第二十九話 プロポーズと美音



=T=

「お、お邪魔します」

 二人がリザーブされた部屋の隣の扉が開かれ、中に入るとフワッとハーブのような香りが漂ってきて、それまで緊張していた琴音の気持ちが少し和らぐ。

 いい匂い……アロマテラピーというやつなのかしら? 下品に強く香るんじゃなくって、さりげなく香ってきて、なんとなく落ち着くかも……。

「健斗ぉ!」

 二人の案内された部屋でも十分広いと思われた部屋だが、こちらの部屋はさらに広く、ベッドルームとリビングの他に、会議ができそうな広い応接室までがあり、そんな広い部屋の奥からフワッと膨らんだウェーブヘアーの女性が一目散に健斗に飛びついてくる。

「だぁっ! な、何だよ」

 慣性の法則のまま抱きつかれた健斗は、素直に驚いたような表情を浮かべながらも、しかし、しっかりとその女性の事を支えており、その様子に琴音は少し目尻を吊り上げる。

 だ、誰なの? この女の人は。

「ウフフ、本当に大きくなったわねぇ?」

 ヒールの高いサンダルを履いて健斗と同じぐらいになる背丈の女性は、迷惑そうな顔をする健斗の頭を遠慮なく撫で回して再会を喜んでいる。

 もしかして、この人が健斗のお母様なの?

 薄いラベンダーカラーというのだろうか、エレガントな雰囲気のワンピースドレスを着た女性はやがて再会に細めていた瞳を、呆気に取られたような顔をしている琴音に向ける。

 そうとしか考えられないわよね? でも、すっごく若く見えるよ? 確か健斗のお母様は三十六歳って聞いていたけれど、そんな歳には見えないよぉ……。

「あなたが……琴音ちゃん?」

 女性は健斗から離れると、お世辞にも大きくはないものの、黒目がちな瞳はしっかりと琴音の事を見据えており、その視線に思わず背筋を伸ばす。

「は、はじめまして! あたし沢村琴音といいます! よろしくお願いいたします!」

 相変わらず体育会系な挨拶をする琴音は、腰を九十度に折り曲げ深々と頭を下げる。

「ウフフ、随分と元気なお嬢さんね? はじめまして。あたしが健斗の母親、茅沼亜希子です。いつも健斗がお世話になっているみたいでありがとうネ?」

 物腰柔らかく聞こえてくるアルトボイスに琴音が顔を上げると、息吹を感じるほど近くに整った亜希子の微笑を浮かべた顔があった。

「い、いえ、健斗……さんにはあたしの方がお世話になって……エト……」

 ヤダ、すごく緊張しているよぉ、こんな綺麗な女の人を間近にしたのはじめてだよぉ。

 頬を赤らめながらアタフタと話す琴音を、亜希子は楽しそうな顔をして見つめている。

「ほら、そんな所で立ち話なんてしていないで、こっちに来てゆっくりと話をしようよ、私も健斗たちの話をゆっくりと聞きたいし……」

 奥のリビングからは忍の声が聞こえてきて、その声に亜希子は琴音の肩を促すように押す。

「そうね? あたしも琴音ちゃんに色々話を聞かさせてもらいたいわ?」

 本場仕込というのか、さりげなく向けられるウィンクに、琴音はドキッと胸を高鳴らせる。

 なんで女に人にこんなドキドキしているんだろう……あたしはノーマルだと思っていたけれど、ちょっと不安になってくるよ……。

 広い部屋の一番奥になるリビング。そこは広い黒石家のリビングよりもさらに広く見え、大勢の人間がそこでくつろぐ事ができそうだ。

「ほら、そんな所に立っていないで腰掛けなよ」

 大きなテレビの正面にあるソファーに座る忍が健斗に声をかけると、憮然とした顔をしながらもその横に並ぶソファーに腰掛け、琴音も健斗の隣に借りてきた猫のように座る。

 すごくフカフカ、お尻が潜っちゃいそうだよ……。

「ようこそ茅沼家へ、琴音ちゃん」

 隣に亜希子が座ったのを確認すると、忍は満面に笑顔を浮かべながら琴音に声をかける。

「あの、エッと……」

 緊張のあまりに言葉が出てこない琴音に、忍と亜希子は顔を見合わせながら微笑む。

「そんなに緊張する事ないわよ? 別に誰も琴音ちゃんの事を獲って食おうというわけじゃないから。でも、健斗が女の子を紹介してくれるのは初めての事だから、正直言ってあたしたちもちょっと緊張しているかしらね?」

 ニッコリと微笑みながら忍の顔を見上げる亜希子に、忍もコクリとうなずく。

「あぁ、いままで本当にコイツにはこういう浮いた話はなかったが、安心したよ。しかも初めて連れてきた女の子がこんなに可愛らしいレディーとは親としても鼻が高いな?」

「ホントに可愛らしい娘で、お母さんも嬉しいわ?」

 褒め殺し。そんな単語が琴音の頭に浮かび上がってくるが、褒められる事によってその顔はまるで湯気が出るのではないかというぐらいに赤くなってゆく。

「ったく、人を七年近く一人にさせておいて良くそんな事が言えるよな? 親がなくても子は育つという日本のことわざを忘れたとは言わせないぜ?」

 皮肉ったような顔をする健斗だが、その顔はやはり嬉しいのだろう、少しほころんでいるようにも見え、そのはにかんだ様子に琴音も微笑んでしまう。

「まぁそう言うな、お前だって私たちがアメリカに来いというのを頑なに拒んでいたんだから、同じ事だろ? それに、結果的には琴音ちゃんと素晴らしい女性と出会う事もできたんだ。感謝こそされ怨まれる筋合いはないぞ? 違うか?」

 端正な顔をニヒヒと崩す忍に、健斗は顔を赤らめながらうつむく。

「っるせぇな……それよりも、なんだって俺たちの事をわざわざ東京に呼び出したりなんてしたんだ? いつもの来日ならばちょっと電話を掛けてくるぐらいで終わりなのに、今回に限ってわざわざこんな大袈裟な事を……一体何を企んでいるんだ?」

 疑い深そうな顔をして睨みつける健斗に、忍と亜希子が顔を見合わせる。

 企むだなんてそんな言い方ないでしょ? ご両親だって健斗の元気な姿を見たかったに違いがないんだし、事実こうやって再会して喜んでいるじゃない。

「疑い深くなった……というよりも、やっぱり大人になったと言った方がいいのかな? 確かに今回の来日の目的の一つはお前をアメリカに連れて行く事だ」

 ゆっくりとした動作で煙草を取り出し、それに火をつけながら健斗の顔を見据える。その表情は先ほどまでのおどけたものは消えている。

 アメリカ? 健斗をアメリカに?

「お前が嫌がっているのはわかる。住み慣れた日本に住続けたいという事。それに友達と離れたくないという事。しかし、いままで住み慣れた東京を離れ函館まで行ったのであれば、国こそ違うなれど、アメリカも変わらない……お前が拒んでいた理由が一つ消えたという事だろ?」

 理路整然と語る忍の言葉に、健斗の握り締めている拳が震え始める。

「私と亜希子はアメリカで成功した。既にアメリカの永住権も取得しているし、家もある。私たちは活動の拠点をアメリカにして、日本に戻って来る気はない」

 キッパリと言い切る忍の言葉に健斗の肩がピクッと反応する。

 日本に戻ってこないって……じゃあ健斗の両親はずっとアメリカに……。

「健斗ぉ……慣れない環境になるかもしれないけれど、アメリカはいい国よ? 全てにおいて実力だけが評価される、いままでの実績なんて役に立たないほど。あなたがやりたいという小説だってアメリカでも書く事ができるし、評価だって日本の実績主義とは違うと思うの……向こうであたしたちと一緒にやってみない?」

 懇願するような顔をする亜希子に、健斗は顔を上げようとはせず膝の上に置かれた自分の手をジッと見つめている。

「お前次第だ……もしもお前が拒否するのであれば、私たちは一生こういう格好でしか会う事ができない……一緒に住むのならお前がアメリカに来る事だけだ」

 選択を迫るような忍の声。

「あたしは健斗とこれからもずっと一緒にいたいの。だって親子なんだから……」

 涙声になる亜希子の声。

「――そんなの……」

 それまで口を開こうとしなかった健斗の声が、まるで地の果てから絞り出されるように聞こえてきて、その声に琴音を含む三人が息を呑む。

 健斗……。

「そんなの親のエゴでしかないだろ? 確かにそうだよ! 俺だってオヤジやオフクロと一緒に暮らしたい、親に甘えてみたい、だけど、あんたたちは俺の気持ちなんか、俺の生活なんか考えないでアメリカに行ったんだろ? 俺がどんなに寂しかったかわかるのかっ!」

 まくし立てるようにいう健斗の言葉に、亜希子はうつむき、忍はその言葉を真正面から受け止めるように真っ直ぐ健斗を向く。

「確かに中学や高校生だから親にベタベタしたいとは思わないよ。でも、甘えたい時にそこにいないと寂しいんだよ? 風邪をひいても、怪我をしても肉親は面倒を見てくれないんだ、それがどんなに寂しいかわかる? 近所の人に同情されるのってどんなに寂しいかわかる? 一人で飯を食うのがどんなに不味いものかわかるかよ!」

「健斗……」

 隣で唾を吐きながらしゃべる健斗の目には涙が光っており、琴音は思わずその震えている手を握り締め、吼えるようなその横顔を見上げる。

「挙句の果てに『日本には帰ってこない』って何だよ……それで俺にアメリカに来いっていうのは都合が良すぎるし、行く気は毛頭ない!」

「ちょっと待って? 健斗の言っている意味も理解できる。いまでこそ明るくみんなと一緒に生活をしているけれど、小さい頃はきっと寂しかったと思う。それはあたしにもよくわかるよ、でも、本当にいいの? もしかしたら一生実の親と合えない可能性だってあるわけでしょ? それはそれで寂しい事なんじゃないの?」

 思わず健斗に異論を投げかける琴音に、意外にも健斗はニコッと微笑む。

「かまわないよ……俺には一生傍にいてあげたい人が……彼女に俺と同じ寂しさを味合わせたくないし、離れたくないし離したくない……一生一緒にいるんだ」

 真っ直ぐに視線を向けてくる健斗の顔が涙によって一気に滲む。健斗……あなた、あたしの事をそこまで……あたしの事を思ってくれているの?

 顔を見合わせあっている二人の様子に、忍は既に短くなった煙草を灰皿に押し付け、小さく嘆息しながら口を開く。

「――わかった……どうやら私たちはお前に甘えていたのかもしれないな? 電話やメールでもそんな弱音を吐いた事がなかったのをいい事に……スマン……」

 申し訳無さそうに頭を下げる忍に、健斗は毒気を抜かれたような顔をしてその様子を見つめ、その視線を亜希子に向けると、亜希子も諦めたような顔をしている。

「お前をアメリカに連れて行くのは諦める……私もなるべく仕事を日本でするように努力をして健斗たちに会いに来るようにする」

 呆気なく言う忍に健斗と琴音は思わず顔を見合わせてしまう。

 どういう事? なんでそんなに潔いの?

 顔を見合わせお互いに首をひねりあっている健斗と琴音を見ていた亜希子がクスッと微笑む。

「本当に今回の来日の目的はこの話だったの。でも、来る前になって健斗から紹介したい人がいるってメールを貰った時点で諦めていたのよ……滅多に会えない親に紹介したいなんて、よほどだと思ったし、お父さんなんて地団駄を踏むように悔しがっていたのよ? 『くそぉ、健斗に彼女ができる前に話を進めておくんだった』ってね?」

「あぁ、まったくだ、しかも、プロポーズを親の目の前でされるなんて思ってもいなかった」

 冷かすような忍の一言に、顔を見合わせていた二人はほぼ同時に顔を赤らめる。

 そっか、取りようによってはプロポーズになる……わよね? って、プロポーズ?

「ホント、これならもう一つの目的も達成できたんじゃないですか?」

 安心しきったように忍に寄り添いながら顔を見上げる亜希子の表情は、どこか嬉しそうに見え、忍もウンウンとやはり嬉しそうな表情を浮かべて二人を見据える。

「な、何だよ、もう一つの目的って」

 照れ臭そうに口を尖らせ、視線をあらぬ方に向けながら言う健斗に、亜希子は微笑んだまま、チラッと琴音に視線を向ける。

「――健斗のお嫁さんを見たいという事よ?」

 お、お、お嫁さんって……もしかして、あたしぃ?

 ボンと音を立てるように赤くなる琴音は、既にその赤味を顔だけに留めず、ポニーテールにして露になっているうなじから、首筋や鎖骨に至るまでを赤く染めている。

「ば、馬鹿な事を言うなよな? そんなお嫁さんって……琴音が……」

 珍しくアタフタと戸惑っている健斗は、恥ずかしそうにチラッと琴音に視線を向ける。

「違うのか?」

 意地悪顔をしながら忍が健斗の顔を覗き込むと、さらに健斗の顔は赤くなる。

「違うとか違わないとかの問題じゃなくってだなぁ、俺はまだ大学生だし、琴音にいたってははまだ高校生だぜ? まだ結婚なんて早い……」

「あら? あたしが琴音ちゃんの年には赤ん坊のあなたを抱いていたわよ?」

 シレッとした顔をして亜希子が口を挟んでくると、健斗は身を反らしながら口をつぐむ。

「ぐぅ……」

「それとも、お前は琴音ちゃんを嫁にするつもりはないというのか?」

 ビシッと健斗に向けて指を指す忍、ニコニコ顔の亜希子、その言葉に少し不安げな表情を浮かべて顔を見上げる琴音、そんな三人の視線を一手に受けて健斗は困った顔をする。

「そ、そりゃ俺だって琴音と一緒になれるのなら嬉しいけれど……でも、こればっかりは俺の気持ちだけじゃあどうにもならないだろ?」

 そんな健斗の一言に、それまで向いていた一同の視線が今度は琴音に向く。

 あ、あたし?

「確かにそうだな? そのあたりはどうなんだい? 健斗からのプロポーズの答えは……」

 懇願するような目をする健斗を筆頭に、どこかワクワクしたような顔をしているその両親、その視線を一手に受けた琴音は思わず視線を泳がせてしまう。

 こ、困ったよ……。

「何もそんなに答えを急く事ないだろ? 琴音だって困っているじゃないか……」

 二人の視線に晒されていた琴音の目の前に、健斗がその身体を割り込ませてくる。

「プロポーズと言ってもまだ結婚をしてくれという意味じゃなくって、あくまでも俺の理想を言っただけだよ。本格的に付き合いはじめてまだそんなに日も経っていないし、彼女にはまだ考える余地がいっぱい残っていると思うから、だから、そんなにせっつかないでやってよ」

 健斗……あなたは本当にそう考えてくれていたの? あたしのためにそんな事まで考えてくれていたんだ……エヘ、なんだか嬉しいなぁ。あなたはあたしの事をそこまで考えてくれている、あたしの事を一生大事にしてくれる、そんなにあなたに愛されている。だったらあたしの答えは決まっている……この人があたしの最愛の人なのだから。

「――――喜んで……喜んでお受けさせていただきます……こんなあたしでよければ、あたしを健斗の……健斗の奥さんにしてください」

 背中を見せている健斗のカジュアルシャツの裾を引っ張りながら、琴音は声を震わせ、その声に健斗は驚いたような顔を振り向かせる。

 当然だよ……これ以上にあたしの事を考えてくれる人なんているはずない。あたしの事を大切にしてくれる人なんていない……あたしもそう。あなた以外の人は見えない。あなた以上に大切な人はいない……だから一生一緒にいよ?

 涙を浮べ見上げる琴音は、しかし、満面に笑顔を浮かべており、その表情に健斗の顔には笑顔が溢れてゆき、親の前だというのに琴音の身体を抱しめる。

「おいおい、親がいる目の前で何をやっているんだ? そういう事は二人っきりになってからにしろよ、まだ日も高いんだ」

 茶化すように言う忍に、健斗は慌てて琴音の身体を離す。

「な、何を言っているんだ、ただ俺は嬉しくって……でも、琴音……本当にいいのか? 俺なんかで……お前の傍にいるのが……」

「当たり前でしょ? あなたじゃなければ嫌に決まっているじゃない」

 指で涙を拭いながらニコッと微笑む琴音は、すぐに忍と亜希子に向き合い深々と頭を下げる。

「ただ、さっき健斗も言っていた通り、お互いまだ学生ですし、せめて進路が決まるまでは結婚は待っていただけないでしょうか?」

「そうだ、俺だってまだ三年残っているし、琴音はこれから大学なんだぜ? そんなすぐに結婚したくってもできるはずがないだろ?」

 取り繕うように言う健斗に、忍はフムと鼻を鳴らす。

「でも、お互いに結婚はしたいんだろ?」

 そんな忍の一言に健斗と琴音は顔を見合わせ、どちらともなくコクリとうなずく。

「そりゃあできる事ならしたいよ……でも、俺たちはまだ学生だし、収入があると言ってもそれは本当にバイト程度の収入で、琴音を養う事なんてできないよ」

「であれば、結婚までいかなくとも婚約と言う形でいいのではないか? いずれ二人は結婚をする。その意思にお互い間違いはないんだろ?」

 なんら問題ないというような顔をする忍に、健斗はコクリとうなずき、その隣で琴音も同じようにコクリとうなずく。

「じゃあいいじゃないか、とりあえず婚約をするという事で……まぁ、本当に結納だとか格式ばったような事をするには琴音ちゃんの両親と話をしなければいけないだろうけれど、二人がそう考えているのであれば私たちは反対しないし、これからも二人を応援していく」

 ニコッと微笑む忍と亜希子はお互いに顔を見合わせながらうなずきあっている。

「あとは孫の誕生を心待ちにするだけだな?」

「そうね? 琴音ちゃんに似た可愛い女の子がいいわね?」

 話し(妄想)を膨らませてゆく忍と亜希子に、二人は思わずうつむいてしまう。

 まさか、あたしたちの関係を知っているわけじゃないわよね? お父様とお母様……。



=U=

「わりぃ、なんだかヘンな話しになっちゃったな?」

 これからコンサートの打ち合わせがあるという忍たちと別れ、健斗と琴音はホテルを一旦出て、最寄りの駅である地下鉄『溜池山王』駅に向かう。

「ウウン、大丈夫……急な話しでちょっとビックリしたけれど……」

 ニコッと微笑む琴音だが、その表情はどこか引きつっているようにも見える。

「勝手な親だから言わせておけばいい……まぁ、本音には違いがないんだけれど」

 恥ずかしそうに頭の後ろで手を組む健斗に、琴音はクスッと微笑みながら健斗に寄り添うが、やはりその表情は硬いままだ。

 無理もない。これから東京見物をするというのであれば俺だってこんなに緊張はしないが、これから向かうのは美音ちゃんのところだからな?

「――美音ちゃんと連絡取れたの?」

 迷路のように曲がり、ゴチャゴチャと人が溢れている駅構内を歩く健斗に、なんとかはぐれまいと追いかける琴音が声をかけてくる。

「話はしていないけれど、メールで連絡はしてある。近くまで行ったら電話するよ」

 券売機の前で路線図を確認しながら切符を買う健斗は冷静そうに見えるが、この後起きるであろう美音との話しのシミュレーションで頭の中はいっぱいになっている。

 どこかで待ち合わせをしようという話しだったけれど、オヤジたちとの話がどれぐらいになるかわからなかっかたため、とりあえず最寄り駅まで行くという話しになっている。しかし、どこで話を切り出せばいいのかわからない……喫茶店が常套手段であろうか……。

「ねぇ、どこまで行くの? ていうか、具体的な地名を挙げられても、きっとあたしにはわからないと思うけれど……」

 切符を受け取りながら琴音が苦笑いを浮かべるのは無理がない。健斗でさえ半年振りといっていいであろう東京の移動に既に疲れを感じはじめている。

 こんなに歩き難かったっけ? なんだか思うように前に進めないような……俺でこんなんじゃあ琴音だって疲れるだろう。

 チラッと視線を琴音に向けると、案の定、琴音は額に薄く汗を浮かべながら必死の形相で健斗に着いて歩いている。

「これから地下鉄の『銀座線』に乗って『表参道』という駅まで行く。そこで『半蔵門線』に乗り換えてそのまま東急の『田園都市線』に乗り入れて『青葉台』という駅まで行く」

 簡単に説明をするものの、その説明に琴音は納得したような顔をする事はなく、むしろその眉間に浮んでいるシワは余計深くなっているようにも見える。

 無理もない。生まれて初めて東京に来て、しかも、慣れている人間でも頭を捻る地下鉄だ、その複雑さは琴音にとっては迷路と同じだろう。

「今の話しの中でわかったのは、『銀座』と『表参道』だけ。他はまったくわからない……」

 口を尖らせる琴音に、健斗は苦笑いを浮かべ手を差し出す。

「だったら俺につかまっていろ。少なくともそうすればはぐれる事はないから」

 人が途切れる事がないのではないかという駅の構内で手を差し出された琴音は、ちょっと躊躇しながらも、ギュッとその手を握り、それを伝うように今度は健斗の腕にしがみ付いてくる。

 おっ? おぉ?

 思いがけない大胆な行動をとる琴音に、思わず健斗の歩みは止まってしまい、腕にしがみ付いている琴音に視線を向けてしまう。

「これなら大丈夫でしょ? こんな所で一人っきりになったらきっとあたし遭難しちゃうよ」

 ニヒッと顔を上げる琴音に健斗は顔を赤らめてしまう。

 これは……なかなかどうして、いい雰囲気でないかい? 函館にいる時に琴音と腕を組んだ記憶はないし、もしかして初めてかもしれないなぁ……それに、腕に……俺の腕に琴音の胸が当たって……フニフニって……別に純情ぶるわけじゃあないけれど、シチュエーションにちょっと感動を覚えるかもしれないぜ。

 一人でニヤニヤする健斗の顔を、キョトンとした顔をする琴音が覗き込み、その二人の目の前にはアルミボディーにオレンジ色のラインの入った電車が入ってくる。



「すごいね? これで郊外の駅になるの?」

 高架式になっている東急田園都市線の『青葉台』駅は、土曜日という事もあるのだろうか、かなりの人間で賑わっており、その様子は函館駅の比にはならない。

 俺も初めて来たけれど、新興住宅街の駅というよりも、完全に街が出来上がっているという感じだな? 駅も立派だし、隣接するショッピングセンターにも人が大勢押しかけている。

 初めて降り立つ駅に、少し不安げな顔をしながら健斗はキョロキョロと辺りを見渡す。

 さっき乗り換えの時間の合間に美音ちゃんに電話をしたら、迎えに行くから駅前で待っていてくれって言っていたよな? って、駅前ってどっちになるんだ?

「健斗せんぱぁ〜いっ!」

 駅の構内中に響き渡るような声に健斗は無意識に首をすくめてしまい、その声に振り向くと、白いキャミワンピースにデニムのクロップドパンツといった姿の美音がサラサラの長い髪の毛を揺らしながら元気よく手を振って駆けて来る。

 タハハ、美音ちゃんって見るたびにイメージが変わるよな?

 苦笑いを浮かべる健斗の隣では、琴音が表情を強張らせながらその姿を見据えている。

「わぁ、琴音ちゃんも久しぶり! やぁ、なんだか地元で先輩に会うのってちょっと新鮮かもしれないなぁ……なんとなく感動的かも……」

 息を切らせながら健斗の顔を見上げる美音は、夏に函館に来た時と同じような笑顔を健斗と琴音の顔に向けるが、琴音の表情はどことなくぎこちない笑みを浮かべるだけだ。

「エッと……美音ちゃんも元気そうで何より……」

 すっかり健斗が高校時代に思い描いていた薄幸の美少女という影をなくしている美音に、思わず苦笑いを浮かべるが、その笑いの中にはこれから起こるであろう修羅場を想像してのものも含められ、その胸は異常に動悸が激しくなっている。

「こんな所で立ち話もなんですから、近くにコーヒーの美味しい喫茶店があるんでみんなで行きませんか? 琴音ちゃんもそんな格好じゃあ暑いでしょ?」

 函館を出た時と同じ格好をした琴音は、相変わらずうっすらと額に汗を浮かべており、夏の様相の周囲に対して異彩を放っている。

「う、ウン……そうね?」

 しかし、その汗の原因は気温だけのものでは無い事を知っている健斗は、

「んだなぁぃ、なまらあちくってたまらんよ……東京ってこんなにあっちい所だったかいねぇ」

 最近慣れはじめた北海道弁をつかいながら話すと、美音はクスクスと微笑みながら歩き出し、健斗も琴音の背中を軽く押して促す。

「健斗……」

 救われたような顔をする琴音に、健斗はわざとニカッとおどけたような笑顔を見せる。



「生き返る……正直言って本当に東京ってこんなに暑かったっけ?」

 街の雑踏から少し離れた所にある雰囲気のいい喫茶店の中は、程よくクーラーが効いており、店内に流れているのはモダンジャズのナンバーだった。

 なんだかいい雰囲気の店だなぁ……客も少なくって、そういう話をするにはベストの場所とでもいうのかな?

「先輩は夏でもホットですよね? あたしはアイスミルクティーで、琴音ちゃんはどうする?」

 相変わらず言葉の少ない琴音に、美音は諦めたようにフッとため息を吐き出しながらウェイトレスにオーダーを入れる。

 このナンバーは『マイルス・デイヴィス』かな? 特有のトランペットに、サックスは『ジョン・コルトレーン』。結構このマスターは音楽好きと見た。

 ジャズのスタンダードナンバーが流れる中、いつの間にか三人の間に沈黙が訪れており、ちょうどいい塩梅に曲が流れ込んでいる。

「エッと……」

「えと……」

「あのな?」

 痺れを切らしたように三人が口を揃えたように開き、お互いの顔を見合わせる。

 き……気まずい、なんだかものすごく重苦しい雰囲気がこのテーブルの周りに流れているように感じるのは、俺の気のせいなのだろうか……。

「…………あたしの失恋確定ですか?」

 うつむきながら呟く美音の台詞に、健斗と琴音の言葉が止まる。

「……ゴメン美音ちゃん……あたし……」

 小刻みに肩を震わせる琴音は振り絞るように声を出すと、意外にも笑顔を浮かべた美音が二人の顔に向いてくる。

「何をそんなに真剣になっているんですか? あたしにはなんとなくわかっていたんですよ? 琴音ちゃんが先輩の事が好きで、先輩は琴音さんの事が好き……いわゆる相思相愛。やっぱり先輩にすがり付いて『函館に行かないで』って言うべきだったと後悔もしていますけれど、こればかりはあたしにはどうにも出来ない。でも、来年明和大を受ける気持ちは変わりません」

「だって……美音ちゃん、あたし……」

「いつそんな関係になってもおかしくないと思っていたし、なって当たり前と思っていたからそんなにショックじゃないよ? あたしはまだ琴音ちゃんと同じ土俵に立っていない。諦めるのはお互い胸を合わせてからでも遅くないと思っているの。だからあたしは明和大を受けて、学校に受かって、琴音ちゃんと同じ土俵に上がるつもり……負けたなんて思っていない。好きな気持ちがそれだけで変わる事もないし、諦めるつもりもないよ?」

第三十話へ。