第二十六話 嵐



=T=

「ハイ、わかりました……早く良くなるようにおじ様にも伝えてください……じゃあ」

 受話器を置きながらため息を吐いていると、明らかに寝不足といったように眠たそうな顔をした健斗がリビングに顔を出してくる。

「深雪さんからか?」

 寝癖のついた髪の毛をボォリボォリと掻き、ルームウェアーであるTシャツをだらしなく着崩している健斗に対して、琴音は苦笑いを浮かべながら見やる。

 もぉ、だらしが無いなぁ……って、今にはじまった事じゃないけれど、いつもと違ってちょっと意識して見ちゃうよ……お互いの気持ちを確かめ合って、キスをしただけなのに……。

「ウン、命にかかわる問題があるわけじゃないみたいだけれど、まだ意識がハッキリとしていないみたいで、しばらく時間が掛かるみたい……知果ちゃんも、おじ様の意識が戻るまで戻りたくないって言っているみたい……当然だけれどね?」

 少しドギマギする気持ちを取り繕うように琴音が言うと、再び健斗はフワァっと大きなあくびをし、そのせいで浮んだ涙を小指で拭う。

「だとすれば当面は良かったという事かな? まだ意識が戻らないとなんともいえないかもしれないけれど、命に別状が無いというのは喜ばしい事だよ」

 ムニュムニュと口を歪めながらも健斗は笑顔を浮べながら定位置に座り、琴音もそれが当たり前のようにコーヒーを提供すると自分の定位置である健斗の対面に座る。

 これも一種のモーニングコーヒーになるのかしら? 好きな人と二人きりで迎える朝のコーヒー……って、そう考えるとちょっと恥ずかしいかも……。

 しかし、健斗はあまり気にした様子もなく琴音の提供したコーヒーを口にふくみながら、いつも見ているテレビ番組に視線を向けている。

 ちょっとぉ、少しはアニバーサリーを感じてくれないの? お互いの気持ちを伝え合った次の朝、しかも二人きりなんだよ? 確かにキスだけだったけれど……ちょっと意識しちゃう。この先深雪さんや知果ちゃんが帰ってこなければ、ずっとあたしと健斗は二人きり……やだぁ、ヘンな意識をしちゃうよぉ。

「台風が近付いているから、今日は一日中雨になりそうだな?」

 テレビでは台風情報を流しており、その予想通りで行けば函館にも影響がありそうな進路ではあるが、琴音の今までの経験からいっていずれ熱帯低気圧になり、九州などに比べれば然程の影響があるとは考えていない。

「ウン、せめてもの救いが今日は始業式だけだから早く帰ってくる事ができるっていう事かな? ひどくなる前に帰ってくれば何とか凌ぐ事ができるよ……」

 トーストを咥える琴音はそう言いながらため息を吐き出す。

 まだ降ってはいないみたいだけれど、空はドンヨリと曇っている。いつ降り出してもおかしくない雲行きよね? 学校が終わったら早く帰ってこよう。

 恨みがましい視線を窓の外に向け、残ったトーストの切れ端を口の中に放り込む。

 ただでさえ憂鬱だっていうのに、始業式の日から雨なんて最悪だよ……でも、行かないわけにはいかないし、気合を入れていこうかな?

 頬をパンと叩きながら立ち上がる琴音に、健斗の視線が向く。

「学校まで車で送っていくよ」

 いきなりの健斗の申し入れに、琴音はキョトンとした顔をしてしまい、ソファーに座っている健斗の事を見下ろしてしまう。

「い、いいよ別に……怪我だって治ったし、歩くのはもうなんとも無いよ」

 柔らかく断る琴音だが、その顔はあまり困惑をしておらず、むしろ顔の所々のパーツには嬉しそうな色が浮かび上がっている。

「いいって、どのみち『ふうりん』に行って琴音の自転車も回収しなければいけないんだろ? 始業式だけなら大学で待っているよ、まさか俺が勝手に琴音の自転車をもってくるわけにはいかないからな? 学校が終わったらそのまま一緒に行けばいい」

 洗面所に消える健斗の背中を見送る琴音の表情には笑顔が膨れる。



「じゃあ俺はラウンジで待っているから、終わったら来てくれる?」

 運転席から声をかけてくる健斗に、琴音はコクリとうなずいて答える。

「ん? ちょっと担任と話をしてから戻るから、少し遅くなるかもしれないけれど……」

「かまわんよ、俺も小説を書かなければいけないから」

 健斗はそう言いながら車を大学の駐車場に向けてスタートさせ、そのテールランプに琴音はパタパタと手を振って見送る。

「――なんだかすごくいい雰囲気……」

 背後からのいきなりの声に琴音は飛び上がり、顔を振り向かせると、かけているメガネをクイッと指で押し上げながら見つめる由衣の姿があった。

「ゆ、由衣? な、何よ……どうしたの?」

 明らかに動揺している琴音の顔を、目を眇めながら下から見上げてくる由衣の表情に、胸の鼓動はかなり早く動いている。

 そうだ、由衣は昨日あたしと健斗の二人だけという事を知っているんだ……何も無かったわけじゃないけれど、彼女の事だ、きっとヘンな意味に解釈しちゃう。

「――昨日の夜、健斗さんと何かあったのね?」

 勘ぐるような顔をして顔を睨みつけてくる由衣に対し、琴音の視線は虚空を舞っている。

「何かって……」

 どぉしよう、否定をすればするだけ疑われるだろうし、どこまで話したらいいんだろう。

 困り顔をする琴音に、由衣は痺れを切らしたように禁断の一句を吐く。

「もしかして、健斗さんとエッチしちゃったとか?」

「なっ! 何を言っているのよっ! そ、そんなわけないでしょ? なんでいきなりエッチをしなければいけないのよ! まだキスだけ……って、アッ!」

 ポロッと出てしまった言葉に、由衣はニィと口を横に広げる。

「やっぱりねぇ……で? どっちが告白したの? 琴音から? それとも健斗さんから?」

 まるで芸能レポーターのように矢継ぎ早に質問を向けてくる由衣に、シドロモドロになる琴音であったが、ふと疑問が浮かび上がる。

「ちょ、ちょっとまってよ。なんであたしから告白したという観念があるの?」

「だって琴音は健斗さんの事がずっと好きだったんでしょ? 健斗さんもそう、琴音の事が好きだった……ちょっと悔しいけれど、見ていればわかるよ」

 間髪いれずに琴音の疑問に答える由衣は、それまでの冷やかすような表情ではなく優しく、まるで二人の距離が縮まった事を喜んでいるような笑顔を浮かべる。

「って、あたしってそんなに顔に浮かんでいた?」

 思わず頬が火照り、両手でそこを押さえる。

「ウ〜ン、なんて言うのかなぁ、健斗さんが来てから琴音が変わったのよね? それまでの琴音ってツンツンしているようなイメージがあったのよ、でも、最近じゃあそのツンツンがなくなってきて、なんとなく朗らかになったっていうのかなぁ、表情がすごく明るくなったの」

 あたしってそんなだったの? ちょっと反省かも……。

「なによりもあなたが健斗さんと話をしている時の態度が、他の男子と接する時の態度と全然違うんだもん。男子と話をする時って必ず一線を引くようにしていたあなたが、あんなに無防備に表情を変えるなんて驚いたわよ? それでわかったの、琴音は健斗さんの事が好きなんだって、そして健斗さんのあなたに対する態度からもわかったわ。いつもあなたの事を心配している健斗さんも、きっとあなたの事が好きだってね?」

 ニコッと微笑みながら鼻先を突っついてくる由衣に、琴音も微笑み返す。

「あ〜ぁ、でもちょっとショックだなぁ、あたしも健斗さんの事が好きだったのに、結局琴音に取られちゃうなんて……失恋だぁ」

 わざとらしく天を仰ぐ由衣の肩を、励ますように琴音はポンポンと叩く。

「まぁまぁ、今度パフェでもおごってあげるから元気出しなよ」

「もぉ、ライバルに励まされても嬉しくなぁい!」

 プゥッと頬を膨らませる由衣は持っていたカバンを振り上げ、琴音の事を追い回し、琴音もキャアキャア言いながら校舎に向かって逃げてゆく。



=U=

「あれ? 健ちゃん?」

 洒落た造りのラウンジでノートパソコンに向かっていた健斗に声をかけてきたのは、同人誌サークル『mas』の先輩である花織で、その隣にはどう見ても小学生にしか見えないが、健斗と同級生であり首席入学という頭脳を持った愛美が立っていた。

「えぇ、ちょっと……花織さんと愛美ちゃんこそどうしたんですか?」

 はぐらかすように言う健斗の目の前に嬉しそうな表情を浮かべた花織が座り、その隣には恐らく花織とは違った意味での嬉しそうな顔をした愛美が座る。

「ウン、あたしたちは来月のイベントで着る衣装の打ち合わせでね? それよりも健ちゃんがここにいるなんて珍しいじゃない? どうしたの?」

 再び質問を向けてくる花織に健斗は曖昧な笑みを浮かべながら、必死に理由を探す。

 まさか琴音をここで待っているなんて言えば、きっと根掘り葉掘りと色々な事を聞かれるに決まっている、なんて誤魔化せばいいのか……。

「そういえば琴音ちゃんたちは学校始まったんでしょ? 確か今日は始業式だったよね?」

 ウキウキ顔をしながらメニューを開く愛美の一言に健斗は思わず背筋を伸ばしてしまい、その動きを花織は見逃さなかった。

「フゥ〜ン……そういえば昨日琴ちゃん店長に挨拶に来ていたわね? すっかり怪我も良くなっているみたいで、これで健ちゃんが送り迎えする必要はなくなったんでしょ?」

 意地悪い顔をしながら健斗の顔を覗き込んでくる花織、その台詞は確実に健斗の言い訳を阻止するものばかりで、ついには二の句が告げなくなってしまう。

 まいった……完全に包囲されたような犯人の気分だぜぇ……ここは正直に話すしかないか。

 諦めたように健斗がため息を吐き出していると、誰かの携帯が着信を告げるメロディーを奏で、三人はお互いに探るように顔を見合わせる。

「あたしだぁ、ちょっとゴメンなさぁい……もしもしぃ、あぁ、悠クン?」

 ただでさえ幼い顔をしている愛美は、さらにその顔をほころばせながら携帯に向かって話しており、その様子から相手はかなり特別な人のように受け止める事ができる。

「ちょっと知っている? 愛美ちゃんって、最近彼氏が出来たらしいわよ? どうやら電話の相手はその人みたい……いいなぁ」

 羨ましそうな表情で愛美の事を見る花織に従って、健斗も愛美に視線を向けると幸せいっぱいというような表情を浮かべている。

「相手は同年代なんですかね?」

 真っ先に浮んだのは相手がいくつの人間かだ。俺たちと同年代であればデートをする時など絶対誤解されるだろうし、その容姿に合わせて小学生だとすれば今度は愛美ちゃんが罪を犯す事になってしまう……ウ〜ム、非常に気になる。

「ゴメンなさぁい、ちょっと急用ができちゃって、花織先輩おさきでぇす、健斗サマも」

 嬉々とした顔をする愛美はそう言いながら立ち上がると、トトトと音を立ててラウンジから出てゆき、呆気にとられた健斗と花織はその後姿を見送る。

「デート……かしらね?」

 先に口を開いたのは花織で、肩をすくめながら視線を健斗に戻す。

「ですかね? なんだか後姿だけ見ていると、オモチャを買って貰うために急いで家に帰る小学生のようなんですが……」

「それも否定できないかも……でも、みんな相手を見つけているのね? いいなぁ、あたしも想い人と一緒になりたいよ」

 テーブルに頬杖をつきながら吐息を吐き出し、健斗の顔を覗き込んでくる花織の視線に、健斗は顔をそむけてしまい、その反応に花織の表情が曇る。

「ねぇ健ちゃん、あなたがここにいる理由って、琴ちゃん?」

 いきなり確信を付いてくる花織に健斗は無意識に驚いた顔をし、その表情で全てがわかったように花織は力のない笑みを浮かべる。

「やっぱりね? 昨日琴ちゃんの自転車がパンクしちゃって二瓶先輩が送って行ったのよね? 健ちゃんはその自転車を回収する、だからでしょ?」

 ……エッと、合っているんだけれど、なんだか微妙に違うような気がするのは俺の気のせいだけなのか? 花織さんはなんとなくはぐらかしている、そんな気がして仕方がない。

 健斗にとっては都合のいい方に誤解をしたような言い方をする花織は、開かれているパソコンのディスプレーに視線を向ける。

「これが今度の作品?」

 話が逸れた事に健斗は安堵感を覚え、心の中でホッと胸を撫で下ろし、ノートパソコンを花織にも見やすいように向ける。

「ハイ、冬の『こみふぇ』用の原稿です。辻川班長に次回の『ないとビュー』に掲載するかもしれないと言われてちょっと気合が入っているんですよ」

 鼻の穴を大きく膨らませて鼻息荒く言う健斗に対して花織は取り繕ったような笑みを浮かべながらディスプレーに浮んでいる文字列を眺めている。

「確か健ちゃんの得意の分野って恋愛物よね? あたしが言うのもなんなんだけれど、ここの表現をもうちょっと変えてみたらどうかなぁ……気にしないでね? あたしも会報の編集に良く携わっているからちょっと気になっちゃったの……ここを、こういう風に表現すると読者に主人公の気持ちが伝わりやすいと思うのよね?」

 そう言いながら健斗の隣に席を移し花織は文章を添削してゆき、その的確な指示に健斗はグゥの音も出ず、うなずくだけしか出来なくなる。



「確か健斗はラウンジで待っていると言っていたわね?」

 既に高等部の校舎内に残っているのは、部活に勤しむ人間ぐらいしかおらず、カバンをとりに戻った琴音のクラスには誰一人として残っている人間はいない。

 まいったなぁ、ちょっと時間が掛かっちゃったよ……健斗は待っていてくれるかなぁ。

 カバンを手にして踵を返す琴音は、短く改造してあるスカートを気にしつつも小走りに大学部と高等部の境目にあるラウンジに向かう。

 小説を書いているって言っていたからたぶん大丈夫だと思う……アイツ小説書き始めると時間の観念がなくなるから、あたしが行っても『もうこんな時間かぁ』なんて言うんじゃないかしら? 本当に小説オタクなんだから。

 心の中で悪態をつくが、その状況を思い浮かべたのか、琴音はフワフワと揺れるポニーテールの髪の毛と同じように、その表情は晴れ渡ったような笑顔が浮かんでいる。

 とりあえず健斗と一緒に『ふうりん』に行って自転車を車に積んで……お昼はどうしようかなぁ、冷蔵庫の中をちゃんと見てこなかったよ……どこかに食べに行っちゃおうかな? でも、健斗って結構貧乏だから、ありあわせの物でなにか作ってあげるかな?

 色々と頭の中でシミュレーションする琴音は、あっという間に待ち合わせ場所であるラウンジに到着し、入口からソッとその中を確認するように覗き込む。

 いた、健斗だ……って? なんで? なんで藤宮先輩と一緒なのよぉ……しかも、そんなに顔をつき合わせちゃって……。

 不機嫌そうな顔を浮かべる琴音の視線の先には、隣同士に座り頭突き合わせるようにテーブルに置かれたパソコンを覗き込んでおり、どこか必要以上に接近しているようにも見える。

 琴音のいる場所からは二人の会話が聞く事ができず、無意識に腰をかがめながらソッと二人に近寄り、二人の会話に聞き耳を立てる。

「あたしはあなたの事が好き、それじゃあ不満なの?」

「ふ、不満なんてあるはずないじゃないですか。俺だって先輩の事が……好きだから」

 か、花織先輩が健斗の事を好き? それで健斗も? なに、何の話なの? なんで花織先輩が健斗の事を好きで、健斗まで……じゃあ、あたしの事を好きといったのは嘘だったの?

 かすかに聞こえてくる二人の会話に、琴音は力が抜けてしまい、呆然とした顔を浮かべる。

 健斗があたしの事を騙したの? あたしはまた騙されたの?

 大きな琴音の瞳に涙が浮かび上がりはじめると、突然肩を叩かれ、それに驚いた琴音はそれまで浮んでいた涙が一気に引っ込み、驚いた顔をして振り返ると、そこには端正な顔立ちをした雄二が微笑みながら立っていた。

「やぁ、沢村さん。こんな所でどうしたの?」

 爽やかな笑顔を浮かべる雄二に対して、琴音は深々と頭を下げるのは、体育会系の部活に所属しているためなのだろう

「皆川先輩、こんにちは! 先輩こそどうしたんですか? まだ大学は休みですよね?」

 小首を傾げる琴音に、雄二は苦笑いを浮かべながら肩をすくめる。

「夏練習だよ、秋に試合があるからね? 沢村さんこそどうしたんだい?」

 今度は雄二が小首を傾げ、少し表情の暗い琴音の事を見つめる。

「ちょっと……」

 チラッと向けた視線の先には、いまだに花織と話し込んでいる健斗の姿があり、その琴音の視線を追うように向けた雄二は、それまでの爽やかな表情を一遍させる。

「あれは、花織と健斗、なんだって花織がボクの健斗にあんなに近付いているんだ」

 ぼ、ボクの健斗? って、皆川先輩って、やっぱりその趣味が……。

 少し雄二との距離をとるように、一歩足を引くが、憤然とした顔をしている雄二は、足音を大きくし二人のテーブルに乱入する。

「健斗! 何を花織とイチャイチャしているんだ! ボクと一緒の時はそんなに近寄ってくれないというのに、お前はやっぱり女の方がいいのかっ!」

 いや、先輩、それは世間一般的に見てそうだと思いますよ? むしろ男同士という方が通常じゃないと思います。

「あらぁ? なぁに雄二、ひょっとしてヤキモチを妬いているのかしら? ダメよ、男同士なんて、健ちゃんはあたしのもの」

 まるで雄二を挑発するように花織が健斗の腕にしがみ付くと、雄二はそれまでに見せた事のないような怒りの形相を花織に向け、少し離れてその様子を見ていた琴音も、ヒクッと頬の筋肉を脈動させる。

「ダメェ、健斗はボクのものぉ」

 そう言いながら健斗の腕にしがみ付こうとする雄二に対し、さすがに気味の悪さを感じたのか健斗は、顔を蒼白にして突進してくる雄二の体をヒラリとかわす。

「だぁぁぁぁっ! 誰がお前のものじゃぁぁっ! 寄るな触るな!」

 体勢を立て直し再び健斗に抱きつこうとする雄二に対し、カウンター気味に繰り出したパンチが雄二のみぞおち付近にヒットし、のたうちながら床を転げ回る。

「け……けん……と」

 やがて力尽きたように雄二が沈黙すると、健斗はホッとしたような表情を浮かべ、その視線がゆっくりと琴音に向き、その表情に慌てたような顔をする。

「琴音? ちが……これは誤解だ、って、花織さんいつまで引っ付いているんですか!」

 自分の腕に張り付くようにしている花織の事を強引に引き剥がそうとする健斗に、プクッと頬を膨らませて抗議の表情を向ける。

「ぶぅ、健ちゃんったらつめたぁい、あら? やっほ〜、琴ちゃん」

 琴音の姿を見つけた花織は、パタパタと手を振るがその様子にピタッと止まる。

「な、なに? どうしたの? そんなに下膨れな顔をしちゃって、そんな顔をしているとせっかくの可愛い顔が台無しよ?」

 どぉせ下膨れの可愛くない女ですよ! 花織先輩みたいにスレンダーじゃないし、綺麗じゃないし、大人っぽい雰囲気だってないもん。

 さらに下唇と突き出し精一杯のいじけたような顔を浮かべる琴音を、花織は怪訝な顔をする。

「そっか……まぁいいわ。琴ちゃんもここに座って一緒にお茶しましょうよ」

 そう言いながら花織は元いた自分の席に戻り、既に冷め切っているコーヒーに手を伸ばしていると、琴音は遠慮なくそれまで花織の座っていた健斗の隣の席に座る。

「こ、琴音?」

 向側の席に座ると思っていた琴音が隣に座る事によって、健斗の表情には狼狽したような雰囲気が流れ、そんな二人の様子を花織は寂しそうな表情ながらも優しい笑みを浮かべている。

「ウフ、やっぱりそうか……琴ちゃんも健ちゃんの事が好きなんでしょ? そして健ちゃんも琴ちゃんの事が好き……いわゆる相思相愛が完成したという事ね?」

 あたしも? いま花織先輩はあたしもって言った。という事は他に健斗の事が好きな女の人がいるという事なの? まさか……。

 諦め顔を浮かべる花織に琴音は驚いたような顔をし、無遠慮にその顔を覗き込んでしまう。

「琴ちゃんの勘は当たりよ? あたしも健ちゃんに憧れていた一人。まさかこの歳になって一目惚れをするとは思わなかったわ? まるで中学生みたい……」

 自嘲気味の顔をする花織に、その気持ちをうっすらとではあるが気がついていた健斗は申し訳無さそうな顔をし、琴音は酸欠の金魚のよう口をパクパクさせている。

 こんな美人が……あたしの憧れの女性でもある花織先輩が健斗の事が好きだったなんて、しかも一目惚れ? 健斗には申し訳ないけれど、ちょっと意外だわ。

「部室で初めて会った時に、なんていうのかなぁ……すごく気になったの。色々な人と出会ってきたけれど、こんなに心に残る人はいないって思ったの」

 その時の事を思い出しているのか、花織はソッと目を閉じると、ポッと頬を赤らめる。

「自分の知識にそういう感覚って無かったから気にしなかったけれど、毎日サークルで会ったりしているうちに、気がつくと健ちゃんの事ばかりを考えている自分がいて、その時初めてわかったのよ『あたし健ちゃんに一目惚れをしたんだぁ』って、ホント、もっと大人の恋をすればよかったよ……いまからでも遅くないかな?」

 肩をすくめ、普段の表情に戻った花織は健斗にウィンクをし、着ているキャミソールの肩紐をずらす仕草を見せる。

「だ、ダメ! 健斗は……あたしが……」

 少し目尻を下げた健斗と、妖艶なポーズを取り続ける花織の間に強引に身体を割り込ませる。



=V=

「そっか、花織先輩って雑誌の編集者を希望しているんだ」

 徐々に雨脚が強くなってきた中、二人を乗せた車は琴音のバイト先である和風ふぁみりーれすとらん『ふうりん』に向かっている。

「ウン、さっき小説の中身を添削してもらっていたんだ。さすが色々な本を読んだり文章を読んだりしているから指摘は的確だよ」

 そっか、さっき健斗と花織先輩の会話の内容って台詞の事だったんだ……ちょっとビックリしたよ。一瞬でも健斗の事を疑ったりして反省かも。

 助手席で苦笑いを浮かべる琴音に、真っ直ぐ正面を向いている健斗は気がつかない。

「でも、意外だなぁ、あの花織先輩が健斗の事を好きだったなんて……それでなのかなぁ、いまだに温帯低気圧にならないで台風がこっちに向かってくるのって」

 ラジオからは台風情報がどんどんと流れてきており、状況では夜に函館に再接近するとの見方ができるらしく、その予報を裏付けるかのように風が徐々に強くなり、雨もかなり強くなってきており、ワイパーも必死に仕事をしているのだがなかなか追いつかなくなり始めている。

「おいおい、それじゃあ俺が台風をここに導いているとでもいうのか? ひでぇなぁ、仮にも、俺は琴音の……そのぉ……」

 言いよどむ健斗の横顔に琴音が視線を向けると、そこには照れたように少し上気した頬を指先で掻く姿が映り、思わず琴音はクスッと微笑んでしまう。

「なによ、別に自分の彼氏の事をあたしがどう言おうとかまわないでしょ? 確かに他の女の子から言われたらあたしも怒るかもしれないけれど、別にあたしが言う分には良いの」

 怒ったように言う琴音に対し、健斗はキョトンとした顔をしている。

 健斗って本当に女の子と付き合った事が無いのね? あたしの事を彼女って呼びづらくって仕方が無いみたい……ちょっと安心かも。

「彼氏って……俺の事だよね?」

 恐る恐る聞いてくる健斗。

「他に誰がいるのよ」

「って事は、琴音は俺の彼女……だよね?」

 さらに恐る恐る聞いてくる健斗に、琴音はついに耐え切れなくなって笑い出してしまう。

「アハハ、そうでしょ? あたしの彼はあなたであって、あなたの彼女はあたし……それとも何かご不満でもあるのかしら? いまならサービス期間中だからお聞きしますよ」

 意地悪く言う琴音に、健斗は運転しているにもかかわらずその顔を琴音に向け、ブンブンと音が出そうな勢いで頭を横に振る。

「ちょ、ちょっと健斗危ないよぉ」



「これは見事にパンクしているねぇ、帰りに近所のホームセンターに寄ってパンク修理キットを買ってから帰らないといけないな?」

 風雨が強まる『ふうりん』の駐輪場には見慣れた琴音の自転車が止まっており、その前輪は見事に空気が抜けている。

「じゃあ、あたし店長に言ってくるから」

「あぁ、俺は自転車を車に積んでいるよ」

 傘を差しながらの作業は普段ではなんでもない事なのだが、傘が風にあおられてしまい思うように進行ができない。

 まいったねぇ、自転車を押さえようとすると傘があおられ、傘を押さえると自転車が思うように動かせないぜぇ……ならば仕方が無い。

 少し思い悩んだようにしながらも、やおら傘を畳みそれを脇に挟むと、一気に自転車を車に向かって押し出す。

「しまった、前もってシートを倒しておけばよかった……」

 既にずぶ濡れになってしまった健斗は車のリアゲートを開けて、自転車の積むスペースがない事に気がつき、慌ててシートを倒す。

 あ〜ぁ、全身ずぶ濡れだよ……。

「健斗? もぉビショビショじゃない……」

 自転車を積み終わったと同時に背後から琴音の声がし、振り向くと傘を差した琴音と、その隣には店の制服を着た二瓶が並んで立っており、そのツーショットに健斗の眉間にシワが寄る。

 のやろぉ、飽きもせずに琴音にちょっかいを出すつもりなのか?

「なんだ、もう終わっちゃったのか? せっかく手伝ってあげようと来たけれど、余計なお節介のようだったようだね?」

 傘を差し詰襟姿の二瓶はそう言いながら、ずぶ濡れになっている健斗の事を冷ややかに見据える。その表情に健斗の眉間のシワが深くなる。

「もぉ、そんなに濡れちゃったら風邪をひいちゃうよ? ほら、タオル」

 髪の毛からは水が滴り落ち、履いているジーパンは水分を吸っているせいか重く感じ、着ているTシャツは既に地肌を透けさせている。

「さんきゅ……だぁ、気持ちがわりぃ」

 タオルを琴音から受け取り、ガシガシと頭を拭く健斗の事を心配そうに見つめる琴音。そんな二人に対して二瓶はそれまでの台風直撃コースの中、爽やかに浮かべていた笑顔を珍しく歪めながら健斗の顔を睨みつける。

「ほらぁ、後ろの方までちゃんと拭かないと風邪をひいちゃう、夏風邪は何とかがひくっていうでしょ? 健斗がひいたらシャレにならないじゃん」

 うぉい、という事は、俺はその何とかに属するって言う事なのか?

 恨みがましい視線を向ける健斗に対して琴音は曖昧な笑顔を浮かべ、まだ完全に拭ききれていない後頭部をそのタオルで拭く。

 ったく、少しは俺の事を立ててくれるかと思ったけれど、性格はそう簡単に直るものじゃないのかな? むしろ毒がキツクなったような気がするんですけれど……。

「――随分と仲が良くなったようだけれど……」

 どこか顔をしかめているような二瓶を、頭を心地よさそうに拭かれている健斗と、かいがいしくその頭を拭いている琴音は、そんな二瓶の言葉に顔を見合わせる。

 仲が良いって……この状況でそう思えるのか? 俺からはなんとなくいつもと同じ会話のように思えるのだけれど……でも、そう見えるのかな?

 少し機嫌を良くしたような顔をする健斗に、二瓶は遠慮なく顔をしかめ、照れたような表情を浮かべている琴音に視線を向ける。

「別に……そんな……ねぇ、特別どうって言うのは……」

 助けを請うような視線を琴音が向けてくるが、その視線を受けた健斗は、琴音の言葉に少しうろたえを見せている二瓶に顔を向ける。

「確かに特別何も無かった、だけど、昨日二瓶さんの帰った後、俺と琴音はお互いの気持ちを確かめあう事ができた……二瓶さんのおかげと言っても過言じゃないかもしれない」

 キッパリと言い切る健斗の言葉に、二瓶は今度こそ間違いなく動揺した表情を浮かべ、琴音に真意を問うような視線を向けるが、琴音は少し躊躇いながらもコクリとうなずく。

「そ、そうか……二人のお役に立てたのなら光栄だよ……ハハ、ハハハ……」

 強がっているように言いながらも、二瓶のその態度は明らかに狼狽し、小さなため息を吐き出しながらうなだれ、その姿に健斗は少し同情する。

 いけ好かない奴とは思っていたけれど、ここまであからさまに落ち込まれるとちょっと同情の念も抱くかな? よほど琴音の事が好きだったのだろう。

「二瓶さん……」

 痛々しい二瓶の姿に琴音が声をかけようとするが、その声は耳に入っていないのだろう、肩を落としながら店の従業員口に消えてゆく。

「よほど好きだったんだろうな? 琴音の事を……モテモテじゃないか?」

 そんな二瓶の姿に自分を苛むような顔をしている琴音に、健斗はわざと冷かすように言うと、徐々にその表情にはいつもと同じものが戻ってくる。

「もぉ、そんな事を言って、健斗だってモテモテだったでしょ? 花織先輩しかり、由衣しかり、そして……美音ちゃん」

 美音の名前が出たところで、二人は顔を見合わせてしまう。

 そうだ……美音ちゃんにきちんと話をしないといけない……中途半端になってしまう。



「雨が強くなってきたなぁ……」

 予想進路通りに台風は夜になって函館に再接近しているようで、さらに強まった風と雨は容赦なく窓を叩いている。

 九州などに比べれば勢力が落ちているし、東京で経験した台風よりも規模は小さく感じるけれど、この辺りでは台風のまま上陸するのは珍しいよな?

 東京で何度も台風を経験している健斗はあまり気にした様子ではないが、琴音はどこか不安げな表情を浮かべてテレビのニュースを見ている。

「ウン、風も強いみたいだし……」

 窓の外で電灯に照らし出されている雑木林の木の枝は、風に煽られ左右に大きく揺れており、外の風の強さをうかがい知る事ができる。

「まぁ、この程度の台風なら心配する事もないだろ? さて、琴音は風呂に入るんだろ? 俺は部屋に戻っているよ、何かあったら呼んでくれ」

 少しは二人の間が縮まったとはいえ、まだそこまで親しいというわけでもないからな? 一応マナー的に俺がここから離れれば琴音も安心して風呂に入る事が出来るだろう。

 伸びをしながらソファーから立ち上がる健斗の事を、琴音は少し不安そうな顔をして見上げるが、声をかけるまでは至らず、その後姿を見送る。



「――さて、小説も書かなければな? 辻川班長から出された締め切りは九月の末だけれど、なんせ、遅筆だから書ける時に書かないと締め切りに間に合わなくなっちゃうぜ」

 パソコンの電源を入れ、いつもと同じようにメールのチェックから始める。

「ん? オヤジから?」

 受信したメールの中に珍しくも健斗の父親からメールが送られてきている事に気がつき、少し慌ててそれを開き見る。

 珍しいじゃねぇか、定期連絡以外にメールを送ってくるなんて、多少は自分の人の親であるということに目覚めたのか?

 心の中で悪態をつくもその奥底には嬉しさが伴っているのだろう、気は急くばかりだ。

〈健斗へ。元気にしているか? 彼女の一人でもできていれば嬉しいのだが、まだお前では無理であろうと思っているよ〉

 ――余計なお世話だ……生憎と彼女と呼ばれる女の子はできたぜ?

〈さて、今回は久しぶりに日本に戻れそうなのでその報告だ〉

 滅多に日本に帰ってこない親が日本に戻ってくるという報告に、健斗の頬は無意識に緩んでしまい、慌ててその次の文章に視線を向ける。

〈九月に東京に戻り、一週間ぐらい滞在した後にアメリカに戻る。本当は世話になっている深雪や、剛にも会って礼が言いたいのだが、スケジュール上無理だ〉

 どうせ日本に戻ってくるなら一ヶ月ぐらい滞在できるように調整しろよな?

〈もしも健斗のスケジュールが合うのであれば、お前も東京に来て、たまには親子水入らずもいいと思ったので、お前からの連絡を乞う〉

 ったく、忙しなくって仕方が無い親だなぁ……。

 気を取り直すように首を横に振り、書きかけの小説が入ったメディアをパソコンに差し込み、ダブルクリックをして文字列を呼び出す。

 そういえば、花織さんが編集者を目指しているなんて知らなかったよな? みんな夢を現実にしようと一生懸命なんだ。琴音はどうするんだろう……やっぱり札幌に戻るのかなぁ……。

 キーボードに手を伸ばしながらも、その指が動く事はなく、物語も先に進む事はない。

 琴音が札幌に行くと、俺はどうなんだ? 寂しい……寂しいよ……でも、彼女がそれを望んでいるのなら、俺はそれを応援したいという気持ちが強い。

 諦めたように健斗はディスプレーから目を離すと、途端に部屋の中が闇になる。それまで目の前にあったディスプレーも消え、ついていた電気やコンポの時計まで消えている。

「停電か?」

 瞬間に闇の中に落ちてしまったため、目がその闇に慣れるまで時間を要し、慣れはじめた頃椅子から立ち上がり窓から外の様子を見つめる。

 どうやらこの辺一帯だけみたいだな? 市街の電気はついているみたいだし、だとすればこの辺りの送電線が切れたのだろう……ったく、パソコンが壊れたらどうするつもりなんだよ。

 正規に終了ができなかったパソコンに視線を向けた時、勢いよく部屋の扉が開き、今にも泣き出しそうな顔をした琴音が飛び込んでくる。

「健斗! 電気がフワッて消えたよぉ……何が起きたの? ねぇ健斗」

 よほど取り乱しているのだろう、琴音は部屋に飛び込んでくると、暗い部屋の中で健斗の存在を確認するとそのシルエットに抱きついてくる。

 ちょ、ちょっと琴音さん? お前……風呂に入ったままだったの?

 胸にしがみ付く琴音の姿は闇に溶け込んでおり、その姿はシルエットでしか見る事はできないが、伝わってくる琴音の体温は高く、頬に触れる琴音のクセッ毛は湿り気を帯びている。

「ちょ、ちょっと琴音、そんなにしがみ付くなって……」

 腰に腕を廻しギュッと抱きついてくる琴音から、健斗は何とか逃れようとするが、隙間が空くとそこを埋めるように琴音はしがみ付いてくる。

「だってぇ〜、電気が真っ暗だよぉ……」

「わぁったから、とりあえず落ち着け。いいか? これは停電だ……すぐに復旧すると思う、とりあえずロウソクとかを置いてある場所を知らないか?」

 落ち着けるように健斗が琴音の肩のあるであろう場所に手を置くと、シットリと汗を掻いた琴音の地肌に触れる事になり、今度は健斗の方が動揺してしまう。

「知っているよ? 一階のリビングに非常用持ち出し袋があるから、たぶんその中に入っていると思うよ……って、きゃっ!」

 直に健斗の手が肌に触れた事によって自分の今の姿を思い出したのか、琴音は小さい悲鳴をあげて身体を離すが、なるべくその事を意識しないようにポケットの中から携帯を取り出す。

 携帯のバックライトを懐中電灯代わりにすれば、何とか一階に降りる事はできるだろう。

 折りたたみの携帯を開くと、それまで真っ暗だった部屋の中にボンヤリと明りが灯るが、その明りに再び琴音の悲鳴が聞こえる。

「キャァ、ちょっと健斗ぉ、いきなり明りをつけないでよぉ、あたし……そのぉ……健斗と初めて会った時と同じ格好をしているから……」

 やっぱりビンゴか……俺と琴音が初めて会った時と同じ格好……それは、あのタオル一枚の姿という事でしょうか? ヤベ、また理性が吹っ飛びそう。

 初めて会った時の光景を思い出した健斗は、何とか取り戻していた理性が再び、どこか遠くに飛んで行ってしまいそうな感覚を覚え、フルフルと首を横に振る。

「ったく、なんだってそんな格好をしているんだよ、真っ暗じゃあ下に降りたくとも降りられないじゃないか……ちょっと身体を隠していろよ? 今から携帯のライトを点けるから」

 そう言うとゴソゴソという音がし、琴音から許可が下りる。

「絶対にこっちにライトを向けないでよね? あたしだって恥ずかしいんだから!」

 了解しています、って、なんで俺が文句を言われなければいけないんだ?

 心の中でため息を吐き出し、バックライトを点灯させると、深雪がきちんと畳んでおいてあった洗濯物の中から比較的まともなシャツを取り出す。

「ベッドの上にシャツを置いておくから、それを着ていろ。ちゃんと着たら下に降りるから」

 恐らく琴音が身体を隠しているであろうベッドにシャツを放り出し、携帯のライトを再び消すと、窓を叩く雨と風の音だけになる。

「ウン……本当に健斗からこっち見えていない?」

「見えていないよ、月明かりでもあれば輪郭ぐらいは見えるのかもしれないけれど、本当に真っ暗でどこに琴音がいるのかすら、俺にはわからないよ」

 本当はシルエットで見る事はできるけれど、それを言ったら状況をさらに悪化させるに違いない、ここはお口チャックだ。

 どこかホッとしたような雰囲気が流れてくると、手探りでシャツを探しているのだろう、シーツが摺れる音がし、バサッと布を取り上げる音が聞こえる。

「本当に見えないわよね?」

 くどく言う琴音の声を背中で聞きながら健斗は苦笑いを浮かべ、ながら『あぁ』と答えると、再び布が擦れる音がする。

 そっか、シャツを着るにはタオルを取らないといけない……という事は……。

 バサッと重みを持ったような音がしたかと思うと、乾いたような布の音がし、その音だけでも健斗の理性を奪い去ってしまいそうになる。

 ヤバい……停電が直るまでに治まってくれ……そうでないと琴音に変態扱いされてしまう。

「――いいよ、ライトを点けても……」

 布ズレの音がしなくなると、やっと琴音からのお許しが出る。

「あぁ、点けるぞ?」

 そう言いながら健斗は再び携帯を開き、バックライトを点ける。

 いくら明るいと言っても、所詮は携帯電話のバックライトだな? 見える範囲は限られる。

「大丈夫か琴音? って、俺の後ろについて来いよ? いいな?」

 チラッと見える琴音の姿に健斗は思わず顔をそむけてしまう。

 ヤベェ、シャツを着たから大丈夫だろうと高を括っていたけれど、逆に色っぽくなったんじゃないか? たぶん、その下は……ダメだ、それを考えたら、まともに歩く事ができなくなる。

 健斗のシャツだからかなり琴音には大きいものの、男と女の体格のつくりの違いなのだろうか、その胸の部分は強調するように大きく膨らんでいるように見える。

「ウン、大丈夫……だから、手を離さないでね?」

 キュッと健斗の手を握ってくる琴音の手は、少し汗ばんでいるようにも感じられる。

「ったく……大丈夫だよ……ここから階段だから気をつけて」

 僅かに照らし出されている段差に健斗は琴音の手を引きながら、階段に足を一歩掛ける。

「ウン…………って、ふわぁ?」

「あぶねぇっ!」

 何段目かに健斗が足を掛けた時、琴音がその段差を踏み外したのであろう、いきなりその身体のバランスを崩し、慌てて健斗はその身体を抱しめる。

「きゃっ!」

 ダダッという音と共に、健斗の両腕の中に温かな琴音の体温が伝わってきて、その胸は驚いた時の高鳴りに加えてその伝わってくる体温と、無遠慮に健斗の鼻腔を刺激するシャンプーの匂いに、その高鳴りは十六ビートを刻みはじめる。

 ヤバいぞ! かなり琴音の攻撃に俺の理性はヘロヘロになりはじめている。ここで理性を失ってしまったらかなりヤバい状態になってしまう。

 必死に理性を呼び戻すも、必死の形相で胸に抱きついた状態の琴音はさらに抱きつく力をこめ、その行為に琴音の女である部分が押し付けられる事になる。

 ムニュッて……琴音のが、ムニュッて…………当たっている……って、耐えろっ! 耐えるんだっ! 俺っ! ここで耐えなくって何が男ぞっ!

 既に脂汗を流しはじめる健斗は、必死の形相で階段をゆっくりと降りる。

第二十七話へ。