくが、健斗はその場に根っこが生えてしまったように動く事ができなくなっている。

 ヤバい……深雪さんや知果ちゃんでさえ、彼女の事を疑いの目で見てきたほどだ、これが琴音だとどんな事を言われるかわかりゃあしない。

 しかしいくらその場の状況を好転させようとしても、既に当事者は数メートル先にいるわけで、逃げ出すわけにもいかない健斗は、腹をくくったように息を呑む。

 って、なんで琴音に遠慮をしなければいけないんだ? 別に俺は琴音と付き合っているわけじゃないし、琴音がヤキモチを妬くわけでは無いだろうに……。

 いままでオドオドしていた健斗は、開き直るように考え方を変えると、その当人が姿を現す。

「つかれたぁ〜、記録会目前だから……って?」

 リビングの入口で体中から疲れたという事を体現していた琴音は、ダイニングに座っている知らない女の子――冬花――に視線を向けると無遠慮に首を傾げる。

「あっ、お邪魔しています。あたし茅沼クンと同じサークルで浪岡冬花です。今日はご飯までご馳走になってしまって……エッと」

 助けを請うような顔をして健斗の顔を見つめる冬花に、琴音はキョトンとした顔をしている。

「あ、あたしは沢村琴音です。ここの下宿人で……茅沼クンのって、健斗と同じサークルの人という事なの?」

 それまでの疲れ顔をキョトンとさせた琴音は、そんな冬花と曖昧な笑顔を浮かべている健斗の顔を交互に見ると、健斗のと違ってなのだろうか、それとも予想通りなのだろうか、遠慮なく不機嫌そうな顔を浮かべている。

「ハイ、同じmasで一緒に小説を書いています……と言ってもあたしは小説初心者だから、茅沼クンにレクチャーしてもらおうと思って」

 そんな琴音の表情に気がついていないのか、冬花はちょっと照れ臭そうではあるもののニッコリと微笑みながら、琴音にその笑顔を向ける。

「そ、そう……ですか」

 ん? いつもならこの辺りで嫌味の一つでも出てくるはずなのに(健斗にあまり近付くと妊娠するとか……)今日は珍しく無いなぁ……どうしたんだ?

 しかし健斗を見る琴音の表情はかなり険しく、その険しい視線だけで健斗の背中は電気が走ったような寒気に襲われ、思わず背筋を伸ばしてしまう。

「エッと、沢村さんはうちの付属の高校なんですね?」

 まったく空気が読めていない冬花は、相変わらずニコニコ顔のまま、高等部の制服を着ている琴音に質問を向けており、そんな雰囲気に琴音も毒気を抜かれたように小さく嘆息する。

「ハイ、明和大付属の三年です」

「そっか、じゃあ来年は明和大に進学するんですよね?」

 琴音は冬花に向ける視線とは違うトゲつき(猛毒が塗りこんでありそうな)の視線を健斗に一瞬向けながら、ソファーにその身を埋める。

「まだわかりません……」

 とげ付き(猛毒塗り込み済み)の視線を健斗に向ける琴音は、言いよどむ。

 な、なんだよその目は……もしかして俺が大学にいるからどうしようか悩んでいます、と言う訳ではあるまいなぁ、そこまで俺って琴音に嫌われているのかな?

 オドオドした視線を琴音に向けると、あっさりとその視線は跳ね返されてしまい、なぜかヘコんだ気持ちになっていると、腕の甲にはめている腕時計を見た冬花は、慌てたような顔をしていきなり立ち上がる。

「あっ、もうこんな時間。スミマセン遅くまでお邪魔しちゃって、あたしそろそろ……」

 おいおい、話が物凄い勢いですっ飛んでいったような気がするんだけれど……。

 話を振られ身構えていた琴音は、そんな冬花の様子にソファーの上で僅かながらずっこけているのは、たぶん俺と同じ気持ちからで致し方が無い事であろう。

「あらそう? だったらレシピは健斗クンに持って行ってもらうようにするから、家でも挑戦してみてね? もし分からなかったらいつでも来てくれて構わないから」

 一心不乱にレシピを書いていた深雪は残念そうな顔をしながら冬花の顔を見ると、冬花も申し訳無さそうな顔をする。

「――健斗、車で送ってあげたら?」

 一瞬健斗が頭の中で考えていた事を、口に出して提案してきたのは意外にも琴音で、その申し出に知果も驚いたような顔をしてその顔を見つめている。



=V=

「本当に羨ましいなぁ、茅沼クン」

 既に夜の帳が下りた道を走らせる健斗の隣で呟くように冬花が言うと、健斗もチラッとわき目でその表情を見るが、辺りが暗いためその表情を読み取る事ができない。

「なんで?」

 車はライトアップされている『五稜郭タワー』を右に見ながら、おんぷの前を通り抜けると、夜とはいえ、まだ車の通りが多い本町に入ってくる。

「だって、すごくアットホームな家じゃない? やっぱり食事とかは大勢で食べる方が、絶対に楽しいよ。久しぶりだなぁ、ああやって大勢の人と食べるのって」

 信号に止まった瞬間に健斗が冬花の顔を見ると、本当に嬉しそうな表情を浮かべながら健斗を向いていて、思わず視線が交錯する。

 ヤベ、彼女もかなり可愛い分類に入るんだった……しかもナイスボディーの。かなりドキッとしたぜぇ。

 視線を正面に向けると、なぜかそこにはさっきの不機嫌そうな顔をした琴音の表情が浮かび上がり、無意識に苦笑いを浮かべてしまっている。そんな健斗に気がついたのか、冬花はクスッと微笑むと、健斗と同じように正面を向きながら口を開く。

「琴音ちゃんって可愛いわよね?」

 冬花の口から琴音の名前があがり、健斗がギョッとしたような顔をすると、さらに助手席からクスクスと言う笑い声が聞こえてくる。

「な、なんで琴音?」

 動揺している場合じゃないぞぉ、とりあえず車を運転させる事に集中しないと……。

 何とか自分を落着かせようと健斗はハンドルを握り直すが、助手席からはその笑い声が途絶える事はない。

「ん? なんでもないよ、ちょっと可愛いなぁって思ったの?」

 曖昧な言い方をする冬花に健斗は口を尖らせるが、すぐに携帯が鳴っている事に気が付き、視線を冬花に向けるが、自分のでは無いと首を横に振る。

 という事は俺のか……車の運転中だからなぁ。

 ちょうど車は『若松広路』と呼ばれる中央に緑地帯のある道に入り、車を止められるスペースを見つけ、そこに止める。

「ゴメン……」

 助手席に座る冬花に詫びながら、ポケットに入っている携帯を取り出すと、そのディスプレーに浮んでいる着信者名は、

「美音ちゃん? なんだってこんな時間に?」

 メールぐらいしか送ってこない美音からの電話に少し照れ臭くなり、健斗は何気なく車から降りると、ヒヤッとした空気がその身体を包み込む。

「……もしもし」

 緊張した面持ちで健斗がその電話に出ると、その向こうからは久しぶりに聞く美音のメゾソプラノ声が聞こえてくる。

『先輩? 茅沼先輩?』

 久しぶりに聞く美音の声に、不意に健斗の胸は何かに鷲づかみにされたようなそんなキュンとした痛みが走るが、決してその痛みは気分の悪いものでは無い。

「や、やぁ、美音……クン……久しぶりだね?」

 一瞬ドモッてしまったのは、決して美音に対して後ろめたい事があるわけでは無いのだが、電話の向こうではやはり誤解をしたのだろう。

『エッと、もしかして、いま取り込み中ですか?』

 かかってきた時のような高めの声が、一オクターブほど落ちる。

「いや、別に……ちょっと車を運転していた所だったから……」

 助手席でテレビを見ているのだろう、ボンヤリと冬花の顔が浮かび上がっており、健斗はそれに視線を一瞬向けながらすぐに背を向ける。

『じゃあ、いまはダメですね?』

 電話の向こうの声のトーンがさらに落ちる。

「いや、車はいま止めているから大丈夫だ……それにしても珍しいなぁ、美音……クンから電話をもらうなんて思っていなかったよ」

 卒業までは美音の事を『美音ちゃん』と呼んでいたのだが、どこか言い恥ずかしくつい言いよどんでしまう健斗に、電話の向こうの美音は怪訝に思ったのか、声のトーンがさらに落ち、メゾソプラノが既にアルトのような声に変わってしまっている。

『――何となく先輩にそう呼ばれると気恥ずかしいですよぉ、いつもと同じように呼んでくださいよ……それとも……何か他に理由があるとか?』

 美音は口に出さないものの、ニュアンスで健斗の置かれている状況を語ってくる。

 す、鋭いかも……なんだってこうも女の子ってそういう事に鋭いんだろう。

「そ、そんな事ないよ……卒業してからロクに話をしていなかっただろ? だからちょっと恥ずかしくって……」

『だったら……あたしは先輩の事を『健斗先輩』って呼びますから、ですからぁ、エッとぉ、そのぉ……先輩は、あのぉ………………『美音』って呼んでください』

 いいよどみ、耳を凝らさなければよく聞こえないほどに小さな声で美音が言うと、思わず健斗は顔を真っ赤にしながら、一気に肩の力が抜けてしまう。

『あっ、別にいいです。無理にではないので……その、あたしが先輩の事を『健斗先輩』って呼びたかっただけですから…………いいですか?』

 あまりにもいじらしい美音の言葉に健斗は思わず微笑んでしまう。

「かまわんよ……気にするな」

 そんな一言に、電話の向こうからホッとしたような空気が流れてきたような気がするのは、きっと気のせいではないはずだ。

『ありがとうございます、先輩も慣れてください……そのぉ『美音』って呼ぶのに……』

 今度は照れたような空気が電話の向こうから流れてきて、健斗も思わず赤面してしまい、思わず車にその視線を向けると、助手席からこちらを見ている冬花と視線が合う。

「わっと……」

 思わず上げてしまった声は、健斗の手に持っている携帯にも伝わってしまったのだろう、美音の心配したような声が聞こえてくる。

『どうしいたんですか先輩? なにかあったんですか?』

「い、いや、なんでもない、気にするな……それよりも今日はどうしたんだい? いつもはメールなのに電話をしてくるなんて珍しいじゃないか……」

 再度車に背を向け、冬花の視線から逃れるように健斗が話しだすと、事もあろうか冬花は車から降りてきて健斗の隣に寄り添う。

 おいおい、何を考えているんだ?

『ハイ、そろそろ先輩の誕生日だなぁと思って……なにか欲しいものありますか?』

 そんな事を知る由もない美音は楽しげに話をしてくるが、健斗は話しも半分で、冬花のその視線から逃れるように身をくねらせている。

「い、いや、特に欲しい物はない……かな?」

『でも、まだ寒いんじゃないですか? 北海道って……』

「ん? 六月に入ってだいぶ温かくなってきたぞ? 最高気温も二十度近くまで上がるようになってきたし、夜もストーブ無しでやっていけるようになったから」

 六月に入ってから最低気温も二桁になる日が多くなってきて、暖かく感じるようになったのだが、電話の向こうとは感覚が違っていたようだ。

『それって十分に涼しいですよ……この間なんて、こっちは二十五度を越えたんですよ? 六月で夏日なんですからぁ』

 嫌そうな声が聞こえてくる……確かにそうかもしれないよな? 去年までは俺もそっちにいたんだよな? こっちは二十度で暖かいと言い、東京では夏日で暑いと言っている。日本というのは本当に南北で長いんだなと痛感するよ。

「ヘェ?」

 フッとため息を吐き出すと、冬花のキョトンとした顔が間近にある事に気がつき、健斗は思わず声を上げてしまい、それを東京の美音に届けてしまう。

『本当にどうしたんですか先輩?』

 困ったような顔をしながら健斗は電話の向こうをなだめ、目の前でキョトンとした顔をしている冬花の事を睨みつける。

「いや、本当になんでもないぞ……そんなに気を使う事はないから……」

 覗きこむような冬花の視線から、身体を切り離すように話すがその視線はまるで絡みつくように健斗の顔を見据えている。

『それでぇ、先輩って……』

 電話の向こうからはカラカラと笑った美音の声、目の前には怪訝な顔をした冬花の顔に挟まれ健斗は軽いめまいを感じてしまう。



「いまの電話の相手って、もしかして茅沼クンの彼女かな?」

 函館駅前を通り抜け、しばらく市電と一緒に走って『十字街』の電停の手前にある少し広い道を左に入る頃、それまで当たり障りのない話題を提供していた冬花が、いきなり(話が飛ぶのにはいくらか慣れてきたが)さっきの核心を突いてきた。

 おいおい、話が飛ぶに事欠いて、なんだってそこに飛んでいくんだよ……。

「いや、さっきの電話の相手は、高校時代の……」

 後輩だと言えば良いだけの事なのだが、どうしてもその言葉が出てこないで、ついに言葉が潰えてしまう。

 口を途中で詰むんでしまう健斗に、冬花はどこか納得したような顔をしながら運転をしているその横顔を見つめるが、やがて何かに気がついたように身を乗り出す。

「あっ、あたしのマンションそこだから……」

 突然言う冬花に健斗はハッとして車を止め、指差す先を見ると、そこにはレンガ造りで洒落た感じのマンションがそびえている。

 ――もしかしたら浪岡さんってお金持ちのお嬢さんだったりするのかな?

 立派な造りのそのマンションを呆然と見上げる健斗に、冬花はニコッと微笑みながらその顔を近づけると、その鼻先に細い人差指を置く。

「茅沼クン、今日は本当にありがとう。久しぶりに楽しい夕飯だったよ……また遊びに行ってもいいかな?」

 照れ臭そうに言う冬花に気圧されたように健斗がコクリとうなずくと、満面に笑みを浮かべながら心底嬉しそうな顔をする。

「ウフ、よかったぁ……でも、あたし琴音ちゃんに嫌われないかなぁ」

 冬花の口から琴音の名前があがると、再び健斗はその体をすくめる。

「な、なんで琴音が……」

 慌てふためいたような健斗に、クスッと意味深に微笑む冬花。

「だって、何となくそんな感じがしたから……でも、あたしなんかよりも気にしなければいけない人がいるかもしれないわよね?」

 意味深な事を言いながら、冬花は健斗の鼻先に置いた指をどかし、少し意地の悪い顔をしながら健斗に対して手を上げる。

「今日は送ってくれてありがとう。また明日ね?」

 フワッとフレアースカートの裾を翻しながら、踵を返しマンションに入ってゆく冬花を見送りながら、車の中で健斗は深いため息をつく。

「どーゆー意味なんだ? ったく……」

 首を左右に動かすとそこからは、ボキボキッと言う音が聞こえ、それだけでかなり肩に力が入っていたと言う事がうかがい知れる。

 なんだか……すっごく疲れたかも……。

第十二話へ。