第二十話 合宿



=T=

「あらぁ? 坊や、良いタイミングで現れるわね?」

 ライブ喫茶『おんぷ』の薄暗い店内には、クラッシック音楽が結構な音量で流れ、その雰囲気に圧倒されているような顔をする美音と、いくらか慣れはじめた琴音は、今にも抱きつきそうな勢いで健斗の事を出迎えるマキに圧倒されてしまう。

「ど、どうしたんですか? そんな待ち人現るみたいな顔をして……もしかして人手不足?」

 マキさんが俺の事をこうやって出迎えてくれる時って何かしら裏がある時なんだよな? たぶん人が足りなくってヘルプを頼みたいのかな? って、そんなにお客いないじゃないか。

 店内にいるのは見知った顔が二人だけで、他に客の影は無く健斗は思わず首を傾げてしまうが、マキの興味は健斗が連れてきた二人に向いたようだ。

「琴音ちゃん久しぶりね? ってどうしたの? その足……痛々しいわぁ」

「ハハ、ちょっと部活で転んでしまって……」

「そう? 気をつけてね? それにそちらは初めての方よね?」

 完全に俺の事は視界に入っていないようだな……トホホ。

「エッと、あたし健斗先輩の……後輩で青山美音です。東京から先輩の所に遊びに来ていて、先輩がバイトしている所に行きたいって……」

「わざわざ東京から坊やの所まで来たの? それはご苦労だねぇ」

 その時マキの顔がチラッと健斗の顔に向き、ニヒッといやらしい笑みを浮かべていた。

「ケンちゃん本当に良い所に来たわね? ちょうど話をしていた所だったのよ」

 いつもの会社の制服ではなく、カジュアルにノースリーブのシャツを着てカウンターに座っているのは、ここの常連客でありこの店でライブを行っているバンドのベーシストの莉奈で、その隣にはボーカルの遥も健斗に対して小学生のように手をパタパタと手を振っている。

「俺の事をですか?」

 莉奈と遥に促されてカウンターに座ると、厨房からマスターが顔を出してくる。

「よぉ、坊主。いま呼び出そうと思っていた所なんだ……ん? こちらは?」

 既に琴音の事は知っているマスターは目で挨拶だけをすると、呆気にとられたような顔をしている美音に視線を向ける。

「あっと、あたし健斗先輩の後輩で、青山美音といいます。よろしくお願いします」

「わざわざ坊やに会うために東京から来たんだって」

 冷やかすようにマキが付け加えると、薄暗い中でもわかるほど美音の頬は赤らみ、頭を下げたままの状態で固まってしまう。

「フム……忍と同じ……血なのかな?」

 チラッと視線を琴音に向けながらマスターは呟くが、すぐに本題に入る。

「まぁいい、お店が十周年を迎えるというのは坊主も知っているだろ? その記念日に特別ライブをやろうという事になったんだ」

 以前から記念日である八月十七日に何かをやろうという話をいていたが、それが具体化したのかと健斗は身を乗り出す。

「それで? 誰がライブをやるんですか? 有名なアーチストを呼んでやるとか?」

「ばぁろぃ、そんな金がこの店のどこにあると思っているんだ?」

 目を輝かせる健斗の頭をマスターは小突き、それを見ていた莉奈と遥、マキや琴音はクスクスと微笑んでいるが、美音だけはまだ話が見えないようでキョトンとした顔をしている。

「じゃあどうするんですか?」

 頭をさすりながら口を尖らせる健斗に答えたのはマスターではなく遥だった。

「エヘ、特別セッションを組もうという話になったの。パパとママ、あたしと莉奈、そして坊ちゃんの五人編成で……エヘ、ちょっと楽しみだなぁ」

 最後にピッと指を指された健斗は、思わずその指先に視線を向けてしまい、完全に目が寄り目になり、いま遥が言った言葉の意味を必死に理解しようとしているのが見てもわかる。

 ちょっとまって? それって俺もその特別セッションの仲間という事なんでしょうか?

 健斗だけではなく琴音や美音もキョトンとした顔をしているが、話は着実に進んでいるようで、遥とその実の親であるマキとマスター、莉奈も含め練習をどうするなどと話しをしている。

「じゃああそこがいいよ、パパの知り合いが持っている恵山の別荘。三日ぐらい掛けてやれば問題ないだろうし、あそこなら海が近いから昼間は泳げるし!」

 見た目小学生の遥は、まさにはしゃぐ小学生の女の子のように万歳するように決めると、琴音と美音の顔に視線を向けてにへらぁと笑みを浮かべる。

「琴音ちゃんと美音ちゃんも一緒に行こうよ!」

 その一言に呆気に取られていた琴音と美音が我に返ったように体を揺する。

「あ、あたしたちもですか?」

 明らかに戸惑った顔をしている琴音に、莉奈は立ち上がって二人の腕に自分の両腕を絡ませながら満面の笑みを浮かべる。

「近くに海岸があってすごくいいところよ? 誰もいなくってプライベートビーチ状態!」

 その一言に琴音の頬がヒクッと反応する。

「あのぉ……あたし状況がよくわからないんですけれど……」

 一人取り残されたような格好の美音が、思い切ったように莉奈の顔を見ながら言うと、一瞬の沈黙があった後、笑いがわきあがる。

「ゴメンね? 自己紹介するわね? あたしは赤坂莉奈。このお店でライブをやっているバンド『GoAhead』のベースで、その実態は近くにある『菱本(ひしもと)』という会社のOLだったりして、よろしく美音ちゃん」

 笑顔を浮かべる莉奈にホッとしたような顔をする美音だが、その隣の琴音はピクリと肩を震わせ顔も強張っている。

 琴音? あの時と同じか?

 初めて莉奈に出会った時に彼女を見て琴音が過剰な反応を見せた事を思い出し、健斗は心配そうな顔を琴音に向けるが、その視線に気がついた琴音は小さく首を横に振って大丈夫という意思表示を健斗に見せる。

「あたしは名和田遥。このお店のマスターである名和田剛(なわだつよし)とママである名和田凛子(なわだりんこ)の実の娘で、その実態はナースだったりする」

 その幼い顔で社会人というだけでも驚きなのに、職業がナースとはさらに驚きで、その事実を知らなかった健斗と琴音、美音は遠慮なくその目をまん丸にするが、やがて何かに気がついたのだろう琴音はマキの顔を覗き込むと、健斗も疑問に思っていた事を問いかける。

「エッと、マキさんの本名って『凛子』さんなのに、なんで『マキ』さんって呼ばれているんですか? あたし本名だと思っていました」

 同じ意見です、ここでバイトをするようになってから三ヶ月ぐらい経つけれど、本名が凛子さんだなんて知らなかったぜ?

「ウフ、マキはね旧姓なのよ。『真木凛子』で『マキ』。あたしが剛と結婚する前から通っていた常連さんがそう呼んでいて、それがそのまま今に至っているという事。こう見えても結構昔は人気があって、追っかけまでいたぐらいなんだから」

 意地悪い顔をしながら琴音の鼻先に人差し指を置くマキに、琴音はどこか納得したような顔をしてその顔を見つめているが、健斗はその名前に引っ掛かりを覚える。

 どこかで聞いたことのある名前だよなぁ……真木凛子……マキ……凛子……あっ!

「もしかしてマキさんって、あの『マキ凛子』さん?」

 思い出したぜ! 俺が小学生の時にアイドルとしてデビューして歌がすごく上手だったのに、すぐに引退してしまった幻の歌姫。

「ぴんぽぉ〜ん! さすが坊ちゃん、よく知っているね? そうでぇっす! ママの実態はあの幻の歌姫『マキ凛子』なのでしたぁ」

 人差し指を突き上げる遥に対して、その名前に聞き覚えのある三人は再び呆気に取られた顔をして、少し恥ずかしそうな顔をしているマキに向ける。

 なんだか今日は驚く事ばかりだなぁ……。

「昔話はそこまでにして、行くにしても交通手段はどうするの? ウチには車なんて無いし、荷物もあるからバスという案もダメだし……」

 はぐらかすように言うマキの一言に周囲の人間の視線が一気に健斗に向く。

「確かに人数は乗れますけれど、荷物までは無理ですよ?」



=U=

「スミマセン、無理をお願いして」

 三日後の早朝、まだ車通りの少ない本町の『おんぷ』の前には、健斗の運転するミニバンと、赤い軽自動車が並んで止まっている。

「いいえ、私たちまでご一緒させていただいちゃってよろしかったんですか?」

 大人の会話を繰り広げているのは、軽自動車の運転手である深雪とマキで、機材の積み込みを終えたこの旅行の総括責任者であるマスターが加わりペコペコと頭を下げている。

「じゃあ出発(でっぱる)か?」

 挨拶を終えたマスターの一言に、ニコニコ顔でミニバンの助手席に座るのは知果で、ナビを勤める莉奈はセカンドシートで仕方がないという顔をし、その隣には琴音と美音が少し口を尖らせながら乗り込み、赤い軽自動車には運転手の深雪と名和田一家が乗車する。

「じゃあケンちゃん、電車通り沿いに湯の川に向って走ってくれるかしら? ちょうど函館空港に向うような感じで、それから後は国道二百七十八号線一本だから」

 セカンドシートからの莉奈のナビに従い車を走らせるが、いつもよりも大勢の人数と荷物を載せているためなのか、やけに車が重く感じる。

 しかしここで重いなんて言ったら、乗っている女の子全員を敵に回す事になるだろうな?



「本州最短地点?」

 湯の川を過ぎてから二十分ぐらい海沿いを走ると、健斗の真後ろに座っている美音が道路沿いにあった看板に声を上げると、反対側に座っている琴音がクスッと微笑む。

「ウン、ここは『汐首岬』といって、北海道と本州が一番近い場所なの。本州側の大間までの距離は約十七キロちょっとで、直線距離にするとここから函館に戻るよりも大間まで行く方が近いぐらいなの? ちなみに北海道の最南端はここではなく、松前にある『白神岬』なのよ」

 天気が良いため津軽海峡を挟んだ向こう側には、本州の北端である下北半島の稜線がくっきりと見る事ができ、その近さに琴音の言っている事にうなずいてしまう。

「ホント、こうやって見ると近いのね? 本州と北海道って……」

 一瞬美音の表情が曇ったように見えるが、真ん中に座っている莉奈がケラケラと笑いながら琴音の説明を補足する。

「ここにね、本州と北海道を結ぶ連絡橋を架けようなんていうプランがあるのよ? 実際にできるかどうかわからないけれど、できれば便利かもしれないわね?」

 確かにあれだけ近ければそんなプランもありだとは思うけれど、地形や気候などの事を考えるとちょっと難しいかもしれないな? でも確かにできれば便利になるだろうし、色々と生活の面でも変わるかもしれない夢の架け橋ではあるかもしれないな?



「あれが『恵山』よ。標高六百十八メートル亀田半島の端にある活火山。標高が低いのにもかかわらず、シラネアオイやムラサキヤシオツツジ、ミネズオウなど、本州では二千メートル級の高山でしか見られない高山植物が群生しているの。ちなみに恵山という名前は、アイヌ語で『火を吹き溶岩が流れ落ちる』の意味を持つ『イエサン』にちなんでついた名前」

 マスターの知り合いの別荘に向う道すがら、立ち寄った道の駅『なとわ・えさん』で、物知りの琴音の本領が発揮される。

 よく知っているよな? 琴音のやつ。将来観光ガイドか何かになるつもりなのかな?

「健斗先輩から聞いていたけれど、本当に琴音ちゃんってよく知っているのね?」

「だろ? 俺もビックリだぜ……どれぐらいのレパートリーがあるのか知りたいよ」

「ベェだ、そう簡単に教えるわけにはいきませんよぉだ」

 少し照れたような顔をした琴音は、関心顔の美音にはニコッと微笑み、腕を組んでうなずいている健斗にはベェッと舌を出しおどけた表情を浮かべながら、物産館の中に入ってゆくと、それに続いて健斗と美音も中に入り込む。

「そのホッケよさそうじゃありません?」

「本当ね? 今日の夕飯に使おうかしら……それと、この黒口昆布を使った昆布巻きもよさそうですよ? お酒のつまみになるかも……」

「あら? 深雪さんも結構イケル口なのかしら?」

「まぁ、ちょっとですけれどね?」

 円柱の水槽とイケスのある物産館の中には、どこかオバサンっぽい会話が成り立っているが、その会話の主が深雪とマキだと思うと、三人は思わず脱力してしまう。

 見た目は若くっても二人とも歳相応というところなのかな? 会話の内容はどこにでもいるオバサンの会話だよ、様相だけを見るとそんな会話をするようには見えないんだけれどね?

 恐らく健斗と同じなのだろう、美音も苦笑いを浮かべながら健斗の顔を見つめている。

「あぁ、深雪さんそのウニいいと思うよ? そのままウニ丼にしてもいいし、パスタにのせると自然の甘みが出てすごく美味しいの」

 そんな会話に琴音が乱入……この娘の将来を見たような気がするぜ。

 呆れたような顔をしながら健斗が物産館を後にすると、美音もついて出てくる。

「アハ、みんな真剣な顔をして見ていましたね? 今日の夕飯が楽しみかも……でも、深雪さんもマキさんも……琴音ちゃんも料理が上手だからいいですよね?」

「まぁね? 深雪さんやマキさんが上手なのは当たり前なのかもしれないけれど、あの琴音が上手なのはちょっと意外だよな?」

 苦笑いを浮かべながら答える健斗に、それまでゆっくりと進められていた美音の足がピタリと止まり、寂しそうにその足元を見据えている。

「ん? どうかしたのか?」

 いきなり立ち止まった美音に健斗は振り向く。

「いえ、ちょっと琴音さんってすごいなぁって思って……ちょっとあたしは反省です」

「反省? 美音ちゃんが?」

 困ったような声に、健斗が首を傾げながら視線を向けると、その視線の先ではペロッと舌を出し、おどけたような顔を作っていた。

「ハイ……あたし料理はあまり得意じゃないんですよ。小さい頃からお母さんがみんな作ってくれたから、あたしは全然……最近やっとお母さんもヤバイと思ったのかしら、料理を教えてくれるようになったんですが、どうやら時既に遅しなのかも……」

 下唇を突き出しいじけたような顔をつくる美音に、健斗は苦笑いを浮かべる。

「はは、仕方がないよ。琴音の所は両親が共働きで、三つ年下の弟の食生活の面倒まで見ていたらしいよ? 必然に駆られて料理ができるようになったらしい」

 自分は当然ながら、弟や両親のために料理を作るようになったというのを、以前に琴音から聞いた事があり、少し琴音の素性がわかったような気持ちになった記憶がある。

 展望台から広がって見える津軽海峡を真正面に、大きく伸びをしながら美音に説明する健斗の背中を、美音は寂しそうに見つめている。

「そう……ですか…………先輩は、やっぱり料理のできる女の子の方が……良い……ですか?」

 聞こえてくる潮騒にかき消されてしまいそうなおぼつかなく小さな声であったが、健斗の耳にはしっかりとその言葉は伝わる。

「どうだろうね? 女の子だから料理ができなければいけないという感覚は俺には無いよ? でも、俺も料理できないから、できる人とできない人どちらが良いかと問われると、う〜ん、やっぱりできる方がいいかもしれない……」

 噴煙なのか雲なのかわからないものが山頂に掛かっている恵山に視線を向けながら健斗が何気なく言うと、背後にいた美音は今にも泣き出しそうな顔をしながら深いため息を吐く。

「はぅぁ……やっぱり料理の勉強をしないとダメかぁ……」

 かなりダメージを受けたような美音の言葉は健斗の耳に届く事は無く、美音が上げた視線の先には海から受ける風を心地よさそうに浴びている健斗の姿があり、その顔に美音の心の奥はキュッと何かに握り締められたような感覚に陥り、モジモジと動かしていた両手は、何かを決意したようにギュッと握り締められる。

「先輩……あたし料理できるようにがんばりますから……」

「健斗ぉ、出るってよ?」

 意を決したように言う美音の横にはいつの間にか琴音が立っており、展望台で大きく伸びをしている健斗に向けて、口に手を当てながら大きな声をかけており、その声に美音の言葉はかき消されたようだった。



=V=

「うぁ〜! 本当に海に近いよぉ〜」

 目的地である別荘は国道から少し狭い道道に入って少し行った所にあり、小さいながらも浜辺になっている海を目前にした所に建っていた。

「でしょ? 誰も入らないからほとんどプライベートビーチ状態なのよぉ!」

 手を取り合いながらそのロケーションに喜んでいるのは中学一年生の知果と、ナースである遥なのだが、百人中九十九人は同級生と思うであろうその光景に、健斗は荷物を下ろしながら軽い脱力感に駆られる。

 知果も幼く見えるが、社会人である遥さんがそれと同い年に見えるというのはどんなものなのだろうか……ランドセルを背負った看護婦さんだなんて……想像できないぜぇ。

 車から降ろした荷物をマスターの指示に従い、その別荘の半地下になっている場所に持ってゆくと、その整った設備に感嘆の声を上げる。

「これは……すごいですねぇ……立派なスタジオじゃないですか」

 完全防音になっているその部屋は、ミキシングルームまでも備え、インディーズのレコーディングぐらいならできそうなほどまでに整っている。

「だろ? ここのオーナーは昔アマチュアのバンドをやっていて、趣味が高じてここまでの設備を作ったという事なんだ。今でも俺が推薦したアマチュアはここでレコーディングしてインディーズデビューしているグループだってあるんだぜ?」

 まるで自分が褒められたように嬉しそうな顔をしているマスターに、小物が入っているバッグを重そうに担いだ莉奈が加わってくる。

「ウフフ、そのインディーズの一つが我がGoAheadだったりするのよね? マスター」

 こちらも鼻をヒクつかせながら自信満々の顔をしており、重そうに持っていたバッグをスタジオの中に降ろすと、まるで恋人のようにその腕をマスターの腕に絡める。

「あぁ、売れているかどうかは知らないけれど、お前らの実力はあると思うよ?」

「ぶぅ、マスターってば冷たいぃ、お世辞でも『お前らはすごい』とか言ってくれないかなぁ、せっかく十周年記念に花を添えるんだからぁ」

 マスターの腕に絡みつきながら、今にもキスができそうなほどまで顔を近づけている莉奈の表情の妖艶さに健斗は思わず顔を赤らめてしまう。

「なつくな。俺がお前らの腕を褒めるだけでも十分にお世辞だと思うぞ?」

 胸のポケットからタバコを取り出し、それに火をつけるマスターの仕草に、健斗はおもわず感心したような顔をしてしまう。

 カッコいいなぁ……すがり付いてくる女の子をアッサリとかわして話をはぐらかすなんて、大人の男だよ……ちょっと憧れちゃうかも。

「ぶぅ……」

 口を尖らせる莉奈も既にそんなマスターの態度に慣れているのだろう、健斗に向ってペロッと舌を出しておどけたような表情を作る。

「食料班搬入完了です……って、もぉ莉奈ぁ、また人の旦那を誘惑しているの? 無理よ、この人はあたし一筋なんだから、あなたのようなお嬢さんには無理!」

 スタジオの入口からマキが顔を覗き込ませてくると、まだ莉奈はマスターの腕にしがみついた状態のままで、誤解されるには十分な体勢だったにもかかわらず、マキはケラケラと笑いながら、とくに攻め立てたりするでもなく一笑に付す。

 それで終わりなの? マスターの浮気とかを心配しないんですか?

 心の中で健斗は呟きながらマキの顔を見ると、その視線に気がついたのかマキは不敵な笑みを浮かべながらそんな健斗の顔を覗きこんでくる。

「うふ、坊や……もう少し大人になればわかると思うけれどね? 大人には大人の事情というものがあるの。それはビジネスであって感情というものは無い……いわゆるビジネスパートナーなのだからね? だから必要であれば使える武器はすべて使う……とくにオンナはね?」

 使える武器……オンナ……って……もしかして。

 その意味を理解し、かぁっと顔を真っ赤にする健斗を見たマキはケラケラと笑い、その様子を見ていたマスターは困り顔を浮かべ、莉奈は意味深な笑みだけを浮かべていた。

「凛子、こんな純情な男の子にそういう大人のドロドロした所を見せない方がいいぞ? それに言っておくが、俺と莉奈の間には何も無いから誤解しないように」

 まっすぐに健斗の顔を見ながら話すマスターの瞳には曇りが無く、それだけで潔白だという事がわかるが、マキは相変わらずケラケラと笑っている。

「アハハ、ゴメン。でも早かれ遅かれ知る事になるんだ……他はどうかわからないけれど、少なくともこの世界はそういう事がまかり通る業界なんだよ」

 さっきとは違う真剣な表情のマキに、健斗の顔を引き締める。

「でも、あたしたちみたいにサラリーを貰っている人種には関係ないよ? 前にバイトの女の子に手を出して強制召還されたエリートがいるらしいけれど、それは特殊でしょ?」

 肩をすくめる莉奈の言葉にマキがまるで一本釣りのカツオのように食いつく。

「ちょっとぉ、莉奈ちゃんの会社でそんな事があったの? 詳しく聞かせてよその話」

 ――すっかり道端でワイドショーの評価をしているオバサンと同じだな?

 健斗と同じ意見なのだろう、マスターも眉毛をハの字にして困ったような顔をしながら、肩をすくめて再びスタジオの外に姿を消す。

「ウン、あたしがあの会社に入る前なんだけれどね? バイトできていた女子高生に手を出してやむを得ず東京の本社に強制召還された人がいるらしいのよね?」

 ハハ……そっちはそっちで生々しいかも……俺にはちょっと刺激が強いな?



「掃除も終わりました」

 完全なゲストである琴音と美音、知果と深雪の働きのおかげでスタジオのセッティングを行っている最中には、リビングやキッチンの掃除を終わらせ、なおかつ四人はベッドルームのメイクまでも終わらせてしまったらしい。

「ありがとうみんな、おかげで同時進行できたから時間短縮できたわ」

 モニタースピーカーの調整をしていたマキが、スタジオに入ってきた琴音に礼を言うと、その顔は弾けたように笑顔に変わり、ドラムのチューニングをしている健斗に向く。

「すごいですね? ここでライブができそう」

 関心顔をしている琴音の背後からキッチンの片づけをしていた深雪と知果、ベッドメイクを担当していた美音も顔を出すと、一同に関心顔を浮かべている。

「それがね? ちょっと問題ありきだったりするのよねぇ……我が娘ながら、ちょっと呆れてしまうわよ……絶対音感はいいはずなんだけれど、不器用なのかしら……」

 呆れ顔のマキが向けた視線の先には、キーボードに悪戦苦闘している遥の小柄な姿が、かろうじて見る事ができる。

 確かに。あの小柄な体からあれだけの声域の声を出すほどで、メロディーを外す事がないほどの耳の持ち主なのに……指がついていっていない様な感じだよな?

 今にも泣き出しそうな顔をしてキーボードに向っている遥は、莉奈に指導されながらもいまいち思ったような音階を作り出す事ができないでいる。

「何を演奏するんですか?」

 紫煙を吐きながらスコア(楽譜)を見ているマスターを深雪が覗き込むと、少し照れ臭そうな顔をしてそのスコアを深雪に見せる。

「イエローマジックオーケストラ(YMO)って知っていますか? 八十年代に起きたテクノポップの先駆けのバンドで、それのコピーをしようと思っているんですよ。ちょうど俺なんかがハマっていた世代だし、今でも根強い人気がありますから……」

 空き缶にタバコを押し付けるマスターの顔を、深雪はパァッと笑顔を膨らませて見る。

「知っていますよ、坂本龍一、細野春臣、高橋幸弘の三人ユニットですよね? シンセサイザーとコンピューターを駆使したバンド。あたしも大好きでした!」

 思いも寄らない援軍を受けたマスターは、それまでの無口が嘘のよう深雪に話し出す。

「そうですか! 俺は今でもあの音楽が大好きなんですよ。いまみたいな軽薄なテクノポップではなくロックっぽい音楽で、初めて聞いた時その音に衝撃を受けました」

「ハイ、初めて聞いた時に印象に残って、気がついたら好きになっていました。とくに『ライディーン』とか『東風』が好きですね? あと『千のナイフ』も好きかも……」

 意気投合したように話をしているマスターと深雪の事を、さっきはあまり気にしないと豪語いていたマキが険しい顔をして睨みつけているのに健斗は気がつく。

 さっき莉奈さんは気にした様子が無かったんだけれど、深雪さんに対しては気にしているみたいだな? これも大人の事情っていうやつなのかな?

「でもYMOをやるとなると、どうしてもシンセサイザーが必要になってくるんじゃないですか? それにはキーボードがちょっと足りないような……」

 見回す深雪の視線の先にはキーボードが一台だけ。YMOは三人編成だが曲風というのか音楽の内容から考えるとキーボードは最低でも二台は必要になるし、逆にマスターとマキが持つようなギターはあまり必要性が無い。何よりもYMOの初期に見られた大掛かりな『シーケンサ』と呼ばれる自動演奏をするようなコンピューターも無い。

「いまのキーボードはいろいろな音を再生できますから、その当時の音に近い物が作れますし、完全ではなくともキーボードのパートをギターで補うという感じですかね? テクノポップだけれどアナログなYMOですよ」

 生き生きとした顔で深雪と話しているマスターに、さすがのマキも堪忍袋の緒が切れたのか、そっと傍まで寄るとわざとらしくその足を踏みつけ(半回転のひねり入り)る。

「ぴぎゃっ?」

 意表をつかれたマスターは足を押さえながら飛び上がり、恨めしそうな顔をして踏みつけたマキの顔を睨むが、当のマキはしらん顔をしており、唯一その動きに気がついた健斗は思わず苦笑いを浮かべながらそんな二人を見つめている。

 なんだかんだ言ってもマキさんも心配なんじゃないか? マスターの事が……。

「いいなぁ、あたしもちょっとやってみたくなっちゃったかも……こう見えても小さい時はピアノでYMOのコピーをやっていたんですよ、メインのパートなら少しはできる思うなぁ」

 そんな深雪の声に遥が目を光らせる。

「ねね、じゃあ深雪さんやってみませんか? どうせ練習なんですし……いいでしょパパ、せっかくなんだから、深雪さんにもやってもらったら?」

 いいも悪いも関係なく、遥は深雪の腕を引くとキーボードの位置に立たせると、すかさずスコアを渡し、呆れ顔の莉奈がパートの細かい説明を始める。

「なるほどね? これなら前にやっていたのとほとんど同じだから何とかなるかも……ちょっと音を出してみていいですか?」

 恐る恐る深雪が弾きはじめたのは、YMOの代表曲でもある『ライディーン』で、徐々に昔を思い出してきたのか曲調がオリジナルに近くなり始める。

 深雪さんにこんな特技があるとは知らなかったよ……どれ……。

 流れるようになってきたキーボードの音に健斗がドラムを合わせ始めると、深雪の隣で心配そうな顔をしていた莉奈もベースを合わせ、マスターとマキのギターがそれにかぶるように合わさり完全なセッションが始まると、それまで隠れるようにしていた遥が即興で踊りだす。

第二十一話へ。