第十五話 届け応援!
=Ⅰ=
「健ちゃん、一緒に帰ろうよ」
サークル棟から家路につこうとしている健斗の背後から、花織が嬉しそうに追いかけてくる。
「花織さんも終わったんですか?」
いくら北海道とはいえ汗ばむような陽気になる七月、masでは東京で行なわれる同人誌即売会『こみっくふぇすてぃばる』に出展する作品を書き上げなければいけない時期なのだが、今年の新人である健斗たちにはあまり関係なく、主に二年生と三年生の打ち合わせが毎日のように行なわれている。
「ウン、あたしはコスプレの方だけだからあまり関係ないかな? 難しい話はお偉いさんたちで色々とやっているみたいだけれど」
ペロッと舌を出しおどける表情を見せる花織は、その視線をTシャツの袖から伸びている健斗の腕に向けながら首を傾げる。
「ねぇ、健ちゃんって、なんかスポーツでもやっていたの? いままで気がつかなかったけれど、結構たくましい腕をしているのね?」
Tシャツにジーパンというラフな格好の健斗は、花織の質問に対して自分の腕に目を向けて、クスッと小さく微笑む。
「スポーツらしい事はぜんぜんやっていませんでしたよ? ただ小さい事からドラムを叩いていると落ち着くから、たまに仲間内でセッション組んだりしていましたから」
高校時代は気のあった仲間とスタジオに入って演奏をしたり、学校に内緒でライブをやったりしていた。意外にドラムというのは体力が必要な楽器で、二時間のライブをやった後なんかは疲れて腕が痙攣している事などよくある事だ。
ムキムキというほどの体型では無いが、健斗の肩から腕にかけては結構筋肉が盛り上がっており、見た目よりもガッシリしているように見える。
「ヘェ、そうなんだぁ、意外な健ちゃん見っけた!」
花織はそういうと健斗のその太い腕に抱きついてくる。
「ちょ、ちょっと花織さん、そんなに引っ付いたら暑いってばぁ」
「えへへ、気にしない気にしない!」
気にするってば……顔が小さくって、髪の毛がベリーショートだからスレンダーなイメージなんだけれど、意外にボリュームがあるんだよなぁ花織さんって……生腕に花織さんの柔らかいものが……当たるぜ。
顔を赤らめ、少し腰を引き気味に歩く健斗の視線に、高等部のグラウンドが見えてきて、まだ何人かがそのトラックを駆け回っているのが見えてくる。
あれ? 琴音の奴まだやっているのか?
夕闇が迫ってきているグラウンドは照明に照らされ、その中を同じ陸上部の選手と一緒に走る琴音に視線が向く健斗に、花織が顔を覗かせてくる。
「琴ちゃん今度の日曜日の記録会に向けて一生懸命ね?」
それまで健斗の腕にしがみつき、幼子のような顔をしていた花織の表情が、優しいお姉さんのような顔になる。
「えぇ、高校最後の試合だから、何とか良い記録を残して卒業したいって言っていました」
タオルで顔の汗を拭い、再びスターティングブロックに足を掛ける琴音の表情は凛々しささえ感じるほどで、その一生懸命さがよくわかる。
俺には応援する事しかできないからな? ただ頑張れとしか言いようが無い。
真剣な顔をする健斗はいつの間にか腕を組み、真っ直ぐに琴音のその姿をジッと見つめていると、隣にいた花織がつまらなそうに口を尖らせている。
「ぶぅ、健ちゃんったらぁ、そんな真面目な顔をして琴ちゃんの事を見てぇ……」
クイクイッと花織に腕を引かれ、一瞬視線をそっちに向けるのと同時に、パンという号砲の音が聞こえ、すぐに視線をグラウンドに戻すと、そこには日に焼けた琴音の細い足首がしなやかにレンガ色のアンツーカーを蹴り、汗を輝かせ胸を張ったような状態で駆ける琴音の姿は、あっという間にゴールラインを駆け抜けてゆく。
「ねぇ、健ちゃんは琴ちゃんの事をどう思っているの?」
ゆっくりと歩きながら帰る道すがら、花織の突然の質問に健斗は答えを窮してしまい、素直に驚いた顔をして花織の事を見据えてしまう。
「ど、どおって……別に、同居人の一人かな?」
視線をさ迷わせる健斗の事を花織は、少し意地の悪い顔をして見つめる。
「本当にそれだけかなぁ。何となくはじめの頃に比べて、健ちゃんが琴ちゃんを見る目が違ってきているような気がするのは、あたしの気のせいなのかしら?」
目を眇めながら健斗を見据えてくる花織の顔を健斗は見返すが、その視線は泳いだままで、真っ直ぐに花織の顔を見る事はない。
「き、気のせいですよ。まぁ、確かに最初の頃は琴音に対するイメージは最悪でしたから、それに比べればだいぶ違ってはきましたが……」
第一印象は最悪だったよな? いきなり痴漢呼ばわりされるし、キャンキャンとうるさい女というイメージだったが、最近ではそんなに感じなくなってきているのは慣れなのかな?
「…………いまは? 今は琴ちゃんの事をどう見ているの?」
足を止める花織に散られ健斗も足を止める。
「今も昔も変わらないですよ、彼女は同じ家に住んでいる同居人の一人です。まぁ、ちょっと小うるさい所はありますけれど……」
「そこよ! あたしの知っている琴ちゃんっていつもニコニコしているというイメージなのよ、それなのに、健ちゃんの前だとあんなに表情をコロコロと変えるの……まるで昔から知っている人に対するような、そんな表情を浮かべるのよ」
なぜか寂しそうな顔をする花織の事を、健斗は首を傾げながら見つめる。
「そりゃ、琴音だって俺にあまりいいイメージを持っていないからでしょ?」
セミヌードを見られた相手に対して、ニコニコしていられないだろうし……タハハ。
「それは違うと思うよ? 少なくとも健ちゃんの事を悪くは思っているはずないよ。そんな風に思っていたらあんなに頼ったような顔をするはずないもん」
「頼った顔?」
キョトンとした顔の健斗に、花織はいじけたような顔をしてコクリとうなずき、真っ直ぐに健斗の顔を見つめてくる。
「ウン、琴ちゃんって意外に意地っ張りやなのよ?」
それはよく知っています。
胸のうちで苦笑いを浮かべる健斗だが、目の前の花織は真剣な顔のまま話を進める。
「仕事もすぐに覚えちゃったし、芯根が強い女の子というイメージがあたしには強かったの。はじめて『ふうりん』に来た時にそう思ったのよね? なんていうのかなぁ『あたしは人の世話にはなりません』というようなそんな感じだったの」
確かにはじめて会った時はそんなイメージだったかもしれないかな? 少しツンツンしているという感じで、とっつき難そうに思えたけれど……。
「でも、健ちゃんと話をしている時の琴ちゃんってちょっと違うのよね? あんなに表情を豊かにしてしゃべっている彼女はあまり見た事無いのよね? まるで、自分の事を何でも話すことができる相手……頼り切ったような顔をしているように見えるの」
少し寂しそうな顔をする花織に対し、健斗はお気楽な笑顔を浮かべる。
「それは毎日顔をあわせているせいじゃないですか? 兄妹に話をするみたいなものですよ」
家族まではいかないにしても、毎日顔を合わせていればそうなってくるだろう。
「本当にそれだけかなぁ……まぁ、健ちゃんがそう見ているなら心配はないわね?」
怪訝な顔を一瞬にして嬉しそうな顔にすると、花織は再び健斗の腕に抱き付いてくる。
「ちょ、ちょっと花織さん……他の人が誤解しちゃいますよ?」
「誤解?」
腕にしがみつきながら、花織はキョトンとした顔をして健斗の顔を見上げる。
「もし花織さんが俺と付き合っているみたいな噂が流れたら困るでしょ?」
「ん~、あたしは気にならないよ? むしろ流れてくれた方がうれしいかも!」
満面の笑みを浮かべる花織に、健斗は脱力してしまう。
=Ⅱ=
「応援?」
夕食の終わった黒石家のリビングに、素っ頓狂な琴音の声が響きわたる。
「ウン! せっかくの琴姉ちゃんの引退試合なんだもん、みんなで応援しに行こうという事になりましたぁ。ちなみにお母さんがお弁当を作ってくれるそうです!」
いつの間にかそういう事になっていたようで、俺もさっき帰ってきた時に知果ちゃんに宣言されたよ『おにいちゃんは運転手!』と……だから、そんな恨めしそうな顔をして俺を見るなよ、俺だって被害者の一員なんだからぁ。
呆れたような顔をする琴音の視線は少し険しさを持ち、なぜか健斗を睨み付けている。
「そうよぉ、今度の日曜日はお天気もいいみたいだから、みんなでピクニックみたいにお弁当を食べましょ? 琴音ちゃんには試合に頑張ってもらわないといけないから、スタミナのつくスペシャルお弁当を作ってあげる」
ニッコリと微笑む深雪に、琴音は何も言えなくなったようにうなだれてしまう。
「そんなの恥ずかしいよぉ、みんなの見ている目の前でいいタイムが出せなかったら……」
チラッと見てくる琴音の視線に気がつかない健斗は、ソファーの上で伸びをするように腕を伸ばすと、ハァッと息を吐き出す。
「そんなの恥ずかしくなんて無いよ、その時に琴音が全力を出し切る事ができていれば、それがどんなに非凡なタイムであれ、それがベストタイムなんじゃないか?」
ふと頭の中に一生懸命に練習をしている琴音の姿が浮かび上がり、ついそんな気沙汰らしい台詞を吐いてしまった健斗は、少し頬を染めて視線を宙に向ける。
うぁ、俺ってばいますっごく恥ずかしい言葉を吐いたんじゃないか?
「健斗……」
驚いたような顔をした琴音も、すぐに恥ずかしそうに顔をうつむかせる。
「おにいちゃん、さすが小説家志望だね? ボクちょっと感動しちゃった」
宙に向けた視線に潤んだような目をした知果の顔が割り込んでくると、慌てたように健斗はその体を仰け反らせる。
ちょっと知果ちゃん顔が近いって……。
「ホント、いい言葉よね? 健斗クン、あたしも感動したわよ。全力を出せばどんな記録でもそれがベスト……ね、琴音ちゃん」
優しい顔をした深雪が琴音に顔を向けると、照れ臭そうな顔をしながら、琴音もそれにコクリと首を縦に振る。
「はい、ガンバります」
小さな声であったがその言葉には力があり、期待させるには十分であった。
「琴姉ちゃん頑張ってね?」
「悔いのないようにね?」
九十九年に改装を終わらせた『千代台(ちよがだい)公園陸上競技場』は、道内では二番目に大きな競技場で、サッカーの『コンサドーレ札幌』の準ホームグラウンドになっているほどの大きさで、立派なメインスタンドがみんなの前にそびえている。
「――ウン……」
しかし、ただ一人緊張した面持ちの琴音だけは、知果や深雪からの励ましの声に対して曖昧な返事しかできないでいる。
まぁ、これだけ立派な所で、しかも引退試合ともなれば緊張するなという方が難しいよな? でも、緊張していると出せる力も出し切れないものだぜ?
最後に運転席から降りた健斗は、琴音のそんな様子にため息を吐き出しポニーテールのその頭にポンと手を置くと、驚いたような顔をした琴音が健斗の顔を見上げてくる。
「ホレ、リラックスしろよ。いい結果を出そうとしているから緊張しているんだろ? 運動会ぐらいの気持ちでやればいいんじゃないか?」
意地悪い顔をする健斗の顔を見上げていた琴音は、すぐにその視線を再び落としてしまう。
これは随分と重症だな? 仕方が無い……。
「きゃっ?」
頭から下ろした健斗の手は、ジャージを履いている琴音のお尻をポンと叩き、それに驚いた琴音は目をまん丸にして再び健斗の事を見上げる。
神に誓うがスケベ心からじゃないぞ?
「そんな自信無さそうな顔をしていると、もう一度叩いてやろうか?」
一瞬ではあるが琴音のお尻に触れたその手を健斗がニギニギとすると、それまで不安そうな顔をしていた琴音の顔が柔らかくなってゆく。
「健斗のえっち! そんな事をされなくっても大丈夫ですよぉ~だぁ」
ベェッと舌を出す琴音の表情は、いつもと同じものに変わり、それを見た健斗は心の中でホッとため息をつく。
「沢村せんぱぁ~い!」
遠くから琴音と同じジャージを来た女の子が数人琴音に向かって手を振っており、それに気がついた琴音もそれに手を振り返している。
「琴音、ガンバレよ」
親指をグッと立てた健斗に、琴音も笑顔を浮かべながら親指をグッと立てる。
「ウン! ガンバルよ……健斗、その……ありがとう!」
そう言いながら琴音は手を振っていた女の子たちに合流し、それを見送った健斗は深雪たちが入って行ったメインスタンドに顔を向ける。
「健斗さん?」
不意に背後からかけられる声に振り向くと、そこには三つ編みおさげのメガネっ娘、琴音の同級生である由衣が、少し顔を赤らめながら立って健斗を見つめている。
「あれ由衣ちゃん? 君も琴音の応援かい?」
何度か学食で食事をする時、いつも琴音と一緒にいる女の子ぐらいしか俺には認識がないのだが、琴音が言うには一年からずっと同じクラスで一番仲のいい友達と言っていた。本人は恥ずかしがってはっきりとは言わなかったけれど、いわゆる親友というやつなのであろう。
「いえ、あたしは陸上部のマネージャーをやっているんで……」
確かによく見れば彼女は他の部員たちと違って学校の制服を着ており、両手には色々な荷物が持たれている事に気がつく。
「そっか、由衣ちゃんもこの試合が最後になるのかな?」
彼女も琴音と同じ三年生だ。いくらマネージャーとはいえそろそろ引退をする頃だろう。
「いえ、あたしは明和大に進学が決まっているんでまだまだ続けるつもりです」
赤い顔のまま微笑む由衣の一言に、健斗は違和感を覚えると、その違和感を払拭するために、健斗は由衣に次の質問を投げかける。
「いわゆる学内選考というやつだよね? でも、琴音は今日の試合が引退試合だっていていたけれど、何か違いがあるのかい?」
単純に考えれば琴音が学内選考から洩れたというのが妥当なのだが、そんなに成績が可哀想なほどに酷いわけではないはずだが?
首を傾げている健斗に、結いは少し言いにくそうな顔をしている。
「――エッと、琴音は学内選考を受けなかったんです。その……違う大学に行くような事を以前に言っていたから……たぶん」
寂しそうな顔をする由衣は、その事を聞いた時の事を思い出したのであろう。少し苦々しそうな顔をしている。
「そっか……琴音は明和大に行かないのか……」
ふと健斗の気持ちの中に寂しさがこみ上げてくると、ついそれが表情に浮かび上がったのか、取り繕うように由衣が慌てて声をかけてくる。
「で、でも、明和大に進学しないというのは二年になる春先に聞いた話ですし、学内の最終選考はまだ十月にありますから、もしかしたら気持ちが変わっているかもしれませんよ」
そう言う由衣は語り先こそ健斗だが、まるでその言葉は自分に向けているようにも思える。
「そうだな? 気持ちなんてどう変わるかなんてわからないよ。琴音のその時の気持ちと、今の気持ちが違っていればきっと明和大に進学するだろうよ」
これも由衣に対しての言葉だが、どこか自分に言い聞かせているような感じでもある。
「琴音は確か短距離だったよな?」
メインスタンドに入ると、青々とした芝生がまぶしいピッチと対照的なレンガ色のアンツーカーには色とりどりのユニフォームが散らばっており、スタンドの最前列に陣取った知果と深雪に声をかけるが、その表情はさっきの由衣の一言のせいなのか硬いままだった。
「ウン、百メートルと二百メートルの二種目に出るっていっていたよ?」
そんな健斗の表情に気がつかない知果は、ニッコリと微笑みながら隣に腰を下ろす健斗の顔を見上げてくる。
「ヘェ、そうなんだぁ……」
琴音は明和大に進学しない。別にそれは琴音自身が考えた事であって俺には関係の無い事という事はよくわかっている。しかし、なんなんだろう、このモヤモヤした気持ちは……。
「アッ、琴姉ちゃんだ!」
隣に座る知果が、トラック上にライトブルーのジャージを着た琴音を見つけると、やおら立ち上がり、大きな声をそれに向ける。
「琴ねぇ~ちゃぁ~ん! がんばってぇ~っ!」
グラウンドで由衣と一緒に話をしていた琴音はそんな知果の声に気が付いたのか、顔をこちらに向け、小さくではあるがその手を振る。
「アハ、気がついたみたい。ほらぁ、おにいちゃんも応援してあげないとぉ」
さすがに恥ずかしいぜぇ。確かに応援に来たのだから声をかけてあげなければいけないのだろうけれど、ギャラリーが少ないために、声をかけるのには少し勇気がいるよ。
グイグイと知果に腕を引っ張られてようやく立ち上がる健斗に、グラウンド上の琴音も気がついたのか、それまで振っていた手を下ろし、少し恥ずかしそうに顔をそむけている。
「――沢村さんは、最近調子を上げていると聞いているから、今日も期待できると思うよ」
いきなりうなじに息を掛けられるように話しかけられ、健斗が慌てて飛びのくと、そこには端正な顔をした雄二がにこやかな顔をして立っている。
「ゆ、雄二! なんでお前がここにいるんだ?」
いつもと違ってジャージ姿の雄二は、健斗に出会えた事がよほど嬉しいのか、今にも抱きついてきそうなほど鼻息を荒くしている。
「俺はここのOBだからな? 後輩たちの応援に来たんだ。まさか健斗が来ているなんて知らなかったからこんな格好をしている事が悔やまれて仕方がないのだが」
心底悔しそうな顔をしている雄二をとりあえずスルーする事にして、再び視線を琴音に向けると、ジャージ姿のままランニングをしたり、同じジャージ姿の女の子と柔軟体操をしたりしていて、緊張したような様子は見受けられない。
とりあえずリラックスはしているようだな? 緊張していると自分の持っている力を出し切れない事があるから、良かったぜ。
「記録会とはいえ、この試合でいいタイムを出せば道南大会に進出し、全道大会にエントリーされる事があるからみんな必死だと思うよ」
いつの間にか隣に立っている雄二が、いつも見せているようなおちゃらけたような顔ではなく真剣な表情を見せながら他の選手の動きを見ている。
ほぉ、こんな男でもこんな真面目な顔をする事があるんだな? こうやって見るとまんざら高校時代陸上部のキャプテンをやっていたというのもうなずける。
「オッ、可愛い子発見!」
しかしそんな真面目な顔をしていたのはほんの一瞬で、次に見せただらしない顔と視線は、グラウンドでアップをしている男の子に向いていた。
――前言撤回……やっぱりこういう男なんだ……てか、なんで男の子なんだかがよくわからんし、それをわかりたいとも思わん……。
ヤレヤレ顔をする健斗は、そっと雄二から距離をとりグラウンドに視線を向けると既にそこには琴音の姿はなくなっていた。
がんばれよ琴音。一生懸命にやっていた練習の事を思い出せばいいだけだ。俺にはそれしか言う事はできない。ベストを尽くしてくれとしかな。
祈るような気持ちで見上げる空は、ドンヨリとした雲が垂れ込め始めている。
=Ⅲ=
『ただいまより、女子百メートル競技をはじめます……』
少しぎこちない女性アナウンスが競技場内に響きわたると、精神を統一していた琴音が立ち上がり、隣にいた知果と深雪が相次いで声をかけている。
「琴姉ちゃんガンバだよ!」
「気負いすぎないで普段の練習のままで頑張ってね?」
他の種目が行なわれている時はスタンドで他の競技を見学していた琴音だが、自分の出る種目が近付くにつれ落ち着けるようにと他の部員とは離れていた。
さっきまではそんなに緊張した様子はなかったのに、今ではガチガチになっているじゃないか琴音のやつ……これじゃあいい成績も出せないぞ?
少し離れた所でその様子を見守っていた健斗は、いつものような笑顔をなくし、表情をなくしたような琴音の顔を見つめる。
「ん」
それに答えているのか琴音は小さく言うと、スタンドをグラウンドに向かって歩き出す。
「琴音!」
いたたまれず声をかける健斗の声に、初めて琴音の表情が反応を見せる。
「その、なんだ……」
呼び止めたは良いが、何かリラックスできるような気の利いた事でも言ってあげたいのだが、ボキャブラリーが貧困なせいなのか、うまくそれを言い表す事ができない。
言いよどんでいる健斗の顔を、怪訝な顔をして見ている琴音に、なかなか来ないので心配したのであろう後輩の女の子が声をかけてくる。
「沢村先輩、集合ですよ?」
「ウン、いま行くわ」
琴音もその声に答えてチラッと健斗に視線を向けると、その顔には笑顔が浮かんでいた。
「健斗、良いタイムが出たらまたラッピでおごってくれる?」
思いもしない琴音の申し出に、一瞬驚いたような顔をしていた健斗だが、すぐに笑顔を浮かべながら琴音にVサインを送る。
「かまわないぜ? もしなんだったら『ハセスト』の『とり弁DX』も付けてやろうか?」
意地悪い顔をして(本人はそう思っているらしいが、その顔はどこか引きつっているように見える)琴音に向かってそう言うと、琴音はホッとため息を吐き出しベェッと舌を出す。
「失礼ねぇ、いくらあたしでもそんなに食べられないし、そんなに食べたら太っちゃうよ」
プゥッと頬を膨らませているものの、琴音の顔には笑顔が浮かんでいて、それを見た健斗もホッとため息を吐き出し、グラウンドに向かうその後姿を見送る。
「琴姉ちゃん大丈夫かなぁ……」
スタンドの最前列で祈るような姿をしている知果は、まるで自分がこれから走り出すような顔をしながら健斗の顔を見上げてくる。
「まぁ、緊張はしていないと思うよ」
苦笑いを浮かべる健斗は視線をグラウンドに向けると、他の選手は緊張しているのかウロウロとしているが、琴音においては後輩の女の子や由衣と楽しそうに談笑している姿が見える。
『続いて女子百メートル第十八組、第一のコース、明和大付属高校沢村さん、三年生』
ジャージを脱ぎ捨て、ランニングシャツに短パンという格好になった琴音はアナウンスに合わせて体をブラブラさせながらペコリと頭を下げる。
六人で走るのか。なんだかこうやって見るとみんな強そうだよな? 琴音の隣の女の子なんて琴音よりもだいぶ背が高いし、第六コースの女の子は足長っ!
気がつかないうちにコースにいる琴音よりも、自分の方が緊張している事に気がついた健斗は、苦笑いを浮かべて第一コースでスターティングブロックを弄ったり、足をぶらつかせたりしている琴音に視線を向けると、不意にその視線がかち合う。
ん? 琴音のやつ、今こっちを見ていたのか?
既に琴音の視線はコースに向いており、それがどうなのかは確認する事はできないが、その真剣な横顔を見た途端、健斗の気持ちの中でそれまであった恥ずかしさが消える。
「琴音ぇっ! 頑張れぇ~っ!」
突然声を上げる健斗に、隣にいた知果はキョトンとした顔をしていたが、すぐにその声に負けないような大きな声を上げる。
「琴ねぇちゃん! ガンバァ~ッ!」
「琴音ちゃんふぁいとぉ~! だよぉ~」
まるで健斗につられるかのように、知果や深雪まで大きな声を張り上げてトラック上にいる琴音に対して声援を送ると、周囲にいる同じ明和大付属の人間からも大きな声がかかる。
「沢村ぁ~! 気合入れていけぇ~ッ!」
「沢村先輩! ファイトォ!」
他の学校の生徒であろうギャラリーは呆気に取られたような顔をしてその集団を見ているが、そんな事はまったく気にしないように健斗たちは声をかける。
俺にはこれぐらいしかできないからな? これだけで琴音がいいタイムを出してくれるのならいくらでも声をかけてやるぜ。
ふとトラック上の琴音を見ると、その視線は、今度は間違いなく健斗に向いており、その顔は少し照れ臭そうな顔をしていながらも、遠目にもその顔が微笑んでいるように見える。
『位置について……』
スターターが定位置につき、手に持つ雷管(ピストルみたいなやつ)を持ち上げると、それまでの声援が一気に止まり、競技場内に緊張感を持った静けさが広がる。
『よぉーい……』
ゴクリと誰かが息を呑む声が聞こえると、パンという爆竹の破裂するような音が聞こえ、それまで静まり返っていた場内が一気に声援に包まれはじめ、健斗も多分に洩れずに精一杯の声援を琴音に向ける。
「いけ! 琴音っ!」
第一コースを走る琴音はスタートがうまく切れたらしく、他の五人に比べて体半分のリードをしている。
いいぞ、このまま行けばトップで入る事が出来るんじゃないか?
徐々に速度が乗りはじめている琴音はそれまで半分だったリードを広げはじめるが、第六コースを走る足長女子が差をつめてくる。
「琴音ぇーッ! 後ろが来ているぞっ!」
ゴールテープが目前になった所で、その差はほとんどなくなり、第六コースの足長女子が僅かにリードを琴音から奪う。
やられた! ラストで刺された!
ゴールテープを切る瞬間、それまで綺麗なフォームを見せていた琴音の体勢が崩れる。