第十九話 揺れる想い
=T=
「おにいちゃぁ〜ん! ボクも一緒に行くからちょっと待ってよぉ〜っ!」
部屋の外から聞こえる声に、完全に意識が覚醒する。
もぉ、こんな朝早くから何を騒いでいるのよぉ……って、そうか、今日来るんだったっけ、健斗の後輩なのか、彼女なのかは……。
ギプスで足を固定されているため、着替えやすいワンピースタイプの部屋着兼パジャマを着ているが、その裾は少しだらしなく捲れ上がっており、琴音はベッドから起き上がる前に毛布の中でそれを直してから体を起こす。
「ったく、おかげで目が覚めちゃったじゃない……」
頬を膨らませながらケンケンをするように窓に近付くと、ちょうど車に乗り込む健斗と、慌てた様子でその助手席に乗り込む知果の姿が見える。
なんだって知果ちゃんまでついて行くのかしらね?
呆れたようにフッとため息を吐きながら、琴音は再びケンケンでベッドまで戻ると、バフッと仰向けにそこに倒れこむ。
別に関係ないじゃない……健斗の彼女が来ようと……。
起きてから……いや、正確に言えば昨日の夜から浮かんでいる心のモヤモヤが晴れる事は無く、もう一度寝ようと毛布に包まるが、意識は完全に覚醒しきってしまう。
「もぉ! 寝られないじゃないのよぉ!」
当て場のないイライラに乱暴に体を起こすと、一瞬足首に痛みを感じる。
「イタッ! もぉ、なんだってこんなに…………」
こんなになんなの? イラついている? なんで? なんでイラついているの? あたしがイラつく理由なんてあるの? わからないよ……。
「はぁ……」
自分の心の中に浮かび上がっているわけのわからない感じに惑う琴音は、深いため息を吐き出し、窓の外に広がる夏空に視線を向ける。
夏だっていうのに、なんでこんな怪我をしちゃったんだろう……。
恨めしそうな視線をギブスで固定されている足首に向けるが、睨みつける事によってそこが良くなるわけでもなく、琴音はもう一度深いため息を吐き出す。
「――高校三年の夏。受験生でもあるわけだから、誰と遊びに行けるわけも無いわよね? 勉強しなきゃ……って、確か今日から来る健斗の後輩もあたしと同い年よね? なんで?」
ベッドの上で首を傾げる琴音の耳に車が走り去っていく音がし、にわかに騒がしかった玄関先に静寂が訪れると、寝ることを諦めた琴音は再び身体を起き上がらせる。
「おはようございます」
家の中では松葉杖を使わないで、ケンケンをしながら移動する事に慣れた琴音は、いつもと同じように階段を下りきりリビングの中に入ってゆく。
「あら? おはよう琴音ちゃん。今日は早いのね?」
カウンター式になっているキッチンの奥で忙しそうに動いている深雪が、少し驚いたような顔をしながら、まだパジャマ姿の琴音に声をかける。
「ハハ、朝っぱらから窓の外が賑やかだったんで、目が覚めてしまいました……」
苦笑いのまま、つけっ放しになっているテレビに目を向けると、ニュースで東京の混雑した様子が映し出されている。
『東京の羽田空港でも、お盆を故郷で過ごす人で混雑が続いており、今日がピークに……』
そっか……お盆なんだよね? そういえばあたしも最近実家に帰っていないなぁ……今回は行きたくってもこの体たらくでは……トホホ。
「ごめんねぇ。ほら、今日健斗クンの彼女が来るでしょ? 知果が健斗クンと一緒に行くっていきなり言い出して……」
困ったように眉毛をハの字にしながらも、手元では鮮やかにイカソーメンを作り上げている深雪に、琴音は曖昧な笑みを浮かべる。
「アハ、気にしないで下さい。あたしもお手伝いしますよ」
ケンケンをしながらキッチンに向かう琴音に、深雪はうれしそうな顔をして指示を出す。
随分と豪勢な朝食ね? 新鮮そうなイカに、真ボッケの開きと数の子の松前漬け……これに、海苔とお味噌汁が付けばどこかの旅館の朝食みたいね?
まだウネウネとうごめいているイカを、手馴れた様子でさばいてゆく深雪が琴音に頼んだのは厚沢部産のメークイーンのジャガイモと、タマネギを使ったお味噌汁。
「らじゃです。顔を洗ってからやりますよ」
そう言いながら琴音は洗面所に向かい、髪の毛が濡れない様にいつも使っているターバンで前髪を上げると、洗面所の鏡に自分の顔が映っている。
彼女……かぁ…………。
鏡に映るフッと嘆息する琴音の表情は、どこか寂しそうに見える。
別に健斗に彼女がいたっておかしくないじゃない? なんでこんな気持ちになっているんだろう。羨ましい、そんな気持ちがあたしの中で大きく渦巻いているのは何でなの?
バチャ! 夏とはいえ冷たい水を顔に浴びさせると、心なしか火照っていた顔がその水によって落ち着きを取り戻してゆく。
今年で終わり…………高校を卒業すればこの街から離れてあたしは、あたしの人生を歩むことになる……辛い思い出のあるこの街を離れる事が出来る……。
=U=
「どうやら帰ってきたみたいね?」
朝食にしては随分と豪勢なものが完成した頃、窓の外から車が敷地内に入ってくる音がして、それに気がついた深雪はエプロンで手を拭きながら出向に玄関に向かうが、琴音は料理を並べ終わったテーブルに視線を向け、座り慣れた自席に座る。
「ただいまぁ〜っ!」
「ただいま」
「お、お邪魔します……」
元気のいい知果ちゃんの声に、どこかいつもと違う健斗の声……最後に聞こえたのが……。
玄関先では出迎えに行った深雪の声が聞こえるが、琴音の頭の中には健斗の卒業アルバムの中で微笑んでいた美音の顔がちらついていた。
確か健斗が美音さんから告白されたって言っていたわよね? あんな男のどこがいいんだかわからない……あたしには…………考えられないよ。
見るとも無くテレビに視線を向け表情を曇らせていると、知果が元気良く飛び込んできて、それに続いて深雪と、深雪に手を引かれた美音がリビングに入ってくる。
彼女が美音さんね? 写真で見たよりもかなり可愛い感じがする……。
チラッと美音に視線を向けると、やや遅れて健斗が入ってきて、琴音がそこにいるという事に少し驚いたような視線を向けてくる。
何よ、確かに最近はちょっと朝寝坊しているけれど、夜遅くまで受験勉強をしているんだから仕方がないでしょ? あなたとは違うの。
「ササ、美音ちゃんここに座って」
ブゥッと頬を膨らませる琴音のちょうど目の前の席に、深雪は美音を座るように促す。
本当に綺麗な子……サラサラの長い髪の毛に整った顔立ち、それにくわえて洋服を着ていながらもわかるようなナイスボディーかぁ、勝ち目無いわね? って、何を?
自分の中で繰り広げられている感情に、思わず琴音は首を傾げてしまい、正面に座っている美音にキョトンとした顔をされてしまう。
「おにいちゃん、彼女をみんなに紹介してよ」
何の気ない無邪気な知果の提案に、目の前に座る美音と、まだ席に着いていない健斗が息を合わせたように顔を赤らめ、なんとなくその雰囲気に琴音の胸がキュッと痛む。
彼女……かぁ……。
「…………エッと、あたし、青山美音です。先輩……健斗先輩とは高校時代に同じ文芸部に所属していました…………お世話になりますが、よろしくお願いいたします」
ヘェ、健斗先輩ねぇ……ちょっと新鮮かもしれないなぁ。
「函館観光?」
豪勢な朝食をとり終わり、食休みにソファーに座ってこの前に買った小説に視線を落としている琴音と、しきりにテレビの星占いを気にしている知果の二人に美音が声を掛けてくる。
「ハイ、みんなで一緒にどうかなっと思って、みんなで行った方が楽しそうだし、琴音さんって函館の事詳しいって聞いたから……」
少し頬を赤らめ照れたように言う美音の隣には、健斗が寄り添うように立っており、その意見にウンウンとうなずいている。
確かに詳しいわよこの街の事は……一生懸命勉強したんだから。
一瞬顔を曇らせる琴音にその場にいる人物で気がついた人間はおらず、視線も琴音には向いていなかったのは、テレビを見ていた知果が困ったような顔をしていたからだ。
「ごめぇん、ボク今日は部活なんだ。夏休みが終わるとすぐに記録会だから練習も追い上げにかかっているの。だからゴメンおにいちゃん」
申し訳無さそうに両手を合わせる知果に、健斗は気にするなと言うように目の前で手を振るとその視線を、思案顔を浮かべている琴音に向けてくる。
「申し訳ないけれどあたしもパスだわ……まだちょっと足が痛いし」
嘘をついちゃった……本当はそんなに痛くはないんだけれど、ちょっと今日はそんな気分じゃないのよね? なんでなんだろう……憂鬱というかヘンな感じ……。
視線を合わせないように琴音が言うと、健斗と美音は心配そうな顔をして琴音の顔を覗き込んできて、そんな二人の表情に琴音の良心は痛む。
「そういえば琴音さんは足をどうしたの? 骨折でもしちゃったの?」
事の経緯を知らない美音は、まるで自分が足を痛めたような顔をしながら、琴音の足に巻かれているギブスに視線を向ける。
「あぁ、そんな大そうなものじゃないから平気。靭帯損傷だったっけ?」
良心の呵責に苛まれているせいもあるのだろう、琴音は慌てて美音のそんな心配に両手を振りながら曖昧な笑みを浮かべ、健斗に助けを請うような視線を向ける。
「あのなぁ、自分の怪我だろ? なんだって俺が琴音の怪我の名前まで覚えていなければいけないんだよ」
呆れ顔をする健斗に、琴音はペロッと舌を出して応える。そんな様子に美音の表情が一瞬曇るが、すぐに向けられた健斗の笑顔に引きつったような笑顔を返す。
「彼女は部活で陸上をやっていてね? 引退の記録会の時にゴールしてホッとした途端に派手に転んで靭帯を痛めちゃったんだよ」
冷かすように言う健斗に対して、琴音が今にも噛み付くような勢いで文句を言う。
「ちょ、ちょっとぉ、そういう言い方ないでしょ? ゴールした瞬間に足がもつれて転倒しちゃったんだからぁ、ホッとして転んだわけじゃないわよ!」
今でこそ黒石家の名物のようになっている健斗と琴音の言い合いなのだが、ちょっと驚いたような顔をしている美音の隣からは、これまたいつもと同じように知果がその間に割入る。
「ハイハイ、そこまで、そこまでぇ。仲が良いのはわかったからぁ」
皮肉ったような顔をしている知果に、琴音と健斗は顔を見合わせ照れたように顔を赤らめると、それに相反し美音の表情には誰が見てもわかるように不安そうな表情が浮かぶ。
ちょっとぉ知果ちゃん、健斗の彼女がいる前でそんな事を言わないでよね?
「どこを見れば仲が良く見えるんだい? これが仲よさそうに見えたのなら、世の中の仲が良い人たちの全てを否定する事になるよ知果ちゃん」
そうよ、なんだってあたしと健斗の仲がいいように見えるのよ……健斗にはちゃんとした彼女がいるじゃない。あたしはたまたま下宿先が一緒になった女の子の一人でしかないのよ。
少し沈んだような顔をしている琴音に気がついたのか、それとも自然なのだろうか美音は顔の前で小さく手を振り笑顔を浮かべて健斗の顔を見つめる。
「そんな事無いですよ? 健斗先輩と琴音さんってすごく仲が良さそうに見えますよ?」
仲が良さそうと言う所で美音の表情が曇った事に気がついた琴音は、心の中で小さく嘆息すると、軽く健斗の顔を睨みつける。
ホント、バカ健斗。
「あたしも健斗の意見に一票投じるわね? なんだってあたしが健斗と仲良くなければいけないのか、それが疑問だわ、あたしだって人を見る眼ぐらいあるわよ」
=V=
「さて、静かになったところで勉強をしなくっちゃ。受験生に夏休みはないのよ」
参考書が散らかっている机に向かって座り、自分に気合を入れるようにムンと力こぶを作ってからキャラクターの描かれているシャープペンを手にするが、それがスラスラと動く事は無く、少し動いては止まりを繰り返しており、やがてそれはまったく動かなくなってしまう。
一体どこに行くつもりなのかしら……健斗がはじめて来た時にあたしと知果ちゃんで行ったようなコースで行くのかなぁ、それとも『立待岬』の方かな?
シャープペンを咥えながら琴音の視線は窓の外に見える雑木林に視線を向ける。
健斗が来た時はまだ寒い時で、この雑木林もまだ赤茶けていたのよね? でも今では青々としている……あの時もそうだった。
やる気無さそうに琴音はシャープペンを参考書の上に投げ出すと、その体をベッドの上に投げ出すと、見慣れた天井を見上げる。
彼があたしのバイト先に赴任してきたのは今ぐらいの時期だったのかしら……確か暑い時期だったという事だけは覚えているのよね?
フッとため息を吐き出すと、いつの間にか瞳に涙が浮かんでいる事に気がつく。
……忘れたいのに忘れられないよ……あの人の事……そう簡単に忘れる事なんてできないのはわかっていた……あれだけの出来事なんだから……でも、忘れたい……。
目からは溢れるように涙が零れ落ち、あっという間に枕を濡らす。
なんだってあんな人を好きになってしまったんだろう……まだあの時のあたしは、恋に恋をしていただけなのかもしれない……でも、あの時の自分の気持ちは本気だった……あの人のことが好きでたまらなかった、でも、それは……。
Tシャツの袖で涙を拭うと、あっという間に袖はビショビショに濡れてしまい、琴音はタオルハンカチを取り出してそれで涙を拭うが、それもすぐに涙で湿ってしまう。
だからもうあたしは恋愛なんてしない……あんな辛い思いをするなら絶対にしない。だからあの人との想い出が詰まっているこの街から離れるために、あたしは他の大学を受ける決意をした。それなのに、なんだって……。
「あたしの希望通りに札幌の大学に行く事になれば、ここから離れる事ができる。自分の両親の元から通う事ができるのよ? 何も問題ないじゃない……」
自分に言い聞かせるように呟くが、心の中のモヤモヤが晴れる事はない。
なんで今になって後悔したような気持ちになってくるんだろう……。少なくっても去年まではこんな気分じゃなかった、早くこの街から出て行きたい気持ちで一杯だった……なのに、いまは少し寂しいような、そんな感じにとらわれている自分がいる。
不意に頭の中に健斗の笑顔が浮かび上がり、琴音の顔は一気に紅潮するが、そのイメージを払拭するように勢いよく頭を振る。
そんなわけないわよ……健斗のせいなんて……。
ベッドの上で体を起こし頭に浮かび上がった疑問を反芻する。
ありえないよ。あたしはもう人の事を好きになるはずがない……人を好きになってあんなに辛い思いをしたんだから……ありえないよ……。
心の中でしきりに否定をしているものの、それがどうしても自分に嘘をついているようなそんな後ろめたい気持ちが心の奥底で引っかかっているような気がして仕方がない。
「しかもアイツには彼女がいるんでしょ? そんな人に……」
膝の上で握りこぶしを作っていた琴音の手の甲に涙が零れ落ちる。
あれ? どうしたの?
大きな琴音の両方の瞳からは再び涙が溢れ出し、その涙はさっきまで流していたものとは意味が違うと言う事に琴音は気がついている。
なんであたしが泣かなければいけないの? まるで……まるで……。
「健斗が好きみたい……じゃない」
意を決し言葉に出した途端、さっきまで自分の胸の奥にあった引っ掛かりがすっと抜けたような気分になり、心もどこか落ち着いたような気持ちになる。
嘘でしょ? なんであたしがあんな奴の事を……アイツと知り合ってから、まだ半年も経っていないんだよ? 初対面でセミヌードは見られるし、そんな相手の事を……。
しかし、そう言いながらも琴音の頭の中には、琴音が初めて函館の街を案内した時に見せた、はしゃいだような顔や、泣いている琴音の横で何も聞かないで付き合ってくれた時の事、怪我をした琴音をおぶってくれたり、学校まで自転車で送ってくれたりした事が思い出される。
ダメだよ……あたしはもう人を好きになれないの…………アイツの事を好きになる資格なんてあたしにはないの……。
涙は止め処もなく流れ落ち、タオルハンカチもあっという間に濡れてしまう。
だから……あたしが卒業すればこの家を出る事ができる……そうすればアイツに惑わされる事は無い……あたしはここから離れて、アイツの記憶の片隅に残っている女の子になればそれで良い。たまに思い出したように会話に上がる程度のオンナで……。
「ヒック……ウェ……ひぃん……」
たまらず琴音の口から嗚咽がこぼれはじめ、慌てて枕に顔を押し付けるが、それで収まるものでもない激しい感情が浮かび上がってくる。
それでいいの? 本当にあたしはそれでいいの? アイツの中でそんな存在でいいの?
嗚咽をこぼしながら琴音は心の中で何度も同じ自問自答を繰り返す。
=W=
「酷い顔……」
いつの間にか眠ってしまったのだろう、琴音が次にベッドの上から起き上がったのは、部屋の中が薄暗くなり始めた頃だった。
泣きながら寝ちゃったみたい……。
鏡に映る琴音の顔は、目は真っ赤に充血し瞼も腫れ上がっており、髪の毛もまとめたままだったためボサボサになっている。
こんな姿見せられないよ……きっとアイツの事だから心配するに違いないよね?
とりあえず髪の毛を直すために、髪の毛を止めていたゴムを外し髪の毛を下ろし、少し癖のある髪の毛をブラシでとかす。
結局結論は出なかったわよね? でも、それでいいのかもしれないよ、あたしは今まで通りにアイツに接していればいいだけの事なのよ……そのうち結論は出るはず。
鏡に映っている酷い顔をした自分に問いかけるように、心の中で呟くと、突然部屋の扉が開き、覗き込むように知果が顔を見せてくる。
「あっ、琴姉ちゃん起きていたんだ? よかった……」
既に部屋着に着替えている事から、知果が帰ってきてから結構な時間が経っているという事がわかり、琴音は近くにあった時計を見ると六時を回っていた。
もうこんな時間だったんだ……ずいぶんと寝ちゃっていたのね?
「ウン、ずいぶんと寝ていたみたいね?」
知果から酷い顔をしているのを隠すようにうつむけながら声を掛けると、少し心配したような声が返ってきて、琴音は首を傾げる。
「という事は琴姉ちゃんにも連絡が無いという事だよね?」
何を言いたいのかわからず首を傾げたままだったが、やがてそれが何を意味しているのかわかり、慌てて机の上に置かれている携帯を手にするが、そこには着信があった形跡は無い。
「もしかしてまだ帰って来ていないの?」
問う琴音に知果は心配そうにコクリと首を縦に振る。
確か健斗たちが出て行ったのがお昼前だったわよね? もう八時間近く経つ……ゆっくり回るにしては時間が掛かり過ぎているような気がするわよね? 健斗の運転で事故というのは考え難いし……もしかして!
持っていた携帯のメモリーを呼び出し、プッシュする。その相手はさっきまで琴音の心の中で問答していた当人であり、いまだにこの家に帰ってきていない人物。
『お客様のおかけになった電話は、電源が入っていないため掛かりません……』
電話の向こうからは、こちらの気持ちなど考えていないような無機質な音声が聞こえてきて、さらに琴音の気持ちをかき乱す。
まさか二人で夜景を見に行ったんじゃないでしょうね? あそこにはジンクスが……いわゆる都市伝説があるの……あの夜景を見たカップルは……。
「琴姉ちゃん?」
慌てて何回も電話を掛ける琴音に、知果が怪訝な顔を見せる。
「ダメだよ……あのジンクスは本当なの……だから健斗と美音さんは見ない方がいい……」
呟くように言う琴音の耳には携帯が押し当てられ、そのスピーカーの向こう側ではさっきまでの無機質な音声ではなく、呼び出しのコール音が聞こえる。
つながった!
数回繰り返されるコール音の後、こっちの気も知らずにのんびりした相手の声が聞こえる。
『ホイ! 健斗だよ』
何が……。
ホッとした感覚と、呆れたような感覚に琴音はわけのわからない苛立ちに、つい言葉が険しくなってしまう。
「何がよっ! あんた今どこにいるの?」
思いもしない琴音の剣幕に電話の向こうの健斗はよほど驚いたのであろう、受話器越しながらもその動揺が伝わってくる。
『どこって……函館山?』
やっぱり……。
「もう登っちゃった?」
『ウン、いま俺の目の前には百万ドルの夜景がバッチリ。完全に暮れてからも綺麗だろうけれど、薄暮の夜景というのもオツだね?』
時既に遅しね? まったく能天気男なんだから。こっちの心配も考えないで、なにが『薄暮の夜景もオツだね』よ、まったく……。
呆れ顔を浮かべながら琴音が深いため息を吐き出すと、その声が電話の向こうの健斗にも聞こえたのか怪訝な声で問いかけてくる。
『どうしたの? 何かあったのか?』
恐らく隣には美音がいるのだろうが、健斗は別に声を潜めて話すでもなく、普通に心配そうな声を向けてくると、琴音は胸の奥がキュッと何かに掴まれたような感覚にとらわれる。
隣に彼女がいるというのになんでそんなに普通にあたしに話しかけてくるの? あたしの存在って健斗にとってどういう存在なんだろう……。
「べ、別になんでもないわよ……帰ってくるのが遅いからみんなで先に美味しいものでも食べちゃおうかって話をしていたところ、早く帰ってこないと無くなっちゃうわよ」
わざと意地悪く言う琴音に、電話の向こうの健斗も勝手知っているのだろう、ハハッと笑いながらもうすぐ帰ると言いながら電話を切る。
なんで伝えなかったんだろう……函館山の夜景のジンクスを……伝えるために電話をしたはずなのに、あたし健斗にその事を伝える事ができなかった。伝えなければいけないのに……。
「琴姉ちゃん?」
いつの間にか事の経緯を見ていた知果がキョトンとした顔をしながら琴音の顔を覗きこんでおり、その表情に琴音は曖昧な笑みを浮かべて答える。
「ウン、これから帰るって……夕飯はもう少し待ってあげましょう? そうしないとアイツいじけちゃうから。知果ちゃんは先にお風呂に入ったら? 部活で汗を掻いたんでしょ? 汗臭いとアイツに嫌われちゃうぞ?」
そんな琴音の言葉に知果は少し首を傾げながらも、コクリとうなずきながら部屋を後にし、それを見送った琴音は再び深いため息を吐き出し、カーテンを閉め下ろしていた髪の毛をいつものように一つにまとめる。
なんだかヘンだよあたし……いつもならそんな事気にするはずもないのに、なんだって今日に限ってこんなにも気になるんだろう……。
「やっぱりなのかなぁ……」
何度とわからないため息を吐き出す琴音は、両頬をパンと叩き鏡に向って笑顔を作る。
とりあえずいままで通りに接しよう、少なくとも彼女がいる間だけは……。