第十八話 ようこそ函館へ。



=T=

『東京からの……』

 お盆休みに入った函館空港内に、東京からの飛行機が到着した事を告げるアナウンスが響き渡ると、健斗と同じなのであろう、到着ロビーに集まっていた老若男女が色めき立つ。

「ふわぁ……」

 それと同時に、健斗の隣ではツインテールの髪の毛が揺れ、そこに視線を向けると、あくびのせいで目に浮んだ涙を指で拭っている知果の姿がある。

「何もついて来なくても良かったのに……眠いんだろ?」

 苦笑いを浮かべる健斗に、知果はテヘヘと笑う。

「ちょっとだけね? でもおにいちゃんと一緒にお迎えに来たかったからぁ……」

 眠気のためなのか、知果は口をムニュムニュと動かし、照れ笑いを浮かべながら健斗の顔を見上げてくるが、その瞳には好奇心のようなものも浮んでいる。

 どうせ美音の顔を真っ先に見たいんだろ? 普段であればまだ寝ている時間だろうに、半分寝ているような顔をして車に乗り込んでくるんだもんな?

 苦笑いを浮かべる健斗は視線を到着ロビーに移し、東京土産の袋をいっぱい手に持っている人たちが徐々に増えてくるゲートを注視する。

 彼女はあんまり背が高くないから見逃さないようにしないといけないぜ。彼女を見つける目安は自然な栗色の綺麗な長い髪の毛だよな?

 高校時代の美音しか知らないために、健斗は少し不安になりながらもゲートから出てくる客を一人一人注意深く見るが、その姿に該当する人物はまだ出てこない。

 手荷物の所にもいないようだし……どうしたのかな?

 飛行機から降りてきた客は、再会を喜びながら出迎えに来た人と去ってゆき、徐々にロビーで出迎える人間や、ゲートをくぐってゆく客の姿が減ってくる。

「おにいちゃん、来ないね?」

 隣で心配になってきたのか、知果も視線をロビー内に向けながら呟く。

「あぁ、どうしたのかなぁ」

 首を傾げる健斗の視線に、見覚えのある長い髪の毛をした女の子がキョロキョロしながら辺りを見回している事に気がつく。

 いた! 美音だ!

 学校の制服姿しか知らない美音のその姿は、オフホワイトのAラインワンピースに、ソフトピンクのボレロを羽織っており、容姿や格好を見ても周囲からはかなり目立つ存在だ。

「おにいちゃん、あの人なの?」

 知果もその人物に気がついたのか、健斗の顔を見上げてくる。

 考えてみれば美音ちゃんの私服姿を見たのって初めてかもしれないな? いつも学校で会っていたから、どうも彼女のイメージって学校の制服なんだよね?

 待ち人である美音を見つけた事によって、ホッとした感じと、胸の奥を何かにギュッと掴まれたような不思議な感じに、心の奥で首を傾げる。

「アハ、向こうも気が付いたみたいだよ?」

 二人が向ける視線の先にいる美音もこちらの事に気が付いたのだろう。遠目で表情こそ見えないものの、大きく手をあげてパタパタと手を振っている。

「なにをやっているんだかなぁ」

「えぇ、でも可愛いじゃん? あんなに必死になって手を振っちゃって。写真で見たイメージとはちょっと違った感じかもしれないなぁ」

 呆れ顔をする健斗に、知果はニコニコしながらそんな美音に手を振り替えしている。

 ハハ、なんだかなぁ。小さな子供みたいだぜぇ。

 しかし、そんな仕草を見せている美音を見る健斗の表情は優しく、隣にいた知果はそれに気がついたのか、少し複雑な表情を浮かべていた。

「あ、こっちにくるよ?」

 手荷物を持ち小走りにこちらに向かってくる美音を見た健斗は、胸の高鳴りを感じる。

「先輩! お久しぶりです!」

 待ちきれないようにゲートを抜けてきた美音は、二人の前で立ち止まると、大仰にペコリとお辞儀をし、顔をあげた時の表情は、卒業式の時に健斗に見せたような辛そうな顔ではなく、部室で二人して話していた時のようなそんな笑顔を満面に浮かべている。

「ウン、美音ちゃんも元気そうだね?」

 その笑顔に少し気圧されたような顔をしながらも健斗は美音に笑顔を向けると、突然美音の瞳がブワァっと突然潤み出す。

 ヘッ? どうしたんだ?

 動揺する健斗に、美音は目尻に浮かんだ涙を小指で拭いながら再び笑顔を浮かべる。

「ごめんなさい。先輩もお変わりないようなんで、ちょっと嬉しくなっちゃって……エヘへ」

 照れ臭そうな笑顔をした美音は、やがて健斗の隣でその経緯を怪訝な顔をして見ている知果の事に気がつき、その表情を少し曇らせる。

 ん? あぁ、そうか。

 怪訝な視線をしている美音に気がついた健斗は、隣にいる知果の肩をポンと叩く。

「彼女は俺がこっちで世話になっている黒石家の娘さんで知果ちゃん」

「はじめまして、黒石知果です!」

 ペコッと元気に頭を下げる知果に、美音も少しホッとしたような表情を浮かべる。



「とりあえず一回ウチに寄って荷物を置こうか? それからあっちこっち見て回ろうよ。どうせ二週間いるんでしょ? 時間はゆっくりあるんだから」

 空港前に広がる駐車場に置いたミニバンタイプの車。その車の運転席には健斗が座り、セカンドシートに座っている美音に声をかける。

「ハイ、そうですね?」

 少し照れくさそうな声で返してくる美音の姿を、健斗はルームミラーで確認するとゆっくりと車を走り出させる。

 なんだか美音ちゃんを乗せているというだけで緊張するかもしれないぜぇ。

「なんだか嬉しそうだなぁ……おにいちゃん」

 助手席からは少し意地悪そうな顔をした知果が、運転席に座りながら苦笑いを浮かべている健斗に声をかけてくる。

「そ、そんな事無いよ……まぁ、確かに友達がわざわざ東京からここまで来てくれたのはすごく嬉しいけれどね?」

「ねぇ、美音さんは……」

 健斗の言う事などまったく聞きもせず、シートベルトに拘束されながらも体を反転させ、セカンドシートに座る美音に声を掛ける。

「ウフ、美音でいいわよ知果ちゃん」

 物珍しそうに窓の外を眺めていた美音は、苦しそうな体勢をとっている知果に微笑む。

「エヘ、じゃあ、美音……姉ちゃんはどこか行きたい所とかって決めているの?」

「そうねぇ、特に決めていないけれど、函館らしい所に行きたいかしら? ほら、この街って異国情緒が溢れて、史跡旧跡がいろいろな所にあるでしょ? それにロマンチックな街並みというイメージがあるから、そういう所を見てみたいな?」

 セカンドシートから聞こえる美音の台詞に、健斗は首を傾げる。

 どこかで聞いた事があるような台詞だなぁ……なんだったっけ?

「アハ! アハハハ!」

 すると突然助手席で知果が大きな声を上げて笑いはじめ、運転席の健斗とセカンドシートの美音は同じようにキョトンとした顔をしている。

「美音姉ちゃんも、おにいちゃんと同じ事を言っているぅ」

 同じ事? そうか、俺が初めてこっちに来た時に知果ちゃんに同じような質問をされて、そんな事を言ったような記憶がある。確かあの時は、琴音たちと一緒に教会巡りをしたんだったよな? よく覚えているよ。

「お、おにいちゃん?」

 感心したような顔をしている健斗に、なぜか美音の刺さるような視線を感じルームミラーで確認をすると、そこには軽蔑したような美音の顔があった。

 なんだって美音ちゃんにそんな危ない人を見るような目で見られなければいけないんだ? って、まさか、ヘンな誤解をしているんじゃないか?

「ちょっと美音ちゃん、なんだかものすごい勘違いをしているんじゃないですか? 言っておきますけれど、俺が呼べって強要しているわけじゃないからね?」

 蒼ざめたような顔をする健斗は、慌てて否定の言葉を並べるが、疑惑の目が美音から取れる事は無く、仕方がなしに健斗は助手席で鼻歌を歌っている知果に助けを求める。

「ちょっと知果ちゃん、説明してよぉ。これじゃあ俺がヘンな人に勘違いされちゃうぜ」

 泣き言を言う健斗に、知果はキョトンとした顔をしている。

「なんで? ボクは前からずっとこうだったじゃない? あたしが確か……まだ幼稚園の時からだったっけ? おにいちゃんの事をおにいちゃんって呼んでいたの……」

 考えるように答える知果の一言で、ルームミラー内の美音の表情からは疑惑は消え、申し訳無さそうなものに変わっている。

「アハ、ごめんなさい。ほら、知果ちゃんって可愛いから、もしかしてと思って……」

 おいおい、そんな事だけで人を犯罪者のような目で見ないでいただきたいんですが……確かに知果ちゃんは可愛いから、わからんでもないけれど……って、もしかしてヤキモチ?

 再び美音に視線を向けると、窓の外に視線を向けながらも、少し膨らんだその頬は少し赤らんでいた。



=U=

「――ここが先輩の下宿している家なんですか?」

 車から降りた美音は、まさしく黒石家のその構えを見上げて、感嘆のため息を吐き出す。

「あぁ、みんなに紹介するから付いておいで」

 二週間分にしては少なめの美音の荷物を持つと、知果に続いて健斗が玄関をくぐり、少し緊張した面持ちに顔を引き締めた美音が続く。

「ただいまぁ〜っ!」

「ただいま」

「お、お邪魔します……」

 玄関ホールに三人の声が響き渡ると、リビングからエプロンをした深雪がパタパタとスリッパをならしながら微笑を浮かべながら顔を出してくる。

「お帰りなさい。エッと、あなたが美音さんね? ようこそ函館へ。ここにいる間は気を使わないでゆっくりしていってね?」

 笑顔を浮かべる深雪の事を、美音は驚いたように目を見開いてみていたが、ハッと我に返り慌てて頭を下げる。

「は、はじめまして、青山美音です。お世話になります。よろしくお願いいたします」

 深々と頭を下げる美音を、深雪はニッコリと微笑んで見つめている。

「そんなに緊張しなくっていいのよ? あたしの事は賄いのおばちゃん程度に見てくれていいから、遠慮しないでね?」

 ――賄いのおばちゃんって、そんなに自分を卑下する事は無いんじゃないですか? しかも、その見た目をおばちゃんと呼ぶには、かなり勇気が必要なんですが……。

 苦笑いを浮かべる健斗の顔を、美音も困ったような笑顔を浮かべながら見つめるが、そんな事関係ないように、深雪は美音の手を引きながらリビングに招き入れる。

「ほらほら、そんな所にいないで、朝早く東京を発って来たんでしょ? 朝食を用意してあるからこっちに来て、美音ちゃん!」

 まるで引きずるように深雪は美音の手を引くと、引っ張られた美音は健斗に助けを請うような顔を向けるが、深雪のその性格を知っている健斗は、小さく首を横に振るだけだった。

 賄いのおばさんは言い過ぎかもしれないけれど、深雪さんってもて成すのが好きみたいだからな? きっと豪勢な朝食が用意されているんじゃないかな?

 ちょっと期待したような顔をする健斗は、深雪たちに続いてリビングに入ってゆくと、使い慣れたテーブルに、珍しく琴音が座りテレビに視線を向けていた。

 珍しいなぁ、休みのこの時間に琴音が起きているなんて……いつも俺たちが朝飯を食い終わってから起きてくるのに。

「ササ、美音ちゃんここに座って」

 強引に深雪に座らされている美音は、身体を縮込ませながらそこに座ると、上目遣いにそこに座る人間に視線を回し、あまり機嫌がよさそうではない琴音の存在に気が付き、その視線がそこに止まるが、健斗はそれに全然気がついていない。

 確かに緊張するだろうな? 俺は昔から知っているから気にならなかったけれど、いきなり知らない人たちの目の前に晒されるのは、かなり恥ずかしいだろう。

 同情するような視線を美音に向ける健斗に、知果が声をかけてくる。

「おにいちゃん、彼女の事をみんなに紹介してよ」

 か、彼女?

 あまりにも突飛もない知果の声に、健斗はうろたえ、縮こまっていた美音はさらに体を縮め、真っ赤になった顔をうつむかせている。

「か、彼女って…………知果ちゃん……」

 困った、はっきりと否定しなければいけないという気持ちと、否定したくないという気持ちがせめぎあっているぜ……なんと答えればいいんだ?

「…………エッと、あたし、青山美音です。先輩……健斗先輩とは高校時代に同じ文芸部に所属していました……短い間ですが、お世話になります。よろしくお願いいたします」

 深雪、知果と視線を向けた美音は、最後に琴音に視線を向けると深々と頭を下げる。



「美音姉ちゃんもおにいちゃんと同じ文芸部なんだぁ」

 朝獲イカを使ったイカそうめんに真ボッケの開き、数の子の入った松前漬けにジャガイモと玉ねぎのお味噌汁という、かなり豪勢な朝食を取り終えた頃、心底満足そうな顔をしている美音に、笑顔を浮かべた知果が問いかける。

「ウン、あたしが高校に入って文芸部を訪問した時に、部室にいたのが茅沼……エッと……健斗先輩で、親切に教えてくれたの……それがきっかけで……」

 おいおい、何を言い出すんだ?

 一瞬動揺した表情を浮かべる健斗を、ソファーに身を預けながらこの間健斗と一緒に買った小説を読んでいた琴音だけが気がつく。

「――健斗って、女の子にはいつも親切だもんね?」

 嫌味百二十パーセント込めた琴音の台詞に、美音はキョトンとした顔をし、当の健斗はさらに慌てたような顔をして琴音の顔を見据える。

「ウン、おにいちゃんって優しいよね? ボクも大好きだよ!」

 まるで抱きつくように知果が健斗の腕にしがみ付くと、琴音と美音の表情がほぼ同時に険しくなり、お互いそれに気が付いたのか顔を見合わせる。

 なんだこの不穏な空気は? 一瞬にして辺りの雰囲気が凍てついたような気がするんですが、それは俺の気のせいなんでしょうか?

「そうですね? 健斗先輩って優しいから……」

 フッとため息を吐く美音は琴音から視線を外し、少しはにかんだような笑みを健斗に向ける。

「そうか? そんな事ないと思うけれどなぁ……」

 さっきから美音が健斗の呼び方を『茅沼先輩』から『健斗先輩』に変わった事に気がつき、照れ臭くなり、そんな美音の視線から顔をそらす。

「そんな事あるよ。琴音姉ちゃんが怪我をした時だって、一生懸命自転車を改造していたし、その後も学校まで車で送ってあげていたじゃない。ボクだってそうだよ。ボクが風邪をひいた時、おにいちゃんは一生懸命看病してくれたし、お医者さんにも連れて行ってくれたよ?」

 腕にしがみ付いたままの知果は、頬を膨らませながら健斗の顔を見上げ、例に挙げられた琴音も恥ずかしそうな顔をしてうつむいている。

「そっかぁ…………琴音さんや知果ちゃんに……ちょっと羨ましいかな?」

 ボソボソと呟く美音に、健斗の顔は一気に赤くなり、体温も上昇したような感じになる。

 別に期待してやっているわけじゃないんだから、あまり褒めないでくれ、これっていわゆる褒め殺しになるんじゃないか? 恥ずかしすぎて気が狂いそうだぜぇ。

 いたたまれなくなった健斗はソファーから立ち上がり、キョトンと見上げる美音を見下ろす。

「さて、函館観光を開始するかな?」



=V=

「どこか行きたい所のリクエストはある?」

 既に乗り慣れた感のあるミニバンの運転席に座りながら、健斗は助手席に座り少し照れ臭そうな顔をしている美音に視線を向ける。

「エッと…………特には……無いです」

 言葉少なになってしまった美音に、健斗は心の中でため息をつき、とりあえず車をスタートさせると、バックミラーには知果が見送っている姿が確認できる。

「そっか……」

 出かけに、美音はみんなで行きたいという提案をしたのだが、知果は部活があるため無理で琴音においては、まだ足が痛いという事から不参加が決定した。

 まだ痛いのか、琴音の足……。

「エッと…………琴音さん」

 助手席からいきなり美音が琴音の名前を出した事に、健斗はだらしなくも動揺してしまい、危なくハンドルを切りそこなってしまいそうになる。

「こ、琴音? 琴音がどうしたの?」

 曖昧な笑顔を浮かべながら、健斗は正面を見据えながら運転に集中しようとしているが、どこか運転に集中し切れていない。

「はい……琴音さんって……あそこに住んでいるんですよね?」

 運転の合間にチラッと助手席に視線を向けると、美音は前を見ながらも、その視線はうつむいているようにも見える。

「ウン、深雪さんの旦那さんの知り合いの娘さんと言っていたよ。俺もあそこに引っ越して初めて知ったんだ、ビックリしたよ」

 初めて黒石家についた時、タオル一枚姿の琴音の姿にかなり驚いた事を思い出す。

 あの時は、琴音に痴漢男とか言われて、口を開けば喧嘩ばかりしていたよな? 最近ではそんなでも無いけれど、それでも人の事をこき下ろす事が多いぜ。

「そう……ですか…………可愛い人ですね?」

 意を決したように健斗の横顔を見る美音に対し、ハンドルを握っていた健斗は一瞬キョトンとした顔をしながらやがて苦笑いを浮かべる。

「まぁ、顔だけ見れば確かに可愛いかもしれないね?」

 いつも混んでいる交差点に差し掛かり、前の車に準じて健斗が車を止めてそう言うと、一気に美音の表情が曇る。

「でも、口が悪いんだ、さっきも嫌味を言っていただろ? 人の事を無茶苦茶に言いやがる」

 車を止めた事によって健斗は美音に顔を向けると、その表情にホッとしたのか、美音にも笑顔が戻ってくる。

「そう……なんですか?」

「あぁ、今頃美音ちゃんも彼女に言われているかもしれないぜ? 『健斗と二人きりで車に乗ったら妊娠させられちゃうよ』って……スケベ大魔王のようになっているからなぁ」

 健斗の一言に、美音は驚いたような顔をして健斗の顔を見ている。

「おいおい、言っておくけれど、そんな事は無いからご心配なく」

 ウィンクする健斗に、やっと美音の表情が完全な笑顔になる。

「アハ、ちょっとビックリしました」

 笑顔に美音に、健斗はホッとため息を吐き出し、動き出した車を流れに乗せる。

 なんとなく自虐的な感じがしないでもないけれど、とりあえず美音に笑顔が戻ったという事は好ましいから、とりあえず良しとしておこう。

「でも…………琴音って呼び捨てにしている……」

 視線を前に向け、助手席で座り直しながらの美音の呟きは車のエンジン音にかき消され、健斗の耳には断片的にしか聞こえてこない。

「ん? 何か言った?」

 運転に集中しながらも、健斗は美音に声をかけるが、美音は思いなおしたように首を横に振り、作ったようなものながらも再び笑顔を浮かべる。



「ここが函館駅なんですね?」

 駐車場に置いたミニバンから降りた美音は、ロトンダと呼ばれている卵形の塔が印象的な函館駅を見上げ、少し感慨深そうな顔をしている。

「そう、青函トンネルが出来るまでは、ここから内地に向けて青函連絡船が出ていた。今でもほとんどの列車がここを経由するまさに北海道の陸の玄関口だよ」

 昨日までは暑さを感じる日が続いていたのだが、今日に限ればドンヨリと厚い雲に覆われ、港から吹き込んでくる海風は磯臭く、少し冷たさを感じるほどで、東京ではちょうどいいであろう夏の格好をしている美音は、少し寒そうに腕を摺り寄せている。

「随分とモダンな駅ですね? ちょっと函館の街のイメージとは違うかな?」

 やっぱり寒いんじゃないかな? 確かにTシャツぐらいでもいいかもしれないけれど、ちょっとそれだけでは肌寒いと思うよ。

 空港で羽織っていたボレロは家に置いてきたらしく、健斗の目の前にいる美音はノースリーブタイプのワンピースだけという格好をしている。

「それだけじゃあ寒いだろ? これを羽織れば少しは違うと思うから」

 Tシャツの上に羽織っていたコットンシャツを脱ぎ、健斗はそれを美音に渡すと、美音は少し戸惑ったような顔をして健斗の顔を見上げる。

「でも、先輩がそれだけじゃあ……」

「気にするな、結構俺も北海道仕様になってきたから、これぐらいなんていう事はないよ」

 俺って今すごく恥ずかしい事をしたんじゃないか? 女の子に自分の着ている洋服を貸してあげるなんて、キザ男がやる事だぜぇ。

 その行為が非常に恥ずかしいという事に気が付くが、既に時遅く、とりあえず健斗は頬を染めながらも誤魔化すように話す。

「そ、それと、ちょっと汗臭いかもしれないけれど、ソレは我慢してくれ……どうしても嫌だというのなら話は別だが……」

「嫌なんていう事ありません! せっかく先輩が貸してくれたんだから……ありがとうございます。本当言うとちょっと寒いかなと思っていたんです」

 照れ臭そうな顔をした美音は、間髪入れるようにそれを否定し、モゾモゾと健斗のシャツに袖を通すと、嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。

「エヘへ、やっぱりちょっと大きいですかね?」

 長袖のそれを羽織った美音の手は袖に隠れてしまい、全体的にダブダブというシルエットを浮かべており、健斗もそれに苦笑いを浮かべる。

「袖はめくっておいた方がいいな?」

 笑顔を浮かべる健斗に、美音も袖をまくりながらコクリとうなずく。



「まずは『函館朝市』から見て回ろうか?」

 駅前にある洋風の建物に入ると、既に大勢のお客が右往左往しており、かなり混雑している。

「ここは『ドンブリ横丁』と言って、平成十七年四月にリニューアルをして、今は十九軒のお店が軒を連ねているんだ」

 説明をはじめる健斗の事を、美音は真剣な顔をして耳を傾けている。

「その名の通り、海産物の『どんぶり』を出してくれる食堂がほとんどで九軒ある。他に寿司屋や、ラーメン屋、おみやげ物店などもあるけれど、使っている食材はどれも新鮮だよ」

 しかし、既に朝食を取ってお腹一杯になっている健斗たちはその中を冷かし歩く程度にして、『朝市仲通り』と呼ばれる道に出ると、ビーチパラソルが並び、威勢のいい声がいたるところから聞こえてきて、まさに活気があるという雰囲気になる。

「すごいですね?」

 さすが観光地化しているためなのか、大勢の人が色々な店を覗き込んでおり、それに合わせるように威勢のいい声に、美音は少し驚いたような顔をしている。

「うん、その昔の闇市から派生したといわれている朝市は、昭和三十一年にこの場所に移ってきたらしいね? 現在では店舗が約四百軒、働いている人は、千人ぐらいいるそうだよ」

 現在健斗の書いている小説の舞台が函館で、そのために集めた知識が役に立っている。

 他でも役に立てばいいんだけれど……トホホ。

「すごいですねぇ」

 呆気に取られている美音は色々なお店から声をかけられ、曖昧に笑みを浮かべている。

「ウン、朝市というと海産物というイメージかもしれないけれど、採れたての野菜やその他にも日用雑貨なんかを置いているお店もあったりして、結構見ているだけでも面白いよ」

 チラチラ見る店先からは、様々な声を掛けられ、健斗は適当にそれを聞き流しているが、とある赤いテントの鮮魚店の前を通った時にかけられた声に、二人の足が止まってしまう。

「お客さぁ〜ん! 今日は活きの良いイカが入っているよぉ〜っ!」

 ――気のせいかどこかで聞いた事のある声が……いや、気のせいであろう。

 苦笑いを浮かべながらも足を止めてしまった二人を、まるで畳み込むかのように、ショートカットに魚の髪留めをした女性が声をかけてくる。

「あれぇ? もしかして新婚さんだったりしてぇ」

 冷かすようにいうその女性に、健斗は慌てて手を振って否定するが、隣の美音は顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。

「まぁいいやぁ。それよりも、旦那イカはどう? 今朝獲り立ての新鮮なイカ! 今ならおまけにホタテもつけちゃうよ!」

 威勢のいい女性はそう言いながら、健斗の目の前にまだ足をウネウネとうごめかせているイカを差し出すが、既に朝食で食べたばかりの健斗は首を横に振る。

「いや、朝食べてきたばかりだし……これからあちこち回るつもりだし、せっかく新鮮なイカもダメになっちゃうよ」

 諭すように話す健斗に、女性は諦めたような顔をするが、すぐに代替案を出してくる。

「だったら、お土産にこれなんてどう? 結構イカしていると思うけれど?」

 そう言いながら店の奥からTシャツを取り出し二人の目の前に誇らしげに晒し、それを見た健斗と美音は力ない笑みを浮かべてしまう。

 いや……確かに『イカ』しているかもしれないけれど、そのセンスは……どうかと……。

 苦笑いの健斗の視線の前で揺らめいているTシャツには『イカ最高!』の文字と共に、リアルな描写のイカが踊っている。

「――結構いいかも……」

 ボソッと呟くのは、隣でそれを見つめていた美音だった。

 いいって、このTシャツがですか? ちょっと美音の違う一面を見たような気がする。

「でしょ? あたしも結構このTシャツ好きなのよね? あたしの旦那にもあげたけれど、意外に好評だったのよ?」

 本当でしょうか? って、旦那っていう事はその幼顔で人妻なんですか? 俺はそれだけで驚きなんですけれどっ!

第十九話へ。