第二十四話 いさり火



=T=

「いさり火まつり?」

 観光を終えて戻ってきた三人の事を出迎えたのは、不思議と上機嫌な知果で、その上機嫌の元が知果の着ている浴衣だった。

「うん、今日と明日の二日間。今日の夜は花火が上がるのよ?」

 薄ピンク色に金魚柄の浴衣姿の知果は、色気というよりも可愛らしさの方が強調されているため、健斗がその姿にドキドキという胸の高まらせる事はない。

 だよな? 中学校一年の女の子の浴衣姿を見てドキドキしたら、それは危ない人になってしまうよ……ヘンな意味ではなく客観的に見て可愛いとは思うけれどね?

「今日だったっけ? 忘れていたよぉ」

 履いていたミュールを脱ぎ残念そうな顔をする琴音に、美音は首を傾げながら視線を向ける。

「正確には『湯の川温泉いさり火まつり』といって、三百年以上の歴史を持つ湯の川温泉が、お客様のためにと毎年八月の第三土曜日に行っているものなの。花火大会以外にも、灯篭流しや、陶器市なども行われるのよ?」

「それで、毎年ウチの前に縁台を出してみんなで花火を見るというのが我が家流」

 補足するように言う知果の台詞に美音はやっと納得したような顔をする。

「そう、ちょうどこの家の目の前に花火が上がるのが見えて綺麗なのよ? 会場で見るのよりは少し迫力に欠けるかもしれないけれど、でも、これで函館の夏も終わりなのかなという感慨深いものを感じるわね?」

 少し寂しそうな顔をしながらため息混じりにいう琴音に、再び美音の首が傾げる。

「夏が終わりって……お盆が終わりじゃなくって、ですか?」

「そっか、美音ちゃんは内地の学校だから不思議に思うかもしれないわね? 北海道の学校の夏休みというのは八月下旬に終わるの。今年は十九日までで、二十日から学校がはじまるのよ、って、思い出したら憂鬱になってきたぁ」

 苦々しく顔をしかめる琴音につられるように知果の表情も、さっきまでの笑顔をなくしてウンザリしたような表情を浮かべている。

 まぁ、俺は始まるのが遅かったぶん、九月まで夏休みだからいいんだけれどね?

「そうなんだぁ、でもそれって不公平じゃない? あたしたちは八月いっぱいまで夏休みがあるのに、北海道だからって休みが短くなるなんて」

 同情するような顔をする美音に、琴音はニコッと微笑む。

「そのぶん冬休みが長いの。雪が降るでしょ? そのせいだと思うけれど、クリスマスの頃から成人の日の週まで一ヶ月近く休みだよ?」

 苦笑いの琴音が言うと、今度は少し羨ましそうな表情を浮かべる美音。

「ねぇ、琴姉ちゃんは浴衣を着ないの? お母さんも浴衣に着替えていたよ?」

 うっく……琴音の浴衣姿に深雪さんの浴衣姿……ちょっとソソられるかもしれないなぁ。

 思わず顔をほころばせてしまう健斗に対して、美音は口を尖らせる。

「あら? 琴ちゃんたちやっと帰ってきたのね?」

 リビングの扉が開き、そこから姿を現したのは黒地に蝶の柄の入った大人っぽい浴衣を着た深雪で、薄化粧に髪の毛をアップにしたその姿は大人の色気を惜しげもなくふりまいている。

 いろっぽ……これぞまさに大人の色気というやつだろう……格好のせいなのか静々としたその振る舞いなんてドキドキもんだぜぇ。

 ボヤッとした顔をして深雪に見とれている健斗の事を、琴音と美音はお互いに不機嫌そうな顔をして見据えており、その二人の様子を意地悪い顔をして知果が見上げる。

「じゃあ着替えましょうか? 琴ちゃんは去年のと同じのでいいでしょ? 美音ちゃんはあたしのやつを貸してあげるから着てみない?」

 よほど意外だったのであろう、美音は驚いたような顔をして深雪の顔を見ると、その先には優しく微笑む深雪の姿があり、その表情に満面の笑みを浮かべる。

「ハイ、お借りします!」

 そう言いながら深雪と共に二人は二階にある深雪の部屋に入ってゆく。



「おにいちゃん、炭に火付いた?」

 広い庭先でバーベキューの準備をする健斗と、それを手伝う知果。既に周囲には夜の帳が降りはじめており、部屋の明りとランタンの明りが眩しくなりはじめる。

「もう少しだ」

 パタパタとうちわであおぎながら炭に火を移す作業を繰り返す健斗の額には、うっすらと汗が浮かび上がっている。

 だんだん腕がダルくなってきたぜぇ……一年に一回しか使っていないと言っていたから炭も少し湿気ているんじゃないかな? なかなか火が移らないよ……。

「おまたせぇ、知果ちゃん手伝うよ?」

 玄関先から元気な琴音の声が聞こえてくると、健斗は無意識に顔を上げる。

 ほぉ、可愛いじゃないか……。

 淡水色地に蘭菊柄の浴衣にアザミ色の帯という格好の琴音は、普段のポニーテールではなく髪の毛をアップにしており、その姿は新鮮で思わず見つめてしまう。

「じゃあ、あたしは健斗先輩のお手伝いをしますね?」

 続いて出てきた美音は、紫地に藤の花柄の入った浴衣に、オレンジ色の帯という格好で、琴音に比べるとシックながらもその雰囲気によく似合っている。

 美音ちゃんもなかなかどうして……可愛いんじゃないか?

「健斗先輩、お手伝いしますよ」

 長くサラサラの髪の毛をまとめ上げ、後れ毛を手で押さえながら健斗の顔を覗き込んでくる美音に、その胸はドキッと高鳴る。

 色っぽい……琴音と同い年のはずなのに、なんでこうも雰囲気が違うんだろう……琴音はどちらかというと可愛らしい雰囲気なのに対し、美音ちゃんは大人っぽい雰囲気というのかなぁ、恐るべし浴衣マジック。

「うん、でも、もう大丈夫だよ」

 ドキドキを隠すように健斗は炭に移りはじめた火に視線を向けると、そこにはボンヤリとした火が光りはじめていた。

「あ、本当だ……すごいですね健斗先輩。色々できるんだぁ」

 大人っぽいイメージながらも、はしゃぐようにバーベキューコンロを覗き込む美音に、思わず健斗は微笑んでしまう。

 高校の時には気がつかなかったけれど、美音ちゃんも結構表情がコロコロ変わるな?

「なにを美音ちゃんの浴衣姿にだらしない顔をしているのかしらねぇ?」

 パタパタと見よう見まねにうちわをあおぐ美音の事を、優しい顔をして見つめている健斗に、琴音の意地悪い声が聞こえてくる。

「なっ」

 しかし完全には否定できない健斗は言葉を詰まらせてしまい、言葉の通り意地悪い顔をして見つめてくる琴音を見つめる。

「ウフフ、あたしのやつだからちょっと地味かもしれないけれど、似合っていると思うわよ?」

 バーベキュー用の食材を持ちながら、深雪は微笑み健斗の視線が向いていた事に気がついた美音は、見えるうなじまでも赤く染めている。

「うん、美音ねえちゃんも琴音ねえちゃんもすっごく似合っているよね? ねぇ、おにいちゃん、ボクは? ボクの浴衣姿はどぉ?」

 チョンと袖をつまみ、その場でクルリと一回転をして、その姿を健斗に誇示するように見せる知果にウンウンとうなずくと、その顔を少し赤らめながら嬉しそうに顔をほころばせる。

「考えてみれば健斗って恵まれているわよね? こんなに可愛い女の子たちに男一人で囲まれちゃって? 嬉しいでしょぉ」

 細い指先で健斗の鼻先を突っつく琴音は、意地悪い顔をしてその顔を覗き込んでくる。

 確かに他の男連中から見れば羨ましがられるだろうな? 妹系というのだろうか、知果だって結構可愛い分類だと思うし、美音ちゃんは既に実績があるほどの美少女だし、深雪さんにおいては大人の色気なのだろう、妖艶な魅力がありしかもかなりの美人。

「ん?」

 意外な反応だったのだろうか、琴音は顔を覗き込んだままキョトンとした顔をしている。

 ……こいつも結構可愛いんだよな? バイト先にファンが多いって聞いたけれどそれも納得できるかもしれない……なんていうんだろう、素直というのかな? 感情がはっきりと表情に表れて悔しい時は悔しい顔を、嬉しい時は嬉しい顔を、悲しい時は悲しい顔をする……不思議と最近こいつと一緒にいるのが当たり前のような気にすらなってきた。

「まぁな? 悪い気はしないけれど肉体労働は俺の役目になるんだろ?」

「当たり前じゃないのよぉ。お・と・こ・の・こ、なんだから。それとも健斗はか弱い女の子に力仕事をさせるつもりなの?」

 口を横に広げニヒヒと笑う琴音に、健斗はため息を吐き出す。

 前言撤回したくなるんですけれど……まぁ、女の子に力仕事をさせるまで俺も落ちぶれてはいないつもりでいるけれどね?

「わぁったよ、飲み物を持って来ればいいんだろ?」

 玄関先に置かれていた大き目のクーラーボックスには、保冷剤に包まれた飲み物が大量に入っており、見た目通りに重いのは歴然としている。

「さすがぁ、男の健斗ね? ス・テ・キ」

 わざとらしく両手を胸の前で合わせる琴音に、とりあえず健斗はベェッと舌を出し玄関に向かうと、後ろから美音がついてくる。

「あたしもお手伝いしますよ」

「いや、美音ちゃんには無理だと思うよ……力もそうかもしれないけれど、その格好であれを持ち上げるのはたぶんムリだ。気持ちだけ貰っておくよ」

 俺の予想だとあの重さはかなりのものだと思うし、浴衣を着た格好で力仕事はムリだよ。

 小さく手を上げて遠慮の意を伝える健斗は、力をこめるようにTシャツの袖を肩まで捲り上げると、玄関先に置かれていたクーラーボックスの取っ手を持ち、一気に持ち上げようとするが、あまりにものその重さにピクリとも動かない。

 おいおい、どんだけ入れてあるんだ? って……これじゃあ重いよ……缶ビールと缶チューハイ、缶ジュースが大量にって……重量挙げをするんじゃないからぁ。

 クーラーボックスのフタを開け、大量に入っている中身を確認した健斗は軽く脱力してしまい、深いため息を吐き出す。

「こりゃ気合を入れないと持ち上がらないなぁ……美音ちゃん、ちょっとそこをどいていてくれるかい? 自分でも真っ直ぐ歩けるかちょっと心配だ」

 指をボキボキと鳴らし、再びクーラーボックスに対峙する健斗はゆっくりと息を吐き出し、吸い込むのと同時に腕に力をこめると、さっきまで動かなかったそれがゆっくりと持ち上がる。

「す、すごい健斗先輩」

 完全に持ち上げる事ができず、クーラーボックスを二十センチぐらい浮かしたまま、ヨチヨチと前に進む健斗の事を、驚いたように目を真ん丸くした美音が見守る。

「け、健斗? 大丈夫なの? 本当にそれごと持ってくるなんて」

 ――人に話を振っておいて、そういう事をいわんでくれ……くぅっそぉぉぉぉっ!

 既に健斗の肩の筋肉は普段の倍近くまで盛り上がっているようにも見え、数メートル先に見える目的地点であるガーデンテーブルの横まで向かい、その力を緩めるとズンと軽く地響きを立てながらクーラーボックスは置かれ、健斗は肩で息をしている。

「すっごぉ〜いおにいちゃん、ボクなんてまったくビクともしなかったのに、それを持ち上げるなんて力持ちなんだぁ」

「ほんとぉ、飲み物を入れたは良いけれど、どうやって動かそうか悩んでいたのよね? さすが健斗クン、男の子ねぇ」

 おいおい、計画性を持って物を入れるようにしてくれますか深雪さん……おかげでちょっと腰が痛いじゃないですかぁ……。

 縮みこんでしまったのではないかと思うような背筋を伸ばすと、背中でゴキゴキという骨がきしむような音が聞こえ、腰に軽く痛みを感じる。

「たいしたもんねぇ健斗、まさかあれを持ち上げるとは思わなかったわよ……」

 関心顔をする琴音に健斗は少し照れ臭くなりながらも、腰をトントンと叩く。

「おにいちゃん、ボクが腰トントンしてあげるよ? この辺?」

 トトトと知果がよってくると背後に回り、小さい拳で健斗の腰をトントンと叩き始め、その様子に琴音は目を細めながら見つめている。

「さぁ、健斗クンはもう座って待っていてね? これからはあたしたち女たちが腕を振るうわよ。琴音ちゃんに美音ちゃん焼くのを手伝ってくれるかしら?」

 すっかり暗くなった庭先は部屋からこぼれてくる光と、バーベキューコンロの炭の明りが織り交ざっており、楽しげな雰囲気が徐々に出来上がりつつある。

「これからも、ずっとこういう風にみんなでいたいなぁ。そう思わないおにいちゃん」

 いつの間にか健斗の隣にチョコンと座った知果は、満面に笑みを浮かべながらバーベキューの下準備をする三人に視線を向け、すぐに健斗の顔を見上げてくる。

「あぁ、そうだな? 毎年こうやってみんなでバーベキューをするのも楽しくっていいかもしれないよ……毎年このメンバーでできるといいな?」

 美音ちゃんは東京だから毎年は難しいかもしれないけれど、でも、毎年やりたいな?

「さてと、お肉を焼くわよぉ、遅れると無くなっちゃうぞぉ」

「あぁ、ちょっと待ってよぉ、ボクは生ラムがいいよぉ、琴ねえちゃん一人で取らないでぇ」

「早い者勝ちだよぉ〜」

 ホント楽しいよな? ここに来るまでは一人で飯を食うのが当たり前だったのに、今はみんなと一緒に食事をするのが楽しくって仕方がない。

「ハイ、健斗クン」

 肉を取り合う琴音と知果、それを仲裁するように困り顔を浮かべている美音の三人をボンヤリと眺めていると、不意に頬に冷たい感触があたり健斗は飛びのいてしまう。

「うぁぁぁ、って、深雪さん」

 頬についた水滴を拭いながら顔を向けると、深雪がニッコリと微笑みながら缶ビールを健斗に差し出している。

「ウフ、そんなに驚く事ないじゃない? こういう雰囲気だとやっぱりこれでしょ?」

 重い思いをしただけあってキンキンに冷えている缶ビールを何気なく受け取り、缶に着いている水滴を見ていると急に喉に渇きを覚える。

 もしかして俺って飲兵衛の傾向があるのかなぁ……あの合宿以来、深雪さんの晩酌に付き合うようになったんだけれど、以前は不味いと感じていたビールが最近では美味く感じるようになってきた……まぁ、まもなく二十歳だし良としておこう。

 厳密に言えばまだいけない事なのだが、健斗はそう自分に都合がいいように理解をすると、プシッとビールを開ける。

「みんなも取って? 乾杯しましょうよ」

 深雪も同じくビールを、知果はジュース、琴音は色鮮やかなチューハイの缶を迷う事無く取り上げるが、唯一美音だけは何にしようかと迷っている。

「美音ちゃんもチューハイにしたら? ジュースみたいで美味しいよ?」

 少し躊躇しながらも琴音の勧めもあってなのか、同じチューハイを取り上げる。

「いいかしら? 美音ちゃんは明日東京に帰る事になるけれど、これからは遠慮なくこの家に遊びに来てね? もうホテルを予約する必要なんてないわよ?」

「うん、ボクも賛成だよ? 美音ねえちゃん来年とは言わないで冬にも来てよ、雪があって大変かもしれないけれど、冬のこの街もすごくいいから、約束!」

 二週間という僅かな期間だったが、すっかり美音は黒石家に溶け込み、深雪や知果が別れを惜しむのも納得ができ、健斗もウンウンとうなずいている。

「そうですね? でも、あたし決めているんです」

 意を決したように言う美音に、みんなはキョトンとした顔をしている。

 決めているって何をだ? まるで何かの決意表明のようではあるが……。

 キュッと閉じられた可愛らしい美音の唇が、次にどう動くのか固唾を呑んで待つ健斗、その隣で琴音も真剣な顔をして見つめている。

「あたし、明和大を受験します……東京を離れてこの街に住みます……」

 あまりにも突拍子のない美音の言葉に、その場にいる人間全員が唖然とした顔をしてニコッと微笑んでいる美音の顔を見据える。

「正直に言って、ここに来るまでその決意もあやふやだったのですが、実際に二週間ここにいてはっきりと決心がつきました」

 なぜか美音の視線は健斗ではなく、その隣にいる琴音に向けられており、その視線に琴音はかなり動揺しているようにも見える。

「最初は健斗先輩がいる街だからと思っていたんですが、それだけじゃあないんです。深雪さんや知果ちゃん、他にもみんな良い人ばかりで、あたし自身もこの街に暮らしてみたいという気になったんです。小説を書くにも良い環境だと思いますし、何よりもやっぱり健斗先輩の傍にいたいというのがあたしの本音かもしれないですけれどね?」

 頬を染める美音に対し、深雪と知果の両方から冷やかしの声が健斗に向けられるが、いつもであれば真っ先に茶化してくるはずの琴音からは一言も発せられない。

 なんだ? なんだって琴音はそんなに辛そうな顔をしているんだ?

 不審に思った健斗が隣の琴音に視線を向けると、うつむきながら顔をしかめている。

「だったら話は早いわよ。明和大に合格が決まったらウチに連絡しなさい。部屋はまだ開いているからここに下宿すればいいわ」

 しかし、琴音のそんな様子に気がつかず深雪はドンドンと話を先に進めてゆき、それに賛同した知果も諸手を挙げるように喜びを表している。

「じゃあ、美音ねえちゃんが早く来る事ができるように、かんぱぁ〜い!」

 突然の乾杯の音頭を取る知果に、みんなは慌てて手に持っていた缶を合わせ、健斗もまだ元気のないように見える琴音と缶を合わせる。

「どうした琴音、具合でも悪いのか?」

 心配そうに顔を覗き込む健斗に、琴音は作ったように笑みを浮かべるが、さっきまでの元気が戻っているようには見えない。

「ウウン、大丈夫……健斗、美音ちゃんの所に行ってあげなよ、彼女今日で終わりなんだから、最後の夜ぐらい二人でのんびりしたら? ね? ほら、美音ちゃんも待っているから」

 背中を押すようにする琴音に、健斗は困惑したような顔をするが、美音の笑顔を目の前にすると先ほどの衝撃的と言ってもいいであろう決意の真相を聞きたくなる。

「美音ちゃん、本気なの? 明和大を受けるって」

「ハイ、本当にずっと悩んでいたんですけれど、ここに来て踏ん切りがついたというか、決心する事ができました……」

 チラッと美音の視線が知果と談笑している琴音を向くが、健斗はそれに気がつかない。

「でも、親御さんは? 賛成してくれているの?」

 確か三人兄妹の長女だというのを聞いた事がある。女の子一人、しかも長女をこんな遠くの街の大学に通わせるのを親が許すのか?

「ハイ、今回の旅行も親には大学の見学と言って許可を取ったんです」

 可愛い顔をしながらも、結構したたかな美音に健斗は思わず苦笑いを浮かべる。



=U=

「じゃあ健斗先輩……」

 夏休みのピークは過ぎているものの、まだ混雑している函館空港の出発ロビーには、しょんぼりしたような顔をした美音が健斗の顔を見上げている。

「うん、美音ちゃんも元気で……俺も東京に行く事があったらメールをするよ」

「ハイ、お待ちしています」

 勤めて笑顔を浮かべようとする美音だが、かえって辛そうに見える。

「皆さんにもよろしく伝えておいて下さい。琴音ちゃんとか……」

 夏休みの宿題が終わっていない知果とサボらないようにと監視役の深雪、バイトに行くという琴音は空港まで美音の見送りに来ず、結果健斗一人で美音を見送る事になる。

 みんなヘンな気を使っているんじゃないか?

「あぁ、伝えておくよ」

 会話会話の間合いが広がりはじめ、何とか沈黙を作らないようにしていたが、やがて二人の間にも話題が尽きてしまうと、少し潤み始めている美音の瞳が健斗を見上げる。

「エッと……健斗先輩、とうとうあたしの事を呼び捨てにしてくれませんでしたね? あたし今回の旅行で先輩に呼び捨てにしてもらうのを目標にしていたんですが、叶いませんでした」

 素直に残念そうな顔をする美音はせがむような表情を向ける。

「っと……いきなりだとどうも恥ずかしいなぁ……心の準備ができていないというか……」

「琴音ちゃんは…………琴音ちゃんの事は先輩呼び捨てにしています……」

 少し大きな声でそう言う美音の瞳から一粒の涙がこぼれ落ち、その瞳は恨みがましく健斗の顔を見据え離そうとしない。

「だから…………先輩に呼び捨てにされるように頑張ります……あたしも健斗先輩の事を『健斗』って呼べるように頑張ります」

 美音ちゃん……。

『東京行き……』

 ロビーに登場の案内放送が流れ、大きな窓の向こう側では列を作った乗客が飛行機に乗るべきボーディングブリッジに向かい始めている。

「じゃあ、あたしは帰ります……健斗……さん、また!」

 そう言ったかと思うと、いきなり美音は抱きついてくると、柔らかくも温かい唇を健斗の唇に押し当て、振り返らずに手荷物検査場の中にその姿を消す。

 み、美音ちゃん?

 あまりにも一瞬の事で、一体何が起きたのかすぐに理解できなかった健斗は、いまだに残る柔らかな唇の感触を思い出すように自らの唇を指で触れる。



『無事に東京に着きました!』

 そんなタイトルのついたメールが健斗の携帯に届いたのは、まだ残っている宿題にうんざり顔をした知果と一緒にそうめんを食べている時だった。

〈二週間ぶりの東京は暑いですよぉ、やっぱり北海道の方がいいかもぉ(困)。行きの飛行機はすごく時間を長く感じたのに、帰りの飛行機はあっという間に東京に着いちゃったような感じがします。もしかして風に乗って飛んだのかな(笑)? 本当に函館にいた二週間は楽しくって仕方がありませんでした、今度は大学に受かって四年間いたいですね?〉

 既に夕方という時間になりながらも、まだ電気をつけていない部屋の中は薄暗く、携帯の液晶の光に健斗の無気力な表情が浮かび上がっている。

〈みんな良い人ばかりで、そんな環境の中で暮らす事ができている健斗先輩の事がすごく羨ましいですね? でも、心配事がないわけじゃあないですよ?〉

 心配事?

〈だから、先輩にあたしのファーストキッスを捧げました……あたしの気持ちをもう一度伝えるためにも……ちょっとずるい方法かもしれないけれど、でも、あたしの気持ちはあの時と変わりません、いえ、あの街で先輩に再会して、もっと好きになりました。失礼な言い方かもしれませんが、こっちにいる時よりも健斗先輩の表情が輝いていたように感じました。それは、先輩の心の変化によるものなのかな? だとしたらちょっと複雑な気持ちです。でも、あたしは諦めません、自分の気持ちに素直になるために……〉

 自分の気持ちに素直になる……かぁ。俺の素直な気持ちは一体どうなんだろう……。

 何度読んだかわからないメールを閉じて、携帯をベッドに放り投げると深いため息を吐き出し、漁火が灯りはじめた夜景の見える窓際に近付く。

 俺は素直に美音ちゃんの気持ちを受け入れる事ができるのか? 初めて美音ちゃんに告白された時は、なんとなく受け入れてしまった。でも、今の俺の気持ちはその時と同じなのか?

 まるで渦巻くような感情に健斗の眉間にシワがより、痛みに似た感覚が胸にはしる。

 確かにずるいかもしれないよ……あんな事をされたらいやでも美音ちゃんの事を意識するに決まっているじゃないか……なんで? だったらなんでこんなに罪悪感に駆られなければいけないんだ? 俺が美音ちゃんの事が好きならば、こんなに罪悪感に駆られるはずがないだろ?

 漁火に視線を向けたまま再び自分の唇に指をあて、函館空港での別れ際に生まれて初めて感じた柔らかな唇の感覚を思い浮かべていると、窓の外からこの辺りでは聞いた事のない大きな音をした排気音が近づいてくる。

 なんだ? こんな時間に……この音は……。

 多少車の知識のある健斗には、この爆音は暴走族が車をいじって発てているような安っぽい音ではない事に気づき、窓を開けてバルコニーに駆け寄ると、見覚えのある流線型の赤いスポーツカーが家の前に横付けされる。

 この車は、確か琴音がバイトをしているファミレスの小説家の先生の車……。

 バルコニーのアルミ製の桟をギュッと握り締める健斗の眼下に止まったスポーツカーの助手席側(右)から降りてきたのは、長袖のパーカーにデニムのハーフパンツ、髪の毛をいつもと同じようにポニーテールにした琴音で、それをエスコートするように運転席側(左)から降りてきたチェックのカジュアルシャツを着た男が琴音の手を引く。

「アイツは確か、明和大のmasの元小説班の班長で、二瓶とかいう奴だったよな? 『ふうりん』で琴音と一緒にバイトをしている男だ……なんでアイツと一緒にかえって来るんだ? 自転車で行ったんだろ? なんだって車で帰ってくるんだよ」

 桟を握っている健斗の手に力が込められると、そこからギリッという音がする。

「本当に大丈夫なのかい?」

 麓から吹き上がってくる風に乗って、二瓶の声が聞こえてきて、健斗は思わずその声に聞き耳を立ててしまう。

「ハイ……えと、二瓶さんのお心遣いは嬉しいですが、明日は学校がありますし……バイトに行く時は、我が家の運転手に任せますから……」

 ハハッとおどけるように言う琴音に対して、二瓶の声はあくまでも冷静だった。

「それは、茅沼君の事かな?」

 チラッと健斗のほうに目が向けられたような気になり、健斗は無意識の身体を隠してしまう。

 な、なんだって俺が隠れなければいけないんだよ……バレたくないのならそんな派手な音を立てる車に乗らなければいけないじゃないか?

 まるで覗くようにそんな二人の様子に顔を向ける健斗だが、既に二瓶の視線は琴音に向いており、その手は馴れ馴れしくも琴音の肩に置かれている。

 のやろぉ、誰も見ていないからって馴れ馴れしくするなよな? セクハラだぞ!

 あまりにもの憤りに健斗は部屋を飛び出し、一気に階段を駆け下りると玄関の扉を開く。

「け、健斗?」

 息を切らし必死の形相を浮かべている健斗に、琴音は驚いたような表情を浮かべながらも、その隅にはどこかホッとしたような色を見せている。

「やぁ、茅沼君、創作活動は進んでいるかい? そろそろ秋のシーズンを迎える頃だろ? 新作を何本か書いておかないとキツイ頃だと思うけれど?」

 鼻持ちならない言い方をする二瓶に、健斗は遠慮なく顔をしかめ、敵を見るような険しい表情を向けると、その不穏な空気に琴音がその間を割って入ってくる。

「えと……本当に二瓶さん今日はありがとうございました」

 ペコッと頭を下げる琴音に、二の句が告げなくなった二瓶は舌打ちをしながら車に乗り込み、忌々しそうに健斗の顔を睨みつける。

「困った沢村さんのためならいつでも声を掛けてくれたまえ……今日みたいにね?」

 含めたような言い方をしながら、二瓶は赤いスポーツカーを急発進させ、そのテールランプを二人して呆然と眺める。

 今日みたいに? 困ったら声を掛けろだぁ? 琴音が困っているのか? なんだってそういう事を琴音は俺に言ってくれないんだ? 俺だってお前が困っていたら助けてやるぐらいできるぞ? なんで遠慮をするんだよ! 同じ屋根の下に一緒に暮らしているんだろ? なんで俺に話をしてくれないんだよ……お前の中での俺はそういう存在なのか?

 うつむく琴音に対して、わけの分からない憤りを感じる健斗は、まるで吐き捨てるように視線をそむけ、無言で琴音に背を向ける。

「け、健斗……誤解だよぉ……」

 背中に戸惑ったような琴音の声を聞くが健斗は振り向く事無く、足音を大きくしながら階段を上って行くと、まるで取り繕うように琴音の小さな足音がついて来る。

 何が誤解なんだ? そんな誤解されるような事をしていたのか?

「ちょ、ちょっとぉ」

 困り顔の琴音は、無言で部屋の中に入り込む健斗に続いて一緒に入ると、電気のつけられていない部屋の中は薄暗く、バルコニーに続く窓は大きく開け広げられたになっており、その様子に息を切らして飛び出してきた健斗の事を思い出す。

「健斗……」

「何だよ……用事がないんだったら早い所自分の部屋に戻ったらどうだ? 俺と一緒にいると妊娠させられるんだろ?」

 ふてくされたように言う健斗はパソコンの前に座ると、無造作に電源を入れる。

「何よ……そんな事言われなくっても……」

 ボンヤリとついたパソコンディスプレーの明りに健斗の横顔が浮かび上がり、やっと琴音はその表情を見る事ができる。

「――――健斗……美音ちゃんとなにかあったの?」

 浮かび上がる健斗の横顔はどこか寂しげで、琴音はその横顔につい声をかけてしまう。

「……べ、別に……何もないよ」

「嘘よ、他に何があるって言うのよ! じゃあなんで健斗はそんな顔をしているのよ!」

 はじめて見た健斗の寂しそうな顔に琴音は思わず声を荒らげてしまい、そんな様子に健斗も驚いたような顔を向ける。

「なんでって……そりゃ琴音が……」

 あまりもの激しい琴音の感情に、さすがの健斗も戸惑ったような顔をしてしまい、ポロッと自分の感情が昂った理由を口にしてしまい慌ててしまうが、既に口から出てしまった言葉を元に戻す事はできず、キョトンとした顔をする琴音の視線を受け止める。



「あたし? あたしがどうしたの?」

 てっきり健斗と美音の間に何かがあったと思い込んでいた琴音は、思いもよらずに出てきた自分の名前にその驚きを隠す事を忘れる。

 あたしのせい? なんであたしのせいで健斗があんな寂しそうな顔をするの? だって、あたしはあくまでも健斗の同居人でしかないのよ? なんで健斗があたしのせいでそんな寂しそうな顔をするのよ……。

 明らかに動揺している琴音に、健斗は照れ臭そうに表情を隠す。

「だって……さっき二瓶さんが……」

 言いよどむ健斗に視線を向けるが、相変わらずその表情はすっかり暗くなった部屋の闇に隠れており、琴音からは見る事ができない。

「二瓶さんがって……」

 目を白黒させたような顔をする琴音に、健斗は椅子から立ち上がると、その体をキョトンとした琴音に向けると、一歩一歩と歩み始める。

 健斗……なに? なんで二瓶さんなの?

「言っていただろ? 琴音が困っているって……だから……」

「あたしが困っている?」

 まったく考えていなかった健斗の回答に、思わず琴音は素っ頓狂な声を上げてしまうが、雰囲気的にしまったと感じに口に手を当ててしまう。

「あ、あぁ……」

 そんな琴音の反応に健斗も気圧されたように身を反らしてしまう。

「そんな事を言っていた?」

「言っていたじゃないか、『困った沢村さんのために』って……」

 思い当たる節が見出せない琴音に対し、健斗はまるで二瓶の事を真似るような口調で話すと、帰り際にそんな事を言っていた事を思い出す。

 そっか……健斗のやつ誤解しているのね?

 思わずクスッと笑みをこぼしてしまうが、部屋の中が薄暗いためその表情が健斗に知られる事もなく、なぜか嬉しいという気持ちが湧き上がってくる。

「エッとぉ、確かに困っていたよ?」

「ほらぁっ!」

 握りこぶしを作り力説するように言う健斗に、琴音は穏やかな笑顔を浮かべる。

「だって、自転車がパンクしちゃっていて困っていたもん……だから二瓶さんが車で送ってくれたという事よ? それとも、あたしに他に悩み事があると思っているの?」

 ……あるよ、悩み事ばかりと言ってもおかしくないかもしれない……でも、それを健斗に話すわけにはいかないよ……。

「パンク? 自転車? それで困っていたの? なんだ……心配して損をしたよ」

 まるで脱力したように肩を落とす健斗の台詞に、琴音は今まで感じた事のないような激しい感情が心の中に渦巻き、無意識に両目から涙がコンコンと沸き溢れてくる。

 なんで……なんで……。

「ったく、だったら俺に電話をすれば良かっただろ? そうすればいつだってお前を迎えに行く事ができたじゃないか……そうすればヘンな誤解もしないですんだのに……」

「できれば苦労しないわよ! だって健斗は美音ちゃんを送って行ったんじゃない……そんな二人の事を邪魔する事なんで……あたしには……あたしぃ……」

 既に涙声になり、言葉も健斗に伝わらなくなってしまっている琴音の声に、初めて涙を流している事に気がつく健斗は慌てたように近寄る。

「琴音? お前、どうしたんだ? そんなキツイ言い方だったか?」

 アタフタとする健斗の様子は既に琴音の目に入る事はなく、止め処も無く溢れる涙はその視界を滲ませている。

「……美音ちゃんは心の底から健斗の事が好きなのっ! そんな美音ちゃんの気持ちを、邪魔する事なんてできるはずがないでしょ?」

 まるで叫ぶように言う琴音の声に、その肩に伸びかけていた健斗の手が止まる。

「邪魔って……俺は……」

「…………健斗、あたしね……」

 激しく感情を表す琴音に、戸惑ったような顔をする健斗の言葉を制するように言う。

 あたし何を言おうとしているの? ダメだよ……健斗に言ったらダメ……言ったら絶対あたしは後悔する事になる……あたしはもう自分で決めたの……。

「……」

「…………」

 薄暗い部屋の中、二人の間に沈黙が訪れる。

「あたし……明和大に進まないつもりなの」

 ディスプレーの明かりに照らし出されている健斗の顔が、驚いたような表情を作っているのが琴音からも見えるが、一度出てしまった言葉は急き切ったように出てきてしまう。

「あたしは高校を卒業したら札幌に帰るつもりでいるの。札幌の大学を受けるつもり……受からなかったとしてもこの家は出るつもりなの……だから、美音ちゃんが明和大に受かればあたしの代わりに美音ちゃんがこの家に入ると言う事になる……」

 膝に置かれている手は拳が白くなるほど力が込められており、わずかに震えている。

「――だから学内選考の試験を受けなかったんだな?」

 穏やかな健斗の声とは裏腹に、その言葉の意味にハッとした琴音は思わず顔をあげると、そこには椅子から立ち上がり開いている窓に向う健斗の後姿があった。

「なんで……なんで健斗が……」

 なんで知っているの? あたしが試験を受けなかった事を……。

「前に由衣ちゃんがそんな事を話していたのを思い出したのさ。なんとなくそんな気がしていたけれど、実際に本人の口から聞くのは辛いかもしれないなぁ」

 シルエットになっている健斗の肩が小さく落ちるのを琴音は見逃さなかった。

 どういう意味なの? なんで健斗が辛くならなければいけないの? 辛いのはあたしよ? そう、辛いよ……自分で選んだ道なのに……自分がこの街から離れたいからといって選んだ道なのに、なんでこんなに辛いの? ここに健斗がいるから? だから辛いの?

 まるで夢遊病のように力ない足取りで健斗との距離を縮める琴音、見える健斗の背中は既に涙でぼやけてしまっている。

 やっぱりあたしは……。

「琴音ぇ」

 顔を向けないまま健斗は琴音に声をかけてくると、それまでゆっくりだった琴音の足がまるで床に根が生えてしまったように止まる。

「あのさぁ……俺がそんな事を言える立場じゃないと言う事はよくわかっているけれど……」

 照れくさそうな言い方をする健斗の動きを、琴音は背後から息を潜めて見据える。

「その……考えが変わる余地って言うのは無いのかなぁ……琴音の心の中に……きっと深雪さんや知果ちゃん、美音ちゃんだってきっと寂しがると思うし……」

 息継ぎをするように言葉をいったん区切った健斗は、クルッと琴音に振り返る。

「その中でも…………俺が一番寂しい……」

 鼻先を人差し指で掻きながら言う健斗の顔を、琴音は驚いた様な顔をして思わず見つめてしまい、その視線に晒された健斗は視線を逸らす。

 どういう……どういう意味なの健斗、あたしがここからいなくなって一番寂しいのが健斗って、それはどういう風にあたしは受け止めたらいいの?

「……琴音、何か困った事があったら俺にも相談してくれよ、情けない男かもしれないけれど、相談ぐらいならのれるよ……一人で悩みを背負い込まないで、少しは俺にも分けてくれよ、それでお前の気持ちが楽になるのなら、いくらだって話を聞くよ……」

 そんな事を言わないでよ……そんな事を言われたらあたし……。

「……さっき美音ちゃんを送って行った別れ際に、彼女にキスをされたんだ……彼女のファーストキッスだったらしい……まぁ俺もなんだけれどな?」

 健斗の一言に琴音の心の奥がチリッと痛む。

「本来なら喜ばなければいけないのかもしれない。でも、なぜか後ろめたさばかり浮かんで仕方がないんだよ、さっきから……その相手は美音ちゃんであり……琴音でもあるんだ」

 まっすぐに視線を向けてくる健斗に、目を逸らす事ができなくなる。

 な、なんであたしに後ろめたい気持ちを持つの? 関係ないじゃない、あたしには……でも、ちょっと嬉しいかもしれない……。

「すごく悩んだんだよ……美音ちゃんにキスをされて……琴音に怒られるかも知れないけれど、今の俺の素直な気持ちはわからないんだ」

 視線を再び窓の外に向ける健斗の背中は、いつものような大きさを感じる事は無く、どこか落ち込んでいるようなそんな風にも見える。

 健斗の素直な気持ち?

 キョトンとした琴音の視線を背中に受けながら健斗はバルコニーに出ると、それを追うように琴音の足が再び動き出し、健斗に少し送れてバルコニーに出る。

 まだ夏とはいえ、既に北海道の南に位置する函館でも、頬を撫でる風は秋色を色濃くしはじめているが、なぜか顔が火照っている琴音には心地良さを感じさせる。

「健斗……」

 完全に夜の帳が下りた景色の中、漆黒の闇のように広がる津軽海峡に浮ぶ漁火を健斗はボンヤリと眺め、その横顔を琴音は見上げるように見つめる。

「…………俺ってば、恋愛小説を書いていながら恋愛の事を良くわかっていないのかもしれない。これじゃあいくら投稿しても落選するのも当然かもしれない」

 自嘲した笑みを浮かべる健斗。その表情に琴音は得もいえない感情にとらわれる。

「さっき琴音に対して自分でもわからない憤りを感じたんだ……二瓶さんと琴音が一緒に帰ってきた時に……なんで俺に話をしてくれないんだって……」

 横から見る健斗の瞳はバルコニーの桟を握り締めている自分の手に向いており、その表情はまるで苦悩に満ちているようにしかめている。

「……美音ちゃんに言われたんだ……」

 健斗の口から美音の名前が発せられると、琴音はピクッと身体を反応させる。

「俺は琴音の事を呼び捨てにしているけれど、美音ちゃんの事は高校の時と同じ呼び方しかできない……呼び捨てにする事にちょっと照れ臭さを感じているのかも知れない。でも、琴音の事は普通に呼び捨てにできる……自然になんだけれど……」

 以前に海辺で話した美音との会話が琴音の脳裏に浮かび上がってくる。

 心のどこかに健斗の事を信頼している気持ちがある……美音ちゃんはあの時そう言っていた、という事は健斗もあたしの事を信頼してくれているの? でも、もしもそうであればあたしは彼の信頼を裏切る事になってしまう……。

「琴音ぇ、俺、お前の事が好きなんだ……」

 漁火に向いていた健斗の視線が琴音に向くと同時に発せられた健斗の言葉に、琴音の頭の中に色々な感情が浮かび上がる。

第二十五話へ。