第二十三話 とらいあんぐるな函館散歩



=T=

「起きろぉ〜っ!」

 夏とはいえ心地のいい朝日が差し込む部屋の中に、元気な琴音の声が響き渡り、その声の対象となった健斗は、まだ完全に覚醒しきっていないようにまどろんだような顔を上げ、無意識に手元にあった目覚まし時計を見ると、時間は八時前を示している。

「なんだぁ……まだこんな時間じゃないか、もう少し寝させてくれよ」

 再び毛布に包まろうとする健斗から、琴音は強引にその毛布を取り去ると、既に着替えを終えすがすがしそうな顔を健斗につき付ける。

 昨日『おんぷ』の十周年記念ライブでクタクタなんだよ……しかも、打ち上げまで参加させられて、帰って来たのは日付が変わった午前三時。寝付いたのはついさっきと言っても過言では無いのに……みんなだって一緒だったんだからわかっているだろ?

 合宿の成果があってなのか記念ライブは大盛況に終わり、その後打ち上げと銘打った宴会が始まってしまい、この家に住む全員と、美音まで最後までつき合わされた。

「何を言っているのよ、今日は美音ちゃんと一緒にお出かけするんでしょ? 早く起きないと置いて行っちゃうぞ?」

 恐らく目の前にいる琴音の睡眠時間も健斗と然程変わりはないだろうが、しかしその表情は見事に好対照を描いており、琴音はニコニコなハイテンションな顔を、方や健斗はまだドロドロと夢と現実の狭間を歩んでいるような顔をしている。

 なんだってそんなにテンションが高いんだ? まぁ、眠すぎるとナチュラルハイになると聞いた事があるが、琴音ももしかしてそうなのか?

「置いて行くって、俺の車で行くんだろ? 運転手がいなければ車は動かんぞ?」

 大きなあくびをしながら爽やかな笑顔を見せる琴音を見やるが、その白い指が健斗の目の前につき立てられると左右にゆっくりと動く。

「チ、チ、チ、今日は車を使わないで、函館の市電を使っての観光って決めたの、だからぁ、早く用意をしてよね? まずは函館駅までバスで行くんだから」

 グイグイと腕を引っ張る琴音に、健斗は心の中で首を傾げる。

 決めたって、当事者を放っておいてそれは無いんじゃないか? そりゃ琴音はいいかもしれないが、美音ちゃんだって今は夢の中のお姫様になっているんじゃないか? てか、あの合宿の夜からなんとなく琴音の俺に対する態度が変わったような気がするよ……前は滅多に人の腕を引っ張ったりしなかったのに、最近では気にした様子もなく俺に触れてくる……決してイヤではないのだが、あの時、琴音と美音ちゃんの間に何かがあったのは間違いが無いようなのだが、いつもはぐらかされているような気がする。



「おはよう、健斗クン」

 昨日の打ち上げでベロベロに酔っぱらっていた深雪が、キッチンから爽やかな笑顔を健斗たちに向けてくる。

 ……深雪さんの辞書の中には二日酔いという言葉は存在しないのかもしれない……あれだけ酔っぱらっていながらこの時間に起きて……しっかりと朝食を作ってあるとは……。

「おはようございます……」

 既にテーブルの上にはホテルのモーニングよろしく、フワフワのスクランブルエッグにカリカリのベーコン、厚切りのトーストに、なぜか味噌汁……たぶん味噌汁と作っていたあたりはまだ昨日のアルコールが残っていたのかもしれないな?

 異彩を放っている味噌汁以外は、二日酔いではない健斗のお腹を十分に刺激するものであり、座り慣れた椅子に座ると、いい香りを放つコーヒーが目の前に提供される。

「おはようございます、健斗先輩」

 コーヒーを提供してくれたのは、ワンピースタイプのボーダーチェニックを着た美音で、既に起床してから結構な時間が経っているように見える。

 琴音だけじゃなくって、美音ちゃんもこんな早い時間に起きていたの? てか、ドンヨリとした顔をしているのって俺だけ?

 慌てて辺りを見渡すと、真っ先に眠りについていた(散会になる時には既に熟睡していた)知果の姿が無く、ホッと吐息を吐く。

「おはよう……眠くないのかい?」

 クハァっと大きなあくびをしながら美音の顔を覗き込むと、眠そうな様子は微塵も見せず、ニッコリと微笑みながらコクリとうなずく。

「ハイ、今日は健斗先輩と琴音ちゃんが函館を案内してくれるっていうので、すぐに目が覚めました。すっごく楽しみなんです」

満面の笑顔を見せる美音の背後から、トーストを持った琴音が顔を割り込ませてくる。

「任せてちょうだいよ、健斗なんかの案内に比べものにならない、もっといい函館を美音ちゃんに案内してあげるから、期待してね?」

 香ばしい匂いのトーストの乗った皿を健斗の前に置くと、ニコッとした微笑を美音に向ける琴音に対して、美音もニッコリと微笑み返す。

「ハイ、期待させていただきます」

「という事だから、健斗早く食べて着替えてよね? 今日は休日ダイヤだから駅に行くバスの本数が少ないんだから、早くしてよね?」

 意地悪い顔をしながらも、琴音の顔には笑みが浮かんだままで、健斗も諦めたようにヘイヘイと言いながらキツネ色のトーストにかじりつく。



「不思議と函館のバスって時間通りに走らないのよね? 特に渋滞をしているわけじゃないのに、なぜだかわからないけれどね?」

 拡幅工事をやっているような道路の片隅にあるバス停には待つ人もいなく、晩夏とはいえまだ暑い日ざしが降り注ぎ、近くの雑木林からはまだまだセミの声がやかましく聞こえ、バス停に掲げられている時刻表を見ながら、琴音は着ているロングシャツの袖を捲り上げる。

「でも、こっちに来て一番驚いたのはこのバスだったんですよ? 健斗先輩もそうじゃありませんでしたか? 初めてなのに慣れていると言うようなそんな感じ?」

 長い髪の毛を揺らしながら顔を覗き込む美音に、健斗はコクリとうなずくが、訳がわからないというような顔をした琴音は小首を傾げている。

「初めてなのに慣れている? どういう事なの?」

 疑問符を投げかける琴音に健斗と美音は顔を見合わせながら、お互いに微笑むとそれまでキョトンとしていた琴音の頬が少しだけ膨らむ。

「俺たちが通っていた……正確に言えば美音ちゃんはまだ通っているけれど、高校の近くを走っているバスと同じカラーリングなんだ。初めてこっちで見た時に『東急バス』が走っているのかと思ってビックリしちゃったよ」

「東急バス?」

 聞き慣れないバス会社の名前に琴音はさらに首を傾げる。

「そう、ウチの高校の近くを走っているのが『東急バス』で、こっちの『函館バス』とまったく同じシルバーボディーに赤いラインなのよ」

 1944年に戦時下の事業統合によってできた函館乗合自動車が、1957年に東急グループの傘下となり、2003年に函館市営バスからの路線移管に伴って東急グループから離脱したという歴史を持っており、現在のカラーリングはその時の名残だ。

「ヘェ、じゃあ東京にも『かんバス』が走っているの?」

「かんバス?」

 今度は美音がキョトンとする番で、聞きなれない言葉に首を傾げ琴音の顔を覗き込んでいる。

「ハハ『函館バス』の『函(かん)』と『バス』で地元の人間は『かんバス』とか『はこバス』と呼んでいるんだ……でも、琴音も以外に東京に馴染むかもしれないな?」

 何気ない健斗の一言に、一瞬琴音の表情が曇るのをその理由を知る美音は見逃さず、慌てて話を別の方向にそらす。

「そ、そういえば、今日の予定はどうなっているんですか? この間健斗先輩に案内してくれたところと違う所って言っていたけれど」

 オタオタと声をかける美音に、琴音は視線だけで感謝を伝える。

「そういえば俺も聞いていないなぁ、琴音どうするつもりなんだ?」

 そんな二人の様子に気がついていない健斗は、虚空に視線を向けながら琴音に問う。

「うん、この間二人で行った場所は聞いているから、そこは外すつもりでいるわ、とりあえずバスで函館駅に行って、そこからは市電とバスで回るつもり……どうせ健斗の事だから、あまりちゃんとした説明はしていないだろうけれどね?」

 いつもと同じように意地悪い顔を健斗に向ける琴音に、美音は少しホッとしたような表情を浮かべていると、琴音が美音にウィンクしてくる事に気がつきニコッと微笑んで応える。

「なんでどうせなんだよ……確かに琴音みたいなちゃんとした案内はできていないと思うけれど、一応俺だって勉強したんだぜ?」

「ヘェ、じゃあ今日はお手並み拝見といきましょうか?」

「ウグ……それは……」

 困り顔の健斗を見つめる琴音と美音は息を合わせたように笑い出し、そうこうしている間に先ほど話をしていたシルバーボディーに赤いラインの『函バス』が三人の前に横付けされる。

 やっぱりだ。なんだか急速に二人の仲が良くなったようだな? 俺としては嬉しい事なのだが、なんとなく複雑な感じもする……なんでだろう。

「ほらぁ健斗、そんな所でボンヤリしていると置いて行っちゃうぞ!」

 前乗りの東急バスと唯一の違いである後ろからの乗車に、美音だけではなく函館に来て初めて乗ると言っても過言では無い健斗も戸惑う。



=U=

「まず函館駅前バスターミナルにある案内所に行くわよ」

 バスに揺られる事約三十分、三人は綺麗に整備された函館駅前のバスターミナルに降り立ち、その一角にある待合所兼案内所に向かう。

「案内所に行ってどうするんですか?」

 慣れたように歩く琴音の後ろから美音が追いかけ、その二人を最後尾から健斗が見つめるという構図になっている。

 バスの中でもそうだったけれど、美音ちゃんはずっと琴音に話しかけているよな? なんだかちょっとつまらないかも知れない……てか、これもヤキモチなのかなぁ。

 ほとんど女の子二人で話しており、蚊帳の外といった感じに健斗は胸の中にモヤモヤを感じはじめているが、それが果たして何に対してなのかが良くわからない。

「案内所で『市電・函館バス共通一日乗車券』というのが売っているの、これがあれば大抵の観光地は見て回れるから便利なの」

 色々なパンフレットや、バスの時刻表などが掛かっている案内所の中で琴音は窓口に座る女性に声を掛けており、それを見た健斗は慌ててその隣にと向かう。

「健斗?」

 キョトンとした顔をする琴音の横から健斗は財布を取り出し、料金を支払う。

「三人分だから三千円だったよね? これは俺が払うよ」

 料金と引き換えにプリペイトカード式の乗車券を受け取ると、琴音と美音にそれを渡す。

「ちょっと、健斗……」

「これぐらい俺が払うよ、一応俺も男だからね?」

 不器用ながらもウィンクする健斗に、琴音はその頬を染める。

「……ったく、本当に一応だからね? 大丈夫なの?」

 少し心配そうに健斗の顔を覗き込む琴音に、苦笑いを浮かべる。

「まぁ……実は、昨日のライブが大入り満員だったから、マスターから大入りという事で臨時のボーナスが入ったんだ」

 予想以上に入った昨日のライブにマスターも機嫌をよくしたのだろう、メンバー全員に金一封を配り、それが今日の軍資金になっている。

「じゃあ、今日のお昼も健斗に期待しちゃおっか? ねぇ美音ちゃん?」

 意地悪い顔をしながら言う琴音の言葉に健斗の顔は蒼ざめ、美音はそんな二人の様子に曖昧ながらも、微笑みながらコクリとうなずく。

「ウフ、そうですね? 健斗先輩がお金持ちなら、それこそ大船に乗ったつもりでお願いしちゃいましょうか? 先輩、ゴチになります!」

 ……おいおい、そんな多大な期待をされるほど俺は貰っていないのですが……黒石家に入れなければいけない金額を除いて、俺の手元に残る金額は……だから買おうと思っていた、あれと、コレを我慢すれば……そうすると……のぉぉぉっ!

 重力に逆らう事ができなくなった健斗は、思わず頭を抱えてしまう。

 赤字じゃ! 完璧に赤字じゃ! バイトを増やさにゃいかん! このままじゃあ深雪さんに顔向けできん、土下座をせにゃいかん!

「ちょ、ちょっとぉ健斗ぉ、本気にしないでよぉ、あんたのお財布の事情はあたしだって良く知っているから……冗談、冗談だってばぁ、健斗ぉ、落ち込まないでよぉ」

 あまりも気落ちした健斗を不憫に思ったのか琴音は慌てて取り繕うが、その落ちきった肩が上がる事は無く、気のせいかフルフルと小さく震えているようにも見える。

「せんぱぁ〜い、そんなに落ち込まないで下さいよぉ……」

 落ち込むよ……予定外の収入というのは、人間嬉しいものなのだが、まだ二十四時間も経たないうちにその使い道が確定されると思えばその反動は計り知れない。

「もぉ、そんな所で落ち込んでいないで電車に乗るわよっ!」

 少し苛立ったような顔をした琴音は、問答無用に健斗の腕を引くと、駅前バスターミナルに程近い『函館駅前』電停に引きずるように歩き出し、そんな二人の様子を後ろから眺める美音は、諦めたように小さなため息を吐き出しながらついて歩き出す。

「やっぱり……なのかな?」

「ん? 何か言った美音ちゃん」

 まだ立ち直る事のできない健斗を連れながら歩く琴音は、美音の呟きに気がついたのか、首を傾げながら振り向いてくる。

「ウウン、なんでもないです」

 パタパタと両手を振って応える美音に、琴音は解せないというように首を振りながら、まだ観光客で込み合っている市電乗り場に向かう。

「美音ちゃん、早く行こうよ、今日は俺がおごってあげるよ」

 琴音に変わって今度は健斗が振り向く。その顔は吹っ切れたのか、既にヤケなのかはわからないが先ほどまでの落ち込みは無く、その顔に美音はフッと笑みを浮かべると、半袖のカジュアルシャツから伸びている健斗の腕にしがみ付く。

「やったぁ〜、先輩大好きぃ」

「おいおい、何だよ……どうしたんだ?」

 それまでとはまったく違い積極的な美音の行動に、健斗は素直に驚いてしまう。

 こんな事をする娘じゃなかったのに……一体どうしたんだ? 琴音も前に比べて柔らかくなったというか、前はもっと尖っていたような感じだったのだが、やっぱり二人の間に何かがあったとしか思えないけれど、聞くわけにはいかないよな?



「レトロチックな電車ですね?」

 道路の中央部にある狭い電停に丸いイメージの市電が入ってくると、物珍しそうな顔をした美音が派手な塗装に身を纏っている電車を見つめる。

「確かにレトロかもしれないけれど、毎日使っている人は大変かもしれないよ?」

 ガラガラという音を立てながら開かれる扉の先には、まるでよじ登るような高さの所に床があり、三人の前に乗り込むお年寄りは手摺を使ってやっとの思いで乗り込んでゆく。

 俺だって結構キツイ段差かもしれないよこの高さは……。

 整理券を取り、やはりよじ登るように車内に入り込むとツンとした油の香りに包まれる。

「まぁ、既にお年寄りも慣れているかもしれないし、最近では長低床の新型車も入ったから良くなっていくんじゃないかしら? 古い町並みを走る古い電車もいいけれど、お年寄りに優しい新型車が走るのも良いと思うわね?」

 結構な人数の客を乗せた路面電車はゴンという衝撃の後、モーターの唸る音と共に硬い振動が木張りの床から伝わってくると、冷房がついていないために開かれている窓から心地のいい風と、チリンチリンという涼しげな音色が聞こえてくる。

「ヘェ、電車の中に風鈴が掛かっているんですね? 風流かも……」

「毎年恒例なんだよ? クーラーの付いていない電車がまだ多いから、少しでも涼しく感じてもらおうという配慮なのかな? あたしは好きかも……」

 関心顔をしている美音の事を、間に挟まっている健斗をよけるようにして覗き込む琴音に、健斗は苦笑いを浮かべる。

「ところでどこに行くつもりなんだ? 何気なく電車に乗ったけれど……」

 五分間隔で走る電車。三人は来た電車に乗り込んだのだが、降りる場所までは聞いておらず、その意見に同意したような顔をした美音も琴音の顔を見つめている。

「ン、この電車は『谷地頭』行きでしょ? だったら『立待岬』かな?」

 今考えましたというような顔をする琴音に、健斗は思わず美音と顔を見合わせてしまう。

「じゃあ、乗った電車が『どっく前』行きだったらどうするつもりだったんだ?」

 呆れ顔の健斗の顔に、琴音は小首を傾げる。

「だったら『外人墓地』かな? 赤レンガとか西地区はほとんど回ったんでしょ?」

 おいおい、もしかして行き当たりばったりって言うやつか?

「いいですね? ぶらり散歩みたいで」

 クスクスと微笑む美音に対し健斗は呆れ返った顔をしていたが、琴音の指摘が否定できず、口を尖らせながらゆっくりと動く窓の外の景色に視線を向ける。

「今日はちょっと歩くと思うから覚悟をしておいてね?」

 そう言う琴音に、健斗は思い出したように足元を見る。

「そういうお前はどうなんだ? やっと足が治ったばかりなのに、大丈夫なのか?」

「うん、先生が言うには一ヶ月もかばって歩いていたから、徐々に歩いて足を慣らせた方が良いって言っていたよ? もう全然痛みもないし」

 合宿から帰って来てすぐの診療の時に琴音の足から包帯は取れ、松葉杖も消えたが、いきなりそんなに歩いて大丈夫なのかと心配になってしまう。

「ありがと健斗、心配してくれたの?」

 ガタゴトという騒音にかき消されてしまいそうな声だったが、かろうじて健斗の耳にはそう言った琴音の声が聞こえてきて顔を向けると、そこには嬉しそうな恥ずかしそうなそんな複雑な表情を浮かべた琴音が健斗を向いており、その表情になぜか胸が高鳴る。

「ま、まぁな? 途中で痛いからと言ってまたおんぶをしなければいけなくなると、ただでさえ暑いのに、余計に汗を掻くからな?」

 しかし、そんな胸の高鳴りを目の前にいる琴音だけではなく、隣にいる美音にも悟られないようにわざとふざけたように言うと、琴音の頬が膨れ上がってゆく。

「あたしだって嫌よ、人の胸の感触を楽しむようなスケベな健斗におんぶされるのはもうゴメンだわ? 今度こそ妊娠させられちゃうかもしれない」

 おいおい、そういう事を不特定多数の人間がいるような所で言わないでくれ。

 舌を出す琴音に、挑発するような顔をする健斗、その様子を美音は寂しそうに見つめる



=V=

「ここが『石川啄木一族の墓』よ」

 谷地頭電停を降りてからなだらかな坂道を登りきると住宅街が切れ、車一台が通るのがやっとの狭い道になると、左手に津軽海峡が広がりはじめ、その中ひときわ大きなお墓があり、入口には琴音の案内通りの白い木柱が立っている。

「石川啄木って、確か岩手出身の詩人ですよね? なんでここにそのお墓があるんですか?」

 首を傾げながら琴音に着いて歩く美音の質問に、健斗が答える。

「石川啄木は明治四十年の五月から九月までの四ヶ月間だけしか函館に滞在していなかったんだけれど、この土地を気に入ったために離散していた家族を呼び寄せ、市内にある青柳町という所に居を構えたが、函館大火によって再びこの地を離れる事になってしまい、晩年『死ぬ時は函館で』というほどこの街を愛していたんだね?」

 急な石段を上がると津軽海峡が見渡す事ができ、少し風化した墓標には『東海の、小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて、蟹とたはむる』と刻まれている。

「四ヶ月で……でも、あたしにもなんとなくわかるような気がします……こんな素敵な街だとは思っていませんでした……啄木の気持ちが分かるような気がします」

 感慨深いような顔をした美音はその墓標に向かって手を合わせており、琴音や健斗もそれに促されるように手を合わせる。

「この辺りはみんな墓地になっていて、啄木だけではなく啄木の義弟である宮崎郁雨のお墓もこの近くにあるの、啄木のせいなのかこの函館という街は多くの文学者や作家さんがいるのよ? 有名なのは亀井勝一郎や最近では芥川作家の辻仁也さんね?」

 いささか強い風にワンピースのスカートを押さえながら琴音が言うと、美音は少し驚いたような顔をして健斗の顔を見つめてくる。

「辻仁也さんって、確かバンドをやったりもしている作家さんですよね? なんとなく健斗先輩と似た感じがしませんか?」

 確かに、氏は作家活動する時は仁也を『ひとなり』と呼び、文筆活動以外の時は『じんせい』と呼ぶというのは聞いた事がある。はじめはロックグループの『ECHOES(エコーズ)』でデビューをしたと聞いた事がある。

「だとすると、健斗の奥さんになる人は中山美穂さんみたいな人?」

 少しいじけたような顔をする琴音に、困ったように眉毛をハの字にする美音、そして、

 ……いいかも……中山美穂みたいな奥さんかぁ……でヘヘ。

 だらしなく目尻を下げる健斗に、琴音の眦がつりあがる。

「何をだらしない顔をしているんだろうねぇこの男は。少しは身分をわきまえなさい!」

 口を尖らせながら健斗のお尻に蹴りを入れる琴音に、賛同したように微笑む美音。



「ここが『立待岬』よ」

 細い道がいきなり駐車場になったような場所から、石段を降りるとポツンと土産物屋が立つだけで、有名な割にはあまり賑わったような感じがせず、ちょっと気勢をそがれたような感じになるが、茶屋というのか休憩所のような場所からは、暴力的な醤油のこげた香りが漂ってきて健斗の腹を容赦なく刺激する。

「ここから日中は麓の住吉漁港から大森浜、湯の川温泉街。晴れていれば遠く戸井の汐首岬から、内地の下北半島が見る事ができて、夜になると津軽海峡に浮ぶイカ釣り船の漁火が見えてまさに『函館』という景色が見る事ができるのよ」

 石川啄木一族の墓よりも風が強く感じるのは、岬が海にせり出しているせいなのだろうか、琴音だけではなく、ワンピースタイプのボーダーチェニックの下にレギンスを履いている美音もめくれそうになるスカートの裾を気にしている。

 確かに絶景ではあるが、潮風がちょっと冷たいかもしれない。

 海から吹きつけてくる風は磯の香りを多く含んでおり、市内では心地良く感じていた風も、吹きさらしになるこの場所だとすこし肌寒さを感じるほどだ。

「絶景ですね? ちょっと怖いぐらいかもしれない……」

 石碑の近くから断崖を覗き込む美音は、すぐに首をすくめその手摺から離れ、代わりに健斗がそこを覗き込むと、そこにはまさに切り立った断崖が目の前にあり、足元では打ち付ける波が白く砕け散っており、荒波で有名な津軽海峡を実感できる。

 こんな所から落ちたらひとたまりも無いだろうなぁ……遺体も揚がらないんじゃないか?

「この土地の名前の由来はアイヌ語の『ヨコウシ』という『魚を獲るために立って待つ場所』と言う意味『立待』からきているの。寛政年間には台場が作られ外国船の監視する要となっていて、第二次世界大戦では旧日本軍の要塞となっていたらしいわね? それだけ見通しがいい場所というのはこうやって見ればわかるわよね?」

 正面には広がる津軽海峡、視線を左に向けると大きな建物が目立つ湯の川の温泉街から、ボンヤリと北海道と本州の最短地点である汐首岬が見え、対岸には本州の下北半島の大間のシルエットが見る事ができ、振り向くと函館山の山頂が市内で見るよりもかなり近く見える。

 なんとなくこの函館という街のその当時の存在意義が見えてくるような気がするな? 確か日本で最後の内戦である函館戦争の時も、旧幕府軍がこの場所を新政府軍の監視所にしていたというし……時は流れるというやつなのかな?

 感慨深い顔をしながら三百六十度近く視界が開けている様子を見渡す健斗に対し、琴音と美音は手摺に近づき崖の下を眺めては、キャイキャイとはしゃいでいるようで、そんな二人に健斗は思わず肩をすくめてしまう。

 ……ったく、もう少し日本の歴史を体感しようよ……。

「きゃっ!」

 ため息を吐きながら海面に浮ぶ白波に視線を向けた途端、背後から琴音の小さな悲鳴が聞こえ振り向くと、崖の下から吹き上げてくる海風に琴音のワンピースの裾が豪快に捲れあがっており、隣で同じように美音のスカートも捲くれている。

 これまた絶景……いや、そんな事を言っていたら琴音にここから突き落とされてしまうかも知れんが、男としてはつい見てしまうスカートを押さえる女の子の構図というのは、なんでドキドキさせられるのだろうか……。

 時間にして数秒だろうか、琴音の顔が健斗を向く前に視線を逸らすが、健斗の脳裏にはしっかりとピンク地にイチゴであろう模様のあしらわれた琴音のパンツが焼き付けられた。

「――――見た?」

 次に視線を向けた時にはスカートを押さえつけながら、頬を膨らませ口を尖らせて、まるでアヒルのような口をした琴音がギロッと健斗を見据え、隣では美音も頬を赤く染めながら恨みがましい視線を健斗に向けている

「何が?」

 ヤベ、口元がニヤけてしまう……。

 必死にシラをきろうとする健斗だが、脳裏に焼きついた光景にその顔は思わずゆるんでしまい、その表情から見たというのは明らかだ。

「やっぱり見たんでしょぉ、健斗のエッチィ……美音ちゃん! これがコイツの本当の姿だからね? 見てくれに騙されてはダメよ?」

 見てくれって……どういう意味だよ……。

「エッと……でも、あたしはレギンスを履いているから別に……」

「あぁ、美音ちゃんの裏切りものぉ、あたしだけ健斗にパンツを見せちゃったの? ぶぅ、こうなったら健斗に慰謝料を払ってもらうしかないわね?」

 下唇と突き出しながら健斗の顔を睨みつける琴音から物騒な言葉が出てきて、美音と二人顔を見合わせてしまうと、その視線は先ほどの茶屋のような休憩所に向く。

「ここの『ツブ焼き』が美味しいのよね? 精神的ショックから立ち直るためにはそれを食べないとダメだわ……健斗、慰謝料としておごってちょうだい」

 イジケ顔の琴音がそう言うと健斗は心の中でホッとため息を吐き出し、ヘェヘェと頭を掻きながらその茶屋に二人を誘って歩き出す。

「先輩、あたしも……そのぉ……おごって?」

 一緒に歩きはじめた美音も、少し遠慮深そうにそう言い健斗の顔を見上げてくる。

「了解、琴音にだけおごるなんてできないでしょ? 当然美音ちゃんにもおごってあげますよ」

 ニコッと微笑む健斗に美音はホッとしたような顔をするが、前を歩いていた琴音は、どこか不満げに頬を膨らませていた。



「次はここよ?」

 三人が向かったのは『五稜郭タワー』で、観光客の列に琴音は展望券を買い求めに並ぶが、健斗は少し不満げな顔をしている。

 確かに定番の観光スポットではあるけれど、大学の友達などに聞くとあまりいい話を聞いた事がないんだよね? 小さい時に一度昇った記憶があるんだけれど、その記憶と噂が完全にシンクロしているのだから間違いないだろう。

「ほら、そんなところでボケッとしていないで、エレベーターに乗るわよ」

 しかしそんな不満顔をする健斗など関係なく琴音は展望券を配ると、案内係の女性に従いながらエレベーターの列に加わる。

「展望二階です、下りのエレベーターは……」

 エレベーターガールとでも言うのだろうか、結構美人のガイドさんの案内に、開いた扉を抜けると、目の前には遮蔽物らしいものがない景色が広がる。

「すごい、下から見た時はそんなに感じなかったけれど本当に高い位置にあるのね?」

 やや興奮気味の美音はトトトと小走りに窓際まで近寄ってゆく。

 なんだか小さい女の子のような反応だな? 美音ちゃんがそんな反応を示すなんて思ってもいなかったよ。高校の時の彼女のイメージはどちらかというとおしとやかと言う感じだったんだけれど、どうやらそのイメージは訂正しておいた方がいいかもしれないな?

「ほぉ、これは……さすがに市内では一番高い建物と言われるだけあるなぁ、視界を遮るのは遠くに見える山ぐらいで、市街地は一望できるな? これは俺の持っていた五稜郭タワーの偏見を訂正しておく必要性がありそうだ」

 前に健斗が見たタワーからの景色とは雲泥の差である。前のタワーからは『五稜郭』の特徴でもある星型はほとんど見る事ができず、本当にその格好をしているかを疑ってしまいそうなものだったのだが、いま健斗たちの目の前にはしっかりとその星型が見る事ができる。

「でしょ? なんて、あたしも新しいタワーになってからは昇った事がなかったんだけれどね? でも、本当に絶景ね?」

 まるで自分が褒められたように鼻をひくつかせながら、まるで窓におでこをつけてしまいそうな勢いで覗き込んでいる美音の隣で、同じように景色を堪能している。

「それで? 琴音のデータベースの中にはこの『五稜郭タワー』のウンチクはあるのか?」

 少し意地悪い顔をしながら琴音に声をかけると、少し考えたように視線を上目遣いにし、人差指をアゴに指を置きながら話しだす。

「えと……五稜郭タワーは五稜郭築城百周年を記念して作られたもので、昭和三十九年に完成したのが旧タワーで、高さが六十メートル展望台の高さは四十五メートルしかなかったの。そのため五稜郭の星型がしっかり見る事が出来ずに、口の悪い人からは『北海道三大ガッカリポイント』なんて言われた事もあったぐらい」

 チラッと琴音が健斗に視線を向けてくると、思わず苦笑いを浮かべてしまう。

「まぁ、そういう人が多かったせいなのか、わからないけれど平成十八年に新しいタワーが完成して今に至ると言う事」

「新しいタワーは、避雷針までの高さが百七メートル、展望台の高さが二階で九十メートル、一階が八十六メートルあって、旧タワーの倍の高さがある」

 新しいタワーの情報が不足している琴音の説明を補足するように健斗が話しだすと、美音だけではなく、琴音までもが驚いた顔で覗き込んでくる。

「なんで健斗がそんな事を知っているの?」

 不思議そうな顔をする琴音に、健斗は入口でもらったパンフレットを差し出すと、合点がいったというような顔をする。

「新しい情報もインプットしておいてね? 琴音の観光ツアーはまだまだこれからなんだから。俺だって琴音につれて行ってもらいたい所もあるしね?」

 ウィンクをしながら言う健斗に対して、琴音は少し照れたように頬を赤く染め、その様子を見ていた美音は寂しそうな表情を浮かべる。

「な、なんであたしが健斗のための観光案内をしなければいけないのよ」

 口調は文句を言うようだったが、琴音のその顔は少し嬉しそうにも見える。

「まぁ、気が向いた時でいいから……それよりも、ここから見える景色で何かない?」

 まだ赤味を残す頬を膨らませながらも、琴音は顔を美音に向ける。

「えと、まず眼下に広がるのが有名な特別史跡『五稜郭跡』で国からも指定を受けていて、国民的遺産として保護、保存の措置が取られているの。春にはお堀を埋め尽くすように桜が咲いて桜の名所としても有名なの」

 緑に覆われる五稜郭を見下ろしながら琴音は説明を再開させる。

「ここを設計した蘭学者である武田斐三郎(たけだあやさぶろう)でさえ、この形は設計図上でしか知らなかったらしわよ? まぁ当然だけれどね?」

 気のせいなのか、琴音の説明を聞いているのが、美音ちゃんだけではなく、周りの観光客も聞いているようにも思えるのですが?

「視線を上げて遠くに見えるのが函館の北に連なる山々で、その中腹に新中野ダムや、あたしたちの住んでいる黒石家や明和大があるの。最近では函館市も多分にもれず住宅街は市外に向かう傾向があって、こうやって見ても丘陵の中腹まで宅地化が進んでいるのがわかるわね?」

 うっそうと緑が生い茂っているかと思えば、ゴルフ場や色とりどりの屋根が丘陵の中腹にまで広がっている。

「南を向けば津軽海峡が広がっているでしょ? さっき立待岬から見たのと同じだけれどここから見るとまたちょっと様子が違って見えるわね? その奥に見えるシルエットが下北半島、美音ちゃんが住んでいる内地……本州になるの」

 少し顔をしかめる琴音に、健斗は首を傾げる。

 たまに琴音って寂しそうな顔をするよな? とくに本州の話しとかになると……聞いちゃいけないと思うから聞かないけれど……。

「その手前にあるのが函館競馬場と、競輪場……ちょうど飛行機が降りて来たわね? ここからも函館空港の滑走路がしっかりと見えるでしょ?」

 真正面と言ってもいい場所に飛行機が降りてゆくのが見え、少し不思議な感覚に陥るが、それだけこの建物が高いという事を示しているのだろう。

「南側からは函館の中心部になるの、そしてその頂点にあるのが……」

「函館山ですよね? この間先輩に案内されて一緒に行きました。あの夜景は本当に綺麗だったなぁ……写真とかでは何度も見たけれどやっぱりあの景色はライブで見ないとわかりませんよね? 香港やナポリと一緒に世界三大夜景の一つというのもうなずけます」

 嬉々とした顔をする美音に対し、琴音はなぜか曖昧な笑みを浮かべている。

「う、うん……そうね? あの夜景は観光で来たのなら絶対に見逃せないポイントではあるけれど……まぁ、綺麗だったでしょ? そして西側、こっちに見える海は函館湾で、弧を描いている海岸線の先には男子修道院である『トラピスト修道院』があって、その先は北島三郎さんの出身地である知内や、木古内に続くの……」

 話を逸らすように言う琴音に健斗と美音は首を傾げるが、ドンドンと先に進む琴音に二人はついてゆき、ちょうど展望台を一周する。

「さて、ここにある坐像は誰だか知っているでしょ?」

 展望台に置かれているブロンズの座像に琴音が視線を向けると、美音の表情がパァッと明るくなり、今にもその像に抱きつかんばかりの勢いで近寄る。

「この人は『土方歳三』ですよね? 新撰組の鬼の副長と呼ばれた」

「ご名答。明治元年、榎本武揚らと共に旧幕府軍を引き連れ現在の森町に上陸をした土方歳三は、その後この五稜郭を占領し蝦夷共和国陸軍奉行並として指揮を執っていたけれど、明治二年新政府軍の進撃に戦死してしまうの、享年三十四歳」

 どこからともなくホォと感心した声が聞こえてくる。

「この地にいた時の土方歳三は、京都の池田屋事件などの頃の鬼気迫るような感じはなかったそうで、部下に差し入れをしたりして、結構慕われていたみたいで、有名な土方歳三の写真もこの地で撮られたらしいの、鬼というよりも穏やかな顔をしているように見えるわね?」

 琴音の言葉に美音もうなずき、やはり周囲の観光客の何人かも同じようにうなずいている。

「じゃあ、下に行って見ましょう? 展望二階にはシースルーフロアーと呼ばれる所があって、ガラス張りのそこから真下が眺められるらしいわよ?」

 少し照れたような顔をして琴音は階段を下に降りる。

第二十四話へ。