第十七話 LongDistance
=Ⅰ=
「だぁっ! やっと終わったぜぇ」
八月の第一週目まで続いた前期試験がようやく終わり、健斗は晴れ晴れしさを感じながら、北海道とはいえ暑いその陽射しを浴びながら校門を潜り抜ける。
これで九月の半ばまで夏休みだぁ、のんびりするぞぉ……といっても、ほとんどバイト三昧になるだろうな? ランチの時間にも入ってくれってマスターに言われているし……。
シュワシュワ、ミーンミーンと、セミ時雨を聞きながら健斗はなだらかな下り坂の日陰を選んで歩いていると、背後から声がかけられる。
「健ちゃん!」
振り向くと夏らしくホルターネックのキャミソールの上にトップスを着こなしている花織が笑顔で健斗に手を振っている。
「健ちゃんも今日まで試験だったの?」
小走りに追いかけてくる花織は健斗の隣に寄り添うと、ホッとため息を吐き出しながら健斗の顔を少しまぶしそうに見上げてくる。
「ハイ、ホッとしました」
そんな花織の笑顔に答えるように健斗も笑顔を浮かべながら見下ろす。
「ウフ、学生は仕方がないわよね? 試験ばっかりだもん、これだったら大学になんて進学しないで、社会人の方が良かったのかなって思っちゃうわよね?」
苦々しい顔をしながら花織はそう言いながら、視線を前に向ける。
「でも、社会人になったらこんなに長い休みなんてありえませんからね?」
苦笑いを浮かべる健斗の一言に、隣を歩く花織は真剣に悩んだような顔をしながら『ぶぅ』と下唇を突き出しながら拗ねたような顔になる。
「確かにそうかも……試験の時だけ我慢をすれば、もれなく長期休みがあるんだもんね? これが学生の特権なのかな?」
「そうですよ、ポジティブに物事を考えた方がいいです。社会人にも良い事はあるかもしれませんが、長期休みが取れるのは学生ぐらいなものですよ」
ニコッと微笑む健斗の顔を見上げた花織は、少し頬を染めており、すぐに何かを思い出したように猫目かかったその目を見開く。
「健ちゃんこれから何か用事ある?」
いきなりの花織の申し出に、健斗は今朝の出来事を思い出し、少し曖昧な笑みを浮かべる
「すみません、これから一旦家に帰って琴音と一緒に本屋に行く約束をしているんですよ」
欲しい本が出ているらしいが、まだ松葉杖の手放せない(足代わりである自転車にも乗れない)琴音に、出がけに頼み込まれてしまった(かなり強引であったが……)。
曖昧な笑みを浮かべたままの健斗を、花織はその猫目を少し眇めて見据えると、健斗にも聞こえるようなため息を吐き出しながらその顔を見上げてくる。
「はぁ……最近健ちゃんって琴ちゃんとずっと一緒にいるよね? 怪我をしているとはいえ琴ちゃんを送迎するからサークルにも顔をあまり見せなくなっちゃったし……ちょっとあたし的には寂しいかもしれないわね?」
寂しそうな顔で見上げてくる花織に、健斗は申し訳ない気持ちになる。
スミマセン、高等部の授業が終わるのと同時に琴音の事を迎えに行っていたから、サークルにはほとんど顔を出していないんだよね?
申し訳無さそうな顔をしている健斗の様子に気がついたのか、花織は慌てて手を振りながらその顔を覗き込んでくる。
「そ、そんなに気にしないでよぉ。別にサークルの方はなんともないし、やっぱり琴ちゃんの怪我の方が一番心配だから……」
ニコッと微笑む花織に、健斗はホッと胸を撫で下ろすが、しかし、サークル活動に顔を出していないというのが少し心の中にシコリを残している。
「いいなぁ琴ちゃん……」
顔を伏せる花織は健斗に聞こえないように呟きながら、何度目かのため息を吐き出していた。
「ただいまぁ」
黒石家の玄関を入ると、リビングからケンケンをするような格好で琴音が顔を出してくる。
「アッ、健斗おかえりぃ~」
ニコニコ顔の琴音の様子は、まるで飼い主を待っていたような犬のような顔をしており、健斗はその顔に柔らかく微笑む。
いま琴音のお尻に尻尾を付けたら、ブンブンとはち切れんばかりにそれを振るだろうな?
「ん、ただいま」
そんな琴音の顔をまともに見る事ができないのは、さっきの花織の一言が頭に引っかかっているせいなのかも知れない。
それまであまり意識していなかったけれど、確かに最近琴音と一緒にいる時間が多いよな? まあ、一緒に住んでいるというせいもあるのだろうけれど……。
「どした?」
靴を脱ごうと顔を下に向けたまま動きの止まった健斗の事を、怪訝な顔をして琴音が覗き込んでくると、健斗は慌てて動きを再開させる。
「な、なんでもないぞ」
慌てて靴を脱ぐ健斗のぎこちない動きに、琴音は小首を傾げているが、すぐに違う事に考えが移ったのであろう。怪訝な顔を機嫌良さそうに微笑ませる。
「ねね、何時ぐらいに本屋さんに行く?」
まるで小さな女の子が、オモチャを買ってもらうために父親の帰りを待っていたような顔をしている琴音に、健斗は思わず優しい笑みを浮かべる。
琴音って小さい頃からこんな感じだったのかもしれないな? いま思っている感情を素直にその顔に表す……だから、コロコロと表情が変わるのかもしれない。
クスッと微笑む健斗に、キョトンとしたような顔をしている琴音。
「何時でもいいよ? 着替えたらすぐでもいいし、琴音に任せる」
靴を脱ぎ玄関を上がる健斗は、すれ違いざまに琴音のその小さな頭の上にポンと手を乗せると、大きな瞳を猫のように細める。
「ぶぅ、さては何かよからぬ事を考えたな?」
ギプスで固定されている足をかばいながら健斗が手を置いた場所を自分の手で撫でる仕草を見せる琴音は、少し頬を膨らませながら健斗の顔を睨みつけるが、その視線に嫌悪感はない。
「な、なんだよ、よからぬ事って……それよりどうする?」
よからぬ事では無いよな? ただ表情がコロコロ変わって……変わって?
一瞬自分の頭に浮かんだ考えに、階段の一段目に足を掛けたままの状態で健斗の足が止まり、その考えに心の中では激しく首を傾げている。
俺は可愛いと思ったよな? でも、その感情は一般的なものだ。一般的に見て琴音は可愛い分類に入るわけだから、そういう感情が湧きあがってきてもおかしくないはずだ。
強引な形で自己解決をする健斗の後ろからは、ケンケンをするように琴音がついてくる。
「んと……もし良かったら健斗が着替え終わったらすぐがいいかな? 知果ちゃんが帰ってくるとまた冷かされるだろうし……たぶん一緒に行くって言い出すと思うから……」
なぜか一緒についてくる琴音の言葉尻は健斗の耳に届く事はなく、既に階段を上りきってしまった二人は、気がつけば健斗の部屋の前へと辿り着く。
「別に俺はかまわんが……少なくとも着替えを見張らなくとも俺は逃げないから安心しろ。それとも、琴音さんは俺と一緒に着替えをしたいのかな?」
意地悪い顔をする健斗に対して、琴音はやっと自分が健斗の部屋の前に立っている事に気がついたのか、顔を赤らめながらベェッと舌を出す。
「ば、ばかぁ、そんなわけないでしょ? なんだってあたしがあなたの着替えているのを覗かなければいけないのよ! 着替えが終わったらすぐに下に下りてきてよね!」
そう言いながら琴音は再びケンケンをするように、階段に向かう。
「階段に気をつけろよ?」
心配そうに言う健斗の声に、琴音は振り返りながら、少し嬉しそうな顔をしてコクリとうなずき、気をつけるようにゆっくりと階段を下りてゆく。
=Ⅱ=
「それで、この辺りで大きな書店と言ったらどこになるんだ?」
車のエンジンをかけながら健斗は首を傾げる。
考えてみれば、この街に来て大学の生協以外の本屋に行くのは初めてかもしれないな? 大概の物はそこで揃っちゃうし、わざわざ本屋に行く必要がないから……。
健斗の問いかけに対して、松葉杖をセカンドシートに収納した琴音が苦笑いを浮かべながら助手席に乗り込んでくる。
「えっとぉ、ここだけの話しなんだけれど、函館の市内ってあまり大きな本屋さんってないのよね? 雑誌とかならコンビニで事足りちゃうし……でも、あたしの欲しい本はコンビにでも売っていないから……ゴメンね、つき合わせちゃって」
シートベルトを締め、申し訳なさそうな顔をする琴音に対し、健斗は運転席で微笑む。
「気にする必要はないよ。俺も生協以外の本屋に行ってみたかったところだから一石二鳥だ」
ん? 一石二鳥? 一つは本屋に行きたいという事だろ? あと一つはなんだ?
自然に口をついた言葉に健斗は首を傾げるが、助手席の琴音はそれに気がついていないようで、必死に自分の記憶の中にある書店の所在地を思い描いているようだ。
「ん~、あたしが知っている本屋さんで一番品揃えが多いのは『カミダイ』の中にある本屋さんかな? あとは国道五号線沿いにある『文教堂』サン?」
空に視線を向けながら話す琴音に健斗の首はさらに傾き、車も前に進む事がない。
「どこ? その『カミダイ』って……」
首を傾げたままの健斗に、琴音は誤魔化すような笑みを浮かべる。
「あっ、そぉかぁ。健斗は知らないかな? 『カミダイ』って言うのは、前に一回一緒に買い物に行った『上磯ダイエー』の事なの。地元の人はよくそう呼ぶのよ」
それはそれは、一つ函館の達人に近付いたよ。
その場所に記憶のある健斗は、苦笑いを浮かべながら既に乗り慣れた感のあるミニバンのハンドルを操り、一番の最短ルートである産業道路へと向ける。
確か産業道路を七重浜に向かって走らせればいいはずだよな? 国道二百二十八号線に突き当たる手前の左側。市町村合併で出来た北斗市に入ってすぐだったはず。
僅かに記憶に残っているその店の場所を頭の中に描きながらハンドルを操る健斗の横顔を、琴音はボンヤリと見つめている。
「ナビしなくっても大丈夫なの?」
運転中につき琴音に視線を向けないものの、健斗はコクリと首を縦に振る。
「一度行っているからね? 産業道路一本だから大丈夫」
相変わらず忙しなく視線を動かしている健斗の横顔を、琴音は感心したように眺めていたが、やがてその視線は頼もしい人を見るような視線になっていた事には、健斗は気がついていない。
「ヘェ、健斗って意外に物覚えがいいのね?」
「おいおい、意外にってどういう意味なんだよ」
運転をしながら健斗は苦笑いを浮かべ、そんな横顔を琴音は嬉しそうな顔をして眺めている。
「そーゆー意味だよ。なかなか道を覚えられない人っているでしょ? 何度も同じ所に行っているのに忘れちゃう人って……」
そこまで言うと琴音の表情が曇るが、あいも変わらず健斗は運転に忙しいらしく、そんな表情には気がついていない。
「確かにいるな? 俺の友達でもいたよ、そういう奴……でも、そういう男って、女の子から見るとちょっと引いちゃうんだろ?」
高校時代の友達が彼女と一緒にドライブに行った時、そんな事があってそれが原因でフラれたという愚痴メールが着ていたよな?
いつも混んでいる産業道路に出る交差点は今日も例外なく混んでおり、ここでやっと健斗は助手席に座る琴音に視線を向けるが、その時には琴音の表情に曇りはなく、健斗の問いかけに下唇を突き出し、アゴに指を置きながら少し悩んだような顔をしていた。
「どぉかなぁ? 友達だったらきっと罵声を浴びせるだろうけれど……その人によるよ」
視線を健斗に合わせないように琴音はそう言い、反対側の窓の外に向けている。
「さて、本屋は一番奥だったよね?」
以前琴音と一緒に来た時、手持無沙汰に店内を見て回った際に、店の奥に比較的大きな本の売り場があった事はリサーチ済みだ。
慣れたように歩き出す健斗の背後を、琴音は慌てた様子で松葉杖を突きながら追いかけながら健斗の背中に声をかける。
「ちょっ、ちょっとぉ~、一人でスタスタ行かないでよね? こっちは怪我人なんだぞ!」
そんな琴音の声に、健斗は我を取り戻したようにその歩みを止め踵を返すと、申し訳無さそうな顔をしながら琴音の元に戻ってくる。
「ゴメン、本屋って聞くとどうしても気持ちが逸っちゃって……」
素直に頭を下げる健斗に、琴音は諦めたように嘆息する。
「――ったく、本当に小説オタクなんだから……」
「オタク言うなよ……」
「だってぇ、オタクじゃない? 同人誌を売ってコスプレして」
グッ、ひ、否定できない……最大の弱みをこの娘に見られてしまったからなぁ……。
最大の弱み。そう、この間のイベントの時に撮った写真を琴音に見られてしまったのが、健斗にとって最大の汚点だった。
「コ、コスプレじゃない! あれは売り子であんな格好をさせられただけで、他意はない!」
必死に否定をする健斗の事を、琴音はケラケラと笑いながら松葉杖を動かす。
「ハイハイ、そういう事にしておきましょうか?」
確かに否定は出来ないけれど、そういう事を衆人のいるような所で話さないでくれ……気のせいか周囲の視線がイタいんですけど……。
うなだれながら向かった先の本屋は、当然ながら以前来た時と変わる事無くそこに存在し、唯一景色が違う『平積み』コーナーには色とりどりの販促POPが掲げられている。
「さて、あたしの探している本は……」
不自由そうに松葉杖を突きながら歩く琴音の後ろを健斗も続くが、琴音の向かった先は健斗が向かおうと思っていた場所と同じだった。
ヘェ、てっきりコミック売り場に向かうと思っていたのに、文庫本コーナーに向かうとは感心だな? 俺も見たいと思っていたからちょうど良い。
棚に並んでいる本を、腰をかがめながら熱心に探している琴音を尻目に、健斗は平積みになっている新刊に視線を向ける。
「ん?」
最新刊と手書きのPOPと一緒に置かれている文庫本が目に止まる。
なになに、『LongDistance(ロングディスタンス)』って、確か長距離とか遠距離という意味だったかな? ちょっと興味を引くタイトルだな?
表紙に描かれている可愛らしい女の子のイラストにも興味を示した健斗はそれを手に取り、同じイラストの描かれているポスターに視線を向ける。
エッと『期待の女子高生作家、ついにデビュー!』かぁ、ちょっと羨ましいかも……それで作家さんはっと……『水無月果林』? どこかで聞いた事のあるようなペンネームだな?
どこか懐かしさを感じるような名前に首を傾げながら中身をペラペラとめくっていると、琴音が近付いてきて健斗の持っている文庫本を指差す。
「アッ! それっ!」
慌てたような琴音の声に、健斗はビクッと体を固める。
「な、なんだよぉ、素っ頓狂な声を上げて……ビックリするだろ?」
キョトンとしている健斗の事などお構い無しに、琴音は健斗の持っているその文庫本を取り上げると、ニッコリと微笑みながら顔を見上げる。
「えへへぇ、ゴメェ~ン、あたし、これを探していたのよぉ」
ペロッと舌を出して、おどけたような顔をする琴音は、文庫本の表紙を健斗に向ける。
「ヘェ、琴音がこういう本を読むなんて珍しいじゃないか?」
琴音の持つ本のオビには『距離を越えたせつない物語』というキャッチコピーが添えられており、それが純愛小説という事を示している。
「珍しいなんて失礼ねぇ、あたしだって読みますよぉ~だぁ」
再びベェッと舌を出す琴音は頬を膨らませているものの、その頬は少し赤らんでいる。
「そいつは失礼いたしました。しかしよく知っているなぁ、俺も知らなかったよ」
素直に感心した顔をしている健斗に、琴音は自慢げな顔をしている。
「ヘヘェンだ、情報量が不足しているんじゃないの? なぁんちゃって。実はあたしも友達から聞いただけなんだけれどね? すごく気になったの」
松葉杖に身体を任せるような格好をして、文庫本の中身を確認するようにめくる琴音。
「ヘェ、そんなに有名なんだ……琴音の言うとおりに情報量がちょっと不足しているかもしれないなぁ……それにしても、この作家さんの名前、どこかで聞いた事があるような気がする」
再び首を傾げる健斗に、琴音は怪訝な顔をしている。
「でも、この人これがデビュー作だって書いてあるし、現役の女子高生でしょ? 同姓同名の人か同人誌で見たかしたんじゃない?」
確かにそうだ。デビューしたての作家さんの名前を俺が知るわけもないし、琴音の言うとおり同人誌に書いているのを読んだのかもしれない。
少し心の中にシコリを残しながらも、健斗はその名前に着いて考えるのをやめる。
「健斗は他に何か買うの?」
文庫本を取り嬉しそうな顔をしている琴音に、健斗は首を横に振って自分の意思を伝える。
=Ⅲ=
「ずるいぃ~っ! おにいちゃんたちぃ! 二人だけでお買い物に行くなんてぇ、ボクも一緒に行きたかったのにぃ~!」
玄関を入るなりいきなり、目をつり上げ頬を膨らませ顔をまん丸にして怒りを表している知果に出迎えられた、健斗と琴音は顔を見合わせどちらともなく苦笑いを浮かべる。
ハハ、琴音の予想が的中したぜぇ……。
本以外にいくつか買い物を終わらせて『カミダイ』から戻ってくる車中で、琴音がこうなる事を予想していたらしく、苦笑しながらそんな話をしていたばかりだった。
「ゴメンよぉ知果ちゃん、健斗がどうしてもって言うからぁ……」
少し意地悪そうな顔をした琴音はそう言いながら、丸くなった顔が元に戻らない知果の頭を撫でながら、知果にバレないように健斗にウィンクする。
ヲイ、俺に悪者になれって言うのか? そりゃああんまりだぜぇ……。
今度は健斗が頬を膨らませているが、琴音はそちらには気にした様子も見せず、帰り際に買った袋を知果に差し出すと、それまで膨らみきっていた知果の頬は瞬く間にしぼみ、つり上がっていた目は重力に歯向かえないように垂れ下がる。
「うぁ~、プティメルヴィーユのメルチーズだぁ」
抱しめそうな勢いで知果はその袋を琴音から受け取ると、すぐにリビングに姿を消す。
今までの不機嫌さはいったいどこに消えたんだか……。
肩をすくめ、ため息を吐き出しながら知果の消えたリビングに視線を向ける健斗に、琴音はクスッと微笑みながら家に上がる。
「成功でしょ? 女の子の気持ちは女の子が一番良く知っているのよ……知果ちゃぁ~ん、あたしの分も取っておいてよねぇ~!」
そう言いながら琴音はケンケンをするようにリビングに入ってゆくと、その後姿を見送った健斗は再びため息を吐き出す。
確かにそうかもしれないな? 女の子の気持ちなんて全然俺には分からんよ……。
「おにいちゃん、早く来ないとすぐに無くなっちゃうよぉ」
無くなっちゃうって、確かあれって八個入っているんだぞ? 四人で食べても一人二個は行渡るはずなのになんだってそんなにすぐに無くなるんだよ。
慌ててリビングに入り込むと、既にその箱の中身は心細いほどにまで量を減らしており、知果の手元には残骸のようにそれを包んでいたセロファンが散らばっていた。
おいおい、本当に無くなりそうな勢いだな?
苦笑いを浮かべる健斗の携帯が突然メールの着信を告げる。
「電話?」
幸せそうにその薄黄色をしたメルチーズを口に含んだ琴音が、小首を傾げながら少し呆れ顔を浮かべている健斗の顔を見上げる。
「いや、メールだよ……それよりも……」
箱の中に残っているのはあと一つ。知果と琴音の手元に食べた数を表すセロファンの数は各三つ、深雪の手元には一つ置かれており、仕方無さそうに健斗が最後の一つに手を伸ばすと、知果が潤んだ瞳でその動きを追っている。
すっごく食い難いぜ……仕方がない。
手に取ったそれを健斗は知果に差し出すと、満面の笑みを浮かべながら受け取る。
「ありがとうおにいちゃん!」
嬉しそうな顔をしながら知果はそれを包んでいるセロファンを剥いていると、冷かすような顔をした琴音が健斗を向く。
「知果ちゃんだけにあげて、健斗ってずるいぃ……やっぱりぃ……」
もぉ好きにしてくれ……トホホ。
自分の口に手をやり疑いの視線を向けてくる琴音に対し、健斗は軽い脱力感に駆られる。
「そういえばメールを見ないで良いの?」
満足げな顔をした知果にいわれ、先ほどのメールの着信があった事を思い出す。
「誰から?」
携帯を開き見る健斗の顔を、琴音は少し不安そうな顔をして様子を伺ってくる。
「ん? って……」
液晶に浮かび上がる送信者名に、健斗は軽く動揺し、なぜか琴音に視線を向けてしまうと、その視線に気がついた琴音はキョトンとした顔をする。
「なに?」
紅茶の入ったカップを傾ける琴音からその携帯を隠すような仕草を見せる健斗に、琴音の表情は怪訝なものに変わってゆく。
「いや、別になんでもない……ぞ」
明らかに様子のおかしい健斗に、琴音だけではなく知果や深雪までその動きを注視し始める。
「ねぇおにいちゃん、誰からのメールなんだよぉ」
業を煮やしたように知果は健斗の腕を引っ張るが、既にその携帯は折りたたまれその中身を見るにはかなり強引な方法を取るしか無くなっている。
「友達! ただの高校時代の友達からだよぉ」
嘘では無いよな? 友達には間違いないはずだ。
曖昧な顔をする健斗の腕を、知果はさらに揺すり見せるように要求してくるが、それまでその経緯を見ていた琴音がボソッと呟く。
「――美音さんからね?」
大きな声では無いものの、その名前に健斗の腕を揺すっていた知果の手がピタッと止まり、それまで賑やかだったリビングが一瞬にして静寂に包まれる。
な、なんでわかったんだ?
ズズッと琴音がすする紅茶の音がリビングに響きわたり、健斗はこめかみに一筋汗を光らせながらそ知らぬ顔をしている琴音を盗み見る。
「おにいちゃん……そうなの」
隣に座っている知果からは、まるで否定を許されないような声が聞こえてきて、健斗が助けを請うような目で見た深雪もどこかワクワクしたような顔をしている。
なんでここまでみんなの注目を浴びなければいけないんだ? 別に悪い事をしているわけじゃないんだ隠す必要はない……よな?
再度健斗はチラッと琴音に視線を向けるが、相変わらずその顔は自分には関係ないというような顔をしており、健斗は自分でも気がつかないものの胸の奥がチクッと痛む。
「――ウン、そう」
観念したように言う健斗の声に、知果が色めき立つ。
「なんだって? ねぇおにいちゃん、彼女はなんだっていうの? ボクにも教えてよぉ」
ピョンピョンとソファーの上で跳ねる知果に、琴音がやっと視線を向けてくる。
「知果ちゃん、健斗にだって一応プライバシーがあるんだから、あまりそういう事を根掘り葉掘り聞かない方が良いわよ?」
声こそ穏やかだが、琴音のその一言にはかなりの抑制力があったらしく、知果は健斗の隣で口を尖らせながらうなだれてしまう。
「べ、別にそんな隠すような内容じゃないから大丈夫だよ」
いじけたような顔をしている知果があまりにも可哀想に思えた健斗は、折りたたんでいた携帯を再度広げて、その内容に目を向ける。
「エッと……へぇ」
勤めて冷静を装いながらも、内心はかなりドキドキしながら、いつものように絵文字が大量に使われているそれに視線を向ける。
「なんだって?」
ワクワクしたような視線を向ける知果と、知らん顔をしながらも健斗の言葉を待っているような様子の琴音に、健斗は小さく嘆息する。
「ん? 夏休みを利用してこっちに遊びに来るって……エッと……ヘェ~ッ?」
液晶に浮んでいるその日程にも驚いたのだが、それ以上驚かされる事がそこに書かれており、健斗は思わず目をまん丸にする。
ちょ、ちょっと、ちょっとぉ? ど~ゆ~事ですか?
「どうかしたの?」
驚きの表情を浮かべている健斗の事を、今度は琴音が怪訝な顔をして覗き込んでくる。
「いや……ちょうどお盆時期に来るって……来週だよね? アハ、アハ」
乾いた笑いを浮かべる健斗の様子は明らかにおかしく、リビングにいる全員が首を傾げながら健斗の事を見据えている。
確かにここに下宿しているという事は、ここに引っ越してきた時に美音にメールで説明してあったが、しかし、そこまで彼女がそんな事を言い出すなんて思わなかったぞ?
ガックリとうなだれてしまう健斗の事を、深雪が心配したような顔をして覗き込んでくる。
「健斗クン、どうしたの?」
優しい深雪の声に、健斗は意を決したように口を開く。
「深雪さん……実はお願いがあります……」
深刻な顔をしている健斗の事を、深雪だけではなく、琴音や知果までもが固唾を呑んで続くであろう次の台詞を待っている。
「高校時代の後輩なんですけれど、ここまでの渡航費は用意できたらしいのですが、そのぉ、ホテルがどうしても取れないらしくって……」
観光都市である函館、特にお盆休みというシーズンのピークを迎える時期にホテルを取るというのはなかなか難しい事だ。
「だったらウチに泊まっていけばいいじゃない?」
ニコニコしながら事も無げに言う深雪の顔を、健斗と琴音は驚いた顔をして見る。