第三十話 東京タワー



=T=

「お先……だよ」

 ボンヤリとした表情の健斗の視線の先には、瞬く東京の夜景が広がっている。

「健斗?」

「ん、あぁ、わりぃ……」

 ボンヤリした顔で再び窓の外に視線を向ける健斗に、風呂から出た琴音は小さくため息を吐き濡れた頭をタオルで拭きながら近寄る。

「どうしたの? ボンヤリして……色々な事がありすぎて疲れちゃった?」

 函館から東京に飛んできて、健斗の両親との再会、あやふやだけどプロポーズ、そして、美音ちゃんとの話し……あたしも結構疲れたけれど、健斗はきっともっと疲れていると思うよ。とくに美音ちゃんの件に関してはかなりヘコんでいるみたいだし……。

「あぁ、ちょっとな?」

 帰りの電車の中から健斗の表情はずっと変わらない。死んだ魚のような覇気のない目をしており、心ここにあらずというような顔をしている。

 ――あの喫茶店で美音ちゃんには、それまでのあたしたちの事を包み隠さず話をした。少し躊躇いもあったけれど、あたしたち二人が深い関係になったという事も健斗は打ち明けた。

 その話を聞いていた美音はさすがに辛そうな顔をしていたが、健斗が全てを話しきり、深々と頭を下げる時にはいつもと同じ笑顔を浮かべていた。だが、その笑顔がかえって健斗の気持ちを落ち込ませてしまっているのだろう。

「美音ちゃん……?」

 誰が見ても落ち込んでいる様子の健斗に小さくため息を吐き出す琴音の口から、ため息と共に美音の名前が出ると、健斗の肩がピクリと反応する。

 もぉ……。

「健斗ぉ、何をそんなに落ち込んでいるの? もしかして美音ちゃんのせいなの? だとしたらそれは考え違いよ?」

 腰に手を置きながら、座っている健斗の鼻先にまで顔を近づける琴音に、さすがの健斗も虚を衝かれたような顔をしている。

「考え違い?」

「そう! あのね? きっといま健斗は『俺がハッキリしなかったから美音ちゃんに辛い思いをさせてしまったんだ』とか考えているんでしょ?」

 再び肩をピクリと反応させ、視線があらぬ方に泳ぎはじめる。

 ホント、わかりやすい男と言うのか、単純な男というのか……ったくぅ、ヤキモチを妬く暇もないぐらいよね?

 深いため息を吐き出し口を尖らせながら、諦めたように健斗の鼻先に白い人差指を置く琴音の表情は当てようのない怒りに似たものが浮んでいる。

「どうやら図星みたいね? アノね? たしかに健斗の考え方に一票を投じる人も多いかもしれないわよ? でも、それはあくまでもあなたの思い上がり……」

 厳しい琴音の一言に一瞬健斗の眦が上がり、険しい表情を作る。

「だって、べつにあなたが美音ちゃんに告白をしたわけじゃあないでしょ? あくまでも『美音ちゃんがあなたの事が好き』だっただけじゃないの?」

 高級ホテルのスイートルームにはあまり似つかわしくない、どことなく庶民的なパジャマを着た琴音は、フッとため息を吐くと、健斗の正面に置かれている椅子に座り込み、どこまでも続いているように錯覚する東京の夜景に視線を向ける。

 東京の夜景というのも結構綺麗なのね? ちょっとドラマのヒロインになったような気分かもしれないなぁ。函館に帰ったら由衣に自慢しちゃおうっと……って、違った。

 コホンと咳払いをして視線を健斗に向ける。

「好きになる事に理由は必要なの? 美音ちゃんが健斗の事を、健斗があたしの事を、そして、あたしが健斗の事を好きなのに、理由というのは必要なの?」

 ジッと見つめる琴音の視線から健斗が眼をそらす。

「あのね? たしかに女の視点からすれば嬉しい事かもしれないわよ、フラれた相手がいつまでも自分の事でそんなにも悩んでくれるなんて理想的なのかもしれない。でも、それって当事者であるあたしからすると、すごく怒ってもいい事かもしれないよ? 告白された女の子の事を自分の彼氏がいつまでも考えているなんて、本当にあたしの事を好きなのってね?」

 白く細い琴音の指が、健斗の鼻先に再び突きつけられ、健斗は言い返そうと口を開きかけるが、妥当な意見が出なかったのか、すぐにつぐんでしまう。

「あなたの気持ちは美音ちゃんにちゃんと伝えた。だから後の事は美音ちゃんが考えればいいだけの事。何もあなたが悩む必要はない……正直に言うとね? あたしも東京に出て来るまですごく悩んだの。美音ちゃんと違って、ポッと現われたあたしが健斗に好かれちゃっていいのかって、美音ちゃんに怨まれないかってすごく心配だった。でも、今日美音ちゃんに会って本当によかったと思っているの。別れ際にも改めて宣戦布告されちゃったし……」

 喫茶店を出る際、健斗が会計している時に美音が琴音に耳打ちしてきた言葉を思い出し、琴音は思わず微笑んでしまう。

『あたしが函館に行って、今度は琴音ちゃんが後悔する事になっても知らないよ』

 ウフ、ああ見えて結構意地っ張りというか、芯の強い女の子なのかもしれないなぁ、美音ちゃんって……案外とあたしの方が本質的に弱かったりして……。

「宣戦布告?」

 キョトンとした顔をする健斗に、琴音は悟られまいと両手を顔の前でパタパタと振る。

「まぁまぁ男の子が細かい事を気にしないの」

 ニィッと微笑むも、琴音の表情が曇るまでさほど時間がかからなかった。

「――ねぇ健斗……あたしってば安心をしていていいのかなぁ……」

 ガラス製のテーブルに視線を落としながら声をかける琴音に、健斗は首を傾げる。

「安心?」

「そっ! だって、あなたって意外にモテるのを自覚している?」

 ダンッとテーブルに手をつき、顔を突きつけながら困ったように眉毛をハの字にしている顔を向ける琴音の言葉の中にあった意外という所で、一瞬健斗の頬がヒクッと脈動するが、その表情は相対的にキョトンとした顔をしており、

「俺がモテる? それは無いだろ? いい男は世の中にごまんといるんだぜ?」

 カンラカンラと一笑に付す健斗に、琴音は呆れ顔を浮かべながら椅子に座り直す。

 本当にこの男は……安心して良いのか悪いのかあたしにもわからないよ……。

「はぁ、ったく、本人に自覚症状がないからあたしの闘争心にも火がつかないのよね?」

 脱力したように肩を落とす琴音は、恨みがましそうに健斗の顔を見上げる。

「よく聞いてね? あなたはモテるの! あたしの身の回りにもあなたに惚れている人間は結構いるわよ? 美音ちゃんを筆頭にして……」

 あたしの知っている限りでは他に花織先輩に、由衣でしょ? 皆川先輩はとりあえず津軽海峡の底にでも沈めておいて……他にもきっといると思うのはあたしのオンナの直感。

「んなわけねぇだろ? 俺に惚れるなんてよほどの好きモノ……いや、失言……」

 ギロッという音が聞こえそうな琴音の視線に、健斗は身をすくませる。

「ったく……あたしが心配なのは、そんなにモテる健斗の……健斗のぉ……」

 勢いよく話し出す琴音だが、やがてその言葉尻は自身なさそうに窄まっていってしまい、健斗はその様子を伺うように琴音の顔を覗き込んでくる。

「俺の?」

「もぉ、本当に超が付くほどの鈍感男なんだからぁ! あたしがあなたの彼女! あなたのご両親曰くのフィアンセ? ……なんかで大丈夫なのかなぁって!」

 真っ赤な顔をしながら言う琴音の勢いに、一瞬健斗は気圧されしたような顔をしていたが、やがて柔らかい微笑を浮かべてきて、その表情に琴音は胸の内でホッとため息を吐き出す。

「ばぁか、そんなの当たり前だろ? 仮にだなぁ、本当に仮にだぞ? 俺がモテるとしたってそんな事は関係ない。俺が好きなのは、そのぉ……だなぁ……」

 ポフポフと琴音の頭を叩きながら話しだすものの、今度は健斗が途中で言葉を詰まらせ、琴音の顔に意地悪い表情が生まれる。

 ニヒヒ……幸せだよ? 健斗!

「あなたが好きなのわぁ?」

 意地悪く顔を覗き込む琴音に、健斗は鼻先を掻きながら顔をそらせるが、さらに琴音の顔がそれを追いかける。

 何回でも聞きたいよ、健斗のその言葉を……。

「そんなのは決まっているじゃないか……」

 さらにも顔をそむけ、気が付かないうちに既に二人は椅子から立ち上がってしまっている。

「ずるいぃ、あたしだってちゃんと言ったんだからぁ、健斗もはっきり言ってよねぇ」

 健斗の事を追いかけるような琴音は、口を尖らせながら抗議の表情を浮かべて睨みつけ、背中を向けつつも、照れ臭そうに落ち着きの無くなっている健斗は諦めたような表情を浮かべる。

「わぁった、言うよ……俺が好きなのは……そのぉ……お前だけだから……」

 意を決したように言う健斗は、視線を合わせないように琴音に向き直る。

「お前って?」

 さらにも意地悪く言う琴音に、健斗は身体を縮めこみながらボソボソッと言う。

「…………琴音……だよ……そうですよ! 俺はきっちりと琴音に惚れていますよ! だからドップリとお風呂に入っているように安心していい!」

 捕れたての新鮮な甘エビのように顔を真っ赤にした健斗は、視線こそ琴音に合わせないながらも、はっきりとした口調で言い切る。

 エヘへ……直接言われると、改めて幸せな感じかな? エヘ……エヘへ……。

 ふてくされたように顔を背けてしまう健斗に対して、琴音は頬杖をつきながら、幸せそうな満面の笑みを健斗に向ける。

 エヘへ……健斗……あたしもだよ? あたしも健斗の事が……だぁいすきぃ!

 無意識なのであろう琴音はそっぽを向いた健斗に思わず抱きつくと、二人の距離は当たり前ながらも鼓動を感じ、見つめあったお互いの顔が徐々に近付いてゆく。

「あたしもだよ健斗? あたしも健斗の事が……あなたの事が大好きです……もう離れるなんて考えられないよ、あたしは健斗と一緒にいたい……離れたくなんてないよ……」

 息吹を感じるほどに近付いたお互いのシルエットはやがて一つに重なり、さらに深くお互いの体温を感じようとその身体を寄せ合う。

「俺がオマエの事を離すわけがないがじゃないか。俺はいつまでもオマエの傍にいるよ……どんな時でもずっと……一緒だ……よ」

 それまで明るかった電気が薄暗く消え、部屋の中には自然に入ってくる東京の夜景が色とりどりに映りこんでくる。

 あなたの温もり、絶対に忘れる事なんて無い……あたしの事を愛してくれたあなたの温もり。これがあなたに愛されていると言う証なのであれば、こんなに幸せな事は無いよ。

 遮るもののない温もりに、琴音は幸せそうに微笑を浮かべながらソッと目を閉じる。



=U=

「くはぁぁぁ……」

 普段ではきっと目が覚めないであろう早い時間に目を覚ました健斗は、大きなあくびをしながら大きな窓のカーテンを開けると、そこには既に活動を開始している東京の街並が広がる。

 当たり前なんだけれど東京だなぁ……なんだろう、落ち着いた感じが無い……常に時間が動いているように感じるのは俺が函館の時間に慣れてしまったせいなのだろうか……。

 ビルの合間を網目のように走っている足元の高速道路上には、あいも変わらず渋滞を予想させる車のテールランプが点灯しはじめている。

 ホント、忙しない街だな? ある意味東京から離れて知ったのかもしれないぜ? 人間ゆっくりと物事を考える事も必要なんだって……こんなに忙しないとゆっくりと自分の事を考えるなんていう事はできなかったかもしれないなぁ……。

 高速道路の更に下にある歩道を、まだ暑いというのにスーツを着たサラリーマンやOLがオフィスに向かって忙しそうに歩いているその姿を一流ホテルのスイートから見下ろしていると、まるで自分が天下を取ったような錯覚にとらわれる。

「サラリーマンか……それも悪くないのかもしれないな?」

 窓から見下ろす景色に、誰に言うわけでもなく健斗は一人ごち、ベッドに横たわり幸せそうに寝息を立てている琴音に視線を向ける。

 ちょっと前なら同じ部屋で枕を共にするなんて考えもしなかったよな? 初めて会った時は痴漢なんて言われて、お互いの第一印象は最悪だったのに、いまでは枕を共にする間柄になっている。ちょっと照れ臭いかもしれないけれど、もしかしたら、結果的にあれが運命だったのかなって最近考える事があるよ……二人の出会いの……。

 横を向きながらスゥスゥと心地良さそうな寝息を立てる琴音に対して、健斗は優しい笑みを浮かべながらその枕元に顔を近寄らせる

 何だかんだ言っても、寝顔は幸せそうな顔をしているよな?

 微笑んでいるようにも見える琴音の口からは、あいも変わらず規則正しい寝息が聞こえてきて、健斗がさらに顔を近づけその息吹を肌で感じるほどまで顔を寄せると、大きな琴音の瞳が突然開かれ、その黒目は驚いたようにキョトキョトと動き回っている。

 ――目覚めがいい娘だ……。

 ハッキリと開かれた琴音の瞳には、はっきりと健斗の顔が映り込んでおり、やがて、

「キッ…………」

 き?

「キャァァァァァァァァァァァァ〜〜〜〜〜〜ッ!」

 まるで幽霊でも見たような悲鳴……って、そこまで驚く事ねぇだろ?



「それで、お義父様たちのコンサートって夕方からでしょ? それまではどうするの?」

 白のカットソーにダークブラウンのフレアースカートという、少しよそ行きの格好に着替えた琴音は、先に着替えて窓の外に視線を向けている健斗に声をかける。

「ん? そうだなぁ、時間潰しに東京見物にでも行くか?」

 振り返った健斗の視線の先には、既にワクワクと満面の笑みを湛えた琴音の顔があり、それは結果を聞かずしても健斗の案が可決された事を証明していた。

 ハハ、ホント表情だけでよくわかる娘だ……。

 ポフッと琴音の頭に手を置きながら健斗が優しい笑みを浮かべると、琴音は少し照れ臭そうな顔をし、何気なく窓の外に視線を向けると、それが何かを見つけたように止まり、健斗はその視線を追うように自らも視線を動かす。

「あそこに行きたいかも……東京タワー……」

 その視線の先には紅白に塗られた高い鉄塔。東京のランドマークと言ってもおかしくないであろう『東京タワー』が、わずかに見える緑の丘から顔を見せている。

「らじゃ、それでは行きましょうかね?」

 ルームキーを取り上げ、健斗がチャリンと音を立てると、満面に笑みを浮かべたまま琴音はコクリと大きくうなずく。



「姿は見えども近くにはつけない……」

 目の前には徐々にその姿を大きくするも、なかなかそこに辿り着く事はできず、既に二十六度を上回っている気温の中、琴音の額には大きく汗が浮かび上がっている。

「対象物が大きいからな? たぶんこの坂を登りきれば着くはずだ」

 苦笑いを浮かべながらも健斗も同じように額に浮んでいる汗を拭い、なだらかな坂をゆっくりと登りきると、二人の目の前……というよりも目の上には、紅白の鉄塔がまさにそびえ立っており、その大きさを物語る足が目の前に鎮座している。

「わぁ〜、大きいなぁ……さっきから想像はしていたけれど、間近にするとホント大きいよ」

 裾広がりな紅白の鉄塔『東京タワー』を、おのぼりさんよろしく、口をポカンと開けながら見上げる琴音に、健斗は苦笑いを浮かべる。

 ハハ、悪いけれど田舎モノ丸出しなんですけれど? 琴音さん……と言っても、俺も小学校の時に社会科見学で来たっきりだからなぁ、あまり琴音と大差は無いかも……。

 目をキラキラさせながら見上げている琴音に付き合うように、健斗も見上げてしまう。

「そう、正確には『日本電波塔』と言って、名事実共に東京のランドマークになっているよね? 高さは333メートル。正確には332・6メートルはパリのエッフェル塔の324メートルよりも8・6メートルも高く、今現在でも自立式鉄塔としては世界一高いんだ」

 必死に小学校時代の記憶を思い出す健斗に、琴音は感心したような顔をしている。

「ヘェ、という事は、函館山の標高が334メートルだから、あまり変わらないのね? でも、なんとなくこっちの方が小さく感じちゃうのは、その1メートルのマジック?」

 アゴに指を置き健斗の事を見上げてくる琴音に、健斗は思わず笑い出してしまい、その様子に琴音はいじけたように口を尖らせる。

「ハハハ、わりぃ、実は俺もそう思ったんだよ、初めて函館に行った時に、そんなに差がないのに函館山の方が大きく見えたんだ……でも、1メートルの差だけじゃなくって、裾野の広がりや、対象物となるものの差なんじゃないかな?」

 周囲を見渡すと緑が生い茂る中からも高いビルがチラチラと見え、その高さはその昔日本一といわれていた国際貿易ビルを簡単に追い越している。

「たしかにそうかも……函館で一番高い建物が『五稜郭タワー』でしょ? その三倍の高さだから、きっとすごい景色が見えるんでしょうね?」

 ワクワクしたような顔をして健斗の顔を見上げる琴音に、健斗は思わず苦笑いを浮かべながら、再びその紅白の鉄塔を見上げる。

「俺も小学校以来だからね? どんな景色が見えるかわからないよ……あの当時よりも高いビルが増えているし、あまり期待は出来ないかな?」

「もぉ、生まれて初めて昇る人間がいるのに、そんなネガティブな事を言わないでよね? かなり期待しているんだからぁ」

 膨れっ面の琴音は健斗の顔を睨みつけるが、その腕はしっかりと健斗の腕に絡みつく。

「早く行こうよ」

 満面に笑みを湛えた琴音に腕を引かれながら、健斗もタワーの中心に向かって歩き始めると、大きいながらもあまり目立たない犬の銅像に琴音の足が止まる。

「これは?」

「これは南極観測の最に有名になった『カラフト犬』の像だね? 昭和三十四年に日本動物愛護協会が、こんな事故は二度と起きて欲しくないという意味を込めて、その当時建設されて有名だったここに作ったらしいよ?」

 四本ある東京タワーの足の一つに張り付くようにあるのは、まるで映画の一場面のように再現されている十五頭のカラフト犬の像だった。

「ヘェ、結構したたかな意味だったりして」

意地の悪い表情を浮かべながら見上げてくる琴音に、健斗は小学校の頃に教わった記憶を必死に紐解こうとしている。

記憶の奥底でホコリをかぶっていたものを引き出し、無意識にくしゃみがでてしまいそうなんですけれど……たしか、俺の記憶が確かならこの像を作った人は……。

「この像を作ったのは、有名な『渋谷ハチ公像』を作ったのと同じ人だと思ったなぁ」

 正解。彫刻家の安藤士氏です。

「ヘェ、確か『ハチ公』って言ったら、渋谷の待ち合わせの定番の場所なんでしょ? 健斗もそこで待ち合わせとかをした事があるとかぁ〜?」

 意地悪い顔を健斗に向けてくる琴音に、一瞬詰まる。

 別にやましい事はないよな? 同人誌のイベントや、あの学校の待ち合わせの定番が『ハチ公の尻尾』だったのだから、美音ちゃんと待ち合わせをした事があるというのもあながち間違ってはいないのだが、それを琴音に伝えていいのだろうか?

 高校時代の甘酸っぱい事を思い出し、健斗の視線が戸惑ったように泳ぐのを琴音は見逃さなかったのか、それまで意地悪っぽかった表情をいじけたようなものに変える。

「あぁ〜、あるんだぁ〜っ! 美音ちゃんと待ち合わせをしたり、あたしの知らない他の可愛い女の子と待ち合わせなんかしちゃって、『まったぁ〜』とかぁ、『ウウン、全然待っていないから大丈夫だよ、さぁ行こうか』とか言っちゃったりして、肩を寄せ合ったり、腕なんか組んじゃったりしていたんでしょぉ……健斗のえっちぃ」

 なんて想像力が豊かな女の子なんだ? 琴音ってこんなに想像力豊かだったのか? もしかすると彼女の方が小説家に向いているのでは無いかと思ってしまったぜ。

 いきなり一人芝居をはじめる琴音に一瞬呆気にとられながらも、すぐに健斗は疑惑を全力で否定するようにブンブンと首を振る。

「そ、そんな色っぽい話があそこで繰り広げられたことは無い! あそこは部活の連中と待ち合わせをした記憶しかない……まぁ、女の子がその中にいた事は否定できないが……」

 同じ文芸部仲間であるから他に女の子がいたが、しかし、俺が話す事ができた女の子は美音ちゃんぐらいしかいなかったし、あそこでは大抵男と女でグループが分かれていた。

 不器用にも慌てふためきながらも取り繕うような様子の健斗に、頬を膨らませながらも琴音はホッと安どの表情を浮かべる。

「ほんとぉ? なんとなく怪しいんだけれどぉ……」

 疑い深い顔を覗き込ませてくる琴音に、健斗はロボットのようにコクコクとうなずく。

「でも、今日は東京タワーに免じて許してあげようかな? ほらぁ、早く行こうよぉ」

 どこか嬉しそうな表情に戻った琴音は再び健斗の腕に自分の腕を絡めると、二人と同じなのであろう観光客でごった返しているチケット売り場に引っ張る。

 難しいなぁ女の子の気持ちって。さっきまで機嫌悪そうにしていながら、すぐに機嫌よくなったりして……よくわからんけど……。

 グイグイと引かれる腕には、フニフニと柔らかいものが当然の事ながら押し付けられ、その存在に健斗は周囲の暑さとは違った赤味を頬に浮かべ、目尻をだらしなく下げると、甘えたような表情を覗きこませてくる琴音に、健斗は思わずヘラッと笑ってしまう。

 まぁ、よしとしておこうかな?



=V=

「ここからエレベーターに乗って地上150メートルの大展望台に行って、そこから地上250メートルにある特別展望台に行こうか?」

 正面にあるチケット売り場でチケットを購入すると、二枚のチケットとパンフレットを琴音に渡しながら健斗が言い、少し緊張気味の顔がコクリとうなずく。

「すごいね? 大展望台って真ん中にある所でしょ? そこでさえ五稜郭タワーより高い所にあるって言うのに、さらにその上に同じぐらいの高さに展望台があるんだぁ……」

 三機あるエレベーターの前で、白い制服を着た係りの女性に促されながら列に並ぶと、思わず健斗は苦笑いを浮かべてしまう。

「たしかにそうかも……五稜郭タワーの一番高い展望台で地上90メートル、一番高い避雷針の先で107メートル。札幌のテレビ塔でも展望台は91メートルだから、その大きさは群を抜いているといえるかもしれないね?」

 ガチャコンという音をたてながら扉の開くエレベーターに人の流れに沿いながら乗り込むと、再びガチャコンという音と共に動き出し、軽いGを感じているとそれまで窓の外にあったコンクリに覆われていた周囲の景色が一気に広がる。

「わぁ、すごいぃ、ドンドン高くなっていくよ? ほらぁ、あっという間に地面があんな遠くになっている……すごぉ〜い」

 ウネウネと交互に見える鉄の筋交いに視界を遮られながらも、ドンドン高度を上げてゆくエレベーターの中は平日でありながらも結構な観光客が乗っており、窓におでこを擦り付ける勢いで見つめながらの琴音の声はその中に響き渡り、健斗はちょっと赤面してしまう。

 ちょっと恥ずかしいです……かなりの田舎者丸出し状態だぜ?

 あっという間に大展望台についたエレベーターから飛び出た琴音は、開いた扉の先にある景色にホォッとため息を吐き出し、再び健斗の腕にしがみ付く。

「うぁ、健斗ぉ、東京だよ? すごくない?」

 まるで子供のような笑顔を浮かべる琴音の視線の先には、珍しく綺麗に晴れ渡った空とニョキニョキと竹林に生えている竹の子のような近代的なビル群が映り込んでおり、その光景はまさに東京らしさを現しており、その景色に再び琴音が感嘆の声を上げる。

 ハイハイ、その通り東京でございますよ……。

 無邪気にはしゃぐ琴音に健斗は既に諦めたかのように苦笑いを浮かべるが、まだここが通過点である事を思い出し、窓に突っ込んでいきそうな勢いの琴音の腕を押さえつける。

「と、とりあえず特別展望台まで行くから、相対的な感想は全てが終了してから聞きますんで、とりあえずこちらにおどぉぞ」

 ――そうだった。琴音って意外に猪突猛進な一面を持っていたんだよな? しかし、そんなに興奮するような景色かなぁ……。

 興奮しはじめているような琴音を引きずるような健斗は、特別展望台行きのエレベーターのチケット売り場を通過し、まるで宇宙空間に飛んで行ってしまうアミューズメントスポットのような空間をエスカレーターと階段をつないで上がって行くと、昭和の香りを感じさせる特別展望台行きのエレベーター乗り場に到着する。

「ここから見る景色も良いね?」

 大展望台の屋上部分に当たるのか、ここから見る景色もなかなか東京を満喫できるのだが、ゆっくりと動く列を乱さないようにしないといけないため、ゆっくりと見る事はできない。

「あぁ、そこから『国会議事堂』が見えるだろ? あそこが日本の政治の中枢だ」

 少し進むと止まる列の中で健斗が指した先には、ビルの合間に隠れるようによくテレビなどで見る国会議事堂の姿が見え、琴音はその指先で必死にそれを探す。

「あれがそうなの? ヘェ……なんだかビルの谷間に沈んでいる感じかも……テレビで見るともっと大きいと思っていたけれど、意外にちっちゃいのね?」

 そんな今の政治家に対しての何気ない毒を吐かなくとも……そんな事みんな思って……イヤイヤ、それは俺の考えすぎなのかもしれない。

 年季の入ったエレベーターの扉が開き、健斗と琴音はさっきのエレベーターよりもふたまわりぐらい小さいそれに乗り込むと、再びシースルーになっている窓際に追いやられる。

 ちょっと狭い……でも、そのぶん琴音との距離が縮まるかも……。

 ほんのりと身体に琴音の柔らかい部分が当たることに、健斗は顔を赤らめながら何事もないように視線をまだ何も見えないエレベーターの窓に向ける。

『おまたせいたしました、それではこれから特別展望台に……』

 ガチャコンという音と共にエレベーターの扉が閉まり、上にあがる軽いGがかかると、あっという間に先ほど見ていた景色がさらに小さくなってゆく。

「ワッ、ワッ、ドンドン小さくなってゆくよ?」

 再び小さくなってゆく東京の景色に興奮したのか、琴音は身体の柔らかい場所が健斗に当たっているというなど気にもした様子もなく、徐々に小さくなっていく景色にウットリとしたような顔を健斗に向け、その表情は少し色気を感じさせる。

 きっと俺の気のせいなのかもしれないけれど、そんな表情を向けられてしまうと、景色は小さくなっていっても……ねぇ。

 動き難いながらも、琴音から身体を離すように健斗は腰を引いてしまう。

「ん? どした?」

 怪訝な顔をして覗き込んでくる琴音に、健斗は身体の変調を悟られないように背筋を伸ばし(腰は引けたままだが……)て、曖昧な笑みを浮かべる。

「べ、別になんでもないよ……ちょっと暑いかな?」



「すごい、まるでオモチャみたいに見えるよ」

 正面には球体展望台を備えたアニメに出てくるような近未来的な格好をしたフジテレビ本社ビルがあり、その前には白く弧を描くような優美な姿のレインボーブリッジが見えるが、それは全て眼下に広がっており、そこから上を見上げても遮るものはなにも無い。

 オモチャか、たしかに精巧にできているミニチュア模型のようにも見えるけれど、足元をビルの合間を縫って渋滞しながらも車が走っているのは紛れもなく生活がそこにある証だ。

「あれがレインボーブリッジでしょ? あそこでビルが林立している所は?」

 いつもと違ってポニーテールにしていない髪の毛を揺らす琴音は、視線を左に向け、高層ビル同士が背比べをしているような所に向ける。

「あそこは汐留だよ。昔の国鉄の貨物ヤード跡地を再開発して、いまでは日本テレビの本社が造られて有名になってきた場所だよ」

 まるで梅雨明けの竹の子のように高層ビルの立ち並ぶ景色は、近代的といえばそうかもしれないけれど、なんだか空が狭くなっていくようなそんな気がするな?

「あそこは?」

 そんなビルに隠れながらも大きく見える緑に琴音が視線を向け、その場所が特定できない健斗は、その視線を琴音の高さまでおろす。

「どれ?」

 顔を寄せる健斗に琴音は少し頬を赤らめながら、指の先に力をこめる。

「あそこ! あそこだけ緑が濃くって……」

 無意識であった健斗だが、フワッと鼻に香ってきたシャンプーの匂いに、顔を向けるとその二人の距離の近さに不意に顔を赤らめる。

 ち、近すぎる……。

「あ、あれは皇居だよ……その横に広がってゆく緑が赤坂御所だ」

 慌てて腰を伸ばす健斗に、琴音も少しモジモジする。

「そして、あのデカイビルが東京の新名所である『六本木ヒルズ』で……」

「あの山ってもしかして富士山?」

 特長的な格好をし、セレブの代名詞のようになっている六本木ヒルズの左側、丹沢の山並みの間から優美な稜線を描いている山がチョコンと頭を見せている。

「あぁ、そうだよ、あれが日本一の山。標高3776メートルの富士山だ。今日はこの季節にしては珍しく空気が濁っていないから見えるんだな?」

 真冬ならば東京からでも見る事の出来る姿だが、まだ夏と言ってもおかしくないこんな日に、見る事ができるなんて珍しいかもしれないなぁ。

まだ頂上に冠雪は無く、黒々としたイメージではあるが、その稜線の美しさだけでそれとわかる富士山の事を、琴音はキラキラした瞳で見据えている。

「うぁぁぁ、生まれて初めて富士山を見たよ……あれが日本一の山なんだぁ……」

 そっか……考えてみれば内地の人間は富士山を見る機会は結構あるけれど、北海道で暮らしている琴音なんかは、富士山を見た事が無くって当たり前なのかもしれないな?

 窓に手をつきながら見えている富士山を見入っている琴音の横顔は、まるでおもちゃ屋を覗き込んでいる小さな女の子のようにも見え、健斗は思わず微笑んでしまう。

「こんな景色が見えるなんて思っていなかったよ……ちょっと感動かも……」

 素直にその感動を表すように目を潤ませている琴音に、健斗もなんとなく嬉しさを感じてしまい、つい微笑んでしまう。

「いかがですかお姫様、満足していただけましたかな?」

「うん、こんな景色を見せてくれた東京タワーに感謝だよ」

 おどけるように言う健斗に、琴音は満面の笑みを浮かべながらコクリとうなずく。

「じゃあ、ここに連れてきた俺は?」

 すっと腕を差し出す健斗に、琴音は少し照れたような顔をしながらもその腕に飛びつく。

「えへへ、もちろん感謝に決まっているじゃない? あなたのおかげでここに来る事ができたんだもん、あなたにも大感謝だよ?」

 腕にギュッと抱きつく琴音は、満面の笑みを浮かべながら健斗の顔を見上げる。

第三十一話へ。