第二十八話 東京



=T=

「スミマセンわざわざ空港まで送ってもらっちゃって」

 気持ちがいいくらいに晴れ渡った空は既に夏の色を残してはおらず、すっかり秋めいており、赤い軽自動車から降り立った健斗と琴音の二人の格好も、秋っぽくなっている。

「気にしないでいいわよ? それよりも忍(しのぶ)兄さんによろしく言っておいてね?」

 運転席から顔を向けてくる深雪はそう言いながら健斗の顔を見つめながら微笑み、そして視線を琴音に向けて、少し意地悪っぽい表情を見せる。

「琴ちゃん、そんなに心配しなくっていいわよ? 忍兄さんって結構物分りがいい方だから」

「ちょ、べ、別にあたし……」

 顔を赤く染めながらうつむく琴音だが、その格好はいつものような明るく元気な琴音のイメージの服装ではなく、黒いドット柄のワンピースに、ライム色のショート丈カーディガンを羽織っており、どこかおとなしめにまとめられている。

「ウフフ、照れる事ないでしょ? 彼氏の両親に会いに行くんだから緊張はすると思うけれど、忍兄さんも、亜希子義姉さんも結構サバサバしているから大丈夫よ、それじゃあね?」

 たたみこむように琴音に言うと、深雪は少し乱暴に車を発車させる。

 もぉ、そんなに緊張していなかったのに、深雪さんがそんな事を言ったらヘンに緊張しはじめちゃったよ……どぉしよ……。

 表情が硬くなった事に気がついたのか、健斗は安心させるように琴音の頭をポフッと叩き、ニカッと笑顔を浮かべてくる。

「そんなに緊張する事はないよ、もしもあの両親が何かいちゃもんでもつけてきたら、俺が勘当してやるから心配ないぜ? 人の事をずっと日本にほっぽっていたんだからな?」

 ワシャワシャと頭を撫で回す健斗はそう言いながら笑い飛ばし、その言葉に琴音の表情からも緊張が消えはじめる。

「ちょ、ちょっとぉ、せっかくセットしたんだから、そんなにグリグリしないでよぉ、髪形が乱れるでしょ? 結構気にしているんだからぁ」

 乱された髪の毛を直し、口を尖らせながら抗議をするように言う琴音だが、その表情には嫌悪感はなく、むしろ安堵感の方が漂っているようにも見える。

 なんだか健斗がそう言ってくれるだけでも安心かも……。

「でも、俺もいずれは琴音の両親と会わなければいけないんだよな? 俺にはそっちの方がよほど気が重いんですけれど……」

 困ったような顔をしながら健斗は空港内の出発カウンターに向かい、持っていたチケットでチェックインを済ませる。

「そう言わないで? ウチの親も結構あっけらかんとしているから」

 クスッと微笑み健斗を励ますように、肩を叩きながら二階にある出発ロビーに向かう。

「でも、兄妹がいるんだろ?」

 何のお咎めのなしで荷物検査場を抜けると、結構混雑している搭乗待合ロビーに着き、並んでいるベンチに腰を下ろす。

「ウン、アニキと妹が一人ずつ。別にこの二人は気にしなくっていいと思うよ?」

 滑走路が見渡す事のできる大きな窓の外には、既にツルンとしたイメージのある白と赤で塗られている飛行機がボーディングブリッジに横付けされている。

「いや、俺って一人っ子だから、兄妹というのがどういうものかよくわからないんだよね? よく小説とか漫画だとお互いに思いやる気持ちが強いっていうか……」

 まるでこれから会いに行くのが自分の親ではなく、あたしの親に会いに行くみたい……。

「大丈夫だよ、アニキは今の彼女で精一杯らしいし、妹はまだ小学生だから……ウチの兄妹にそんなややっこしい事はないわよ」

 笑みを健斗に向けると、ちょうど搭乗開始のアナウンスが待合室に流れる。

 それよりも今日よ……あと数時間経てば生まれて初めて健斗の親と会う事になる。確か健斗のご両親って世界的に有名なミュージシャンなんでしょ? 由衣にはサインを貰ってきてなんていわれるし……ヤダ、また緊張してきちゃったよ。



『みなさま当機はまもなく東京国際空港に向けて離陸いたします、東京国際空港の天候は晴れ、気温は二十八度となっております……』

 ちょ、ちょっとぉ? 二十八度って、なに?

 ここ数日涼しかった函館の気温は、最高気温でも二十五度を上回る事はなく、その感覚で洋服を選んだ琴音は、隣で小説を読みふけっている健斗に恨みがましい視線を向ける。

「ちょっとぉ健斗、東京ってそんなに暑いの?」

 Tシャツの上から半袖のチェック柄の入ったカジュアルシャツを着た健斗に文句を言うと、やっと顔が琴音に向いてくる。

「今日は暑いみたいだね?」

 ……そんな当たり前みたいに言わないでよね? こう見えても由衣に洋服買ってもらうのを付き合ってもらって、結構気合を入れてきたんだからねぇ。

 まるで今にも噛みつきそうな顔をしている琴音に、さすがの健斗も苦笑いを浮かべる。

「そんな顔をするなって、暑かったらそのカーディガンを脱げばいいだろ?」

「確かにそうだけれど……下はノースリーブなのよ?」

「だったらなおの事いいじゃないか?」

「そういう問題じゃなくって、人前で生腕を見せる自信が……」

 言葉尻を濁す琴音に、健斗は首を傾げる。

 そうだった……この男は鈍いんだったわね? 女心がまったくわかっていないんだからぁ、最近深雪さんの料理が美味しくっていっぱい食べちゃっているの。それにくわえて部活も休んでいて運動不足気味だし……二の腕がプヨプヨしちゃっているのよぉ。

 下唇を突き出しながら健斗にばれないように二の腕に触れると、琴音の表情はさらに沈む。

「おっ、飛ぶみたいだぜ?」

 隣でワクワクしたような声をあげる健斗に琴音が顔を上げると、それまで聞こえていたエンジンの音がさらに大きくなりはじめ、次の瞬間背もたれに押し付けられるような重力が掛かると窓の外の風景が一気に傾き、飛行機はあっという間に高度を上げてゆき、窓の外の見慣れた函館の風景が模型のように見える。

 修学旅行以来ね? 飛行機に乗るのなんて、あの時は九州と関西だったから東京に行くのは生まれて初めてなのよね? ちょっとワクワクもしているかもしれない。

「そういえば今日の泊まるホテルってどこなの?」

 ベルト着用のランプが消えた頃、不意に浮んだ疑問を向けると、健斗はバッグの中からメールをプリントアウトした紙を取り出し、それを差し出すとそこに書かれているホテルの名前に、琴音は大きな目をさらに大きくして健斗の顔を見つめてしまう。

 こ、このホテルって東京でもすごく有名な所でしょ? 外国の有名俳優が来日した時とかに宿泊をする由緒あるホテル……これってすっごく高いんじゃない?

 テレビのワイドショーやニュースなどでよく聞いた事のあるホテルは初めて東京に行く琴音でも知っている名前で、それは高級ホテルの代名詞であり、高級イコール宿泊費が高いという事につながり、思わず心配そうな視線を健斗に向けてしまう。

「宿泊費はオヤジ持ちだから心配はないよ? それに向こうに着けば二人分の交通費も払ってくれると言っていたから、琴音は大船に乗ったつもりでいていいよ?」

 そんな心配そうな視線に気がついたのか、健斗はニコッと微笑む。

「でも、健斗はそうでも、あたしは他人じゃない? 他人の分までお金を払うなんて……」

 オドオドした顔をする琴音に、健斗は苦笑いを浮かべその頭の上に手を置く。

「メールで琴音を連れて行くと送ったらメールじゃなくって携帯に電話を掛けてきた……夜中に、ったくいまだに時差というものを知らないんだからウチの親は……まぁ、その時にオヤジに言われたんだよ『お前の彼女ならもう家族も同然だ』って……琴音は他人なんかじゃないよ、既にウチでは家族と同じなんだよ」

 ポンポンと健斗に頭を叩かれながら、琴音は不意に目頭が熱くなってきて、悟られまいと慌てて窓の外に視線を向ける。

 他人じゃない……家族なんだ、かぁ……ちょっと嬉しいかも……。

 視線の先はそれまで緑だった大地が、コンクリート色に変わってゆく。



=U=

「すごい人……」

 各方面からの飛行機が着いたのだろうか、出口に向かう大勢の人波に圧倒されたような顔をしながら歩く琴音に、健斗は苦笑いを浮かべながら手を差し出す。

「こんな所で迷子になっていられないよ? ここからはバスに乗ってホテルに向かう。バスの発車時間まであまりないから、もうちょっとガンバレ」

 差し出された手を琴音はしっかり掴み、人波に揺れている到着ロビーに向かう。

 本当にすごい人……関西空港も人はいたけれど、たぶんそれ以上はいるんじゃないかしら? ましてや函館に比べるとこんなに人が集まるのは『港まつり』のパレードの時ぐらいじゃないかしら……こんなに人がいっぱいの所を平気で歩ける健斗ってやっぱり東京の人なんだなぁ。

 ヘンに感心した顔をして琴音は、目標を定めたように歩く健斗の横顔を見るが、やがてその歩みがいきなり止まる。

「なんだか人がえらくいっぱい集まっていないか?」

 視線の先には手荷物を受け取るコンベアーが回転寿司のように回っており、荷物を受け取った先の出口ゲートには黒山の人だかりが出来上がっている。

「ホント、有名人でも出てくるのかしら?」

 その雰囲気はまさにテレビなどで何度か見た事がある。有名人が出てくるのを心待ちにして待っているような、そんな雰囲気が漂っている。

「いったい誰が出てくるんだろうね? ちょっと興味をソソられるかもしれないぜ。有名なグラビアアイドルとかだとすごく嬉しいんだけれど」

 少し目尻を下げる健斗に琴音はとりあえずお尻をツネリあげておく。

 もぉ、何がグラビアアイドルよ、いい年をして……自分の彼女が目の前にいるのに……でも、健斗もやっぱりグラビアアイドルみたいなナイスボディーの女の人の方がいいのかなぁ?

『函館よりご到着の茅沼健斗様。いらっしゃいましたら近くの係員までお声をおかけ下さい』

 いきなりのアナウンスに、健斗は琴音につねりあげられたお尻をさすりながらキョトンとした顔をして琴音の顔を見据えてくる。

「今、俺の事を呼んでいたかな?」

「でしょ? 函館からいま到着した『茅沼健斗』ってたぶんあなたしかいないと思うわよ?」

 もしも健斗の事でなければものすごい確立だと思うわよ? 同じ飛行機に同姓同名の人間が乗っているなんて、しかも、ありきたりな名前ならまだしも『茅沼健斗』っていう名前の人が、そんなに多くいるとは思えない。

 わけがわからずに首を傾げながら、恐る恐る近くにいた係員の女性に声をかける健斗。

「あのぉ、今放送で呼ばれたんですけれど」

 営業用スマイルを浮かべながら健斗の顔を見つめ、やがてその笑顔が本物になる。

「茅沼様ですかぁ?」

 作った笑顔ではなく本当に嬉しいという表情を浮かべる女性係員は、少し慌てた様子で近くの男性係員に声をかけると、その男性の顔色も変わる。

「こ、こちらへ!」

 引きつったように緊張した面持ちの係員にまるで引きずられるように連れて行かれる健斗を、琴音は一瞬呆然と見守ってしまうが、すぐにここに一人にされたら二度と北海道に戻れないという危機感を募り、小走りに健斗の元へ駆け寄る。

「こちらは?」

怪訝な顔をする男性係員。

「俺の連れですが、何か?」

 その対応に少しムッとしたような顔をするが、健斗の声に係員はあからさまに態度を翻す。

「そうでしたか、じゃあ一緒にこちらへ」

 なんだか嫌な感じ……それにしても一体どこに連れて行かれるの?

 到着ロビーとは正反対の、係員専用通路のような所に連れて行かれる健斗と琴音は、若干不安そうな顔をしてついて歩く。

「あのぉ、俺バスに乗りたいんですけれど……時間がないんですが?」

 痺れを切らした健斗は腕時計に視線をやり不満そうな声を係員に向ける。

「大丈夫です……こちらからお出になってください」

 通路を抜け扉が開かれると、どこかの応接室のような所につながっており、そこには、

「お、オヤジ?」

 四方を壁で囲われていて誰もいないその部屋には、健斗と同じぐらいに長身だが、どこか線が細い端正な顔立ちをした男性がサングラス越しに健斗の事を見据えている。

「よぉ健斗、しばらく見ない間に大きくなったなぁ……小学校の卒業式以来かな?」

 フレンドリーに健斗に話しかける男性は、次に琴音に視線を向ける。

「彼女が紹介したいと言っていた娘だな?」

 サングラスを外しながら歩み寄ってくるその男性の顔は、琴音も何度かテレビで見た事のある顔で、目の前に立ち止まると、その端正な顔をさらに微笑ませながら琴音に手を差し出す。

「はじめまして、私が健斗の父親、茅沼忍です。いつもお世話になっているようですね?」

 映画に出てくるジェントルマンのように、握手をした琴音の手の甲に軽くキスをする忍の仕草に対して思わず赤面してしまう。

 わっ、わぁ、すごい、紳士みたいでちょっとステキかも……。

「な、何をやっているんだよオヤジ! ここは日本なんだぞ!」

 二人の間に身体を割って入れる健斗は、不機嫌そうな顔をして忍の顔を覗き込む。



「イヤァまいったよ、空港に着いたらあっという間に人に囲まれちゃってね? 空港の係員は慌てて飛んでくるし、なんだか悪い事をしてしまったようだな?」

 屈強そうなボディーガードが運転する車。その車のセカンドシートに座り、まるで子供のような笑顔を浮かべる忍と対面する健斗と琴音。

 生まれて初めてボディーガードに護衛されながら車に乗るという経験をしたよ……。

 いまだに夢見事のような顔をしている琴音に対し、隣に座る健斗は足を組みながら憮然とした顔をして忍の顔を睨みつけている。

「ったく、当たり前だろ? オヤジだって有名人なんだぜ? もうちょっとそれを踏まえてから行動しろよな? そうしないと他の人に迷惑が掛かる」

 ばっさりと切り捨てるようにいう健斗に、忍は苦笑いを浮かべながら、次は隣に座っている琴音に視線を向けてニッコリと微笑む。

「それにしても、随分と可愛いお嬢さん……いや失礼、レディーだよね?」

 思わずトロンとしてしまいそうな笑みを向けられた琴音は、ポッと顔を赤らめながら慌てて視線を逸らしながらモジモジと指を動かす。

 ヤダ、すごくカッコいいじゃない……この人が健斗のお父様なのね? テレビで見たイメージとは全然違う……冷静沈着というイメージがあったけれど、まったく違うわ。

 事前にレンタルビデオなどで忍の出ているライブを見たけれど、その時に見せていたクールなイメージとはまったく違う忍に、琴音は戸惑ってしまう。

「よければイントロダクション……紹介してくれるかな?」

 健斗にとも琴音にともいえない視線を向ける忍に、琴音は背筋をしゃんと伸ばす。

「彼女が沢村琴音さん……俺がオヤジやオフクロに紹介したい人だよ……」

 少し照れたように琴音の事を紹介する健斗に、忍はフゥンと鼻を鳴らす。

「は、はじめまして。あ、あたし、沢村琴音です……その……いまは、えと、健斗さんとお付き合いをさせていただいております、どうぞよろしくお願いいたします」

 深々と頭を下げる琴音に、忍はクスクスと笑い出す。

「いや失礼しました、今時に見ない純朴さに思わず微笑ましくなってしまって」

 微笑みならも詫びる忍に対して琴音は不思議と嫌悪感はなく、その様子や仕草がどことなく健斗に雰囲気が似ているという事に気がつく。

 確かに親子だから顔立ちも似ているけれど、それ以上に雰囲気が似ているのかな? 話し方と言い、その表情といい……ウフフ、なんとなく嬉しい感じかも……。

「あのなぁ、人の彼女を誘惑するような事をするんじゃねぇぞ? あまり目に余るようなら昔の武勇伝をオフクロに言いつけるからな?」

 目を眇めながら言う健斗に対して、忍はそれまでの穏やかな表情を慌てたように崩し、オタオタと取り繕うようにしている。

「その話は亜希子の前でしないでくれ……ヘタにすると、お前も困る事に発展しかねないからな? もうお前も大人なんだからその辺の大人の事情を加味して発言しろよ?」

「そのあたりは今後のオヤジの態度にもよると思うけれど?」

 シレッとした顔をする健斗に、忍は口を噤んでしまい、そんな二人のやり取りに、琴音は耐え切れなくなり思わず吹き出してしてしまう。

「アハハ、ゴメンなさい。なんだか二人を見ていると親子というよりも、兄弟のように見えちゃって……仲が良いんですね?」

 目尻に涙を浮かべる琴音に、健斗は呆れたような顔をし、忍は優しく微笑みを浮かべている。

「あのなぁ、この様子が仲良く見えるのなら、世の中で本当に仲の良い親子に対して失礼に当たるぜ? 俺は嫌味を言っているだけだよ」

 吐き捨てるように言っているが、健斗の頬は少し赤らんでおり、照れた時のクセである鼻先を指で掻くという仕草も見せている。

 素直じゃないなぁ、本当はお父様に逢えて嬉しいんでしょ?

「いや、しかし本当にチャーミングなレディーだな? こんな可愛らしい娘さんが健斗なんかの彼女なんてもったいないよ」

 ウットリしてしまうような笑顔を向けられ、琴音は思わず頬を染めてしまう。



=V=

「ボス、車はメインエントランスにつけていいのですか?」

 渋滞が激しい高速道路を抜け、高層ビルが立ち並ぶ都心の一角。皇居に程近い場所で助手席に座る屈強そうなボディーガードが忍に声をかけてくる。

「あぁ、この二人は一般客だから正規のチェックインをしなければいけないからね? 気にしないでエントランスに車をつけてくれ」

「イエッサー」

 本当にドラマの中の出来事みたい……黒塗りの高級リムジンに、サングラスをかけた屈強そうなボディーガード。なんだか世界が違うような気がするよ……。

 ため息を吐き出す琴音の目の前には、テレビで何度か見た事のある光景が広がる。

「どうぞ」

 ホテルの正面で視線を浴びる中、車が止まるとすかさず助手席から降りたクロメガネボディーガードが扉を開け、琴音の事をエスコートする。

「エッ? でも……」

 困ったように視線を車内に向けると、忍は微笑みながらコクリとうなずく。

「当然レディーファーストでしょ? 彼らもそれを心得ている」

 レディーファースト……なんだかくすぐったい言葉かも……。

 照れたように降りる琴音に続いて健斗が降り、最後に忍が降りると、それまで気にした様子もなかった周囲の人間が一気にざわめく。

「ねぇ、あれ茅沼忍じゃない?」

「そうかも、でも、一緒にいるのは誰? 結構格好のいい男の子じゃない?」

 サワサワとさざ波のような声に、忍は平然とホテルのフロントに向かって歩き出し、相変わらず仏頂面の健斗がそれに続いて歩くが、琴音はなんとなく自分が場違いな所にいるような気持ちがしてどこか落ち着けない。

 客観的に見ると本当に健斗のお父様って有名人なのね? 小さい頃からの事だから慣れていると健斗は言っていたけれど、こんな状況にも慣れているなんて……もしかしてあたしと健斗って住む世界が違うのかなぁ……。

「私の名前でチャージしていた連れの二人です。ルームキーを」

 遠巻きに視線を浴びながら忍は、フロントに立つ黒服の男性に話しかけている。

「では、こちらに署名をお願いいただけますでしょか?」

 その声に健斗は備え付けのボールペンで署名をはじめるがピタリのその筆跡が止まる。

「ちょ、ちょっと? もしかして俺と琴音同部屋なのか?」

 渡されたルームキーが一つしかない事に気がついた健斗は、即席のサイン会を開いている忍に声をかけると、手は動かしながらもキョトンとした顔を健斗に向ける。

「当たり前だろ?」

 って、健斗と同じ部屋なの? しかもご両親と同じホテルで?

「当たり前って……」

 既に文句を言う気力をなくしたのか、ガックリと肩を落としながら健斗は黒服の男性に連れ添われながらエレベーターに乗り込み、その事実を知った琴音も顔を真っ赤にして続く。

「確かに日本では倫理観などからそれをよろしく見ない事が多いが、健斗だってもう大人として見ているし、琴音ちゃんも同じように見ている……それが何を意味するか二人はわかっていると思うぞ? それに、深雪の家では一緒に暮らしているんだから問題ないだろ?」

 ウィンクしながら言う忍の言葉に健斗は顔を赤らめながらうつむいてしまい、琴音も二の句が告げなくなりうなだれてしまう。

 確かに健斗とは一緒に暮らしているけれど、そこには他に人もいるわけであって、ちょっとニュアンスが違うような気がするんですけれどぉ……。

「こちらでございます」

 そんな三人の会話を聞いていないように部屋に案内をする黒服は、最上階でエレベーターを降り、見るからに高級そうなルームナンバーが掲げられている部屋の扉を開ける。

「わぁ、ひろぉ〜い」

 開かれた扉からは、予想以上に広い空間が広がっており、琴音は思わず駆け込んでしまう。

「ここって、スイートじゃねぇのか? 随分と奢ったなぁ……」

「なぁに、ここの宿泊代は今回のプロモーター持ちだからな? 私の腹は痛まんよ、いわゆる『必要経費』になるのかな?」

 背後にそんな健斗と忍の会話を聞きながらも、琴音は大きな窓から見えるまさに東京という景色に見惚れている。

 すっごぉ〜い。当たり前なんだけれど、ここって本当に東京なんだね? 目の前に見える鉄塔がたぶん『東京タワー』で、その先に見える白い吊り橋みたいなのが『レインボーブリッジ』でしょ? わぁ、テレビで見る光景と同じだよぉ。

 いくらか霞んではいるものの、よく全国放送のテレビで見る光景がライブで目の前にあると言う事だけで興奮した琴音は、目をキラキラさせながらその景色に見入っている。

「荷物を置いて一息ついたら隣の部屋に来るといい。亜希子も楽しみにしているから」

 不意に耳に入ってきた忍の声に振り向くと、既に忍は扉の外で背中越しに手を振り、その前に呆れたような顔をして健斗が立っていた。

「ったく、何が必要経費だって、まさかスイートを取ってあるなんて思っていなかったぜ……」

 ベッドルームの他にリビングが設けられている広い部屋を見渡しながら、健斗は深いため息を吐き出し、どこか所在なさげにリビングに置かれているソファーの上に荷物を放り投げる。

「すごいよね? こんな広いホテルに泊まったのは初めてかも……」

 既に感覚が麻痺してきている琴音は、渋い顔をしている健斗の顔を見つめながら無邪気な笑顔を浮かべており、そんな琴音に対して健斗は諦めたような顔をする。

「……俺だって初めてだよ、ったく、相変わらずマイペースな親だ……悪いな? 琴音」

 疲れきったような顔をしてソファーに身を預ける健斗に、琴音はキョトンとした顔を向ける。

「なんで謝るの? 別にあたしは怒ってなんていないよ? こんな所に連れてきてくれた健斗やお父様に感謝こそすれ、怒る意味なんてないよ」

 リビングのテーブルの上に用意されていたウェルカムサービスであるドリンクをグラスに注ぐと、健斗にそれを手渡す。

「いや、そう意味じゃなくって身構えなかったか? ヘンな親父で」

 心配そうな顔をする健斗の言葉の真意を理解した琴音は、ニコッと微笑みながら自らも座る。

「ウウン、もっと難しいお父様だと思っていたけれど、会ってみたらすごく気さくな人でちょっと安心したよ……むしろお父様の方があたしに対して気を使っていたんじゃないかな?」

 何種類かあるウェルカムドリンクの中からオレンジジュースをチョイスした琴音は、そのグラスを持ちながら健斗の対面に座る。

「かも知れないけれど、お前も疲れたんじゃないか? 初めての経験ばかりで……」

 琴音の事を気遣うように言う健斗の表情に、それまで感じていた疲れが解されるような気持ちになり、思わずその表情がゆるんでしまう。

 エヘ、何だかんだ言っても気遣ってくれるのね? ちょっと嬉しいかも……。

「大丈夫だよ? なんだか新しい経験ばかりで驚いているのは否定できないけれど、でも、これがいままでの健斗の当たり前の日常なのかなって思った……確かにちょっと、住む世界が違うのかなって感じたのは否めないかもしれないけれど……でも、あたしの知らない健斗が見る事ができたような気がして、ちょっと嬉しいかも」

 これは本音よ? そんな様子をまったく見せていなかった健斗が、実際はこんなにも有名な人間の息子なんて、実際に自分の目で見るまで実感がなかった。

「そんなものかねぇ……俺は久しぶりのお馬鹿な親にかなり疲れたんですけれど……」

 グッタリとした顔をしながらソファーに身を任せる健斗に、琴音は苦笑いを浮べながらグラスにさしたストローを咥えながら、改めて部屋の中を見渡す。

 スゴイなぁ……お城みたいって言うと大げさかもしれないけれど、でも、こんな広い部屋に二人だけで泊まるなんてすごく贅沢かもしれない……しかも、健斗と二人だなんて。

「ウウン、お父様はあたしに対してすごく気を使ってくれたんじゃないかな?」

 チュゥッとオレンジジュースを飲む琴音に、健斗は大袈裟に首を振る。

「それは違うと思うぜ? オヤジは可愛い女の子が好きなだけだ。俺がまだ物心つかない時のオヤジの武勇伝なんて話したら……きっと家庭が崩壊すると思うぜ」

 グラスを傾ける健斗は、本当にウンザリしたというような顔をしながら、部屋の様子を見る。

 可愛い女の子が好きって、それって、暗に可愛いって言われているって思っちゃっていいのかなぁ……健斗に……ちょっと恥ずかしいかも。

「さて、どうする? オフクロの所にも行かなければいけないし……」

 嘆息しながら言う健斗の一言に、琴音は思わず現実に引き戻されたような感じになり、その胸はかなり激しく脈打ち、その表情が硬くなる。

 そうだ……お父様はどちらかと言うと健斗に似た性格だから、違和感なく接する事ができたけれど、お母様ってどんな人なんだろう。あまりテレビやビデオに出ているのは見た事がない。

 不安からなのか、表情が引き締まった琴音に気がついたのか、健斗は優しく表情をほぐしながら顔を見据ええてくる。

「そんなに緊張した顔をする事ないよ。オフクロだって琴音に会うのを楽しみにしているみたいだし、ちょっとオフクロと琴音って性格が似ているかもしれないな?」

 ちょっとぉ、本当に女心がわからない男ね? 自分に似ている女というのは基本的に性格が合わないものなのよ? お母様とあたしが似ているって、それは喜べないわよぉ。

「でも……」

「大丈夫。オヤジがあそこまで言うのならオフクロだって琴音の事を気に入るはずだよ」

 相変わらず不器用なウィンクをする健斗に、琴音の不安はちょっとほぐれる。

第二十九話へ。